偉人エピソード

Top頁へ戻る
各偉人名をクリックすると記事一覧が表示されます。記事をクリックしてご覧いただけます(*全てが揃うまでもう暫くお待ち願います)

五十音順(あいうえお)

アインシュタイン

原爆とアインシュタイン

(2010年8月7日のブログ記事より)

20世紀を代表する天才 ・ アインシュタイン。

1922年、講演のため1ヵ月あまり日本に滞在したアインシュタインは、次のような文章を残しています。

『この数週間、私は日本を科学的国家として尊敬するばかりではなく、人間的見地からも愛すべきに至った。

私が1カ月に余る日本滞在中、特に感じた点は、地球上に、日本国民のような謙譲で篤実な国民が存在していたことを自覚したことだ。

世界各地を歴訪した私にとって、このような純真な心持ちのよい国民に出会ったことはない。

また、私の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然に適い、一種独特の価値がある。

私はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。

西洋と出会う以前に日本人が本来持っていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしいものだ。』

それから20数年後の夏…

 

広島 ・ 長崎に原爆が投下されたと聞いた時、大の親日家だったアインシュタインは、「Oh, weh !!(おお、なんということだ!!)」 という

 

悲痛な声をあげ、そのまま絶句してしまったそうです!!

 

原爆の理論的な裏付けとなったのが、特殊相対性理論であったことをご存知の方も多いと思いますが、彼はまた、数名の科学者とともに、時のアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトに、原爆製造を促す意見書を提出していたのです。

 

ユダヤ人である彼は、ナチス・ドイツが原爆の開発をスタートしたことに危惧を覚えました。

 

そして、その抑止力をアメリカに期待したのですが、ドイツ降伏後も連合国と戦い続けていた日本に、まさか原爆が落とされることになろうとは…。

 

彼は、後年、次のような言葉を残しています。

『私は生涯において一つの重大な過ちをしました。
それは、ルーズベルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です。』

 

『もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式(特殊相対性理論)を破棄していただろう。』

 

この二つの発言から、自分がヒロシマ ・ ナガサキの惨禍のきっかけをつくってしまったことに、生涯苦しんでいたことがうかがえます。

 

その後、彼は 「核兵器廃絶と戦争廃止」 を最期まで訴え、平和運動を推進していくことになるのです。

 

私たち日本人がなすべきこと…

それは、戦争経験者が年々少なくなっていく中で、ヒロシマ ・ ナガサキの記憶を語り継ぎながら、唯一の被爆国として、世界にメッセージを発していくことニコニコ

同時に、この天才の苦悩と嘆き、そして平和への祈りを継承していくことも、とても大事なことだと思います。


アインシュタインと日本☆

(2011年8月9日のブログ記事より)

先ほど、正午のニュースで、長崎の平和記念式典の様子が放映されました。

 

66年前の夏、広島、長崎への原爆投下…。

 

この知らせを受けた時、大の親日家のアインシュタインは、「Oh, weh!! (おお、なんということ!!)」 という悲痛な声をあげ、そのまま絶句してしまったそうです。

 

原爆の理論的な裏付けとなったのが、特殊相対性理論であったことをご存知の方も多いと思いますが、彼はまた、数名の科学者とともに、時のアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトに、原爆製造を促す意見書を提出していたのです。

 

ユダヤ人である彼は、ナチス・ドイツが原爆の開発をスタートしたことに危惧を覚えました。

そして、その抑止力をアメリカに期待したのですが、ドイツ降伏後も連合国と戦い続けていた日本に、まさか原爆が落とされることになろうとは…。

 

アインシュタインの親日家ぶりは、あまりにも有名で、1922年、講演のため1ヵ月あまり日本に滞在した彼は、次のような文章を残しています。

 

「この数週間、私は日本を科学的国家として尊敬するばかりではなく、人間的見地からも愛すべきに至った。 私が1カ月に余る日本滞在中、特に感じた点は、地球上に、日本国民のような謙譲で篤実な国民が存在していたことを自覚したことだ。 世界各地を歴訪した私にとって、このような純真な心持ちのよい国民に出会ったことはない。また、私の接触した日本の建築絵画その他の芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然に適い、一種独特の価値がある。 私はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染をしないことを希望する。 西洋と出会う以前に日本人が本来持っていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしいものだ。」

 

アインシュタインが、愛してやまなかった日本…ラブラブ

 

その日本に、原爆が投下された。

しかも、そのきっかけをつくったのは自分だった…。

彼は、生涯、その苦悩から解放されることはなかったのです(;し;)

 

後年、彼は次のような言葉を残しています。

 

「私は生涯において一つの重大な過ちをしました。
それは、ルーズベルト大統領に原子爆弾を作るように勧告した時です。」

「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式(特殊相対性理論)を破棄していただろう。」

 

その後、彼は 「核兵器廃絶と戦争廃止」 を最期まで訴え、平和運動を推進していくことになります。

その平和運動に共感し、真剣に取り組む科学者が、一人、また一人と増えていきました。

その中に、日本人の若き科学者・湯川秀樹の姿もありました。

 

原爆投下そして敗戦から3年、湯川が初めて米国を訪れた時、わざわざ彼を訪ねてきたのが、70歳になろうかというアインシュタインでした。

アインシュタインは湯川に駆け寄ると、彼の両手を握り締めて、激しく泣き出しました。

そして、何度もこう繰り返したといいます。

「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった…許して下さい!!」

世界最高の科学者が肩を震わせて涙に暮れている。

若輩者の自分に対して、何度も何度も詫びながら…。

 

“人間” アインシュタインの良心に触れた彼は、「学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和なくして学問はない」 という考えに至り、以後、積極的に平和運動に飛び込んでいくのです。

 

アインシュタインとの対面から一年…

1949年、42歳になった湯川秀樹は、日本人初のノーベル賞受賞に輝きました!!

 

敗戦からまだ4年、自信を失ったまま傷の癒えていない日本人に、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞という明るいニュースは、大いなる希望と勇気を与えましたニコニコ

 

彼は、ノーベル賞の賞金の一部を奨学金制度設立に用い、後進の育成に務めました。

 

そして、アインシュタインの遺志を生涯の使命として受け継ぎ、1981年に74歳で亡くなるまで、反戦と核兵器廃絶を訴え続けたのです。

 

国立京都国際会館の入口には、湯川秀樹による碑文があります。
『世界は一つ!!』。

 

私たち日本人がなすべきこと…

 

それは、戦争経験者が年々少なくなっていく中で、ヒロシマ ・ ナガサキの記憶を語り継ぎながら、唯一の被爆国として、世界にメッセージを発していくこと。

同時に、この二人の天才の苦悩と嘆き、そして平和への祈りを継承していくことも、とても大事なことだと思います。


井伊 直弼(いい なおすけ)

一期一会♪

(2010年10月26日のブログ記事より)

あるテレビ番組の中で、日本在住の外国人に、「一番好きな日本語は?」というアンケートをとったんですね。

 

1位はどんな言葉だったと思いますか?

 

私の予想では 「ありがとう」 だったのですが…

なんと1位に選ばれたのは、「一期一会」 でした!!

 

日本を好きになってくれる外国人は、シブイというか、表面だけでなく日本文化

の源流を愛してくれているのかなぁ…と思って、感動しちゃいましたラブラブ

 

確かに 「一期一会」 って、日本人の源流というか、日本人が日本人である

ために欠かせないエッセンスの一つだと思いますニコニコ

 

そして 「一期一会」 の精神が、真のおもてなしを生むのではないかしら。

 

近頃 “ホスピタリティー” という言葉をよく耳にしますが、日本流の “おもてなし”は、西洋の “ホスピタリティー” の比ではないですよ!!

 

ホスピタリティーという言葉で思い出すのは、ディズニーランドのサービスですが、

あれはディズニーマジックなんかじゃなく、日本のおもてなしですニコニコ

 

だって私、カリフォルニアのディズニーランドにも、フロリダのディズニーワールドにも、それにパリ郊外のユーロディズニーにも行ったことがありますが、東京ディズニーランドのキャストの皆さんの笑顔とおもてなしの心は、別格でしたもん!!!

 

あ、誤解しないでくださいね。

どちらが優れているという話ではなく、日本のおもてなしの心、そしてそのベースに

ある 「一期一会」 は、世界に誇れるということをお伝えしたいだけです。

そして、以前から 「一期一会」 についての記事を書きたいなぁ…と思っていた

のですが、いつもブログの感想をメールで送ってくださる Yuinozizi さん

(ゆいちゃんっておっしゃるかわいいお孫さんがいらっしゃるから 「ゆいのじじ」なんですってラブラブ) から素敵なメッセージをいただいたので、今回は、皆さんと

シェアさせてください。

 

以下、Yuinozizi さんからのメールを転載させていただきますねラブラブ

 

Hello!! 白駒さん 「Yuinozizi」です。(^_-)-☆

 

セレンディピティーを「幸せな偶然」と直訳するとは、さすがですね・・・!!

 

他の動物には与えられず、人間だけに与えられた能力・・・?

 

それは・・・「想像力」&「選択力」そうです。

 

未来を想像し、今を選択して生きる・・・、これは人間にしか出来ませんね。

 

アフリカのライオンが、もっと素晴らしい環境を想像し、船に乗り込みアメリカ大陸を発見する!!

 

ありえません・・・(笑)

 

私達は、今、どんな辛い環境にいようとも、どんな辛い状況であろうとも、

 

明るい未来、幸せな未来・・・を想像し、その創造にむけて今を選択することができる。

 

 

この人間だけに与えられた、素晴らしい能力を発揮しないと、二度とない人生、

かなり損しそうです。

 

過去は素直に反省し、未来は明るく想像し、今、ここに全力投球。

 

この言葉大好きです・・・(^_^)v

 

一期一会 今日の出会いはただ一度限り

 

江戸幕府の大老で、すぐれた茶人であった井伊直弼が茶道の心得を記した

「茶湯一会集」 によって広まった言葉。

 

初出は千利休の門人・山上宗二による「山上宗二記」とされる。

 

人は一生涯のうちにいったい何人の人と出会うことができるのでしょうか?

今日言葉を交わした人と、今度いつ会うことができるのでしょうか?

 

そう考えたら、一人一人と誠心誠意で接したいと思いませんか?

 

携帯電話が普及して、「すぐ連絡がつくから」 と待ち合わせの時間も守らない人が増えてきているようです。

 

会えればいいじゃないって? いいえ、「時は人を待たず」です。

二度と戻らない時間を無駄にすることを禅はきつく戒めます。

 

「一期」は人の人生、「一会」は唯一一度の出会い。

 

たとえたびたび顔を合わせている相手であっても、今日の茶会、今日のデート、今日の会食・・・

二度と同じ時間を持つことはできない、人生で一度きりの大切な時間なのです。

長年の友人であれ、旅先であった行きずりの相手であれ、二度とこない人生のひとときを共に過ごすのなら、「ああ、楽しい時間だった」「すてきな出会いだった」 と思えるように、真心をこめて接しましょう。

一期一会の精神は、あなたに自身にも返ってきて、より豊かな時間を持てるようになるはずです。

― ふっと背中がかるくなる 禅の言葉より ―


石田 三成(いしだ みつなり)

いしだみつなりに学ぶ“かわいげ”の本質

(2009年8月2日のブログ記事より)

坂本竜馬、吉田松陰、西郷隆盛、豊臣秀吉…

 

歴史に名を残した人で、今も絶大な人気を誇っている人って、かわいげのある人が圧倒的に多いですよねラブラブ

じゃあ逆に、日本史上、最もかわいげのない人物って、いったい誰だろう?

石田三成は、“かわいげのない人物 TOP 10 ”にかなりの確率でランクインするんじゃないかと思います。

 

三成と秀吉の運命の出逢いは、『三献の茶』 のエピソードとして語り継がれています。

 

近江の長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしていましたが、その帰途、喉が乾いて、観音寺というお寺に立ち寄り、お茶を所望しました。

 

対応した寺の小姓は、まず最初に大ぶりの茶碗にぬるめのお茶をなみなみと注ぎ、差し出しました。

 

喉の乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干したあと、もう一杯たのみました。

すると小姓は、やや小さめの茶碗に、やや熱めのお茶を半分ぐらい注いで出しました。

 

秀吉が試みにもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に、舌がやけどするほど熱く点てたお茶を、ほんの少し注いで出しました。

 

相手の様子を見て、その欲するものを出す…!!

この心働きに感じ入った秀吉は、その小姓を城に連れて帰り、家来としたのですが、この小姓が、当時 『佐吉』 と呼ばれていた、

石田三成その人だったのです!!

 

頭の回転が早く秀吉からかわいがられ、常に正論を述べる三成は、同僚たちにしてみれば疎ましい存在でした。

ですから、秀吉の死後、天下を狙う家康に対して関ヶ原の合戦を仕掛けた時も、加藤清正や福島正則など豊臣恩顧の大名たちは、「三成憎し」の想いで家康側(東軍)についてしまいます。

 

これだけ嫌われたら、天下分け目の関ヶ原で勝利するなんて、夢のまた夢です。

三成にもう少しかわいげがあれば、味方も増え、勝利の女神も微笑んでくれたのに…ラブラブ

 

ところが、三成にこの上ない “かわいげ” を感じていた人が、当時、少なくとも3人はいましたニコニコ

 

一人は彼の上司である豊臣秀吉。

もう一人は石田家の家老 ・島左近。

そして最後の一人は、彼の親友である大谷吉継(よしつぐ)です。

 

島左近と三成の関係は、のちに

「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」

と謳われましたが、当時すでに智勇兼備の名将として名高かった島左近を、天正14年(1586年)1月、わずか4万石の石田三成が召抱えることに成功します。

 

なんと三成は、4万石のうちの半分の2万石の知行を左近に与えて、召抱えたといわれています。

この話を聞いた秀吉は、 「君臣の禄高が同じというのは、聞いたことがない。」 と感心し、左近に高価な羽織を与え、「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらったそうです!!

 

そして、大谷吉継と三成の間にも、素敵なエピソードがありますニコニコ

 

大谷吉継は、秀吉に 「100万の兵を与えてみたい」 と激賞された名将ですが、ハンセン病を患っていて、普段から顔や手を布で覆い隠していました。

ある時、秀吉主催のの茶会で吉継に茶碗が回ってきました。彼は飲む振りをして次に回すつもりでしたが、傷口から膿が垂れ、お茶に混ざってしまったのです。

 

当時の人々はハンセン病を感染病と誤解していたので、茶会に列席した武将達は絶句し、一同はすっかり青ざめてしまいました。

哀れなのは吉継です。彼は茶碗を隣りに回せなくなり、場の空気は凍りつきました。

 

その時、立ち上がった三成が、

「吉継!もう喉が渇いてこれ以上待ちきれぬ、早くまわせ!!

と茶碗をもぎ取り、最後の一滴まで飲み干したではありませんか!!

 

ちなみに…古来、日本には、主君に対する忠誠心はありましたが、“友情” という概念はなかったのです。

純粋な “友情” で結ばれた初めての日本人が、三成と吉継ではないでしょうか。

 

三成から家康に対する挙兵計画を打ち明けられた時、吉継は勝算のない戦いはするべきではないと反対しますが、結局、三成を見捨てるわけにはいかず、関ヶ原で壮絶な討死を遂げます。

 

 

他人にあれだけ横柄な態度をとり、疎まれた三成でしたが、秀吉 ・島左近 ・ 大谷吉継の3人は、死の瞬間まで三成を愛しぬきます。

おそらくこの3人は、三成のことがかわいくてかわいくて、たまらなかったんだろうと思います。

 

なぜこの3人は、三成のかわいげを見抜けたのか…。

 

いいえ、この3人が三成のかわいげを見抜いたわけではなく、この3人の前では、たしかに三成はかわいかったのですニコニコ

 

だって、三成は、この3人を尊敬し、慕っていたのですから。

 

 

私は、“かわいげ” こそが人間の持つ美徳の中で最も尊いものと思っていますが、これって、天性のものと誤解している人が多いんじゃないかしら?

 

生まれつき 『かわいげのある人』 と 『かわいげのない人』 に分かれるって、思ってないですか?

 

私は、かわいげのない人って、世の中にいないと思います!みんな “かわいげ” を持っているけれど、それを素直に出せる相手と、出せない(出したくない?)相手がいるだけなのではないでしょうか。

 

人は誰でも、相手に好意を持っていれば、その人の前では

『かわいげのある人』 になれますラブラブ

 

あの切れ者の石田三成でさえ、3人の前ではめちゃめちゃかわいかったんですから…ニコニコ

 

ということは、自分の器が大きくなって、周りの人みんなを受け入れられるようになって、みんな大好きになっちゃえば、随所で “かわいげ” が発揮されるようになりますよね!!

 

そしたら、みんなから愛され、神様からも愛され…素敵な人生になること間違いなしですニコニコ

 

かわいげを育む力…それは、“人のいいところ、素敵なところを見つける能力” であり、“受容力” なんじゃないかなぁ。


歴史から学んだ共感力☆

(2011年5月25日のブログ記事より)

以前は、接遇や接客マナーについての企業研修のご依頼が多かったのですが、近ごろは、マナーにプラスして、コミュニケーション能力をアップさせるようなカリキュラムを組んでほしいというお声を、多数いただくようになりました。

 

それで、私自身、コミュニケーションについて深く考えるようになったのですが、コミュニケーションで最も大切なものは何かというと、私は、相手に共感することだと思っています!!

 

共感といっても、すべて 「あなたに賛成します」 「あなたのおっしゃる通り」 ということではありません。

 

一人一人、違った考え方や意見を持っていて当然なので、相手に同意できる時もあれば、「私はこう思う」 と別の意見を主張する時があっていいと思います。

 

私が考える “共感” とは…

 

相手と違う意見だったとしても、相手を全否定するのではなくて、「私は別の考えを持っているけれど、あなたがそういうふうに考えているということ、あなたがなぜそういう行動をとったかということは、わかりました。あなたの想いは理解できます。」

 

と、相手の想いに寄り添うことラブラブ

 

そんな優しさを持てば、考え方が違う人と同志や仲間にはなれなくても、いいライバルになれたり、いい人間関係が生まれると思うのです。

 

なぜ、そんなふうに考えるようになったのかというと…歴史のおかげなんです。

 

私たちが学んできた歴史って、勝者の歴史なんですね。

 

勝者の価値観で、歴史上の人物たちの行ったことを、善と悪に分けているのです。

 

だから、支配者が代われば、歴史上の人物に対する評価も一変します。

 

 

例えば、石田三成。

徳川家康に天下分け目の戦いを挑んだ男。

 

 

徳川家康が日本史上最大のヒーローだった江戸時代には、三成こそ最大の悪人で、豊臣家を滅亡させたのは、この三成と淀殿であるという見方が一般的だったと思うのです。

 

 

でも、明治時代になると、新しい為政者たちは、徳川の世は暗黒の時代だった、その世の中を改革したのが我々だ…と言いたいわけですから、三成悪人説は、下火になってきます。

 

そして、敗戦後、日本はまたたく間に復興して “エコノミックアニマル” と呼ばれるぐらい経済力をつけていきましたが、経済至上主義のもとでは、三成は偉大な経済官僚として再評価されています。

 

私は、それらの評価は、嘘ではないけれど、ある一面からしか見ていないのではないかと思います。

 

 

その人が、どう生きたかを知りたい…

 

そのためには、その人のやったことだけでなく、その人がどういう想いで生きていたのか、その想いを想像し、その人の想いに寄り添うことが大切だと考えたのです。

 

そんなふうに歴史と向き合うようになったら…

不思議なことが起こりました!!

 

 

嫌いな歴史上の人物が、いなくなってしまったのですニコニコ

 

 

もちろん、みんな同じぐらい好きというワケではなくて、特に思い入れの強い人とそうでもない人はいます。

 

でも、嫌いと思っていた人も、本当はこんなにかわいい人だったんだぁ~って、その人のかわいげに気づくようになったのです。

 

けっして受け入れることのできない人が数多くいると、生きることがきつくなってきますね。

 

 

逆に、積極的に好きとはいかないまでも、共感できる部分を見つけて、周りの人たちを受け入れることができるようになると、自分にも優しくなれて、優しい時間が過ぎていきます♡

 

 

優しさのベースは、共感力なんじゃないかな!!

 

 

そして、共感力を磨くことで、自分自身の魅力もどんどん輝いていくような気がしますニコニコ

 

ただ、実際、自分を取り巻く人々に共感するって、けっこう難しいかもしれませんね。特に、親や上司に対しては、共感よりも反発を感じがち…。

 

だから、歴史を通して共感するお稽古をするといいですよニコニコ

 

 

人生に悩んだら 「日本史」 に聞こう~ 幸せの種は歴史の中にある ~

この本は、史実を正しく伝えるというよりは、私が、大好きな歴史上の人物たちの想いに寄り添いたくて、書いた本です。

 

 

自分で言うのも気恥ずかしいですが、かなり愛が溢れている一冊ですニコニコ

 

愛すること、愛されること、それはテクニックではないと思うのです。

 

心からの愛を歴史に注ぐ体験、ぜひしてみてくださいね♪♪


和泉式部(いずみしきぶ)

モテる女の方程式☆

(2011年1月24日のブログ記事より)

先日、明石家さんまさんが司会をする 『ほんまでっか!?』 という番組で、真の女性磨きについて、心理学者や脳科学者の方々が、とても興味深いコメントをおっしゃっていました。

 

まず…

女は平均値で恋をする!!

 

例えば、「淋しげな目が好きだから、この人と結婚しよう」 とは思わない。

 

容姿、性格、学歴、職業、年収…そういったもののすべてを考慮し、平均値をはじき出す。

その平均値が高ければ、恋愛や結婚に発展するのですニコニコ

 

じゃあ、男性の場合は…??

 

男性は、「一点豪華主義」 だというのです!!

 

それぞれにこだわるところは違うけれど、そのこだわるところにドンピシャ当てはまる女性と恋に落ちるのだとか…♡

 

そういえば、西郷隆盛が、妻以外に関係を持った女性は、全員大柄だった(縦横ともに) と言われていますし、学生時代に仲が良かった男子学生は、「足首が細い女の子に弱い」 って言ってたもんなぁニコニコ

 

この男性と女性の違いをちゃんと認識しないと、トンチンカンな自分磨きになってしまいますね。

 

つまり、女性は、自分が平均値で男性を好きになるから、女性磨きをしようと思ったと時に、ついつい平均値を上げようとする…。

 

でも、もしそれが素敵な恋をゲットするためであったり、男性にモテたいと思っているのであれば、方向性がずれているかも…( ;∀;)

 

要は、あなたにないものを新たに身につけるのでなく、あなたに本来備わっている魅力 (=個性) を、磨いていけばいいのですね!!

 

必要なのは、“change” より “charge” なんですラブラブ

 

さんまさんの番組では、もう一つ名言が生まれました♪♪

 

女性のモテの方程式は、

魅力 × スキ (隙)

だと言うのです!!

 

これも、「な~るほど」 と唸ってしまいました。

 

確かに、美人だからモテるというわけでもないですもんね。

 

この方程式が見事に当てはまったのが、平安時代の歌人 ・ 和泉式部ではないでしょうか。

 

中流階級の貴族の娘として生まれた和泉式部は、同じく中流貴族の橘 道貞と結婚し、娘 (小式部内侍) を授かります。

 

けれども、この婚姻は破綻し、彼女は、冷泉天皇の第三皇子 ・ 為尊親王と恋に落ちますラブラブ

 

平安時代にワイドショーがあれば、この身分違いの恋が大きなニュースとなり、全国を駆け巡ったでしょうが、実際も、都ではかなりのセンセーションを巻き起こし、和泉式部は親から勘当されてしまうんです(;し;)

 

ちなみに、平安時代は、男性が妻の実家に夜だけ通う “通い婚” が普通で、たとえ夫婦関係が破たんしても、実家がしっかりしていれば、女性は生きていけたんですね。

 

この世紀の大恋愛は、意外な結末を迎えます!!

 

二人の出逢いから2年…為尊親王は、26歳の若さで亡くなってしまうのです(;し;)

 

出逢いから2年なんて、おそらく、二人の恋は幸せの絶頂にあったのではないでしょうか…そう考えると、彼女の悲痛な気持ちが胸に迫ってきます。

 

為尊親王が亡くなる前に、和泉式部はこんな素晴らしい和歌を詠んでいます。

 

♪ あらざらむこの世のほかの思ひ出に

いまひとたびのあふこともがな ♪

 

この歌には、「いつになく病いが重いのを感じて、愛する人に送った歌」 という注釈がついていて、「私が死んであの世に行ってしまった時、この世のことを思い出す唯一の手がかりとして、もう一度だけ、ぜひともお逢いしたい…」

という切実な恋心が込められています。

全身全霊で為尊親王を愛し、失った和泉式部は、悲しみにくれます。

 

この悲しみを癒してくれたのは…

為尊親王の4歳年下の弟 ・ 敦道親王でした!!

 

敦道親王は、初めは、兄を亡くした悲しみを分かち合う相手として、兄の愛した和泉式部に慰めの手紙を送ったのですが、手紙を通じての交流が続くうちに、彼女の魅力のとりこになっていったのでしょう。

 

彼女も、10歳近く年下の敦道親王を初めは子ども扱いしていましたが、愛した男の面影を宿す敦道親王の容姿と誠実な人柄に、しだいに惹かれていったのではないでしょうか。

 

やがて、敦道親王は、彼女と別々に暮らすことさえ耐えられなくなり、強引に彼女を自邸に住まわせます。

その屈辱に、王妃は家出をしてしまったほどです。

 

結果、二人の熱愛は、またもや都を揺るがす大スキャンダルとなります!!

 

ところが、この恋も、あっけなく終わりを告げます。

 

為尊親王に続いて、敦道親王までも、28歳の若さで病に倒れ、亡くなってしまったのです(;し;)

二人の出逢いから4年余りが経っていました。

 

彼女は、悲しみにくれ、挽歌を124首もつくりました。

「つくった」 というよりは、心の奥底から 「わき出てきた」 のでしょう。

 

♪ 黒髪の乱れも知らず打伏せば

先づ掻き遣りし人ぞ恋しき ♪

 

平安朝の貴族社会では、現代に生きる私たちが想像もできないくらい女性の髪は長く、長くて黒々とした髪が、美人の絶対条件でもありました。

 

その長い黒髪は、ふだん寝ている時には、枕の上部にきれいに整えられていたのですが、この歌は、「黒髪の乱れ」 となっていますから、当然、情事の後の情景だろうと想像されます。

 

和泉式部は、その時、すぐに自分の髪を愛おしげに掻き撫でてくれたあの人が、恋しくてたまらない…と歌っているのですね♡

 

肉体の生々しい記憶と、その彼を失った悲しみの深さが伝わる、素晴らしい歌だと思います。

 

この時代、自分の心を吐露するというよりも、和歌の技巧に走った恋の歌が主流を占める中で、彼女の遺した歌は、異彩を放っています。

 

いま、「断捨離」 という言葉が流行っていて、執着を手放すことが美徳とされていますが、千年の昔に和泉式部が示した生き方は、まるでその逆、

潔いほどに恋にあがき、執着を持ち続けることを、自らが積極的に望んでるような印象さえ与えます。

 

皇位継承権のある身分高き二人の男性からこんなにも深く愛された和泉式部を、紫式部は、「けしからぬかた」 と表現していますし、藤原道長も 「浮かれ女」 と軽蔑しています。

 

けれども、きっと彼女は、「軽蔑したい人はすればいい」 と、自分の生き方に誇りを持っていたような気がするんですね!!

 

「この女から愛されたい」 と男性に思わせる魅力と、

全身全霊で男を愛する「惚れっぽさ、かわいらしさ」 = 隙 が、彼女には備わっていたのではないかと思います。

 

モテる女の方程式は、歴史が証明していますねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

伊能 忠敬(いのう ただたか)

56歳からのチャレンジ①

(2009年8月28日のブログ記事より)

伊能 忠敬…歴史に興味のない人も、名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう?

 

江戸時代に徒歩で日本を縦断して、精巧な日本地図を残した人ですニコニコ

 

彼の残した日本地図、あまりに正確で、その技術に度肝をぬかれますが、

もっと驚いたことに、彼の日本史上に燦然と輝くこの事業は、50歳を過ぎてからすべてが始まったんです!!

 

現代とは違い、“ 人生50年 ” と言われていた江戸時代ですよ!!

この年齢で新しいことにチャレンジするなんて、素敵すぎます!!

 

じゃあ、50歳まで何をしていたのか…?

 

忠敬18歳の時、下総の国(今の千葉県)佐原にある造り酒屋 ・ 伊能家に婿養子に入ります。

この時、伊能家の家業は衰え、危機的な状態でしたが、忠敬には経営の才があったのでしょう。約10年間で完全に経営を立て直し、さらに家業の拡大に成功しました。

 

1783年(忠敬38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済したと言われていますが、この功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許されます。

 

婿養子としての責務を必死に果たす忠敬でしたが、毎日、夜になると家を出て行くために、店の者たちはみんな心配して 「だんな様は浮気でもしているのではないか」とささやきあいます。

ある日、思い悩んだ妻が、外出する忠敬の後をつけてみると…

なんと彼は、野原にゴロンと横たわり、飽きずにずっと空を眺めているではありませんか!!

 

「こんな所で何をなさっているんです?」

という妻の問いかけに、忠敬は…

「星を見ているんです」

 

そしていろいろな星の話を妻に聞かせてあげたそうです。

 

仕事ができて経済力があり、それでいて少年の頃の夢を大事に育てているロマンティストな忠敬…そんな男性に、女性は、昔も今も、弱いのです!!

この時、妻は忠敬に惚れ直したそうですよラブラブ

 

やがて50歳を迎えた忠敬は、29歳の長男に家督を譲り、隠居します。

晴れて自由の身となった忠敬は、翌年、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強するために、江戸へ出ました。

浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局 (れききょく) があったからです。

 

江戸に出た忠敬は、この当時の天文学の第一人者 ・ 高橋至時(よしとき)に弟子入りします。

この時、高橋至時32歳、忠敬は51歳。

 

経営者として成功した過去の栄光や自分の方が年上だというメンツを捨てた、忠敬の挑戦が始まりました。

一方、至時は至時で、当初、忠敬の入門を “年寄りの道楽” だと思っていました。

けれども、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、いつしか彼を“推歩先生”(すいほ=星の動きを測ること) と呼ぶようになりました。

 

こうして、歳の離れた師弟は、深い絆で結ばれるようになったのですニコニコ

 

伊能忠敬の壮大なチャレンジ、これはまだまだ序章にすぎませんが、続きは明日…ラブラブ


56歳からのチャレンジ②

(2009年8月28日のブログ記事より)

その頃、日本人にとって謎だったのは、“いったい地球の大きさはどれくらいなのか”ということでした。オランダの書物から、「地球が丸い」ということを知ってはいましたが、大きさがよく分からなかったのでです。

 

忠敬は、ある方法を思いつきます!!

北極星はほぼ真北にあってほとんど動かないため、「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで、緯度の差がわかり、同じ経線上の2地点の距離と緯度の差がわかれば、地球は球体なので外周が割り出せる」と考えたのです。

 

この2つの地点は、遠ければ遠いほど誤差が少なくなります。

師弟は考えました…江戸からはるか遠方の蝦夷地 (北海道) まで距離を測ってみてはどうだろうか、と。

当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、その許可を得るために至時が考えた名目こそが、“地図を作る”というものだったのです!!

 

当時、蝦夷地周辺には外国の艦隊が現われていましたが、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなったのです。至時は、そこに目をつけたのでした。

 

結果、幕府は、至時の計画を許可します。

ただし幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だったのです!!

 

忠敬は、「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい。」という手紙を幕府に送り、寛政12(1800)年閏4月19日、測量の旅に出ました。

忠敬55歳のことでした。

 

“ 測量 ” といっても、この時代には機械がなく、人の足で測るしか方法がありません。

人の足と方位磁石だけを頼りに緻密な海岸線を描いていくという、気の遠くなるような作業が続けられました。

目撃者の記録には、「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」 と簡単に記されているだけですが、シンプルな記述ゆえに、現代に生きる私たちの想像力はよけいにかきたてられるのでしょう。

 

享和3(1803)年、3年間をかけて蝦夷地・東北・中部地方の測量を終え、江戸に戻った忠敬は、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取りかかりました。

その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、ともに約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したといいます。

 

この時忠敬が弾き出した数値は、現在判明している地球の外周と比べても、千分の一の誤差しかない正確なものだったのですから、本当に驚きです!!

 

けれども、この喜びの中、至時は結核で病の床につき、翌享和4(1804)年、41歳の若さで世を去りました。

以後、忠敬は、毎朝欠かさずに至時の墓の方角を向いて、合掌したそうです。

至時の死から7ヵ月後、忠敬は東日本の地図を作製し、幕府に献上しました。

11代将軍家斉はじめ幕府の閣僚は、そのあまりの精密さに、息を呑んだといいます。

 

そして忠敬に、「西日本も含む日本全土の地図を作製せよ」という幕命が下されました。

彼の測量は、もはや個人の夢を超えた、正式な国家事業と位置付けられたのです。

 

さぁ、明日はいよいよクライマックスです、お楽しみに…ラブラブ


56歳からのチャレンジ③

(2009年8月29日のブログ記事より)

文化2(1805)年、忠敬は、再び江戸を出発し、西日本に向かいました。

 

けれども、西日本の測量は、60歳を越え体力が衰え始めた忠敬には、ひじょうに過酷なものでした。当初、3年で測量を終えるはずが、予定の3年が経っても、九州は全くの手付かず状態。

 

ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には、「歯は殆ど抜け落ち、一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」 と書かれていました。

 

老齢と闘う忠敬に、悲劇が追い討ちをかけます。

忠敬が頼りにしていた測量隊の副隊長が、五島列島でチフスに罹り、亡くなってしまったのです。

忠敬の心は、いかばかりだったでしょう。

 

師匠、そして部下の死という大きな悲しみを乗り越え、日本全土の測量を成し遂げようと、決意を新たにする忠敬…。

 

そして迎えた文化12(1815)年2月19日!!

 

九州から戻った忠敬は、東京・八丁堀で最後の測量を終えました。

この時、忠敬70歳。

56歳からチャレンジを始めて約15年、測量のために彼が歩いた距離は実に4万キロ、これは地球一周分に相当します!!

 

蝦夷地から戻った忠敬が、地球の外周を計算しましたが、その数字と、忠敬が踏破した距離が一致するというのは、とても感慨深いものがあります。

 

忠敬に残された仕事は、各地の地図を一枚に繋ぎ合わせることでした。

地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入りました。ところが、既に高齢になっていた忠敬には、この仕事を成し遂げるだけの

体力が残されていませんでした。

 

彼は肺を病んで、病床に伏してしまいます。

そのまま回復することなく、伊能忠敬は、文化15(1818)年、73歳で病没しました。

 

忠敬の遺志を継いだ高橋至時の息子 ・ 景保や弟子たちは、忠敬の死を伏せて地図の完成を目指しました。

「この日本最初の実測地図 “大日本沿海輿地(よち)全図” は、伊能忠敬が作ったものである。」ということを、世に知らしめたかったからです!!

 

文政4(1821)年、江戸城大広間。

幕府の重鎮が見守る中、ついに “大日本沿海輿地全図” が広げられました。

3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだったそうです。

 

忠敬の喪が公表されたのは、その3ヵ月後のことでした。

 

この地図の後日談には、さまざまなエピソードがありますニコニコ

 

文政11年(1828)年、世に言う “ シーボルト事件 ” が起こります。

オランダ商館の医師として来日していたシーボルトが、帰国の際に日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰され、シーボルト自身も国外追放になったのです。

 

この時、シーボルトが持ち出そうとしたのが、忠敬の地図の縮図でした。

 

さらに、忠敬の死から35年後の嘉永6(1853)年、ペリー来航をきっかけに、日本史は幕末の騒乱を迎えます。

欧米列強は、鎖国状態にあった日本を、未開の文明後進国だと決めつけていました。

 

ところが、西洋の器具や技術を持たない日本に、世界水準の地図が存在したのです!!

忠敬の地図を見た西洋の知識人たちは、その精度の高さに驚嘆し、日本を見下すことを改めたといいます。

 

忠敬の墓地は、上野源空寺にあります。

師である高橋至時と、師の息子であり、のちにシーボルト事件で獄死した高橋景保とともに、伊能忠敬の魂は眠っているのです。

 

忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られているそうです。

『忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った』 と。

 

伊能忠敬の生き方は、私たち日本人にさまざまなことを示唆しています。

 

夢を持ち続けることの尊さ、人間の可能性、歴史の中で与えられた使命etc.…。

 

 

けれども、結婚コンサルタントという仕事をさせていただいているわたしが最も感銘

するのは、忠敬が良き家庭人と自己実現を両立させた点です。

 

最近、結婚しない男女が増えていますが、その理由として彼ら・彼女たちが挙げるのが、「結婚が自己実現の足かせになる」ということです。

 

「仕事と家庭、どちらが大事?」

「愛とお金、どちらを選ぶ?」

という二者択一の問題ではなく、それらのバランスの上に幸せがあるのではないでしょうか。

 

忠敬の生涯を振り返りながら、自分にとっての幸せとは何かを考えてみるのも、

秋の夜長の素敵な過ごし方かもしれませんね。


土地にもDNAがある!!

(2013年7月30日のブログ記事より)

東京子連れ旅から帰り、久しぶりのわが家です。
東京では、子どもたちを妹にあずけたので、仕事に全力投球できましたよニコニコ

今回、伊能忠敬ゆかりの佐原で初めて講演させていただき、念願の伊能忠敬記念館に行ってきました。

それはもう、初恋の人に何十年かぶりで再会したような感動がありました。

忠敬の地元愛や苦心の末に成し遂げた測量、見事な出来栄えの日本地図など、もうファンにはたまらない展示の数々…。

ところが、忠敬の感動のストーリーは、現代まで続いていたのです!!

佐原で生まれ育った男性が、東京に出て、起業し、大成功を収めました。

子宝に恵まれなかったこの男性は、晩年になって、事業を整理し、築き上げた財産をふるさとへの恩返しとして寄付。

「ぜひ伊能さんの記念館を造ってください」との彼の思いにこたえ、総工費5億円で建設されたのが、この記念館なのだそうです。
ああ~、地域社会のため、未来の日本のために尽くした忠敬の愛が、今も息づいているんですね、佐原の地に…♪

 

私は日本人のDNAについてお話しさせていただく機会が多いのですが、その土地のDNAっていうのもあるんじゃないかと思うんです。

佐原のDNA、それは利他の心なのかもしれませんねニコニコ


生涯現役!!伊能忠敬の深イイ言葉をご紹介します!!

(2015年2月9日のブログ記事より)

おはようございます♪

けさのテレビ番組で、伊能忠敬のステキな言葉が紹介されました。

「人間は、夢を持ち、前へ歩み続けるかぎり、余生はいらない」

人生50年と言われた時代に、50歳まで商人として地元の発展に尽くし、その後、本格的に天文学を学び、自分の夢を叶えた、生涯現役の忠敬ならではの言葉ですね♡

その夢は、やがて「未来の日本人のため」という志に昇華され、日本初の実測地図=大日本沿海與地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)として結実しました。

その志の深さと高い技術力、これこそが“ザ・日本人”と言えるのではないでしょうか。

忠敬の死後、彼の遺志を継いで地図を完成させた弟子たちの存在とともに、忠敬の「これぞ日本人!!」という生きざまを、美しい日本人の物語として語り継いでいきたいですねニコニコ

それでは皆さま、今日も笑顔でステキな一日をお過ごしくださいね!!


準備中です
暫くおまちください

上杉 鷹山(うえす ぎ ようざん)

究極の師弟愛♪

(2010年8月31日のブログ記事より)

アメリカ合衆国第35代大統領に就任したジョン・F・ケネディ。

ある日、ケネディ大統領が、日本人記者団のインタビューを受けました。

「あなたは、日本人の中で尊敬する人がいますか。」

すると、即座にケネディが答えました。

「私は、日本人では上杉鷹山(ようざん)を尊敬します。」

「上杉鷹山…?」

その場にいた日本人記者のうち、だれ一人として上杉鷹山の名前を知っている者はおらず、ケネディの言葉に皆がびっくりした…という話は、あまりに有名ですね!!

 

鷹山とは、藩主引退後の号であり、現役時代は 『治憲』 を名乗っていましたが、ここでは、『鷹山』 と呼ばせていただきますね。

 

日向 ・ 高鍋藩の秋月家の次男坊として生まれた鷹山は、9歳の時、名門 ・上杉家の養子となります。

 

上杉家は、関ヶ原の戦後処理で会津120万石から米沢30万石に減封され、さらにその後の家督相続の混乱で、15万石にまで領地を減らされました。

ところが、上杉家は、会津時代の家臣団6000人を召し放つことをせず、家臣たちも上杉家へ仕えることを誇りとして離れなかったため、他藩とは比較にならないほど人口に占める武士の割合が高く、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。

 

そしてついに鷹山が17歳で家督を継いだ時、上杉家の借財は20万両に達していたと言いますから、藩財政は破たん寸前でした。

前藩主・重定は、領地を返上して領民救済は公儀(幕府)に委ねようと本気で考えたと言われています。

 

この泥舟のような米沢藩の財政を、鷹山は、どのようにして立て直したのか…

この奇跡のドラマは、鷹山14歳の時、生涯の師となる細井平洲 (へいしゅう)との運命的な出逢いから始まったのです!!

 

江戸にある米沢藩邸では、来る日も来る日も、平洲が鷹山に治者としての心得 ~ 誠と慈悲と慎みの心 ~ を説いています。

 

『経済』 というのは、「経世済民」 の略です。

「経世」 とは乱れた世を整えるということ、済民とは、苦しんでいる民を救うということです。

したがって、『経済』 というのは、単なる銭勘定ではなく、その背後に、民を愛する政治を行うという姿勢がなければなりません。

治者は民の父母となり、世の親のような気持ちになって政治を行うのです。

世の親は、子供が飢えていれば自分の食べる食事も差し出します。

また子が勉強したいのにもかかわらず資金が足りなければ、自分の生活費を削ってでも子に学費を送ります。

こういう愛が政治にも必要でしょう。

 

鷹山は、17歳で藩主となると、平洲の教え ~ 誠と慈悲と慎みの心 ~ を、次々に実践していきました!!

 

まず、藩主自らの生活費を、1500両から209両余りに減額。

日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らしました。

 

こうして自ら率先して倹約を行いながら、家臣たちには帰農を奨励しました。

鷹山の改革により、武士たちが荒れ地を開墾して新田を開いたり、橋の修復をしたり、また武家の妻女たちも織物にいそしむなど、従来の武士階級のしきたりを離れて、生産活動に従事するようになっていきました。

農民や職人たちに対しても、新しい作物をつくったり特産物を増やすことを奨励したので、やがて米沢藩では、米や麦の生産量も増え、お金になる漆や絹織物などもつくられるようになり、藩財政が少しずつ改善されていきました。

 

さらに、鷹山は、飢饉に備えて、非常食も普及させました。

 

また、鷹山の改革には、現代の年金や子ども手当に相当するような制度もあったと言われています。

70歳以上の老人は村全体で面倒をみたり、貧しくて結婚できない若者には土地を提供したり…。

 

 

このように、鷹山は、平洲の教えを守り、まさに民の父母となり、民と労苦を 分かち合う…という姿勢を貫いたのです!!

 

次に、鷹山は、「人づくり」 を改革の大きな柱に据え、米沢に、興譲館という学校を開きました。

 

「治者に父母としての愛情を求める一方、人民の側にも、子として学問の道にいそしみ、国家有用の人材となることを期待する。」 という平洲の教えを、実現しようとしたのです。

 

 

平洲は、鷹山に請われ、生涯に3度、江戸から米沢を訪れました。

 

米沢を訪れた平洲は、興譲館で武士たちに講義をする一方、農民や町人たちに対しても、身分や性別や年齢に関係なく、学問を授けました。

 

平洲の講義を聞いて、感動で涙する人々…。

江戸時代の庶民の向学心というのは素晴らしく、彼らの熱気には頭が下がりますねニコニコ

 

平洲が最後に米沢を訪れたのは、彼が69歳の時。

2度目の訪問から13年、鷹山と平洲が師弟の契りを結んでから、30余年が経っていました。

鷹山にとっては、夢にまでみた恩師との再会です!!

 

その再会に際して、なんと、鷹山自らが、お城から10キロほどもある普門院というお寺までわざわざ出かけていって、平洲を出迎えたのです。

 

身分制度上、あり得ないことでした。

 

驚き、感激したのは、師の平洲です!!

 

「本来なら、平伏すべきところですが、もし、私が平伏すれば、鷹山公もそれに応え、地に手を当てて答拝なさるでしょう。ですから、失礼なのは承知の上で、こうして、最敬礼させていただきます。」

 

この時、鷹山は、平洲の手を取らんばかりに肩を並べて歩き、寺の中へ案内しました。

 

 

師弟の目には涙、そしてこの様子を見ていた近隣の村民たちも、みな深く感動し、声を忍んですすり泣いたということです。

 

今でも、米沢の普門院のある関根という所は、「敬師の里」と呼ばれ、私たちに師を敬うことの尊さを教えてくれています。

 

たった一つの出逢いで、人生が変わる…

その出逢いが、今日あるかもしれないと思うと、生きることが愛おしく思えてきますね♪♪


上杉鷹山の優しさの秘密♪

(2010年9月1日のブログ記事より)

前回のブログは、上杉鷹山と細井平洲の師弟愛をテーマに書かせていただきましたが、今回は、鷹山の 「人としての優しさ」 にスポットを当てたいと思います!!

 

前回のブログでご紹介した通り、鷹山は、日向高鍋藩 ・ 2万7千石の秋月家の次男坊として生まれ、9歳で上杉家の養子となります。

米沢藩主 ・ 上杉重定の正室に男子がいなかったので、鷹山は、重定の正室が生んだ幸姫 (ゆきひめ) と将来結婚することを前提に、この養子縁組が決まったのです。

 

 

2万7千石の部屋住みの身が、一転、15万石の大名、それも室町幕府の重職 ・ 関東管領を世襲してきた名門 ・ 上杉家を継ぐ立場となったのですから、まさに逆玉!

 

 

ところが、この結婚には、悲しい現実が待ち受けていました。

鷹山は、幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかったのです。

 

幸姫には、脳障害と発育障害があったと言われていて、彼女の心と体は、10歳にも満たない幼女のようでした。

 

彼女は1769 (明和6) 年に鷹山と婚礼を上げ、1782 (天明2) 年に30歳で死去するという短い生涯を送りましたが、鷹山は、側室も置かずに、この幸姫をその短い晩年まで慈しみ続けました!!

 

幸姫を相手にひな飾りや玩具遊びをする鷹山の姿を思い浮かべるだけで、胸がいっぱいになりますねラブラブ

 

一説によると、父親の重定は、鷹山に家督を譲ってからは米沢に隠居し、江戸藩邸の娘とは幼少時から顔を会わせていなかったために、娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘に対する鷹山の心遣いに、涙したと言われています。

 

後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方を側室に迎えたのは、幸姫が亡くなってからのことでした。

 

その後、鷹山は、35歳の若さで隠居し、実子がいたにもかかわらず前藩主 ・重定の実子 ・ 治広に家督を譲ります。

おそらく重定の存命中に治広に家督を継がせることで、養父を安心させたいと思ったのでしょう!!

