外国との友好の歴史

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イギリス
昨日の敵は今日の友!

 

(2009年12月7日のブログ記事より)

ときは1863 (文久3) 年、夏。

イギリス艦隊と薩摩藩の陸上砲台の間で、激しい砲戦が展開されました。

 

これが世に言う “ 薩英戦争 ” です。

 

なぜイギリスが薩摩藩との戦争に及んだのか…

その発端は、前年の生麦事件にありました。

 

その頃の薩摩藩は、幕末の名君として名高い島津斉彬 (なりあきら) が

亡くなり、甥の忠義が斉彬の養子となって、藩主を継いでいました。

けれども、実権は、忠義の実父 ・ 島津久光 (斉彬の異母弟) が握っていて、久光は、幕政改革の朝命 (朝廷の命令) を徳川幕府に伝えるために、江戸に赴いていました。

 

その目的をほぼ達した久光は、その旨を朝廷に報告するため、400人の藩士を従え、多量の武器弾薬も携え、大規模な行列を組んで、再び京都に向かいました。

 

その行列が生麦村 (現在の神奈川県横浜市) に差し掛かった時、悲劇が起こりました。

 

馬に乗って散策していた英国人4人が、この大名行列に出くわしたのです。

藩士の一人がとっさに 「馬から降りろ。わきへ寄れ!」 と注意しましたが、来日間もない英国人たちは、日本語がわからず、馬に乗ったまま行列の中に乗り入れてしまいました (馬に乗ったまま行列を横切ったという説もあります)。

 

いずれにせよ、当時の作法では、あってはならない非礼…薩摩藩士たちは

英国人4人に斬りかかり、そのうちの3人を殺傷してしまったのです。

 

これが “生麦事件” の経緯ですが、もちろん、自国民を殺されたイギリスは黙っていません。

事件後、幕府には10万ポンドの賠償金を、当事者の薩摩藩には、犯人の逮捕と処罰、および遺族への賠償金2万5000ポンドを要求しました。

 

このイギリスの要求に対して、事を穏便に済ませたい幕府は、賠償金の支払いに応じましたが、薩摩藩は要求を突っぱねたのです。

 

このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、鹿児島湾 (錦江湾) を舞台に薩英戦争が勃発しました。

 

薩摩藩とイギリス、どちらが勝利したかというと、死傷者の数はイギリスの方が多かったのですが、薩摩藩の物的被害は甚大でした。

両者痛み分けで勝敗は微妙ですが、その物的被害の度合いから、薩摩藩の敗色は濃厚でした。

 

この薩英戦争が、日本の歴史を変えたのです!!

 

薩摩藩は、薩英戦争を通じておそるべきヨーロッパ文明を目の当たりにし、藩の方針を討幕へと180度転換したのでした。

 

イギリスとの講和が結ばれるやいなや、薩摩藩は、敵国であったイギリスと秘かに手を握り、薩摩の物産を英国商人に販売するとともに、イギリスから兵器や機械を買い入れ、国力武力の向上を図りました。

また、イギリスに留学生を派遣するなどして積極的に先進技術の吸収に当たり、急速な近代化を推し進めました。

 

そしてついに1867 (慶応3) 年、諸藩を凌駕する勢いで近代化を果たした薩摩藩は、パリで開催された万国博覧会に、徳川幕府が治める日本国とは別個の独立薩摩国として参加したのです。

 

薩摩藩は 「日本薩摩琉球国太守政府」 の名で展示場を設け、琉球産物 ・ 薩摩焼 ・漆器 ・ 扇 ・ 煙草など100種を超える産物を約400箱ほど出品しました。

さらに薩摩琉球国の勲章を作成し、ナポレオン3世をはじめフランス高官に贈ったそうです。

このパリ万博への参加は、もちろん幕府には内証でしたが、現地の博覧会場で、幕府側の委員と薩摩藩士が鉢合わせをし、口論になったから、さぁ大変です!!

「ちょんまげを結ったサムライが、パリで大ゲンカ」

のニュースは、パリっ子たちの間で大いに話題になったとか…(>し<)

 

まぁパリ万博の話は蛇足ですが、薩摩藩の 「昨日の敵は今日の友」 という発想、おわかりいただけましたか?

 

次回は、薩英戦争をイギリス側から検証しますねニコニコ

そこにも、また素敵なエピソードが隠されていますニコニコ


郷中教育とジェントルマンシップ♪

(2009年12月10日のブログ記事より)

 

前回のブログで、薩英戦争の顛末を薩摩藩側から書かせていただきました。

「イギリスとの講和が結ばれるやいなや、薩摩藩は、敵国であったイギリスと秘かに手を握り、薩摩の物産を英国商人に販売するとともに、イギリスから兵器や機械を買い入れ、国力武力の向上を図りました。また、イギリスに留学生を派遣するなどして積極的に先進技術の吸収に当たり、
急速な近代化を推し進めました。」

 

薩英戦争を通じておそるべきヨーロッパ文明を目の当たりにした薩摩藩が、欧米列強に追いつこうと考えて、イギリスに接近したのは理解できますよね。

 

では、先進国であるイギリスが薩摩藩を応援したのはなぜでしょう…?

当時、イギリスのライバルであるフランスが幕府を支援していましたから、イギリスはフランスに対抗するために、打倒 ・ 徳川幕府の一番手である薩摩藩を支援した…というのが、通説になっています。

 

でも、実は、薩摩藩とイギリスは、損得勘定を超え、もっと深い部分でお互いが認め合い、尊敬し合っていたのではないかと思うんですニコニコ

 

薩英戦争では、鹿児島城下が焼け野原になりましたが、薩摩藩も、近代兵器を備えた常勝イギリス艦隊に大損害を与えました。

 

イギリス人たちは、

「薩摩藩もやるなぁ~」

と感じ、称賛したと思うんですよねニコニコ

と同時に、イギリス人たちは、疑問を持ったと思うんです。

近代兵器も持たない薩摩藩が、なぜイギリス艦隊と対等に渡り合えたのか…

 

その疑問を解くカギが、薩摩藩の教育制度=郷中教育にあります。

薩摩では、江戸期を通して、“薩摩の武士道” を郷中教育の中で伝え続けてきました。

 

片やイギリスは、“ジェントルマン” の国です。

 

幕末の薩摩藩とイギリスの親密な関係は、武士道とジェントルマンシップが響き合った結果なのではないでしょうか。

 

1907年にイギリスで始まり、またたく間に世界中に広まった “ボーイスカウト” は、一説には薩摩藩の郷中教育がモデルになったと言われています!!

 

この説の真偽のほどはわかりませんが、薩摩藩の郷中教育が伝える武士道と、イギリスのジェントルマンシップの融合が “ボーイスカウト” である…というのは、

歴史のロマンとして、大きな魅力を感じますニコニコ

 

“武士道” という世界に誇れる文化を持つ日本人に生まれたことに、あらためて感謝したくなるエピソードですねニコニコ

インドネシア

【 世界一の親日国☆ 】

(10年6月19日のブログ記事より)

結婚後に航空会社を退社したわたしは、一時期、経団連の社会貢献部のお手伝いをしていたことがあります。

 

その当時は経団連に社会貢献部という部署があり、アジア各国から教師や学生を日本に招いて、日本社会を勉強してもらおうという招聘事業が活発に行われていました。

 

わたしは、招かれた皆さんを、経団連が加盟している企業に案内したり、東京ディズニーランドに連れて行ったり、日本滞在を有意義で楽しいものにするために、経団連とお客さまとのかけはしとして便宜を図りました!!

 

正直に言えば、語学力にそこまで自信があったわけではなく、一度はお断りしたのですが、「必要なのは、語学力以上にホスピタリティー。白駒さんの仕事は、通訳ではなく、お客さまが笑顔で過ごせるように心を配ることです。」

 

と言われ、それなら適任かも…と思い、お引き受けしたのですニコニコ

 

ある時、インドネシアの大学生十数名と、彼らを引率する教授2名が来日されました。

成田空港からマイクロバスに乗った彼らを宿舎で出迎えたのですが、全員がとびっきりの笑顔で、ひと目会ったその時から、親近感を感じましたニコニコ

 

翌日、移動の電車の中で教授から伺った話は、今でも鮮烈な印象として残っています。

 

彼は、挨拶と世間話が終わると、こうおっしゃいました。

 

「インドネシア人は、第二次世界大戦を日本の侵略戦争とは思っていません。インドネシア人は、日本が大好きです。日本人に心から感謝していますニコニコ

彼らがとびっきりの笑顔だったわけ……

 

そのわけを理解するために、1942年にタイムスリップしましょう!!

 

1942年といえば、第二次世界大戦の真っただ中です。

実は、インドネシアは、17世紀初頭からこの時まで、約350年もの長きにわたって、オランダの植民地でした。

 

そこへ、日本軍が侵攻してきました。

 

日本が真珠湾攻撃に踏み切った直後、オランダが日本に宣戦布告したので、日本軍は当時オランダ領だったインドネシアに侵攻したのです。

 

日本軍はあっという間に連合軍を降伏させ、オランダに代わる日本のインドネシア統治が始まりました。

 

インドネシアの人々は、オランダの支配から解放してくれたことに感謝しつつ、一抹の不安を抱いていました。

 

ただ日本がオランダに取って代わっただけなのではないか、自分たちは今度は日本軍によって虐げられ、搾取されるのではないか…。

ところが…

 

日本軍は、オランダにより幽閉されていたインドネシアの指導者たちを解放し、イスラム教を認め、現地人を役人として登用して行政や議会制度を学ばせるなど、独立に向けた施策を次々と実施していったのです。

 

中でも、インドネシア人が最も深く感謝したのは、教育改革だそうです。

 

日本軍が造った校舎で、日本軍が定めた教育制度のもと、インドネシアの多くの子どもたちが学ぶことができるようになったのです。

 

また、独立のためには、インドネシア人による軍隊が必要なので、“祖国防衛義勇軍” が組織され、日本軍による軍事教練が行われました。

 

日本は、インドネシアを独立させるためにやって来てくれた…

350年間植民地支配に苦しんできたインドネシア人たちは、どれほど感激したことでしょうニコニコ

 

ところが…

 

1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結します。

 

インドネシアは、日本の降伏とともに独立を宣言したものの、世界が独立を認めたわけではなく、インドネシアの統治権が、日本軍からまた連合軍に引き継がれたのです。

 

連合国の中でも、特にオランダが、日本の武装解除に乗じて、植民地支配を復活させようともくろんでいました。

 

この時、日本軍がとった行動は鮮やかでした。

 

日本軍が保有していた大量の武器 ・ 弾薬を、祖国防衛義勇軍に秘かに譲渡したのです。

 

それは、「自らの手で独立を勝ち取れ」 という日本人からインドネシア人への熱いエールでした。

 

その後、インドネシア人たちは、4年5ヵ月にも及ぶ対オランダ独立戦争を戦い抜き、1949年12月、世界が認める正真正銘の独立を手にしました。

 

日本軍が譲渡した武器や弾薬、日本軍による祖国防衛義勇軍の軍事教練……勝利の要因としていろいろ挙げられるでしょうが、インドネシアの人々を感動させたのは、1000人以上の日本軍人がインドネシアに残り、共に戦い、インドネシアの独立と自由のために命を捧げたという事実です。

 

その時の感謝の気持ちを、65年経った今でも、インドネシアの人々は持ち続けてくれているのです。

 

こうして世界一の親日国が誕生したのでした。

 

「世界に最も良い影響を与えている国は?」

 

…この問いに、なんと85%のインドネシア人が 「日本」 と答えていますニコニコ

嬉しいけれど、責任重大、身の引き締まる思いですね!!

スリランカ

【御仏の慈愛に包まれたような、本当に心に残る一日でした♪】

(2016年5月12日 ブログ記事より)

大阪の名門・上宮中学高校と上宮太子中学高校で、講演させていただきましたニコニコ

 

あの元木大介選手を擁して上宮が全国制覇を果たしてから、はや23年が経つんですね。甲子園で何度も聞いた校歌「月影」が、今日はひときわ胸にしみましたニコニコ

 

今日、お招きいただいたのは、上宮、そして上宮太子の校祖であり、浄土宗の開祖である法然上人のお誕生をお祝いする会が開催されたからです。

 

実は上宮、上宮太子両校の校歌「月影」は、法然上人の教えを歌にしたものだったんです。ふるさとの美しい山や川を誇らしく歌いあげるのも素敵ですが、「月影」のように、普遍の真理や先人の尊い教えが校歌になっているのも、また格別ですねニコニコ

 

写真は、上宮中学高校の総勢2400名の生徒さんたちの前で講演させていただいた時のものです。これほど多くの方を前に講演させていただいたのは、初めての経験でした。

 

今日は、両校で講演させていただいたあと、ABC朝日放送に駆けつけ、あの関西の超人気長寿番組『ビーバップハイヒール』の収録にのぞみましたニコニコ

 

テーマは「世界が愛したニッポン! 知られざる深い絆の物語」。そこでご紹介したのが、日本最大のピンチを救ってくれた、スリランカのエピソードです。

 

スリランカと日本は、ともに仏教国であり、あるスリランカ人から発せられた仏陀の教えが、戦後の日本の国際社会復帰を後押ししてくれたのです。法然上人の誕生会(たんじょうえ)、そして『ビーバップハイヒール』の収録と、御仏の慈愛に包まれたような、本当に心に残る一日でしたニコニコ

 

戦後に日本が正式に国交を結んだ最初の国は、アメリカでもイギリスでもなく、スリランカであったこと、それはスリランカへの深い感謝と尊敬の証であることを、一人でも多くの日本人に知っていただけたら嬉しいです♪

 

トルコ
日本史セラピー♪

【 日本史セラピー♪ 】

(2009年5月30日のブログ記事より)

 

皆さんは 『レッドクリフⅡ』 をご覧になりましたか?

