【福沢諭吉(神様の粋なはからい♪)】


わたしの人生観の一つ、それは「必要なことはすべて与えられる」ということ。

このことに気づいてから、むやみに人の人生を羨ましがったり、自分の境遇を卑下したり、焦ったりすることがなくなり、あらゆることに感謝できるようになりました。

わたしにそのことを気づかせてくれたのは、『福沢 諭吉さん』です。

諭吉さんは、豊前中津藩の下級武士の次男として生まれました。

中津藩というのは、10万石の小藩で、あの激動の幕末期にもさしてパッとした働きをするわけでもなく、どちらかといえば存在感は薄かったと言わざるを得ません。

それに対して、薩摩・長州・会津などは、好き嫌いは別にして、幕末期に鮮やかな存在感を残しています。

もし諭吉さんがこれらの藩のどこかに生まれていたら…

あれだけの優秀な人材ですから、きっと政治の道に引っ張られていたと思うんですね。

ところが、彼が生まれたのは中津藩だった!だから終生、民間の立場で、教育と啓蒙活動に集中できたわけです。
(諭吉さんは慶応義塾の創始者として有名ですが、日本初の新聞を 発行したり、日本で初めて授業料を制度化したり、英語の “ Love ”を “愛” と訳したり…新時代の日本を象徴する一人だったと思います。)

『 歴史を変えるのは、政治以上に教育かもしれない… 』
と考えると、彼が中津藩の下級武士の子として生まれたことは、神様の粋なはからいだな~って、思います♪

中津藩は、政治的にはあまりパッとしませんでしたが、中津藩には、元来、学問を重視する気風がありました。

中津藩の第八代藩主は、奥平 昌高。

この人は、薩摩藩の島津 重豪(しげひで)の次男で、後継ぎのいなかった奥平家に養子に入ったのです。

島津 重豪は、篤姫の養父である島津 斉彬(なりあきら)の曽祖父、つまりひいおじいちゃんです。

この爺ちゃん、歴史マニアのわたしにとって、かなりの大ヒットなんです♪

だいたいあの時代に89歳まで生きたことも驚きだし、側室が10人以上いて、子どもが(わかっているだけでも)26人!

さらに家臣と中国語で会話していたと伝えられ、オランダ語の読み書きもできたというから、かなりマニアックでハイカラなインテリですよね。
(わたしは以前、何かの本で、重豪がローマ字で書いたと伝えられる 『君が代』 の歌詞を見たことがあります。)

この重豪じいちゃん、曾孫である斉彬の才能を誰よりも早く見いだし、斉彬の教育に没頭するんです。
斉彬があれだけの教養を身につけ、当代きっての名君になったのは、本人の素質と努力もさることながら、重豪じいちゃんの影響も大きかったはずです。

この後の薩摩藩の活躍と明治維新を考える時、重豪じいちゃんの果たした役割ってスゴイと思うのですが、すべてのものに光と影があるように、重豪じいちゃんのせいで、薩摩藩は、天文学的数字の借金を抱えることに
なります(;し;) (おっと、これは余談でした(>し<))

重豪じいちゃんは元々、新し物好きでゴージャスだったから、バンバンお金を使いまくっていたところへ、さらに子どもたちの多くが他藩に養子に入ったり娘が将軍家に嫁いだことで、親戚づきあいに多額の出費がかさむようになったんですね。

この重豪じいちゃんの旺盛な好奇心とチャレンジ精神を物語るエピソードがあります。

シーボルトが江戸を訪れた時に、目の中に入れても痛くないくらいかわいがっていた斉彬を連れて会いに行くんですが、その時に、中津藩、奥平家に養子に入って家督を継いでいた次男の奥平 昌高にも声をかけます。

「一緒にシーボルトに会いに行って、西洋の話を聞こう」

というわけです。

重豪じいちゃんは、すでに隠居の身なので、いいんです。
問題は、奥平 昌高です。
彼は、中津藩主=現役の殿様です。
一介の医師にすぎないシーボルトとは、身分が違いすぎて、本来なら会うことができないんです。(正確には、無位無官のシーボルトが昌高に拝謁することが許されないのです。)

その時、昌高はどうしたか。

なんと家督を息子に譲り、自分も隠居の身になって、シーボルトに会うの
ですから、なんとも酔狂な親子ですよね!!!

もともと学問重視の気風があった中津藩に、このような藩主が出現したのですから、さらにその傾向は強まります。

そのような藩に福沢 諭吉が生まれた…
神様の粋なはからいと言うしかないでしょう。

諭吉さんが緒方 洪庵の適塾に入るために大阪に向かう時、藩に出した届け出は、「砲術修業」 ですよ。
医師であり、蘭学者としての名声も高かった洪庵が、砲術を教えるわけがないことは、藩の重鎮たちもわかっているのですが、学問好きで、さらに酔狂な殿様をも受け入れる中津藩ですから、諭吉の大阪行きは、簡単に許可されるんですね。

適塾でメキメキと頭角を現し、ついに塾頭になり、江戸に出てオランダ語から英語にあっさりと転向し、咸臨丸にまんまと乗り込み、西洋文明の本質をつかむに至った諭吉の生涯を思う時、ベストの環境が中津藩だったのではないかと思います。

一見すると、あの時代、薩長出身者だけが恵まれていたように思えますが、神様は、その人の人生に必要なものをす