 

このように無類の優しさを持った鷹山…ニコニコ

その優しいまなざしは、死者にも向けられました。

 

今でこそ 『愛』 と 『義』 に生きた武将として大人気の直江兼続ですが、当時の米沢では、主君 ・ 上杉景勝を誤らせ石田三成と結んで徳川家康に刃向かい、主家である上杉家を窮地に陥れた奸臣とされ、不人気きわまりない存在でした。

 

この兼続の200回忌が、鷹山の存命中に行われたのですが、鷹山は、200回忌の法要に際して、香華料を捧げたのです。

 

上杉家を窮地に陥れた…というのはあくまで結果論。

運が味方しなかっただけで、兼継の上杉家への忠誠心は絶大であり、上杉のために生涯を捧げたと言っても過言ではありません。

さらに、上杉家が会津120万石から米沢30万石に減封されると、家臣とその家族3万人を養うために、誰よりも心を砕いたのが、兼続でした。

 

その兼続に、天下の名君 ・ 鷹山が尊崇の念を抱いていることがわかると、兼続の汚名は晴れ、正当に評価されることになったんですね。

 

歴史という結果でなく、過去に生きた人々の想いに寄り添おうとする鷹山の優しさ、私たちも分かち合いたいですねニコニコ

 

ところで、鷹山の優しさの秘密…それは、思いがけないところにありました♡

 

鷹山を支えていたのは、子どものように純粋無垢な幸姫の笑顔だったのですラブラブ

 

二人が夫婦となったのは、鷹山が上杉家の家督を継いでまだ間もない頃でした。

 

破綻寸前の藩財政を立て直すために、鷹山は、細井平洲先生の門下生として江戸藩邸でともに学んだ家臣たちを登用し、次々に改革を断行していきましたが、若き新藩主の旧習を破る行為は、低禄の家臣や領民の貧困をよそに長年特権の上にあぐらをかいてきた上級家臣や老臣たちの反発を招きました。

 

そしてついに1773年、譜代の老臣7名が、鷹山に対して反旗をひるがえし、これまで鷹山を中心に改革派が推し進めてきた政策をすべて否定すると

いう訴えを起こしたのです。

「七家訴状」 と呼ばれる45ヵ条からなる訴状には、鷹山に対する批判や、鷹山側近に対する不満、新政策への非難が綴られていました。

 

この重大な局面に際し、鷹山のとった行動は鮮やかでした。

一応の審査ののち、訴状の出された3日後には、7人の重臣すべてを、切腹あるいは閉門、減知するなど、果断な処分を下したのです。

 

人としての優しさと、改革者としての厳しさ ・ 強さを併せ持った鷹山…。

 

さらに、養子という微妙な立場、改革に対する不退転の決意…鷹山は、言いようのない孤独感を抱えていたんじゃないかと思います。

 

その孤独感を、幸姫の無邪気な笑顔が救ったのではないか…

 

傍目には、不遇とも思える幸姫との結婚生活が、鷹山の優しさの秘密だったのかもしれません。

 

そう考えると、人間関係って、本当に不思議で素晴らしいですね。

 

一方的な関係なんてありえない、常にお互いさまなんですよね。

 

与えることと受け取ることが表裏一体であることに気づいた時、周りの人たちへの感謝の気持ちがあらためてわき上がってきますねニコニコ

こんな素敵な気づきをシェアしてくださったプラケアさん、ありがとうございますラブラブ


民の父母

(2012年10月28日のブログ記事より)

筑前の小京都・秋月に行ってきましたラブラブ

秀吉の九州征伐の折、秀吉に抵抗した秋月氏は、名器として名高い茶器を献上することで降伏が許され、日向の高鍋に移封されました。

江戸時代屈指の名君・上杉鷹山は、この高鍋藩の出身です。

秋月の資料館で、目が釘付けになったのが、コレです!!


鷹山が17歳で上杉家の家督を継ぎ、米沢藩主となった時に詠んだ歌です。

 

まだ17歳の鷹山が、民の父母となることを心に誓ったなんて…
く~っ、泣ける(;し;)

 

この鷹山をケネディ大統領が尊敬していたという話は、あまりにも有名ですね。

洋の東西を問わず、愛に溢れた人が、素晴らしいリーダーとなっていくんですねニコニコ


ウォルトディズニ―

ディズニーワールドを最初に見た人は…?

ウォルト・ディズニーが生きていた頃、フロリダは今のように
素敵なリゾート地ではなく、治安の悪い、荒れ果てた田舎でした。

 

ある日、そのフロリダにディズニーワールドをつくることを
思い立ったウォルトは、スポンサーを募るために、各地で人を集め、自分の構想を熱く語りめました。

 

ところが、あの荒れ果てたフロリダの地に、ディズニーワールドという夢の国ができるなんて、集まった誰もが信じることができず、説明会ではほんどの人が居眠りをしていたそうです。

 

それでも、ウォルトは、溢れるほどの情熱で、来る日も来る日も
彼自身の夢を語り続けました。

それから10数年…

彼の努力が報われ、資金も集まり…

ついにディズニーワールドは完成しました!!

一般のオープンに先立ち、マスコミを招待してのプレ・オープンの日。

ある新聞記者が、ディズニーワールドを訪れ、ウォルトの兄・ロイに話しかけました。

「思い出しますね~。ウォルトが開いた説明会は、どこの会場も居眠りする人だらけで、誰もウォルトを相手にしなかった。あの時は、まさかこのフロリダにディズニーワールドという夢の国ができるなんて、誰も信じなかった。ついに完成したこのディズニーワールドを、ひと目、ウォルトに見せてやりたかったですね。」

そうです!!

ウォルトは、ディズニーワールドの完成を見ることなく、その前年に、肺ガンで亡くなっていたのです。

その新聞記者を、ロイが不思議そうに見つめ、こうつぶやきました。

「君は何を言ってるんだ。

世界中の人々の中で、このディズニーワールドを最初に見たのは、ウォルトだよ。

ウォルトが最初に見たから、ディズニーワールドができた。

ウォルトが最初に見たから、

今、僕たちがこのディズニーワールドを見ることができているんだよ。」

考えてみれば、世の中に存在する物は、すべて偶然に作られたのではなく、まず初めに誰かの心の中で完成して、それがカタチになったんですよね。

 

ロイの言葉は、「ビジョンを描く」ということの本質を教えてくれますニコニコ

わたしは本来、アメリカ型の成功哲学が好きではないのですが、
このウォルト・ディズニーのエピソードには、古き良き時代の
アメリカの良心が満ち溢れていて、人間の可能性と素晴らしさを
語りかけてくれているような気がします☆

 

「夢を見る事ができるなら、それは実現できるんだ!!

これは、ウォルトが残した名言の中で、わたしが最も好きな一節です☆


宇喜多 秀家と豪姫(うきた ひでいえ)と(ごうひめ)

愛は距離を超えて・・・☆彡
(2010年1月26日のブログ記事より)

 

戦国きってのおしどり夫婦って、誰だろう?

 

先日ご紹介した浅井長政&お市の方も上位にランキング

されるのは間違いありませんが、No.1 は…と言われれば、

わたしは、宇喜多秀家&豪姫 (ごうひめ) を選びますラブラブ

 

 

豪姫は、前田利家&おまつ夫妻の四女。

前田夫妻と大の仲良しだった豊臣秀吉には、子どもがなく、

生後間もない親友の娘を養女に迎え、ねねと二人で、この上

なく大切に、大切に、養育します。

 

 

秀吉夫妻の豪姫への愛情があまりに深いので、大名たちの間

では、豪姫を娶る果報者は誰か…という話題で持ち切りでした。

 

政略結婚全盛のこの時代、大名たちは、我が息子の嫁に、ぜひ

豪姫を…と願いましたが、「豪姫には、三国一の婿を見つけて

やるぞ」 と言う秀吉が選んだのは、宇喜多秀家だったのです。

 

 

秀家は、幼名を八郎といいます。

 

岡山城主だった八郎の父 ・ 宇喜多直家は、病気で亡くなる際に、

毛利攻めの拠点である岡山城に滞在していた織田家の武将 ・

秀吉を枕元に呼び、涙ながらに幼い八郎を託します。

 

 

この時、八郎9歳。

父と秀吉のやりとりを目の当たりにした八郎は、感激して涙に

くれたといいますから、素直で、けなげで、エネルギーに溢れた

子どもだったのでしょうニコニコ

 

八郎は、品のある秀麗な顔立ちをしていました。

しかも武芸、学問、和歌や舞い、どれをとっても秀でていたので、

秀吉は、わが子同然にかわいがりました。

 

当時の秀吉の口ぐせは、

「八郎ほどかわいい者はいない。」

だったそうです。

 

秀吉は、八郎に帝王学を授け、立派な大名として育て、

自らが最も愛する豪姫と結婚させました。

 

実父を亡くした八郎が不憫で、前田家という後ろ盾をつけて

あげたかったのかもしれませんし、篤実な八郎を、豊臣家の

柱石に育て上げたかったのかもしれません。

 

事実、秀吉は晩年、朝鮮に侵攻しますが、朝鮮征服後は、

秀家を朝鮮の関白にしようと考えていたようです。

なんとも秀吉らしい、ゴージャスな人事ですよね。

 

秀家と豪姫は、政略結婚ではありましたが、互いに深く

深く愛し合いましたラブラブ

 

 

あの時代にあって、秀家が側室を置かずに豪姫だけを

愛し続けたというのは、奇跡に近いことです。

 

世の男性たちにも、見習ってほしいなぁ…☆彡

 

秀家は、秀吉の寵愛のもと、20代の若さで五大老の一人に

列せられ、領地は57万4000石。

押しも押されもしない大大名に成長しました。

 

しかし……!!

 

 

9歳の頃から彼をわが子のようにかわいがり、いつも側に

おいて育ててくれた秀吉が、病で亡くなります。

 

「秀頼のこと、返す返すも頼みまいらせ候…」

 

死の病の床で、秀吉は、自分が命じた5人の大老たちに

何度も何度も頼みます。

おそらく、秀家は、、かつて自分の父が亡くなった時の記憶と

重ね合わせていたのではないでしょうか…。

 

感激屋の秀家のことですから、

「あの時、父から私を託された秀吉公は、私をこんなに立派に

育ててくださった。今度は、私が秀頼さまをお守りする番だ。」

と、心に深く刻んだに違いありません。

 

秀吉の死後、2年経ったとき、天下分け目の関ヶ原の戦いが

起こります。

 

 

関ヶ原の戦いというのは、徳川家康 対 石田三成 の戦い

ですが、見方を変えれば、豊臣恩顧の大名たちの派閥争い

に、家康が乗っかり天下をとった…

とも言えます。

 

戦いに参加した戦国大名たちの立場や動機は微妙で、

だからこそ石田三成は、戦いの前から味方の士気や裏切りを

気にしなければなりませんでした。

 

そんな中にあって、宇喜多秀家だけは、「今こそ亡き太閤への

ご恩返しのとき。秀頼さまをお守りする。」 という純粋で明快な

立場を貫きます。

 

三成も、盟友の大谷吉継と秀家だけには、全幅の信頼を

寄せていました。

 

宇喜多勢は、西軍の主力として激しい戦いを繰り広げましたが、

西軍は裏切りが続出し、敗戦。

秀家は、戦場から落ち延びていきました。

 

戦後処理で、秀家に課されたのは、八丈島への流罪。

 

宇喜多家は改易され、妻の豪姫は、実家の加賀前田家に

身を寄せます。

 

 

八丈島と金沢…その距離およそ600キロ。

 

 

現代とは交通事情が違う江戸時代初期、この距離は、いまの

私たちが抱く “地球の裏側” のイメージよりも、遠かったのでは

ないでしょうか(>し<)

 

 

でも、二人の愛は、600キロの距離を超えて、さらに育まれて

いくのです。

 

続きは次回…♪


想いは時空を超える♪

(2010年1月27日のブログ記事より)

 

前回のつづきです♪

 

関ヶ原の戦犯の一人として、八丈島に流された宇喜多秀家。

 

 

秀家は、息子二人と、身の回りの世話をするほんの数名の家臣たちとともに、八丈島へ…。

 

この時、妻の豪姫は、娘とともに家族揃って八丈島に移ることを切望しますが、それは許されず、離れ離れになってしまいます(;し;)

 

 

でも、考えてみれば、お姫様育ちの豪姫が、八丈島行きを希望すること自体、すごいことだと思うんですよね!!

 

実家の加賀前田家に留まれば、何不自由ない暮らしができるのに、彼女の夫への愛、家族への想いって、素晴らしいなぁ…と思います!!

 

さて、八丈島の秀家。

勇猛な武将であり、貴族のように優雅な秀家が、絶海の孤島 ・八丈島で暮らしていくのは、それはそれは、苦労の連続だったのではないでしょうか。

 

慣れない畑仕事や漁師のマネもしたでしょうし、生きていくためには、なりふりかまわず何でもしたと思います。

 

その貧窮にあえぐ秀家と息子たちを助けたのが、豪姫でした。

前田家を通じて、八丈島で暮らす彼らへの援助を幕府に申し出たのです。

 

幕府は、一年おきに、白米七〇俵、金子三五両、衣類 ・ 雑貨 ・医薬品の物資援助を許可しました。

 

 

豪姫が、関ヶ原の戦いののち、加賀前田家に身を寄せたのは、まだ20代後半のこと。

それから61歳で亡くなるまで、再婚話も一切断り、ただひたすら600キロ離れた八丈島で暮らす家族の無事を祈りながら、いつか再会できる日を信じて、密やかにつつましく暮らしました。

 

豪姫の祈りが届いたのでしょうラブラブ

 

彼女が生涯を賭けて愛した夫 ・ 秀家は、関ヶ原に参戦したどの武将たちよりも長生きし、八丈島で50年以上生きながらえ、83歳で亡くなりました。

 

そして二人が亡くなってからも、前田家から宇喜多家への、600キロの距離を超えた物資援助は、途切れることなく続けられたそうです。

 

徳川の世が終わり、明治2年、宇喜多家の流罪は、260年ぶりに解かれました。

 

翌明治3年、八丈島に一隻の船が差し向けられました。

船の送り主は、前田家です。

その船に乗って、宇喜多一族は八丈島を離れました。

 

もちろん、この間、260年にわたって、前田家からの物資援助が続けられたことは言うまでもありません。

 

前田家では、八丈島から東京に引き上げた宇喜多一族に、住まう屋敷を与え、生活費のすべてを負担しました。

 

 

前田家と宇喜多家のかけはしとなった豪姫ラブラブ

 

彼女の想いは、260年の時を超えて、ずっとずっと受け継がれてきたのです!!

 

わたしは、幕末 ・ 維新史を調べていて、どうしても腑に落ちないことがありました。

 

それは、あれだけの革命が起こったその時、日本一の大藩である加賀前田100万石は、いったい何をしていたのか…

 

江戸時代初期に、徳川幕府から睨まれていた前田家は、わざと藩主が阿呆であるかのように振舞っていたというエピソードが残されていますが、阿呆なフリをしていたら、本当に阿呆になって眠り続けてしまったのではないか…

 

 

でも、前田家と宇喜多家の260年間に及ぶ交流を知った時、心から感動し、胸がいっぱいになって言葉が出ませんでした。

 

 

明治維新という革命を起こした薩摩 ・ 長州 ・ 土佐の歴史は輝かしいですが、もしかしたら、それ以上に、加賀前田家の存在は、日本人の心に、日本人のDNAに、大きな影響を及ぼしているかもしれない、いや、そうあってほしい…

と思いました。

 

失恋した時などは、「人の心ほど変わりやすく、あてにならないものはない」 と思うかもしれませんが、でもわたしは、一番変わらないもの、最も信頼できるものも、やはり人の心だと思うのですニコニコ

 

大切な人を大切に想うこと!!

その想いって、距離や時空を超えて届くんですね♪

 

続きは次回…♪


素直さは最大の知性☆

(2010年1月30日のブログ記事より)

 

最近、感じていること…

 

それは、愛すること、愛されることは、資質ではなく、能力なのではないかということ。

 

能力って、後天的な要素が強いから、磨けばみんなその能力を身につけることができる!!

 

もしかしたら、人が生まれて、幸せに生きていくために、一番大切な能力かもしれないなぁ。

 

そんな想いを、日々強くしておりますニコニコ

 

前回書かせていただいた、宇喜多秀家と豪姫の夫婦愛、そして その後長らく続いた前田家と宇喜多家の絆…

 

わたしの中では、かなりお気に入りのエピソードなんですラブラブ

 

何不自由なく育ったお姫様でありながら 、家族への愛を生涯持ち続けた豪姫 (もしかして、お姫様だからこそ、純粋に愛し続けることができたのかも…)、彼女の想いを誰も踏みにじることなく一族で守り通した前田家。

 

でも、この感動的なエピソードは、秀家の愛される能力がなければ成り立ちません。

 

愛される能力の源…

 

それはきっと、“素直さ” にあるのではないかと思いますニコニコ

 

ほら、“素直さは最大の知性” って言うでしょう?

 

秀家は、わたしにとって、素直さのお師匠さんなんですニコニコ

 

次回は、秀家が教えてくれた素直さの本質をご紹介しますね♪


愛されるワケ♪

(2010年1月31日のブログ記事より)

小早川秀秋の寝返りで、西軍の敗色が決定的になると、

西軍の先鋒 ・ 宇喜多秀家は、秀秋に激怒し、「小早川の陣中に乗り込み秀秋を叩き切ってやる」 と叫んだと言われていますが、

 

家臣に制止され、やむなく、関ヶ原の戦場を離脱し、落ち延びていきました。

 

秀家が家臣数名とともに逃げた先は、関ヶ原の北方にある伊吹山。

 

西軍の敗戦はまたたく間に関ヶ原近郊の村々に知れ渡ったので、

伊吹山にも、おびただしい数の百姓や猟師たちが集結し、落ち武者狩りをしていました。

 

秀家たちは、2日間、山中をさまよった挙句、矢野五右衛門という人物をリーダーとする落ち武者狩りの一団に出くわしました。

 

「余は、徳川方の探しておる西軍の大将・宇喜多秀家じゃ。腹も減ったし道に迷って困っておる。湯漬けなど振る舞ってもらえば、徳川方に引き渡しても良いぞ。決して恨みはいたさぬ。」

 

 

この秀家の正直さと潔い態度、そして全身から溢れる何とも言えない気品に、矢野五右衛門は、圧倒され、一瞬にして魅了されたようです。

 

この後、一介の猟師にすぎない五右衛門は、命をかけて秀家を守る

…という予想外の挙に出るのです。

 

家康に秀家を差し出せば、莫大な恩賞にあずかれるのに…。

 

秀家は、矢野家の裏にある穴蔵へと導かれましたが、そこで五右衛門は、なんと40日以上も秀家をかくまい通すことに成功します。

 

先日のNHK 『歴史ヒストリア』 という番組で、秀家をかくまった矢野家の子孫の方が紹介されました。

 

矢野家の庭には、“宇喜多秀家公匿居の地”と刻まれた立派な石碑が建てられていますが、なんとその揮毫は、秀家の子孫の方によるものだそうです。

 

前田家と宇喜多家、そして宇喜多秀家という男の窮地を救った矢野家。

400年の時を超えて、今なお交流が続いているということに驚かされ、日本史の壮大なロマンを感じずにはいられませんでした!!

 

『歴史ヒストリア』 によると、矢野家をあとにした秀家は、徳川家と唯一対峙する実力と、戦犯となった秀家を守るだけの義侠心を持った島津家を頼り、遠く薩摩へと赴くのですが、なんとその途中、大坂 ・ 備前島にある宇喜多屋敷に立ち寄り、妻の豪姫と感動の再会を果たしました!!

 

そして同時にそれは、二人にとって、悲しい悲しい今生の別れでもあったのです。

 

矢野五右衛門を魅了した秀家の素直さと気品は、薩摩の地でも健在で、人々から愛され、大事にされました。

 

石田三成や小西行長など、西軍の諸将が次々とその罪を糾弾され、処刑される中で、この島津家と豪姫の実家である前田家が、家康に対して秀家の助命を強く願い出たおかげで、秀家は死罪を免れ、八丈島に流罪となったのです。

 

秀家の実直さは敵将である家康からも愛されていて、それが助命の理由の一つにもなったと言われています。

 

秀吉、 家康という時の権力者が愛したのは、秀家の素直さだったのでしょう♪

 

そしてそれは同時にまた、身分の低い矢野五右衛門に対してさえも変わることはありませんでした。

 

よく、名刺交換のときに

「こんなに立派な方とは知らずに、失礼しました」

などと挨拶する方がいらっしゃいますが、こういう人を見ると、興ざめしてしまいます((+_+))

 

いつも自分と相手との位置関係をはかり、優劣を決め、それによって態度を変える…

 

そんな人は、秀家の涼やかさというものを、ぜひ見習ってほしいものですニコニコ

 

すごい人を目指すと、自分がどんなに努力してすごい人になっても、世の中には上には上がいるから、心が休まる時がありません。

 

すごい人より、素敵な人、魅力的な人を目指したい…!!

 

素敵な人、魅力的な人って、いつも自分の心に素直で、涼やかですよね。

 

秀家が愛されるワケ…

それは損得勘定で動かずに、いつも自分の心に素直に生き、涼やかに行動したからではないでしょうか。


涼やかに・・・♪

(2010年2月2日のブログ記事より)

ここ数日、“素直さ” について書かせていただきましたが、ここから先は、無理やり歴史にこじつけますので、興味のある方はぜひお読みくださいニコニコ

 

関ヶ原の戦いのとき、少年の頃から秀吉にかわいがられた福島正則や加藤清正は、秀吉の遺児である秀頼がかわいくてたまらないのに、

「石田三成と仲が悪い」 といういきさつや、「徳川家康に従った方が、自家の保全のためには得策ではないか」 という考えから、東軍についてしまいます。

 

(正則は関ヶ原で先鋒をつとめ、西軍の宇喜多勢との間で最も激しい戦闘を繰り広げ、清正は九州に留まり、九州内の西軍諸将の城を次々に攻め落としました。)

 

まぁ、二人をそのように仕向けた家康が、頭がよかっただけの話なのかもしれませんが…

 

でも、二人が家康に味方した結果、歴史はどうなったか…?

 

あんなに愛した秀頼は、一大名の地位に落とされ、ついには関ヶ原から15年後、大坂の陣で自害に追い込まれてしまいます。

 

福島&加藤の両家は、関ヶ原の戦い直後は、どちらも家康から恩賞を受けましたが、福島家は正則の晩年に、加藤家は清正の死後、大きな失政があったわけではないのに、取り潰しの憂き目に遭います(>し<)

損得勘定で動くということは、自分以上に頭のいい人から利用されるリスクが高い…ということですね(>し<)

 

その二人と対照的なのが、宇喜多秀家!!

 

当時、実直な彼を悪く言う大名はおらず、奇跡的なほどみんなから愛されていたのですが、「秀頼さまのために」 という純粋な気持ちで西軍につきます。

 

秀吉の猶子 (養子と同様の扱いですが、秀家は宇喜多家の当主なので、正式な養子ではありません) なんだから当たり前じゃないか…

 

と思われる方もいらっしゃるでしょうが、豊臣家から後に小早川家に養子に出された小早川秀秋が、戦いもたけなわの時に寝返り、関ヶ原の勝敗が決まったことを思うと、秀家がいかに純粋だったかがわかりますよね。

 

関ヶ原の戦後処理で、秀家は、八丈島に流され、宇喜多家の生活は困窮をきわめましたが、でも、きっと、秀家の心は涼やかだったのではないかと思うんです♪

 

この正則と秀家の人生は、どこまでも対照的で、秀家が八丈島に流されてからも、不思議な縁でつながってゆきます。

 

ある時、悪天候のために船が航路を大きくそれ、八丈島に漂着しました。

その船には、“備後三原の酒献上” という旗が立てられています。

 

実はこの船、関ヶ原の戦功で安芸の国 ・ 広島城の城主となった福島正則が、お酒を将軍に献上しようと、江戸まで運ぶ途中、嵐に遭ってしまったのです。

 

備後 ・ 三原といえば、宇喜多秀家の旧領です。

船を見上げた秀家は、どんなにか懐かしかったことでしょう。

 

福島家の家臣たちは、豊臣家の五大老という地位にありながら、

戦いに敗れ、この絶海の孤島に島流しに遭った秀家の境遇を哀れに思い、酒を一樽献上しました。

 

後にこの報告を受けた正則は、涙ぐみながら、

「ようしてくれた。その方たちが宇喜多殿へ酒を差し上げたこと、わしからも礼を言うぞ」

と言い、深々と頭を下げたといわれています。

 

この頃の正則は、盟友の加藤清正を失い、往時を一緒に懐かしむ友もなく、徳川家の絶対的な権力の前に、息をひそめるように自家の保全だけを考えて生きていただけに、よけいに感慨深かったのではないかと思います。

 

まさか数年後に、福島家が改易されることは想像していなかったでしょうが、損得勘定なしに、純粋に、涼やかに前半生を生きた宇喜多秀家のことを、もしかしたらうらやましく思ったかもしれません。

 

その証拠に、家臣たちに、「今後ももし八丈島の近くを通ったら、宇喜多殿に積み荷を差し入れするように」 と伝えます。

 

損得勘定を優先して生きていると、後悔してもしきれない…

 

損得勘定を手放し、自分の心に素直に、涼やかに生きることが、心の平穏につながるような気がしますニコニコ


愛の溢れる世の中に・・・♪

(2010年2月18日のブログ記事より)

 

3日前の月曜日は、ものすごい一日でしたよ~ニコニコ

シゲマガジンが大好評の重松 昌二郎クンの呼びかけで、

全国から素晴らしいメンバーが集まりました♪

まずは地元 ・ 福岡から、オーラ美人コンサルタントの青木 勇ちゃん!!

ムラおこしで九州を再生する平野さんニコニコ

大坂からは、ワクワクブックコンサルタントのトキちゃん!!

 

それに、斎藤 一人さんに最も愛された男 ・ 陽なた家のシゲちゃんや鹿児島の美女軍団を取り仕切る若きカリスマ経営者 ・ アキちゃん…ニコニコ

 

こんな豪華メンバーの中に、わたしも交ぜていただき、そりゃあもうワクワクする素敵な話で盛り上がりました!!

 

実は、今をさかのぼること約1ヵ月、青木 勇ちゃんから、

「妃登美さんは、“時を癒す人” ですね~」

と言われたんです。

 

昨年のNHK大河ドラマは、『天地人』。

妻夫木クンの兼続もかわいかったですが、なんといっても、石田 三成役の小栗 旬クンの好演が光ってましたよね♪

三成の愛と切なさが、心にジーンとしみてきましたラブラブ

 

勇ちゃんいわく…

 

「今までドラマになったのは、ほとんどが家康の側から描く三成だったよね。

頭がよくて、優秀な官僚ではあるけれど、武将としての実力は今ひとつで、人の心がわからない。

 

もちろんそういう面が三成にあったことは確かだと思うけど、でも、人間は一面だけでなく、さまざまな側面がある。

 

今回の 『天地人』 での三成の描かれ方、本人はは喜んでいると思うなぁ。

もちろん子孫の方々も癒されたと思う!!

 

そして何よりも、歴史そのものが、時が癒されたと思うんだよね。

 

妃登美さんには、歴史を語ることで、“時を癒す” という役目があるんだと思うよ。」

 

“時を癒す” … 単なる歴史オタクだったわたしに、こんな素敵な方向性を与えてくれた勇ちゃん、本当にありがとう♡

 

そして、今回、さらに愛に溢れるコメントをくださったんですニコニコ

 

わたしのブログをいつも読んでくださっている しげまっち が、

「ひとみさん、加賀の前田家の話をしてよ」

と言ってくれたので、宇喜多 秀家と豪姫の愛の物語と、彼女の想いを250年間も大切に育んだ前田家の真心について、語らせていただきました。

 

「加賀藩は日本一の大藩だったのに、維新史に大きな功績は残さなかった。でも、わたしは、薩摩や長州の輝かしい歴史以上に、この加賀藩を歴史に持ったことを、日本人として誇りに思う。」

 

という言葉で、締めくくらせていただきました。

 

その時の勇ちゃんのひとことに、しびれちゃったんです( *´艸`)

 

「きっと、加賀藩には愛が満ち溢れていたから、戦争する気にならなかったんだろうね。 愛の溢れる世の中にしたいよね。」

 

 

そうなんだ…!!

 

すべては、愛に溢れる世の中にするために、みんながそれぞれ得意な分野で、自分にできることをやっていくんだ…ニコニコ

 

わぁ~、本当にこの世が天国になるなぁ…

と実感した瞬間でした☆彡

 

歴史のエピソードを語り継ぐことで、時を癒すと同時に、その土地を癒すこともできるかもしれない…

 

新しい視点が加わって、ますます想いが募ってきました。

皆さま、どうぞこれからも宜しくお願いいたします♪


経済も大事です!

(2010年2月23日のブログ記事より)

前回のブログで書かせていただいた石田三成の財政通ぶりが、多くの方々の共感を呼んだようで、三成ファンのわたしとしては、嬉しいかぎりですニコニコ

 

わたしが航空会社に勤務していた頃、世界のどこかで紛争が起きていても、お客さまの数は減らなかったのに、バブルが崩壊したとたん、お客さまは激減して、なかなか回復しなかった……

 

もしかしたら、人間の行動は、政治的な理由や善悪の判断よりも、経済的な背景に、より影響されるのではないか…

 

そんなことを考えながら歴史を振り返ると、見えるものが違ってくるんです。

 

前回も少し触れましたが、関ヶ原の戦いで領地を減らされた藩は、250年の時を経て、明治維新のとき、積極的に新政府軍に加わっているんですよね。

 

 

そして、明治維新という革命を主導した薩摩 ・ 長州の両藩は、

江戸時代を通して、藩内で殖産興業を推進し、幕末には、経済的に大変豊かな藩になっています。

 

いま話題の坂本竜馬も、下関や長崎の豪商たちから大きな支援を受けていますから、経済的基盤があるからこそ、彼らは高い志を持ち、思う存分働けたのではないかと思います↑

 

以前、ブログで書かせていただいた加賀前田家の話…。

 

関ヶ原の戦犯の一人として、八丈島に島流しとなった宇喜多秀家に、妻の豪姫は、お米や医薬品など、援助物資を送り続けました!!

 

そして一族の一人の女性のこの想いを、彼女の実家の前田家では、何世代も超えてずっと大切に育み続け、250年間も援助が続けられ、明治に入って罪が解かれてからも、宇喜多一族の生活の面倒をみたのです。

 

この感動的なエピソードも、前田家の経済的基盤がしっかりしていたからこそ生まれたわけです。

 

だって、もし前田一族が生活に困っていたら、仕送りなんて続けていられないわけですから…。

 

 

そう考えると、お金って、本当に大事ですねラブラブ

 

 

よく 「お金がすべてじゃない」 と言いますが、「お金だけがすべてじゃない」というのが、適切な表現のような気がします。

 

愛も大事、お金も大事、このバランスの中で志が育まれていくのではないかしら…?

 

というわけで、「実は歴史を動かしているのは、経済かもしれない」

というお話でした。

 

でも、景気も “気” ですから、やっぱり私たちの心が反映されて

いるのかなぁ?


がんばろう、西日本!

(2011年4月10日のブログ記事より)

 

義妹の結婚式に参列するため、横浜に行っていましたニコニコ

 

一年のうちで最も美しいこの季節、満開の桜のもとでの結婚式…本当に心に残る一日でしたラブラブ

 

庭園の桜を眺めながら催されたささやかな披露宴では、生花をはじめとした華美な飾りは一切ありませんでした。

 

新郎&新婦の意向で、その分を、震災の義援金として寄付するそうです。

 

 

震災以来、各地でお花見やイベントの自粛が目立っていますが、私は、はしゃぎすぎるのがよくないだけで、被災地にいらっしゃる方々に想いを馳せながら、生かされている命に感謝してささやかなお祝いをすることは、決して悪いことではないと思います。

 

新郎&新婦の二人も、いろいろ悩んだ末の挙式&披露宴でしたが、とてもいい一日でしたし、親族として参列できて、本当に嬉しかったです♪

 

ところで、私が一番驚いたのは、東京や横浜が暗かったことです。

 

どの会社もお店も、節電に協力しているので、街全体がとっても暗いのです。

 

もちろん節電のことは聞いていましたが、ファミリーレストランやコンビニも、営業中なのか閉店したのか判断がつかないほどで、その暗さたるや、想像を超えています。

 

節電はいいことですし、私自身も、これからもずっと取り組んでいこうと思っていますが、暗い街を歩きながら、「やっぱり私たち西日本組ががんばって、日本経済を活性化させていかなきゃぁ!!」 と決意を新たにしました。

 

私は、復興支援の一環として、『歴史から紐解く 日本人の愛の絆』 というテーマで、大好きな歴史エピソードを集め、30分ほどの音声データをつくったのですが、その中で最も反響が大きいのが、戦国大名の宇喜多秀家とその妻 ・ 豪姫、そして彼女の実家である加賀前田家の愛の物語です。

 

 

関ヶ原で西軍の主力として戦った秀家は、戦後処理で、領地を没収された上に、息子とともに八丈島に流されました。

 

 

生まれながらの貴族であり、秀吉の寵愛を受けて成長した秀家が、八丈島で生き延びていくには、どれほどの苦労があったことか…。

 

その秀家を、妻の豪姫は一生慕い続け、徳川幕府の許しを得て、米や衣類、薬、日用品などを、二年に一度、船で八丈島に送り続けました。

 

ある時、豪姫が、絵師に描かせた自分の肖像画を八丈島に送りました。

 

その肖像画が、以前、テレビ番組で紹介されたのですが、ほかの部分は色もきれいなのに、額のあたりだけ擦れて色がなくなってしまっていました。

 

秀家とともに島流しにされた息子たちが、「母上、母上…」 と涙を流しながら、来る日も来る日も額のあたりを撫でていたから、薄くなったのだそうです。

 

歴史の渦に巻き込まれ、引き裂かれた家族の絆を思うと、本当に切ない気持ちになります(;し;)

 

この、前田家から宇喜多家への物資援助は、豪姫が生きている間はもちろんのこと、彼女の死後も、ずっと続けられ、明治に入って、戦争犯罪人としての宇喜多家の罪が解かれるまで、250年も続いたのです。

 

その昔、一族の中に、豪姫という可憐なお姫さまがいた、

その姫は、遠い八丈島にいる家族のことを思い続けて亡くなっていった、彼女の想いを、この先もずっとずっと大切にしよう…

 

そんな加賀前田家を、歴史に持つことのできた私たちは、本当に幸せですラブラブ

 

 

でもこの話、前田家の人々の心だけが素晴らしいわけではないんです。

 

 

江戸時代中期から後期にかけて、各藩の財政が破たんしていく中、前田家の財政は幕末まで健全であり続け、宇喜多家を支援するだけの財力を保ち続けていたのです!!

 

加賀前田百万石の藩祖 ・ 前田利家は、“槍の又左(またざ)” という愛称で呼ばれ、その名の通り、武勇に優れていました。

 

ところが、利家が武術以上に得意だったのは、なんと意外なことに、当時の日本に伝わったばかりのそろばんでした。

 

 

利家は、若い頃、主君 ・ 信長の側近を斬った罪で織田家から追放され、約2年間の失業を経験しました。

 

その間、親しかった人もほとんど寄りつかなくなり、世間の冷たさとお金の大切さを痛感したのでしょう。

 

その後は自らがそろばんを用い、前田家の所領がどれだけ増えても、お金の使い道を人任せにせず、利家自身が前田家のすべての決済を行いました。

 

その利家の几帳面さを、前田家は代々受け継いでいったのでしょうね。

 

それにしても、戦国武将として名高い利家が、背中を丸めてそろばんの玉を弾く姿を思い浮かべると、何とも言えず微笑ましい気持ちになりますねニコニコ

 

私たちが、被災地の方々の想いに寄り添い、行動にうつすには、前田家のように、想いを持ち続け、財力を保ち続けることが、ともに重要な気がします。

 

西日本の皆さん、心を一つにしてがんばりましょうね!!!


武士の家計簿☆

(2011年12月5日のブログ記事より)

ずっと見たいと思っていた 『武士の家計簿』、やっと今日 DVD を借りて見ることができました!!

 

私は 『人生に悩んだら日本史に聞こう 』 の中で、戦国大名・宇喜多秀家とその妻・豪姫の夫婦愛と、それを支えた豪姫の実家・加賀前田家の愛の物語を書かせていただいたのですが、八丈島に島流しにされた宇喜多一族に、前田家が二百年以上にわたって援助物資を送り続けることができたのは、加賀藩の財政が健全であり続けたからなんだなぁ~ということを、しみじみと感じ、あらためて感動が深くなりましたラブラブ

 

藩主の理解と藩士たちの努力があったればこそ…ですね!!

 

目に見えない “想い” と、目に見えるお金…

そのどちらもが同じように大切で、バランスが大事なんですね~ニコニコ

 

武士の家計簿 』 は、原作の本の方も、アマゾンのレビューで素晴らしい評価を受けているので、ぜひ近いうちに読んでみたいと思います。


初めての富山、そしてついに運命の出逢いが・・・!!

(2012年5月9日のブログ記事より)

 

昨日は早朝の清掃に参加して、朝活の醍醐味を味わわせていただきましたが、なんと、2009年の10月以来、コツコツと2年半も朝活を続けてきた方々が富山にいらっしゃるんです!!

 

その朝活@富山が200回記念を迎えるのですが、その記念講演会の講師に、私を選んでくださいましたニコニコ

 

5月26日(土)の朝、富山で初めて講演させていただきます!!

 

実は私、幼い頃から毎年春と夏には家族旅行に出かけていて、さらに20代の時に航空会社に勤務していた関係で、日本中を旅した…と思っていたのですが、ちゃんと確認してみたら、47都道府県のうち、富山だけには行ったことがなかったんです。

 

ひすいさん流に解釈すると、これは、いよいよ富山から呼ばれた…ということですよねニコニコ

 

わぁ、なんだか嬉しいなぁ~♪

 

そして、今回はもう一つ大きな楽しみがあります!!

福岡から富山は直行便がないため、小松空港行きの飛行機をとったのですが、朝活@富山の皆さまが、金沢を案内してくださることになったんです。

 

『人生に悩んだら日本史に聞こう ~幸せの種は歴史の中にある』 の中で、私が一番思い入れを感じているのは、豪姫と宇喜多 秀家のエピソードラブラブ

 

161ページにある豪姫の肖像画をどうしてもこの本に載せたくて、いろんなところに問い合わせをして、やっと所在がわかったのですが、それが、彼女の菩提寺でもある金沢の大蓮寺だったのです!!

 

今回、その大蓮寺にも連れて行っていただけることになり、やっとやっと、400年の時を超えて、豪姫の魂に触れることができるのです。

 

彼女の肖像画を目の当たりにした時、何を感じるんでしょう?

私、きっと泣いちゃいます(;し;)

その瞬間を想像しただけで、もう、感無量ですよ!!

 

実は、この肖像画の所在がわかるまでにはさまざまなドラマがありまして…。

ひすいさんからは、「ひとみちゃんには、豪姫が乗り移っている!」 とまで言われましたニコニコ

 

そのおもしろエピソードは、次回ゆっくり書かせていただきますね。

 

朝活@富山の皆さまとは、ベストセラー作家の美崎 栄一郎さんがご縁を結んでくださいました。

美崎さんの信頼にお応えするためにも、初めての富山を楽しみつつ、講演がんばりますね☆彡

 

富山にお知り合いのいらっしゃる方は、この情報をお知らせいただけると嬉しいですニコニコ

宜しくお願いいたします☆彡


戦国ベストカップル☆

(2012年5月11日のブログ記事より)

秀吉への恩を返したい、そして幼い秀頼を守りたい…

その一心で、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦った宇喜多 秀家。

 

戦後処理で、秀家は八丈島に流され、妻の豪姫は、実家の加賀・前田家に引き取られることになりました。

 

政略結婚でありながら、側室も持たずに、妻を深く愛した秀家。

最愛の夫の無事と活躍を祈り続けた豪姫

 

そんな二人が、八丈島と金沢、500キロの距離に引き裂かれてしまったのです(;し;)

 

 

貧窮にあえぐ秀家に対して、豪姫は、実家の前田家を通じて、衣類やお米、お金、薬など、援助物資を送り続けました。

 

ある時、その援助物資の中に、豪姫は自分の肖像画をしのばせました。

 

肖像画の豪姫は、いかにも加賀前田百万石のお姫さまといった印象で、とても色鮮やかな美しい着物を着て、清楚な美人に描かれていました。

 

ところが、その絵の中で、額の部分だけが、ほとんど色がなくなっているのです。

 

秀家とともに八丈島に流された幼い息子たちが、「母上、母上…」 と、毎日、肖像画の中の母の額を撫でていたので、擦れて色がなくなってしまったのだそうです(;し;)

 

この肖像画の存在を、私は、2010年1月に放送されたNHKの 『歴史秘話ヒストリア』 という番組で知りました。

 

昨年のちょうど今ごろ、6月出版に向けて、原稿の最終締め切りがあり、その後、デザインが決まっていく中で、本に掲載するイラストや写真を選ぶことになりました。

 

ひすいさんが見つけてくださったのは、岡山市の指定重要文化財になっている、豪姫が所用していたと伝えられる小袖。

豪姫のぬくもりが感じられる素敵な資料なので、『人生に悩んだら日本史に聞こう ~幸せの種は歴史の中にある』 の中に、収めさせていただきました。163ページですニコニコ

 

それから、二人が幸せな結婚生活を送った岡山城の開城400周年を記念して、八丈島の海岸に、二人の石像が設置されました。

400年の時を超えて結ばれた二人の石像の写真も掲載させていただきましたが、私は、どうしても 『歴史秘話ヒストリア』 で紹介された豪姫の肖像画を本に載せたかったのです!!

 

そこで、出版社の編集者さんを通してNHKに問い合わせたところ…

番組の中で紹介された資料はすべて一覧表になっていて、受付の方が調べて答えてくださるそうなのですが、不思議なことに、その一覧表の中に、豪姫の肖像画だけが入っていないというのです(>し<)

 

その報告を受けた時、同席していたひすいさんは、「ひとみちゃんが番組の中で見た絵は、NHKの小道具さんの作品なんじゃないの!?」 なんて冗談まじりで言ったんですよ・・・

 

あんなに感動して、心が震えて、涙が止まらなかったのに、それが小道具だったら、悲しすぎます(;し;)

 

でも、なぜ一覧表に入っていないのか…?

頭を抱えてしまいましたが、表には、資料ごとに 「○○美術館所蔵」 などと書かれていたらしいので、豪姫の肖像画が出ていなかったのは、個人の所有だからじゃないか…とひらめきました。

 

つまり、八丈島で暮らしていたご子孫の、個人の所有だから、表に書かれなかった…

そう解釈すれば、つじつまが合います。

 

でも、もしそうだとしたら、個人情報の管理が厳格な現代社会、宇喜多家の子孫を探し当てるなんて、できるわけがない…

私はあきらめかけました。

 

 

その時、豪姫の肖像画に行きつく思いもよらない方法が、頭に浮かんだのです

 

 

それは、いま思うと、豪姫さんからのメッセージだったんじゃないか…

そんな気がしています。

 

ということで、続きは次回…♪

 

さぁ、明日は空海劇場の開幕です!!

 

唐から帰国した空海が、最初に建立したといわれる東長寺で、ご住職さまと空海談義をさせていただきますラブラブ

東長寺の本堂を使って、全国1位に輝いた福岡大学付属若葉高校ダンス部の公演や、鹿児島で話題の小学生のジャズバンド・リトルチェリーズの演奏、書道パフォーマンス…などなど、盛りだくさんの華やかなイベントをいたします。

 

あさっての日曜日(13日)は、同じく東長寺のホールで、『博多歴史探訪 ~講演会&寄席~』 が行われます。

こちらもすでに70名以上のご予約をいただいていますが、100名までは入れるということですので、当日ベースでも大丈夫ですから、ご都合のつく方はぜひいらしてくださいね

 

見事な大仏や五重塔もご覧いただきたいのですが、それよりも何よりも、1200年の時を超えて現代に繋がる空海の想いを感じていただけたら、空海をこよなく愛する者として、これほど幸せなことはありませんニコニコ


豪姫の肖像画の行方

(2012年5月12日のブログ記事より)

今日は空が澄みわたっていて、海が穏やかで、最高に気持ちいい~♪

さすが 『空海劇場』 の開幕!!

空海さんが護ってくださってるんだなぁ~って、朝から感無量です♡

 

昨日まで、2回にわたって豪姫さんのお話をさせていただきましたが、今日は最終回。

いよいよ豪姫さんの肖像画の行方に迫ります。

 

ひすいさんから 「きっとテレビで紹介された豪姫の肖像画は、NHKの小道具さんの作品なんだよ」 と、からかわれながらも、あきらめきれない私。

 

その時、ふと思いついたのです。

そして、私が電話したのは八丈島の観光案内所。

 

「あの~、八丈島の南原千畳敷に宇喜多 秀家公と豪姫さんの石像が建っていると伺ったのですが、豪姫さんのお顔はどのようにして彫ったのでしょうか? 何か参考になる絵などがあったのでしょうか?」

 

こんな唐突な質問に対して、観光案内所の方は、

「申し訳ありませんが、こちらでは詳しいことはわかりかねます。役場に問い合わせてみてはいかがでしょうか?」

と、役場の電話番号を教えてくださいました。

 

 

すぐに教えていただいた番号にかけ直し、同じ質問。

すると、役場の方は、「さぁ、こちらではわかりませんねぇ。ここにかけてみてください。」 と、また別の電話番号が提示されました。

 

 

このようにして、何度もかけてみましたが、みな同じ答え。

結局たらい回し状態になり、5~6回電話してみたものの、収穫はなし↓

 

「あ~あ、私、何やってんだろう?」 と、なぜか急に虚しさにおそわれ、「もうこれで最後にしよう! これでわからなければ、潔くあきらめよう!!」 と、電話した先は、八丈町の教育委員会。

教育委員会の方が、果たしてご存知なんだろうか?

と、かなり疑りながら問い合わせてみると…

 

「ああ、確かにあの石像は、こちらの教育委員会が建てたものです。ただ、その時のメンバーが全員すでに異動になっていまして、細かいことを知る人はもうここにはいないんですよ。お役に立てなくて、すみませんね。」

 

ああ、これであきらめよう…

そう思った瞬間でした。

 

「でも、確かにあなたがおっしゃるように、ただの想像で石像をつくったとは思えませんから、何かの絵を参考にしたのかもしれないですね。実際、大蓮寺には、豪姫さんの肖像画がありますもんね。」

 

えっ!?

いま、なんて…?

大蓮寺…?

 

「大蓮寺って、確か豪姫さんの菩提寺ですよね? そこに、肖像画があるんですか?」

「そうですよ、金沢の大蓮寺は、豪姫さんの菩提寺です。豪姫さんの肖像画は、八丈島の秀家公の子孫が代々受け継いでこられたんですが、その肖像画の写しが大蓮寺にあるんですよ。」

 

 

「その肖像画って、豪姫さんが援助物資とともに送ったものですよね? 息子たちが、「母上、母上…」て撫でていたから、額のところだけ色がなくなってしまっている、肖像画のことですよね?」

「そうですよ。」

 

 

うわぁ~!!