わたしはまだ見ていないのですが、この映画を制作した監督のメッセージが、素晴らしいんですニコニコ

 

「~親愛なる日本の皆様~

私たちが暮らしている今は、過去に生きた人々の勇気のある行動が積み重なってできました。世界的不況・不信の時代だからこそ、一人一人の決断で今を変えて新しい未来を作りましょう。みなさんがそれぞれの『奇跡』を起こす時です。未来に勇気を。Imagine Future」

ジョン・ウー

この言葉から、真っ先にイメージした史実があるので、今日はそれをご紹介します。NHKやTBSなどの番組でも取り上げられたことがあるので、ご存知の方も多いかもしれませんが、私なりの視点と解釈でお話させていただきますねニコニコ

 

イラン・イラク戦争の真っただ中の1985年3月12日、イラク軍によるイランの首都テヘランに対する空爆が始まりました。テヘランの在留外国人は空爆を避けるために国外避難を準備し始めましたが、3月17日に至って、イラクのフセイン大統領は「3月19日20時半以降はイランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」という声明を発したのです。残された時間はわずか48時間…。

 

宣言後、イランに住む外国人についてはそれぞれが国籍を置く国の軍隊、ないしは民間航空会社を使っての脱出が計られました。

けれども、当時の日本には、自衛隊に対し海外へ在留する日本人への緊急脱出をさせる為に活動させるといった法律がありませんでした。

そこで、日本政府は他国に応援を打診したものの、自国民救出に手いっぱいで機材の予備も少なかったため、断られてしまいます。また、日本航空は、当時テヘランへの乗り入れを停止していたため、チャーター機を飛ばすしか方法がありませんでしたが、

 

日本政府が現地との調整に手間取ったために、前期期日までに安全に脱出できるという保証が得られず、チャーター機の派遣は実現しなかったのです。

そのため、在イラン日本人200名以上は脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕していました。

 

万策尽きたかに思えたイランの日本大使館でしたが、野村豊大使は諦めきれず、トルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えました。

するとビルレル大使は、「わかりました。ただちに本国から救援機を派遣させましょう。」

と答え、大使の要請を受けた2機のトルコ航空機がテヘランへ派遣されました。

2機のトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてイラン国境を越えてトルコ領空に入ったのは、タイムリミットのわずか1時間15分前のことでした!!

 

イランの領空からトルコの領空に入った瞬間、機長の“Welcome to Turkey, ladies and gentlemen”というアナウンスが機内に響き渡り、乗員と乗客が手と手を握り合い、お互い涙したそうです。

 

イラクのフセイン大統領は、過去に約束や宣言を破ったことがあったので、「タイムリミットになる前にイラン上空を飛ぶ飛行機を撃ち落とすかもしれない」という恐れと不安があったのです。

トルコはイラクの支配の外ですから、無事にトルコ上空まで飛んでこれたということは、命の保証を意味するものでした!!

 

実はこの話の数年後に、私は大学を卒業し、日本航空の社員として国際線に乗務することになります。

 

一度、リオ・デ・ジャネイロ発ロサンゼルス行きの便に乗務した時に、「航空機に爆弾を仕掛けた」という電話があり、搭乗したお客様に降りていただき、爆弾を探し回ったことがあるんです。

 

結局爆弾は見つからず、「いたずら電話だろう」と判断され、お客様に再度搭乗していただき、定刻よりも5時間ほど遅れて離陸しました。

 

この時、「もし電話がいたずらじゃなかったら…」と思うと、生きた心地がしませんでした。

 

だから、テヘランから脱出するトルコ航空の乗員の皆さん、そして日本人乗客の皆さんのことが、人ごととは思えず、キャプテンのアナウンスを想像するだけで、涙が溢れてきます(;し;)

 

話をもとに戻しましょう。

 

なぜ、自国の航空会社でさえもためらって助けに行けない状況で、トルコ航空は邦人救出に向かってくれたのでしょうか?

なぜトルコ大使館は、トルコ政府は動いてくれたのでしょう?

 

その答えは、今から100年以上前の明治時代にありました。

ビルレル大使は、野村大使にこう言ったのです!!

「トルコ人ならだれもが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをしただけです。」

 

エルトゥールル号の遭難……1890年9月16日の夜にその事件は起こりました。

 

その日は台風にみまわれ、木造の軍艦であるトルコ軍艦エルトゥールル号が和歌山県の串本沖で岩礁に衝突、沈没したのです。

 

死者581人、生存者69人

 

このとき、村人たちは、冷たくなった乗組員を人肌で温めたり、食糧を提供したりして懸命に救助しました。非常食として取っておいたニワトリまで分け与えたそうです。

 

このようにして、69名のトルコ人が一命を取り留めました。

その後、生存者は日本の軍艦によって無事トルコまで送り届けられたのです。

 

残念ながら亡くなったトルコ人も、村人たちの手で懇ろに弔われたそうです。

 

以下はビルレル大使の言葉です。

 

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

 

「私たちが暮らしている今は、過去に生きた人々の勇気のある行動が積み重なってできました。」…ここに出てくる『過去に生きた人々』というのは、歴史に名を残したような特別な人々だけを指すのではなく、懸命にトルコ人を助け、また死者を悼み心を込めて弔った無名の村人たちのことでもあるのです。

 

実は、この話には後日談があります。

 

トルコ航空機の邦人救出から十数年経った1999年8月、トルコ北西部で大地震が発生しました。死者は1万7千人を越え、被害も莫大でした。

 

この時、日本政府は、人命救助・物資・医療などさまざまな分野でトルコの復興を支えましたが、そうです、「今度は日本がトルコを助ける番です」と日本政府に働きかけたのが、あの時、大混乱のテヘランからトルコ航空機に命がけで救出してもらった人々だったのです。

 

日本人って、捨てたものじゃないですねニコニコ

 

トルコ人が100年以上もの長きにわたって日本から受けた恩を語り継いできたように、私も、航空業界に携わった者の一人として、このトルコの人々の勇気と、日本人との間に育まれた親愛の絆を、語り継いでいきたいですニコニコ


日本史セラピー♪その後・・・

【 日本史セラピー♪ その後・・・ 】

 

(2009年6月9日のブログ記事より)

 

以前、トルコと日本の友情について、“日本史セラピー” というタイトルでブログを書かせていただきましたが、あの長いエピソードを、なんと、ひすいこたろうサンが、またまたメルマガ 『名言セラピー』 に載せて下さいましたニコニコ

 

けさ、「名言セラピー読んだよ」 っていうメールが続々と届いたので、わたしもその事実を知ったのですが、友人・知人からのメールでとても印象深いものがありましたので、そのメールをご紹介しますねニコニコ

 

トルコ人に親日家が多いと聞いていましたが、「なぜなのか」を調べたことがありませんでした。

こんな理由があったのですね!!

 

とてもいい話を教えて下さってありがとうございますニコニコ

 

昔、高校生の時、担任がトルコに新婚旅行に行かれました。

親日家が多いエピソードとして、道を尋ねたら、

「そんなことより俺の家に来て飯を食べていかんか」

と言われたことを話してくださいました。

 

 

高校生の時は信じられなかったのですが、十分ありえる話

なのでしょうね。

 

以上が友人からのメールです。

 

ちなみに、以前、わたしの友達(女性)がトルコを旅行している時に道を尋ねたら、やはり異常なくらい親切にしてもらったらしいんです。

彼女が帰国して、親しい人たちに「トルコ人は女好きだ」という、あらぬ噂を撒き散らしてましたよ(笑)

 

歴史を知ると、旅行が何倍も楽しくなりますねニコニコ

 

ちなみに、トルコ人に親日家が多い理由は、もう一つあります!!

実は、トルコという国は、長年、大国ロシアの脅威にさらされてきたんです。

 

エルトゥールル号の事故から4年後には日清戦争、さらにその10年後には日露戦争が起こります。

「アジアの小国・日本がロシアを破った!!」という感動と安堵も、トルコ人に親日家が多い理由の一つです。

 

当時ロシアに苦しめられていた国の人々は、日露戦争の時にこぞって「日本に勝たせたい」という思いを抱いていたようですよ。

 

日本からはるかに離れた北欧のフィンランドでは、日露戦争の時に海軍の総帥だった東郷平八郎が今でも尊敬を集めていて、『東郷ビール』まであり、ラベルはもちろん軍服姿の東郷平八郎ですニコニコ


Welcome

【 Welcome to Turkey! 】

(2010年3月6日のブログ記事より)

イラン・イラク戦争の真っただ中の1985年3月12日、イラク軍によるイランの首都テヘランに対する空爆が始まりました。

 

テヘランにいる外国人は国外避難を始めましたが、3月17日に至って、イラクのフセイン大統領は、

「3月19日20時半以降はイランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」

という声明を発したのです。

 

残された時間は48時間……

 

しかし、日本人だけは脱出できない環境に追い込まれていたのです。

 

フセインの宣言後、イランに住む外国人はそれぞれの国の軍隊の協力で脱出がはかられました。

しかし当時の日本には、自衛隊を海外で活動させるといった法律がありませんでした。

 

そこで、日本政府は他国に応援を打診したものの、各国は自国民救出に手いっぱいで、機材の予備も少なかったため、断られてしまいます。

 

また、日本航空は過去にテヘランに乗り入れをしていましたが、当時既にテヘランへの乗り入れを停止していたためチャーター機を飛ばすしか方法がなかったのですが、日本政府が現地との調整に手間取ったために、前記期日までに安全に脱出できるという保証が得られず、チャーター機の派遣は実現しなかったのです。

 

そのため、在イラン日本人200名以上は脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕していました。

 

…もはやタイムリミットです。

 

万策尽きたイランの日本大使館でしたが、野村豊大使は諦めきれず、トルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えました。

 

すると、ビルレル大使は、

「わかりました。ただちに本国から救援機を派遣させましょう」

 

と、2機のトルコ航空機をテヘランへ派遣してくれたのです。

 

 

2機のトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてイラン国境を越えてトルコ領空に入ったのは、タイムリミットのわずか1時間15分前のことでした。

 

トルコの領空に入った瞬間、

 

「Welcome to Turkey, ladies and gentlemen」

 

というキャプテンのアナウンスが機内に響き渡り、乗員と乗客が手と手を握り合い、お互い涙したそうです。

実はこの話の数年後に、私は大学を卒業し、国際線に乗務することになります。

 

一度、リオ・デ・ジャネイロ発ロサンゼルス行きの便に乗務した時に、「航空機に爆弾を仕掛けた」という電話があり、搭乗したお客様に降りていただき、爆弾を探し回ったことがあるんです。

 

この時、「もし電話がいたずらじゃなかったら……」と思うと、生きた心地がしませんでした。

 

「どうか爆発しないでほしい」という悲痛な祈りとともに仕事をしたのを覚えています。

 

だから、この時のトルコ航空の乗員の皆さん、そして乗客の皆さんのことが、人ごとには思えず、キャプテンのアナウンスを心で聞くだけで、涙が溢れてきます。

 

話をもとに戻します。

 

なぜ、こんな危険な状況の中で、トルコの人たちは、日本人のために動いてくれたのでしょうか?

 

答えは、今から100年以上前の明治時代にありました。

 

ビルレル大使は、野村大使にこう言ったのです!!

 

「トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをしただけです。」

 

 

エルトゥールル号の遭難……

 

1890年9月16日の夜に事件は起こりました。

 

その日は台風にみまわれ、木造の軍艦であるトルコ軍艦エルトゥールル号が和歌山県の串本沖で岩礁に衝突、沈没したのです。

 

 

死者581人、生存者69人

 

このとき、村人たちは、冷たくなった乗組員を人肌で温めたり、食糧を提供したりして懸命に救助しました。非常食として取っておいたニワトリまで分け与えたそうです。

 

69名のトルコ人が一命を取り留めました。その後、生存者は日本の軍艦によって無事トルコまで送り届けられたのです!!

 

残念ながら亡くなったトルコ人も、村人たちの手で懇ろに弔われました。

 

以下はビルレル大使の言葉です。

 

「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった

献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。

私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。

トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。

それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」

 

 

「 ~ 親愛なる日本の皆様 ~

私たちが暮らしている今は、過去に生きた人々の勇気のある

行動が 積み重なってできました。

世界的不況・不信の時代だからこそ、一人一人の決断で今を

変えて新しい未来を作りましょう。

みなさんがそれぞれの『奇跡』を起こす時です。

未来に勇気を。Imagine Future」

 

 

ジョン・ウー (映画「レッドクリフII」より)

 

 

この「過去に生きた人々」というのは、歴史に名を残した

ような特別な人々だけを指すのではなく、懸命にトルコ人を

助け、また死者を悼み心を込めて弔った無名の村人たちの

ことでもあるのです。

 

実は、この話には後日談があります。

 

トルコ航空機の邦人救出から十数年経った1999年8月、

トルコ北西部で大地震が発生しました。

 

死者は1万7千人を越え、被害も莫大。

この時、日本政府は、人命救助・物資・医療などさまざまな分野でトルコの復興を支えました。

 

「今度は日本がトルコを助ける番だ!」

 

 

そう、日本政府に働きかけたのが、あの時、大混乱のテヘランからトルコ航空機に命がけで救出してもらった人々だったのですニコニコ

 

日本人って、捨てたものじゃないですねニコニコ

 


人間っていいなぁ~♪

【  人間っていいなぁ~♪  】

(2013年9月9日のブログ記事より)

近現代史に関する本のご依頼を受け、いま奮闘しています。

 

今までの2冊の本は、日本史のエピソードということで書かせていただきましたが、近現代史となると、国内だけで完結するエピソードはグッと少なくて、世界との関わりの中で、素敵なエピソードをいくつも見つけることができますニコニコ

 

日本人は、自分のことをあまりひけらかさないから、そのような素敵なエピソードが今に伝わっているというのは、それを語り継いでくれた世界中の人々がいるっていうことなんですよねニコニコ

 

ほら、人間関係って鏡の法則が当てはまるっていうでしょ!!

相手の素敵な所に気づけるのは、自分にも同じ要素があるからなんですよね。

 

確かに、日本人の武士道を称賛し、語り継いでくれるのは、騎士道やジェントルマンシップを身につけている人だったりするわけです。

 

そう考えると、「日本人に生まれてよかった」なんていう思いが、なんだかちっぽけな感じがしてきて、「人間っていいなぁ」っていう思いがわき上がってくるんですよねニコニコ

 

さて、東京五輪決定から一夜明けました。

東京開催が決定した瞬間、トルコの皆さんはガッカリしただろうなぁ。

ところが、トルコ国民の皆さんが、次々と「東京、おめでとう」という内容のツィッターを発信してくれているらしいのです。

 

その数、なんと15万件以上!!

