【吉田松陰(吉田松陰の謎が解けました!!)】


吉田松陰が24歳の時、黒船が来航し、幕末の騒乱の歴史が幕を開けました。

その翌年(松陰25歳)、ペリーは日米和親条約締結のために下田に再航。

かねてから海外留学を希望していた松陰は、この時、こともあろうか、黒船に乗って渡米することを思い立ちます。

この時、松陰が詠んだ有名な歌が

“ かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂 ”

です。

松陰は、密航を企て、ボートで黒船に近づいたのですが、それは幕府の知れるところとなりました。

鎖国政策をとっていたこの時代において、松陰は国禁を犯したことになります。

罪人となった松陰は、故郷の長州に移送され、野山獄という牢に入れられました。

この野山獄で、松陰は1年2ヵ月を過ごしました。

その間に、他の囚人たちも、そして獄の責任者や牢の番人たちも、松陰のもとで勉学に励むようになり、ついにはに弟子入りを志願するようになります。

囚人の多くは、ただ死を待つのみの、けっして生きて牢から出ることのない無期刑を受けていました。

そんな彼らに、勉強することの楽しみを伝えることができた松陰は、生れながらの教育者と言えるかもしれません。

野山獄での松陰は、自分自身も読書に没頭します。

野山獄に入れられたのは1854年10月24日。

この年、わずか2ヵ月あまりでなんと106冊の本を読んでいます。

翌年は、1月に36冊、2月に44冊、3月に48冊、4月に49冊、5月に55冊…

と、松陰の読書量は右肩上がり、1年間で493冊もの本を読んだというから、驚きです。

松陰をここまで駆りたてた想いは、何だったのでしょう?

それは、おそらく、『 言志四録 』 の影響が大きかったのではないでしょうか。

『 言志四録 』 は、佐藤 一斎が著した、いわば “ 指導者のためのバイブル ”です。

そこに、このような一節があります。

「少にして学べば、則ち (すなわち) 壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

「死の瞬間まで成長し続けたい」 という想いが、松陰をここまで駆りたてたのだと思います。

そしてこの松陰の想いは、この世に生を享けた人間が心の片隅に持ち続ける永遠の願いなのかもしれません。