金沢の大蓮寺かぁ。

やっとめぐりあえた…ラブラブ

 

 

さっそく編集者さんに、豪姫の肖像画の行方がわかったことを伝え、大蓮寺に連絡していただきました。

 

確かに、大蓮寺に肖像画がありました。

ただし、大蓮寺は、観光目的のお寺ではなく、質素にやってきた昔ながらのお寺で、リーフレットもないし、写真のデータなどもない。

 

「肖像画は大きくて送ることができないが、ここに来て撮影するならいつでもけっこうです。」

このような返事だったそうです。

 

じゃぁ、すぐに金沢に飛んで、写真を…!!

と気のはやる私に対し、編集者さんは、冷静にこうおっしゃいました。

 

「白駒さん、写真の締め切りはあさって。金沢に行くには時間も費用もかかります。ここで考えられる選択肢は3つ。

①番、本には掲載しない。

②番、時間とお金をかけてスタッフが金沢に行き、肖像画の写真を撮ってくる。

③番、知り合いの大阪在住のカメラマンに頼んで撮ってきてもらう。東京から行くよりも、時間も費用も抑えられますから。」

 

 

ええっ(>し<)

肖像画の行方がやっとわかったというのに、①番の選択肢が 「掲載しない」 って、それはないでしょう(>し<)

 

…と、その時、妙案が浮かびました。

「金沢に住んでる人に写真を撮ってもらうという、第4の選択肢もありますよね? ひすいさんのメルマガで、写真を撮ってきてくれる人を募集したらいいんじゃないですか?」

 

「いやぁ、白駒さん、風景や建物の写真ならともかく、こういう美術品って、撮るのは難しいんですよ。素人さんには無理です。3つの選択肢のどれにするか、ちょっと考えさせてください。」

 

ううっ・・・ なんだか心もとないなぁ。

ほかにいい方法はないかなぁ?

…と、その時、また妙案が!!

 

パソコンを開いて、「金沢、カメラマン」 で検索開始。

う~ん、ピンとくるサイトにヒットしません・・・

「金沢、写真館」 で再び検索開始。

 

!!

うわぁ、この写真館、住所の 「○丁目」 まで大蓮寺と一緒!!

この写真館の方にたのんだら、いいんじゃない?

 

ところが、写真館のホームページをよく見てみると、営業時間が午後7時までで、明日は定休日。

いまが6時30分をまわったところだから、急がなきゃ…

 

というわけで、また編集者さんに電話。

「いま白駒さんが調べてくださった写真館のホームページを見ていますが、この写真館、成人式や七五三など人物の写真ばかりですよね。美術品の専門的な知識はないんじゃないですかね。」

「でも、ズブの素人さんよりは絶対にうまく撮ってくださるはずですから…!!

「わかりました。とりあえず電話してみますね。」

「明日が定休日なので、7時までに電話してください。あと25分ですから、すぐに電話してくださいね!!

 

待つこと15分…。

 

「白駒さん、すごい偶然が重なってるんですよ。

この写真館は、ふだんの営業用に、ホームページには人物の写真ばかり載せているんですが、実は、この方、定休日には美術館に行って美術品の写真を撮っていらっしゃるんです。

しかも、大蓮寺とは町内会が一緒で、この方が町内会長、大蓮寺のご住職が副会長で、昨夜もお酒を酌み交わした仲らしいんです。

今回の依頼に、これほど適任の方はいらっしゃいません。この方にたのみましょう!!

 

というわけで、ギリギリ締切日に送っていただいたのが、『人生に悩んだら日本史に聞こう』 161ページにある写真ですラブラブ

 

白黒写真なので、額のあたりだけ色がないというのはわかりにくいですが、500キロ離れた家族の幸せを祈り続けた豪姫さんの美しく優しい心映えが伝わってくる、素敵な肖像画です。

 

いよいよ今月25日に、金沢の大蓮寺で、本物の肖像画とご対面してきます。

ひすいさんも 「ひとみちゃんには、豪姫が乗り移ってるね」 って言ってくれたし、なんだか豪姫さんとは不思議な 「えにし」 で結ばれているような気がして…ニコニコ

 

その糸にたぐり寄せられるように、金沢、そして富山の旅に呼ばれたのかもしれませんね。

朝活@富山の皆さま、よろしくお願いしますニコニコ


百万石の愛☆

(2012年5月28日のブログ記事より)

それでは、前回の金沢紀行の続きをお伝えします!!


これが、私がどうしてもお会いしたかった、肖像画の中の豪姫さん♡

 

400年前に描かれた本物の肖像画は宇喜多家のご子孫がお持ちで、こちらはその写しなのですが、400年という時間の流れを感じさせないぐらい、色鮮やかで…、それなのに、本当に、おでこのところだけ色がぬけているんです。

 

母と500キロも離れてしまった幼い息子ふたりが、「母上、母上…」 って、来る日も来る日も、肖像画のおでこのあたりを撫でていたから…。

 

 

もちろん、豪姫さんも、毎日毎日、家族の無事を願っていました。

 

豪姫さんが大切に拝んでいた仏像 (そんなに大きいものではないんですよ) が大蓮寺に安置されているのですが、扉を閉めると、鍵がかかるようになっているんですね。

 

その錠が、なんと船の形になているんです。

しかも、デッキのところに、「大悲船」 って…(;し;)

 

もうね、胸がはりさけそうになりました。

 

八丈島に250年以上にわたって送り続けられた援助物資には、どれだけの想いが込められていたんでしょうね。

そしてその想いを、3代藩主から13代まで、10代にもわたってリレーし続けた、前田家の愛があったんですねラブラブ

 

そこはかとなく優しい加賀前田家の歴史ですが、その裏には、優しさだけでなく、誇り高い生き方があった…ということを、次回お伝えしますねニコニコ


百万石の誇り☆

(2012年5月30日のブログ記事より)

先日から、金沢&富山の旅について書かせていただいていますが、今日はその最終回。

富山市の郊外にある浮田家(うきたけ)住宅についてレポートさせていただきますねニコニコ

 

浮田家というのは、古くからこの地に土着した豪農として知られていますが、「浮田」 という姓は、もともと富山にはなかったのだそうです。

 

江戸時代の初めに、ある男の子を前田家から預かることになり、その時に 「浮田」 姓を名乗るようになった…というのが、浮田家の家系伝説です。

 

その後、浮田家は、立山、黒部の藩境の警備 (この辺りには鉱山があり、鉱物資源を他藩に奪われないように警備していました) や山林の保護などを行う奥山廻役を歴任しました。

 

そして、農民でありながら500石の格式を許され、代官職を兼ねるようになると3000石の格式となりました。

 

その大邸宅が、重要文化財として保護されていて、お邸の内外を見学することができるのです。

 

こちらが、浮田家住宅の外観です。

この建物の外側には、3000石の格式にふさわしい、立派で重厚な門があります。

新緑と木造の大邸宅のコントラストが、美しかったなぁラブラブ

 

それにしても、いくら豪農とはいえ、これだけの格式の高さと大邸宅を与えられた浮田家って、いったい…?

 

ここから先は、史実かどうかはわかりませんが、浮田家に伝わる家系伝説をご紹介しますね。

関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多 秀家公は、戦場を脱出し、伊吹山方面に逃れました。

戦いに勝利した家康は、西軍諸将の首を持ってきた者には、莫大な恩賞を与えると近郊の村々にお触れを出したので、腕に自信のある者たちが、伊吹山の山中にも多数入っていったのです。

その落ち武者狩りのリーダーの一人が、矢野 五郎右衛門でした。

 

関ヶ原の戦いから二日が経ちました。

五郎右衛門は、ついに、探し求めていた武将に出くわしました。

 

衣服は汚れてはいるものの、そのしつらえは見事。

表情は疲れきっていましたが、その顔からは、えも言えぬ気品が感じられ、ひと目見ただけで、身分の高い武将であることがわかりました。

 

ところが、五郎右衛門に気づいた武将は、こともあろうか、「私は宇喜多秀家である。」 と名乗ったではありませんか…!!

 

宇喜多秀家といえば、西軍の大将も同然。

もし彼が本当に秀家で、その首を家康に差し出したなら、西軍の首謀者である石田三成と並んで、最も高価な恩賞を得られるでしょう。

 

その人が、自ら名乗り出るということがあるのだろうか…?

五郎右衛門は、目の前の現実が理解できず、しばし呆然としてしまいました。

 

秀家を名乗る若武者は、言葉を続けました。

「腹も減ったし、道に迷って困っていたところだ。湯漬けなどふるまってもらえないだろうか。その後は、徳川方へ引き渡してもらってもかまわない。決してそなたを恨みはしない。」

 

五郎右衛門は、秀家の潔さと気品に、雷にうたれたような衝撃を覚えたのでしょう。

そして、一瞬で決断するのです!!

「すべては私にお任せください!!

五郎右衛門は、莫大な恩賞を棒に振ってまで、秀家を守り抜く覚悟を決めたのでした!!

 

五郎右衛門は、40日間にもわたって、秀家を自宅裏の穴倉に匿い続け、ついに大阪・備前島にある宇喜多屋敷に送り届けました。

 

ここで、秀家と豪姫は、つかの間でしたが、一緒に過ごすことができました。

そしてこれが、二人の今生の別れとなったのです(;し;)

 

 

その後、秀家は、島津家を頼って薩摩に落ち延びていきましたが、数年後、ついに家康の知れるところとなり、八丈島に島流しにされるのです。

 

さて、浮田家の家系伝説では…

 

備前島の宇喜多屋敷で、夫婦がつかの間の再会を果たした時に、豪姫が身ごもり、加賀に戻ってから男の子を産んだ、と。

 

前田家は、その子を領内の豪農に預け、浮田姓を名乗らせた、と。

 

この子が秀家公の息子とわかれば、当然この子も八丈島に島流しにされるので、「宇喜多」 姓ではなく、同じ音の 「浮田」 を名乗らせたというのです。

 

正直、この話が史実かどうかはわかりません。

 

でも、この話がもし史実だとしたら…

いや、史実であってほしい…

そんな気持ちになりました。

 

もし史実なら、豪姫は、たまには息子に会えたかもしれません。

もしそうなら、彼女の悲しみが少しだけ癒えたのではないかしら(;し;)

 

そして、前田家の想いを想像すると、胸がいっぱいになるんですね。

 

戦争犯罪人となって島流しにされた秀家公の子孫が、その後も大切に養育されるように環境をととのえ、前田家として出来うるかぎりの収入と格式を与えていったのです。

 

ここに、前田家の誇り高い生き方が表れているような気がします。

 

かつて秀吉は、諸侯の中で前田家を最も大切に扱いました。

伝説となった醍醐の花見の時にも、前田家を別格の扱いにし、愛する息子の守り役にも、前田家を指名しました。

 

秀吉存命のうちは、前田家は、決して徳川の下風に立つことはなかったのです。

 

それが、関ヶ原の戦いで、天下は徳川家の手中に…。

前田家は、臣下の礼をとりましたが、反徳川の象徴とも言うべき宇喜多秀家の子孫に対して、徳川の目をくらませながら、ここまでのことをした…。

 

もちろん、これは前田家の優しさでもあるのですが、それだけではない、徳川に屈しない誇り高き生き方が、秘められていたのではないか…

そんな気がしました。

前田家というのは、日本の歴史が生んだ傑作だと思いました。

優しさ、強さ、おおらかさ、誇り…

日本人のベースにあるこれらの要素を、歴史の中で体現してくれた前田家。

私も、前田家のいい意味での 「したたかさ」 を、見習っていこうと思いました。


戦国ジャニーズ♪

(2013年6月2日のブログ記事より)

歴史ある糸島の地に、築120年を誇るとても素敵な古民家…。

場の神さまが応援してくださったのでしょうか、ご縁をいただいた皆さまと、とっても素敵なひとときを過ごさせていただきましたニコニコ

“感動する日本人の生き方”をテーマにした、歴史講演会。

糸島をめぐる古代史の魅力、日本人らしい生き方をした歴史上の偉人や地元・福岡の先人たちのお話をお伝えしました。

 

夕方帰宅すると、大好きな岡山の友だちから素敵なプレゼントが届いていて、感激しました♡

なんとなんと…「備前くにとり物語 宇喜多直家・秀家」と題する、記念切手。

 

うわぁ、戦国ジャニーズ・宇喜多秀家の超イケメンな肖像画や、八丈島の海岸に建てられた秀家&豪姫の石像etc.…もうたまりませんわ( *´艸`)

素敵な出来事は、さらに素敵な出来事を呼び込むんですね。

「喜べば 喜びごとが 喜びて 喜び集めて 喜びに来る」

 

今日も明日も、皆さまのもとに喜びごとが喜び集めてやって来ますように…ラブラブ


現実が夢を超える日☆

(2013年6月16日のブログ記事より)

この写真は、国の重要文化財に指定されている『浮田住宅』。

富山市の郊外にあるこの場所は、私にとって特別な場所なんです。

 

2011年6月発売の『人生に悩んだら日本史に聞こう ~幸せの種は歴史の中にある』(祥伝社)、今年3月に出版させていただいた『感動する! 日本史』(中経出版)。

 

その両方に唯一ダブって書かせていただいた(切り口は違いますが…)のが、戦国ジャニーズ・宇喜多秀家と豪姫の愛の物語でした。

その物語の、一つの象徴となっているのが、ここ浮田住宅です。

 

昨年の秋に富山で講演…させていただいた時に、ここに連れて来ていただいて、とにかく感動してしまい、その感動を新刊『感動する! 日本史』で書かせていただいたのです。

 

その特別な場所で、なんと、今年の秋、講演させていただけるかもしれないんですって!!

きゃぁ、どうしましょう…!?

まさかこんな夢を超えた現実がやって来るなんて…( *´艸`)

人生って本当に素敵ですねラブラブ

きっと秀家公と豪姫さんのお導きですね。

四百年の時を超えて、お二人の思いをしっかり伝えますからね~ニコニコ


5月28日に、金沢にうかがいます♪

(2016年5月19日のブログ記事より)

わたしが歴史のエピソードを本にしたり、講演でお話しするようになって、間もなく5年が経とうとしています。その間、日本各地に眠る100以上のエピソードを掘り起こしてきましたが、そのなかで一番思い入れのあるお話が、加賀百万石に伝わる愛の物語です。

関ヶ原で敗軍の将となり、八丈島に流された宇喜多秀家に、その妻の実家である加賀前田家から、徳川265年の間、1度も欠かされることなく、仕送りが届けられていたという事実を知ったとき、私は本当に胸がふるえました。

この話を全国各地でさせていただいていたら、いつの間にかご縁がつながり、金沢に呼んでいただけるようになりました。

 

今回、金沢での講演が3回目となります。鉄板ネタに、まだお話ししたことのない、新しいエピソードを交えながら、心を込めてお話しさせていただきます。金沢は富山や福井からも近いので、北陸の皆様にお越しいただけたら嬉しいです!!

 



準備中です
暫くおまちください

 


エジソン

エジソンから21世紀に生きる私達へのメッセージ

(2010年10月8日のブログ記事より)

先日、不可能と言われていた養殖真珠の発明を成し遂げたミキモトの

創業者 ・ 御木本 (みきもと) 幸吉氏のエピソードをブログに書かせていただきました。

 

その時、彼の偉業を讃えるエジソンの言葉をお伝えしましたが、実は、

エジソンは、御木本幸吉だけでなく、意外に数多くの日本人と関わりを持っています。

 

 

幸吉をエジソンに紹介したのは、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一ですし、野口英世もアメリカ留学中にエジソンと親交がありました。

 

 

金子堅太郎もその一人で、エジソンが亡くなった際には、日本の追悼会の会長も務めました。

エジソンが日本びいきだったのは、金子堅太郎とのご縁で、新渡戸稲造の『武士道』 を読んでいたからかもしれませんね。

 

 

また、何人かの日本人は、エジソンのもとで働いていました。

日本電気 (NEC) の創立者 ・ 岩垂邦彦や、白熱電球を日本に持ち帰り東芝を設立した藤岡市助が、エジソン ・ マシン ・ ワークス社で働いていましたし、

岡部芳郎という青年が、唯一の日本人助手としてエジソンの信頼が篤く、エジソンの秘密研究室で働いていたそうです。

 

 

エジソンが秘密研究室を持っていたということも驚きですが、そこで日本人が働いていたなんて、「事実は小説より奇なり」 ですね !!

 

 

エジソンは、世界の発明王であると同時に、数々の名言を残していますが、

私が最も感銘を受けたのは、次の言葉です。

 

「これからの機械文明を生きるには、心を進化させることが必要だ。」

 

機械を扱う人間の心の持ちよう一つで、機械は凶器にもなるし、平和の道具にもなります。

 

だからこそ、機械と対極にあると考えられる “心”=思いやり、道徳心、品性が大事である…

 

発明王の重みのあるこの言葉は、21世紀に生きる私たちへのメッセージラブラブ

 

 

 

さぁ、今こそ私たち日本人の出番です!!

 

 

「人はとても物静かで、争いごとはまれで、盗みも少ない。気候は温暖で、草木は冬でも青く、土地は肥え美しいところです。性質は素直で雅風があります。」

 

この日本に対する記述は、なんと1400年前の 『隋書倭国伝』 に書かれています。

 

 

そしてこの評価は、幕末から明治 ・ 大正にかけて来日した外国人たちの記述ともピタリと一致するのですニコニコ

 

私たちのご先祖さまたちは、長きにわたって、文化と人間性を大事に大事に育んできたんですね ニコニコ

 

 

これからは、日本人のためだけでなく、人類のために、この日本の伝統である文化力、人間力を発信し、リレーしていきましょう~ ♪♪


お市の方

愛の達人・お市の方♪

(2010年1月21日のブログ記事より)

「結婚はしたいけれど、結婚相談室に入会してまでは…」

 

結婚コンサルタント マゼンダを開業して1年と1ヵ月。

その間、たくさんの独身女性にお会いしましたが、こんなふうにおっしゃる方が意外に多いんです。

 

どうやらその方々は、“お見合い結婚には愛がない” と勘違いしていらっしゃるようです(>し<)

 

でも実際は、結婚が決まった会員さんたち、みんなびっくりするぐらいラブラブ♡で、愛情の深さは、恋愛結婚の場合とほとんど変わらないですよニコニコ

 

単に、出逢いのきっかけが “お見合い” だった…という感じですラブラブ

日本の伝統的風習である “お見合い結婚”、今となっては逆に新鮮味があって、なかなかいいものですよ!!

 

お見合いというのは、日本では歴史が古く、庶民層の風習として定着したのが、今から400年ほど前、江戸時代のことと言われています。

 

江戸時代以前も、身分が高い人はお見合い結婚が主流でした。戦国大名の政略結婚は、その最たるものですよね。

 

初めて逢ったその日が、婚礼の日…というワケですから、究極のお見合い結婚と言えます!!

 

戦国一の美女と言われる、お市の方ニコニコ

 

彼女は、兄 ・ 信長の命令で、近江の国の小谷 (おだに) 城主 ・浅井長政と結婚します。

 

のちに秀吉の側室となる茶々(ちゃちゃ)、京極高次の正室となる初 (はつ)、徳川2代将軍 ・ 秀忠の正室となる小督 (おごう) の3姉妹と2人の息子に恵まれ、長政&市の夫婦は、周囲がうらやむほどの仲睦まじさだった伝えられています。

 

そして夫婦の仲睦まじさは、後年、織田家と浅井家の友好関係がこわれてからも、なんら変わることはなく、長政の死による永遠の別れが訪れるまで、2人は深く愛し合ったそうです♡

 

娘の茶々は、父の十七回忌と母の七回忌に、菩提を弔うため、それぞれの肖像画を絵師に描かせています。

 

お市の方の肖像画は、“戦国一の美人画” として名高いのですが、浅井長政もまた、肖像画で見るかぎり、背が高くて気品があり、かなりのイケメンニコニコ

まさしく戦国一の美男美女のカップルですラブラブ

な~んだ、そんなイケメンなら、わたしもお見合いして、愛し愛されたい

…と思っている貴女、お市の方は、貴女が想像するよりも、はるかに女としての器が大きいのですよ!!

婚家である浅井家が、実家の織田家に滅ぼされる…

という戦国時代ならではの過酷な運命に翻弄されたお市の方は、

その後、兄 ・ 信長のもとで平穏に暮らすも、本能寺の変で信長が

亡くなったあと、人生の転機を迎えます。

 

36歳のときに、お市の方は、再び嫁ぐのです。

相手は、自分より25歳も年上の、61歳の柴田勝家。

ちなみに勝家は初婚だったそうです。

優雅な貴公子風の浅井長政と違い、勝家は無骨なイメージ。

 

さて、この年の差婚、夫婦仲はどうだったと思われますか?

 

お市の方は、織田家のすべての家臣にとって憧れの存在でしたから、彼女を妻として迎えることのできた勝家は、天にも昇る気持ちだったに違いありません。

 

では、お市の方は…?

 

勝家は、無骨だけれど、心が優しく、年の離れた妻を、細やかな愛情と限りない優しさで包み込みました。

 

不器用な勝家でしたが、その不器用さと純粋さが、お市の方の目には、好もしく映ったようです。

 

 

それに、勝家は、彼女の連れ子である3人の娘に対しても、同様に愛情を注ぎました。

娘たちも、おじいちゃんと言っていいほどの年齢の勝家になつき、実の親子のように互いに慈しみ合いました。

 

これはあくまでわたしの想像ですが、お市の方は、25歳も年上の勝家に対して、激しい恋心を抱くことはなかったかもしれませんが、篤い信頼と尊敬で結ばれ、互いに深く愛し愛されたのではないかと思いますラブラブ

 

わたしが抱くお市の方のイメージって、まさしく愛の達人なんですニコニコ

 

愛するって、能力の一つだと思うんですね。

どんな相手に対しても、その人の素敵なところを見つけ、そこを照らし続けることで、さらにその人の魅力を引き出すことができ、互いに愛し愛され、その人と共有する時間を輝かせることができる…。

 

そして相手を受け入れられるキャパの広さが、お市の方の女としての器の大きさ、懐の深さにつながっているんじゃないかな♪♪

 

お市の方のような愛の達人に、わたしもなりたい…ニコニコ

 

「幸せになりたい」 と願う女性たちの多くは、「こういう相手なら幸せになれる」 という枠を自分でつくって、その条件に適った相手を必死に探しますが、相手に依存して幸せになろうとするのって、ちょっと違う気がします。

 

「幸せは、自分自身の考え方、生き方が決める」

 

お市の方の愛し方、愛され方が、現代に生きる私たちに、幸せの本質をメッセージとして伝えてくれていると思うのです。


大川 常吉 署長(おおかわ つねきち)
防災の日に思い出したい歴史の1ページ

(2010年9月4日のブログ記事より)

9月1日は、防災の日。

 

なぜ防災の日が9月1日になったかというと、9月はもともと台風の被害が多いことに加え、今から87年前の大正12年9月1日に、関東大震災が起こったからです。

 

関東大震災は、実に190万人以上もの方々が被災し、犠牲者は、死者 ・ 行方不明者合わせて14万人以上にのぼる大災害です。

 

しかも、加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日 (震災発生8日前) に急逝していたため、「首相不在」という異常事態下であることが、混乱をさらに大きくしました。

 

地震発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、東京の至る所で火の手が上がり、当時、東京にあった新聞社のうち、東京日日新聞 ・ 報知新聞 ・ 都新聞を除く13社が消失。

 

これら3社も印刷機能が麻痺し、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで、報道機能はストップしたままでした。

 

 

交通手段ばかりか通信手段も奪われ、関東以外の地域では、伝聞情報や新聞記者 ・ ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり (ラジオ放送の実用化はこの直後、大正末期のことでした)、新聞紙上では、「東京(関東)全域が壊滅 ・ 水没」 ・ 「津波、赤城山麓にまで達する」 ・ 「政府首脳全滅」 などといった噂やデマが取り上げられました。

 

 

それらデマの中に、「朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」 というものもありました。

 

もちろんこれはデマだったのですが、朝鮮人が混乱に乗じて日本政府の転覆を計るのではないかと疑心暗鬼になった人々は、朝鮮人を襲い、殺害しました。

 

そのやり方があまりに残酷で、集団心理の恐ろしさを感じずにはいられません。

 

朝鮮語は、語頭に濁音が来ないことから、道行く人たちに 「十五円五十銭」 や「ガギグゲゴ」 などを言わせ、うまく言えないと、朝鮮人として暴行、殺害したのです。

 

 

罪もなく殺された朝鮮の人々も本当にお気の毒ですが、言葉で判断するわけですから、方言を話す地方出身者や言葉の不自由な障害者が間違えて殺害されたケースもありました。

 

 

日本人として、暗澹たる気持ちにさせられる、酷い事件…でも決して目をそむけることは許されない、歴史の暗い1ページですね (;し;)

そうした中、横浜鶴見の警察署に、たくさんの朝鮮人が救いを求めて訪れました。

その数、およそ300人。

 

それを知った群衆は、鶴見署を取り囲んでどんどん膨れあがります。

当時の鶴見署は、署員わずかに30人あまりの小さな警察署です。

その鶴見署を1000人を越える人々が包囲し、「朝鮮人を殺せ!!」 「奴等を出せ!!

と口々に叫ぶのです。

 

前代未聞の事態です。

 

この時、鶴見署長 ・ 大川常吉は、たった一人で進み出て、1000人の群衆に対峙して、大音声をあげました。

 

「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。

そのかわり諸君らと命の続く限り戦う。」

 

さらに…

 

 

「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう!!

と言って、眼前へつき出された一升にもなろうかという水を、群衆の面前で飲み干したのです。

 

この気迫に押された群衆は引き上げ、ことなきを得ました。

 

後に、大川署長はこう語ったとされています。

「朝鮮人であれ、日本人であれ、自分の仕事は人の命を救うことなのであり、当然の行動だった。」

 

暗く重たい過去の歴史に、一条の光が射したような、大川署長の存在。

彼は、300人の朝鮮人の命だけでなく、後世に生きる私たち日本人の誇りも救ってくれました!!

彼の使命感と胆力に、心から拍手を送りたいと思いますニコニコ


準備中です
暫くおまちください

大友 宗麟(おおとも そうりん)

心が満たされる時・・・☆彡

(2011年2月19日のブログ記事より)

16世紀にヨーロッパで使われた世界地図には、日本の所に「BUNGO」「JAPAN」と記されています!!

 

当時の日本では、豊後(大分)こそが、南蛮文化が花開くキリスト教の一大拠点だったのです。

 

豊後の国主は大友宗麟。

 

彼は、親交の深かった宣教師フロイスには「日本で最も叡智聡明な王」と絶賛され、江戸時代に書かれた史書では「強情・好色・浪費家」と酷評されています(>し<)

 

人間は多面的な存在ですから、見る人によって評価が分かれるのはよくあることですが、ここまで両極端な評価を受けるのは、珍しいですね。

宗麟は、キリシタン大名として有名ですが、彼とキリスト教の出逢いは、20歳で豊後の国主となって程なくのことでした。

 

日本にキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルに出会い、彼の熱意に感動して布教を許可したのです。

 

宣教師たちは、宗麟の支援を受け、教会・病院・育児院などを建設し、貧しい領民を救済しましたニコニコ

 

この病院は、日本最初の総合病院と言われ、日本初の外科手術も行われたそうです。

大友家は、宗麟の代で版図を最も広げ、一時は龍造寺・島津とともに九州を三分するほどの大勢力となりましたが、耳川の戦いで島津氏に敗れた後は衰退の一途をたどり、配下の将士の離反にも悩まされました。

 

進取の気性を持ち優れた文化人でもあった宗麟は、キリスト教に傾倒しすぎて既存勢力の反発を招き、孤立していったのでしょう(>し<)

 

一説には、耳川の戦いで大敗を喫したのも、宗麟が戦場のはるか後方で礼拝に耽っていたため、将兵の士気が上がらなかったからだと言われています。

 

 

当時は、貿易を目当てに宣教師を保護し、自分も洗礼を受けるいわゆる“キリシタン大名”が多数いましたが、宗麟の場合は、キリスト教の信仰そのものに興味を持ち、深く傾斜していったようです。

 

その極端な傾斜のしかたやスキャンダルにまみれた女性関係からは、苦悩と葛藤に満ちた彼の人生が浮かび上がってきます。

 

奈多八幡宮の大宮司の娘である正室・奈多夫人とは、キリスト教入信がきっかけで離婚したと言われていますが、離婚前も、わざわざ京都に赴いて美女を探し略奪婚を繰り返した、美人と評判の家臣の妻を奪って側室にし、武士としての面目を失った夫が自害した…など、不名誉な逸話が数多く残されているのです(>し<)

 

彼がここまで女性に執着したのは、幼少期の境遇が影響しているのかもしれません。

 

宗麟を生んだ母は若くして亡くなり、父は、側室が生んだ腹違いの弟を愛したのです。

 

肉親の情愛に飢えていたであろう宗麟。

その彼の心が、満たされる瞬間がやってきます。

それは、島津氏を相手にした臼杵城での籠城戦。

 

逃げまどう数千の領民を城に入れ、宗麟自らが握り飯を配り、衣服を与え、窮乏する民を救うために全力を尽くしたのです。

大友軍は、臼杵城を死守しました。

九州は、その後、秀吉によって平定され、大友氏の領土はもとの豊後一国に戻りました。

 

若い頃から戦いに明け暮れた彼も、すでに50代後半、人生最期の時を迎えようとしていました。

 

人は、与えたものだけを得ることができる…

 

愛欲も領土欲も手放し、領民に愛を与えた時、彼の心は初めて満たされたのではないでしょうか。

 

肉親の情愛に飢え、その欠乏感を埋めようともがき続けた彼の人生が、最後の瞬間には、愛がいっぱいに溢れていたことを願わずにはいられませんラブラブ

 

領土よりも愛欲よりも、もっと大切なものを、彼は手に入れたと思うから…。


準備中です
暫くおまちくださ

大山 捨松(おおやま すてまつ)
鹿鳴館の華・大山捨松①
(2010年5月28日のブログ記事より)

 

大山捨松 (すてまつ) … “鹿鳴館の華” と謳われた、明治日本版 ・ミス (正確にはミセスですね・・・) ユニバース↑

 

アメリカに留学し、国際人としての教養を身につけた美少女 ・ 捨松は、陸軍大将であり、西郷隆盛のいとこである大山巌と結婚、公爵夫人として、鹿鳴館で華麗なデビューを飾りました!!

 

 

華やかな鹿鳴館…

 

でも、その実態は、「日本が文明国であることを世界に示す」 ために、政府高官やその夫人たちが、必死に慣れない宴席のマナーを身につけ、体格に合わない燕尾服や夜会服に身を包み、覚えたてのぎこちない社交ダンスにのぞむ…という涙ぐましい努力の結晶だったのです。

 

その中で、捨松だけは、堂々と、生き生きと振る舞っていました!!

 

当時の日本女性には珍しい長身で、ドレスの着こなしが光り、アメリカ留学中に身につけた社交ダンスはサマになっている、しかも英・仏・独語に堪能で、冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する…

 

そして、何よりも、美しい顔立ちと気品のある振る舞いが、人々を魅了してやみませんでした。

 

その姿は、まさに “鹿鳴館の華”。

 

わたしは、幼い頃、何かの本で大山捨松のことを知り、いつしか彼女に憧れを抱いていました。

 

「原始、女性は太陽であった。」…この平塚雷鳥の言葉を象徴する女性が、わたしの中の捨松のイメージだったのですニコニコ

 

ところが、先週、歴史ナビゲーターとして活躍中で、産経新聞に記事を連載なさっている井上政典さんとお逢いし、捨松の知られざるエピソードをいろいろ教えていただきました!!

 

「あの時代に、こんなにも女性が生き生きと生きていた!」 という事実が、現代に生きる女性たちの勇気になるのではないか…と思ったので、あらためて捨松の心ときめくエピソードをご紹介させていただきますね。

 

それにしても、“捨松” という名前、ちょっと変わってますよね?

 

実は、捨松は、幼い頃、“さき” と呼ばれていました。

会津藩の家老の家柄に生まれ、何不自由ない生活を送っていましたが、彼女の人生が180度変わる瞬間がやって来ます。

 

戊辰戦争です。

 

会津藩は “朝敵” とされ、会津若松城が新政府軍に包囲されたのです。

 

数え年8歳のさきは、家族とともに籠城し、負傷兵の手当てや炊き出しなどを手伝いながら、城内に着弾した焼玉の不発弾に濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ 「焼玉押さえ」 という、危険極まりない作業をしたそうです。

 

白虎隊もそうですが、このような幼い子どもや女性までもが、覚悟の上で戊辰戦争を戦ったのかと思うと、会津藩の教育の素晴らしさと悲劇性が、より色濃く胸に迫ってきます。

 

明治4年、新政府により男女若干名を米国に留学させることが決定しました。

留学期間は10年間。

 

発案者の黒田清隆は、西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から 「男女」 若干名という、例のないものとなりました。

 

この中に、さきの兄が選ばれました!!

 

戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた東北諸藩は、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的に応募させたのです。

 

けれども、さすがに女子の応募はありませんでした。

 

おそらく、当時の人々にとって、アメリカ留学というのは、現代の宇宙飛行士よりも現実味のないものだったでしょう。

 

女子の再募集がかけられると、5人の応募がありました。

全員、旧幕臣や賊軍の娘です。

 

その中には、さき、永井しげ、そして後に津田塾大学を創設する津田梅子がいました!!

 

さきを送り出す母 ・ えんの気持ちは、どんなにかつらかったでしょう。

 

この先10年という長い年月を、見ず知らずの遠い異国で過ごすことになる娘…

お前のことは一度 「捨てた」 と思おう、でも、お前の帰国を一生 「待って」 いるよ

…そんな想いから、えんは、さきに、“捨松” と改名させたのです。

 

さてさて、アメリカに渡った5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人は、ほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちに帰国してしまいましたが、逆に年少の捨松、永井しげ、津田梅子の3人は、異文化での暮らしにも無理なく順応していきました。

 

捨松は、14人の子どもたちを育てる牧師宅に寄宿し、4年間を過ごしたのち、ニューヨーク州のヴァッサー大学に進学。

 

ヴァッサーは、全寮制の女子大学で、女性知識人を多数輩出した名門校!!

 

ただでさえ東洋人の留学生などは珍しいのに、美貌と知性を兼ね備え、さらに「焼玉押さえ」 などの武勇談に事欠かないサムライの娘 ・ スティマツは、すぐに学内の人気者となりました!!

 

捨松は、成績優秀な上に、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかったといいます。

 

学年三番目の通年成績で、「偉大な名誉」 の称号を得て卒業した彼女は、卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文 「英国の対日外交政策」 をもとに、講演を行いましたが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来栄えでした。

 

約束の10年は過ぎ、留学生たちに帰国命令が出されましたが、アメリカの赤十字社の活動に関心を寄せていた捨松は、さらに留学期間を一年延長してもらい、看護婦養成学校に通いました。

 

上級看護婦の免許を取得した捨松が、故国の地を踏んだのは、明治15年の

こと、実に11年ぶりの帰国でした。

 

捨松が帰国するとすぐに、捨松より2歳年下で、アメリカで苦楽をともにした永井しげが結婚ラブラブ

 

その結婚式で、捨松に一目惚れしたのが、大山巌だったのです!!

 

けれども、大山巌と捨松は、親子ほどの年の開きがある上に、捨松が幼い頃籠城した会津若松城に、砲弾を撃ち込んでいたその張本人が、大山巌でした(>し<)

 

いわば敵同士の二人が、なぜ結婚したのか…

 

この結婚にまつわるエピソードも、実に捨松らしくて、素敵なのですが、

長くなりましたので、続きは次回……♪


鹿鳴館の華・大山捨松②

(2010年5月31日のブログ記事より)

大山巌と捨松が出逢ったのは、巌41歳、捨松23歳のとき。

巌は、娘3人を残して妻に先立たれたあとでした。

巌の亡くなった妻は、薩摩出身の歌人 ・ 吉井友実の娘でした。

 

吉井友実は、わが子同然に可愛がっていた巌のために、また、目に入れても痛くない3人の孫娘のために、巌と捨松の結婚に尽力し、捨松の実家 ・ 山川家に挨拶に出向きました。

 

 

山川家は、びっくり仰天!!

 

親子ほどの年の差、薩摩と会津は仇敵同士、さらに、山川家は会津藩の家老の家柄、かたや大山家は薩摩藩の下級武士…

 

山川家は即座に断りました。

 

けれども、そんなことで諦める巌ではありません。

今度は、従兄の西郷従道 (つぐみち) が説得に当たりました。

 

相手は、維新の元勲 ・ 西郷隆盛の弟であり、政府高官です。

山川家は、失礼にならないように、断る理由を考えなければなりません。

 

「わが家は、賊軍の家臣ですから」

 

苦しまぎれに考えた断り文句も、従道には通用しませんでした。

 

「そちらが賊軍の家臣とおっしゃるなら、大山も自分も、逆賊の身内ですよ。」

 

 

西南戦争が終わってまだ5年あまり、西郷隆盛の “逆賊” の汚名は、まだ晴れていませんでした。

 

 

この従道の言葉に対し、山川家でも返答に窮してしまい、「本人の意志に任せる」となったのですが、帰国子女 ・ 捨松の返事がまたカッコいいのです。

 

 

「閣下のお人柄を知った上でお返事しとうございます。」

 

と、捨松は巌をデートに誘ったのですニコニコ

 

 

11年に及ぶ留学生活で、捨松の日本語はかなりあやしくなっていました。

その上、巌は、濃ゆ~い薩摩弁。

 

悲しいかな、二人は、せっかくのデートなのに、お互いが何を言っているのか理解できません…(>し<)

 

 

そこで、捨松がとった行動は…

 

 

日本語以上に得意な英語で話しかけたのです!!

 

すると、とたんに会話がはずみました。

 

実は、巌もヨーロッパへの留学経験があり、英語 ・ ドイツ語 ・ フランス語が堪能でした。

 

 

それから、二人は、デートを重ねてお互い理解を深めていったようですラブラブ

 

巌は、心が広く、茶目っ気たっぷりな性格で、デートでは、欧州仕込みのジェントルマンぶりを発揮しました。

 

 

現役の陸軍卿が、娘のような年齢の捨松にぞっこんになり、いそいそとデートに出かける姿を想い浮かべるだけで、なんとも微笑ましい気持ちになりますねラブラブ

 

 

捨松にとって、巌はなんともかわいい人に思えたでしょうし、日本人離れした感覚がとっても合っていたと思うんですね。

 

 

ファーストデートから3ヵ月後、捨松は結婚を決意しました!!

 

 

親の意向で結婚が決められていたこの時代にあって、お互いの愛情を重視した二人の結婚は、未来を先取りしていて素敵ですね♡

 

明治16年11月に二人は結婚ラブラブ

その1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で、結婚披露宴が盛大に催されました。

 

このときの招待状は全文がフランス語で書かれており、人々を仰天させたというエピソードが残されています。

 

以来、捨松は、鹿鳴館の主役を務めることになるのですが…

 

捨松の生き方が魅力的なのは、主役を務めながら、周りの人たちに対するサポートも素晴らしいところなんですニコニコ

 

 

まるで主演女優賞と助演女優賞を同時に受賞したような、あるいはサッカーで名ストライカーでありながらアシストもトップ…とでも言いましょうか、とにかく豊かな人間関係の中で見せる多面性が、彼女の魅力であり、ふところの深さを物語っていると思います。

 

次回は、彼女の名アシストぶりにスポットを当ててお送りしま~すニコニコ


鹿鳴館の華・大山捨松③

(2010年6月1日のブログ記事より)

 

鹿鳴館に咲いた大輪の花 ・ 大山捨松。

彼女は、主役を演じながら、同時に、公私にわたってサポート役としても輝く人生を送りました!!

 

捨松の最終回は、彼女の名助演女優としての一面をご紹介しますね!!

 

ある時、有志共立東京病院を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、雑用係の男性が病人の世話をしていることに気づき、衝撃を受けます。

 

そこで、高木院長にアメリカにおける自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要であると説き、その開設を提言しました。

 

高木院長は、捨松の意見にはもちろん賛成でしたが、実情は財政難で実施が難しく、その旨を正直に打ち明けました。

 

 

けれども、それを聞いてあきらめる捨松ではありません。

 

 

資金がないなら、つくればいい…

 

 

捨松が思いついたのは、日本初のチャリティーバザーでしたラブラブ

 

 

明治17 (1884) 年6月、捨松は、「鹿鳴館慈善会」 を開いたのです。

 

品揃えから告知、そして販売にいたるまで、捨松自らが陣頭に立ち、政府高官の妻たちを指揮しました。

 

 

バザーは、3日間にわたって行われましたが、予想を大幅に上回る、鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげました。

 

 

捨松の頼もしさは、新しい時代の日本人女性として、人々の脳裏に焼きついたことでしょうラブラブ

 

捨松は、その全額を共立病院へ寄付して、高木院長を感激させたそうです。

そしてこの資金をもとに、2年後には、日本初の看護婦学校が設立されました。

 

 

1904年に日露戦争が起こると、夫 ・ 巌は、陸軍の最高責任者である満州軍総司令官になりました。

いわば “国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者” という重責を担ったのです。

 

捨松は、看護婦の資格を生かして、日本赤十字社で戦傷者を看護したり、戦死者の家族の世話にあたりました。

 

そしてその一方で、政府高官夫人たちを動員して、募金活動や包帯作りの活動なども行いました。

 

先の鹿鳴館バザーとともに、捨松は日本の上流社会に、アメリカ流のボランティア精神を定着させていったのです。

 

この日露戦争の間に、アメリカの世論が日本びいきになったのは、金子賢太郎が新渡戸稲造の 『武士道』 をルーズベルト大統領に紹介したのが最大の理由ですが、実は、捨松の内助の功も少なからず影響を与えました。

 

捨松は、得意の英語力を生かして、積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えたのです。

 

日露開戦当初は、世界中の誰もが大国 ・ ロシアの勝利を疑いませんでした。

ところが、ふたを開けてみると、極東の島国 ・ 日本が次々とロシア軍を破っていくではありませんか!!

 

その日本軍の総司令官の妻は、アメリカに11年間も留学し、ヴァッサー大学を卒業した…

 

こうした背景を知ったアメリカの人々により、捨松の投稿は好意的に受け止められ、これがアメリカ世論を親日的に導くことに役立ったというわけです。

 

新聞紙上の捨松の呼びかけで集まった義援金は、アメリカの友人や恩人たちから直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用されたそうです。

 

 

5人の女子留学生のなかで、帰国時十代だった津田梅子だけは、結婚せずに「女子英学塾」 をつくり、女子教育に打ち込む道を選びました。

これが現在の津田塾大学です!!

 

捨松は、津田梅子の活動を全面的に支援しました。

 

「教育方針に第三者の容喙を許さない」 という立場をとる梅子は、金銭的援助をかたくなに拒んだので、捨松は、ボランティアとして奉仕しました。

 

初めは顧問として参加し、後には理事や同窓会長を務めるなどして、積極的に梅子の英学塾の運営に関与しました。

 

大山夫人という立場上、直接教師として教壇には立つことはありませんでしたが、学校の運営面で、女子教育に貢献したのです。

 

独身女性が独立して仕事をしていくには困難な時代において、梅子があれだけの成功を収めることができた背景には、梅子の努力もさることながら、社会的地位の高い大山捨松の協力があったことは間違いないでしょう。

 

さて、捨松が23歳で大山巌と結婚した時、巌には3人の娘がいました。

結婚後、捨松も2男1女を出産しましたから、併せて6人の子どもたちの母親となり、大山家は大家族になりました。

 

40代半ばになって、跡継ぎに恵まれた巌の喜びも大きかったでしょう。

 

巌は、日露戦争後に元老 ・ 公爵となり、位人臣を極めましたが、当時の政府高官や軍人の中では珍しく、芸者遊びなども一切せずに、家族と過ごす時間を大切にしました。

 

わたしは、幼少の頃から、

「右手に仕事、

左手にだんな、

背中に子ども、

ふところにお金」

というライフスタイルを理想とし、追い求めてきましたが、いま思うと、その人生観は捨松の影響が大きかったような気がします。

 

自らが輝きながら、同時に、周りの人たちを輝かすことができる…

 

トップアーティストでありながら、名プロデューサーでもあった捨松。

 

携帯電話もないあの時代に、こんな多面的な生き方ができたなんて、奇跡を見るようです!!

 

鹿鳴館に咲いた “大山捨松” という生き方が、私たちに大きな勇気を与えてくれますねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

緒方 洪庵(おがた こうあん)

洪庵先生の事☆

(2010年5月19日のブログ記事より)

「洪庵 (こうあん) 先生」 と聞くだけで、わたしの気持ちは優しさに包まれ、胸に温かいものがこみあげてきますラブラブ

 

洪庵先生とは、江戸時代末期の医者であり、蘭学者である緒方洪庵のことです。

 

…といっても、わたしは洪庵先生について詳しくは知りません。

 

洪庵先生が、最も愛した弟子 ・ 福沢諭吉の 『福翁 (ふくおう) 自伝』 に、所々、洪庵先生に関する記述が出てきます。

 

わたしは、それを読んで、なんとなく洪庵先生って、こんな感じの方だったんじゃないかなぁ~って、想像するのですニコニコ

 

 

ちなみに、福沢諭吉って、案外口が悪いのですが、その諭吉さんが、おそらく生涯ひとことも悪口や嫌味を言ったことがなく、終生尊敬し続けた人物が、少なくとも二人いました。

 

一人は、自分を私的な従者として咸臨丸に乗り込ませてくれた木村摂津守、そしてもう一人が緒方洪庵です。

 

『福翁自伝』 に描かれた洪庵先生は、そこはかとなく優しい雰囲気を持っています。

 

洪庵先生が開いていた大坂の適塾 (てきじゅく) には、医師としても蘭学者としても名高い洪庵の名声を慕って、全国から多くの若者たちが入塾を希望して集まりました。

 

25年間で、門下生は3000人を超えてたと言われています!!

 

その3000人の中で、洪庵先生が最も愛したのが、福沢諭吉と村田蔵六です。

村田蔵六 (後の大村益次郎) は、元々は長州藩出身の医師ですが、後に木戸孝允に軍事の才を認められ、幕府の第二次長州征伐や戊辰戦争を舞台に司令官として活躍、明治陸軍の礎を築いた人物です。

 

ちなみに、伊予宇和島藩が国産の黒船を造った時には、洋学者として宇和島藩に出仕していて、軍艦の雛型を造ったり船体を設計したといいますから、マルチな才能の持ち主だったのでしょうね。

 

この村田蔵六が、才能は素晴らしいのですが、およそかわいげのない人物で、人づきあいが下手なんです。

 

町医者をしていた頃、近所の人が 「今日は暑いですね。」 と挨拶すると、「夏は暑いのが当たり前です。」 なんて答えちゃう、愛想のない人だったそうです((+_+))

 

そんな蔵六と諭吉さん…似ても似つかない二人を、同じようにこの上なく愛したというところに、教育者としての洪庵先生の素晴らしさを感じてしまうんです。

 

 

『福翁自伝』 の記述によると、洪庵先生は、当代一の医師として多忙をきわめていたにもかかわらず、適塾での講義も手を抜いたことがなく、洪庵先生のオランダ語原書講読を聞いた諭吉さんは、「その緻密なることその放胆なること、実に蘭学界の一大家 (いちだいか)、名実共に違(たが)わぬ大人物である」 と毎度感心したそうです。

 

おそらく、洪庵先生は、原語をわかりやすく的確に翻訳したり、新しい造語を作るなど、語学のセンスが抜群だったのでしょう!!