(東京開催決定から18時間のデータだそうです)

 

親日国ということは知っていたけれど、ここまでとは…。
トルコの皆さん、カッコよすぎです!!

やっぱり、人間っていいなぁ~ニコニコ


準備中です
暫くおまちください

ドイツ
第九に秘められた日本人の想い☆

【 第九に秘められた日本人の想い☆ 】

(2010年11月24日のブログ記事より)

第九のメロディーが聞こえてくると、いよいよ年末が近づいてきたなぁ…

って実感しますねニコニコ

 

今や日本人が愛してやまない “第九” ですが、この曲が日本で初めて奏でられたのは、1918年6月1日、ウィーンでのベートーベンの初演から94年後のことでした。

場所は、徳島県鳴門市大麻町板東。

 

日本初演が東京の音楽ホールでなく、四国 ・ 徳島であったことに驚く方も多いと思いますが、それ以上の驚きは、演奏者がドイツ人捕虜であったという事実です。

 

今日は、徳島の地で、世界史上類例をみない、俘虜たちによる文化が花開き、第九の日本初演という音楽史の1ページを飾るにいたったストーリーをご紹介しますねニコニコ

(ちなみに、当時の捕虜は、収容されると 「俘虜」 と呼ばれました。)

1914年、第一次世界大戦が勃発すると…

日本は同盟国イギリスの要請で、ドイツに対して宣戦布告。

 

中国におけるドイツの拠点 ・ 青島が日本軍の攻撃で陥落すると、4700名ものドイツ人が捕虜となり、日本各地の収容所に送られました。

 

ところが、当時の日本では国際条約に基づいた外国人捕虜の収監施設

がなかったため、1917年4月、徳島県鳴門市に板東俘虜収容所を新設、1000人のドイツ人捕虜を移したのです。

 

 

のどかな農村地帯に突如として現れた新しい施設と、1000人ものドイツ人俘虜に戸惑いを隠せなかった地元の人々も、程なくその環境に慣れ、俘虜たちを受け入れ、積極的な交流を始めました。

 

板東は、四国のお遍路さんを受け入れる一番札所の地。

人々は、各地からやってくる旅人を泊めもてなすことを 「お接待」 と呼び、これを誇りとして生きてきたので、異国の元将兵がやって来ても、抵抗感は少なかったのでしょう。

 

板東の人々は、親しみをこめて俘虜たちを 「ドイツさん」 と呼びましたニコニコ

「ドイツさん」 たちは、町の人々に、酪農のやり方やパンの焼き方、ビールや楽器の作り方など、先進国 ・ ドイツの技術や文化を伝えました。

 

元ドイツ兵たちが住民の便宜のために造った石橋は、90年以上経った今も、ゆるぎない姿を留め、文字通り、日独の架け橋となっています。

 

収容所内では、演奏会や演劇公演などが盛んに行われ、楽器や楽譜の製作 ・ 調達に苦労しながらも、なんと五つのオーケストラと二つの合唱団が結成されたと言われています。

 

そんな音楽好きな 「ドイツさん」 たちが、演奏会を積み重ね、技量を向上させながら取り組んだ最大のイベントが、1918年6月1日の第九の演奏だったのです。

 

第九となればソリストと合唱団に女声が必要となりますが、困ったことに、俘虜は男ばかりなので、やむを得ず、楽譜の該当部分を男声用に書き換えるなど、幾多の苦労を重ねながら練習したということです。

 

また、「ドイツさん」 たちは、時には、収容所の外でスポーツに興じることもあり、そんな時は、多くの地元っ子たちが温かい声援を送りました。

 

戦勝国民と俘虜という枠を超えた交流が、故郷を遠く離れ、大きな不安を抱えて過ごすドイツ人俘虜たちの心を、どれほど慰めたことでしょうニコニコ

 

「おごる勝者とみじめな敗者」 という図式は、ここ板東俘虜収容所には、そのカケラも見られませんでした。

 

なぜなら、板東俘虜収容所は、松江豊寿所長の深い人間愛で支えられていたからですニコニコ

 

松江所長の口癖は、「ドイツの兵隊さんたちも捕虜とはなったものの、お国のために戦ったのだ、囚人ではない」。

 

戊辰戦争で “朝敵” の汚名を着せられ、敗者の悲哀を味わった会津…

そこで生まれ育った松江所長だからこそ、ドイツ人たちの気持ちを誰よりも理解し、思いやることができたのでしょう。

 

1918年11月に休戦条約が締結されると、ドイツ人たちは順次帰国し、1920年2月、板東俘虜収容所は、2年8ヵ月に及んだ役割を終えました。

 

戦う時は潔く戦い、ひとたび戦いが終わったなら、お互いの勇気を讃え合い、捕虜に辱めを与えない…それが、武士道。

 

武士道に触れ、プライドを保ち続けることができたドイツ人たちは、口々に松江所長に感謝の言葉を述べて、帰国の途についていきました。

 

「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を、私たちは決して忘れません。そしてもし私たちよりさらに不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で臨むことでしょう。『四海みな兄弟なり』 という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう。」

 

第九の日本初演には、「四海みな兄弟なり」 という日本人の崇高な想いが秘められていたのですねニコニコ

 

人は、誰かの優しさに触れるから、悲しみを乗り越えることができます。

松江所長の優しさに触れ、敗者の悲哀を乗り越えた多くのドイツ人たちが、その後の人生で、傷ついた誰かに出会ったとき、今度は彼らがその人を優しく包んであげたことでしょう。

 

第九を聞くたびに、人々の悲しみが癒されて、優しさがリレーされていく…

このエピソードを知ると、そんな魔法にかかってみたくなりますねニコニコ


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ベルギー
関東大震災感動秘話 ~真心のこもった贈り物~

【 関東大震災感動秘話 ~真心のこもった贈り物~ 】

(2010年9月5日のブログ記事より)

1923 (大正12) 年 9月 1日 午前11時58分、関東大震災発生。

 

日本の首都が壊滅したという報を受けた世界各国は、すぐに日本への支援に動き出し、日本政府に対する義捐金や医療物資の提供の申し出が相次ぎました。

 

当時すでに経済大国であったアメリカとイギリスからは莫大な義捐金が送られ、中華民国 ・ オーストリア ・ ペルーなどからも義捐金や援助物資が寄せられましたが、日本中を最も驚かせ、感激させたのは、ベルギーからの真心のこもった贈り物でした!!

 

ベルギーは日本の 12分の1 ほどの面積しか持たず、しかも、直前の第一次世界大戦 (1914~1918年) でドイツに占領され、ようやく独立を回復したばかりで、決して国家財政に余裕があったわけではありません。

 

 

そんなヨーロッパの小国 ・ ベルギーが、地震発生からわずか11日後に10万フラン (約1万3000円) の電報為替を送ってきてくれたのです。

ベルギーからの送金は、以後も継続的に行われ、最終的に 264万フラン(約35万円) になりました。

 

これは、アメリカの2000万円、イギリスの400万円に次ぐ金額であり、ベルギーの支援が、いかに破格のものであったかが想像できますねニコニコ

 

以下は、ベルギー国内での日本救済への流れです。

 

9月3日になって震災の報せを受けたべルギー本国では、5日には

『日本人罹災者救済べルギー国内委員会』 が結成され、活動を開始。

各地でコンサート ・ 講演会 ・ バザーなどが催されるとともに、『日本の日』と名づけられたイベントが開催されました。

 

この時べルギー国内で配布された 『元兵士へ』 と題する日本への支援を訴えた文書は、多くのベルギー国民の胸をうち、彼らの心を動かしたのです。

 

9年前の第一次世界大戦…

ベルギーは、フランスを攻めるために領内に侵入してきたドイツ軍に、その国土を蹂躙されていました。

永世中立を標榜するベルギーでしたが、国家存亡の危機に瀕し、君民一致して立ち上がり勇敢に戦いました。

けれども、軍事力で圧倒的優位を誇るドイツ軍の前に、首都ブリュッセルは陥落。

国王 ・ アルベール 1世はフランスのル・アーブルに亡命し、多くのベルギー人が難民となりました。

 

その悲惨な状況が日本で報道されると、日本人はベルギー国民に深い同情を寄せ、彼らに対する支援活動を始めたのです。

 

1915年1月、朝日新聞社長 ・ 村山龍平は、亡命中のアルベール 1世に日本人の魂を届けようと、愛蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の同社特派員を通じて献上しました。
これは、“備前長船 (びぜんおさふね)” と呼ばれる名刀で、織田信長の所持品と伝えられています。

 

この後も、ベルギーには、日本から義捐金や多くの救援物資が届き、兵士や一般市民の心と生活を潤しました!!

 

『元兵士へ』 は、以下のように綴られていました。

 

「わが勇敢なる戦士たちは、日本人たちによって兵士に送られ、日本郵船会社によってル・アーブルまで無料で運ばれてきたタバコやお茶 ・ 鉛筆 ・ 薬品などへの感謝の思いを忘れていないはずだ。その贈り物には、心のこもった言葉が添えられていた ……“私たちは戦争が始まってからベルギー軍が示した3つの徳、すなわち忠誠 ・ 勇敢 ・ 名誉を示す 『忠勇義烈 (ちゅうゆうぎれつ)』 という名のこの小さな鉛筆をお贈りすることを幸せに思います』。」

そして、『元兵士へ』 は、「この時の恩義を今こそ日本に返そうではないか」 と締めくくられていました。

 

その結果が、35万円の義捐金だったのです。

 

1921(大正10)年3月、後に昭和天皇となる皇太子 ・ 裕仁親王は、皇室史上初の皇太子洋行となるヨーロッパ歴訪の旅に出発しました。

当初は、英仏2ヵ国の訪問が予定されていましたが、裕仁親王自らのご希望で、ベルギー ・ オランダ ・ イタリアの追加訪問が実現します。

 

ベルギーに到着した裕仁親王は、アルベール 1世 ・ ブラバン皇太子とともに閲兵式に臨み、晩餐会 ・ 歓迎会 ・ 戦跡視察 ・ 博物館の見学など、公式行事をこなしていきました。

 

そしてフランスへの移動日…

裕仁親王が公務の合間を縫ってプライベートで訪れた場所は、ブリュッセル郊外のルーヴァン大学でした。

 

ルーヴァン大学は、第一次大戦で被災して、建物の一部や蔵書のほとんどを失っていたのです。

日本の皇太子の訪問が、単なる見学ではなく、文明破壊に対する弔問の意味があると知った市民や学生らは、大いに感激し、熱烈な歓迎の意を示したそうです。

 

その昭和天皇が崩御され、大喪の礼が行われた際、欧州の王室でトップを切って出席を表明したのが、ベルギーのボードワン国王でした。

そして1993 (平成5) 年のボードワン国王の葬儀には、天皇 ・ 皇后両陛下が出席されています。

皇室史上、天皇が外国王室の葬儀に出席したのは、これが初めてのことでした。

 

地理的には遠く離れたベルギーと日本。

その両国の間には、それぞれの皇室と王室を通じての心温まる交流が、そして国民同士の深い理解と共感の歴史があったのですねニコニコ

 

ベルギーと聞いて思い出されるのは、ゴディバに代表されるチョコレートと名作『フランダースの犬』。

 

でも、もしベルギーを旅する機会があったら、お互いに交わした “真心のこもった贈り物” があったことに、ぜひ想いを馳せてみてくださいニコニコ

 

目に映る景色が、きっといっそう輝き始めると思いますニコニコ


日本人として知っておきたいこと☆

【 日本人として知っておきたいこと☆  】

(2014年12月10日のブログ記事より)

ベルギーの元国王妃の葬儀に参列するために、美智子皇后が単独でベルギーにいらっしゃるとの発表がありました。

 

ご高齢の皇后さまが、0泊3日という強行日程でベルギーを訪問なさる…。

 

ベルギーと日本の特別な繋がりに対する感謝のお気持ちがお強いのだろうと拝察し、涙を禁じえませんでした(;し;)

 

ベルギーと日本の友好関係、その始まりは明治時代にさかのぼります。

 

日清戦争における旅順港占領の際に、日本軍が住民を虐殺したという記事が諸外国の新聞に報道された時、ベルギー公使アルベール・ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出 しました。

 

そしてこの記事が米国記者によって捏造されたことを突き止めたダネタンは、べルギー本国政府に対して注意を促す次の ような報告書を提出したのです。

 

「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によって多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであった」(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・べルギー関係史』)

 

こうしてダネタンは、日本に対する偏向や捏造の記事を次々に修正し、公平な情報を送信して列国の誤った対日観を是正し、明治日本の名誉を守ってくれたのです!!

 

その後、両国の間にさらなる絆が育まれていきますニコニコ

その経緯は『こころに残る現代史』(KADOKAWA)に詳述しましたが、以前、ブログにも綴らせていただいたことがあるので、リンクを貼っておきますね。

皆さまにお読みいただけたら嬉しいですニコニコ
http://ameblo.jp/hitomi-mazenda/entry-10639972043.html

ベルギーとの間に幸福な関係を築いてきたご先祖様たち、そしてその象徴であるベルギー王室とわが国の皇室に、心より感謝し、敬意を捧げたいと思います!!

師走に入り、冷え込みも一段と厳しくなってまいりました。
皆さま、くれぐれもご自愛くださいねニコニコ


パラオ
パラオの国旗☆

【 パラオの国旗☆ 】

(2011年6月26日のブログ記事より)

土曜日の夜は、大阪のウェルネスサプライさんで講演させていただきました。 なんと、講演時間、3時間もいただいたんですよニコニコ

 

3時間も話し続けたのは、初めての経験でしたが、一人もトイレに立つこともなく、皆さん真剣に聞いてくださったので、私も、皆さんの熱意に引き込まれるように、大好きな歴史上の人物たちのエピソードを語らせていただきました!!

 

講演会終了後、ウェルネスサプライさんの社員の皆さまといろいろお話しさせていただきましたが、そこで感動したことが、二つ…。

 

まず一つめ。

実は、数日前、『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』 の編集をしてくださった萩原さんから、「大阪と高知の売り上げが上がっているんですが、何か思い当たることはありますか?」 と訊かれたばかりだったのですが、大阪での売上アップの秘密がわかったんです!!

 

なんと、ウェルネスサプライさんでは、就職試験の課題図書として、『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』 を受験生の皆さんに読んでもらって、その感想をプレゼンする…というのを、就職試験のプログラムに組み込んでくださっているというんです!!

