【吉田稔麿(母の愛♪)】


 

歴史歴史上の人物で誰が一番好きかというと… どうしても一人にしぼれなくて、いつも3人の名前を 挙げています。

島津斉彬、福沢諭吉、空海。

この3人は、ズバッと本質をつかんで、思いきって行動する ところが大好きです。

では、好きな歴史上の人物 Best 5 を挙げれば… この3人に、 吉田稔磨 (としまろ)と 木村重成 が加わります。

木村重成は、真田幸村らとともに大坂の陣のときに活躍した 豊臣方の武将です。

私は彼の生きざまに憧れていて、マイナーな重成にいつかメジャーになってほしいと 思っているので、彼のことは後日ゆっくり紹介するとして…

今回は、吉田稔磨のことを書かせてください。

稔磨は、長州藩の足軽の子。

16歳の時に吉田松陰が主宰する松下村塾に入門した彼は、 その志の高さと優秀さを松陰に愛され、素質が花開いていきます。

稔磨の人柄と素質がいかに素晴らしかったかを物語るエピソードが あります。

明治の世になって、ある人が、松下村塾出身の品川弥次郎に、「松陰門下で誰が一番優れていたか?」という質問を投げかけました。

すると、品川翁は、一瞬のためらいもなく「それは吉田稔磨だ」と答えたそうです。

もし稔磨が生きて明治維新を迎えていたら、間違いなく、初代総理大臣は稔磨だっただろう、というのが、品川翁の稔磨の対する評価だったようです。

さて、話を戻しましょう。

松下村塾で勉学に勤しみ、高い志を持つにいたった稔磨でしたが、前述した通り、彼の家は、足軽という侍以下の身分で、とても 貧しい暮らしを強いられていました。

稔磨が17歳のとき、家の借金を返済するために、江戸に出て働く ことになりました。

江戸に出た稔磨は、やがて、師である松陰とも、また松下村塾で ともに学んだ仲間たちとも、距離をおくようになりました。
理由は… 「母に心配をかけたくない」

そうです、後世の私たちは、幕末 ・ 維新の志士たちのことを、 「カッコいい~!」 と思いますが、当時は、彼らの命がけの行動は各藩において 処罰の対象となり、その影響は、実家の親兄弟はもちろん、 親類にまで及んだと言われています。

稔磨の母を想う気持ちは、誰にも非難できないと思うんです。

その後、松陰は、安政の大獄で刑死しますが、その知らせを 聞いても、稔磨は動きません。

獄中の松陰から稔磨のもとに何通も手紙が届きますが、それでも稔磨は動かないんですね。

ところが、松陰の死から2年後… ついに稔磨は、松陰の遺志を継ぐ覚悟を決めます。

そして、全国の志士たちの中でも、中心的な役割を担って いくことになるのです。

そんな稔磨が、なぜ歴史の中に埋もれているのか…?

それは、彼の死があまりにも早すぎたからです。

稔磨24歳のとき、死は、突然やってきました。
1864年7月8日、池田屋事件。

京都の旅館・池田屋に、志士20数名が集結し、会合を 開いていました。
そこへ新撰組が踏み込んでいき、幕府方の兵3000名が 池田屋の周りを包囲したのです。

20数名の志士たちが次々に殺されていく中、たった一人、 奇跡的に包囲網をくぐり抜け、長州藩邸に駆け込んだ若者が いました。

彼は、藩邸に援軍を頼みましたが、幕府と対立したくない 長州藩は、「彼らの私闘である」として、ついに門を 閉ざしたままでした。

援軍を求めた若者はどうしたか… 命がけで幕府方の包囲を突破したのに、またその包囲を くぐり抜け、池田屋に戻ったのです。

この時、藩邸に留まっていれば、初代総理大臣は、 伊藤博文でなく吉田稔磨になっていたかもしれないのに…。

吉田稔磨…松陰に最も愛された男。

その最期は、あまりにも切なすぎます。

稔麿は、まさか池田屋での会合が、こんな結果に終わるとは思って いなかったでしょう。

長州藩邸から池田屋の会合に向かう途中、 「むすびても又むすびても黒髪のみだれそめにし世をいかにせむ」という句を詠みましたが、これが辞世の句となりました。

それにしても、一度は母への愛のために革命の道をあきらめた稔磨が、なぜ 再び命がけで革命を成し遂げようと思ったのでしょうか?

わたしは、松陰の死は、きっかけに過ぎなかったのではないかと思うんです。

稔磨に命がけで行動する勇気を与えたのは、その原動力に なったのは… “母の愛” だったと思います!

第二次世界大戦のとき、慶応大学の塾長を務めていた 小泉信三さんは、海軍主計大尉として出征する息子の 信吉さんに、次のような手紙を送りました。

「君の出征に臨んで言って置く。

吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子と することを何よりの誇りとしている。

僕はもし 生まれかわって妻をえらべといわれたら、幾度でも 君のお母様をえらぶ。

同様に、もしもわが子をえらぶ ということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を えらぶ。

人の子として両親にこう言わせるより以上の 孝行はない。

君はなお父母に孝養を尽くしたいと 思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日まで 二十四年の間に、およそ人の親として享け得る限りの 幸福は既に享けた。

親に対し、妹に対し、なお仕残した ことがあると思ってはならぬ。

今日特にこのことを君に 言って置く。

今、国の存亡を賭して戦う日は来た。 君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人として この戦争に参加するのは満足であろう。

二十四年という 年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる 人にも恥ずかしくない、悔ゆるところなき立派な生活で ある。

お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き 受けた。

お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、 戦うことを期待する。

信吉君、父より」

この手紙を目にしたとき、小泉塾長の気高さに圧倒されましたが、自分が親になってみて、それはすべての 親の心の叫びなのだと思いました。

もちろん、子どもの戦死を望む親なんていないけれど、 子どもへの愛が深ければ深いほど、「自分自身の道を生きて ほしい」と願うのではないでしょうか。

おそらく、稔磨にとって、革命に生きることをためらわせた “母の愛”が、同時に、その後、革命に生きる原動力に なったのではないかと思います。

いまの時代、命がけでやることなんて少ないけれど、簡単な ことでさえ、「子どもがいるから…」 「家族がいるから…」という理由で尻込みをしてしまう人も多いと思います。

でも、もしかしたら、そのできない理由が、視点を変えれば、 最大のできる理由、最大のやりたい理由、最大のがんばれる 理由になるのかもしれませんね(*^^*)

<参考文献>
ひすいこたろうさんのメルマガ『名言セラピー』
小泉信三 著『海軍主計大尉 小泉信吉』