 

また、洪庵先生は、誰に対しても怒りをあらわにすることがなく、門人に対しても言葉を荒げて叱ったことのない、穏やかで心優しい人物でした。

 

 

ある時、諭吉さんが腸チフスを患い、中津藩の大坂蔵屋敷で療養しましたが、

「諭吉を家族のように思っている私には、診察はできない。」 と言って、診察は他の医師に委ね、ひたすら看病に徹したそうです。

 

このエピソードからも、洪庵先生のそこはかとない優しさが伝わってきますね♡

 

けれども、、反面、患者の命をあずかる医師としては、ひじょうに厳しい面がありました。

 

医術を仁術とし (“仁” とは思いやりのことです)、「道のため、人のため、国のため」 という信念を貫き、仁術を解さぬ門下生には厳しくあたり、破門にしたりもしています。

 

洪庵先生のこの凛とした生きざまの中に、医師という職業の本質が隠されていると思います。

 

医師を目指す方々は、全員、洪庵先生について強制的に勉強していただきたいぐらいです!!

 

 

そんな洪庵先生は、文久2 (1862) 年に将軍家の侍医に任命され、住み慣れた大坂を離れて江戸に向かいます。

 

 

大阪での自由な生活を愛していた洪庵先生は、幕府からの要請を何度も断りましたが、ついに断りきれなくなり、出仕を決意したのです。

 

江戸での洪庵先生は、将軍家茂の侍医として「法眼」の地位となるなど、富と名声に包まれましたが、堅苦しい宮仕えの生活や地位に応じた無用な出費に苦しんだと言われています。

 

江戸に移る引っ越し費用や新居の準備もさることながら、「将軍家侍医」 であり「法眼」 という地位を賜った洪庵先生は、まず家来を召し抱えなければなりませんし、身分によって着物も変わりますから、新調しなければなりません。

 

さらには、“攘夷” が叫ばれていた当時、蘭学者に対する世間の風当たりは強く、身の危険を感じた洪庵先生は、ピストルを購入するほどでした。

 

 

もともと病弱だった洪庵先生に、こんなストレスだらけの生活が耐えられるわけがありません。

 

奥医師 (将軍家侍医) 就任後1年を待たずして、喀血し、急死してしまうのです(;し;)

 

洪庵先生54歳の時のことでした。

 

愛に満ちた洪庵先生の一生を想う時、わたしの心も優しさで包まれるのですが、それと同時に、大好きだった大坂を離れ、江戸に移り、失意のうちに洪庵先生が亡くなったことに、この上なく深い悲しみを感じます。

 

洪庵先生は、江戸になんか行きたくなかったんだろうなぁ。

 

門人たちを愛し、自由に生きたかったんだろうなぁ。

 

江戸時代という身分制度のもとでは、幕府の要請は絶対的ですからね。洪庵先生の悲しみは、いかばかりだったでしょう(;し;)

 

それに比べて、私たちは、なんて自由な世界に生きているのでしょう!!

 

庵先生から受け継いだ優しさのDNAに感謝して、自分の魂が本当に喜ぶことをしていきたいですねニコニコ


岡野 喜太郎(おかの きたろう)
青年は、郷土のために立ち上がった!!

(2011年4月26日のブログ記事より)

 

今日は、ボツになった原稿の中で、私がとても気に入っているものをご紹介しますニコニコ

 

1884(明治17)年、駿河地方を台風が襲いました。

収穫期を目前に控えた農村は、台風により農作物が根こそぎ破壊され、甚大な被害が出ました。しかも、台風が来る前からの全国的な経済不況…「泣きっ面にハチ」とは、まさにこのことです(;し;)

ただでさえ貧しい農村は、たちまち飢餓地獄に陥りました。

 

このふるさとの惨状を知って、一人の青年が立ち上がります。

岡野喜太郎、20歳!!

 

喜太郎は、高根村の名主の一人息子で、被災当時は、韮山師範学校に在学していました。師範学校を選んだということは、おそらく彼は、教師になることを夢みていたのでしょう。

 

でも、彼は、ふるさとを救済し復興するために、学校をやめ、生まれ故郷に帰ると、

村民の先頭に立って農作業に励んだのです。

同時に、いざという時に困らないようにするためには、日ごろから 「勤労、節約、貯蓄」が大切であると考え、そのことを村人たちに説いてまわりました。

 

後に彼は、この時のことを述懐して、次のように述べています。

「私はもう安穏として机にかじりついている気がしなくなった。

学校を退き、家事を手伝って、わが家の危機を乗り越えるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決心した。

貯蓄と言っても一人ではなかなかできにくい。また村全体が立ち直るには、村全体がやらねば意味がない。

私は貯蓄組合をつくろうと思った。

難しいことを言わなくても、修身の教科書はなくても、村全体で貯蓄を徹底すれば、、道徳も起こるはずです。世の中もどんなに明るくなるかもしれません。」

 

喜太郎22歳の時、念願の貯蓄組合を設立しました。

 

貯蓄組合は、「組合員たちが3年間、毎月一定額を積む立て、その後5年間据え置く。その間、産業資金として必要な人に貸し出しを行って、利殖を得る」 というしくみでした。

そう、まさしくこれは銀行業務です。

 

後に商法が制定され、銀行条例が施行されると、喜太郎の設立した貯蓄組合は、根方(ねかた)銀行として再スタートを切りました。

1985(明治28)年、根方銀行の誕生…ほとんどの銀行が財閥の巨大な資本をバック

に誕生した中で、根方銀行は、名実ともに日本一小さな、庶民がつくった庶民のための銀行でした。

 

開業後は、日清戦争の勝利による好景気を背景に、業績を順調に伸ばしたものの、

経済情勢の悪化は金融恐慌を引き起こし、根方銀行に最大のピンチが訪れます。

1901(明治34)年、主要取引先の会社が破たんして、2万円 (現在の貨幣価値で約1億円) の貸し付けが焦げ付いたのです(;し;)

 

もしこのことが外部に漏れれば、取り付け騒ぎ (預金の一斉引き出し) が起こり、最悪の場合、根方銀行は倒産、地元の財界は大混乱するでしょう( ;∀;)

 

喜太郎は、父親に銀行経営の失敗を詫び、岡野家伝来の土地を抵当にして、他の銀行から借り入れをしました。そして、頭取である自らは丸3ヵ月間銀行に寝泊まりして、必死で善処置を講じました。

 

こうして最大のピンチを乗り越えた根方銀行は、1912 (明治45) 年、駿河銀行(現スルガ銀行) と改称。

 

「災害によるふるさとの疲弊を救済するために設立された」 という経緯は、スルガ銀行の歴史に大きな影響を与えることとなります。

1913 (大正2) 年の沼津大火。

民家1600戸以上が消失し、焼け野原となった街に、赤レンガ3階建てのスルガ銀行の本社屋だけが、ポツンと残りました。

 

大火の前年に新築されたこの建物は、鉄扉の裏に漆喰が塗られ、万全の防火対策がとられていたのです!!

「高熱を持つと鉄板が反り返り、その隙間から火が入る恐れがある」 と、喜太郎が、念には念を入れさせたからでした。

もしこの対策がとられていなければ、重要な書類はすべて燃えてしまったでしょう。

 

そして、1923 (大正12) 年、関東大震災。

この震災で、喜太郎の妻と三女が亡くなり、5名の従業員も死亡しました。

さらに、焼失6店、倒壊3店、焼失した中には、当日の朝開業したばかりの支店も含まれていました(;し;)

 

公私両面にわたって大打撃を被った喜太郎を、頭取としての使命感が支えます。

 

震災直後、東京ではすべての銀行が休業、政府は被災地にモラトリアム (支払い猶予令。震災地関係の金融債務の支払い延期と手形などの支払い延長) を布きました。

このような状況で預金者に対して支払いをすることは、銀行の経営を圧迫し、倒産のリスクさえ生じさせます。

 

けれども、スルガ銀行は、ふるさと再生のためにできた庶民の銀行です。

「非常災害時こそ、人々は最もお金を必要としている」 と、喜太郎は、預金者の希望通りの引き出しに応じ、さらに復興融資まで再開したのです。

 

スルガ銀行の営業再開の機敏さは、災害で動転した人々を鎮静させ、地元の人々に勇気と希望を与えたことでしょう♡

 

他行が休業する中で、スルガ銀行が速やかに営業を再開できたのは、喜太郎の使命感だけが理由ではありません。

 

喜太郎は、各支店に対して、毎日のすべての取引を本店に報告する 「取引日報」を義務付け、手形・証書など重要書類も全部、その副本をつくって本店に送らせていました。そのおかげで、帳簿や書類の再製が迅速にできたのです。

でも、考えてみてください!!

コンピューターはおろか、コピー機さえ無い時代です。

 

膨大な手間と多くの時間を費やし、すべて行員が自分たちの手で写していかなくてはなりません。100年に1回起こるか起こらないかわからない天災に備えて、スルガ銀行では、毎日、この気の遠くなるような作業を続けていたのです。

 

万全の備えを施す喜太郎はもちろん、彼についていく行員の方々のすべてが、素晴らしいですよねニコニコ

 

この日報制度は、その後も継続され、太平洋戦争時、空襲で16の本支店を焼失した時にも、スルガ銀行はスムーズに営業を再開することができました。

あと少しですが…

ちょっともったいぶって、続きは次回に書かせていただきますね♪♪


志を育てる☆彡

( 2011年4月27日のブログ記事より)

いきなり前回の続きから始めさせていただきますねニコニコ

 

金融再編や景気の波にもまれて多くの銀行が消えていった中で、スルガ銀行のような小さな銀行が百年以上にわたって生き残っている、しかも、横並びの意識が強い金融業界の中で、個性を輝かせながら…。

これは、一つの奇跡と言えるかもしれません!!

 

その奇跡を起こしたのは、「ふるさとに生きる人々のために」という、創立者・岡野喜太郎の想いだったのではないでしょうか。

 

大切な人を守りたい、大切な人に笑顔でいてほしい…その想いから出る行動は、自分自身のためにがんばる時よりも、もっともっと大きなパワーを生みます。

そして、多くの人たちを巻き込み、多くの人たちに応援されて、その想いは成就されていくのです。

 

それは、もはや個人の「夢」を超えた「志」!!

 

夢と志は何が違うのかというと…

私の解釈ですが、“夢” は自分が実現したいもの、それに対して、

「たとえ自分が実現できなかったとしても、ほかの誰かが代わりに実現してくれたら、それでいい」と思えるようなものを “志” と呼ぶんじゃないかと思います。

 

“夢” は、自分が実現しないと意味がないけれど、“志” は、「実現したのは誰か」 なんて、あまり関係ない、そのぐらい、無私の心=愛が、志には溢れているような感じがします。

 

そして、日本の歴史を振り返ると…

日本人のDNAに組み込まれているのは、

「ビジョンを描き、目標を立てて夢を実現していく」という生き方ではなく、「天命に運ばれて志を遂げる」

という生き方ではないか…と思えてくるのです!!

 

ときに、試練が人の心を強くし、逆境が志を育てます。

「嵐は人々に災害をもたらすばかりとは限りません。時としては、その凄まじい猛威が逆に人々を目覚めさせ、暗い貧困の歴史から脱却する決意を促すこともあります。」

 

『<するが>80年の歩み』という、スルガ銀行の行史は、この一節から始まっているそうです。

参考文献  村橋勝子『カイシャ意外史』(日本経済新聞出版社)


スルガ銀行名古屋支店さまで講演させていただきます♪

(2016年8月5日のブログ記事より)

 

今から3年前に『感動する!日本史』という本を、中経出版社さん(現在は合併してKADOKAWAになっています)から出させていただきました!!

 

私は、当初このタイトルが恥ずかしくてたまりませんでした。

 

だって、自ら私が「感動する」というタイトルを選んだと思われたらどうしよう~って! 私、そんなナルシストじゃありませんからね(笑)

この本は、私の2冊目の本。デビュー作の『人生に悩んだら日本史に聞こう』は、闘病中に遺言のつもりで書いたので、すべてをしぼり尽くした感じで、もうこれ以上お伝えできることはないと思っていました。

 

でも読み返してみて、一点、欠けていることに気づいたのです。

それは、与えられた役割をまっとうすることが日本人の美徳の一つであるということ!!

 

この視点が前作にはなかった、だからこれを次の本で表現したいニコニコ

 

そんな溢れる思いを書き綴ったのが『感動する!日本史』です。

 

私がこの本で表現したかった日本人の美徳、それが最も凝縮され、象徴されているのが、スルガ銀行の創立者・岡野喜太郎さんの物語だと思います。

スルガ銀行さまの全面協力を受けて(編集者さんの真心が伝わったのでしょう)、社外秘の資料や写真を何点も掲載させていただきました。これらは、残念ながら文庫本ではカットされてしまいましたが、単行本をお持ちの方は、ぜひ一度マジマジとご覧になってくださいねニコニコ

人生というのは、本当に素敵ですね!!

なんとそのスルガ銀行さまで、講演させていただくことになったのですから…ニコニコ


準備中です
暫くおまちください

小栗 上野介(おぐり こうずけのすけ)

敗者の美学

(2010年11月3日のブログ記事より)

幕末から明治にかけて、世界に航海する船を持つことが、近代国家の条件と考えられていました。

 

だから、勝海舟は、神戸に私立の海軍塾を開いたのです。

 

その塾長が、坂本龍馬でした!!

 

同じ頃、徳川幕府の勘定奉行 (大蔵大臣) と海軍奉行 (海軍大臣) を兼任していた小栗上野介 (おぐりこうずけのすけ) は、世界的なレベルを持つ造船所を日本に造らなければいけないと考え、横須賀にドッグを建設する計画を進めていました。

 

横須賀ドッグの工事責任者は、栗本鋤雲 (じょうん)。

 

その工事の目鼻がついたある日、帰途につく鋤雲を、小栗上野介が馬に乗って追いかけてきました。

 

小栗は、鋤雲の仕事ぶりをねぎらったあと、こう呟いたそうです。

 

「あのドッグが出来上がった上は、たとえ幕府が亡んでも、“土蔵付き売家” という名誉をのこすでしょう。」

 

ときは、明治維新前夜…。

 

小栗は、時代の流れを全身で感じ、やがて徳川幕府が亡びていくのを悟っていたのでしょう。

 

けれども、どうせ亡びるのなら、ボロボロの幕府を倒壊させるのではなく、日本の将来に大いに役立つ横須賀造船所という “土蔵” をつけた立派な売家にしておきたい…

 

それが、徳川幕府を愛し、支えた者としてのプライドであり、愛する祖国への餞別でもあったのでしょう。

 

事実、この横須賀ドックは、明治に入って、日本の造船技術を生みだす唯一の母胎となりました。

 

 

小栗上野介は、その後、明治新政府軍によって打ち首にされてしまいます。

 

私は、“明治維新” というあれだけの革命を、血を流すことなしに成し遂げようとした龍馬や勝海舟も素晴らしいと思いますが、敗者の美学を貫いた小栗も大好きなんですニコニコ

 

「やがて徳川幕府は亡びる」 と鋭く見抜いていたのに、彼は、死の瞬間まで、その亡びゆく徳川幕府のために、身を粉にして働くのです。

 

「両親が病気で死のうとしているとき、もうだめだと思っても、看病のかぎりを尽くすではないか。自分がやっているのはそれだ。」

と、栗本鋤雲に語っているんですね。

 

彼の心が追い求めていたのは、「得」 ではなく 「徳」…!!

 

同時に、彼の生き方は、「負け方がある」 ということを教えてくれているような気がします。

 

大事なのは、勝敗という結果ではなく、その戦い方にあると…。

 

海舟のように、幕臣であるという自分の立場を超えて、新しい時代を切り拓こうとする人間もいれば、小栗のように、亡びゆく徳川幕府に殉じながら、なおかつ未来の日本人に必要不可欠なものを遺していく人間もいる…

 

この多様性こそが、日本史の醍醐味であり、このように人材の宝庫であったことが、明治維新という奇跡の歴史を生んだのではないかと思うのです!!

 

さぁ、私たちも勇気を持って、自分の信じる道を進んでいきましょう♪


ブロードウェイの行列

(2010年11月4日のブログ記事より)

 

前回、小栗上野介 (おぐり こうずけのすけ) に関する記事を書きましたが、

今回は、彼にまつわるもう一つのエピソードを書かせていただきますね。

 

万延元年 (1860) 年、徳川幕府は、日米修好通商条約を批准するために、米国に使節団を派遣しました。

 

この使節団が乗っていた船が、アメリカの軍艦 ・ ポーハタン号です。

 

今では咸臨丸の方が有名ですが、実は、咸臨丸は、このポーハタン号に最悪の事態が起こった時のことを考えて、護衛という名目で派遣されたのです。

 

使節団の主要なメンバーの中には、小栗上野介も含まれていました。

 

ポーハタン号に乗った万延元年遣米使節は、ホノルル ・ サンフランシスコ ・パナマを経由し、アメリカ東海岸へ。

 

アメリカじゅうが、まだ見ぬ日本人というものに、好奇心をかきたてられていました。

 

そして使節団一行は、ニューヨークで、空前絶後の大歓迎を受けたのです。

 

 

ブロードウェイを行進する “日本人” を見るために、人々は集まり、記者たちは印象記の取材のために駆けまわりました。

 

 

ちょんまげに羽織はかま、腰には日本刀…

初めて見る “日本人” に、人々は熱狂しました!!

 

アメリカの人々にとっては、今まで見たことも、想像したこともない、まったく異質の文化でした。

けれども、そこに集まった誰もが、異質でありながらもひじょうに上質なものを感じたのです!!

 

 

彼らの上品で優雅な身のこなし、毅然とした態度に、圧倒される人々…。

 

詩人のウォルト ・ ホイットマンが、彼らの行進を見て、『ブロードウェイの行列』というタイトルで、その時の感動を詩に表しています。

 

ホイットマンは、「超然」 とした彼らの印象に、さらに 「考え深げな黙想と真摯な魂と輝く目」 に感動したのです!!

 

存在そのものが強烈な発信力を持っている…

私たちのご先祖さまたちは、本当にかっこいいですね( *´艸`)

 

でも、これはそれほど昔の話ではなく、わずか150年前のこと。

 

きっと私たちには、その DNA が組み込まれていますよねラブラブ

そろそろ150年の眠りから目覚める時がやって来たのかもしれませんよニコニコ


準備中です
暫くおまちください

織田 秀信(おだ ひでのぶ)
信長のDNA

(2010年1月20日のブログ記事より)

 

♪問題です!

 

チビ、デブ、ハゲ、運動神経、天才、秀才、視力、聴力、…

 

 

この中で、育った環境よりも遺伝の影響が大きいものは

どれでしょう?

 

 

これ、ずいぶん前に、あるテレビ番組で検証していたのですが、その検証結果によると、ほとんど私たちが遺伝と思い込んでいるものは、環境の影響の方が大きいということがわかったのです。

 

次の4つの項目を除いては…。

 

 

その4つとは、

 

◆ 身長

◆ 視力

◆ 頭が禿げるかどうか

◆ 数学の才能

 

なんです!!

 

 

例えば、音楽の才能は、遺伝より環境の方が影響が大きくて、音痴なウグイスから生まれたひなが、美しい声を持つウグイスのもとで育ったら、育ての親に勝るとも劣らない美声になります♪

 

 

ところが、なぜか数学の才能は、天性のもの、しかも遺伝的要素が強いらしいんですね。

 

残念ながら、番組の中では 『なぜか』 ということまでは解明していませんでしたが、「この4つの要素は、環境より遺伝の影響が大きい」 とわかっただけでも、なかなかおもしろいと思いましたニコニコ

 

 

でも、この4つの項目以外は、遺伝より環境なんですね~。

 

例えば、性格や器の大きさなんていうのは、遺伝しないんですね。

 

 

そういえば、これはあくまで私の印象ですが、秀吉の子の秀頼も、家康の子の秀忠も、“とても律儀で品のある二代目”という感じで、海千山千の父親のすごみは、あまり受け継いでいないような気がします。

 

その人の人間性は、環境と経験によって培われていくものなのかもしれませんね。

 

 

それに対して、DNAは、そういう表面に表れるものではなく、もっともっと根源的なものなのかもしれません。

 

そんなことを考えながら、今回は、信長の子孫の話を書こうと思います。

 

 

信長の子孫といっても、フィギュアスケートの織田信成クンのことではありませんよ。

 

 

本能寺の変で、信長&信忠の親子は非業の死を遂げましたが、

この時、信忠の息子=信長の嫡孫は、難を逃れていました。

 

この子の名は、三法師 (さんぽうし)。

本能寺の変のあと、わずか3歳にして、織田家の家督を継ぎました。

 

その後、成長した三法師は織田秀信と名乗り、美濃の国 ・岐阜13万石の大名となりました。

 

秀信21歳の時に、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。

 

岐阜と関ヶ原は、目と鼻の先。

 

この地理的環境では中立を保つのは無理で、東軍 ・ 西軍どちらかにつかざるを得ません。

 

秀信は、成り行き上、西軍に味方することになりました。

 

 

関ヶ原の前哨戦で、東軍の池田輝政、福島正則らの軍勢の攻撃を受けた織田軍は、木曽川沿いの米野で敗北を喫し、岐阜城に籠城します。

 

米野の戦いも、岐阜城の籠城戦でも、織田軍は善戦しました。

 

しかし、兵力に大きな差がある上に、城の強みも弱みもすべてを知り尽くしたかつての岐阜城主 ・ 池田輝政が東軍にいたために、劣勢は覆いがたく、ついに城を明け渡すのです。

 

なにせ秀信は、戦乱の世が終わる頃に誕生したため、戦歴がほとんどなく、武将としての実力がどれほどのものであったか、歴史の中で実証するものはほとんどありません。

 

でも、この一戦において、家臣の多くが討ち死にし、落城の瞬間まで壮絶に戦ったところをみると、将としての資質は、意外に高かったのではないでしょうか。

 

 

「意外に」 と言ったのは、秀信は、祖父 ・ 信長の派手好みを受け継いだと言われていて、ふだんは “洒落者” “伊達好み”“かぶいた若者” というイメージが強かったからです。

 

事実、関ヶ原の前哨戦である米野の戦いには、信長譲りのかぶいた甲冑を身にまとって出陣したと伝えられていますし、

岐阜城下の円徳寺に残された彼の肖像画には、

“桐紋を描いた水色の衣に青い花を描いた紫の袴”

といういでたちが確認されていて、

「いま生きていれば、ジャニーズにも負けないファッションリーダーになっていたのでは…ニコニコ

と思わせるような若者だったのです。

 

 

その彼が、落城を前にして、どういう行動に出たのか…?

 

 

「一軍の将たる者、落城に際して、いかに美しく散るか…」 というのが、男の美学かもしれません。

 

 

でも、秀信のとった行動は、誰も予想できないものでした。

 

 

なんと家臣に、筆と紙を持ち運ばせ、

「感状を書く!!

と言ったのです。

 

『感状』 とは、戦功を讃える賞状のことで、いわば、侍たちの武勇の証明書です。

 

おそらく織田家は滅び、その後、家臣たちは他家に仕官することになるでしょう。

その時、その感状の内容次第で禄高が決まるのです。

 

味方は死に尽くし、敵が迫りくる中、家臣たちの行く末を案じるなんて、

誰にでもできることではありません!!

 

 

 

やはり、織田信長という名将のDNAが、秀信には受け継がれていたのでしょう♡

 

 

土壇場で見せた、秀信の “For You” スピリッツ☆彡

 

 

岐阜城を開城した秀信は、関ヶ原の合戦終結後、岐阜13万石を没収され、高野山へと送られました。

その後、26歳の若さで病死したと伝えられています。

 

 

壮絶を極めた岐阜城攻防戦。

その生き残りの戦士たちの多くは、敵方であった福島家や池田家、秀吉の正室 ・ ねねの実家である浅野家などに招聘されました。

 

 

関ヶ原の合戦後、主家を失った牢人たちは極貧にあえぎましたが、秀信の家臣たちは、自らの勇猛な戦いぶりと、秀信の “For You”スピリッツによって、救われたのです。

 

信長と秀信…

性格や生き方は違っても、土壇場で見せたそれぞれの行動はどちらも美しいと思いますニコニコ

 

美的センスに秀でた二人の武将に流れる織田家のDNA…

それは、“美の表現” なのかもしれません。


準備中です
暫くおまちください

勝 海舟(かつ かいしゅう)

覚悟が人生を切り開く

(2009年9月11日のブログ記事より)

前回は、諭吉さんのたのもしさを伝えるために、江戸城の無血開城の話をしましたが、今回は、こちらを主役にして、なぜこのような格調の高い輝かしいドラマが演じられたのかを考えてみたいと思います!!

 

(わたしが勝手に選ぶ日本史名場面ランキングの上位に位置する出来事なので、熱く語らせていただきますね(*^▽^*))

 

“ 江戸城の無血開城 ” というドラマは、両軍の代表が、西郷隆盛と勝海舟というキャスティングだったからこそ、成し遂げられたと思うのですが、会談がうまくいった理由として、わたしは次の三つを挙げたいと思います。

 

まず一つ目の理由は、西郷さんと勝海舟は、もともと旧知の仲で、会談の前にすでに信頼関係が出来上がっていたということ、

 

二つ目の理由は、西郷さんの人間の大きさとそれを育んだ薩摩の風土、そして三つ目の理由は、勝海舟の覚悟です。

 

幕末に相次いで日本を訪れた欧米列強のうち、旧幕府側をフランスが後押しし、新政府側はイギリスが援助していましたが、海舟は、まず英国公使のパークスを使って、新政府側に圧力をかけさせました。

 

そしてさらに交渉が完全に決裂した時は、江戸の民衆を千葉に避難させた上、

新政府軍を江戸の町に誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところに、

ゲリラ的掃討戦を仕掛けて、江戸の町もろとも新政府軍を殲滅させるという、焦土作戦を考案していたのです。

 

この作戦を実施するにあたって、江戸火消し衆 「を組」 の頭であり、親交のあった新門辰五郎に、大量の火薬の準備と市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には、江戸とその周辺地域の船をかたっぱしから調達し、避難民のために食料を確保するなど、準備を進めました。

 

また、慶喜の身柄は、横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていたそうです。

 

この計画は海舟が後年語った話であり、彼はオーバートークが得意なので、どこまでが真実か疑問ですが、西郷さんとの談判に臨むにあたって、「これだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じた」 と回顧しています。

 

実はこの話によく似た史実が、関ヶ原の時にもありました!!

 

西軍にいながら、一発の弾も撃たずに傍観した毛利氏や長曽我部氏。

彼らが戦わなかったから、家康は関ヶ原で勝利を収め、天下を手中にできたのですが、戦後の処置は、彼らにとってひじょうに苛酷なものでした。

 

毛利氏は領地を 約 1/3 に削られ、長曽我部氏にいたっては、お家取り潰し。

 

彼らは傍観していただけでもこれほどの仕打ちを受けたのに、東軍の武将たちに多大な損害を与えながら、なんと領地を安堵された西軍の武将がいるのです。

 

それは、島津義弘。

 

関ヶ原の戦いが起こる直前、義弘はたまたま大坂にいたので、なりゆき上、島津軍は西軍に加担することになりました。

けれども義弘は、意思統一がなされていない西軍の内情を知ると、早くも 『負け』 を感じ取ったのでしょう。

 

関ヶ原の開幕から終幕まで6時間の間、島津軍は一発も弾を撃つことはありませんでした。

 

戦いが終わって、島津軍は退却しなければなりません。

けれども、敵の中で孤立した島津軍には、退き口がありませんでした。

この時、名将・島津義弘は、家康に対して、壮絶な退却戦を挑んだのです。

 

西軍の将士たちが敵に背を向けて退却する中、なんと、島津軍は前に向かって退却を始めました。

この敵陣の中央を突破するという前代未聞の退却は、後世 『島津の退き口』として有名になりました。

 

もちろん、東軍も指をくわえて見ていたわけでなく、総がかりで島津軍に襲いかかります。

島津軍は、大将の義弘ただ一人を生きて薩摩に帰すべく、全員が決死の覚悟で戦いました。

そして、兵士たちが次々に討ち死にする中、ついに敵中突破が成功し、義弘が伊勢路の山中を駆け抜けて大坂にたどり着いた時、1000名の兵士が、80人になっていたと言われています。

 

結果としては、西軍参加の主要な大名のうち、所領を守り切ったのは島津氏のみでした。

義弘は、本国に逃げ帰るや、国境の要所要所に防塞をきずき、農民まで動員して戦備に従事させ、国を挙げて決戦の態勢をとりました。

こうして天下を向こうにまわした戦の準備をしつつ、重臣を伏見に派遣し、家康との折衝に当たらせたのです。

 

もし島津氏が、毛利氏や長曽我部氏のように、関ヶ原でただひたすら潰走し、戦後処置で謝罪を繰り返すだけだったら、家康は島津氏を取り潰したか、大幅に領地を削ったでしょう。

 

けれども、島津氏は、退却戦ながら関ヶ原の戦場を前へ縦断し、1000人が80人になるまで奮戦したのです。

 

もしこの交渉が決裂し、天下の大軍が薩摩に攻めてきた場合、関ヶ原で証明した薩摩隼人の勇気を、再び天下に示そうというのですから、さすがの家康も困惑しました。

 

そして二年半にわたる粘り強い交渉の末、ついに島津家の所領は安堵されたのです。

 

勝海舟と島津義弘…絶体絶命のピンチを救ったのは、彼らの “ 覚悟 ” でした。

 

問題が起きたとき、「どういう行動をとるか」 という選択も大事ですが、それ以上に、“覚悟” が、人生を切り開くのだと思います!!


重豪じいちゃんの歴史への貢献

(2009年11月20日のブログ記事より)

 

以前、わたしの中での大ヒット No.1 のスーパーじいちゃん ・ 島津重豪(しげひで)のことを、ひすいこたろうさんにお話ししたら、どうやら重豪じいちゃんは天才コピーライター 兼 大ベストセラー作家のツボにもはまったらしく、ひすいさんがメルマガ“ 名言セラピー ” で重豪じいちゃんの話を配信してくださいましたニコニコ

 

まだ読んでいらっしゃらない方は、ぜひお読みくださいラブラブ

 

こんな濃ゆい人物が歴史の中に埋もれていたんだぁ…と、驚かされると思いますよ。

 

ひすいさんの名言セラピー 『スーパーひでじい』

はこちらをクリックしてくださいね!!

 

『スーパーひでじい』 では、島津重豪という洋学好きの大名が、島津斉彬(なりあきら) という幕末きっての名君を育て、さらにその斉彬が西郷さんを見いだし、育てたという話と、重豪じいちゃんの次男が中津藩の奥平家に養子に入り、洋学がさかんになった中津藩に福沢諭吉が誕生したという話をご紹介させていただきました。

 

つまり西郷隆盛と福沢諭吉という2人のスーパーヒーローを生かしきる環境を、重豪じいちゃんが間接的に整えたのです。

 

今日、再び重豪じいちゃんを話題にしたのは、重豪じいちゃんがつないだ

もう一つの系譜を知ったからなのです!!

 

重豪じいちゃんの十三男 (ちなみに重豪じいちゃんには26人の子どもがいたそうです) ・ 長溥 (ながひろ) が筑前福岡藩の黒田家を継ぐのですが、

この福岡藩でも、長溥の影響で、ある程度洋学がさかんになりました。

 

この福岡藩の藩士に、永井 青崖 (せいがい) という人がいて、江戸で蘭学塾を開いていました。

 

この永井 青崖が、なんと勝 海舟の師匠だというから驚きです!!

 

青年時代の勝 海舟は、昼は島田 虎之助の道場で剣術を習い、夜は永井塾で地理学と兵学を習いました。

 

その際、家が貧しかった海舟は、日蘭辞書 「ヅーフハルマ」 を2部筆写し、1部を売って学費に充てた話は有名です。

 

そして、海舟に洋学を勧めたのは、剣術の師匠である島田 虎之助ですが、この人は中津藩士なのです。

 

一介の剣客にすぎない虎之助が、洋学の重要性を知っていたのは、当時の中津藩に洋学を重んじる気風があったからでしょう。

 

このように考えると、重豪じいちゃんが整えた環境が、勝 海舟を歴史の表舞台に押し出したのですね…重豪じいちゃん、恐るべしですニコニコ

 

歴史って、出来事を中心に考えると、あまりおもしろくありませんが、人と人とのつながりをたどっていくと、どんどん興味がわいてきます。

 

人との出逢いに触発されて人生が切り開かれていくことを、歴史は物語ってくれます。


人生の花を咲かそう☆彡

(2010年3月12日のブログ記事より)

勝海舟が歴史の中で一番輝いたのは、西郷隆盛との交渉がうまくいって、江戸城の無血開城に成功した瞬間だと思います。

 

人口100万人を抱える大都市である江戸が戦火から救ったこと、そして、こういうカタチで革命を行える日本人を世界に示せたこと…この時の勝海舟の功績は、どれだけ讃えても讃えすぎることはないくらいです。

 

でも、わたしが勝海舟を尊敬してやまないのは、明治以後の彼がとった行動が、清々しかったから…ニコニコ

 

主家であった徳川宗家がたちゆくように、なにかれとなく、天璋院 篤姫と徳川家を継いだ徳川家達 (いえさと) を守り立てていきました。

 

また、海舟は、旧幕臣でありながら、新政府の中でも重要な役職を歴任したので、その点を批判する人も多いですが、彼は、その爵位権限を私利私欲のために利用したのではなく、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑えるために、最大限に利用したのです。

 

彼は、明治維新直後から亡くなるまで、30年にもわたって、旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護を続けました。

 

徳川のお膝元 ・ 静岡には、職を失い生活できなくなった旧幕臣たちが大勢いましたが、彼らにお茶の栽培を奨励したのも勝海舟でした。

 

静岡は、いまでもお茶の生産高日本一ですよねニコニコ

 

 

彼の行ったこの地道な活動は、歴史の中に埋もれていますが、もしかしたら、江戸城無血開城と同等か、もしくはそれ以上の価値があるんじゃないかと思います。

 

 

“明治維新” という革命は、ある側面から見れば、支配者階級であった武士たちの特権を奪い、失業させてしまったのです。

 

才能のある者は、新政府に仕えたり、新しい商売を始めたりできたでしょう。

でも、多くの武士たちは、そんな才能もなければ、なかなか頭と気持ちを切り替えることができず、時代の変化についていけず路頭に迷っていたのです。

 

萩の乱や西南戦争が起こったように、明治維新を主導した薩摩や長州でさえも、

不平分子が多数いたのですから、敗者である幕府側についた藩の藩士たちや、幕臣たちの混乱や困窮は、言語に絶するものがあったでしょう。

 

そんな彼らの生活が成り立つように、生涯を捧げ心をくだいた勝海舟。

一見地味な維新後の彼の人生の中に、小ぶりだけど美しく凛とした花が咲いているのを感じますニコニコ

 

海舟のような特別な才能を持っている人は少ないかも

しれないけれど、誰もが自分にしか咲かすことのできない花を絶対に持ってると思うんですラブラブ

 

 

その花を大事に育てて、自分だけの人生の花を咲かせましょうねラブラブ


準備中です
暫くおまちください

加藤 清正(かとう きよまさ)

目指すは、無敵の人生①♪

 

(2009年11月17日のブログ記事より)

 

先日、天下の名城と言われている、熊本城に行ってきました。

 

熊本城本丸御殿の中で、ひときわ大きい建物が、本丸御殿大広間。

 

大広間にはたくさんの部屋がありましたが、中でも一番格式の高い部屋が

“ 昭君之間 (しょうくんのま) ”と呼ばれる部屋です!!

この部屋の壁やふすまには、中国の漢の時代に絶世の美女と謳われた、王昭君の悲劇の物語が描かれていました。

 

この “ 昭君之間 ”、実は 「将軍の間」 の隠語であるという説があるのです。

熊本城を造った加藤清正は、豊臣秀吉から最も愛された武将の一人です。

清正は、秀吉の遺児である秀頼に対して、他の大名とは比べ物にならないほどの深い愛情を、寄せていました。

ですから、秀頼に万が一のことが起こったら、熊本城に秀頼を迎え入れ、

西国武将を率いて徳川に背く覚悟が清正にはあり、そのための部屋が“ 昭君之間 ” と言われているのです。

また、昭君之間には、抜け穴伝説もあります。

熊本城築城に携わった大工の棟梁・善蔵 (ぜんぞう) が語った 「大工善蔵より聞覚控 」という古文書が残されていて、そこに 「昭君の間の後ろの壁が回り、床下の通路にはしごと縄で下りれば、そのまま門をくぐって城外へ出れるようになっていた。」 という旨が書かれてるそうです。

この真偽のほどは、今となっては確かめようがありませんが、清正の豊臣家への忠誠心と、秀頼を守れなかった (1614年から15年にかけて大坂の陣が起こり、秀頼は母親の淀殿とともに自害しますが、清正はそれより前の1611年に亡くなりました) 無念さを思うとき、昭君之間に描かれた王昭君が、ひときわ美しく、そして悲劇の物語がひときわ悲しく映りました。

さて、この熊本城ですが、加藤家が取り潰された後、細川家が城主となります。

細川家は、関ヶ原の戦いの前は、丹後の国に12万石の所領を持っていましたが、

関ヶ原以降、徐々に加増され、肥後熊本に転封された時には、4.5倍の54万石になるのです。

なぜ徳川家は、細川家にこれほどの所領を与えたのか…

この破格の待遇には、「薩摩に事があれば、熊本城で抑えよ。」 という徳川から細川への無言のメッセージがこめられていたのです。

この続きは次回…♪


目指すは、無敵の人生②♪

 

(2009年11月19日のブログ記事より)

 

前回の続きで、徳川幕府の対薩摩戦略について。

 

肥後熊本藩の細川家が54万石、筑後久留米藩の有馬家が21万石、

筑前福岡藩の黒田家が52万石…。

 

このように、九州には大藩が多いのですが、これらの藩は、いずれも薩摩から江戸に向かう時の通り道です。

 

さらに豊前小倉15万石の城主は、譜代の小笠原家。

 

おそらく家康の存命中から、徳川幕府は薩摩藩を潜在敵国と見ていたのでしょう。

 

薩摩が九州を席捲した場合に備えて、山陽道にも、大きな城塞が連なります。

広島城、岡山城、姫路城…。

 

姫路は、わずか十余万石。

にもかかわらず、姫路城主 (譜代の酒井家) にあの大城郭を持たせたのは、薩摩の進撃を、ここで食い止めようとしたのでしょう。

 

姫路城が破られれば大坂城 (大坂城は将軍直轄) で、大坂城が落ちれば、さらに名古屋城 (名古屋城は尾張徳川家) で防ごう、名古屋城まで落ちれば、あとは箱根の嶮 (けん) に拠って関東を守ろう…

というのが、徳川幕府の戦略です。

 

薩摩は、関ヶ原の戦後処理で無傷だった上に、徳川幕府は島津家の国替えもできなかったので、周到な大名配置で抑えようとしたのでしょう。

 

さすがの家康も、二百数十年後に造船技術が発達して、薩摩から蒸気船に乗って一気に大坂、江戸に兵力を輸送できるなんて、想像できなかったに違いありません。

 

家康の巧妙な大名配置は、薩摩島津家が陸路で江戸に向かう場合にこそ、その効力を発揮するものだったのです。

 

この家康の憂いと周到な戦略を考えると、「歴史って、壮大なドラマだなぁ~」と思います。

 

およそ250年のときを経て、薩摩は、徳川にとってのもう一つの潜在敵国・長州と手を結び、徳川の天下を覆し、明治維新という革命を起こしたのですから…。

 

近ごろ、“ 引き寄せの法則 ” が知られるようになりましたが、まさに家康が憂えた通りになったわけです。

 

もし、家康が、「薩摩が徳川幕府を倒す」 という怖れを抱かずに、薩摩島津家に対して愛を持ってのぞんだとしたら…歴史は違ったものになっていたかもしれませんね!!

 

家康ほどの天才でも、敵に対して完璧な戦略をとることはできませんでした。

 

だとしたら、現代に生きるわたしたちは、敵を防ぐ方法を必死に考えるのではなく、敵をつくらない “ 無敵の人生 ” を目指すのが、一番素敵な生き方になるのではないでしょうかニコニコ


準備中です

暫くおまちください


蒲生 氏郷(がもう うじさと)
お金よりも大事なもの☆

(2010年7月26日のブログ記事より)

 

会津若松城の別名は、『鶴ヶ城』。

 

会津若松城を築城して城下町を建設し、後の会津藩の礎を築いた蒲生氏郷の幼名 『鶴千代』 にちなんで、『鶴ヶ城』 と呼ばれるようになったそうです!!

 

蒲生氏郷…織田信長の娘婿であり、戦国時代の名将の一人。

 

今回、その氏郷のとっても素敵なエピソードを難波さんが教えてくださいましたので、皆さまとシェアしたいと思いますニコニコ

 

 

会津若松92万石の領主となった氏郷のもとに、仙台の伊達政宗が、しばしば兵を率いて攻め込んできました。

 

 

当時 「最強」 と謳われた蒲生軍は、政宗の領土侵犯をはねのけ続けるのですが…

 

蒲生軍にとっては、領土や利権を拡大する戦いではなく、侵略を防ぎ自身の領土を守るための戦いだったため、悲しいかな、たとえ武功をあげたとしても、十分な恩賞にはありつけないのです。

 

でも、家臣のがんばりになんとか報いたい…!!

 

そう考えた氏郷は、財務担当者が持ってきた恩賞目録を見て、

「これでは足りない。もっと恩賞を増やすように。」 と指示を出しました。

 

 

驚き、あわてたのは、財務担当者です。

 

「殿、これでは蒲生家が倒産してしまいます。」 と泣きの一言。

 

それを聞いた氏郷は、「そちがなんとかせい。」 などと、無茶ブリをするような殿さまではないんですね。

 

「では、この者たちを、一人ずつ城へ呼ぶように。」

 

と、新たな支持を出しました。

 

 

そして数日後…

 

ある家臣が、殿様じきじきの呼び出しを受け、城の一室で緊張して待機していました。

 

すると、殿さまと同じ食事が出てきた上、「殿さまのお風呂に入浴をせよ!!」 とのこと( ゚Д゚)

 

 

何のことかわからず、不安な気持ちでお風呂に入っていると、

 

「湯加減はどうじゃ?」

 

聞き慣れた言葉にハッとして、浴室の窓を開けると、氏郷が薪を

くべながら火をたいています。

 

「殿、なんということを…!!

 

絶句する家臣に向かって、氏郷はこう告げたのです。

 

 

「このたびの戦において獅子奮迅の働きをしたお前に、相応の褒美をとらせることができなかった。せめてこの位のことはさせてくれ。」

 

 

「殿、もったいない…」

 

家臣が湯船の中で正座し、涙したことは、想像に難くないですね。

 

 

蒲生軍の強さの秘密は、主従の心の結びつきにあったんですね~ラブラブ

 

 

確かに、昔も今も、自分のがんばりをお金や待遇で評価して欲しいと思っている人が多いでしょう!!

 

 

でも、日本経済全体が冷え込んでいる今、なかなか社員のがんばりに応えられない経営者も多いはず。

 

そんな時、経営者は何をなすべきか、氏郷のこのエピソードから多くの気づきを得ることができますねニコニコ

 

江戸時代に入ると、徳川幕府は巧妙な大名政策を実施したので、各藩は公共工事や参勤交代に莫大な出費を要し、どの藩も財政難に陥ります。

 

 

財力があるのは、支配者階級である武士ではなくて、商人なんです。

 

 

だから、多くの藩が、商人にお金を出してほしくて、お金で身分を買えるようにしました。

 

例えば、いくら以上お金を出せば、名字 ・ 帯刀を許すとか、家の門構えを豪華にしていいとか、あの手この手を使ってお金をかき集めようとしたのです。

 

ところが、そんな交換条件を出さずに、領民に対して正直に藩の財政状況を公開し、「こんなに困っているので、心ある方はどうか寄付をお願いします。」 とカミングアウトした藩があります。

 

そしてその藩でも、他藩にひけをとらないぐらい寄付金が集まっているんですよ。

 

要はね、人の心をお金で買う必要なんてないんです!!

 

人の心を動かすことができるのは、真心なんですよね♡

 

豊かな人生…それは、心を通い合わせる相手がいるということなんじゃないかな。

 

氏郷主従の愛を感じ、お金よりも大事なものがあることに気づく…

会津の旅の奥深さがここにあるような気がします!!


時代を超えて受け継がれていくもの

(2011年2月25日のブログ記事より)

会津若松に生まれた一人の青年が、最高のお米をつくるために、土づくりから始めたそうです。

 

まずは土を生かす微生物を研究し、その微生物に活躍してもらって最高の土をつくり、そこで穫れた最高のお米に、“氏郷米” という名前をつけました。

 

氏郷とは…

会津若松城をつくった蒲生氏郷のことです。

氏郷の幼名 『鶴千代』 にちなんで、会津若松城は、別名 『鶴ヶ城』とも呼ばれます。

 

信長に見込まれ、信長の娘婿となり、秀吉の時代になってからも、目覚ましい活躍をし、会津92万石の領主となった氏郷。

 

彼は会津の発展の礎を築きながらも、40歳の若さで亡くなり、会津を治めたのは、わずかに足掛け6年。

 

蒲生家にしても、氏郷の死後、息子の秀行が家督を継ぎますが、

秀行の死後、蒲生家は断絶してしまいます。

 

 

ほんのわずかな間に領主だった氏郷のことを、会津の人が今も尊敬してやまないのは、どうしてでしょう?

 

 

その秘密は、“お風呂” にあったのです!!

 

 

氏郷が治める会津領内に、野心家で知られる仙台の伊達政宗が、たびたび兵を率いて攻め込んできました。

 

蒲生軍は、伊達軍をはねのけ続けますが、蒲生軍にとっては自身の領土を守るための戦いであり、領地が増えるわけではありませんから、

家臣たちが武功をあげても、それに応えるだけの恩賞を与えることができません。

 

でも、家臣のがんばりになんとか報いたい氏郷は…

「この者たちを、一人ずつ城へ呼ぶように。」

と命じました。

 

数日後…

呼びだされた家臣の一人が、城の一室で緊張して待機していました。

 

 

すると、殿様と同じ食事が出てきた上、「殿様のお風呂に入浴せよ!」

とのこと。

 

 

殿様のお風呂に…?

 

なぜ…??

 

 

でも、当時は、上司に逆らうことも、疑問を投げかけることもできないのです。

 

 

何のことかわからず、不安な気持ちでお風呂に入っていると、

「湯加減はどうじゃ?」

と、聞き慣れた声が…( ゚Д゚)

 

 

ハッとして、浴室の窓を開けると、なんと氏郷が薪をくべながら、

「フー、フー」 とお風呂を沸かしているではありませんか!!