そして、本を読んで感動した受験生たちが、お友だちに紹介してくださっているのだとか…。

 

わぁ、著者冥利につきます(>し<)/

本当に有り難いお話です。

就職試験が落ち着いて、採用が決まってからでけっこうですので、受験生の皆さんがどんなプレゼンをされたのか、お伝えいただけると嬉しいです!!

 

そして、今日の本題である、二つ目の感動…。

ウェルネスサプライさんのエースである、素敵な女性社員から伺ったお話です。

彼女が、以前、パラオを旅行した時の、現地の方々とのふれあいをお話ししてくださいました。

第一次世界大戦当時、パラオはドイツの植民地でしたが、日英同盟を結んでいた日本は、この地域の戦争でドイツ軍に勝利、第一次世界大戦後は、国際連盟からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められました。

日本はたくさんの移民をこの地に送り、産業・教育・文化の発展に、大きな功績を残しました。

 

ところが、第二次世界大戦後にこの地域を占領したアメリカは、日本文化の影響を徹底的に破壊する政策をとったのです。

日本人がつくった神社や、校庭に建てられた二宮金次郎の銅像も、破壊されてしまいました(;し;)

 

表面上は、パラオから日本文化が消えていきました。

 

でも…パラオの人々は、日本への感謝を、ずっとずっと語り継いでくれていたのです!!

パラオを訪れたその女性社員の話では、この地では、今でも日本語の歌が歌い継がれ、そして、日本人の名前を姓にしている人も多いそうです!!

1994年、アメリカからの独立を果たしたパラオは、独立にあたり、国旗を制定することになり、国旗のデザインを国民の間から一般公募しました。

 

その結果、パラオの国旗として選ばれたのは…

 

色はまったく違いますが、デザインは、日の丸によく似ていますよね?

明るい青は、パラオが広大な太平洋に位置することを表しています。

では、黄金色の円は…??

 

日の丸が太陽を表しているのに対して、この黄金色が著しているのは、月です。

月は、パラオの人々にとって、収穫や自然の循環、年中行事に重要な役割を果たしています。

機が熟してパラオが独立を果たした…

その誇らしさを、この満月で表そうとしたのでしょうね。

でも、それだけでなく、きっと、この満月には、パラオの人々の、日本に対する尊敬と感謝が込められているのだと思います。

 

日本が太陽で、私たちは月…

そんなふうに思ってくれている人々が、この地球上に存在していることを知っただけで、何とも言えない温かい幸せな気持ちがこみ上げてきますねニコニコ


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ポーランド
惻隠の情♪

【 惻隠の情♪  】

(2010年8月25日のブログ記事より)

 

ポーランドがヨーロッパにあることはわかっていても、その正確な位置をご存知の方は、どのぐらいいらっしゃるでしょう?

 

四方を海に囲まれている日本と違い、陸続きのヨーロッパ、しかも、大国 ・ロシアと強国 ・ ドイツに挟まれたポーランドは、その立地条件の悪さからか、数々の隣国からの迫害を受け、何度も割譲、独立を繰り返してきました。

 

そのポーランドの歴史の中で、意外にも、日本の存在感は大きく、両国の間には、細いかもしれないけれど、確かな絆が存在するのですニコニコ

 

その絆を追って、今から、大正時代にワープしますねニコニコ

 

これは、日本がまだ貧しかった頃のお話です。

 

1918年11月、ポーランドは、ロシアから念願の独立を果たしました。

 

けれども、独立にいたるまでに、半世紀以上にわたって、ポーランド人は、独立を求めて何度もロシアに対して武装蜂起しては、そのたびに失敗し、多くの男たちが囚われの身となって、シベリアで強制労働をさせられたのです。

そんな愛国心の篤い男たちを追って、恋人や家族もシベリアへ…。

そのために、当時のシベリアには十数万人ものポーランド人がいたと言われていて、そこで多くの子供たちが生まれました。

 

シベリアでの生活は、常に飢餓と疫病の脅威にさらされ、大人にとっても苛酷な状況だったと思いますが、ましてや子どもたち、それも親を失って孤児となった子どもたちは、この世の終わりとも思えるような、悲惨な状態に置かれていたのではないでしょうか。

この子たちを故国に送り届けたい…

そう願う人々の手によって、『ポーランド救済委員会』 が組織されたのは、1919年9月のことでした。

ところが、翌20年春に、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことができなくなりました。

 

そこで、救済委員会は欧米諸国に孤児たちの救済を訴えたのですが、第一次大戦直後の混乱と緊張の続く国際情勢の中、各国の反応は冷淡なものでした。

 

こうして、窮地に立たされた救済委員会が、一縷の望みを託して嘆願した相手が、日本政府だったのです!!

日露戦争でロシアを破った日本なら、ロシアによって苦しめられている子どもたちに、救いの手を差し伸べてくれるかもしれない…

 

その祈りにも似た懇願が、外務省を通して日本赤十字社にもたらされました。

 

日赤は、孤児たちの救済を即決!!

シベリアに出兵していた帝国陸軍の協力を得て、実際の救済活動がスタートしました!!

 

1920年夏から翌21年夏にかけて、5回にわたり、孤児375名が来日。

これを第1次救済事業と呼びます。

 

さらに22年夏には、第2次救済事業として、3回に分けて、390名が来日しました。

 

どの国も引き受けなかった異国の孤児たちの救済。

もしこの時、日本が行動を起こさなければ、この700を越える子どもたちの命の多くが、シベリアの過酷な自然環境の中で、飢餓と疫病によって奪われていたかもしれません。

 

しかも、第2次救済事業に際して、日赤は、孤児10名に1人の割合で、ポーランド人の大人を一緒に招くという、手厚い配慮まで見せたのです。

おそらく第1次の反省も踏まえ、習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつける方がよいと考えたのでしょう。

なんて太っ腹!!

90年前の日本人、かっこよすぎますよね(>し<)/

 

日本までの長旅の間、不安な気持ちで過ごしたであろう、ポーランド孤児たち。

けれども、日本に到着した彼らを待っていたのは、日本人の溢れる優しさでした。

 

歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たち、衣類やお菓子 ・ オモチャや人形など慰問品を持ち寄る人々、寄付金を申し出る人々は、後を絶ちません。

 

音楽団の慰問演奏や慰安会への招待も相次ぎました。

 

また、大人に連れられお見舞いに訪れた日本人の子どもたちは、自分が着ている洋服や、身につけていた髪飾りを、迷わずポーランドの子どもたちに与えようとしたのです。

 

さらに、こんなエピソードも…。

 

ある日本人の若い看護婦は、重体の腸チフスの孤児を付きっきりで看病し、せめて自分の胸で死なせてやろうと、この孤児を夜も抱いて寝ていたため、自らは腸チフスに感染し亡くなりました。

この孤児は、彼女の献身的な看護によって奇跡的に助かったそうです。
また、これは、ある女の子の回想です。

「ひどい皮膚病にかかっていた私は、全身に薬を塗られ、ミイラのように白い布に包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると、布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました。」

 

こうして、日本人の温かい心に触れた子どもたちは、来日当初の青白く痩せこけていた彼らとはまるで別人のように、元気がみなぎってきました。

それは、もちろん喜ばしいことでしたが、同時に、子どもたちが故国に帰る日が近づいていることを意味していました。

 

「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に…。」

送られる子どもたちも、そして見送る人々も、涙、涙…。

 

765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で治療や休養をした後、第1次は横浜港からアメリカ経由で、第2次は神戸港からロンドン経由で、直接日本船により故国ポーランドに送り届けられました。

第2次の子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、

ひとりひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。

 

「お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ。」

と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。

この子たちは、帰国後、孤児院に収容され、それぞれの人生を歩んでいくことになりますが、異国の地で注がれた愛情が、その生きる力になったことは、間違いないと思います。

 

いま、病院のベッドでこの記事を書いている私自身が、「人は愛によって生かされている」 ということを、身をもって経験しているのですから…。

 

さて、この素晴らしい救済事業、実際に行ったのは日赤ですが、主役は、当時の日本国民すべてですねニコニコ

 

大正末期、日本は、第一次大戦で戦勝国側につき、その恩恵にあずかったとはいえ、まだまだ庶民の暮らしは豊かではありません。

けれども、日本には、『惻隠の情』 ( 他者を憐れみ思いやる気持ち、弱者へのいたわり ) が根づいていたんですね ニコニコ

 

「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残ってほしい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ。」

こう述べたのは、大正末期から昭和7年まで駐日フランス大使を務めた詩人クローデル。

 

詩人の心をわしづかみにしたのは、日本人の『惻隠の情』だったのではないでしょうか。


真の優しさは、強さの中に・・・☆

【 真の優しさは、強さの中に・・・☆ 】

(2010年8月28日のブログ記事より)

1939年9月1日午前4時45分、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻しました。

 

第二次世界大戦の勃発です。

 

これに先立つこと十数年前、第一次大戦直後に日本の協力でシベリアから救出され、故国ポーランドに送り届けられた孤児たち。

1922年の夏を大阪で過ごした孤児の中に、イエジ少年がいました。

彼は、17歳の青年となった1928年、日本との交流を深めるために、孤児

たちの組織 「極東青年会」 を組織し、自ら会長となっていました。

 

イエジ青年は、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、極東青年会幹部を緊急招集し、勇士を募ってレジスタンス運動に参加することを決定。

この部隊は、会長の名をとって、「イエジキ部隊」 と呼ばれました。

イエジキ部隊には、本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒をみてきた孤児たち、さらには新たな戦禍で親を失った戦災孤児たちも続々と参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがったのです。

ここまで大規模な組織になったイエジキ部隊を、ナチス当局が放っておくはずがありません。

 

イエジキ部隊は、孤児院を隠れ家として使っていましたが、その孤児院に、ある日、ドイツ兵が押し入り、強制捜査を始めました。

イエジが助けを求めたのは…日本大使館 !!

 

急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、毅然と言い放ちました。

 

「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院です。同盟国ドイツ軍といえども、勝手な捜査は認められません。子どもたちに謝罪してください。」

 

当時、日本とドイツ・イタリアは三国同盟を結んでいましたが、日本大使館は、

ポーランド孤児たちとの交流の伝統を優先し、彼らを護ろうとしたのです。

 

けれども、ドイツ兵も簡単には引き下がりません。

「われわれは、信頼に足る情報に基づいて捜査を行っている。たとえ日本国大使館の申し出であっても、容認はできない。お引き取り下さい。」

すると、書記官は、ここぞとばかりにイエジたちに言いました。

「君たちこのドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しとして、日本の歌を聞かせてやってくれないか。」

イエジたちが日本語で 「君が代」 や 「愛国行進曲」 などを大合唱すると、

ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」 と言って、直ちに引き上げたということです。

 

日本が救済した異国の孤児たちが、20年以上経っても、日本の歌を歌い継いでくれていたなんて…(;し;)

 

そして、そんな彼らを信頼し、変わらぬ友情を持ち続けたポーランドの日本大使館の人々…。

彼らは、同盟国であるドイツに対して、ここまで毅然とした態度をとっていたんですね。

 

そこには、国も民族も超えた、『人としての優しさ』 が、溢れていますねニコニコ

 

そして、このエピソードは、真の 『優しさ』 を貫くには、『強さ』 が必要なんだということを、私たちに語りかけてくれているような気がしますニコニコ

 

『惻隠の情』 が真の優しさに変わる時…

そこには強さも加わって、美しいメロディーが奏でられます!!


日本人ブランド☆

 

【 日本人ブランド☆ 】

(2010年8月29日のブログ記事より)

 

1995 (平成7) 年1月17日午前5時46分、

関西地方を、大地震が襲いました。

『阪神淡路大震災』 です。

 

あまりの被害の甚大さに、日本ばかりか世界中に衝撃が走りましたが、

地震発生の翌日にいち早く救済活動を始めた国の一つが、ポーランドでした!!

 

そして、この年の夏、震災で被災した児童たち約30名がポーランドに招かれ、各地で歓待を受けました。

 

震災で傷ついた子どもたちの心を癒すために、ポーランド各地の自治体などの協力を得て、地域での交流やホームステイが行われたのですが、企業や個人の寄付や協力の申し出が相次ぎ、ポーランド国内での反響がひじょうに大きかったと言われています。

 

ポーランドの人々は、70年以上もの間、日本がポーランドの孤児たちを救済したという事実を、大きな感動と尊敬とともに、語り継いでくれていたんですね!!

 

被災児の招待は、翌夏も行われました。

この2度目の訪問の終盤に催されたお別れパーティーに、歩行もままならないようなご高齢の方々4名が出席なさいました。

 

75年前の自分たちと同じような立場に立たされた子どもたちに、かつて自分たちがどのように助けられたか、日本の人々にどんなに親切にされたかを話して、子どもたちに生きる勇気を与えたい…

 

そんな溢れる愛を携えて、ポーランド孤児たちが、高齢や病気をおして各地から駆けつけてくれたのです。

 

さらに、それから数年の月日が流れました。

 

2002 (平成14) 年7月、天皇・皇后両陛下が、ポーランド・チェコ・ハンガリー・オーストリアの中東欧4ヵ国を、初めて公式訪問されました。

この両陛下のご訪問を、ポーランドのマスコミは連日取り上げ、ポーランド国民の注目を集めました。

 

その歓迎ぶりに、同行した宮内庁も驚きを隠せなかったといいます。

 

そして、この時、ある一人の老婦人が、両陛下に謁見しました。

ポーランド孤児の一人、アントニーナ・リロさん、85歳。

彼女が救済されたのは、わずか3歳の時でした。

 

孤児収容所を慰問された大正天皇の后・貞明皇后が、小さかった自分を抱いて励ましてくれた…

 

その遠い記憶が、彼女の親代わりになっていたのかもしれません。

80余年の時を超えて、かすかに覚えている貞明皇后のぬくもりを確かめるかのように、彼女は、美智子皇后の手をずっと握りしめていたそうです。

 

アントニーナさんは、かつてポーランドに招かれた阪神淡路の震災孤児たちが10年後に再訪を果たした時にも、ポーランド大使館に足を運び、立派な青年となった彼らと再会して、思い出を語り合いました。

 

そして、2006 (平成18) 年、「日本は天国のようなところだった」 という言葉を遺し、ポーランド孤児の最後の一人として90歳の生涯を閉じたということです。

 

わたしは、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外のさまざまな街を訪れましたが、そのたびに、“日本人ブランド” を感じていました。

 

わたしの言動や人間性に関係なく、「日本人だから」 という理由で、信用してもらえたり、とても親切にされたり…ニコニコ

 

それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が共感してくれているからなんですね!!