 

 

「このたびの戦において獅子奮迅の働きをしたお前に、相応の褒美をとらせてやれなかった。せめてこのぐらいのことはさせてくれ。」

 

 

家臣は、お風呂の中で男泣きしたそうです(;し;)

 

 

お金は大事。

 

でも、お金より大事なものがある…。

 

 

お金より大事なもの、それは “愛” であり、人の “想い” ラブラブ

 

 

氏郷の想いが、400年以上も会津の土地を癒してくれているのですニコニコ

 

 

私たちが、時代を超えて遺せるもの、受け継げるものは、“想い” しかないんじゃないかな。

 

 

東京、そして群馬で講演をさせていただき、おととい福岡に帰ってきました。

 

 

昨日は、劇団はぐるま座の公演を見て、高杉晋作の恋と革命に生きた半生に想いを馳せ、今日は、午前中、1195年に創建され、日本最初の禅寺として名高い博多・聖福寺で開催中の假屋崎省吾さんの個展に行ってきました。

 

「華道家・假屋崎省吾 博多の聖福寺に挑む」

 

歴史的な建造物と圧倒的なお花の存在感に酔いしれました(*´ω`*)

 

そして、午後は、竹野内豊さん主演の話題の映画 『太平洋の奇跡』を見ました。

 

この数日間、歴史にどっぷり浸かってみて、私たちは先人から “想い”のタスキを受け取ったんだなぁ…って感じましたニコニコ

 

受け取ったタスキ、ちゃんとリレーしなきゃあ…ラブラブ


リーダーの条件☆彡

( 2011年10月4日のブログ記事より)

先日、サッタモまちかどテレビというインターネットテレビの番組に、出演させていただきました。

 

その番組の中で、パーソナリティーの方に、いきなり 「何か一つ歴史のエピソードを話してくれませんか?」 と言われたので、前回の答えに当たるエピソードをご披露させていただいたのですニコニコ

 

心から尊敬するイエローハットの創業者 ・ 鍵山 秀三郎さんに、「現代のリーダー全員に知ってほしい」 と言っていただいたので、私も、そのエピソードがよけいに好きになってきて…!!

 

本当はその時の映像を公開して、皆さまにその感動のエピソードを聞いていただきたかったのですが…

どうも映像が撮れていなかったみたいで( ゚Д゚)残念です(;し;)

 

答えを発表しますので、『人生に悩んだら日本史に聞こう』 (祥伝社) を読んでいただけたら嬉しいです♪
ジャ~ン!!

鍵山さんが 「現代のリーダーに知ってほしい」 とおっしゃったのは…

素弓さんの当たり!!

 

信長が最も期待を寄せた娘婿であり、利休七哲の一人として茶の道を極めた、当代一流の文化人でもある、蒲生 氏郷のエピソードです。

 

氏郷は、秀吉が奥州を平定した後、伊達政宗の抑えとして会津に転封され、会津の経済発展の基礎を築き、さらに目に見えない絆を家臣との間に紡いでいった…。

 

目に見えるもの (お金、経済) と目に見えないもの (心の絆)。

この両面があるから、そのバランスが絶妙だったから、氏郷没後400年以上経った今でも、会津の人々から慕われ、尊敬されているんでしょうねニコニコ

 

経営者やリーダーに必要なのも、この両者のバランスなんじゃないかなぁニコニコ

 

氏郷は、40歳の若さで病気で亡くなったので、会津を治めていたのは、わずか4年半なんです。

それなのに、毎年秋には会津で蒲生氏郷祭りが開催され、会津若松城は、氏郷の幼名・鶴千代にちなんで 「鶴ヶ城」 と呼ばれています。

そしてさらに、これはひすいさん情報なのですが、会津の若者が自分の魂を込めてつくりあげた最高のお米に、“氏郷米” と名づけたそうです。

 

そういえば、松陰が松下村塾を開いていたのもわずか2年足らず。

 

その人の影響力というのは、時間の長さはあまり関係ないようですね。

 

大切なのは、心と心がどこまで深く繋がりあったか!!

その目に見えない絆は、時空を超えて、その土地に生きる人々を温かく包み込むんですねラブラブ

歴史には、本当に愛が溢れているなぁラブラブ

歴史こそ、生きる力ですねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

鑑真和上(がんじんわじょう)

 

若葉の季節☆彡

 

(2010年6月4日のブログ記事より)

ゴールデンウィーク前後から梅雨入りまでの時期が、一年のうちで最も好きな季節ですニコニコ

 

さわやかな風に若葉が揺れて…

太陽も優しくて…

本当に気持ちがいいです!!

 

この季節になると、決まって、ある歴史上の人物のことを思い出し、優しい気持ちになります。

 

 

「若葉して おん眼のしずく ぬぐわばや」

 

という芭蕉の句があまりに印象深いからかもしれませんし、初めて唐招提寺を訪れた中学の修学旅行が、この季節だったからかもしれません。

 

 

わたしは、小さい頃からいつも神さまの存在を意識してきたのですが、わたしの中の神さまって、“宇宙” という概念に近くて、誰か特別な人をイメージしているわけではないんですね。

 

 

でも、もし神さまが人間の姿でこの世に舞い降りてきたとしたら…

鑑真和上こそが、神さまの化身じゃないかと思うんです。

 

ときは奈良時代…

 

日本では、僧侶になる者に対して正式に戒律を授けられる師がいなかったので、仏教界の風紀が乱れていきました。

 

そこで、授戒できる僧侶を中国から招くことになり、その密命を帯びた二人の留学僧が、遣唐使船で中国に渡ったのです。

 

 

“密命” … そうです、当時の中国は、国民の出国を禁じており、密出国者には、重い刑が課せられました。

 

二人の留学僧は、自分たちとともに日本に渡って戒律を授けてくれる僧侶を精力的に探しましたが、縁もゆかりもない異国のために国法を破り命がけの航海に出てくれる名僧など簡単に見つかるはずもなく、なすすべもなく空しく数年が過ぎていきました。

 

入唐から9年目、ついに二人は、過去4万人に戒律を授けてきた名僧・鑑真の存在を知ります。

 

しかも、鑑真は、仏道を究めていただけでなく、貧民や病人の救済など社会活動に力を注ぎ、“大師” として民衆の尊敬を一身に集めていました。

 

二人は、中国の宝である鑑真を日本に連れて帰るのは、あまりに畏れ多いと感じたのか、

鑑真に対して 「高弟の中から誰かを授戒師として遣わしていただきたい」 と懇願しました。

 

二人の熱意に心を動かした鑑真は、居並ぶ弟子たちを前にして言いました。

「仏法のために、誰か日本に戒律を伝えに行ってくれないか?」

 

………

 

誰一人、顔を上げる者はありません。

 

 

「ならば、私が参りましょう」

 

驚き反対する弟子たちも、師の決意が固いことを知って、21人が同行することになりました。

 

鑑真54歳のことでした。

 

玄宗皇帝からの信任も厚い鑑真は、渡日を許されるはずもないので、極秘で出国の準備が進められます。

 

 

鑑真が密出国を試みたのは5回。

 

ある時は弟子の密告により、乗船することさえできず、またある時は、無事に船は出たものの、暴風雨により遭難…。

 

 

地球儀では東シナ海をひとっ飛びなのに、当時の鑑真一行にとって、日本は気の遠くなるほど遠い国でした。

 

 

そして5回目の渡日作戦を決行したのは、鑑真60歳の時。

 

一行の乗った船に暴風雨が直撃し、半月も漂流した末に、遠くベトナム沖の海南島まで流されてしまいます。

 

 

過酷な旅と南方の酷暑が、情け容赦なく人々から体力を奪っていきました。

 

二人の留学僧のうちの一人 ・ 叡栄 (ようえい) が、ついに故国の地を再び踏むことなく、息を引き取りました。

 

そして、鑑真自身も、眼病で失明してしまったのです(;し;)

 

生き残った留学僧 ・ 普照 (ふしょう) は、盲いてしまった鑑真を仰ぎ見て、師の後半生を異国の留学僧である自分たちが引きずり回してしまったことに、後悔の念を抱いたのではないでしょうか。

 

この時ばかりは、渡日を諦めたに違いありません。

 

ところが、鑑真本人は、諦めていなかったのです!!

 

第1回密航計画から11年、6度目にしてやっとチャレンジが成功、65歳になった鑑真は、普照に伴われ、ついに日本の土を踏みました。

 

 

以来、75歳で亡くなるまでの間、日本の仏法のために尽くすとともに、悲田院を設立し、飢えた人や身寄りのない老人、孤児を世話するなど、積極的に貧民の救済に取り組みました。

 

 

井上靖さんの 『天平の甍 (いらか)』 に、こんな一節が出てきます。

 

6度目の渡日計画が成功し、いよいよ今日にも日本に到着するという時…

 

朝日を浴びて目覚めた普照は、

「照、照…。起きておるか。」

という師の声を耳にします。

 

まるで鑑真の目が見えているかのようですニコニコ

 

普照は驚いて、「和上は私が起きたことがなぜわかったのですか。」 と問うと、

鑑真の答えはこうでした。

 

「さっきから何回も声を掛けていたのだよ。」

 

普照が師の優しさに感動して涙ぐむと、

「照は泣いておるのか。」

と、どこまでも優しい鑑真…。

 

小説ですから、当然このシーンは脚色されているのですが、鑑真和上坐像を見ていると、この会話が実話だったのではなかと思うくらい、

坐像の微笑は、そこはかとない優しさを湛えているんですね♡

 

こんなに困難なことを、見ず知らずの日本という国のために、そこに住む人々のために、命がけで成し遂げてくれた人がいた…

 

この日本の地には、鑑真和上の愛が溢れているんですね~ニコニコ

 

芭蕉が詠んだ 「おん眼のしずく」 とは、鑑真和上の慈悲の涙なのでしょうね☆彡

 

平城遷都1300年で賑わう、いにしえの奈良の都…

 

「私たちは、こんなにも愛された日本人なんだなぁ」 という幸せをかみしめながら、

ぜひ唐招提寺の玉砂利の上を歩いてみてくださいねラブラブ


準備中です
暫くおまちください

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
感謝の恩返しと恩送り①

(2010年5月23日のブログ記事より)

 

粋な大人と、その厚意を意気に感じた若者の恩返しと

恩送りのエピソードを書かせていただきますね!!

 

ペリー来航を数ヵ月後に控えた時期に、その若者は、肥後の国 ・ 小国で生を享けました。

 

武士の子として生まれたその若者は、幼い頃、腕白小僧で勉学には一向に興味を示しませんでしたが、医学の道を志すこととなり、熊本医学校から、東大医学部の前身である東京医学校に進みます。

 

東京医学校を卒業したのは、32歳のとき。

卒業後は内務省衛生局に就職しましたが、入省3年後の1885 (明治18) 年、ドイツ留学のチャンスを得ます。

 

若者の名は、北里柴三郎!!

 

ベルリン大学では、パスツールと並んで “近代細菌学の開祖” と呼ばれるコッホの研究室に入り、細菌学の研究に打ち込みました。

 

彼がどれほど研究に没頭していたかを物語るエピソードがあります。

なんと、彼は、ベルリン到着から1年余りは、下宿先と教室を結ぶ道しか知らなかったそうです!!

 

勤勉なドイツ人も、あまりの研究熱心さに、さぞや驚いたことでしょう。

 

その甲斐あって、明治22 (1989) 年、破傷風菌の純粋培養に成功。

当時の細菌学の権威たちが挑戦して、すべて失敗に終わった破傷風菌の純粋培養に、東洋の医学後進国の一留学生が成功したのです!!

 

異国の地で彼がいかに努力したか…

そのことを想像するだけで、感動で涙が出てきます(;し;)

 

次いで翌23年には、破傷風免疫体とその治療方法 (血清療法) を発見するなど、前人未到の研究成果を挙げ、一躍世界の医学界に注目される存在となりました。

 

 

柴三郎の留学期間は、当初、3年の予定でしたが、2年の延長が認められたので、このような成果を挙げることができたのです。

 

計5年間の留学期間が終わりに近づいた頃、彼の師であるコッホが、結核菌ワクチンとして、ツベルクリンを発見しました。

 

結核は、当時、日本でも不治の病として怖れられていました。

コッホの快挙が明治天皇の耳に達すると、柴三郎に1000円の滞在資金が下賜され、ドイツ留学がさらに一年間延長されました。

柴三郎は、肺結核の研究に従事することとなったのです。

 

そして、その最後の一年間も終わり、帰国の日が近づいてきました。

 

そんなある日のこと。

 

イギリスのケンブリッジ大学から、「細菌学研究所を創設するので、所長に就任してほしい」 という依頼が舞い込んで来ました。

大変な名誉であり、条件も破格です。

 

ほかにも、柴三郎に細菌学の指導を願う大学や病院は後を絶ちませんでした。

 

けれども、柴三郎には少しも迷いはありません。

 

「明治天皇からの御下賜金により結核療法の研究に従事できたので、帰国して恩義に応える所存です。」 と、丁重にお断りしたのです。

 

おそらく柴三郎の胸には、「日本の脆弱な医療体制を改善し、伝染病の脅威から日本国民を救いたい」 という使命感が燃え上がっていたのではないでしょうか。

 

そんな彼の志と研究成果は、留学先であるドイツで高く評価されました。

 

ドイツ政府は、彼がドイツ医学界に残した功績に対して、『プロフェッソル(大博士)』 を贈呈したのです。

この栄誉ある称号を外国人が受賞したのは、柴三郎が初めてでした。

 

明治25年5月、“世界の北里” がいよいよ帰国…。

 

ところが、帰国した柴三郎を待っていたのは、人生最大のピンチでした(>し<)

 

世界の北里に対して、日本政府はあまりに冷淡だったのです(;し;)

 

「日本に伝染病研究所を設立したい」 という彼の希望を聞き入れないばかりか、内務省への復職も許さず、とうとう柴三郎は、失職状態に…(>し<)

 

ドイツ留学中、脚気の原因を細菌とする東大の緒方教授の説に対し、柴三郎が異論を呈したため、“恩知らず” とされ、母校 ・ 東大医学部との間に軋轢が生じてしまったのが、干された理由であると言われていますが、それがすべてかどうかはわかりません。

 

それにしても、世界の北里が、無職 ・ 無収入になろうとは、誰が想像したでしょう!?

 

さぁ、どうする、柴三郎…!!

 

活躍の場を海外に移してしまうのか…?

 

 

 

 

「捨てる神あれば、拾う神あり」 とはよく言ったもの、ここに、救いの手が

彗星のごとく現れます!!!

 

北里柴三郎を窮地から救ったのは、超有名なあの方です!!

 

ぜひ想像力を働かせて、誰が救ったのか、考えてみてくださいニコニコ

 

正解は、次回……♪


感謝の恩返しと恩送り②

(2010年5月25日のブログ記事より)

前回の続きです!

ドイツで華々しい研究成果を挙げた北里柴三郎でしたが、明治25年5月に帰国し、11月に内務省衛生局に復職するまで、半年もの間、無職無収入というピンチに立たされました。

 

この半年の間、柴三郎は、精力的に研究を進めながら、伝染病の調査や研究を行う施設を日本に造りたいと願い、その必要性を政府や関係機関に説いて回りましたが、研究所設立の目処は一向に立ちません。

 

 

しかも、世界中で、赤痢 ・ 結核 ・ 腸チフス等の伝染病が蔓延しています。

 

 

このまま無為に日本で時間を費やすより、海外の大学か研究所で研究する方が、世界の人々のためになるのではないか…

 

そんな焦燥感にかられた時、ふいに救いの手が差し伸べられました!!

 

天が遣わした救世主の名は…

 

福沢諭吉!!

 

 

諭吉さんと緒方洪庵の適塾で同門だった長与専斎は、長年、内務省の衛生局長を務めていました。

 

柴三郎が帰国した時には、すでに彼は退官していましたが、北里柴三郎という至宝が、海外に流出してしまうのは忍びないと感じ、居ても立ってもいられなくなり、諭吉さんに相談したのです。

 

 

柴三郎の熱意に心を動かされた諭吉さんは、研究の場を無償で提供する

ことを即決、芝公園内にある私有地と私財を投じて研究所を建てました。

 

所長は、もちろん柴三郎です。

 

彼がドイツから帰国した年の10月に工事が始まり、1ヵ月後には研究所が開設される…という異例の速さでした。

 

けれども、一難去ってまた一難。

 

せっかく造った研究所でしたが、あまりに手狭だったので、芝 ・ 愛宕町に移転することを決めたのですが、『伝染病』 という言葉に過敏に反応した地域住民たちから、猛烈な反対の声が上がったのです。

 

このピンチを救ったのも、諭吉さんでした!

 

 

不安に駆られる住民たちに安全性をアピールするために、研究所の建設予定地の隣りに、自分の息子の家を新築したのです。

 

その甲斐あって、反対運動は鎮静化。

 

こうして、明治27 (1894) 年2月に、研究所は新たな移転先で再スタートを切りました。

 

柴三郎と諭吉さんのコンビは、伝染病研究所だけでなく、結核専門の療養所『サナトリウム』 の計画も同時に進めていました。

 

明治26年9月には、現在北里大学のある場所に日本初のサナトリウムが開設されましたが、 『土筆ヶ岡養生園』 という名前は、諭吉さん自らが命名しました。

 

柴三郎と諭吉さんの間に結ばれた深い絆が伺えますねニコニコ

 

 

そしてこの土筆ヶ岡療養所は、“世界の北里” の名声を慕う人々が、海外からも押し寄せたということです。

 

話を元に戻して、伝染病研究所が移転した明治27年…

 

この年は、香港でペストが大流行した年でもあります。

 

政府から調査団として現地に派遣された柴三郎は、香港到着数日でペスト菌を発見、再び歴史に名を残す業績を残し、世界の医学界から賞賛されました。

 

さて、伝染病研究所のその後について触れておきましょう。

 

私立としてスタートした研究所は、明治32 (1899) 年に国に寄付され、内務省

管轄の国立伝染病研究所となりました。

 

その前年 (明治31年) 、野口英世が北里の門を叩いたこの年、柴三郎の弟子 ・志賀潔が、弱冠27歳で赤痢菌を発見。

 

世界を驚かせたこの快挙は、日本の医科学史において燦然と輝いていますが、

実は、柴三郎と志賀潔の共同研究であり、むしろ潔は研究助手であった…というのが、事実のようです。

 

以下は、志賀潔の言葉です!!

 

「私は大学を出たばかりの若僧だったから、先生の共同研究者というよりも、むしろ研究助手というのが本当であった。

しかるに研究が予期以上の成果をあげて論文を発表するに当たり、先生はただ前書きを書かれただけで、私一人の名前で書くように言われた。

普通ならば当然連名で発表さ れるところである。

・・・発見の手柄を若僧の助手一人にゆずって恬然 (てんぜん) としておられた先生を、私はまことに有り難きものと思うのである。」

 

助手や大学院生の研究成果を、自分の手柄として発表する教授が多い中、自分は一歩も二歩も引き、すべてを弟子の手柄とし、世界に送り出すとは…!!

 

これぞ、まさに “恩送り”ラブラブ

 

幾多のピンチを周りの人々の厚意で乗り越えてきた、苦労人 ・ 北里柴三郎だからこそ、自分の受けた恩を、カタチを変えて次の世代にリレーできたのだと思います。

 

さらに、志賀潔の赤痢菌発見の翌年、米国のフレキシナーが赤痢の調査研究のため来日した際、柴三郎は、通訳として野口英世を抜擢しました。

 

このご縁で、明治33年に野口英世はフレキシナーを頼って25歳で渡米します。

その後の活躍は、皆さんご存知の通り。

 

野口英世の “世界への道” を切り開いたのも、柴三郎その人だったのです☆彡

 

このように、研究も弟子の育成も順調に進みましたが、大正3 (1914) 年、政府は所長の柴三郎に何の相談もなく、伝染病研究所を内務省衛生局の所管から文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表しました。

 

これは、「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」 という柴三郎の信念に反することであり、また、長年の東大との軋轢を考えたら、彼の立場としては耐えられないことだったでしょう。

 

柴三郎は、以後、土筆ヶ岡養生園で結核の治療に専念するつもりで、国立伝染病研究所に辞表を提出しました。

 

ところが、弟子の志賀潔をはじめ試験管洗いの女性にいたるまで、所員全員が辞表を提出したのですから、驚きです!!

 

北里柴三郎が、優れた医師であり、科学者であったと同時に、人として素晴らしかった…ということが、この一事からも想像できますね(*^-^*)

柴三郎は、自分のために辞職した所員たちのために、『私立北里研究所』の設立を決意します!!

 

場所は、土筆ヶ岡養生園の隣接地。

 

土筆ヶ岡養生園は、諭吉さんの援助で設立されましたが、この養生園から得た資金で、今度は独力で研究所を建設出来たのです。

 

そしてこの研究所が母体となり、北里大学が生まれました。

 

 

この北里研究所の設立を、恩人 ・ 福沢諭吉は、つい目にすることはありませんでした。

 

明治34 (1901) 年2月3日、福沢諭吉逝去。

 

柴三郎は、弔辞で 「報恩を期す」 と誓います。

 

二人の間に育まれた友情は、“柴三郎の恩返し” というカタチで、諭吉さんの没後も続くこととなります。

 

大正6 (1917) 年、柴三郎は、諭吉さんの遺志を継ぎ、慶應大学医学部を創設し、初代医学部長 ・ 付属病院長に就任しました。

 

新設の医学部の教授陣には、志賀潔をはじめ、ハブの血清療法で有名な北島多一など、北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込みました。

 

慶應が、私立の大学でありながら、日本医学界で絶大な存在感を示しているのは、このような経緯があったからなんですね。

 

柴三郎は、十年余りの間、慶應義塾で医学教育に従事し、慶應医学部の発展に尽力しましたが、その間、給料や報酬は一切受け取らなかったといいます。

 

柴三郎にとっては、慶應義塾で過ごした日々は、仕事ではなく、諭吉さんへの恩返し = “志事” だったのでしょう!!

慶應大学から渋谷行きのバスに乗ると、程なく北里大学に着くのですが、この2校が創立者の熱い友情で結ばれていることを思うと、何とも言えず、

温かい気持ちがこみ上げてきますラブラブ

 

北里柴三郎…

彼は、ノーベル賞の候補に挙がりながら、受賞は幻に終わりました。

 

でも、彼の見事な生き方を私たちが語り継ぎ、あとに続く者が現れる時、彼の人生は、ノーベル賞以上の輝きを放つと思います!!


北里柴三郎、もう一つの歴史秘話☆彡

(2010年5月26日のブログ記事より)

2回にわたって、北里柴三郎の恩返しと恩送りについて書かせていただきましたが、わたしが柴三郎の生き方に感動する理由がもう一つあるので、今回はそれをご紹介しますねニコニコ

 

それは、彼の行動のベースには、常に 「日本人のため」 という発想があった…ということなんです。

 

ドイツ留学から帰国する際にも、ケンブリッジ大学をはじめ、世界の名だたる大学 ・ 研究所からヘッドハンティングされたのに、国費で留学できたことを謙虚に受け止め、破格の待遇を断って、祖国 ・日本に帰国しました。

 

 

この時の心境も、「日本人のため」。

 

 

帰国後、柴三郎は、福沢諭吉の援助を受けて、伝染病研究所を設立しましたが、研究所内には、免疫血清の製造部門もありました。

 

柴三郎の帰国から3年経った明治28 (1894) 年、日本国内でコレラが大流行。

 

 

彼が研究所で開発した血清療法は、コレラの致死率を著しく下げ、画期的な成果を挙げました。

 

このような特効薬を独占販売すれば、莫大な利益を上げることは、間違いなかったでしょう!!

 

けれども、彼は独占販売を避け、「官業にしたい」 という政府の申し入れに快く応じました。

その方が、日本国民にとって利益になると判断したからです。

 

明治29 (1896) 年10月、国立の血清薬院が事業を開始すると、
柴三郎は研究所での血清製造を中止し、その設備のすべてを献納した上で、血清の製造技術にもっとも習熟したスタッフを、その院長として派遣し、自らが顧問を引き受けました。

 

柴三郎がドイツに留学している間、免疫血清療法を共同研究し、のちにノーベル賞を受賞 したベーリングが、製薬会社から権利料を受け取っていたのとは、対照的です。

 

こういう生き方が、いかにも日本人らしい…ラブラブ

 

「おかげさま」 という言葉に象徴される日本文化、その中で育まれた日本人の “For you” の生き方を、次代にリレーしていきましょう(*^▽^*)


準備中です
暫くおまちください

紀 貫之の娘(きの つらゆきのむすめ)
日本文化の奥ゆかしさ~断り方の美学②♪

(2010年3月27日のブログ記事より)

今から1000年以上さかのぼって、歴史物語 『大鏡』 の記述から…。

 

ある時、 毎年美しい花を咲かせていた御所の梅の木が、枯れてしまいました。

 

ときの帝 ・ 村上天皇は、ひじょうに残念に思い、代わりの梅の木を見つけるように命じたそうです。

 

 

係の者が都じゅうを訪ね歩いて、やっと代わりが務まりそうな立派な梅の木が見つかりました!!

 

移植された梅の木は、見事な花を咲かせ、御所は再び芳しい香りに包まれましたラブラブ

 

 

大満足の帝でしたが、ふと、梅の木に視線を移すと、一本の枝に文が結びつけられています。

 

その文にしたためられていた和歌が、しびれるんですニコニコ

 

「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問わば いかが答へむ」

 

……帝のご命令ですから、梅の木は謹んで差し上げましょう。

でも、この木を止まり木にしている鶯が、「わたしの宿は?」 と

尋ねてきたら、どのように答えたらいいのでしょうか。

 

この文をしたためたのは、『土佐日記』 の著者であり、古今和歌集の選者である紀 貫之の娘でした。

 

この梅の木、もしかしたら父の貫之が愛していた木だったのかも

しれませんね♪

 

 

「大事な梅の木を差し上げるわけにはまいりません。」

 

と断れば、角が立ちます。

 

だから、彼女は、鶯に自分の想いを託した…なんという奥ゆかしさでしょうラブラブ

 

 

帝も、彼女の真意を汲み取り、梅の木を取り上げた行為を恥じ、

彼女のもとに返したそうです。

 

 

伝え方も素敵、そしてそれを受けとめる側の感性も素晴らしいですね!!


準備中です
暫くおまちください

木村 重成(きむら しげなり)
戦国ジャニーズ

(2011年10月8日のブログ記事より)

先月、BS-NHKの 『熱中スタジアム ~戦国ディープ女子道~』 に出演させていただきました。

第一夜のテーマは、戦国のライマックスとも言える 「関ヶ原」、そして第二夜のテーマは、「歴女が愛した武将(おとこ)たち」!!

 

全国から集まった歴女30人の中で、人気No.1は真田幸村、そして第2位が、伊達政宗。

 

私が選んだのは…

立花宗茂とどちらにしようか相当迷ったんですけどね、昔から大好きだった木村重成を選びましたラブラブ

 

木村重成と聞いて、「あ、あの大坂の陣で活躍した、豊臣方の武将jね」 とピーンときた方は、かなりの歴史通です。

普通は、「誰、それ?」 という感じですよねニコニコ

 

木村重成は、豊臣秀頼の乳母(めのと)の子どもで、年齢も秀頼と同年代。

秀頼にとって、重成は唯一の幼馴染であり、二人は兄弟のようにして育ちました。

秀頼の小姓から、やがて豊臣家の重臣となった彼を、ともに大坂の陣で戦った毛利安左衛門という者は、のちにこのように述懐しています。

「丈高く、色あくまで白く、眉黒々と際だち、細い眼の眦(まなじり)が凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた。」

 

真偽のほどは定かではありませんが、彼の美しさを伝える次のようなエピソードも残っています。

大坂の陣の引き金となった方広寺の鐘銘を巡り、豊臣方の使者として大蔵卿局が駿府の徳川家康のもとへ向かった際に、重成は女装して同行したものの、その美しさに、徳川方の誰一人として、その美女が男であることを見破れなかった、…と。

 

女装が見破れないって、どれほどのイケメンなんでしょうか?

今で言えば、山Pみたいな感じかな?

 

また、一説によると、大坂城の1万人を超える女官たちが、揃いも揃ってみな重成のファンで、城内で彼を見かけるだけで大騒ぎしたとか…。

 

それで私は、重成のことを “戦国ジャニーズ” と呼んでいるのですニコニコ

ミーハーな私は、きっとあの時代に大坂城にいたら、女官たちの先頭を切って騒いでいたことでしょうニコニコ

 

さて、その重成に対して、ミーハーな気持ちではなく、真剣に恋した女性がいるのです。

しかも、ひと目惚れ…ラブラブ

彼女は、彼にひと目会ったその日から、切なくて、ご飯も食べられなくなり、ついには寝込んでしまいました。

 

彼女の名は、青柳。

 

大坂城1万人の女官の中でも、ナンバー1の美貌と評判で、その上、和歌や琴の名手として知られていました。

「才色兼備」 とは、彼女のような女性を言うのでしょう!!

 

病床でも、青柳の想いは募るばかり。

彼女は、その切ない気持ちを和歌に託しました。

 

「恋侘て 絶ゆる命は さもあらはあれ さても哀といふ人かな」

(恋ゆえに患って死んでしまうのであれば、それも構いません。後に哀れなことだと言ってくれる人がいるかもしれませんから)

これに対し、重成の返歌は…

「冬枯の 柳は人の 心をも 春待てこそ 結ひ留むらめ」

(冬の柳は春を待ち、人の心を柳で結びとめるだろう)

重成が、青柳の恋心を受け入れた瞬間でした(*^-^*)

 

二人が結婚したのは、慶長20(1615)年正月7日のこと。

重成22歳、青柳19歳と伝えられています。

 

ここで、「1615年」 と聞いて、ピーンときたあなたは、かなりの歴史通です!!

そうです、大坂夏の陣が起こり、豊臣家滅亡したのが、1615年。

二人の結婚生活は、たった4ヵ月しか続きませんでした。

 

大坂夏の陣が始まり、決戦の日が近いことを悟った重成は、極端に食が細くなりました。

青柳が心配してその理由を問うと、「敵に討ち取られた場合に、裂かれた腹から食べたものが出ると見苦しいためである。」 と、重成は澄んだ瞳で答えたといいます。

重成の覚悟を知った青柳は、夫の髪を入念に洗い、兜には香を焚き込めました。

そんな新妻に対して、重成は、謡を歌って別れの盃を交わすと、戦場へと旅立っていったのです。

 

元和元(1615)年5月6日、藤堂、井伊という徳川の精鋭部隊を迎え撃ち、一歩も引けを取らずに果敢に戦った重成でしたが、ついに壮絶な討ち死にを遂げました(;し;)

 

翌日、大御所・家康の前で、重成の首実検が行われました。

すると、頭髪から、えもいわれぬ香りが…。

家康はじめ徳川方の諸将は、この若武者の悲愴な覚悟を知り、涙を流さぬ者はいなかったといいます。

 

絵に描いたような美男美女のカップル・重成&青柳夫妻は、その最期がどちらもあまりにも劇的です。

 

重成が戦死したのが5月6日

翌7日深夜に、大坂城は落城、8日、秀頼と淀殿は自刃し、豊臣家は滅亡します。

その時、妻・青柳は、どうしたのか…?

 

大坂城から落ち延びた青柳は、親類を頼って近江の国へ。

実は、青柳は、懐妊していたのです。

青柳は男児を出産すると、出家して尼となりました。

 

そして、重成の一周忌を終えると、重成の後を追って自害したそうです。

 

重成にひと目惚れした日から死の瞬間まで、青柳は、ただひたすら彼のことを想っていたのでしょうねニコニコ

まさに、命を懸けた恋ラブラブ

愛する人のためなら、人はこれほど強くなれるんですね。

戦乱の世でなければ、きっと二人は添い遂げられていたでしょうに…。

あまりにも美しく、あまりにも切ない恋物語ですね。

 

次回は、武将としての重成のかっこよさに迫りたいと思います!!(*^-^*)


戦国ジャニーズ・木村重成の魅力☆

(2011年10月9日のブログ記事より)

 

慶長19(1614)年の大坂冬の陣。

重成の部隊は、東部方面戦線遊撃部隊として配置されました。

 

11月26日の早暁、徳川軍が大坂城の東北に位置する今福の堤に攻め寄せて来ました。

 

豊臣軍の守備隊は、防衛のための柵を四重に設置していましたが、三段目まで破られ、壊滅的な打撃を受けようとしていました(>し<)

 

大坂城内でその様子をうかがっていた重成は、自らの部隊を率いて出陣。

戦上手として名高い後藤 又兵衛も、すぐさま部隊を率いて駆け付け、重成隊に合流しました。

重成&又兵衛の連合軍は、今福で徳川方の佐竹隊を撃破!!

重成は、見事に初陣を飾ったのですニコニコ

 

ところが、大坂城に引き上げた重成は、家来の大井何右衛門の姿が見当たらない事に気づきます。

 

大井は、多くの大名から仕官の声がかかった武勇の士で、この日も、重成の武者奉行として、初陣の主人を支えて奮闘していました。

 

重成は、「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士の下知ができるだろうか。なんとしても探してこよう。」 と、ただ一人、戦場にとって返し、死体が散乱する中、大井の姿を探し求めたのです。

 

どれほど戦場を駆け続けたでしょうか、ついに重成は、怪我をして動けなくなっている大井を発見!!

ところが、彼を抱きかかえ、城に戻ろうとしたところで、重成は敵に囲まれてしまいます。

 

「私のことは棄てておいて、早くお戻りください。」 と訴える大井に対して、重成が告げたひとことが、素敵なんです♡

「ここに来て見捨てるぐらいなら、初めから助けになど来ないだろう。」

そう告げると、槍を取って取り囲む敵に突っ込んでいきました。

 

重成は、自分が盾となり時間を稼ぐことで、怪我をした大井を逃がしてやるつもりだったのでしょう。

重成には、胆力と優しさという、男にとって最も大切なものが備わっていたのですねニコニコ

 

その後、味方の30余騎が駆けつけたことで、重成主従は無事に城へと退却できたのですが、この時も、重成は、部下を思いやり、自身が殿軍を務めたということです。

 

この今福・鴫野方面での戦いが、大坂冬の陣における最大の野戦となりました。

この戦いにおける重成の奮闘に対して、秀頼は、「日本無双の勇士」 と称賛の言葉を口にするとともに、感状と脇差しを下賜しました。

 

けれども重成は、せっかく秀頼から下賜された感状と脇差しを、その場で返上してしまいます。

 

武士として、これほどの栄誉はないはずなのに、なぜ…?

 

このたびの戦の武功は、自分一人の働きではなく、みなの力によるものである、と。

さらに、感状は、他家へ奉公する時に経歴の飾りとはなるが、自分は二君に仕える気はないから、無用である、というのが、その理由です。

 

この言葉を聞いた部下も、主人である秀頼も、感無量だったでしょうね(;し;)

私は、重成の for you スピリットが大好きなのですラブラブ

 

重成の、秀頼に対する一途な忠誠心が伝わってくる、素敵なエピソードがもう一つあります。

 

これはまだ、大坂の陣が起こる前のこと。

美しい外見と優しい洗練された物腰で、大坂城の女官たちの人気を一身に集める重成。

しかも、主君の秀頼からも信頼が厚い。

そんな彼に対して、同性がやっかむのは当然でしょう。

豊臣家臣団の中には、彼の美しさと優しさ、さらに実戦経験の無さを、揶揄する人が多かったといいます。

 

けれども、どれほどの侮蔑を受けても、重成は平然と受け流すばかり。

重成が反論しないのをいいことに、しだいに秀頼の近従や茶坊主まで、彼を侮るようになってしまいました。

 

そんなある日、調子に乗った茶坊主が、痛烈に重成を辱めたのです。

その場にいた者たちも、「さすがにこれは酷い。いくら重成でも黙ってはいられないだろう。」 と、凍りつきました。

 

みなが息を呑みながら見守る中、重成は、静かに茶坊主の方に向き直りました。

そして、「本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろうが、そうすると私も死ななくてはならない。しかし、お前ごときのために、いま私が死ぬわけにはいかない。私の命は、秀頼様のためにこそ死ぬためにあるのだ。」 そう言って、笑顔さえ見せたそうです。

 

この一件で、重成の覚悟を知った城内の者は、誰一人として重成を軽視しなくなりました。

 

 

それにしても、恐るべし、重成のスルー力!!

本当の使命に目覚めると、次元が上昇するんだろうなぁ。

 

人の一生は、そんなに長くはない。

だとしたら、かけがえのない命を、誰のために、何のためにつかうのか?

どうでもいいことは、いちいち気にせず、スルーする♪

 

重成という男、単にイケメンというだけでなく、粋です、カッコよすぎますニコニコ

あ~ぁ、それに比べて私たち、どうでもいいことに振り回されて、一喜一憂して、すごく運を落としているような気がします↓

 

自分は、何のために生まれてきたのか、

誰の笑顔が見たいのか…

本当に大切な人、大切なものを、大切にしていきたいですねラブラブ

 

 

以上、“戦国ジャニーズ・木村重成から学ぶスルー力” でしたニコニコ


6月は神戸に伺います!

(2015年3月9日のブログ記事より)

昨日は彦根での講演を終え、市内の宗安寺を訪れました。

『愛されたい!なら日本史に聞こう』にも書かせていただいた、大好きな戦国武将・木村重成の首塚にお参りするためです。

重成は大阪夏の陣で討死をしているので、亡くなってから、今年でちょうど400年。

井伊直弼生誕200年の節目の年に彦根に呼んでいただき、400年ぶりに重成の首塚の前で彼の冥福を祈ることができて、感無量でした(>し<)

徳川の天下、しかも井伊家は譜代中の譜代。その井伊家の手厚い庇護を受けながら、徳川に歯向かった重成の供養を欠かさず行い、石田三成ゆかりの地蔵尊や念持仏を安置している、宗安寺。

これは井伊家の懐の深さなのか、彦根に住まう人々の優しさなのか…。

歴史を知ると、自分の中にある優しさがどんどん引き出されていくようで、嬉しいですニコニコ


準備中です
暫くおまちください

空海(くうかい)

空海の名前

(2009年7月10日のブログ記事より)

私の好きな歴史上の人物 TOP3 は、島津 斉彬、福沢 諭吉、そして空海です!!

皆さんは、なぜ“空海”という名前なのか、ご存知ですか?
空海って、同時代の最澄とよく比較されますよね。

わたし、自ら「最も澄む」と名乗る人なんて、信用できないなぁ、
それに比べて、「空と海」という名前をつけるなんて、空海って素敵。

なーんて思っていたのですが、実は空海の名前の由来は、そんな単純なものではなかったんです。

空(そら)って、本当は実在しないものですよね?
でも、海を見ると、実在しないはずの空が、まぎれもなくそこに映っています。
空を映し出す海のように、「自分をからっぽの器にして、すべてのものをそこに映し出し、包み込む」というのが、空海の名前の由来だそうです。

ひすいさんのメルマガを読んで、空海が1200年のときを超えてよみがえったように感じて、胸がいっぱいになっちゃいましたラブラブ


神さまを微笑ませたかったら・・・♪

(2011年6月8日のブログ記事より)

今日は、福岡での講縁会を主催してくださるアルカンシエルのやっちゃん と、SUN&MOON という会社を立ち上げた SIGEMAちゃん、そしてSIGEMA ちゃんの愉快な仲間たちと一緒に、楽しくランチミーティングラブラブ

 

SIGEMA ちゃんは、実は凄腕の整体師なのですが、整体師としてでなく、会社経営をがんばることに決めたみたい。

 

ちょっぴり残念な気持ちもありますが、でも、SIGEMA ちゃんが決めたのなら、心から応援したいです。

 

SIGEMA ちゃんは、おもしろい夢があって、いつか小説を書いてみたいんですって。

 

その理由が、いかにも SIGEMA ちゃんらしいの。

 

小説を書くことで、神さまの気持ちを味わいたいんですって!!

 

小説の中では、登場人物の出会いや人生を、作者が好きなように決められますよね。

それが、私たちの人生を決める神さまの仕業に似ている…

というのが、SIGEMA ちゃんの説なのです!!

 

SIGEMA ちゃんの感覚、なんとなくわかるなぁニコニコ

 

ただね、神さまって、好き勝手にその人の人生を決めているわけではないと思うの。

 

神さまがつい微笑みたくなってしまうか、そっぽを向いてしまうか、それはその人しだいなんじゃないかな。

 

だから、運命って、いくらでも変えられると思うんです。

 

実は、15日に本の発売を控え、知り合いに会うたびにそのことを伝えているのですが、反応はさまざま…。

 

笑顔で心から喜んでくれる人や本屋さんにすでに予約をしたと言ってくれる人もいれば、「へぇ、すごいね」 だけで会話が終わる人、そのことには触れずに自分の愚痴を言い続ける人もいます。

 

そんな話を SIGEMA ちゃんにしたら、空海が大好きな SIGEMAちゃんが、おもしろい話をしてくれました。

 

皆さんもご存知の通り、弘法大師伝説は全国に残されているのですが、空海は、自分に対してとても親切にしてくれた人には、伝説に残るような素晴らしい贈り物をしているのに (弘法大師のおかげで泉がわいたとか、川で魚が釣れるようになったという言い伝えが各地に残されています)、逆に自分に冷たくした人には、「目には目を」 ということで、その人の家族を次々と死に至らしめたりしているらしいのです。

 

それで、お遍路さんがまわる地域では、お遍路さん一人一人を弘法大師と思って親切にしよう…ということで、いわゆる“お接待”が心をこめて行われているんですって。

 

その話を聞いて、思いました!!

 

 

神さまって、本当は、一人一人の人間の中に宿っているのではないかしら。

 

神さまを微笑ませたかったら、いつも目の前の人の中にいる神さまが微笑んでくれるように、相手の喜びを自分の喜びにしていけばいいんじゃないかなぁ…ってラブラブ

 

そういう生き方ができれば、自分もハッピーですしね☆

 

今日も素敵な気づきをいただいて、感謝…ニコニコ


直観力を磨く

(2011年9月14日のブログ記事より)

先週末、東京・上野の国立博物館に “空海と密教美術” 展を見に行ってきました。

なんといっても、空海は、島津 斉彬、福澤 諭吉と並んで、私が最も尊敬する人物なんですニコニコ

 

なぜこの3人が好きなのかと言うと…

私は 「本質」 を掴む人に弱いんですねニコニコ

 

空海には、こんなエピソードがあります。

 

空海30歳の時、唐に留学するチャンスが訪れます。

この時、一緒に唐に渡った最澄は、すでに天皇の信頼が篤く、当時の仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の僧侶でした。

 

その無名の留学僧・空海が、中国語、サンスクリット語を学び、自在に操れるようになった時、満を持して訪れたのが、長安の青龍寺でした。

青龍寺の恵果(けいか)は、密教の正統後継者である阿闍梨(あじゃり)の地位にあり、インド直伝の密教を中国人で初めて受け継いだ阿闍梨だったのです。

 

 

恵果は空海を見るなり、笑みを含んで歓喜したといいます。

そして、空海を前にして、恵果が述べた言葉は、あまりにも劇的でした。

 

「私はまえよりあなたが来るのを知って、長いこと待っていた。

今日会えて、大いに好い、大いに好い。

自分は寿命が尽きようとしている。

しかしながら法を伝えるのにふさわしい人がいなかった。

これからすべてを速やかにあなたに伝えよう。」

 

 

異国のまったく無名の留学僧に、初対面で 「すべてを伝えたい」 と告げた恵果阿闍梨の、その直感力の見事さ!!

 

そしてこの言葉の通り、恵果は他の弟子が驚くのを制止して、弟子入りしたばかりの異国の僧・空海に、自分の持っている全ての知識を彼に伝える作業を始めたのです。

 

実は、自分の死期を悟った恵果は、空海に出会う3年前に、千人いる弟子の中から7人を選抜し、彼らに自分の持っている知識を伝えていましたが、最後の伝法灌頂には至っていませんでした。

「灌頂」 とは、密教独特の法の伝授の儀式のことですが、その中でも、密教最高位の法王(大日如来)を意味する阿闍梨位を譲り渡す灌頂を、「伝法灌頂」と言います。

 

二十年以上も修行を重ねてきた弟子でさえも、「伝法灌頂」 には至らなかったのに、なんと空海は、弟子入りしてわずか2ヵ月で、すべての法を伝授され、「阿闍梨」 となり、密教の正統を継ぐことになったのです。

 

当然、弟子たちの中には、反発する者もいたことでしょう。

新参者である空海に対するやっかみもあったでしょうし、それに、空海が帰国すれば、密教の正統は中国を離れて日本に渡ることになるからです。

けれども、恵果は、頑として空海への譲位の意思は曲げなったと言われています。

 

この2ヵ月の間、空海の努力も凄まじいものがありますが、師匠の恵果も、ほぼ不眠不休で奇跡に挑んだのではないでしょうか。

病床にある恵果にとって、それがいかにキツイことであったか…。

まさに時間=寿命との戦いだったのではないでしょうか。

 

恵果の弟子・呉慇(ごいん)によると、二人の様子は、「さながら、一つの瓶からほかの瓶へ水を移しかえるかのように、すべてを学びとった。」 ということでした。

 

空海との出逢いからおよそ半年、恵果はその生涯を閉じました。

その際に、恵果は、「請う本郷に帰って、海内に流転すべし」 という遺言を空海に与えたと言われています。

師の遺言の通り、空海は直ちに帰国、日本に密教を広めることとなります。

一方、唐では、その後、密教は衰退していきます。

 

その後の歴史を知る私たちは、まるで密教の正統を守るために、恵果と空海が出逢ったような気がしてきますねニコニコ

 

それにしても、空海という天才を見い出した恵果の直感力は、お見事です!!

そして、わずか2ヵ月で恵果の一切を受け取った空海の優秀さに驚くばかりです。

 

おそらく、空海には、本質を掴み取る能力と、師の期待に応えたいという心意気、そのどちらもが人並み外れて備わっていたのでしょうね。

 

上野で空海の生涯を振り返って、いろんなことを考えさせられました。

 

運命的な出逢いって、直感力がモノをいうんだなぁ!!

空海や恵果に比べて、私たちは、相手の実績や肩書に振り回されすぎていないかな。

 

いろんな出逢いの中で、ふところダイビングしていって、直感力を磨いていきましょう~ラブラブ


空海劇場☆

(2012年4月28日のブログ記事より)

今からおよそ1200年前、留学先の唐から帰国した空海は、京の都に入ることを許されず、2年間博多に滞在します。

 

なぜ許されなかったのかというと、当初決められた留学期間が20年間だったにもかかわらず、たった2年で帰国してしまったからです。

 

 

では、なぜたった2年で帰国してしまったのか、空海が30歳で唐に留学してからの足跡をたどってみましょう!!