 

敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、世界経済の中で現在のようなポジションを担ってこれたのも、日本人の努力や能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからなのかもしれませんニコニコ


あるポーランド人女性との感動的な出逢い☆

【 あるポーランド人女性との感動的な出逢い☆】

(2011年9月18日のブログ記事より)

 

1918年11月、ポーランドは、ロシアから念願の独立を果たしました。

 

けれども、独立に至るまでに、半世紀以上にわたって、ポーランド人は独立を求めては何度もロシアに対して武装蜂起しては、そのたびに失敗し、多くの男たちが囚われの身となって、シベリアで強制労働をさせれていました。そんな愛国心の篤い男たちを追って、恋人や家族もシベリアへ…。

そのために、当時のシベリアには十数万人ものポーランド人がいたと言われていて、そこで多くの子供たちが生まれました。

 

シベリアでの生活は、常に飢餓と疫病の脅威にさらされ、大人にとっても苛酷な状況だったと思いますが、ましてや子どもたち、それも親を失って孤児となった子どもたちは、この世の終わりとも思えるような、悲惨な状態に置かれていたのではないでしょうか。

 

この子たちを故国に送り届けたい…

 

そう願う人々の手によって、『ポーランド救済委員会』 が組織されたのは、1919年9月のことでした。

 

ところが、翌20年春に、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことができなくなりました。

 

そこで、救済委員会は欧米諸国に孤児たちの救済を訴えたのですが、第一次大戦直後の混乱と緊張の続く国際情勢の中、各国の反応は冷淡なものでした。

 

こうして、窮地に立たされた救済委員会が、一縷の望みを託して嘆願した相手が、日本政府だったのです。

 

日露戦争でロシアを破った日本なら、ロシアによって苦しめられている子どもたちに、救いの手を差し伸べてくれるかもしれない…

その祈りにも似た懇願が、外務省を通して日本赤十字社にもたらされました。

 

ポーランドと日本の間には、国交が結ばれていませんでしたが、日赤は、孤児たちの救済を即決。

 

シベリアに出兵していた帝国陸軍の協力を得て、実際の救済活動をスタートさせ、1920年から22年にかけて、765名もの孤児たちを救済したのです。

 

日本までの長旅の間、不安な気持ちで過ごしたであろう、ポーランド孤児たち。

 

けれども、日本に到着した彼らを待っていたのは、日本人の溢れる優しさでした。

 

歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たち、衣類やお菓子・オモチャや人形など慰問品を持ち寄る人々、寄付金を申し出る人々は、後を絶ちません。

 

音楽団の慰問演奏や慰安会への招待も相次ぎました!!

 

また、大人に連れられお見舞いに訪れた日本人の子どもたちは、自分が着ている洋服や、身につけていた髪飾りを、迷わずポーランドの子どもたちに与えようとしたのです。

 

さらに、こんなエピソードも…!!

 

日本人の若い看護婦・松沢フミさんは、腸チフスにかかった子どもに対して、「せめて私の胸の中で死なせてあげたい。」 と、その子のそばを片時も離れずに看護を続けました。

 

その甲斐あって、その子は奇跡的に回復しましたが、フミさんは腸チフスに感染し、ついに殉職したそうです。

 

また、別の子の、こんな回想もあります。

「ひどい皮膚病にかかっていた私は、全身に薬を塗られ、ミイラのように白い布に包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると、布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました。」

 

こうして、日本人の温かい心に触れた子どもたちは、来日当初の青白く痩せこけていた彼らとはまるで別人のように、元気がみなぎってきました。

 

それは、もちろん喜ばしいことでしたが、同時に、子どもたちが故国に帰る日が近づいていることを意味していました。

 

「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に…。」

送られる子どもたちも、そして見送る人々も、涙、涙…。

 

 

この時、子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、ひとりひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。

「お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ。」

と、薄眼を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。

この子たちは、帰国後、孤児院に収容され、それぞれの人生を歩んでいくことになりますが、異国の地で注がれた愛情が、その生きる力になったことでしょう。

 

それから70年以上の歳月が経った1995年1月17日…

 

阪神大震災の報に接したポーランドの人々は、翌日からすぐに被災地の救援に動いてくれました!!

 

そして震災で孤児になった子どもたちを、ポーランドに招いて、慰めてくれたのです!!

 

2006年、ポーランド孤児の最後の一人・アントニーナ=リロさんが、90歳で亡くなりました。

 

息を引き取る前に、彼女はこんなひとことを遺したそうです。

「日本は天国のようなところだった。」

 

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

この話は、ひすいこたろうさんとの共著 『人生に悩んだら「日本史」に聞こう ~ 幸せの種は歴史の中にある』 (祥伝社) の中に書かせていただきました。

 

この本を読んで大感動してくださったのが、福岡でさまざまなテレビ、ラジオ番組に出演していらっしゃる福田 健次さん♡

 

健ちゃんのおもしろいところは、本を読んで感動してくださっただけでなく、「この話が本当なのか、もし本当だとしたら、ポーランドの人々はこの話を知っているのか」 というのを疑問に感じ、それを確かめてみようと思ったところです

 

で、健ちゃん、やってくれました~!!

 

ポーランド人女性を探し出し、引き合わせてくださったのです。

果たして、彼女はこの話を知っていたのか…!!

 

これは、ぜひあなたの目で確かめてくださいニコニコ

10月28日(金)の深夜、テレビ西日本(TNC)の 『九州だんじ』 という番組で放送されます。


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メキシコ
心が優しくなる日本史☆

【 心が優しくなる日本史☆ 】

(2011年6月12日のブログ記事より)

15日に発売される “人生に悩んだら「日本史」に聞こう

~幸せの種は歴史の中にある” の中には、龍馬や

西郷隆盛、福沢諭吉といったメジャーな人たちの

エピソードが数多く収められている反面、庶民代表と

いうか、歴史に埋もれた人たちの素敵なエピソードも

掘り起こしています。

 

私のお気に入りの一つは、東京オリンピック招致に

人生を賭けた、ある日系2世の物語ニコニコ

 

実は、東京でのオリンピック開催を最初に支持して

くれた国は、メキシコなんです。

 

私は、日本とメキシコの友好関係は、この東京オリンピック

招致から始まったのだと思っていました。

 

ところが、今日、『ちょっといい話 感動の実話100選』

(アルファポリス) という本を読んで、日本とメキシコは

もっと古くから堅い絆で結ばれていることを知りました。

 

東京の方ならわかると思いますが、永田町2丁目という

のは、国会にも近い、都内でも有数の一等地。

そこに、メキシコ大使館があります。

しかも、この土地は、日本側から提供されたものだそうです。

 

これは、破格の待遇と言っていいと思います。

 

なぜ、メキシコだけこんなに厚待遇なのでしょう?

 

 

この問いを解くカギは、明治時代にあります!!

 

明治と言えば、200年以上にわたる鎖国の長い眠りから、

日本が目覚めた時代です!!

 

「目覚めた」 と言えば聞こえはいいですが、その実は、

欧米列強から不平等条約を押しつけられての開国でした。

 

 

1874年、金星が太陽面を通過し、地球に大接近するという、

天文学上の大イベントがありました。

その観測に日本が適しているということで、欧米列強は、

不平等条約を振りかざし、よい観測地点に早々と乗り込んで

きました。

 

ところがメキシコは、まだ日本と国交を結んでおらず、さらに

初動も遅れたため、観測する土地を確保できませんでした。

 

完全に乗り遅れてしまったメキシコでしたが…

 

なんと、日本政府は、最も条件がよいとされた横浜の野毛山

を観測地としてメキシコに提供し、電力などのサポートまで

行ったのです。

 

このことに感激したメキシコ観測団長は、自国の政府に

日本との国交樹立を提言。

 

それを受け、1888年、日墨(「墨」はメキシコのこと)修好通商

条約が締結されたのですが、これは、アジア以外の国としては、

日本が初めて結んだ平等条約だったのです!!

 

 

不平等条約の改正という、国家としての悲願が叶った日本は、

その感謝の証しとして、メキシコ大使館の創設にあたり、

一等地を提供したのでした。

 

 

人間関係と同じで、国と国との関係も、お互いが真心を持って

当たれば、こんなに素敵な関係が築けるんですねニコニコ

 

歴史を知ると、心が優しくなれる…。

 

心が優しくなれる歴史を、一人でも多くの人と共有して

いきたいです!!


その他

【 その他 】

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台湾
真の友だち①

【 真の友だち① 】

(2012年6月5日のブログ記事より)

2012年3月11日。

東日本大震災からちょうど一年を迎えたこの日、東京で政府主催の追悼式が開かれました。

 

このセレモニーには、200億円を超す義援金を被災地に送ってくださった台湾の代表者も参加なさいました。

 

台湾が寄せてくださった義援金の額はもちろん世界一、人口が日本のわずか5分の1に過ぎないことを考えれば、台湾の人々の日本に対する厚意が、いかに桁外れなものかが、想像できますよね。

 

台湾は、日清戦争が終了した1895年から大東亜戦争が終わった1945年まで、50年間も日本の支配を受けましたが、その間、台湾の人々のために日本人が幾多の困難を乗り越えてインフラを整備したり、台湾の人々に教育を施したり、台湾の近代化に貢献したことを、ずっとずっと感謝してくれているのです。

 

台湾からの莫大な義援金には、もう一つ秘密があります!!

 

1999年9月21日の早朝、台湾中部で大地震が発生した時、日本は世界中のどの国よりも迅速にレスキュー隊を派遣、わずか十数時間後の同日夜には、救助活動を開始しました。

 

この時、台湾を訪れた他の国々のレスキュー隊は、生命探査機を用い、反応のない所はスルーし、生存者を救出することに専念しましたが、日本のレスキュー隊だけは違っていました。

 

たとえ生存している可能性がゼロだとわかっていても、日本の隊員たちは、丁寧にガレキを取り除き、ご遺体に対して全員で整列、頭を垂れて黙とうしたのです。

 

この姿が、台湾の人々の胸をうち、その感動が、東日本大震災の際の莫大な義援金となって表れたのでしょう。

そして、台湾の震災を通して日本人が示した精神と技能を台湾の隊員たちが受け継ぎ、今度は日本の被災地の救助に生かしてくださったのです。

 

このように、心温まる交流を続けてきた台湾に対し、東日本大震災発生から一年後の追悼式で、政府は、大失態を演じ、ありえない仕打ちをしました

 

セレモニーに参加した台湾の代表者を、各国と国際機関の代表に用意された1階の座席でなく、企業や団体関係者が座る2階席に案内したのです。

おそらく日本政府は、大国・中国に遠慮して、このような 「仕打ち」 とも言えるような対応をしたのでしょう。

 

やむなく台湾の代表は、「外交団」 としてでなく、一般参加者として 献花しました。

 

この事実を知った時、どれだけ日本人として情けない思いをしたことか…。

けれども、台湾の楊進添外交部長は、恨みがましいことをひとことも述べず、こうおっしゃったのです。

 

“日本に対する台湾の支援は、「感謝されたい」 という気持ちでなく、真の思いやりに基づいた行動です。”

 

そして、次のひとことを聞いた時、私は感動で胸がいっぱいになりました!!

 

“台日関係は、一本の花束などで表せるものではない。”

 

それほど深い信頼と尊敬と感謝で結ばれている…

ということを、伝えたかったのでしょう(;し;)

歴史を中途半端に勉強すると、日本という国が、アジア各国から恨まれているような印象を受けますが、もっとちゃんと学べば、台湾やインドネシアなど、親日国が世界中にたくさんあることに気づかされ、勇気をもらえますね!!

 

政府の対応は本当に情けないですが、だからこそ台湾の日本に対する真の友情に気づけたわけですから、あとは、私たちが民間の交流で、台湾の人々のご厚意に報いないといけないなぁと思います。

6月3日(日)、私は福岡で催された台湾特別講演会に参加しました。

第一部は、『日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか』 の著書で名高い黄 文雄先生の講演!!

第二部は、九州大学大学院准教授の施先生と、台北生まれで大野城市でクリニックを経営していらっしゃる柳原先生を交えての、パネルディスカッションでした。

 

この場で、私が初めて知ったエピソードがいくつかあるので、次回はそれを皆さまとシェアしたいと思いますニコニコ


真の友だち②

【 真の友だち② 】

(2012年6月7日のブログ記事より)

中国には 「雨の日の友だち」 という言葉があるそうですニコニコ

 

人生には、晴れの日もあれば、雨の日もある。

いい時だけでなく、どんな時も思いやりを持って接してくれる友だちが、真の友だちニコニコ

雨の日に、そっと傘を差しだしてくれるような…。

 

台湾という国は、日本にとって、まさに雨の日の友だちですね!!

 

その台湾と日本の関係に、さらに素敵なエピソードが加わったことを知りました!!

 

東日本大震災から1ヵ月経った昨年の4月11日、日本政府は米国の 「ウォールストリート・ジャーナル」、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」、英国の 「フィナンシャル・タイムズ」、フランスの 「フィガロ」、中国の 「人民日報」、韓国の 「朝鮮日報」、ロシアの 「コメルサントコメルサント」 といった6ヵ国の7紙に、東日本大震災被災地への支援を感謝する広告を掲載しました。

 

ということは…

世界一の寄付を寄せてくれた台湾の新聞には、感謝広告を掲載しなかったということです。

 

これも、中国を慮ってのことでしょう

 

政府がやらないなら、民間で…

と、フリーデザイナーの木坂 麻衣子さんが、「台湾にきちんと感謝広告を出しましょう」 と、ツィッターで呼びかけたところ、なんと一週間で6000名もの人々が賛同し、1930万円の寄付金が集まったのです!!

 

寄付金の中から240万円を使い、聯合報と自由時報の2紙に感謝広告を掲載し、残りは日本赤十字社を介して被災地に寄付されました。

ここまでは、産経新聞の記事を読んで知っていたのですが、この話には、続きがあったのです。

 

感謝広告が掲載された2紙のうち、自由時報にいたっては、なんと広告料の全額を被災地に寄付、けっきょく無料で感謝広告を掲載してくださっていたんです!!