 

この時、一緒に唐に渡った最澄は、すでに天皇の信頼が篤く、当時の仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の僧侶でした。

 

 

その無名の留学僧・空海が、中国語、サンスクリット語を学び、自在に操れるようになった時、満を持して訪れたのが、長安の青龍寺でした。

青龍寺の恵果(けいか)は、密教の正統後継者である阿闍梨(あじゃり)の地位にあり、インド直伝の密教を中国人で初めて受け継いだ阿闍梨だったのです。

 

恵果は空海を見るなり、笑みを含んで歓喜したといいます。

そして、空海を前にして、恵果が述べた言葉は、あまりにも劇的でした。

 

「私はまえよりあなたが来るのを知って、長いこと待っていた。

今日会えて、大いに好い、大いに好い。

自分は寿命が尽きようとしている。

しかしながら法を伝えるのにふさわしい人がいなかった。

これからすべてを速やかにあなたに伝えよう。」

 

 

そしてこの言葉の通り、恵果は他の弟子が驚くのを制止して、弟子入りしたばかりの異国の僧・空海に、自分の持っている全ての知識を伝える作業を始めたのです。

 

実は、自分の死期を悟った恵果は、空海に出会う3年前に、千人いる弟子の中から7人を選抜し、彼らに自分の持っている知識を伝えていましたが、最後の伝法灌頂には至っていませんでした。

「灌頂」 とは、密教独特の法の伝授の儀式のことですが、その中でも、密教最高位の法王(大日如来)を意味する阿闍梨位を譲り渡す灌頂を、「伝法灌頂」と言います。

 

二十年以上も修行を重ねてきた弟子でさえも、「伝法灌頂」 には至らなかったのに、なんと空海は、弟子入りしてわずか2ヵ月で、すべての法を伝授され、「阿闍梨」 となり、密教の正統を継ぐことになったのです。

 

当然、弟子たちの中には、反発する者もいたことでしょう。

新参者である空海に対するやっかみもあったでしょうし、それに、空海が帰国すれば、密教の正統は中国を離れて日本に渡ることになるからです。

けれども、恵果は、頑として空海への譲位の意思は曲げなかったと言われています。

 

この2ヵ月の間、空海の努力も凄まじいものがありますが、師匠の恵果も、ほぼ不眠不休で奇跡に挑んだのではないでしょうか。

病床にある恵果にとって、それがいかにキツイことであったか…。

まさに時間=寿命との戦いだったのではないでしょうか。

 

恵果の弟子・呉慇(ごいん)によると、二人の様子は、「さながら、一つの瓶からほかの瓶へ水を移しかえるかのように、すべてを学びとった。」 ということでした。

 

空海との出逢いからおよそ半年、恵果はその生涯を閉じました。

その際に、恵果は、「請う本郷に帰って、海内に流転すべし(「日本に帰って教えを広めなさい」 という意味)」 と、遺言を空海に与えたと言われています。

 

そして心から敬愛する師の遺言の通り、空海は、約束の20年を待たずに、直ちに帰国したのです。

 

ちなみに、空海によって密教の正統が日本に伝えられると、1200年もの長きにわたり、密教は一度も衰退することはありませんでした。

ところが・・・唐では、その後、密教は衰退していきます。

 

その後の歴史を知る私たちは、まるで密教の正統を守るために、恵果と空海が出逢ったような気がしてきますね

 

ところで、最澄の天台宗が、皇室や貴族の間に根づいていったのに対して、空海の真言密教は、民衆の間に広まっていきます。

空海伝説が全国各地に残っているという事実が、いかに民衆の尊崇を集めていたかを物語っているのではないでしょうか。

 

この、「民衆とともに生きる」 という空海の人生を決定づけたのが、実は博多に滞在した2年間だったのではないか…私はそんなふうに考えています。

 

博多の人たちの中には、空海と博多がこれほど関係が深かったことをご存知でない方が多いようで、かねがね残念に思っていたのですが、なんと、この空海と博多の関係を発信していこうというイベントがあります!!

 

2012年5月12日(土)、13日(日)の両日、空海が建立したといわれる博多・東長寺で行われるこのイベントは、その名もズバリ 「空海劇場」!!

 

実は、私も空海劇場に出演させていただくことになっているのですニコニコ


クラーク博士

ボーイズ ビー アンビシャス

(2009年11月9日のブログ記事より)

“ Boys, Be Ambitious ! ”

これは、かの有名なクラーク博士の言葉です。

 

アメリカ合衆国マセチューセッツ農科大学の学長だったウィリアム・S・クラーク博士

(William Smith Clark,1826-1886) が北海道にやって来たのは、1876年7月のことでした。

当時の北海道開拓使の長官であった黒田清隆が、北海道の農業技術の向上を託し、

当時札幌農学校と呼ばれた北海道大学の初代教頭として来日を要請したのです。

 

歴史上、冒頭の言葉があまりにも有名になりましたが、実は、札幌農学校の教え子たちに

とって、さらに印象深かったのは、クラーク博士の就任披露演説だったそうです。

 

「本校の学生諸君は紳士である。紳士とは自分のことは自分で始末するものである。

自分で自分を制するものに規則は不要である。」

と、一切の規則の廃棄を宣言して、学生の心を一瞬で掴んでしまったといいます。

そして、自由・独立・人間尊重を基盤として、校則は 「Be Gentleman(紳士たれ)」 だけでよいとし、クラーク博士の強い影響で独特な校風が出来上がりました。

 

このクラーク博士の言う 「自制心」 は、「自分の身は自分で処する」 という日本の武士道と響き合い、学生たちの凛とした生き方を導いたのではないでしょうか。

 

実は、クラーク博士が札幌に滞在したのは、わずか8ヵ月にすぎません。

この8ヵ月の間、クラーク博士が校内のすべてを取り仕切り、学生たちに 「紳士たれ」という人生哲学を叩き込んだのでした。

 

学生たちにとって、忘れえぬ出来事がありました。

それは、クラーク博士と学生の “ 禁酒誓約 ” です。

 

当時、札幌の飲料水の事情が悪いということを知ったクラーク博士は、米国から多量のワインを持参していました。

ところが、来日早々、日本の学生たちの飲酒の習慣を知り、その弊害に胸を痛めます。

 

学生たちに禁酒を勧めたい、

でもそのためには、自分がまず禁酒しなければ…

 

そのように考えたクラーク博士は、学生たちの見ている前で、持ってきていたワインを次々に割りました。

そして自分もお酒を断ったことを伝えた上で、学生たちに禁酒を呼びかけました。

 

人間って、不思議ですよね。

言われた言葉以上に、「誰から言われたのか」 ということが、後々まで大きく影響するのですから…。

 

クラーク博士の決意を知り、魂を揺さぶられた少年たちは、禁酒を誓います。

 

そして…

 

明治時代は、官僚や教師が絡んだ汚職事件が多発しましたが、クラーク博士の気高い生き方に触れた少年たちは、卒業後も汚職がゼロだったのです。

ところで、クラーク博士は、前述の名言を、いつ、どんな状況で残したのでしょう?

 

実は、8ヵ月の札幌滞在の最後の最後だったのです!!

クラーク博士の教え子たちは、1877年4月16日、帰国する博士を見送るために、月寒村

(現在の北海道北広島市)の島松駅逓所 ( しままつえきていじょ=馬車の停車場のようなところ ) に向かいます。

 

この別れの場で名言が生まれました。

“ Boys, Be Ambitious ! ” … つまり 「青年よ、大志を抱け !!

こう言い残して、クラーク博士は馬で去っていったのですが、それに続く言葉が、北海道大学のホームページに掲載されていたので、転載します。

「少年よ!!大志をいだけ。それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。 人間として当然そなえていなければならぬ、あらゆることを成しとげるために大志をもて」

 

クラーク博士のの残した教えは、札幌の地に、そしてすべての日本人の心に、今も鮮やかに残っています。


黒田官兵衛(くろだかんべえ)

黒田官兵衛

(2013年10月11日のブログ記事より)

今週のシティリビングは、黒田官兵衛特集ですニコニコ

不肖ワタクシが、官兵衛の素敵なエピソードをセレクトさせていただきました!!

 

取材をしてくださったシティリビングさん、記事を見つけて写メを送ってくれた一人さん、有り難うございますラブラブ

 

それにしても、やっと福岡も盛り上がってきましたね~。

 

すでに昨年の時点で、「平成26年の大河は黒田官兵衛」って、姫路が盛り上がっていたのに対して、博多は話題にものぼっていなかったので、少し淋しかったんですよね(>し<)

 

まぁ、博多は商人の町ですし、官兵衛が福岡に来たのは隠居してからで、福岡藩初代藩主は息子の長政ですから、そんなところが影響して、少し冷めていたのかなぁ。

 

最近は、市内のあちことで官兵衛のノボリを見かけるので、やっとエンジンがかかってきたのかもしれませんね。

 

今夜は、子どもたちと百人一首に興じています♪

 

子どもたちの記憶力がすごくて、とても太刀打ちできませんが、こういう遊びができる幸せなひとときに、感謝ですね☆彡

 

明日からは3連休!!

笑顔で素敵な毎日をお過ごしくださいねニコニコ


さとは福岡

(2014年1月28日のブログ記事より)

いよいよ今日(1月28日)から東京・江戸川区の読書のすすめさんで『こころに残る現代史』の先行販売が始まります。

http://dokusume.com/modules/store/index.php?main_page=product_info&products_id=4974

「産地直送」というのは、印刷所さんから直送という意味です。
実はまだうちにも見本が届いていない…(笑)

 

正真正銘の出来立てホヤホヤ、日本で一番早く手に入るのが読すめさんです。

そして、『こころに残る現代史』の右隣りの『少年日本史』も本当にオススメです!!

 

まえがきで涙が出てきたのは、『永遠の0』とこの『少年日本史』ぐらいです。

 

『こころに残る現代史』の一般発売は2月1日ですが、『少年日本史』とあわせて読すめさんでご購入いただき、ひと足先にお読みいただけたら嬉しいですラブラブ

さて、日曜日は官兵衛ゆかりの備前福岡に行ってきました!!

 

関ヶ原の戦功で筑前52万石を与えられた黒田家は、祖先が再興した備前福岡から地名をとって、筑前の地を「福岡」と名づけたんです。

 

関ヶ原から2年経った1602年、官兵衛はこんな歌を残しています。

「松むめ(梅)や 末ながかれと みどりたつ 山よりつづく さとは福岡」

 

松や梅の緑がいついつまでも生い茂っているように、この福岡の地も栄え続けてほしい、という官兵衛の願い。

 

 

きっと自分が名づけた福岡の地と、そして黒田家の原点である備前福岡の地と…官兵衛の脳裏には、心から愛する2つのさと・福岡があったんでしょうねニコニコ

 

和気での講演、備前長船の刀鍛冶・川島一城(かずき)さんとの出会い、そして往年の山陽道一の商都・備前福岡の地…と、週末も充実しまくりでした!!

間もなく1月も終わりですね。

今週も素敵な一週間になりますように…ラブラブ


準備中です
暫くおまちください

月遷(げっせん)
優しさを持ち続けるために・・・♪

(2010年9月24日のブログ記事より)

 

いつもブログをお読みくださり、さまざまな感想や私の知らない歴史エピソードをお送りくださる難波さん…ラブラブ

先日もまた素敵なエピソードを届けてくださったので、ご紹介させてくださいニコニコ

 

三重県の長島温泉のホテル花水木には、月僊 (げっせん、江戸中期から後期の画僧)の絵がいたるところに掛けてあるそうです。

 

南画に始まり独自の画風を確立した月僊は、花鳥、山水、人物、何を描かせても、

えもいえぬ気品を漂わせている…と言われています。

 

 

「これだけのものを揃えるには、ずいぶんとお金がかかったことでしょう?」と尋ねられると、

社長の服部知祥さん (故人) は、

「いゃぁ、月僊がまだ世に知られる前に集めたので、今から思うと、まるでタダみたいな値段でしたよ。」 と、俗っぽく答えられたそうです。

 

服部さんには、こんな持論がありました!!

 

「他人の評価はどうでもよろしい!芝居でも映画でも、自分の眼で面白いと思えば見に行く。食物だったら、自分の舌がうまいと思ったら食べに行く。 絵も同じである。」

 

画廊に入ると、一回り、さっと見る。

気に入った絵がなければ、そのまま出てしまうが、“これは!”と思う一点があると、

もう一度その前に立ち止まって、10分でも20分でも心行くまで擬視しする。

それで飽きがこなければ、買って帰る…。

 

私なんて、一流の画家が描いたと聞けば、見ないうちから感心してしまいますが、

服部さんの他人の評価に惑わされない生き方は、とても粋ですよねラブラブ

 

そんな服部さんの生き方は、月僊の生き方そのものに通じるものがあり、そんな服部さんだからこそ、月僊を見い出すことができたのでしょう。

 

さて、その月僊ですが、絵の評価とは裏腹に、生前の彼自身の評判は、すこぶる悪かったようです。

というのも、月僊は、絵をたのまれると、すぐ 「潤筆料 (じゅんぴつりょう=画料のこと)はいくらか」 と訊くのが常だったからです。

 

人々は絵の価値を認めながらも、金銭への執着を嫌って、「乞食月僊」と卑しみました。

 

ある日、伊勢 ・ 古市の遊女、松が枝が、さもしい根性をたしなめてやろうと、月僊を招きました。

「和尚さん、これに描いて下さい」 と彼女が投げ出したのは、白縮緬(ちりめん)の腰巻。

 

日本男児が、これほどの恥辱を受けるなんて…(>し<)

武士なら、切腹も辞さないでしょう。

 

ところが、遊女の下着を手に取った月僊は、表情一つ変えず、

「はいはい、画料さえ頂ければ、何なりとお描き致します。一両二分でございます。」

と言って腰巻を持ち帰り、三日ばかりの間に美事な花鳥を描いてきたのです。

 

このことは、「乞食月僊」 のあだ名にいっそう拍車をかけました。

 

同じ頃、京に住んでいた池大雅が、伊勢参宮に名を借りて、伊勢国 ・ 宇治山田の寂照寺に月僊を訪ねました。

 

「貴僧の絵の風格には心から敬服しておりますが、どうして乞食とまで言われるほど、金銭に執着されるのですか。画料のことは、あまりやかましく言わぬ方がよろしいかと存ずるが…。」

 

南画の大成者として名声を博した池大雅の好意溢れる言葉に、さすがの月僊も、心うたれた様子でしたが、返事はせずに、その後も依然として態度を改めることはなかったそうです。

 

 

こうして月僊は、人々から 「乞食月僊」 と蔑まれたまま、文化6 (1809) 年の正月、

69歳で没します。

 

ところが、月僊の死後、縁者たちが遺品を整理したところ…

おびただしい領収書や人夫の手間賃の控え、土木の契約書、設計図などが出てきたというのです。

 

それらは、ことごとく参宮道路の修理や橋の普請に関するものでした。

 

そういえば、荒れ果てた参宮道路や壊れた橋などが、時折、補修されたり架け替えられたりして、参拝者や付近の人々が喜んでいました。

 

けれども、誰もが、それらすべては奉行所の仕事と思いこんでいたのです。

まさか月僊和尚が私財を投げうって行っていたなんて…(>し<)

自分たちが 「乞食坊主」 とののしった月僊和尚がやったことだとわかった時、すでに恩人はこの世にはいない…(;し;)

人々は、どんな気持ちだったでしょう。

 

月僊にしてみれば、己の志は誰が理解せずとも、天はわかっていてくれる…

という心境だったのでしょうか。

 

あえて自分の善行を公にしない…これぞ日本人特有の 「謙譲の美徳」 ですねラブラブ

行いが美しいか、美しくないか…

 

私たちはそこに美学を求め、そこで他人の評価を決めてしまいがちです。

でも、本当は、行動を選択するにいたるまでに、 さまざまな葛藤があるんですよね。

 

結果は結果として受け止めつつ、「誰のために」「何のために」 という想いを汲み取る優しさを、持ち続けたいものですねニコニコ

 

過去に起きた事実は変わらない、

でも、その時いっしょうけんめいに生きていた人たちの想いに寄り添う…

 

そうすれば、きっと、先人たちが喜んでくれますね♪

 

と同時に、日本史が愛に溢れ…

いまを生きる私たちを輝かせることにもなるんじゃないかな↑

 

『優秀』 とは 「優しさに秀でる」 こと。

優しさを持ち続けるために、もっともっと歴史を学びたいと思いますニコニコ


準備中です
暫くおまちください

小泉 八雲(こいずみ やくも)

小泉八雲が愛した松江の町

(2013年6月23日のブログ記事より)

6月21日の夏至の日は、すごい一日になりました♪

 

伊勢から出雲までの8時間の道のり、6台のバスに次から次へと乗り換え、ぶっ通しで講演してきましたよ~。

 

体力的には、3台目が一番きつかった…!!

それ以降は、ランナーズハイになって、今から5本でも6本でもやっちゃうよ~ ってな感じで、楽しくツアーを終えましたニコニコ

 

その昔、奈良の都の人々は、伊勢の方角から昇るお天道様に祈りを捧げ、出雲の方角に沈んでいくお天道様に感謝をしました。

 

今年は、伊勢神宮と出雲大社が同時に遷宮を迎える年。

一年のうち最も日の長い夏至の日を選んで、その伊勢と出雲の両方に参拝したのですが、祈りと感謝という、日本人の原点に立ち返る素晴らしい旅になりました。

 

このような素晴らしい旅を企画してくださったクロフネカンパニーさん、そしてご縁をいただいた皆さま、本当に有り難うございます♡

 

夏至の翌日、出雲の万九千(まんくせん)神社でお神楽を鑑賞しツアーが解散になったあと、私は松江に向かい、市内の中学校で講演させていただきました。

 

その後、八雲庵さんで出雲そばを堪能し(松江城に程近いこの八雲庵さんは、あのイチロー選手もたびたび訪れたり、福山雅治さんが年越しそばを注文するという名店なんです!!)、小泉八雲の旧居と記念館へ…。

 

小泉八雲と言えば、松江。

八雲があれほど松江を愛していたのだから、10年ぐらいは住んでいたのかと思いきや…

なんと彼の松江滞在はわずか1年2ヵ月だったんです。

 

賀茂真淵と一夜を語り明かしただけで、本居宣長の人生が大きく変わったように、人の影響力も、つきあいの長さで決まるわけではなく、ほんの一瞬の出逢いで、人生が変わってしまうことがあります。

 

町と人間の出逢いも、それに似ているのかもしれないなぁ~と、松江をこよなく愛した八雲の心情を想像して、何とも言えない気持ちになりました。

 

八雲は、幼い頃に両親が離婚して、父親に引き取られるのですが、10代の時にはその父親も、さらには大叔母も亡くなっています。

 

金銭的な苦労に加え、孤独感との闘い…。

 

そんな一人ぼっちだった八雲を、優しく温かく包みこんでくれたのが、松江の町とそこに住む人々だったのでしょうね。

 

今回、なぜ小泉八雲の足跡を訪ねたかったのかを、お話ししますね。

 

安政元(1854)年の南海大地震に際し、偶然ふるさとの紀州・広村(現在の広川町)に戻っていた濱口梧陵は、海水の干き方、井戸水の急退などにより、大津波が来ることを予期しました。

 

梧陵は村民を避難させるため、自分の田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救ったといいます。

 

身の危険や財産を顧みないこの行為に感動した八雲は、『仏の畠の中の落穂』 という短編集の中で、‘A Living God(生き神様)’として梧陵を紹介しています。

 

この八雲の作品をもとに書かれたのが、名作 『稲むらの火』 です。

 

梧陵は、ふるさとの人々の命を災害から救っただけでなく、津波の壊滅的な被害を受けた広村の村民のために、救援家屋の建設や農漁具の調達などを行い、離村を防止しました。

また、将来の津波被害を防止するため、私財を投じて大防波堤の建設を進めました。

 

こうして世のため人のために尽くした濱口梧陵を 「生き神様」 と捉えた八雲の感性には、ただただ感心するばかり…。

 

八雲が、日本人以上に日本人を理解できたのはなぜか、そのヒントを、彼が心から愛した松江に求めたのです。

 

今回は、松江には数時間だけ滞在し、福岡に帰ってきてしまいましたが、昨年の10月に松江を訪れた時、宍道湖に映る夕陽を見て、その美しさに息をのみました。

 

それまでも、またその後も、あんなに美しい夕陽を、私は見たことがありません。

 

私は、日本人の本質は祈りと感謝にあると思うのですが、松江は、日本人の感性だけでなく、すべての人の中に眠る日本的な感性を、揺さぶるのかもしれませんね!!


準備中です
暫くおまちください

後藤 新平(ごとう しんぺい)
「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」

(2016年9月30日のブログ記事より)

昨日の小池百合子知事の所信表明にシビれました!!

なんてったって、後藤新平さんの自治三訣を引き合いに出すのですから、たまらない。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」

…これはまさに、日本人が大切にしてきた“公に生きる”という精神であり、“惻隠の情”に他なりませんね。

 

実は後藤新平さん、公衆衛生を得意とした医師で、民生長官として台湾総督府に赴任し、台湾の都市設計を一手に引き受け、衛生環境を飛躍的に改善させた立役者なのです。

 

その後藤新平さんが、めぐりめぐって東京市長を務めたときに、関東大震災が勃発。

 

世界を驚かせた東京の奇跡の復興は、台湾の都市設計を見事にやり遂げた後藤新平さんだったからこそ果たせたと言えるでしょう。

 

彼自身、まさか自分の経験が、将来このようなカタチで生かされようとは思ってもみなかったのではないでしょうか。

 

ただただ台湾の民の幸せを願い、忠実に責務を全うしたら、それが自国の絶体絶命のピンチを救うことに繋がった…。

 

さらに時はめぐり、2011年の東日本大震災の折には、「後藤先生のふるさと・岩手県が津波で大変なことになっている! なんとかしなければ…」という思いから、義援金や支援物資を寄せてくださった台湾の方々も多かったそうです。

めぐりあわせの不思議さを感じるとともに、まさに「情けは人のためならず」。

 

ご縁をいただいた人々のために、出来ることを精一杯行っていく、そんな人生を送りたいですねラブラブ


準備中です
暫くおまちください

小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)

歴史を知るって、いいなぁ!!

(2011年8月22日のブログ記事より))

いやぁ、本当に楽しくて刺激的な週末を過ごさせていただきましたニコニコ

 

日曜日の昨日は、渋谷のとっても素敵なカフェ “癒ニコ(ゆにこ)” さんを貸し切っての、開運ランチ会&魅力アップセミナー。

 

初めてのチャレンジだったので、かなりドキドキしましたが、癒ニコの温かい雰囲気と、お集まりくださった皆さまの優しい笑顔に支えられて、とても素敵な時間を過ごせました!!

 

皆さん、本当にいつもありがとうございますラブラブ

 

講演会やセミナーって、本当に、主催者と参加者と、そして場の神様との合作なんだなぁ~って、しみじみと感じましたラブラブ

 

その前日、土曜日は、NHK-BS の 『熱中スタジアム』 の収録がありました。

 

戦国好きの女子が30人集まって、関ヶ原の戦いについて熱いトークを繰り広げ、さらにそれぞれが好きな武将の魅力を語り合う…という、この上なくディープな番組です。

 

放送日は、9月22日(木)、29日(木)の深夜11:30から。

 

いやぁ、上には上がいるというか、皆さんの熱い想いに圧倒されて、“博多の歴女” なんて名乗るのが恥ずかしくなるぐらいでした↓

 

この収録の中で、あらためて感じたことがあります。

 

集まった30人の多くは、西軍びいきだったのですが、その中の代表格である女子二人が、関ヶ原の古戦場に実際に赴いて、「小早川秀秋の裏切りは防げなかったのか」 という検証を行いました。

 

秀秋が陣を張った松尾山に登る彼女たち…。

 

秀秋の裏切りさえなければ、西軍が勝利したのではないか…

 

歴史に 「if」 はあり得ないとわかってはいても、西軍びいきにとって、この 「if」 ほど、妄想をかきたてられるものはないのです。

 

松尾山に登った彼女たちと、収録後、ちょっと話をしました。

すると、彼女たち、意外な感想を伝えてくれたんです!!

 

松尾山から関ヶ原の古戦場を見渡して、秀秋への憎しみがさらにつのったと思いきや…

 

なんと、「秀秋にもさまざまな葛藤があったんだと思う。秀秋は、憎むべき相手なのではなく、かわいそうな存在なのかもしれない。」 と感じたんですって!!

 

人間って、本当に素晴らしいですねニコニコ

 

 

たとえ自分の意に沿わないことをした相手でも、その人の想いに寄り添うことはできるラブラブ

これが、人の優しさなんだなぁ~!!

 

歴史を知ると、敬意や感謝が芽生え、心に優しさが育つんですね。

 

歴史を知るって、いいなぁ!!


準備中です
暫くおまちください

光明皇后(こうみょうこうごう)

元祖・国民的アイドル

(2011年1月20日のブログ記事より)

 

今や国民的アイドルといえば…文句なく “嵐” でしょう(*^▽^*)

 

私が幼い頃は、山口百恵さんが文句なしのNo.1アイドルでしたニコニコ

さらにうちの父親が若かりし日は、吉永小百合さんに恋していたようですラブラブ

 

いつの時代にも、その時代を象徴する国民的アイドルっているんですね!!

 

じゃあ、国民的アイドルの元祖って、誰でしょう?

 

今からおよそ1300年前、日本史上、初めて “国民的アイドル” と呼べるような人物が現れました。

それは、光明皇后ラブラブ

大仏建立で有名な聖武天皇のお后さまです。

 

「光明皇后」 というのは通称で、本名は 「安宿媛(あすかべひめ)」。

光り輝くように美しいから「光明皇后」 と呼ばれるようになった…

と言われています。

 

これだけでも、国民的アイドルの資格が十分だと思うのですが、彼女の行動がまた素晴らしいのです↑

 

貧しい人に施しをするための施設 「悲田院」、医療施設である 「施薬院」を設置して、慈善事業を行ったり、奈良の都大路に並木を造る際に、貧しい人が飢えないよう、桃と梨の木を選んで植させたと伝えられています。

 

また、彼女は、夫の聖武天皇とともに仏教の庇護者として知られています。

 

伝説では、光明皇后が、自ら建立した法華滅罪寺の浴室で1000人の民の汚れを自ら拭うという願を立てられましたが、

1000人目は皮膚から膿を出す病人 (重症のハンセン病患者) で、皇后に背中の膿を口で吸い出してほしいと、とんでもない要望を伝えました。

驚く人々を尻目に、皇后が腰をかがめ自ら口で膿を吸い出されると、病人は阿閦如来 (あしゅくにょらい) と化した…という話は有名です。

 

どこまでが史実なのか、戸惑いを覚えますが、どの伝説も、彼女の美しさと優しさを物語るものばかり…ラブラブ

 

もっとも、彼女の父は、中大兄皇子 (後の天智天皇) とともに大化の改新を成し遂げた藤原鎌足の息子 ・ 不比等 (ふひと)。

平安時代に栄華をきわめることとなる藤原氏の土台を築いた人物です。

そんな当代きってのやり手政治家を父に持つ彼女には、実は黒い噂がありました。

 

事実、父や兄弟たちは、美貌と賢さを併せ持つ一族の期待の星である安宿媛に、なんとしても皇后になってほしかった…。

 

安宿媛が皇后となり、彼女の生んだ子が天皇となれば、藤原氏が摂政や関白となり、絶大な権力を握れるからです。

 

ところが、当時、皇后になれるのは皇族のみという不文律があり、彼女の立后に反対する勢力がありました。

その代表が長屋王 (ながやおう) です。

 

729年に 「長屋王の変」 が起こり、謀反が露呈した長屋王が自殺したことになっていますが、

 

実は、安宿媛の兄弟たちが長屋王に無実の罪を着せ、自殺に追い込んだのではないか…というのが、通説になっています。

 

こうして、反対派は排除され、藤原氏出身の安宿媛は、皇族以外の女性で初めて皇后となりました。

 

皇后となった彼女は、自分が直接関与したわけではないにしても、自分の立后に黒い噂があることは、認識していたでしょう。

 

悲田院や施薬院などの慈善事業も、実家の評判を上げようとして行ったのではないかという、うがった見方もあるほどです。

 

では、当の本人はどうだったのか…?

 

以前、テレビ番組で夫の聖武天皇と光明皇后が書いた書を見たことがあるのですが、聖武天皇の繊細で上品な筆致に対して、彼女の書は、実にのびやか♪

 

堂々としていて、雄渾な筆致で…悪びれたところや、びくびくしているような印象は全くないのです!!

 

どんな噂があろうとも、彼女は、自信に満ち溢れ、まばゆいほどに光り輝いていたのではないでしょうかニコニコ

 

美しくて、強くて、優しくて、自分の信じた道をまっすぐに進んでいく…

たとえそれが、誰かの手で敷かれたレールであったとしても、彼女の前では、そんな些細なことを気にする方が、小さく思えてしまう…

 

それほどまでの潔さを、彼女の書は物語っているように思えます!!

 

この彼女の書は、東大寺の正倉院に収められています。

夫 ・ 聖武天皇の死後、その遺品を彼女が東大寺に寄進したため、宝物殿として正倉院が創設されたのです。

 

シルクロードの東の終点と言われる正倉院。

 

正倉院とそこに収められる宝物は、当時の世界の中の日本を、そして悠久の歴史の流れを感じさせてくれます!!

 

その正倉院と元祖 ・ 国民的アイドルである光明皇后の間には、時代を象徴する何かが、共通点としてありそうですねラブラブ

 

そして、元祖 ・ 国民的アイドルである光明皇后が、日本女性の魅力 ~強さと優しさ~ の原型を確立してくれたこと、

その魅力が1300年も受け継がれてきたことに、敬意を表したいと思います(*^-^*)


準備中です
暫くおまちください

西郷 隆盛(さいごう たかもり)

西郷隆盛のかわいげ♪

(2009年7月12日のブログ記事より)

前回のブログに転載させていただいたひすいさんの

 

『空』

 

の話から、わたしがイメージしたのは、空海と西郷 隆盛です!!

 

だから今回のブログに、西郷さんの話を書こうと思っていましたが…

 

なんとひすいさんのメルマガに、西郷さんのキュートすぎる

エピソードが出ていましたねニコニコ

 

 

このエピソードは、まがりなりにも女性であるわたくしの口から

ご紹介することが憚られるくらい、『キュートさ』 が度を超えちゃってますから、興味のある方は、

 

http://archive.mag2.com/0000145862/index.html

 

こちらをお読みくださいラブラブ

 

 

ひすいさんがこのとっておきのエピソードで来るなら、

それに対抗して、わたしも一番好きな西郷さんの

エピソードをご紹介しますニコニコ

 

 

 

「雨は降る降る 人馬は濡れる

 

越すに越されぬ田原坂」

 

 

これは、熊本民謡『田原坂』の一節です。

 

西南戦争における天王山ともいえる、田原坂の攻防戦。

それがどれほど激しいものであったか、この一節からも

伝わってきます。

 

 

17日間に及ぶ田原坂の攻防戦に敗れた薩軍は、南九州を転戦し、

負け続け、しだいに追い詰められていきます。

そして、延岡から故郷である鹿児島を目指すのですが、

政府軍の包囲を突破しようとして、“可愛岳(えのたけ)”の

山越えを強行します。

 

可愛岳は、九州百名山にも数えられる美しい山ですが、

標高727メートルの天嶮で、断崖絶壁、しかも

政府軍の不意をつくため闇夜の行軍…

 

足腰の強い剽悍な薩摩人も震え上がり、行軍は困難を極めた

そうです。

特に西郷さんはあの巨体ですから、駕籠から降りて急斜面を

よじ登るのは至難の業です。

 

 

誰の目にも敗戦は明らかで、ただ死に場所を得るための

絶望的な逃避行…

 

 

こんな状況下で、なんと西郷さんは、ものすごく色っぽい

素敵なジョークを飛ばすんです!!

 

 

急斜面をよじ登りながら、

 

「よべ(夜這い)のようだ」

 

と言って周りを笑わせたそうです。

 

幕末維新史に燦然とその名を残す西郷さんには、

神様がクスッと微笑みたくなるような、なんともいえない

かわいげがあったんだと思いますラブラブ


私的『西郷

(2009年7月13日のブログ記事より)

以前、わたしが一番かわいいと思っている西郷 隆盛の

エピソードをお伝えしましたが、何人かの方から、

 

「なぜ “空” から西郷さんをイメージするの?」

 

という質問を受けたので、西郷さんに対するわたしのイメージ

を詳しくお話ししようと思います!!

 

今から話すことは、一般的に言われている西郷さんの評価では

なく、あくまでもわたしの感性でとらえた西郷さんの魅力です♡

 

幕末 ・ 維新史を彩る志士たち…

 

それぞれがエネルギーに満ちあふれ、豊かな個性と多彩な

才能を発揮しています。

よくもまぁ、同時代に、これだけの人材が揃ったと思います。

 

『三国志』 にはあらゆる人間のタイプが出てくるので、

『三国志』 から人間学を学べると言われていますが、

『三国志』 は男の物語ですよね。

まさしく 「歴史は History ( his story =男の物語 ) である 」

というのが、三国志の歴史観だと思います!!

 

それに比べ、 『源氏物語』 は、主人公が光源氏という男性で

ありながら、明らかに女性の物語です。

『源氏物語』 には、女性のあらゆるタイプが出てくるので、

「自分はこのタイプ」

「あの人はどのタイプかな?」

なんて考えながら読んでいくと、実におもしろいです♪

 

では、幕末 ・ 維新史のおもしろさは…?

 

ここには、あらゆるタイプの男性と、その男性たちを取り巻く

あらゆるタイプの女性が生き生きとそれぞれの人生を生きて

いて、『 三国志 』 と 『 源氏物語 』 を足した以上のおもしろさ

を感じますニコニコ

 

幕末の志士たちの才能を大きく分けると…

 

  •  剣術が得意
  •  頭がいい
  •  気が利く
  •  調整能力がある
  •  本質を掴むのが得意

 

ザッとこんな感じになると思います。

 

例えば、竜馬が特に優れていたのは、本質を掴む能力と剣術の

才能です。

このように、これらの才能が各人において複雑に絡み合って

それぞれの個性を形づくり、全体として絶妙なバランスになって

いるのは、まさに神の配剤と言えるのではないでしょうか。

 

ところが…

 

西郷さんだけは、これに当てはまらないと思うんです。

西郷さんって、これらすべての才能に関して、特別抜きんでていたという形跡がないんですね。

 

じゃあ、なぜあれだけ人々から慕われ、あれだけの大仕事ができたのか…?

 

それは、西郷さんが特別な才能を持っていなかったからだと思います。

 

たぶん、西郷さんって、人のいい所ばかりが見える人だったんじゃないかな。

だから、それに比べて自分はいかに能力が低いか…って、考えたと思うんですね。

 

自分に取り立てた才能がないのを知っていたから、西郷さんは、

そんな自分が世の中の役に立つためには、私利私欲や損得勘定を

捨て去り、“ 自分 ” という器で “空” をつくるしかない…

と思ったんじゃないかと思います。

 

竜馬は、薩摩藩邸に初めて西郷さんを訪ねた時の感想として、

次のように勝海舟に告げています!!

 

「西郷というやつは、わからぬやつでした。

釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、

大きく叩けば、大きく響く。

もし、バカなら大きなバカで、

利口なら大きな利口だろうと思います。

ただ、その鐘をつく撞木 (しゅもく) が小さかったのが残念でした。」

 

竜馬は、西郷さんを 「 釣り鐘 」 に、自分自身を 「 撞木 」 に例えたのです。

 

この竜馬の西郷評って、自分という粘土で器をつくり、自分以外

のすべてを空にしていた、西郷さんの生き方が表れているような

気がします!!

 

西郷さんの素晴らしさは、“ 空 ” をつくり、人を受け入れ、愛し、

輝かせたところにあるのではないでしょうか。

私たち日本人が、西洋には存在しえない、東洋的なリーダー像を

持てたのは、西郷さんのおかげだと思います。


西郷家の日常のひとコマ

(2009年9月29日のブログ記事より)

 

今からおよそ140年前、坂本竜馬が

「 日本をいま一度、洗濯致し申し候。」

と述べたのは、有名な話ですが、西郷さんにも、キュートな

エピソードが残されています!!

 

慶応元年(1865年)、故郷を離れ国事に奔走する西郷さんが、

久しぶりに鹿児島の自宅に戻りました。

 

そこへ、坂本竜馬が泊まりにきて、西郷夫妻のこんなやりとりを

目撃 (立ち聞き?) したといいます。

 

「 屋根が腐っていて、雨漏りして困ります。これではお客さまが

いらした時に面目ないので、早く修繕してください。」

という妻のイトに対して、西郷さんは、こんなツレナイ返事をしました。

 

「 今は日本中が雨漏りしている。だからわが家の修繕などしておれん。」

 

……!?

 

カーッツ (喝) !!

 

ちょいと西郷さん!!

たしかに日本も大事だけど…まずは目の前の人を笑顔にすることから始めましょうよ(>し<)

 

まぁ、たしかにあの頃は、携帯電話もなければ、電化製品もなく、時間の概念も、現代に生きる私たちとはまるで違っていたんでしょうけどね。

 

わたしは、西郷さんのこんな不器用なところもかわいいと思いますが、

やっぱり自分のだんなさんには、雨漏りなおしてほしいです。

忙しかったら、せめてその手配だけでもしてくれたら、ありがたいのになぁ。

 

でも…さすが西郷さん、妻のイトさんに対して素晴らしく優しい面もあったんですよ。

あんなにツレナイ会話ばかりでなく、しっかりフォローしていたんですニコニコ

 

イトさんの妹さんの回想録が残っているのですが、それによると、西郷さんは味噌や醤油をつくるのが上手で、倉の中で家人に手ほどきをしたそうです。

 

「男子厨房に入らず」 の時代、しかも九州男児であり維新の英雄となった西郷さんが、家事に関心があったなんて、なんとも微笑ましいですね♪

 

さらに西郷さん、イトさんのお手製のお料理を、

「 これは良くできました。おいしゅうございますよ。」

と、一つ一つ褒めながら口にしたそうです。

 

それに対して、イトさんは、

「 人前で褒められると、かえって恥ずかしいじゃありませんか。」

と照れていましたが、西郷さんはいつも褒めながら食べたそうです。

 

きっと、イトさんへの感謝の気持ちと、お客さまへ料理を勧める気持ちから、

このような言葉を掛けたのでしょうね!!

 

世の男性の皆さま、ここですよラブラブ

相手のいいところを見つけて褒めてあげると、女性は魅力が引き出されてどんどん輝いていきます↑

 

女は男によって磨かれ、男は女によって育てられる…!!

 

世界60億の人口のうち、男と女しかいないのですから、素敵な男女関係でお互いをピカピカに磨き上げていきたいですねニコニコ


薩摩藩の郷中教育

(2009年12月2日のブログ記事より)

 

薩摩藩の郷中教育 (ごじゅうきょういく) は、1592~98年、薩摩藩の主力部隊が豊臣秀吉の朝鮮出兵に従う間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが青少年の教育システムを考案したことが始まりであると言われています。

 

郷中とは、今でいう町内会のようなもので、幕末の鹿児島の城下にはおよそ23の郷中があり、それぞれの郷中で、縦割りの教育組織をつくり、青少年たちを真の“サムライ” に育てる訓練が行われました。

 

この教育組織のもと、薩摩の武士の子どもたちは、朝から晩まで、一日のほとんどを同じ年ごろや少し年上の先輩たちと一緒に過ごしながら、心身を鍛え、躾け・武芸を身につけ、勉学に勤しんだのです。

日ごろから、

「年長者は年少者を指導すること」

「年少者は年長者を尊敬すること」

「武士道の義を実践せよ」
「心身を鍛錬せよ」
「負けるな」

「うそをつくな」

「弱い者をいじめるな」

「質実剛健たれ」

「金銭利欲に関する観念をもっとも卑しむこと」

などが、人として生きていくために最も必要なこととして繰り返し叩き込まれました。

 

このような日常の営みに加え、5月28日には 「曽我物語」(工藤兄弟の仇討ち)を、12月14日には 「赤穂義臣伝」(忠臣蔵) を皆で読み、9月14日、関ヶ原の戦いの前の晩には、島津義弘公を偲び、義弘公の墓所である妙円寺まで往復40キロの道のりを歩き、参詣するなど、歴史上の英雄たちから 「生き方」 を学んだのです。

 

この薩摩藩独特の郷中教育は、源平以来700年続いた武家社会の最高傑作となるサムライたちを生み、多くのリーダーを育てましたが、その代表格が西郷さんです!!

 

郷中教育の構成員は、稚児 (ちご=15歳未満の児童)、二才 (にせ=15歳~25歳位の青少年)、長老 (おせんし=24~25歳以上の年長者) に分かれて活動します。

 

西郷さんの幼少期については、エピソードがあまり残されていません。

わたしが知っている西郷さんの最も古いエピソードは、二才頭 (にせがしら) の時のものです。

 

二才のリーダーである二才頭には、さまざまな任務があるのですが、その一つが、稚児たちの相撲大会において、優勝者に褒美を与える役です。

 

西郷さんは、20歳で二才頭に選ばれ、下加治屋町の郷中における責任者となりました。

その後、二才頭を後輩に譲ろうとしましたが、子どもたちは、同じ褒美でも、西郷さんからもらった方が嬉しいんです。

 

それで、稚児たちのリクエストがあまりにすごいので、西郷さんは二才頭をなかなか他の人に譲ることができなかったそうです。

 

この当時から、西郷さんの魅力というのは、子どもたちも惹きつけてやまないほど、素晴らしかったのでしょう!!

 

 

西郷さんの魅力と郷中教育という地域ぐるみの青少年教育が、下加治屋町という200m四方の狭いエリアから、続々と人材を輩出した理由なのではないでしょうか。

 

 

郷中教育の教えの中で、わたしが特に注目しているのが 「弱い者をいじめるな」という教えです。

 

薩摩藩では、卑怯な行為がさげすまされ、正々堂々と戦い、勝つことの尊さが脈々と伝えられてきましたが、「弱い者をいじめるな」 という教えがあるがために、いったん戦いが終わると、相手を心から尊重し、良き友になってしまうのです!!

 

「昨日の友は今日の敵」

ということわざがありますが、薩摩の場合は、発想がまるで逆、

「昨日の敵は今日の友」

なのです!!

 

 

そのいい意味での 「変わり身の早さ」 は、日本史の中でも、「爽やか度」 No.1なんですよ♪

 

次回は、「昨日の敵は今日の友」 を歴史の中で証明した薩摩藩の素敵なエピソードをお伝えしますねニコニコ


昨夜の敵は今日の友!①

(2009年12月4日のブログ記事より)

 

維新の英雄 ・ 西郷隆盛が何を行ったかをご存知の方は多いと思いますが、西郷さんが何を考えていたかを知っている人は意外に少ないのではないでしょうか。

 

 

「西郷さんが何を考えていたか」 は、『 西郷南洲翁遺訓 』 を読むとわかります。

 

『 西郷南洲翁遺訓 』 は、西郷さんの著作ではなく、西郷さんから直接話を聞いた人が、西郷さんの言葉や教えをまとめたものですが、それは意外なことに、薩摩人の手によってではなく、薩摩から遠く離れた庄内 (現在の山形県鶴岡市)の旧藩士たちによって刊行されたのです。

 

庄内藩と西郷さん…この意外な組み合わせはどうして生まれたのでしょう?

 

 

庄内藩主は、徳川四天王の一人 ・ 酒井氏で、徳川氏と同祖とされる、譜代の名門です。

幕末、会津藩が “新撰組” を麾下に置いて京都の治安維持を担ったのに対して、幕府から “新徴組” を預かった庄内藩が、江戸市中の警備に当たりました。

 

幕府と薩長との対立が激しくなった1867 (慶応3) 年、庄内藩士を中心とした

幕軍が、三田の薩摩藩邸を焼き討ちする、という事件が起きました。

 

翌 1968 (慶応4) 年、戊辰戦争が始まると、15代将軍 ・ 慶喜が新政府軍に対して恭順 ・ 謹慎の態度を示したため、“明治維新” という革命を起こそうとしている新政府軍は、幕府の要職にあった会津 ・ 庄内の両藩を “朝敵” とし、攻撃対象としたのです。

 

戊辰戦争の結果は、誰もが知っている通り、新政府軍が勝利しました。

 

そして戦後…

会津藩の戦後処理は長州藩が担当し、庄内藩の戦後処理には薩摩藩が当たりました。

 

会津藩は、取り潰しは免れたものの、陸奥(現在の青森県) ・ 斗南藩に転封され、所領は、23万石から3万石に大幅に減らされました。

さらに藩主父子は江戸で永禁固となり(のち解除)、家老1名が処刑されるという、

過酷な処分がくだされました。

 

それに対して、庄内藩は、17万石から12万石にわずかに減封されただけなのです。

しかも西郷さんが示した降伏の条件は、藩主 ・ 家老たちすべてを罰せず、ただ「当分の間、謹慎のみ…」 という寛大なものでした。

庄内藩は、薩摩藩邸を焼き討ちしたり、東北戦争では激戦の末、新政府軍に多くの死傷者を出しました。

ですから、当然、厳しい処分が下されると予想していたのです。

 

ところが、実際は予想外に寛大な処置が施されました。

 

なぜ、庄内藩に寛大な処置が施されたのか…それは、西郷さんが、「降参した将軍に対しては更に恥をかかすべきではない」 という武士道の精神を重んじたからです。

つまり 「戦いが終わったあとは、相手を称え尊重する」 のが薩摩流なのです。

 

薩摩藩の計らいで死を免れた人たちが、ほかにもいます。

 

会津藩主 ・ 松平容保 (かたもり)、函館に渡って新政府軍と戦った榎本武揚 らです。

 

函館戦争の指揮をとった黒田清隆は、榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、彼のために丸坊主になったこともあるほどです。

 

昨日の敵を、“今日の友” のように遇する薩摩人は、日本史の中における一服の清涼剤のようです。

 

 

さて、話を庄内藩に戻しましょう。

 

新政府の重鎮である西郷隆盛によって寛大な処分がとられたことを知った庄内の旧藩主 ・ 酒井忠篤 (ただずみ) は、1870 (明治3) 年11月、旧庄内藩の家老や藩士70数名を従えて、鹿児島に入りました。

 

もちろん、西郷さんにお礼を述べるためです。

けっきょく彼らは3ヵ月以上も鹿児島に滞在し、西郷さんと寝食を共にしながら、政事や人事についての教えを受けたり、殖産興業の技能を教わったりしました。

 

さらに、1873 (明治6) 年に西郷さんが征韓論に敗れ下野すると、旧庄内藩士らが次々に鹿児島を訪れ、西郷さんの言葉や教訓を記録し、その手記を持ち帰りました。

 

そして1877 (明治10) 年、ついに西南戦争が勃発しました。

 

西郷さんが亡くなった城山の近くに、南洲墓地があります。

西郷さんの大きな墓を中心に2023柱の将士の墓標が林立していますが、その中に、庄内出身の2名の青年の墓碑もあります。

 

墓所の説明板には、

「庄内藩士、伴兼之、明治10年3月20日、肥後植木で戦死、20歳。榊原政治、肥後御船で負傷、延岡病院で戦死、18歳」
と書かれています。

 

この二人は、旧庄内藩から選抜された私学校の留学生でした。

 

西南戦争が起こった時、西郷さんら私学校の幹部は、鹿児島出身でない彼らを戦争に巻き込むのは忍びなく、しきりに帰国をすすめました。

けれども二人は、断固として承知せず、各地に転戦し戦死したのです。

 

戊辰戦争を敵 ・ 味方として戦った庄内藩士たちから、ここまで慕われるのは、西郷さんの人間性が素晴らしかったからでしょう↑

そしてその人間性を育んだのが、薩摩藩の郷中教育なのです。

 

1889 (明治22) 年に大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争の戦犯として剥奪されていた官位が、西郷さんに戻され、名誉が回復されました。

 

この機会に、上野公園に西郷さんの銅像が立てられることが決まったのですが、発起人の一人として酒井忠篤の名前があります。

 

翌1890 (明治23) 年に、旧庄内藩士らは、生前の西郷さんの言葉や教えを集めて、

『南洲翁遺訓』 を約1000部発行しました。

さらに彼らは、遺訓集を携えて全国を行脚し、その伝導者となったと言われています。

 

わたしは、武士道で結ばれた西郷さんと庄内藩のエピソードが大好きですラブラブ

 

でも、薩摩藩の凄さは、自分が負かした相手だけでなく、、自分を破った敵ともすぐに仲良くなってしまうことなんですニコニコ

 

次回は、敗戦後の薩摩藩のかわいげたっぷりなエピソードをお伝えしますね!!