 

しかも、しかもですよ

「2011年、一番うれしかったことは何ですか?」 という問いかけに、台湾の本当に多くの人々が、「日本への義援金が世界一になったこと」 と答えてくださったというのです。

 

その行為も素晴らしいですが、台湾の人々の真心には、感動で涙が止まりません(;し;)

 

謝謝台湾


カミングアウトします!

【 カミングアウトします! 】

(2013年3月8日のブログ記事より)

 

実は私、すごいテレビっ子なんです!!

毎週新聞に載る視聴率ランキングも欠かさずチェックしています(笑)

 

先日、ある番組の収録で日本テレビを訪れた時に、スタッフの方とその話で盛り上がりました!!

 

 

そんな自他ともに認めるテレビっ子の私が、今夜おすすめする番組があるんですよ!!

 

それは、東京ドームで行われる日本vs台湾の一戦。
東日本大震災の時の台湾の支援を知る私たちは、どちらにも勝ってほしいですね

 

この試合を前にして、あるツイッターが拡散中なんだとか。

 

日台戦を観戦する観客に向け、「震災での台湾からの義援金のお礼を横断幕やプラカードで伝えてください。(中略)台湾の皆さまへ改めて感謝のメッセージをおくる最大のチャンス。日本と台湾の友情が永遠であることをWBCを通して伝えて下さい」というものです。

実はこのメッセージを読んだ台湾の人が、下記のメッセージを拡散し、台湾でも話題になっているそうです。

 

「東京にWBC観戦に行かれる野球ファンのみなさまへ。台湾対日本戦であろうが、他の国との対戦であろうが、球場では過激な内容の横断幕やプラカードを掲げないでください。日本の方がツイッターで拡散されている内容(上記の投稿の中国語訳)をご覧ください、このような状況下で、我々が見苦しいメッセージを掲げれば、恥をかくのは我々です」。

台湾には日本語に精通している人が多いのですが、言葉だけでなく「恥」という日本人の美意識も共有してくれていることが嬉しいですねニコニコ

 

試合内容だけでなく、ファン同士の交流も気になる、今夜の日台戦ですニコニコ


世界に誇るべき幸せな関係☆

【 世界に誇るべき幸せな関係☆ 】

(2013年8月7日のブログ記事より)

 

8月4日から6日まで、連日東京で講演させていただきました。
どの回も満員ですごい熱気、本当に多くの方がお越しくださり、感激でしたニコニコ

特に6日は、早朝から皆さま素敵な笑顔でお集まりくださって、本当に有り難うございました!!

 

6日の朝食会では、台湾からいらした素敵な男性とお話しさせていただきましたが、彼は、前日の夜に『感動する! 日本史』をご購入くださり、それからわずか数時間後には本を読んで次の講演会にご参加くださったのです!!

 

“祖父から日本時代(台湾のご年配の方は「日本統治時代」とは言わず「日本時代」とおっしゃるそうです)の素晴らしさを聞き、留学生として日本にやって来た。憧れていた日本とは、まるで違う…

というのが初めの印象だった。

でも、日本が変わってしまったのではなく、みんな忘れているだけ、日本人の美徳が眠ってしまっているだけ…と今では思っている。”

そんふうに日本の印象を語ってくれました!!

そして、この本の中には、祖父から聞いた素晴らしい日本人がたくさんいて、感動した…と、拙著『感動する! 日本史』が、付箋だらけになっているのを見せてくれました。

 

私はもう胸が熱くなって、涙が出そうでしたよ(;し;)

その彼が、こんなことを言ってくれました。

 

“私が一番感動したのは、上杉鷹山のこの言葉です。
「治者は民の父母であれ」。

確かに台湾を統治した日本人は、この考えを継承していたんです。”

日本人の生き方って、本当に時代を超え、受け継がれているんだなぁニコニコ

 

そして、彼は最後にキッパリ。

“普通、隣国ほど仲が悪いものです。沖縄と台湾は目と鼻の先、台湾は日本の隣国です。この日台両国が、これほどの友情で結ばれているというのは、世界に誇るべき幸せな関係です。”

 

世界に誇るべき幸せな関係を、もっともっと深め、もっともと広めていきたいですね!!


素敵なメッセージをシェアします!

【 素敵なメッセージをシェアします! 】

(2013年9月3日のブログ記事より)

1月に開催されたあこがれ先生プロジェクトin三重でご縁をいただいた照井さんから、素敵な情報が届きました!!

以下、照井さんのメッセージを転載させていただきますね!!

 

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

 

9/2の中日新聞朝刊に心温まる記事が掲載されておりました。

「感動する!日本史」でも取り上げられた、台湾の烏山頭ダム建設に尽力された八田與一氏の妻である外代樹さんの銅像が、台南市の「八田與一記念公園」に設置され、9/1に除幕式が行われたそうです!!

ご本人はもとより、奥様までもが台湾の方々に愛されていらしたのですね。

こういう知らせは、本当に心が温かくなりますニコニコ

台湾で和ごころ塾、やりたいなぁ~!!


4月に台湾ツアーやります!

【 4月に台湾ツアーやります! 】

(2014年1月30日のブログ記事より)


この写真は昨年末、甘木のダイソーで文昭さんとバッタリ会って、びっくりして思わず記念に撮った写真ですが、実はこの夜、これ以上に驚きの出来事が待っていました!!

 

文昭さんを囲んで食事している時、東日本大震災やWBCなど、台湾の話で盛り上がったんですね!!

 

そしてこの話題になった時、文昭さんの目に、みるみる涙がたまっていったのです。

2011年の暮れに台湾で実施されたアンケート!!

「今年一年あなたにとって一番幸せを感じられる出来事は何でしたか?」

 

この問いに対する答えとして1位に選ばれたのが、「日本への義援金が世界一になったこと」だったんですよ!!

 

文昭さんは、しばしジワ~っと感動にひたっていたようですが、次の瞬間、「みんなで行こう、台湾へ…!!」となったわけです。

 

そして、すぐにツアーの計画を立て始めました。

その後、日台両国で活躍するカリスマバイリンガル語学講師のジョーさんの全面的なご協力を得て、だいぶ詳細が決まってまいりましたので、お知らせしますね。

 

以下、今回の台湾ツアーを仕切ってくださるクロフネカンパニーの中西さんから昨年の伊勢・出雲縁結びツアーに参加した方に送られたメッセージを転載します。

 

私のブログをお読みになった方は、一般の方々に先立ってお申し込みを受け付けてくださるとのことですので、皆さま、年度初めのとんでもない時期ではありますが(笑)、どうか日程を調整してご参加くださいね!!

 

ちなみに中村家と白駒家は子供同伴でまいります。

皆さまもぜひご家族で~

 

2013年 縁結びバスツアーへご参加頂きました皆さま
あれから半年、いかがお過ごしでしょうか?

 

次はどこですか次はいつですかと沢山の方に質問をされましたが
ようやく皆さまへ告知をすることが出来ます。

 

次は台湾です!!次は4月です!!

何故台湾かと言いますと・・・

皆様、ご存知ですか??

台湾にはこんな褒め言葉があります。

 

【日本精神(リップンチェンシン)】

「日本精神があるねぇ~」という風に用いられるらしいのですが、その内容とは・・・
勤勉である、正直である、約束を守る、優しい・・・等
何か良いことをした時に用いられる、最高の褒め言葉だそうです。

 

1895年日清戦争での勝利から1945年大東亜戦争での敗戦までの約50年という期間、日本は台湾を統治しました。

普通、他の民族に支配された国の人々は本国のことを恨むと思うのですが、台湾に関しては、多くの人々が感謝をしているそうです。

その時代を生きた、おじいちゃんやおばあちゃんは皆、口をそろえて言うそうです。「あの時代が一番良かった・・・」と。

 

何故、支配されたにも関わらず、台湾の人達は日本に対して感謝をしめしてくれるのでしょうか・・・??

 

また、2011年東日本大震災、台湾は、義援金200億円、救援物資400トンという大きな手を日本に差し出してくれました。
アメリカやヨーロッパといった経済大国を抜いての世界1位、そのほとんどが民間からです。

 

そしてその年、台湾の新聞社が台湾国民に対して「今年1番幸福だった出来事は何ですか」というアンケートを行いました。
幸福な出来事 第1位
「台湾から日本への義援金が世界1位だった」

 

何故にそこまで日本に対して親切にしてくれるのでしょうか・・・?

 

1895年日本が台湾を統治した時、台湾は教育制度が整っておらず、治安は不安定、マラリアやコレラといった伝染病は蔓延している近代化の遅れた土地でした。

 

日本はそんな台湾を「植民地」として考えるのではなく、「自国」として考え、そこに住んでいる人の生活が豊かになるようにと多額のお金をかけて道路やダム、学校を作りインフラ整備を行いました。

 

しかし、物が豊かになったからといって
【日本精神】という褒め言葉は生まれるでしょうか。

ではどこから生まれたのでしょうか・・・

 

それは我々のご先祖様達が台湾で、卑怯な事をせず、失敗を自らの責とし、勤勉に仕事(インフラ整備)をしたその姿勢から生まれたそうです。

 

そんな姿勢からは「自分達のためでなく、台湾人のために」と相手のことを思う気持ちが溢れ出ていました。

 

いつしかそんな気持ちや姿勢は、【日本精神】という言葉になり、褒め言葉して使われるようになりました!!

 

【日本精神】という褒め言葉や心は現在でも台湾に残っております!!

我々のご先祖様が台湾に「心」を残してくれたからこそ今の日本と台湾の関係があるのだと思います。

台湾にはご先祖様の「心」を感じる素敵なエピソードがたくさんあります!!

全てはまわりきれないですが、その中でも僕や講師の方達が素敵だなぁと思うエピソードを紹介しながら実際に現場に行き、皆さまに「心」を感じとって頂きたいと思います。

 

「心」

あなたが考える日本人とは??
あなたが考える美徳とは??
あなが考える幸せとは??

 

ご先祖様が台湾に残した「心」。

この「心」こそが、今我々がご先祖様から受け継ぐべき大切なものだと感じています!!

この素敵なプレゼントを皆で一緒に受け取りにいきませんか??

社会が日々、進歩や革新を繰り返し、より豊かに便利になっていくこの時代、そんな時代だからこそ大切にしたい変わらぬ「心」。

帰国後、日本人ということに誇りを持ち、 その思いが周りの人をより幸せにすることを願ってニコニコ

中村文昭


台湾に行ってきます!

(2014年4月7日のブログ記事より)

昨日は糸島の豊かな自然の中で、維新の志士たちから母のように慕われた福岡の女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)と、彼女の危機を救った高杉晋作に思いを馳せる、とても素敵な一日を過ごしました!!

自然の中でリフレッシュすると、仕事漬けになっている時には得られないひらめきをもらえますねニコニコ

さぁ、いよいよ今日から台湾ツアーですニコニコ

 

世界一の親日国・台湾を訪れて、震災以降台湾の人たちが日本に寄せてくれる、ありえないほどの深い厚意に対して、直接お礼を言ってきますニコニコ

 

旅は、人間の感性のスイッチをONにしてくれそうで、本当に楽しみです!!

 

皆さまも笑顔で素敵な一週間をお過ごしくださいねニコニコ


世界一の親日国!

【 世界一の親日国! 】

(2014年4月11日のブログ記事より)

抱えきれないほどの感動を胸に、台湾から帰国しました!!

旅先で出会った台湾の人々のお顔やお話を思い出すたびに、涙が出てきます。

なんて美しい心を持った人たちなんでしょうニコニコ

 

ホテルのロビーで偶然出会った90歳のおばあちゃんは、年に数回、日本時代を懐かしむ会を催しているそうで、この日もホテルの宴会場で映画『佐賀のがばいばあちゃん』を見て、日本語の歌を何曲も歌って、ご飯を食べてきた帰りだとおっしゃっていました。

 

さらに「私は20歳まで日本国民だったの。大正15年生まれだから、大正、昭和、平成と3代の陛下にお仕えしています」ですって…。

 

もう胸がいっぱいになってね、日本時代の思い出をいろいろ話してもらったのですが、別れ際におばあちゃんに言われた言葉にドキッ!!

 

「つまらない話を聞かせてごめんなさいね」

 

これって、日本語が上手とか、そういうレベルではなくて、おばあちゃんの感性が日本人そのものってことでしょ!!

 

なんだか自分のおばあちゃんと話しているみたいな不思議な感覚になりましたニコニコ

 

それから、こんな自作の短歌を披露してくれたおじいちゃんにも会いましたよニコニコ

「未曾有なる 大震災に見舞われど 秩序乱れぬ 大和の民ぞ」

 

この歌には、自分もかつて大和の民だったのだという誇りが感じられますよねニコニコ

 

台湾の感動を皆さんに一刻も早くお伝えしたくて、この時間(朝4時)でもまだ眠れずにいます(笑)


いま解き明かされる、日台の絆!

【 いま解き明かされる、日台の絆! 】

(2014年4月25日のブログ記事より)

 

まずは皆さん!!

「飛虎(ひこ)将軍」を検索してみてください。

台湾の人々が大切に神様として祀っている日本人がいるのです。
彼の物語は、聞くも涙、語るも涙…。

 

彼の名は、杉浦茂峯さん。自分の命に代えて、台湾の人々を守った日本人。

 

杉浦さんを祀る飛虎将軍病の近くにある小学校が、杉浦さんの出身小学校と交流を結びたいということで、校長先生が杉浦さんの母校を特定すべく、奔走していらっしゃるとのこと(杉浦さんが茨城の出身であることはわかっているのですが、小学校までは判明していないそうです)。

 

その話を聞いた友人の下重さんが、今回、茨城県会議員のお知り合いの協力のもと、なんと杉浦さんの母校を調べてくださったんです!!

 

そして…調査の結果、関係者があれだけ調べてもわからなかった杉浦さんの母校が、わかったんですよ~ニコニコ

 

 

杉浦さんが卒業したのは、水戸市にある五軒小学校で、現在、そこは別の建物となり、水戸市の「三の丸小学校」に移転・統合されているそうです。

 

これをきっかけに、もしかすると台南と水戸の民間交流が.始まるかもしれませんね。

 

台湾ツアーは、これだけでもスゴイ意味があったのではないかと、感激です(>し<)/

 

そのほかの講演会でも、台湾のお話をお伝えしていくので、(株)ことほぎのサイトで講演予定をご確認いただけると有り難いです!!

http://kotohogi2672.com/seminar.html


感謝でいっぱい♡

【 感謝でいっぱい♡ 】

(2014年5月1日のブログ記事より)

 

「日本人はみんな台湾に行って、日本の歴史を学んだ方がいい!!

これは、台湾ツアーをご一緒した、中村文昭さんの言葉。

 

その大感激だった台湾ツアー報告会 in 福岡、本当に楽しく感動的な夜でしたニコニコ

 

台湾の李登輝元総統は、「日本人には、世界の他の民族とは違う特別なものがある。それは、カタチ、色、においの無いもの、つまり実体の無いものを共有できること」とおっしゃったそうです。

 

武士道、絆、侘び、寂びなどが、きっとこれに該当するのだと思いますが、今夜も、私が伝える台湾の人々の感性や日本への思いという、目には見えない、実体の無いもの、言葉を超えた世界を参加者の皆さまが共有してくださって、胸がいっぱいになりました。

実は、いつになくワインを2杯も飲んでしまったので、楽しいのはお酒のせい(おかげ?)かと思いましたが、お越しくださった皆さまからのメッセージやメールで、皆さまも同じ気持ちでいてくださることがわかりました。

 

柳川、鹿児島、福岡…と、感動がずっと続いていることに、そしてかけがえのないひとときを多くの方が一緒に過ごしてくださったことに、感謝の気持ちでいっぱいですニコニコ

 

本当に有り難うございましたニコニコ


日本人の美意識☆

【 日本人の美意識☆ 】

(2014年6月20日のブログ記事より)

 

日本、惜しい~!!

惜しすぎるっ!!

皆さんもそうだと思いますが、あまりに力が入って、90分間走り続けた選手と同じぐらい疲れましたねー(ー_ー)!!

 

それにしても、今日こそは勝ちたかったなぁ。

 

でも、スタジアムに駆けつけたブラジルの皆さんが、「必勝」の鉢巻を締め、日本を応援してくれる姿には感動しました!!

 

まるでホームのような雰囲気をつくってくれて、ブラジルの皆さん、本当に有り難うございます(*^-^*)

 

サポーターたちが、1998年のフランスW杯以来、試合終了後にゴミを拾い、「来た時より帰る時の方が美しく」を実践していることが、大きく影響しているのかも。

 

こういう日本人の美意識を、これからもずっと大切にして、もっともっと浸透させていきたいですね!ニコニコ

 

そしてこんな日本人を、世界で最も愛してくれているのが、台湾の人々です。

 

台湾から日本を訪れる旅行者、28万人を超えたんですね~♪♪

 

台湾の人口が約2300万人ですから、すごいですよね~。
もちろんこの数は、世界一です!!

 

台湾の人たちは、こうして日本でお金を落とすことで、復興を支援しようと考えてくださっているんでしょうねニコニコ

 

私たちも、お礼の気持ちを台湾の人々に伝えなければ…!!


天の配剤☆

【 天の配剤☆ 】

(2014年6月27日のブログ記事より)

 

台湾ツアー報告会ファイナルニコニコ

 

平日の夜、しかも愛知県西尾市。

決して参加しやすい条件でなかったにもかかわらず、およそ400名もの方々が全国からお集まりくださいました。

 

その中には、なんと八田與一さんのお孫さんの姿も…ニコニコ

 

こんなミラクルって、あるんですね~ニコニコ

 

天が用意してくれる出会いやご縁には、本当に驚かされます!!

「事実は小説より奇なり」と言われますが、どんな才能溢れる作家も、天には敵いませんね。

 

ところで、講演会に来れなかった皆さまに、おせっかいやまちゃんからのプレゼントニコニコ

 

昨夜わたしがお話しした八田さんを中心に、日台のエピソードをPDFにしてくださいました。

http://www.hirahoku.com/ひらほく新聞2013/

 

皆さまにお読みいただけたら嬉しいですニコニコ

 

 

東京や石川でも素敵なご縁をいただき、お伝えしたいお話がいっぱいあるのですが、あまりに毎日が目まぐるしくて、ブログの更新が追いつきません( ;∀;)

 

 

追い追いお伝えしてまいりますね!!


台湾から帰国しました!

【 台湾から帰国しました! 】

(2014年9月24日のブログ記事より)

台湾から帰国しましたニコニコ

今日久しぶりに会ったママ友から「ハワイに行ってたんでしょ?」と訊かれたのですが、私が行っていたのは台湾ですよ~。

 

嵐の15周年のハワイツアーに行っていたと周りから思われていたようで、ちょっぴり悔しいやら、逆に嬉しいやら…(笑)

 

台湾では、有り難いことに、台風の影響もほとんど受けることなく、烏山頭ダムをはじめ日本時代の台湾を偲ぶことができるスポットに、台湾在住の片倉佳史さんの案内で訪れることができました。

 

片倉さんご夫妻、ガイドの許さん、共栄ツアーズさん、台湾でお世話になった皆様、そしてご参加くださった約30名の皆様、本当に有り難うございましたニコニコ

今回、私が最も心に残ったのは、『日本人はとても素敵だった』の著者・楊素秋(よう そしゅう)さんにお会いしたことですニコニコ

 

私は30年ほど前に、当時皇太子妃だった美智子様を偶然軽井沢でお見かけしたことがあるのですが、そのとき以来の衝撃でした。凛とした美しさ、品格のある物腰、聡明でありながらユーモアあふれるお話…もうひと目でハートを鷲づかみにされましたよニコニコ

かつて台湾の子どもたちが、日本人の背中を見て何かを感じ、それが彼らの人生に後々まで影響したように、私たち日本人は、もっともっと台湾のおじいちゃん、おばあちゃんの背中を見て学ばせていただかないといけないなぁ、そしてそれこそが、本当の日台の絆なのではないかと、しみじみと感じました。

 

素秋さんは、戦前台湾に赴任していた日本人のおまわりさんや兵隊さんが、台湾の子どもたちに対してどんなに優しかったかを話してくださいました!!

 

かつての日本人は、強くて優しくて美しかった、とニコニコ

 

ところが今の日本人は、その美しい心に雲がかかっている、とおっしゃるんです。

 

きっと誰よりももどかしい思いをなさっているはずなのに、「日本人は美しい心をなくしてしまった」とは決しておっしゃらないんですね。

 

「美しい心に雲がかかっている」…私たちは素秋さんのこの言葉の重みを受け取らないといけませんね。

 

敗戦後、台湾にいた日本人は、みな肩を落とし、あらがえない運命を黙々と受け入れ、泣き言ひとつ言わずに台湾を後にしたそうです。

 

2011年に東北の被災地で見た日本人の姿は、あの時のままだったとおっしゃっていました。

 

望むと望まざるとにかかわらず、私たちはそのDNAを受け継いでいるのですものね、早く雲を取り払って、日本人として生きていかなくては…!!

素秋さんにお会いした瞬間、早くも来年の台湾ツアーの開催が決まりました(具体的に決まったわけでなく、開催することが決定したという意味です)!

台湾で日本の心を取り戻す旅、命の続くかぎり続けていきたいと思いますニコニコ


涙があとからあとから溢れてきます!!台湾からの応援メッセージ♪

【 涙があとからあとから溢れてきます!!台湾からの応援メッセージ♪】

(2014年11月11日のブログ記事より)

このごろFacebookにはマメに投稿していますが、ブログは本当に久しぶりの更新です。

今年は2度台湾を訪れましたが、9月に運命の出会いをいただきました。

『日本人はとても素敵だった』の著者・楊 素秋(よう そしゅう)さん

まずは皆さま、こちらのインタビューをお聞きくださいニコニコ

https://www.youtube.com/watch?v=xGkmyUVLi6Y

これは台湾ツアーをご一緒した、山下りょうとくさんが編集してくれたものですが、りょうとくさんも私も「これを世に出せただけで、この世に生まれた甲斐があった」…そんなふうに思っています。


ついに凱旋上陸!

【 ついに凱旋上陸!】

(2015年1月25日のブログ記事より)

生まれて半世紀。

数百本の映画を見てきた中で、私が最も感動した映画が、いよいよ昨日、全国で公開されましたニコニコ

台湾映画界で史上最高のヒット作となった「KANO」ですニコニコ

 

私は今まで講演の中で台湾の人々の日本への思いをお伝えしてきましたが、これからは、日本人の思いを台湾の人々に伝える…ということを同時にやっていこうと思います。

 

そのためには、まずは日本人にこの映画を見て、台湾が日本だった頃の、歴史の一側面を知っていただきたいのです。

 

ちなみにこの映画はほとんど全編が日本語です!!

 

私は昨年台湾でこの映画を見ましたが、台湾の人々は字幕で、私たち日本人は音声でこの映画を味わい、ともに涙しました。

 

本当は日本でもすぐに見に行きたかったのですが、昨日、今日と仕事で映画館に行けなかったため、代わりに新幹線の中でこのコミックを読んでいますニコニコ

映画もコミックも両方オススメです!!

「騙されたと思って見てください」とよく言いますが、私は「つべこべ言わず見てください」と言いたいです(笑)

この映画を見て、泣いて、あなたの遺伝子のスイッチをONにしてくださいニコニコ


日本人の矜持

【 日本人の矜持 】

(2015年2月1日のブログ記事より)

身体中の水分がもう一滴も残っていないのではないかと思うぐらいに、泣きました!!

もちろん映画『KANO』を観たからです。

しかも一緒に観たメンバー30数名で、感動の分かち合いをして、また涙…。

こんな清清しい涙を流せるのも、日台両国のご先祖様たち(しかもそれほど遠くはないご先祖様たち)が、尊く美しいものを求めて、ともに歩んだ歴史があったからです。

 

『KANO』を観て、私は日本人に生まれたことに心から感謝できたし、日本人の矜持を取り戻すことができましたニコニコ

一緒に感動を分かち合ってくださった皆さま、企画から運営まで心をこめて行ってくださったRyokoさん、さらに映画に携わってくださったすべての皆さま、私たちの、そして台湾のカッコいいご先祖様たちに、あらためて感謝しますニコニコ

 

京都を発つ前に、思いもよらないプレゼントが…!!

 

台湾でも売り切れていて、道行く人に「そのTシャツを売ってください」とお願いして断られた、『KANO』のTシャツを、Ryokoさんが、プレゼントしてくださいましたニコニコ

しかもトートバッグ付きです。

これらは甲子園球場内にある、甲子園歴史館のとなりのショップで販売しているそうです。

入荷状況にもよりますが、タイミングが合えば購入できると思うので、皆さんも運だめしに甲子園に行ってみてはいかがでしょう?

それにしても、映画に出演したメンバーを日本に呼びたいですね。どうしたら呼べるか、方法をご存知の方、アドバイスをお願いしまーす!!


昨年、日本を訪れた人が一番多い国は、あの親日国です!

【 昨年、日本を訪れた人が一番多い国は、あの親日国です!】

(2015年3月20日のブログ記事より)

4年前の震災以降、世界中から温かい支援が届けられましたが、数字の上で最大の支援を送ってくれたのは、台湾です!!

 

日本赤十字が把握しているだけで、義援金は200億円を超え、支援物資も400トン以上。

これは海外からの全支援の約3分の1にあたります!!

 

でも、実は台湾の方々は、日本赤十字を通さずにその何倍もの支援を送ってくださっていて、合計は天文学的数字にのぼり、計算できないとさえいわれています!!

 

台湾は、人口およそ2300万人、震災当時の平均年収が約160万円でしたから、この支援がどれほど破格なものかがわかるでしょう。

台湾の厚意は、さらに続きます。2011年暮れに台湾の新聞社が行った「あなたにとって今年一番の幸せは?」というアンケートで、台湾の方々が1位に選んでくれた答えは、「日本への義援金が世界一になったこと」でしたニコニコ

 

そして昨年、台湾から日本を訪れた観光客の数は、280万人を超えました。

8人に1人が日本を訪れたことになりますニコニコ

もちろん世界一の親日国ですから、単純に日本を旅行したかったという人も多いでしょう。

 

でも実は、日本を訪れた台湾の人々の心の底には、こんな思いがあるんです。

 

「震災直後なら、お金や物を送るのが、一番の支援になるだろう。でも、震災から3年、4年と経ったら、支援のカタチを変えないといけない。日本を旅して、日本でお金を落とすことが、一番の復興支援になるはず」

 

こんな台湾の方々の深い思いやりに感謝するため、今年も4月29日~5月1日、そして7月18日~21日の2回、台湾にまいりますニコニコ

 

4月の台湾ツアーは、中村文昭さん率いるクロフネカンパニーさんの主催で、無名の日本人を神様として祀ってくれている台南の飛虎(ひこ)将軍廟にお神輿を奉納し、地元の方々が開催するお祭りに、飛び入り参加してきます。

 

今からでも十分に間に合いますので、ご都合のつく方は、ぜひご一緒に台湾に行きましょう~ニコニコ

4月にご一緒できない方は、今から7月の予定を調整しておいてくださいね!!

なんと7月のツアーでは、李登輝さんに講演していただく予定で、準備を進めていますニコニコ


ついに7月の台湾ツアーの詳細が決まりました!

【 ついに7月の台湾ツアーの詳細が決まりました!】

(2015年3月20日のブログ記事より・・・※過去の記事の為、ツアー詳細は外させて頂いております。)

 

「震災は本当に悲しい出来事だったけれど、悲しいことばかりでなく、いいこともあった」

一年前にはじめて台湾を訪れた時、19歳の男子大学生が、流暢な日本語で語り始めました。

 

「自分たち台湾人は、戦後もずっと日本のことを思ってきた。でも、その思いを知る日本人は少なく、自分たちの片思いだった。それが、震災をきっかけに、台湾人の思いを日本人が知るようになり、両思いになった」

 

彼は、まるで恋をする少年のように、澄んだ瞳でそう話してくれたんです。

 

世界一の支援、天文学的数字にのぼる義援金が台湾から届いたのに、時の政権は台湾の新聞に感謝広告を掲載しなかった。

 

その事実を知った、あるデザイナーの女性が、「政府にさまざまな事情があり出来ないのなら、民間の手で…」と寄付を募り、台湾の新聞社に広告を出したら、その広告代と同額の寄付金を、その新聞社は日本赤十字に対して再び送ってくれた。

 

さらに台湾の人々は、こんな嬉しい言葉を口々に言い合ってくれた。「日本人はおかしいよ。冠婚葬祭でも、お返しをするのは他人に対してだけ、家族にはお返ししないでしょ? 台湾は日本の家族なんだから、お礼なんていらないよ」

 

2011年暮れに台湾の新聞社が実施したアンケート、「今年一年あなたにとって一番の幸せは?」

 

このアンケートで1位に選ばれた答えは「日本への義援金が世界一になったこと!!