鹿児島にて・・・♪

(2010年3月29日のブログ記事より)

 

3月30~31日は、待ちに待った、陽なた家恒例の桜祭り!!!

 

60数年前に知覧から特攻機で飛び立っていった英霊さんたちを偲びながら、桜並木で大宴会をしますニコニコ

 

 

富屋旅館の経営者であり、特攻隊員の想いを今に伝える鳥浜さんのお話を伺ったり、“エチカの鏡” で一躍 時の人となった “読書のススメ”の清水店長など、素敵なゲストもたくさんいらっしゃいますニコニコ

 

わたしが陽なた家ファミリーに加えてもらってから、今年で3回目の桜祭りを迎えます♪

 

 

過去2回は、鹿児島を素通りして知覧に直行していたのですが、

久しぶりに斉彬さんや西郷さんと語り合いたくなった (実は18年前に新婚旅行で鹿児島を訪れ、西郷さんのお墓参りをしています) のと、どうしてもお逢いしたい方々がいらしたので、一日早く福岡を発って、鹿児島にやって来ましたニコニコ

 

 

鹿児島は、晴れの日が本当に似合いますニコニコ

今日も、雲一つない快晴☆彡

 

 

桜島と錦江湾の色が、それはそれは美しいんですニコニコ

 

黒田清輝や東郷青二など、鹿児島の地は、多くの著名な画家を輩出していますが、桜島と錦江湾の色が刻々と変化していくのを毎日眺めていると、色彩感覚が研ぎ澄まされてくるんじゃないかなぁ…と思います。

 

18年ぶりに訪れた南洲墓地。

 

西南戦争によって九州各地で亡くなった2000名を越える薩軍の兵士たちの遺骨が集められ、この南洲墓地がつくられました。

 

お参りしながら、ふと、「彼らはいったい何がしたかったのだろう?」と思いました。

本当に明治政府と対峙し、クーデターを起こしたかったのでしょうか?

 

彼らが何をしたかったのか、どうして武装決起したのか、今となっては知る術はありませんが、彼らの想いを感じ、伝えていかないといけない気がしました。

 

 

この薩摩の地から、彼らが明治政府に向かって発信したかったこと…

それらが届かなかったから、いま直面しているさまざまな問題が出てきたんじゃないかと思うのです。

 

 

逆を返せば、130年前に置き去りにしてしまった彼らの想いを知ることが、

いまの日本社会が抱えている問題を解決するヒントになるんじゃないか

…そんなことを考えながら歩いていたら、茶店を発見!!!

 

なんと、この茶店、陶芸家でもある西郷さんの曾孫さんが経営なさっているそうです。

 

ここで手に取った小冊子が、まさにわたしが求めていたものだったのかもしれません。

それは、西郷さんの教えやエピソードを子ども向けに編集したものでした。

 

そこには、私たち日本人が、130年もの間、置き去りにしてきた “人として最も大切にしたいこと” が散りばめられていて、涙なしではページをめくれませんでした。

その中で心に残ったエピソードを、次回から何回かにわたってお伝えしていきますねニコニコ

 

お楽しみに…!!!


思いやり♪

(2010年4月1日のブログ記事より)

 

西郷さんのふるさと ・ 鹿児島から福岡に帰ってきました♪

 

 

鹿児島では、西南戦争で亡くなった方々や戦死した特攻隊員の方々に想いを馳せ、この日本という国が連綿と続いてきたこと、そして、“いま” というこの瞬間に生かされていることに感謝 ・合掌しましたラブラブ

 

さくら祭りに集まったみんなからエネルギーを与えられて、鹿児島という土地がとても喜んでくれているのを感じましたニコニコ

 

これぞ21世紀型のパワースポットのあり方なんじゃないかなぁ~ラブラブ

 

さて、今回から数回にわたって、西郷さんのキュートで素敵なエピソードをお伝えしたいと思います。

 

 

明治維新後、一時期、西郷さんは弟の従道 (つぐみち) さんと同居していました。

 

ある朝、西郷さんは夜明け前に食事を済ませて、朝早くから外出したそうです。

 

あとから起きてきた従道さんが朝食を食べ始めると…

 

なんとお味噌汁に味噌が入っておらず、塩気もないのだそうです(>し<)

 

 

従道さんが、まかないのおばあさんに尋ねると、夜明け前の暗い台所でお味噌汁をつくったため、肝心のお味噌を入れ忘れてしまったとのこと!!!

 

 

びっくりするのは、味気のないお味噌汁を飲んだ時の西郷さんのリアクションです!!!!

 

 

「これはうまい!!」

と言って、おかわりまでしたそうです。

 

 

西郷さんの思いやりの心って、本当に素敵ですねラブラブ

 

 

親バカですが…わが家の6歳の息子も、西郷さんに負けず劣らず優しくて思いやりがあるんですよニコニコ

 

先日、仕事が長引き、7時の保育園のお迎えギリギリにすべり込みました。

 

 

そのあと買い物に行って夕食の支度をしたら、息子の就寝時刻が遅くなってしまう…というのは表向きの理由で、本当の理由は、疲れていて、わたし自身が少しでも早く眠りたかったのです・・・

 

それで、息子に、「夕食はうどんでいいかな~?」

と、最も手っ取り早いメニューを提案すると、こんな答えが返ってきました。

 

「ママ、伊吹ね、いま、ちょうどうどんが食べたいな~って思ってたところなの。わ~い、うどん、嬉しいな~ラブラブ

 

思いやりの心のベースには、「相手に恥をかかせない」 という優しさがあるのでしょうねニコニコ

 

男の優しさを引き出せる女になりたいと思いますニコニコ


武士道~弱者に対する思いやり

(2010年4月2日のブログ記事より)

戊辰戦争は、薩摩 ・ 長州を中心にした新政府軍と、旧幕臣や徳川幕府を最後まで支えた奥羽 ・ 越後の諸藩との間に起きた戦争です。

 

そして、幕府を支えた勢力の代表が、会津藩と庄内藩です。

 

 

会津藩の戦後処理に当たった長州藩が、ひじょうに厳しい処分を断行したのに対して、庄内藩の戦後処理に当たった薩摩藩が、大変寛大であったことは、すでにブログに書かせていただきました。

 

 

…が、しかし!!!

 

今回、鹿児島で、さらに感動的なエピソードが見つかったのですラブラブ

 

ときは明治2 (1869) 年…。

 

かつて三田の薩摩藩邸を焼き討ちし、戊辰戦争でも新政府軍に多大な損害を与えた庄内藩。

庄内藩主 ・ 酒井忠篤は、切腹の覚悟を決めて、白装束で西郷さんのもとに現れました。

 

 

……!!!

 

 

平伏した忠篤が顔を上げると、そこには、穏やかな表情の西郷さんが…ニコニコ

 

「悪かったとおわかりになれば、それで結構、切腹して詫びるなんて、とんでもないこと。」

 

 

続いて、庄内藩が武器一切の目録を差し出すと、

 

「貴藩は、北国の雄藩、北方からのロシアの攻略に対する備えとなる藩です。この武器は、すべてそのまま保管しておいてください。」

 

この西郷さんの言葉に、丁寧で誠実な態度に、藩主はじめ、家老、家臣一同、涙を流して感動したと言われています。

 

 

この時の感動が、戦禍にまみれた庄内の地を癒しました。

敗者でありながら、庄内藩には、愛が溢れました。

 

 

苛烈な戦後処理を受けた会津の地では、100年以上経った今でも、人々は山口県に対して敵対意識を持っていると聞きます。

 

わたしは、長州藩の 「目には目を」 という合理性も好きなんですが、こと人間関係に関しては、「目には目を」 の発想は、憎しみの連鎖しか生まないのではないかと思うんです。

 

愛が溢れた庄内の地には、西郷さんを祀る南洲神社があります。

寛大な処置を受けた翌年には、藩主 ・ 酒井忠篤自らが、78名の藩士を引き連れて、西郷さんの教えを乞いに鹿児島を訪れました。

 

さらに明治6年に征韓論が受け入れられずに西郷さんが下野すると、庄内から西郷さんの許を訪れ、教えを受ける者が後を絶ちませんでした。

そしてついに西南戦争が勃発すると、庄内の地から薩軍に身を投じる者まで現れました。

 

愛を持ってのぞんだ時に、憎しみの連鎖は断ち切られるんですね~ニコニコ

 

 

さてさて、話を、西郷さんと酒井忠篤の対面の場面に戻します。

 

 

西郷さんの態度は、どちらが敗者かわからないくらい、丁寧で謙虚でした。

 

このことが、庄内での西郷伝説を生むのですが、逆に、この場に同席した薩摩藩士たちの中には、西郷さんの態度はあまりに謙虚で

もどかしい、こちらが勝ったのだから、もっと威厳を表せばいいのに…

と感じる者もいたようです。

 

 

庄内藩主らが辞去すると、高島 鞆之助 (とものすけ) という藩士が、西郷さんに告げました。

「先生の今日の応接は、あまりにご謙遜すぎて、どちらが降伏するのかわからないようでした。」

 

 

すると、西郷さんは、次のように答えたのですニコニコ

 

戦に負けて降伏するのだから、もしこちらの言葉が激しければ、向こうは思うことも十分に言えないじゃないか…

 

歴史の中で、勝者が驕るのは常のこと。

普通に応対することさえ、なかなかできることではないのに、「戦に負けた」 という相手の負い目を包み込み、相手のプライドを守った西郷さん、素敵すぎますラブラブ

 

強い立場の者ほど謙虚に振る舞う……これも、世界に誇れる日本人の美意識の一つですね♪

 

“弱者に対するいたわり” という武士道を持てたことに、日本の歴史そのものに、心から感謝したい気分ですニコニコ


私の闘病生活を支えてくれたもの

(2014年9月16日のブログ記事より)

前回は、ある看護師さんとの6年越しの不思議なご縁について書かせていただきましたが、今回綴っていこうと思っているのは、4年前の話です。

あの優しい看護師さんとの出会いもあり、さらに主治医の先生も本当によくしてくださって、私はみるみる回復していったのですが、それから2年経った夏の日、完治したと思っていた子宮頸がんが、肺に転移したことがわかりました。

初めは肺に一つだけがん細胞ができたのですが、いま思うと、「がんに打ち勝ってみせる!」とがんに対して戦闘モードでいたことがよくなかったのかもしれませんね、やがてがん細胞がまた一つ、また一つと増えていきました。

がん細胞が一つだけの時には、治療方法はいろいろありますが、複数できてしまうと、抗がん剤治療しかありません。

私は、抗がん剤治療にはものすごく抵抗を感じました。

だって、点滴によって薬が全身にまわれば、健康な細胞までやられてしまうかもしれないし、体力を消耗して、子どもと向き合えなくなることが怖かったのです。

そこで先生に勇気を出してきいてみました。

「私は抗がん剤治療で治る見込みがありますか?
もし治るなら、私はどんなにつらい治療でも耐えてみせます。
でも、治らないなら、ただ余命が延びるだけなら、私は治療を受けたくありません」

先生はとても誠実な方で、私の目をまっすぐに見て、
「正直に申し上げますね。
このような状況になって、私は助かった人を見たことがありません」
と、おっしゃいました。

私は先生の誠実さに心から感謝しつつも、平常心でいられない自分を感じました。
それで、まっすぐ家には帰らずに、雷山観音と呼ばれる、糸島の千如寺を訪れたのです。

その日は、たまたま年に一度の護摩炊きにあたり、ご住職さまの唱えるお経と独特の香りに包まれて、少しずつ平静さを取り戻していくのを感じました。

それから数日後のことです。
祥伝社さんから出版の具体的なご依頼をいただき、いろいろ悩んだ末に(このへんのいきさつは、『感動する! 日本史』の正岡子規の項に書かせていただきました)、そのご依頼をお受けすることにしました。

一度、ブログ記事として発信したものがほとんどでしたが、史実と照らし合わせて編集していかなければなりません。

その編集作業の過程で、私は、あることに気づいたのです。

私は、ずっとずっとアメリカ型の成功哲学を学び、実践してきたので、常に今は過去の結果だと思っていました。

だから、病気になって以来、私は病気になるような生き方を過去にしてきたんだ…って、自分をすごく責めていたのです。

でも、いま起こることは、過去の結果だけではない…!
雷に打たれたような衝撃を覚えました。

例えば、西郷隆盛。
彼は、2度、島流しに遭っています。

島流しにされるような悪いことをしたのかというと、そうではありません。

島津斉彬公亡き後、養子の忠義公が島津家を継ぎますが、まだ幼かったために、忠義公の実父(斉彬の異母弟)が薩摩藩の実権を握ります。

ところが、西郷さんは斉彬公を尊敬する気持ちが強すぎて、異母弟の久光公を軽んじてしまったため、久光公の怒りを買い、島流しの憂き目に…。

西郷さんも、久光公も、どちらが悪い、というわけではないのです。

これは、不運というより仕方ありません。

ところが、あれから150年以上経って、現代に生きる私たちから見ると、あの島流しは、その後の西郷さんの人生、そしてその後の日本の歴史を考えた時に、絶対に必要なものだったのです。

なぜなら、来る日も来る日も西郷さんは島で四書五経や言志四録、伝習録などを読み耽りました。

そして古典を通して自分の心を推し量り、古典の中に展開する人々の「ものの見方」「ものに対する考え方」を自分の中に活かして、それを自分の言葉として表現するに至ったのです。

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」

これは『南洲翁遺訓』の中で私が最も好きな一節ですが、ついに西郷さんがこのような境地に至ったのは、島流しという逆境にあり、古典を究めたからでしょう。

そしてこのような西郷さんだったからこそ、人々はこぞって西郷さんを愛し、信頼したのです。

明治4年、明治政府は廃藩置県を断行しました。
普通なら内乱が何十年と続いてもおかしくなかったでしょう。

それがあのように最小限の犠牲で済んだのは、ひとえに西郷さんの人望の故だったのではないかと思います。

つまり、西郷さんの島流しという状況は、過去の結果として起こったのではなく、未来に必要だから起こった…。

だとしたら、きっと私の病気もそうなんだ!

2年後か3年後か、はたまた10年後か20年後かはわからないけれど、きっと未来の私にとってこの病気が必要なんだ!!

「未来の私に必要なことが今起こっている」
その確信を持った時、私は、希望がわき起こってくるのを止められませんでした。

希望の「希」は、「まれ」という意味がありますよね。
本当の希望というのは、絶望の淵でかすかな光が見つかることなのかもしれませんね。

あれから4年、いま私がこうして元気に生かされているのは、千如寺ゆかりの空海さん、心の友だった正岡子規や西郷さんのおかげかもしれません。

歴史は、私たちに生きる力を与えてくれますよニコニコ


昨日は、大好きな山形で講演させていただきました♪

(2017年8月3日のブログ記事より)

 

昨日は、大好きな山形で講演させていただきました。

 

上杉鷹山による米沢藩の藩政改革、大東亜戦争時、スラバヤ沖海戦において駆逐艦「雷(いかずち)」の工藤俊作艦長が示した惻隠の情……。

 

山形の歴史には愛が溢れていますが、中でも私は、庄内藩の酒井家と領民の絆、さらに戊辰戦争の勝者と敗者という垣根を越えて、薩摩と庄内の人々が紡いできた歴史に感銘を覚えます。

 

まさに、それは人類の希望だと思うのです。

 

戊辰戦争の時、最も強かったのは、新政府軍ではありません。

 

徳川でも会津でもありません。最も強かったのは庄内藩です。

 

日本一の大商人・本間家が、湯水のごとく財産を使い、世界最新鋭の兵器を買いそろえ、酒井家を守ろうとした、さらに領民もそれに続き、武士だけでなく、民も庄内のために立ち上がり、新政府軍と戦ったのです。

 

庄内藩は連戦連勝、ついに新政府軍は庄内の領地に足を踏み入れることもできませんでした。

 

ところが、庄内藩に味方する勢力が次々に敗れ、降伏していくので、庄内藩は無敗のまま新政府軍に屈しました。

 

まだ10代の青年藩主・酒井忠篤(ただずみ)公は、死を覚悟して新政府軍との談判にのぞみます。

 

庄内藩の戦後処理を行うのは、薩摩藩。

 

そのリーダーが西郷隆盛でした。

 

西郷さんは、庄内藩を昨日まで戦った敵ではなく、今日から新しい日本をともに築く仲間として受け入れ、

 

領地もほぼそのまま、武器を没収することもありませんでした。

 

庄内藩は、新政府軍に多大な損害を与えていながら、なんとほぼ無傷で明治維新を迎えたのです。

 

以上は、西郷さんの度量の大きさを示す話ですが、すごいのは、庄内藩のその恩義の返し方です!

酒井忠篤公自ら70数名の藩士を率いて鹿児島の西郷さんのもとを訪れ、人としての生きるべき道、リーダーの心得を学びます。

 

その時、庄内藩士が必死で書きとめたものが、後に『南洲翁遺訓』として世に出るわけですが、庄内の人々は、その教えを手書きで1000部写し取り、全国を訪ね歩き、志高い人々に直接手渡しています。

 

西南戦争で敗れ、「逆賊」とされた西郷さんの汚名を晴らすため、最も力を注いだ酒井忠篤公は、上野に西郷さんの銅像ができた時、除幕式でテープカットをしました。

 

こうして西郷さんから受けた恩を、庄内の人々は100年以上も語り継ぎます。

 

そしてついに、酒田に南洲神社を創建するんです。

 

目に見えない先人たちの思いを、こうして一つのカタチに表現するなんて、本当に素敵! 酒田の南洲神社では、今でも定期的に西郷さんの教えを学ぶ勉強会が開かれています。

 

また、庄内藩の城下町だった鶴岡と鹿児島市は姉妹都市となり、さまざまな交流がずーっと続けられています。

 

大切なのは、過去に何が起こったかではなく、私たちがそれをどう未来に繋いでいくか、ということ。

 

そう、憎しみの連鎖は、愛によって断ち切ることができるんですね。

 

こんな素敵な歴史を、昨日は山形の人々と分かち合うことができて、本当に幸せでしたラブラブ

 

さてさて、NHKさん! 来年の大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』では、この素敵なエピソードをちゃんと描いてくださいよ。

 

林真理子さんが、西郷さんと勤皇僧・月照さんの入水自殺を「ボーイズラブ」なんて表現するものだから、かなり不安が大きくて、釘をさしておこうと、このような記事を書かせていただきました(笑) 長々と失礼しました。

それでは皆さま、今日も笑顔で素敵な一日を~ラブラブ


準備中です
暫くおまちください

坂の上の雲(さかのうえのくも)
日本史セラピー♪その後・・・より★

(2009年6月9日のブログ記事より)

 

以前、トルコと日本の友情について、“日本史セラピー” というタイトルでブログを書かせていただきましたが、あの長いエピソードを、なんと、ひすいこたろうサンが、またまたメルマガ 『名言セラピー』 に載せてくださいましたラブラブ

 

けさ、「名言セラピー読んだよ」 っていうメールが続々と届いたので、わたしもその事実を知ったのですが、友人・知人からのメールでとても印象深いものがありましたので、そのメールをご紹介しますねニコニコ

 

トルコ人に親日家が多いと聞いていましたが、「なぜなのか」を調べたことがありませんでした。

こんな理由があったのですね。

 

とてもいい話を教えて下さってありがとうございます。

 

昔、高校生の時、担任がトルコに新婚旅行に行かれました。

親日家が多いエピソードとして、道を尋ねたら、

「そんなことより俺の家に来て飯を食べていかんか」

と言われたことを話してくださいました。

 

 

高校生の時は信じられなかったのですが、十分ありえる話なのでしょうね。

 

以上が友人からのメールです。

 

ちなみに、以前、わたしの友達(女性)がトルコを旅行している時に

道を尋ねたら、やはり異常なくらい親切にしてもらったらしいんです。

彼女が帰国して、親しい人たちに「トルコ人は女好きだラブラブ」という、

あらぬ噂を撒き散らしてましたよ(笑)

 

 

歴史を知ると、旅行が何倍も楽しくなりますね♪

 

 

ちなみに、トルコ人に親日家が多い理由は、もう一つあります。

実は、トルコという国は、長年、大国ロシアの脅威にさらされてきたんです。

 

エルトゥールル号の事故から4年後には日清戦争、さらにその10年後には日露戦争が起こります。

「アジアの小国・日本がロシアを破った!」という感動と安堵も、

トルコ人に親日家が多い理由の一つです。

 

当時ロシアに苦しめられていた国の人々は、日露戦争の時にこぞって

「日本に勝たせたい」という思いを抱いていたようですよ。

日本からはるかに離れた北欧のフィンランドでは、日露戦争の時に海軍の総帥だった東郷平八郎が今でも尊敬を集めていて、

『東郷ビール』まであり、ラベルはもちろん軍服姿の東郷平八郎です。


勝手にランキング・・・♪”坂の上の雲“名場面ベスト1

(2009年12月27日のブログ記事より)

 

司馬遼太郎さんの歴史小説が大好きで、長編 ・ 短編問わず

数々の作品を読みましたが、 “坂の上の雲” は、司馬遼太郎さんの

小説の中で、わたしの思い入れが一番強い作品ですラブラブ

 

 

いつだったか、文芸春秋社が、サラリーマンを対象に

「最も好きな司馬作品は?」

というアンケートをとったのですが、

なんと2位の 『竜馬が行く』 を引き離してダントツの1位だったのが、

『坂の上の雲』 だったんですニコニコ

 

 

この結果を見て、わたしは

「日本人も捨てたもんじゃないなぁ」

と思いました♪

 

 

竜馬を一躍幕末のヒーローに仕立てあげた 『竜馬が行く』 に比べると、

『坂の上の雲』 はいたって地味。

 

でも、わたしの人生観は、『坂の上の雲』 を抜きにしては語れないほど、

この作品からさまざまなことを感じ、学びました。

 

 

今回のブログでは、わたしの中の “坂の上の雲 名場面” を勝手にランキングしたいと思います。

 

 

普通のランキングと違って、わたしのランキングはベスト1から発表しますニコニコ

 

 

ジャジャジャジャ~ン♪

 

 

第1位☆彡

 

それは、日露開戦を目前に控え、緊迫した時期。

 

当時、舞鶴鎮守府司令長官に就いていた東郷平八郎を、

海軍大臣の山本権兵衛が呼び出し、世の人々があっと

驚く人事を発令します。

 

 

世界屈指の戦力を誇るバルチック艦隊との戦いが避けられない局面で、

山本権兵衛は、第一艦隊司令長官に東郷平八郎を抜擢したのです。

 

第一艦隊司令長官は、日露が開戦すれば、そのまま

連合艦隊司令長官になります。

 

 

本来は、常備艦隊 司令長官である日高壮之丞がそのまま

就任するのが筋ですが、山本権兵衛が、我の強い日高を嫌って

命令に忠実な東郷を据えたのだとも、あるいは、英国に留学経験

があり国際法に明るい東郷の資質を買って抜擢したのだとも、

言われています。

 

 

けれども、山本による東郷抜擢の真相は、意外な理由でした。

 

 

 

明治天皇に理由を訊かれた山本は、

 

「東郷は運のいい男ですから」

 

と奏したのです!!!

 

 

 

東郷平八郎は、幕末の薩英戦争に少年兵として従軍して以来、

戊辰戦争では新潟や函館に転戦し、阿波沖海戦やや函館戦争、

宮古湾海戦で戦いました。

 

さらに日清戦争では、“浪速” 艦長を務め、豊島沖海戦、黄海海戦、

威海衛海戦で活躍、その後、連合艦隊第一遊撃隊司令官として

澎湖島攻略戦に参加しました。

 

これだけ実戦経験が豊富な東郷でしたが、勝敗が微妙だった

薩英戦争を除き、なんと従軍したすべての戦で勝利しているのです!!!

 

わたしは、この事実を 『坂の上の雲』 で知る前は、

日本人特有の “判官びいき” の傾向が強くて、

高校野球を見ていても、弱い方を応援するし、

“悲運の名将” と言われている人が大好きだったんです。

 

 

でも、本当は “悲運の名将” なんて存在しない、

運のいい人、勝ち続ける人こそ “名将” なのだ…

 

ということを、山本権兵衛のひとことで知ったのです。

 

 

山本権兵衛という人は、戦争というものの本質を知り尽くしていたんだと思います。

 

 

実は、山本は、日露戦争からさかのぼって明治初年、サムライの時代が終わり、戊辰戦争にのぞんだ軍隊が解散されると、相撲取りになることを志し、前出の日高壮之丞とともに陣幕という親方を訪ねました。

 

この陣幕が、二人を見て、

「あなたたちは頭の回転が速いから、相撲取りには向かない」

と言って、弟子入りをやんわりと断ります。

 

 

この時、陣幕親方に見込まれて、山本が相撲取りになっていたら、

日露戦争で勝利できたかどうか…。

 

 

人は、本当に天命によって導かれるのだなぁ…

 

ということを、この一事からも感じますニコニコ

 

 

ちなみに、幕末に山本権兵衛が海軍に進むことになったのは、

西郷隆盛から紹介された勝海舟の影響が強いと言われています。

 

 

幕末から明治にかけての時代の流れを感じますね♪

 

というわけで、名場面ベスト1は、

 

明治天皇に

「なぜ東郷なんだ?」

と訊かれた山本権兵衛が、

 

「東郷は運のいい男ですから。」

 

と答えたシーンです♡

 

「運がいい」 とは 「神様に愛されること」…

 

“坂の上の雲” のおかげで、神様目線を意識するようになりました。

 

 

最後に…東郷平八郎の不思議な人生をお伝えして、歴女の面目を保ちたいと思います。

 

 

東郷平八郎は、西郷隆盛や大久保利通と同じ鹿児島城下の加治屋町で生まれ育ちました。

 

明治の世になってサムライが失業すると、東郷平八郎は、鉄道技師になろうと思い立ちました。

 

 

そこで、郷里のヒーロー ・ 西郷さんに相談します。

 

ところが、西郷さんは、東郷に軍人の資質があることを、見抜いていたのでしょうねニコニコ

 

 

西郷さんは、東郷に海軍士官としてイギリスに留学するように勧めました。

 

さすが西郷さん…ラブラブ

 

 

ところが、東郷が英国留学中に、日本では西南戦争が起こり、

西郷さんの49年の人生に幕が閉じられました。

 

もし東郷が留学せずに日本に残っていたら、きっと西南戦争で

戦死していただろうと思うのです。

 

実際に東郷の兄は、城山で自害しています。

 

やはり、東郷も天命に導かれていたのでしょう。

 

さて、日露戦争における連合艦隊司令長官 ・ 東郷平八郎の

活躍は、皆さんご存知の通り↑

 

戦後は GHQ の方針で、日本の歴史から英雄が消されてしまい、

東郷平八郎も、歴史上の人物の一人にすぎないという扱いを受けていますが、戦前は、「陸の乃木、海の東郷」 と言われ、乃木希典陸軍大将とともに、日本を勝利に導いた英雄とされ、国民の尊敬を集めました。

 

そして当時の東郷平八郎の英雄譚は、遠く海を越え、海外でも称賛の的となりました。

 

次回は、海外に伝わる東郷伝説をお伝えしますねニコニコ


東郷伝説♪

(2009年12月28日のブログ記事より)

 

前回は、“坂の上の雲” の名場面ベスト1 を勝手にランキングしましたが、

「運のいい男だから。」 という理由で、連合艦隊司令長官に抜擢された東郷平八郎は、過去の海戦においてどんな名将も果たせなかったほどの完璧な勝利を、日本海海戦において果たします。

 

日本の国難を救ったということで、日本国民の間でも東郷さんの人気はすさまじかったのですが、

極東の島国である日本が大国ロシアを破ったという衝撃のニュースが世界中をかけめぐると、

 

東郷平八郎の名は海外においても有名になり、その功績や人格が称賛されました。

 

 

今回は、海外での東郷伝説をご紹介したいと思います。

 

 

まず、日露戦争時に日本の同盟国だったイギリスでは、ジャーナリストらが東郷を 「東洋のネルソン」 と、同国の国民的英雄に比して称えています。

 

 

さらに、大国 ・ ロシアの圧力に屈していたチェコやフィンランド ・ トルコの人々の間では、親日感情が一気に高まりました。

 

その象徴が、アドミラル東郷だったのです。

 

 

フィンランドには、以前、“提督ビールシリーズ” という、歴戦の提督たちをラベルにしたビールが販売されていましたが、軍服姿の東郷提督もラベルになりました。

 

 

時代は下って、第二次世界大戦時、アメリカ海軍の提督たちは、日本海軍最大のヒーロー ・ 東郷平八郎を、英雄として崇拝していました。

 

特に、アメリカ太平洋艦隊の総司令官だったチェスター ・ ニミッツは、若い頃に日本に来て東郷と出逢い、話した時の感激を生涯忘れることがなかったといいます。

 

ニミッツは、終戦後、荒れ果てた三笠の姿を見て嘆き、修繕するために

ポケットマネーを送り、尊敬する東郷と自らの若き日々への思いを込めて、三笠の復興に協力したそうです。

 

当時の敵国の軍人たちからも、これだけの尊崇を集めるなんて、東郷さんの人気、すごすぎます!

 

さて、ここから先は、 『Wikipedia』 の中で見つけたおもしろい記事をご紹介しますね。

 

 

東郷が亡くなった1934年には、ブラジル

『東郷へのオマージュ(“敬意” という意味)』 として

『Cigarros Guensui』 という銘柄のタバコを販売しました。

 

このタバコの宣伝には、日本語で

「聖将東郷元帥永久の思ひ出にシガーロス 『元帥』 を日本の皆様に捧ぐ」

と書かれていたそうです。

 

ビールになったり、タバコになったり…東郷さんもお忙しいことニコニコ

 

また、水生昆虫のカワゲラに、トウゴウカワゲラ属というのがありますが、

これは、チェコ人の昆虫学者が、東郷平八郎にちなんで名づけたとされています。

 

他にも、オオヤマカワゲラ (大山巌)、

ノギカワゲラ (乃木希典)、

カミムラカワゲラ(上村彦之丞…連合艦隊第二艦隊司令官)

と名づけられたカワゲラ属が存在するそうです。

 

このチェコ人の昆虫学者は、かなりの日本軍人マニアですよね!!!

 

 

さてさて、数々の東郷伝説をご紹介しましたが、もちろん、これら伝説の中の東郷平八郎は、人々がつくりあげた虚像です。

 

東郷さんがどんなに優れた軍人でも、作戦や判断の誤りや迷いはあったでしょうし、人間なんですから、欠点だってあったでしょう。

 

そう思いつつ、今回なぜ東郷伝説をご紹介したのかというと…

 

海に囲まれているという地理的環境の中で生まれ育った私たち日本人は、総じて他国の歴史にうといと思います。

 

わたし自身、日本史は好きですが、世界の歴史や地理は苦手です。第一、カタカナが覚えられないんです(>し<)

 

日本人は、アメリカ大統領の名前は知っていても、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、オーストラリア、カナダ…いったいどれだけ他国の歴史上の人物のことを知っているでしょう?

 

たとえ虚像であったとしても、これだけ世界中の人々から称賛された人物を歴史の中に持っている…ということが、なんだか少し誇らしく思えたのです。

 

東郷さんは軍人でしたが、21世紀は、世界の平和に寄与する日本人を印象づけていきたいですねラブラブ


勝手にランキング・・・♪”坂の上の雲“名場面ベスト2

(2010年1月7日のブログ記事より)

 

昨年末に、勝手に “坂の上の雲” の名場面をランキングしたのですが、ベスト 1 を発表したところで年が明けてしまったので、今回は、わたしの中の “坂の上の雲” 名場面ベスト 2 を発表したいと思いますニコニコ

 

 

“坂の上の雲” の主人公は、皆さんご存知のとおり、伊予 ・ 松山生まれの3人の青年たち…秋山好古&真之の兄弟と、正岡子規です。

 

 

この3人の中で、誰が一番好きかと訊かれたら、わたしは、迷わず

正岡子規を挙げます。

 

子規とわたしの出逢いは、中学生のとき。

 

国語の教科書に、子規の短歌と俳句が載っていました。

 

♪ くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の

針やはらかに 春雨のふる

 

♪ 柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 

 

深紅のバラ、優しい春の雨、柿の鮮やかな橙色、夕暮れの法隆寺…

 

子規の詠んだ短歌や俳句を口ずさむと、その情景が、目の前にくっきりと現れてきて、とても優しい気持ちになります。

 

 

不治の病に侵され、燃え尽きようとする命のすべてを詩歌に捧げたのに、

激しさよりも優しさが感じられるのは、子規の人柄なのか、子規の故郷である松山の明るさ ・ 温かさなのか…。

 

 

わたしは、子規を通じて感じる “松山” が大好きなのですラブラブ

 

♪ 春や昔 十五万石の 城下かな

 

ここまで自分の故郷を、心に一点の曇りもなく素直に誇らしく詠めるのが、子規の最大の魅力だと思いますニコニコ

 

 

さて、子規と真之は幼い頃から仲が良く、相前後して東京に出て、東京大学予備門 (現 東京大学教養学部) に入学しました。

 

そして二人は、ともに文学の道を志そうと誓い合い、大学予備門から東京帝国大学進学を目指します。

 

ところが、松山藩で最下級の武士だった秋山家は、経済的に困窮していて、真之の学費は、兄の好古に頼らざるを得ません。

 

真之は、好古の勧めで、泣く泣く、学費がかからない海軍兵学校に進むことを決断したのです。

 

 

真之にとっては、自分が文学の道をあきらめ、海軍に進むことが、親友 ・ 子規への裏切りに思えたのでしょう。

 

 

真之は、「もう二度と子規に会えない」 という悲愴な気持ちで、子規の下宿に置手紙を残します。

 

 

その手紙を読んで、子規も泣きます。

 

 

このシーンを読んだ時、真之の淋しく悲しい背中が胸に迫ってきて、わたしも大泣きしてしまいました(;し;)

 

 

“坂の上の雲” の読者は、後半の日露戦争の華々しさを記憶に

とどめる方が多いと思いますが、わたしの中の名場面ベスト 2 は、文句なくこのシーンなんですニコニコ

 

 

進む道を違えたからといって、子規はそれを 『裏切り』 なんて思うはずはないのに、当の真之は 「裏切った」 と思っている…。

 

 

吉田松陰も、他藩の友だちとの約束を守るために、脱藩したことがあるのですが、大事を成す人は、友だちを大事にし、小さな約束こそ大切にするものだなぁ…と思います。


正岡子規と秋山真之の友情♪

(2010年4月15日のブログ記事より)

20代の頃のわたしにとって、司馬遼太郎の 『坂の上の雲』 は

まさに “バイブル” と言える作品でした。

 

この作品の魅力はひとことでは言い尽くせませんが、正岡子規をめぐる人々の繋がりというのも、その一つでしょう。

 

子規には、二人の親友がいます。

 

一人は、明治の文豪 ・ 夏目漱石、そしてもう一人は、『坂の上の雲』の主人公の一人である秋山真之 (さねゆき) です。

 

真之は、日露戦争時に連合艦隊司令長官 ・ 東郷平八郎のもとで参謀を務め、世界の海軍史に燦然と輝く日本海海戦の作戦を担いました。

 

 

今回お伝えするエピソードは、その日露開戦に先立つこと7年前、明治 30 (1897) 年のことです。

 

 

米国留学を命じられた真之は、暇乞いをするために、親友である子規のもとを訪れます。

 

 

子規はその前年から脊椎カリエスを発症し、ほとんど床に伏したまま毎日を過ごしていました。

 

この時、二人は、何を語り合ったのでしょうか…?

 

 

真之がアメリカに渡ってから、子規は、送別の句を新聞に掲載しました。

 

 

♪ 君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く

 

 

東京 ・ 根岸にある 「子規庵」 には、病床の子規が毎日眺めていたと言われる小さな地球儀が保管されています。

 

そしてその地球儀の北米大陸には、青い鉛筆で縁取りがされているそうです。

 

 

親友への想い、病床にあるわが身の不運…

 

蚊帳に泣く子規の気持ちを思うとき、切なさで胸がはりさけそうになります(;し;)

 

 

 

それからおよそ2年半の歳月が流れました。

 

米国滞在中の真之から届いた年賀状には、次の句がしたためられていました。

好奇心旺盛な子規は、米国に留学した親友の自分を羨ましく思うと同時に、病に倒れたわが身を嘆いているだろう。

 

 

そんな愛すべき子規に宛てた真之からのエールがこの句でした。

 

 

 

♪ 遠くとて 五十歩百歩 小世界

 

 

はるか遠くに感じる海外の国々も、手を伸ばせば届く小さな世界にすぎない…

 

 

なんと優しさに満ちた句なのでしょうラブラブ

 

遠く太平洋を隔てて結ばれた二人の友情を、こうしてしみじみと味わうことのできる私たちは、本当に幸せですニコニコ

 

物理的な距離は問題じゃない、友情も愛情も、大切なのは、お互いの心に寄り添うことですねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

坂本 龍馬(さかもと りょうま)

西郷さんとの出会い

竜馬は、薩摩藩邸に初めて西郷さんを訪ねた時の感想として、

次のように勝海舟に告げています。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。
釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、
大きく叩けば、大きく響く。
もし、バカなら大きなバカで、
利口なら大きな利口だろうと思います。

ただ、その鐘をつく撞木 (しゅもく) が小さかったのが残念でした。」

竜馬は、西郷さんを 「 釣り鐘 」 に、自分自身を 「 撞木 」 に例えたのです。

この竜馬の西郷評って、自分という粘土で器をつくり、自分以外のすべてを空にしていた、西郷さんの生き方が表れているような気がします。

西郷さんの素晴らしさは、“ 空 ” をつくり、人を受け入れ、愛し、輝かせたところにあるのではないでしょうか。

私たち日本人が、西洋には存在しえない、東洋的なリーダー像を持てたのは、西郷さんのおかげだと思います。


女の幸せ

(2009年9月3日のブログ記事より)

 

前回は、ひすいさんのメルマガに感動して、急きょジョン万次郎のエピソードをご紹介させていただいたので、今日こそ、竜馬に恋して一生独身を通した、

千葉さな子さんのことを書こうと思います。

 

少年時代の坂本龍馬は、意外にも、臆病で意気地の無い子供だったそうです。

その上、10歳になっても寝小便をする癖が直らないハナタレ小僧だったので、

近所の子供たちから、「寝小便たれ」とからかわれていました。

けれども、気の弱い龍馬は言い返すこともできず、いつも泣かされてばかりいたといいます。

 

学問も、泳ぎも苦手で、4歳上の姉の乙女に、腰を縄で結び反対の縄の先を竹竿に結びつけ、家の近くを流れる鏡川に投げ入れられて特訓を受けたというエピソードも残っています。

 

そんな龍馬も、剣術道場に通うようになってから、たくましく成長します。

通っていたのは日根野道場で、そこで「小栗流和兵法事目録」を伝授されました。

 

竜馬の家族は、江戸へ出て剣術修行をすることを、竜馬にすすめます。

江戸で修行したのち、高知城下に戻り、剣術道場でも開いてくれたら…と、

家族は思っていたのでしょう。

 

江戸では、北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門。

竜馬はここでメキメキと頭角を現し、ついに江戸の三大道場のひとつである桶町の千葉道場の塾頭をつとめるほどに成長しました。

 

師匠の千葉定吉には、さな子という娘がいましたが、彼女は薙刀の名手、北辰一刀流の免許皆伝の腕前でした。

 

このさな子と竜馬は、お互いに惹かれあったようで、龍馬が実家の家族に宛てた手紙の中には、さな子への好意にあふれた表現が垣間見られます。

 

けれども、竜馬はさな子と結ばれることはなく、千葉道場を後にし、江戸・神戸・京都・長崎などを舞台に、華々しく活躍します。

 

そして京の都で出会ったお龍と結婚するのです。

 

この事実を、さな子は知ってか知らずか、なんと彼女は、龍馬の死後もずっと彼ひとりを想い続け、一生を独身で過ごしたのです。

維新後は学習院女子部に舎監として奉職しましたが、ある時、生徒に

「先生はなぜ結婚なさらないのですか?」と訊かれ、次のように答えたと伝えられています。

 

「私は坂本竜馬という人の許婚(いいなずけ)でした。」

 

そしてその生徒に、竜馬の形見の紋付の片袖を見せたそうです。

 

残念ながら、さな子と竜馬の間に結婚の約束がなされていたかどうかは、後世に生きる私たちには確かめる術はありませんが、

さな子が一生独身でいたことは事実ですし、この生徒とのやりとりも事実のようです。

 

晩年は、学習院を離れ、家伝の針灸を生業として過ごしました。

さな子は、その灸の患者である自由民権運動家の小田切謙明夫妻と懇意になりましたが、死後、身寄りがなく無縁仏になるところ、この夫妻が哀れみ、

小田切家の菩提寺である甲府の清運寺に納骨されました。

 

墓には「坂本龍馬室」と刻まれており、龍馬を思い続けたさな子の気持ちを

察した小田切夫妻の思いやりが感じられます。

さな子の墓は今でこそ坂本龍馬ファンがたくさん訪れますが、以前は剣道など剣術の修行をしている方々が、

さな子の強さにあやかりたいと必勝祈願に来られることが多かったそうです。

 

一方、竜馬の妻となったお龍は、どのような生涯を辿ったのでしょうか。

 

竜馬の死後、お龍は、竜馬の姉・乙女の元に身を寄せましたが、間もなく

そこを立ち去ります。この時、竜馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係ない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまいました。

 

その後、土佐から京へ行き、近江屋(京都の由緒ある醤油屋で、竜馬と中岡慎太郎が暗殺された場所として有名)を頼ったり、西郷隆盛や海援隊士を頼り、東京に出たりしました。

 

こうして転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人・西村松兵衛と再婚しました。

晩年はアルコール依存症状態で、酔っぱらっては、「私は龍馬の妻だ」と

松兵衛にこぼしていたといわれています。

ただし、そのような生活の中でも龍馬の妻であった誇りは失わず、坂本家の紋の入った羽織を身に付けていたそうです。

 

竜馬・松兵衛いずれの夫との間にも子はなく、明治39年(1906年)、横須賀にて

66歳で死去。

妻の気持ちを汲んだ松兵衛は建碑を思い立ち、龍馬のかつての同志をはじめ多くの人々の寄付を仰ぎ、大正3年にお龍の墓碑として建立するに至りました。

横須賀の信楽寺に建てられた彼女の墓碑の正面には、

「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」

と刻まれています。

さらにこの後、松兵衛たちは、京都の霊山にある竜馬の墓の傍らに、お龍の遺骨を埋葬しました。

 

さな子さんとお龍さん…いったいどちらが、女として幸せな人生だったのでしょう?

 

坂本竜馬という男を心から愛した二人の女性…きっとどちらも悔いはなかったと

思いますが、歴史を知る私たちから見ると、二人の人生はあまりにも切ないです。

 

たとえ結ばれぬ恋でも、一生想い続けることができるほどの男性と出逢えた人生は、幸せと言えるのかもしれません。

 

でも、わたしは同じ女性として、さな子さんには異性関係から得られるしあわせ感と、子どもを育むしあわせ感の両方を味わってほしかったなぁ。

 

この二人の女性の人生を通して、愛ってなんだろう、しあわせって何だろう…

というテーマで自分と向き合ってみるのも素敵なことだと思いますラブラブ


坂本竜馬の合理性

(2009年9月21日のブログ記事より)

真偽のほどは定かではありませんが、坂本竜馬には、こんなエピソードがあります。

 

竜馬は、千葉周作の弟 ・ 定吉が経営する桶町千葉道場の塾頭を務め、

北辰一刀流の免許皆伝を許された、当代きっての剣客でした。

しかも身長が180センチあったと言われていて、当時の平均身長と比べると

かなり大男だったのですが、なぜか普通よりも短い刀を差していました。

 

竜馬と同じ土佐出身の郷士 ・ 桧垣直枝という人は、竜馬のことが大好きで、何でも竜馬のマネをしていたそうです。

彼は、竜馬にならって、短い刀を差していました。

 

ところが、ある日、竜馬に会うと、

「刀の時代は終わったよ。俺はこれさ。」

と言って、ピストルを見せました。

 

桧垣があわててピストルを工面して持っていると…

 

「これからの世はこれさ。」

と言って、竜馬がふところからあるものを取り出しました。

 

竜馬が取り出したものは、ピストルではなく、『万国公法』 でした。

 

これは、竜馬がいかに時勢に敏感であったか、そして過去に執着せずに、

「常にまなざしは未来を向いていた」 ということを物語るエピソードだと思います。

 

考えてみると、勝海舟との出逢いのシーンも、竜馬の性格がよく表れていますよね。

 

竜馬は、本当は、開国論者である勝海舟を斬りに行ったのです。

ところが、勝海舟の世界観に魅せられて、その場で弟子入りしてしまうのです。

 

自分の直感を信じ、過去のこだわりをあっさりと捨てる…ということが、

人生を劇的に変化させ、楽しくさせる秘訣かもしれませんねラブラブ


日本人の受信力

(2009年11月7日のブログ記事より)

 

以前、わたしが “ 日本史の中で最もワクワクする瞬間 ” を、『幕末のエネルギー』

というタイトルでブログに書かせていただきました。

 

http://ameblo.jp/hitomi-mazenda/page-21.html#main

 

日本人にとって、“ 蒙古襲来 ” や “ 日米開戦 ” と比べても、それ以上にはるかに

衝撃的だったのが “ 黒船来航 ” だったのではないでしょうか。

 

250年の長きにわたって、争いのない、ゆったりとした世の中が続いていた日本。

そこでは、長崎の出島を通して、わずかにオランダからもたらされる書物や情報でのみ西欧文明を垣間見ることが許されていました。

 

そんな日本人が、まったく異質の文明の象徴である黒船を見た時に、どれほど驚き、恐れおののいたことでしょう。

 

ところが、日本人は、驚いたり、恐れたりするだけではなかったのです。

 

「よっしゃ、この黒船に乗り込んで、この目でアメリカを見てこよう。」

と思った若者がいました。

 

その若者の名は、吉田松陰。

 

また、別の若者は、船を自分のものにして、世界の海を股にかけて貿易をしようと考えました。

 

その若者の名は、坂本竜馬。

後に海援隊を結成した竜馬は、船を使って貿易事業を興し、夢を実現しました。

 

そして、こんな日本人もいました。

 

「アメリカ人にこれが造れたなら、我々日本人にも造れるはず!だって同じ人間なんだから、できないはずがない !!」

 

黒船来航から3年後には、薩摩 ・ 佐賀 ・ 宇和島の各藩が相次いで国産の蒸気船を完成させるのです。

 

このバイタリティーと技術力の素晴らしさは、日本人の誇りですが、今回、わたしが声を大にしてお伝えしたいのは、

 

その見事な “受信力” です!!