 

震災から4年経った今、台湾の人々は自分たちが日本を旅行して日本でお金を使うことが、復興支援になると信じて、台湾の全人口の8人に1人が、昨年は日本を訪れた。

 

こういう事実を、いったいどれだけの日本人が知っているんだろう!?

「両思いになった」という彼の真心に応えるために、私はもっともっと日本人に台湾を訪れてほしいし、台湾のことを知ってほしいと思う!!


7月の台湾ツアーのお申し込みを開始しました!

【  7月の台湾ツアーのお申し込みを開始しました!】

(2015年3月30日のブログ記事より)

すごい!!  桐生選手、夢の9秒台!!
……って、それもスゴイですが、私の驚きはコチラですニコニコ

 

さっき主催の稲垣利香ちゃんが告知してくれたばかりなのに、すでに10名以上の方がお申し込みくださったなんてニコニコ

 

【和こころ塾 IN 台湾 第二弾】

 

今回のはありえないスーパープログラムになっています。なんと…

・李登輝さんのご講演(私たちツアー参加者のためだけに講演をしてくださいます)

・政界・財界に数多くの弟子を持ち、大和心を若者たちに伝え続ける松岡修三氏の恩師 兼 仲人・行徳哲男先生のご講演

・『日本人はとても素敵だった』(桜の花出版)の著者で、日本統治時代を経験している楊素秋さん&お兄様のご講演

・台湾在住のジャーナリスト・片倉佳史さん&わたくし白駒妃登美の講演
を予定しています。

もちろん嘉義農林学校ゆかりのスポットや烏山頭ダムなどもめぐります。

また、今回は台南出身の楊素秋さんのご案内で、古都・台南のディープな旅も盛り込みました。

3泊4日、夢のようなツアーが実現しますニコニコ

昨年9月の台湾ツアーから半年間待っていてくださった方もたくさんいらっしゃいますよね。
大変お待たせしました。

連休で航空券が取りにくいので、できるだけ早いお申し込みをお勧めします。

こんな奇跡のツアーが実現するのも、チーム アマテラスならではですね!!

皆さま、本当に有り難うございます!!

神社への参拝で新しい月が始まるって、こんなに気分がいいんですね~ニコニコ

一度行ったら病みつきになりそう~!!


『KANO』九州最後の上映がもうすぐです!

【 『KANO』九州最後の上映がもうすぐです! 】

(2015年4月26日のブログ記事より)

とても素敵なイベントのご案内です!!

日田リベルテさんで、『KANO』の九州最後の上映が予定されていますが、5月9日(土)に映画を上映したあと、観客の皆さまに私の講演を聞いていただこう…というイベントを、リベルテさんが主催してくださることになりましたニコニコ

 

映画の背景や制作秘話に加え、台湾の歴史や『KANO』の世界が現代まで繋がる日台の絆について、お伝えしますニコニコ

 

なんと私は5月2日に台湾から帰国予定なので、ホットな現地情報をお届けできると思いますよ!!

 

当日は午後1時から映画の上映があり、すべて終わるのは午後6時の予定です。

 

私は午前中に所用があり、ギリギリの到着となってしまいますが、お時間のある方は、日本遺産に登録されたばかりの咸宜園を見学したり、天領・日田の素敵な町並みを散策することをオススメします。

 

美味しいお店や雰囲気のあるカフェも、日田にはたくさんありますよニコニコ

 

それにしても、夢って、こんなにあっさりと叶っちゃうんですね~!!

 

5月8日は八田與一さんのご命日ですから、八田さんのお導きかもしれませんね。

 

リベルテさんとのご縁を結んでくださり、具体的にお話を進めてくれたかねちゃん、本当に有り難うございます!!

 

皆さまと『KANO』の感動を分かち合えること、最高に幸せですニコニコ

そして一緒に映画を楽しんだ皆さまと、7月の台湾ツアーで喜びを爆発させられたら、もうこの世に思い残すことはないかも…(笑)

 

夢を大きく超えた素敵な現実に、心が震えますニコニコ


台湾に行ってまいります♪

【 台湾に行ってまいります♪ 】

(2015年4月29日のブログ記事より)

今日から台湾…ニコニコ

半年ぶりの台湾は、どんな表情を見せてくれるのでしょう?

 

昨夜は早寝したかったのだけれど、逆に出発前にやることが山積みで、いつも以上に夜更かししてしまいました。

 

今回は、台南にある飛虎将軍廟のお祭りに参加するのが主な目的ですが、なんとこのお祭り、4時起床の早朝参拝から始まり、なりゆきによっては、夜中の1時ごろまで続くらしいのです。

 

体力はもつんだろうか?
機内で爆睡して鋭気を養えば大丈夫かなぁ。

 

出発前にどうしてもやりたかったこと、その一つが和ごころコラムの更新です。

なんとか間に合ったので、お読みいただけたら嬉しいですニコニコ

http://kotohogi2672.com/colum.html

コラムを読み終わったら、「講演情報」もぜひチェックしてみてください!!

http://kotohogi2672.com/seminar.html

日田でのKANO上映会&講演会(5月9日)、仙台(5月30日)、神戸(6月27日)、桑名(7、8、12月と今年中に3回桑名に伺います)、そして李登輝さんの講演付きの台湾ツアー(7月18~21日)の詳細をご覧いただけます。

台湾滞在中はFBをお休みしますが、皆さま、健やかに素敵な連休をお過ごしくださいね!!

そして台湾ツアーでご一緒させていただく皆さま、どうぞ宜しくお願いいたしますニコニコ


事実は映画を超える・・・!?

【 事実は映画を超える・・・!?】

(2015年5月10日のブログ記事より)

台湾から帰国早々、「台湾に帰りたい♡」とホームシックになっている私のもとに、『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』と『愛されたい!なら日本史に聞こう』の2冊を担当してくださった祥伝社の萩原さん、そして台湾生まれのジョーさんのお二人から、素敵なメッセージが届きましたニコニコ

お二人がご紹介くださったのは、5月9日の朝日新聞の夕刊記事ですニコニコ

夕刊記事の内容は以下よりニコニコ

————————————————————————————-

台湾中部・台中の現存しない住所あてに日本から一通の手紙が舞い込んだ。差出人は日本統治時代の台湾で小学校教師だった106歳の日本人女性。若い台湾の郵便局員が宛先の教え子を探し出し、「映画のような話」と話題を呼んでいる。手紙を機に女性と90歳前後の教え子たちとの交流が再び広がっている。

 

手紙を出したのは、熊本県玉名市の高木波恵さん。小学生だった大正時代に警察官として赴任した父親とともに台湾に移り、約30年間暮らした。中部の台中第一高等女学校を出た後に教師となり、1929~38年の10年間、主に台湾人の子女が通う台中の烏日公学校(現・烏日小学校)で低学年を教えた。

 

手紙のきっかけは、31年に台湾から夏の甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林学校を題材にした映画「KANO」の日本公開だ。高木さんは当時熱心に嘉義農林を応援。中京商との決勝戦は役場でラジオ中継を聞いて声援を送った。この体験について朝日新聞熊本版の取材を受け、台中の教え子たちを懐かしく思い出した。

 

教え子たちの近況を知りたいとの思いが募り、20年ほど前まで手紙のやりとりがあったという楊漢宗さん(87)にあてた手紙を娘の恵子さん(76)が代筆した。手紙は2月末に地元の烏日郵便局まで届いたが、住所表記がその後何度も変わっていて、現在の住所でどこに当たるのか分からなくなっていた。

 

本来なら宛先不明で返送されるところだったが、郵便配達を始めて2年半弱という郭柏村さん(27)は日本からの分厚い手紙に「大事な手紙に違いない」と直感。上司と相談して、宛先人を探し始めた。先輩から「大体この辺りのはず」という助言をもらい、配達のかたわら「この人を知らないか」とたずね回った。

 

■局員、12日かけて届ける
ただ、烏日地区には台湾高速鉄道(新幹線)の駅が出来たことで新住民が急増し、昔のことを知っている人を見つけるのに手間取った。楊さんが前町内会長の楊本容さん(67)の父親だと知る人に出会い、12日かけてようやく手紙を届けることができたという。

 

楊さん自身は高齢で寝たきりになっていたが、手紙に感動した本容さんらが高木さんの教え子たちを探し、約20人を突き止めた。その一人の楊塗生さん(88)は「106歳でお元気だというのを知ってびっくりした。男の先生はとても厳しかったが、高木先生は優しかった」と懐かしむ。

 

教え子らは日本語や中国語で高木さんあてに手紙を書き、写真とともに送るなど師弟の交流が復活。高木さんも「とてもうれしい」と喜ぶ。ただ、足が不自由で、台湾再訪はかないそうにない。教え子もすでに高齢で日本に行くのは難しい。このため、台湾側関係者はインターネットを使ったテレビ対面が出来ないか模索。行政当局などに支援を求めている。

 

「KANO」を制作した魏徳聖さんは、大ヒットした映画「海角七号 君想う、国境の南」(2008年)の監督としても知られる。この映画は、敗戦で日本に引き揚げた日本人男性教師が離ればなれになった台湾人女性への思いをつづった手紙が、今はない日本統治時代の住所あてに届き、郵便局員が女性を探すというあらすじ。高木さんの手紙は映画を地で行くような話として台湾メディアでも取り上げられた。

 

魏さんは朝日新聞の取材に、「台湾で暮らしたことがある人は、どこの人であっても私にとってはみんな身内のような存在。お元気ならぜひ再訪して欲しいところだが、台湾のかつての美しい様子をいつまでも忘れないでいて欲しい」と高木さんあてのメッセージを寄せた。(台中=鵜飼啓)

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記事は以上ですが、その元教師のおばあちゃんの高木さんが、KANOの応援という事と、宛先の不明の手紙を出した事、娘が代筆した事、27歳の若い郵便配達員が必死に人探しをして見つかったこと(ラブストーリーはありませんが)、まるで二つの映画が部分的に合わさり、重なった実話に感動を覚えますニコニコ

 

KANOは実話をもとに映画が制作され、その映画をきっかけに、さらに素敵な実話が紡がれる…ニコニコ

人間っていいなぁ~って、人間愛が深くなってきますニコニコ


謝々、台湾!

【 謝々、台湾!】

(2016年6月15日のブログ記事より)

 

昨日は名古屋で素敵な人に再会しましたニコニコ

写真に写っていらっしゃるのは、台湾の人々から神様のように崇められ、父親のように慕われている、八田 與一(よいち)さんのお孫さんニコニコ

今回は土木に携わる皆さまに講演させていただきましたので、もちろん八田與一さんのお話もさせていただきました!!

 

ご子孫の前でお話しするのって、勇気が要りますね(笑)

 

八田與一さんのお孫さんは、台湾の李登輝元総統にお会いした時に、李登輝さんから直接「日本精神」を伝えてもらったそうですニコニコ

 

台湾における最高の褒め言葉「あなたには日本精神(リップンチェンシン)があるね」!!

 

「日本精神」とは、明確な定義があるわけではありませんが、台湾のおじいちゃん、おばあちゃんの仰ることをまとめると、勤勉、親切、誠実、約束を守る、責任感がある、仕事に誇りを持っている、「自分さえよければ」「今さえよければ」ではなくみんなのことや次の世代のことを考えられる人…そんな意味になります。

 

李登輝さんは、これらの意味に加え、「公に生きる」「決して他人のせいにしない」という要素も挙げていたそうです。

 

かつての日本人の美しい生き方を想像するだけで、身が引き締まる思いですねニコニコ

 

産経新聞によると、台南と高雄の市長さんお二人が熊本を訪れ、1億5千万円を超える義援金を届けてくださったそうです。

しかも、市民に協力してもらうのだから、自分たちも負担を分かち合いたいと、市長としてのお給料1ヵ月分を返上したとのこと。

これぞ日本精神ですよねニコニコ

八田さんの造ったダムや用排水路は、今も台湾の南部の人たちの生活を支えています。

その恩を、台湾の人々は80年以上も脈々と継承してくれているんですね。

ありがとう、台湾ニコニコ


人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう

【 人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう】

(2016年9月3.0日のブログ記事より)

 

昨日の小池百合子知事の所信表明にシビれました!!

なんてったって、後藤新平さんの自治三訣を引き合いに出すのですから、たまらない。「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」…これはまさに、日本人が大切にしてきた“公に生きる”という精神であり、“惻隠の情”に他なりませんね。

 

実は後藤新平さん、公衆衛生を得意とした医師で、民生長官として台湾総督府に赴任し、台湾の都市設計を一手に引き受け、衛生環境を飛躍的に改善させた立役者なのです!!

 

その後藤新平さんが、めぐりめぐって東京市長を務めたときに、関東大震災が勃発。世界を驚かせた東京の奇跡の復興は、台湾の都市設計を見事にやり遂げた後藤新平さんだったからこそ果たせたと言えるでしょう。

 

彼自身、まさか自分の経験が、将来このようなカタチで生かされようとは思ってもみなかったのではないでしょうか!!

 

ただただ台湾の民の幸せを願い、忠実に責務を全うしたら、それが自国の絶体絶命のピンチを救うことに繋がった…。

 

さらに時はめぐり、2011年の東日本大震災の折には、「後藤先生のふるさと・岩手県が津波で大変なことになっている!! なんとかしなければ…」という思いから、義援金や支援物資を寄せてくださった台湾の方々も多かったそうですニコニコ

 

めぐりあわせの不思議さを感じるとともに、まさに「情けは人のためならず」

ご縁をいただいた人々のために、出来ることを精一杯行っていく、そんな人生を送りたいですねニコニコ


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