 

たしかに、何かを発信していく力も大事ですが、その人の人生を、あるいは一国の歴史を決定するのは、

 

発信力よりも “ 受信力 ” だと思います。

 

自分の目の前に起こる出来事を、どのように受け止めるか…。

 

黒船を見て、

「びっくり」

「ヤバイ」

「こわい」

「植民地にされる~(>し<)」

だけじゃなく、

 

「乗ってみたい」

「船を使って何かを始めたい」

「同じ船を造っちゃおう」

 

こんな受け止め方ができる日本人って、本当に素敵ですニコニコ

 

日本人は古来、中国に学び、その後ヨーロッパやアメリカと交流を持ちました。

そのたびに、他国の優れた文化 ・ 制度 ・ 科学技術などを巧みに取り入れてきた

わけですが、日本人というのは、なんて素敵な受信力を持っていたのでしょう。

 

他国に対して敬意を払い、異質の文化を尊重しながら、けっして媚びることも、卑屈になることもありませんでした。

 

この受信力があればこそ、250年の鎖国から醒めた日本が、目覚ましい発展を遂げたのでしょうし、

 

第二次世界大戦の敗戦ですべてを失ったところからも、奇跡の復活を遂げたのだと思います。

 

(ちなみにわたしが学生時代にオーストラリアを旅行した時、ホームステイさせてくださったオーストラリア人のご夫妻が、

 

「日本は歴史が長く、オーストラリアは歴史が浅い。でも、戦争ですべてを失った日本人が、短期間で復興した姿を見て、オーストラリア人は日本人を目標にしています。」 とおっしゃってました。)

敗戦から20年も経たないうちに、オリンピックを開催して成功させたストーリーは、

まさに “ 奇跡 ” ↑

 

この頃、経済の状況がますます悪くなってきたせいか、日本人は自信を失ってますよね。

でもこの状況、元気をなくすばかりでない、きっと別の受け止め方があるはず

 

今こそ、日本人の受信力を思い起こして、子どもみたいに “ いま ” を楽しんでいきましょう~ラブラブ

 


高知のカフェで・・・♪

(2010年3月11日のブログ記事より)

高知の街の素敵なカフェで、憧れの人にお逢いしましたニコニコ

 

なんとなんと、カフェラテの表面には、龍馬の顔が…♡

 

 

こちらのお方はいかが?

 

経済力があって、頼りになりますよ~ニコニコ

 

 

はい、こちらは三菱の創業者 ・ 岩崎弥太郎です♪

 

 

香川照之さんよりイケメン…かな?

 

さすが土佐の高知は、“龍馬伝” 一色ラブラブ

 

幕末にタイムスリップしたかのような熱気が溢れていますニコニコ


龍馬はなぜモテるのか

(2010年3月13日のブログ記事より)

 

大河ドラマ “龍馬伝” 、視聴者の評判は上々ですね↑

毎回、切ない表情に男の色気を漂わせる福山龍馬に、クラクラしている女性ファンも多いのではないかしら?

 

それにしても、龍馬のモテっぷりはすごいですねニコニコ

このあと、さらに京都にも長崎にも、龍馬を慕う女性が次々に現れるのでしょうねぇ…。

 

「龍馬のモテっぷりにあやかりたい」…

そう思っている方も多いはず。

 

そんな皆さまに、“歴女” 歴30年を誇るわたくしから、龍馬に学ぶ究極のモテの秘訣をお伝えしますねラブラブ

 

 

その前に、ここで幕末史の復習をしておきましょう。

 

 

1853年、ペリーが黒船を率いて来航すると、日本中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。

 

このままでは、いずれ日本は欧米列強の植民地になってしまう!!

それを防ぐためには、強力な中央集権国家をつくらなければならない。

 

攘夷か開国か、

天皇 (朝廷) 中心の国家をつくるのか、徳川幕府を支えるのか…。

 

 

もし徳川幕府を倒して、天皇 (朝廷) 中心の国家をつくるとなると、

朝廷は武力を持っていませんから、幕府に対抗できる勢力が、朝廷を担いで革命を起こす…ということになります。

 

その勢力として、全国の志士たちから期待を集めたのが、薩摩藩と長州藩でした。

 

この二藩が力を合わせれば、幕府に対して十分に対抗できるのですが、ところが、この二藩は、ひじょうに仲が悪いのです。

 

坂本龍馬も、中岡慎太郎も、言葉のかぎりを尽くして薩摩と長州が手を結ぶことの必要性を訴えますが、両藩は聞き入れません。

 

そこで龍馬はどうしたか…?

 

坂本家の本家は、才谷屋という裕福な商家ですから、商人の常として、龍馬は、人の心の機微について、敏感だったと思うんです。

 

人間の行動は、多くの場合、倫理的な善悪や政治的な判断よりも、経済的な理由が優先されるということ。

そして、喉から手が出るほど欲しいと思っているものを与えることが、相手の愛情や信頼を得るための近道だということ。

 

では、長州藩が喉から手が出るほど欲しいものは何か?

 

この時期 (1865年ごろ)、幕府による第二次長州征伐に備えて、長州藩では、武器と軍艦が欲しくて欲しくてたまりませんでした。

 

幕府や各藩は、ヨーロッパの列強から新式の武器を購入していましたが、幕府がヨーロッパ諸国に対して、長州藩への武器 ・弾薬類の取引を全面的に禁止したため、長州藩は、戦いに必要な武器 ・ 弾薬を調達できずにいたのです。

 

一方、薩摩藩は、お米が不作で、兵糧米の調達に苦心していました。

 

この両藩の状態を見て、龍馬は秘策を思いつきます。

 

それは、外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売りさばき、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというものです。

 

 

つまり、双方の利潤になる取引をプロデュースすることで、両藩の和解を図ろうと考えたのです。

 

もちろん龍馬には商人の血が流れていますから、両藩の間を龍馬が率いる亀山社中 (“海援隊” の前身) が取り持ち、亀山社中にも利益があがる…というちゃっかりぶりです。

 

龍馬の発想って、常にこんな感じで、自分も含め、周りのみんなが喜ぶように、周りの誰もが恥をかかないように…という配慮が素晴らしいのですニコニコ

 

あれだけお互いが手を結ぶことの必要性を説かれても、首を縦に振らなかった薩摩 ・ 長州の両藩が、この龍馬のプロデュースには、快く応じました。

 

かくして、薩長同盟は、経済から出発して、政治的 ・ 軍事的要素を加えていったのです。

 

 

そしていよいよ明治維新前夜…

龍馬の 「周りのみんなが喜ぶように、周りの誰もが恥をかかないように…」

という発想は、“大政奉還” というウルトラ C を編み出しました!!!

 

なんと朝廷中心の中央集権国家を実現しながら、徳川幕府の面目も保つ

…という離れ業をやってのけたのです!!

 

 

相手の欲しいものを与えること、そしてみんなのハッピーを考えること…

ズバリ、これが龍馬のモテの秘訣だと思いますラブラブ

 

 

次回は、男女の愛情が長続きする秘訣に迫りますので、乞うご期待ニコニコ


歴史的な和解☆

(2011年4月22日のブログ記事より)

 

20日付けの産経新聞に、心温まる記事が出ていました!

 

記事によると、今月中旬から、萩市内のスーパーの特設コーナーなどで、会津名産の地鶏、馬刺し、喜多方ラーメン、日本酒などの販売を開始、収益は震災の義援金に充てるということですニコニコ

 

つまり…原発事故の風評被害に苦しむ農家のために、山口県萩市の農協が、かつて戊辰戦争で敵・味方に分かれ戦った福島・会津若松に、支援の手を差し伸べたのですニコニコ

 

戊辰戦争から142年が経ちますが、戦いが残した爪痕は深刻です。

 

昭和61 (1986) 年には、萩市が会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」

と和解と友好都市締結を申し入れたところ、会津若松市側は、「まだ120年しか経っていない」 と、その申し入れを拒絶。

 

また、映画 『釣りバカ日誌』 には、福島県出身の医師が赴任先の山口県の女性と結婚しようとしたところ、自らの両親に

「山口県の女性とだけはダメ」 と

反対されるシーンが出てきますが、地元の人によると、現実に十分あり得る話だとか…。

 

そんな歴史の怨讐を超えて、萩と会津若松の交流が続けば、友好都市として結ばれる日も、そう遠くないでしょうラブラブ

 

いきなり友好都市にはなれなくても、まずは経済協力から…ニコニコ

 

実はこれ、幕末に、坂本龍馬が薩長同盟をセットアップした時の手法なのです。

 

幕末、長州と薩摩は、政治の主導権を争うライバル同士でした。

 

特に “蛤御門 (はまぐりごもん) の変” では、京都御所の蛤御門を長州藩が襲い、そこを守っていた薩摩藩と激しい戦闘を展開、多くの死傷者を出しました。

 

 

ですから、この二つの藩が手を結ぶなんて、考えられないこと。

 

もちろん、徳川幕府を倒すためには、この二つの藩が手を結んだらいいということは、誰でもわかります。

 

だから、いろんな志士たちがそれを両藩に説くのですが、どちらも首を縦に振りません。

 

 

そこに登場した龍馬!!

 

 

龍馬の生まれた坂本家の本家は、高知城下でも大きな商家ですから、龍馬は、人の心が理屈ではなく損得で動くということがわかっていたのですね。

 

つまり、政治的な同盟は後回しにして、まずは経済から結んでいこう…というわけです。

 

龍馬は考えました。

薩摩藩、長州藩それぞれが、喉から手が出るほどほしいものは何なのか…

 

 

この時期 (1865年ごろ)、長州藩は幕府による第二次長州征伐に備えて、武器と軍艦が欲しくてたまりませんでした。

 

しかし、幕府がヨーロッパ諸国に対して、長州藩への武器の取引を全面的に禁止したため、長州藩は武器を調達できずにいたのです。

 

一方、薩摩藩は、お米が不作で、兵糧米の調達に苦心していました。

 

この両藩の状態を見て、龍馬は思いつきました☆彡

 

 

外国から武器を薩摩名義で買い入れ、密かに長州に売り、その見返りに兵糧米を長州から薩摩に届けるというものです。

 

つまり、双方の利益になる取引をプロデュースしたのです。

 

しかも、両藩の間を龍馬が率いるカンパニー・亀山社中が取り持ち、亀山社中にも利益があがるというちゃっかりぶりです。

 

こうして、薩摩・長州の両藩は、経済協力をきっかけに、やがて薩長同盟という軍事同盟を結び、歴史を大きく動かしていきました。

 

私は、今回の復興支援には、西日本が本当にがんばらなくてはいけないと思っているのですが、歴史マニアとしては、会津若松に対する萩の支援が、その象徴になってくれたら素敵だなぁ…と思いますラブラブ


龍馬ファンに告ぐ!!

(2015年3月25日のブログ記事より)

 

日ごろは「日本人のここが素晴らしい」「やまとごころ大好き」という思いを伝えていますが、大好きだからこそ物申す!!

龍馬や幸村が大好きな日本人へ、苦言を呈すコラムを書きました。
題して「龍馬ファンに告ぐ」!!

http://kotohogi2672.com/colum.html

龍馬が好きな人にも嫌いな人にも、読んでいただけたら嬉しいですニコニコ

準備中です 暫くおまちください

真田 幸村(さなだ ゆきむら)
直観力♪

(2010年4月12日のブログ記事より)

 

科学の進歩に伴って、人間が失ったものって、意外に多いと思うのですが、“直感力” も、その一つなんじゃないかと思います。

 

 

わたしは航空会社を退社してから、「時間に縛られずに日々を過ごしたい」 と思って、腕時計を持たずに外出することが多かったんです。

その頃は、もちろん携帯電話も普及していません。

 

さぞ時間がわからなくて困るだろう…と想像なさる方が多いと思いますが、不思議と時間がわかるんですよニコニコ

 

 

「だいたい何時ごろだろう」 と想像した時間が、実際の時間とプラマイ 5分ぐらいしか違わないんです。

 

田舎だったら、5分遅れたら電車に乗れずに困るところですが、都会で生活していると、プラマイ 5分なんてどうってことないんです。

 

 

ところが、子どもが保育園に入園し、お迎えの時間を 1分でも過ぎると延長保育料を取られることになったので、腕時計をするようになりました。

 

そうしたら…あら、不思議!!

時間がわからなくなっちゃったんですよ~(>し<)

 

 

もちろん時計を見ればわかるのですが、以前は時計を見なくてもだいたいの時間がわかっていたのに、時計に頼るようになったら、「時間がわかる」 というわたしの能力は、失われてしまったんですね。

 

 

こうやって、人類は、さまざまな能力を失っていったんだろうなぁ…

と、想像がつくわけです。

 

 

さてさて…話を元に戻して、“直感力” のこと!!!

 

 

いま、歴女の人気 No.1 といえば、真田幸村でしょうか。

 

わたしも、大坂の陣のヒーロー ・ 幸村は大好きですニコニコ

わたしにとって、幸村の最大の魅力は、なんといっても “直感力” !!!

 

 

関ヶ原の戦いの時、幸村は、父 ・ 真田昌幸とともに西軍につき、居城である上田城に立てこもり、二代将軍 ・ 徳川秀忠の3万8千の大軍を、わずか3千500の軍勢で撃破しました。

 

そのため、秀忠一行は関ヶ原の本戦に間に合わず、もし西軍が勝利していれば、最大の功労者となったはずの幸村父子でしたが、

実際は東軍が勝ったために、敗軍の将として、紀州の九度山に配流となりました。

 

 

関ヶ原から14年…

 

豊臣と徳川との交渉が決裂、豊臣家は、来るべき戦に備えて、多数の牢人を大坂城に入城させました。

 

その数およそ10万人…。

 

 

当然、上田城で徳川を散々に苦しめた真田の名を、豊臣家は忘れてはいませんでした。

 

14年に及ぶ幽閉生活の間に、父 ・ 昌幸は亡くなりましたが、幸村は、子どもたちを連れて九度山を脱出、大坂城に入城したのです。

 

 

大坂冬の陣は、幸村が指揮した真田勢の活躍で、豊臣方が優勢のうちに和議が結ばれましたが、家康の謀略で堀を埋められ、

裸城になった大坂城は、ついに夏の陣で落城のときを迎えます。

 

 

さぁ、決戦を前に、幸村が何をしたか…

 

 

徳川方の将として大坂の陣に参戦していた伊達政宗。

その政宗の側近が、片倉小十郎重長です。

 

 

幸村は、家臣に命じて、片倉小十郎重長の陣地に、最愛の娘 ・阿梅を送り届けさせます。

 

一説によると、伊達勢の先鋒である片倉重長の勇将ぶりを目の当たりにした幸村が、「この男なら…」 と、片倉の陣に矢文を送り、婚姻の儀を申し入れたと言われてます。

 

 

その数日後、決戦にのぞむ幸村の戦略は、ただ一つ、敵の大将 ・家康の首を討つこと。

 

真田勢は、幸村の作戦通り、家康の本陣に襲いかかり、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らし、馬印を倒すほど家康に肉薄しました。

 

真田勢の凄まじさに、家康は自害を覚悟したほどだったと言われていますが、けっきょくは、兵力で圧倒的に勝る徳川軍に勝てず、幸村は討ち死にを遂げました。

 

その翌年、家康は亡くなりましたが、「あの世で酒を酌み交わしたい相手」 として幸村の名を挙げた…というエピソードが残されています。

 

 

さて、片倉家に送られた阿梅の人生は…?

 

 

大坂の陣の3年後、片倉重長の妻が亡くなると、阿梅は彼の後妻となりました。

片倉重長と阿梅の間には子が生まれませんでしたが、片倉家は、阿梅の兄弟を引き取り、養育したので、幸村の血は、仙台の地で受け継がれました。

 

 

徳川幕府に知られれば、片倉家だけでなく、主家の伊達家にも類が及び、取り潰しの危険性すらある中で、片倉重長のとった行動は、「この男にわが娘を託したい」 と自分に惚れ込んでくれた稀代のヒーロー ・ 幸村に対する最大の敬意だったのでしょう。

 

一説によると、片倉重長は、義父である真田幸村を心から尊敬し、武士の命とも言える家紋に、妻の実家である真田家の六文銭を使っていたというから、驚きです!!!

 

六文銭とは、あの世との境にある、三途の川の渡し賃のこと。

昔の日本人は、亡くなった人が無事に三途の川を渡れるように、棺の中に ”冥銭” として六文の銭を入れたそうです。

 

これを旗印にすることで、「いつでも、どんな時でも、命をかける覚悟はできている」 という想いを込めたのでしょう。

 

そんな熱い想いを持った幸村と、その想いを受け継いだ重長…。

 

彼に惚れ込んだ幸村の直感力も素晴らしいし、その幸村の想いに応えた重長も、また “漢 (おとこ)” と呼ぶに相応しいと思いますニコニコ

 

さてさて、現代に生きる独身男女の皆さま、結婚や恋愛に対して、

あまりにデータを重視していませんか?

 

私たちは、“直感力” という素晴らしいDNAを受け継いでいるのですから、データからは汲み取れないその人の “空気感” を、ご自分の感性で確かめてみてはいかがでしょうか…?


★宮城の白石に行ってきました!

(2013年7月1日のブログ記事より)

 

週末は、東京、愛知県岡崎市、宮城県白石…と、各地で講演させていただきました。

 

素敵なご縁をいただけたことに心から感謝、そして岡崎、白石という初めて訪れる土地の優しさに感動しました。

 

今日は、白石(「しろいし」と読みます)にちなんだ歴史のエピソードをご紹介しようと思います。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い。

真田幸村は、父・昌幸とともに西軍につき、居城である上田城で二代将軍・徳川秀忠率いる3万8千の大軍を迎え撃ちます。

 

真田軍は、徳川軍の10分の1にも満たない、わずか3500の軍勢で、見事に撃破。

そのため、秀忠一行は関ヶ原の本戦に間に合わず、もし西軍が勝利していれば、真田父子が最大の功労者になったはずでした。

 

ところが、関ヶ原で東軍が勝利を収めたために、敗軍の将として、紀州の九度山(くどやま)に配流の身となったのです。

 

14年後、豊臣と徳川の交渉が決裂、豊臣家は、来るべき戦に備えて、多数の牢人を召し抱えました。 その数、およそ10万人…。

 

当然、上田城で徳川を散々に苦しめた真田の名を、豊臣家は忘れてはいませんでした。

 

14年に及ぶ幽閉生活の間に、父・昌幸は亡くなりましたが、幸村は、子どもたちを連れて九度山を脱出、大坂城に入城したのです。

 

大坂冬の陣は、幸村が指揮した真田勢の活躍で、豊臣方が優勢のうちに和議が結ばれましたが、家康の謀略で堀を埋められ、裸城になった大坂城は、ついに夏の陣で落城の時を迎えます。

 

さぁ、決戦を前に、幸村が何をしたか…?

 

徳川方の将として、大坂の陣に参戦していた伊達政宗。

その政宗の側近が片倉小十郎重長です。

 

幸村は、家臣に命じて、重長の陣地に、最愛の娘・阿梅(あうめ)を送り届けさせたのです。

一説によると、伊達軍の先鋒である重長の勇将ぶりを目の当たりにした幸村が、「この男なら…」と、重長の陣に矢文を送り、婚姻の儀を申し入れたと言われています。

この重長の居城が、白石城でした。

 

私が講演させていただいた日本青年会議所の宮城ブロック協議会にも、白石戦国武将隊のメンバーがゲストでいらっしゃいましたが、もちろん人気筆頭は、幸村&重長です。

 

幸村は、大坂で亡くなったので、白石を訪れることはありませんでしたが、白石の歴史は、幸村なしでは語れません(>し<)

 

幸村と重長の友情がどのように育まれていったのか、続きは次回…☆彡


真田幸村の生き方♪

(2013年7月2日のブログ記事より)

昨夜の続きを書かせていただきますね。

娘の阿梅を片倉の陣地に送り届けた数日後、決戦にのぞむ幸村。

彼の戦略はただ一つ、敵将・家康の首をとることでした。

 

真田勢は、幸村の作戦通り、家康の本陣に襲いかかり、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らし、馬印を倒すほど家康に肉薄しました。

真田勢のすさまじさに、家康は自害を覚悟したほどだったと言われています。

 

けれども、結局は兵力で圧倒的に勝る徳川軍に勝てず、幸村は討死を遂げました。

 

その翌年、家康は亡くなりましたが、「あの世で酒を酌み交わしたい相手」として幸村の名を挙げた…というエピソードが残されています。

 

戦国時代、男たちは、「己が信じる道を突き進み、合戦で華々しく散るのが男の美学」と思っていました。

その美学を貫いた象徴的存在が、幸村です。

 

徳川265年の礎を築いた超大物の家康を向こうにまわし、あれだけの劣勢の中、あわやというところまで家康を追い詰め、最後は華々しく討死…。

 

その勇猛ぶりは、敵からも称賛され、その縦横無尽な活躍は、『真田十勇士』などの幾多の伝説を生みました。

 

そして四百年後の今も、絶大な人気を誇っている幸村は、さぞやあの世で他の戦国武将たちの羨望を集めていることでしょう。

 

 

でも、その幸村が、自分の夢を追い続けながらも、死の直前まで家族のことを思い、娘の行く末を案じていた…というところに、私は深い感動を覚えます。

 

逆に、そのように細やかな愛情を持つ幸村だからこそ、彼の夢をかなえるために家族も団結して協力し、家臣たちも絶望的な戦いの中で一糸乱れず彼に従い戦い抜いたのでしょう。

 

さて、片倉家に送られた阿梅の人生は…?

 

大坂の陣の3年後、重長の妻が亡くなると、阿梅は彼の後妻となりました。

重長と阿梅の間には子は生まれませんでしたが、片倉家は、阿梅の姉妹や弟を引き取り、養育したので、幸村の血は、白石の地で受け継がれました。

 

徳川幕府に知られれば、片倉家だけでなく、主家の伊達家にも類が及び、取り潰しの危険性すらある中で、片倉重長のとった行動は、「この男にわが娘を託したい」と自分に惚れ込んでくれた希代のヒーロー・幸村に対する最大の経緯だったのでしょう。

 

亡父・幸村の決死の働きが、阿梅に幸せをもたらしたと言えるのかもしれません。

 

男としての死に場所を得ることと、家族の幸せを願うこと。

一見、相反するように見えて、この幸村の二つの夢は、同時にしか叶えることができなかったのではないかと思います。

 

周りの人を置き去りにして夢を追いかけるのではなく、周りの人、大切な人をとことん大事にして、大好きな人たちを笑顔にしていくという生き方がある…。

 

笑顔にした人の数だけ自分の人生が輝くということを、幸村が教えてくれているような気がしますラブラブ


準備中です
暫くおまちください

シーボルト

シーボルトが大好きな女性を思って名付けた『お花』と、天命に導かれ、日本初の〇〇となった女性の運命)

6月のお花と言えば 雨上がりに映える紫陽花の花が思いつきますね。

紫陽花は、ヨーロッパでは 『おたくさ』 と呼ばれているそうです。

なぜ 『おたくさ』 なのか…?

幕末に来日し、長崎で日本人に西洋医学を教えながら医師として活躍したシーボルトは、植物学を研究する博物学者でもありました。

それで、ヨーロッパに戻る時に、紫陽花の新種を持ち帰り、『おたくさ』と命名し、紹介したのです。

シーボルトは異国の地で恋に落ち、その女性と出島で夫婦生活を送り、かわいい女の子も生まれました。

シーボルトの恋人の名は 『タキ』、シーボルトは彼女を 『お滝さん』と呼んでいましたラブラブ

紫陽花は、お滝さんが好きな花だったとも言われていますし、シーボルトが彼女の面影を紫陽花の花に見つけ出したのかもしれません。

いずれにしても、『おたきさん』 が転じて 『おたくさ』 になったことは間違いないようです。

現代は、インターネットの普及で地球上の距離感がすごく狭まったように感じますが、百数十年前に、ヨーロッパと日本に引き裂かれた二人は、会うこともできず、連絡もとれず、どんな気持ちで過ごしたのかなぁ…と思うと、とっても切ない気持ちになります。

ちなみにシーボルトは、ヨーロッパに帰国する時に、日本地図を持ち帰ろうとして、当時、鎖国政策をとっていた徳川幕府から追放されてしまう (1928年のことでした) のですから、この世ではもう二度と会えないと覚悟を決めていたのでしょうね

ところが、時代は大きく動き、日本は開国し、明治新政府が樹立します。

なんとシーボルトの国外追放の罪が解かれ、31年ぶりに、三人は、再会の日を迎えます。

そう、シーボルトが日本を離れる時によちよち歩きだった娘のイネは、美しく成長し、日本初の女医となって、父と会うという夢が叶ったのです。

シーボルトの娘・イネはシーボルトの忘れ形見として、シーボルトの弟子たちから大切にされ、医学を学びました。

おそらく彼女は、弟子たちから父の偉大さを子守唄がわりに聞かされ、覚えていない父親に憧れを抱いたのではないでしょうか。

自分が医師になれば、いつかは父親に会えるのではないかと考えたに違いありません。

彼女は、いつか会えるかもしれないその時のために、必死でオランダ語を勉強し、美しい発音を身につけます。

ところが、シーボルトは、実はオランダ人ではなく、ドイツ人でした。彼のオランダ語の発音は汚くて、イネを戸惑わせます。そして、父親が腹違いの弟を連れていたことにも、多少の幻滅を感じたかもしれません。

わたしは、この再会がイネにとって幸せなことだったのか、自分の中でも答えが出ませんが、もしイネがこの再会にがっかりしたとしたら、よけいに “天命” を感じてしまうんですね。

彼女が天に導かれて日本初の女医になった…ということです。

すべての人の人生は、天からのプレゼントラブラブ

紫陽花の美しいこの季節、わたしは、百数十年前の切ない恋と一人の女性の天命を思い起こさずにはいられませんラブラブ


静御前(しずかごぜん)

美しき日本女性たち

(2010年12月30日のブログ記事より)

 

資生堂の “TSUBAKI” のCMを見た時、

「日本女性も本当に美しくなったなぁラブラブ

と感動したのですが、でも、よく考えてみると、日本女性が美しいのは、今に始まったことではないですね。

 

高松塚古墳の壁画に描かれた貴婦人たち、いかにも飛鳥美人といった感じで、謎に包まれた古代の日本女性の魅力に興味をそそられます。

 

日本女性は、ただ外見が美しいだけでなく、内面から溢れ出るような美しさを持っていると思いますラブラブ

 

そして、歴史の中で、その内面から輝き出る美しさを印象づけた女性の代表が、静御前ではないかと思いますニコニコ

 

静御前は、“白拍子” という職業を持っていて、母娘2代にわたる舞の名手として、その名が都じゅうに知れ渡っていました♪

 

ある時、日照りが続いたのを憂えた後白河法皇が、100人の白拍子を集めて、雨乞いの舞を舞わせたところ、99人までは効験がありませんでしたが、100人目の静が舞うと、たちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたと言われています。

 

神さまをもとりこにしてしまう静の舞を見て、一人の青年が恋に落ちましたラブラブ

源義経です。

 

 

源氏の御曹司と美しき白拍子…

二人は身分の違いを超えて、深く愛し合いました。

 

けれども、二人の幸せな日々は、長くは続きませんでした。

 

平家追討の立役者だった義経は、兄・頼朝の不興を買い、一夜にして追われる身となったのです。

 

義経と静は、お互い、どこまでも行動をともにしたかったのですが、目前に危険が迫っていたため、やむなく、吉野の山中で別れました。

 

その後、義経は奥州藤原氏を頼って、遠くみちのくへと落ちのびていき、

静は、鎌倉の頼朝のもとへ送られていきました。

 

 

当代一の舞の名手・静を迎えた鎌倉では、ひと目、静の舞を見たいという声が高まります。

 

1186年4月8日…

源頼朝と妻の北条政子の鶴岡八幡宮参拝に合わせて、静は、白拍子の舞を奉じるように命じられます。

 

 

京の都で育った静にとって、当時の鎌倉は、草深い田舎。

さらに、義経の愛妾であり、当代一の舞の名手をひと目見ようと、多くの人々が集まってくるのです。

 

静にとって、どれほど屈辱的な場であったことでしょう(>し<)

 

 

でも、鶴岡八幡宮に舞を奉納するとなれば、それは “神事” ですから、断るわけにいきません。

 

 

意を決した静は、満開の桜の下で、見事な舞を披露しました。

 

ところが、舞い終わったはずの静が、床に手をついたまま身動きをせず、舞台にとどまっています。

 

 

しーんと静まりかえった会場、張りつめる緊張感…

その中で、彼女が再び歌い始めました。

 

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

 

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

 

 

静は、鎌倉を讃える歌を歌うべきでした。

けれども、彼女は、囚われの身でありながら、謀反人となってしまった義経を慕う気持ちを、敵将である頼朝とその家来たちの前で、臆することなく披露したのです。

 

歌も、舞も、神々しいまでの美しさ…ニコニコ
さらに愛する人を想う情熱、その想いを遂げられない切なさが、人々の心を魅了しましたラブラブ

 

 

ところが、この歌を聞いて、ただ一人激怒した者がありました。

源頼朝です。

 

「鶴岡八幡宮に舞を奉納するのに、謀反人・義経を慕う恋の歌を歌うとは何事か!」

 

そうなんです、普通に考えれば、頼朝の言う通りなんです。

 

でも、日本人の感性では、こんな時の頼朝こそ悪人になってしまいます。

日本人の感性では、恋の歌も詠めないような人、あるいは人の恋心が

わからないような人が、“無粋な人” とされてしまうのです(>し<)

 

ほら、今で言う “KY” っていうヤツですよ((+_+))

 

 

この頼朝のピンチを救い、とりなしたのが、妻の政子です。

 

「私には、彼女の気持ちがよくわかります。」

おそらく昔話まで持ち出したのではないでしょうか。

 

政子は、実力も地位もない流人だった頼朝と恋に落ち、親の反対を無視して、二人は駆け落ち同然で夫婦となったのですから…。

 

 

考えてみると、静も、政子も、義経、頼朝が成功したから惹かれたのではなく、生身の義経、頼朝を愛したのですねニコニコ

 

 

特に、静には、“白拍子” という職業に対するプライドがありました。

そして、義経に養われているのでなく、自立した女性として、義経を愛し、義経から愛されたという、自負があったでしょう。

 

 

ただ外見が美しくて、男性から守ってもらうのではなく、自立した女性としての自信と誇りが、内面の美しさを醸し出していたのではないでしょうかラブラブ

 

そして静の凛とした美しさが、その後の美しき日本女性の一つの原型になった気がするのですニコニコ

 

静は、その後、鎌倉で義経の子を出産しますが、生まれた子どもが男の子だったために、すぐに殺されてしまいます。

 

 

傷心の静は、鎌倉をあとにし、生まれ故郷の京に向かったと言われていますが、その後の静の人生は、歴史の表舞台から消え、日本各地に伝承だけが残されています。

 

 

彼女の恋人である義経も、その死後、多くの伝説が生まれましたが、

静も、義経に負けないくらい、後世の人々から愛されたのです♡

 

 

それは、彼女の人生がドラマティックだからという理由だけでなく、彼女が女性としての魅力に溢れていたからだと思いますニコニコ


準備中です
暫くおまちください

島津 重豪(しまづ しげひさ)
重豪じいしゃんの歴史への貢献

(2009年11月20日のブログ記事より)

 

以前、わたしの中での大ヒット No.1 のスーパーじいちゃん ・ 島津重豪(しげひで)のことを、ひすいこたろうさんにお話ししたら、どうやら重豪じいちゃんは天才コピーライター 兼 大ベストセラー作家のツボにもはまったらしく、ひすいさんがメルマガ“ 名言セラピー ” で重豪じいちゃんの話を配信してくださいました(*^-^*)

 

まだ読んでいらっしゃらない方は、ぜひお読みくださいニコニコ

 

こんな濃ゆい人物が歴史の中に埋もれていたんだぁ…と、驚かされると思いますよ。

 

ひすいさんの名言セラピー 『スーパーひでじい』

はこちらをクリックしてくださいね!

 

『スーパーひでじい』 では、島津重豪という洋学好きの大名が、島津斉彬(なりあきら) という幕末きっての名君を育て、さらにその斉彬が西郷さんを見いだし、育てたという話と、重豪じいちゃんの次男が中津藩の奥平家に養子に入り、洋学がさかんになった中津藩に福沢諭吉が誕生したという話をご紹介させていただきました。

 

つまり西郷隆盛と福沢諭吉という2人のスーパーヒーローを生かしきる環境を、

重豪じいちゃんが間接的に整えたのです。

 

今日、再び重豪じいちゃんを話題にしたのは、重豪じいちゃんがつないだもう一つの系譜を知ったからなのです!!

 

重豪じいちゃんの十三男 (ちなみに重豪じいちゃんには26人の子どもがいたそうです) ・ 長溥 (ながひろ) が筑前福岡藩の黒田家を継ぐのですが、

この福岡藩でも、長溥の影響で、ある程度洋学がさかんになりました。

 

この福岡藩の藩士に、永井 青崖 (せいがい) という人がいて、江戸で蘭学塾を開いていました。

 

この永井 青崖が、なんと勝 海舟の師匠だというから驚きです!!!

青年時代の勝 海舟は、昼は島田 虎之助の道場で剣術を習い、夜は永井塾で地理学と兵学を習いました。

 

その際、家が貧しかった海舟は、日蘭辞書 「ヅーフハルマ」 を2部筆写し、1部を売って学費に充てた話は有名です。

 

そして、海舟に洋学を勧めたのは、剣術の師匠である島田 虎之助ですが、この人は中津藩士なのです。

 

一介の剣客にすぎない虎之助が、洋学の重要性を知っていたのは、当時の中津藩に洋学を重んじる気風があったからでしょう。

 

このように考えると、重豪じいちゃんが整えた環境が、勝 海舟を歴史の表舞台に押し出したのですね…重豪じいちゃん、恐るべしですニコニコ

 

歴史って、出来事を中心に考えると、あまりおもしろくありませんが、人と人とのつながりをたどっていくと、どんどん興味がわいてきます。

 

人との出逢いに触発されて人生が切り開かれていくことを、歴史は物語ってくれます。


準備中です
暫くおまちください

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
あこがれの人♪

(2010年6月6日のブログ記事より)

 

ワクワクブックコンサルタントのときちゃんオススメの本 ・『渋沢栄一の「士魂商才」』 を読み始めました。

 

日本の資本主義の原点に立つ渋沢栄一の足跡を、彼の名言をもとに辿った名著ですラブラブ

 

 

経済的な成功と心の幸せを両立させる考え方、わたしも大好きで、素直に憧れますニコニコ

 

考えてみれば、“経済” は 「経世済民」 (=世を治め、民を救う) のことですから、道徳や人生哲学と切っても切り離せないんですよね。

 

さてさて…渋沢栄一以来、カリスマ経営者を挙げたら枚挙に遑 (いとま)がありませんが、彼らの多くは、人間的にも本当に素晴らしいですよねニコニコ

 

彼らの講演を聞いて、その後の懇親会に参加すると、わたしのような一介の主婦に対しても、とてもフランクに話しかけてくださり、いつも感動します。

 

でも、ふと考えてしまうんです。

 

もし、わたしがこの経営者の会社の社員なら、こんなふうにフランクに話しかけてくれるのかな…って。

 

 

人間って、自分と直接関係のない人には、オープンにできても、自分が頂点に立つ秩序の中では、なかなかそんなふうにはいかないのではないかと思います。

 

例えば、先日の 『龍馬伝』 に登場した越前の松平春嶽公。

 

彼は、土佐藩を脱藩した一介の浪人である龍馬に対して、まるで友だちのように振る舞い、いかにも話のわかる名君という感じですよね。

 

でも、もし龍馬が越前藩の下級藩士だったとしたら、あるいは脱藩したのが土佐藩でなく越前藩だったとしたら、あんなふうにはいかなかったんじゃないでしょうか?

 

 

人は、自分が秩序の頂点に立つ時、その秩序を維持するために、人に対して厳しく当たるものなのではないかと思うんですよね。

 

こう考えると、ある人の素晴らしさ、器の大きさをあらためて実感します。

 

「ある人」 というのは、わたしが憧れてやまない、幕末の薩摩藩主 ・島津斉彬です!!

 

 

斉彬は、少年の頃から英名の誉れが高く、国許の薩摩では、下級武士に至るまで藩士全員が、彼が藩主となる日を待ち望みます。

 

もしかしたら、彼が家督を継ぐのを待ち望んでいた人は、薩摩藩士だけでなく、日本の至る所にいたかもしれません。

 

 

江戸時代 “三百諸侯” と言われていますが、これだけの数の大名の中で、

新しい時代を切り開いていける叡智と胆力を身につけているのは、斉彬をおいて他にない…というぐらいの期待を集めていたからです。

 

 

斉彬が満を持して歴史に登場したのは、ペリー来航を2年後に控えた嘉永4 (1851) 年のことでした。

 

 

地元 ・ 薩摩は、斉彬の藩主就任に沸き立ちました。

その狂喜乱舞した藩士の一人が、維新の元勲 ・ 西郷隆盛です。

 

斉彬は、藩政に対する意見があれば、遠慮なく申し出るように、藩士たちに伝えました。

 

そこで、西郷さんは、農政についての意見書をせっせと書いて提出したのですが、

その意見書が斉彬の目に止まります。

 

ペリー来航の翌年に当たる安政元 (1854) 年、、斉彬は参勤交代で江戸に向かいましたが、その江戸行きのメンバーに、下級武士だった西郷さんを抜擢したのです。

 

斉彬が、西郷さんのために用意したのは “御庭方役”。

身分は低いのですが、殿様である斉彬のお側近くに常に仕えることができます。

 

普通、藩士が殿様に目通りするには、面倒な手続きを要するのですが、お庭番なら、斉彬がふすまを開けさえすれば、すぐに西郷さんを呼び寄せることができるのです。

 

江戸での斉彬は、来る日も来る日も、西郷さんに、いまの日本が置かれている

立場や世界情勢、政治のこと、経済のことを語って聞かせました。

 

二人の姿は、殿様と家臣というより、まるで師弟関係のようだったんじゃないかしら。

 

自藩の取るに足らない下級武士だった西郷さんを見いだし、身分の差を越えて西郷さんを志士として自らが育て上げたことは

彼の世界観が当時の日本人の常識を超えた奇跡であったのと同じように、

身分制度でがんじがらめだった当時にあって、奇跡に近いことだったのではないでしょうか?

 

二人の関係は、まるで 『釣りバカ日誌』 のハマちゃんとスーさんのようです(*^-^*)

 

ただし、二人が毎日語り合った内容は、ハマちゃん&スーさんのように他愛のない話題ではなく、将軍継嗣問題や篤姫の輿入れなどを含む、かなりきわどい会話だったに違いありませんが…。

 

斉彬は、藩主に就任してわずか7年で急死してしまいましたから、政治家として、あるいは実業家として、まだまだ十分に評価されていない面が多いと思います。

 

中でも、彼の実績以上に、組織や秩序の中での彼の振る舞い方を、斉彬が名君である理由の一つとして、伝えていきたいと思っています。

 

斉彬こそ、粋でカッコいい大人の代表であり、わたしの永遠の憧れの人ですニコニコ


「お母さん」の語源は「太陽」だった!

(2010年11月30日のブログ記事より)

前回は、「日の本」 という国名と日の丸の由来をお話ししました。

 

日の本ぼ国=大和の国は、“和” を大事にし、その中から感謝の心を育み、いつも 「おかげさま」 と、何者かに感謝してきた、感謝の国ですニコニコ

 

感謝の対象の No.1 は、太陽ラブラブ

 

日本人は、太陽こそが、私たちの命の源であると感謝し、そのことを

国名にし、そして、「日本の将来が、輝く太陽のようであるように…」

という想いが、日の丸には込められています。

 

日本人が、感謝をしたのは、太陽だけではありません。

 

土地に、海に、山に…大自然に神々が宿っていると考え、自然を尊崇し、慈しみ、自然との共生をはかってきました。

 

太陽、自然、その次に日本人が感謝したのは、命をリレーしてくれた両親、そしてご先祖様です。

 

その中でも、「お母さん」 の存在は格別…ラブラブ

 

「お母さん」 のことを、古くは 「おカミさん」 「カカさま」 と呼びましたが、

「か」 とは 「カッカッ」 が転じたもので、太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。

 

つまり 「か」 とは 「日=太陽」 のこと、「カミさん」 とは 「日身さん」 と書き、「太陽の身体」 を意味していたのです。

 

いつも明るくて、温かいお母さんは、まるで太陽のよう…ラブラブ

実際に、私たちを生み、育ててくれるお母さんは、命の源である太陽と同じですニコニコ

 

千年以上も前から、日本人はお母さんを 「太陽さん」 と呼び続けているという事実、その叡智には驚かされますね!!

 

ちなみに、「日身(カミ)」 とは太陽の身体、太陽の生命という意味で、

狭い意味ではお母さんを指しますが、広い意味では、太陽から命をいただいている私たち一人一人が 「日身」 です。

 

そして、人間を指す 「日身」 という言葉が、「神」 と同じ音だということも、偶然ではなさそうですね。

 

「日の本の人」 である私たち。

 

太陽との親和力をなくさないように、いつも太陽に感謝して、太陽のように丸く、明るく、みんな仲良くやろう…それが日本人の原点ですニコニコ

 

参考文献 : 境野勝悟著  『日本のこころの教育』  (致知出版)


薩摩の奇跡!

(2012年5月2日のブログ記事より)

 

幕末から明治にかけて、薩摩藩が政治面をリードしたのは、皆さんご存知の通りですが、さらにこの時期、薩摩藩は、科学技術の分野でも、主導的な役割を果たしました。

 

日本の近代化に大きく貢献した、東洋初の洋式工場群。

今日は、それらがどのようにして出来たのかをお話ししましょうニコニコ

 

1853年にペリーが来航すると、徳川幕府は、開国を選択しました。

そして、外国人を雇い、西洋の技術を積極的に取り入れ、洋式化していったのです。

 

それは何のためかと言えば、ひとえに、徳川家の温存のためでした。

ですから、幕府は、自分たちの組織は洋式化していったのに、諸藩には引き続き鎖国 を強いて、外国とのつきあいを認めようとしなかったのです。

 

当時の薩摩藩主は、「徳川三百年の頭脳」 とまで言われた、開明派の名君・島津 斉彬 (なりあきら) でした。

彼は、日本の置かれた状況を考え、その未来のために、洋式化の必要性を強く感じ、すでに洋式工場群の建設に着手していました。

 

けれども、前述のとおり、幕府は諸藩に対して鎖国を強要しているわけですから、外国人を雇うわけにいきません。

 

では、どうやって外国人の手を借りずに、見たこともない洋式工場をつくることができたのでしょうか?

 

 

斉彬は、まず、長崎からオランダ語で書かれた技術書を取り寄せました。

そして、語学ができる家臣たちに説明と図解を読ませることで、洋式工場群の建設に着手していったのです。

 

でも、考えてみてください!!

 

欧米は、産業革命を経験しています。

それに対し、日本は、まだ手工業の域を出ていません。

 

たとえ言語を理解することはできても、見たことも聞いたこともないものをつくることが、どれほど難しいか…。

 

しかも、オランダ語の書物には、産業革命によって生まれた新しい技術や材質も出ているはずですから、概念のないものを理解し、つくらなければいけないのです(>し<)

 

これが出来たら、まさに “奇跡” でしょう!!

 

この奇跡を、薩摩藩は見事に成し遂げたのです!!

 

どうやって…!?

 

彼らは、書物から得た新しい知識と、自分たちが従来持っていた既存の技術を融合させるという、世界でも類を見ない、大変ユニークな方法をとったのです。

 

例えば、鉄の精錬に欠かせない反射炉。

その対火煉瓦は、薩摩焼の陶工が天草の土で焼き上げたと言われています。

 

九州には、有田焼をはじめ優れた焼き物が多いですから、その技術を応用したんですね!!!

 

私が幼い頃は、日本の経済成長をやっかんで 「日本人にはオリジナリティーがない。日本人は猿マネしかできない。」 なんて、日本人をバカにする外国人が多かったのですが、これほどのオリジナリティーは、世界中をくまなく探しても、そうそう見つかりませんよねニコニコ

 

しかも、斉彬は、苦労してつくった洋式工場群に、諸藩の人々を招き、薩摩藩の技術を公開し、それぞれの藩に帰って同様の洋式工場をつくるように提案しています。

 

つまり、斉彬は、島津家の安泰のためではなく、日本の未来のために心をくだいていたのですニコニコ

 

150年以上経っても、斉彬の志は、鹿児島に息づいているんでしょうね。

 

鹿児島を訪れると、不思議と、日常生活を離れて、日本という国のことを考えてしまうのは、斉彬の想いが、鹿児島の空気に溶け込んでいるからとしか思えないんです。

 

あの司馬 遼太郎さんも、「なぜか鹿児島を訪れると、日本の来し方、行く末を考えてしまう」 とおっしゃっています。

 

私たちも、150年の時を超えて、斉彬から志のタスキを受け取りませんか?


準備中です
暫くおまちください

島津 義弘(しまづ よしひろ)

覚悟が人生を切り開く

(2009年9月11日のブログ記事より)

 

前回は、諭吉さんのたのもしさを伝えるために、江戸城の無血開城の話をしましたが、今回は、こちらを主役にして、なぜこのような格調の高い輝かしいドラマが演じられたのかを考えてみたいと思います。

 

(わたしが勝手に選ぶ日本史名場面ランキングの上位に位置する出来事なので、熱く語らせていただきますねニコニコ

 

“ 江戸城の無血開城 ” というドラマは、両軍の代表が、西郷隆盛と勝海舟というキャスティングだったからこそ、成し遂げられたと思うのですが、会談がうまくいった理由として、わたしは次の三つを挙げたいと思います。

 

まず一つ目の理由は、西郷さんと勝海舟は、もともと旧知の仲で、会談の前にすでに信頼関係が出来上がっていたということ、二つ目の理由は、西郷さんの人間の大きさとそれを育んだ薩摩の風土、そして三つ目の理由は、勝海舟の覚悟です。

 

 

幕末に相次いで日本を訪れた欧米列強のうち、旧幕府側をフランスが後押しし、新政府側はイギリスが援助していましたが、海舟は、まず英国公使のパークスを使って、新政府側に圧力をかけさせました。

 

そしてさらに交渉が完全に決裂した時は、江戸の民衆を千葉に避難させた上、

新政府軍を江戸の町に誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところに、

ゲリラ的掃討戦を仕掛けて、江戸の町もろとも新政府軍を殲滅させるという、

焦土作戦を考案していたのです。

 

この作戦を実施するにあたって、江戸火消し衆 「を組」 の頭であり、親交のあった新門辰五郎に、大量の火薬の準備と市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には、江戸とその周辺地域の船をかたっぱしから調達し、避難民のために食料を確保するなど、準備を進めました。

また、慶喜の身柄は、横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていたそうです。

 

この計画は海舟が後年語った話であり、彼はオーバートークが得意なので、どこまでが真実か疑問ですが、西郷さんとの談判に臨むにあたって、

「これだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じた」 と回顧しています。

 

実はこの話によく似た史実が、関ヶ原の時にもありました。

 

西軍にいながら、一発の弾も撃たずに傍観した毛利氏や長曽我部氏。

彼らが戦わなかったから、家康は関ヶ原で勝利を収め、天下を手中にできたのですが、

戦後の処置は、彼らにとってひじょうに苛酷なものでした。

毛利氏は領地を 約 1/3 に削られ、長曽我部氏にいたっては、お家取り潰し。

 

彼らは傍観していただけでもこれほどの仕打ちを受けたのに、東軍の武将たちに多大な損害を与えながら、なんと領地を安堵された西軍の武将がいるのです。

 

それは、島津義弘。

 

関ヶ原の戦いが起こる直前、義弘はたまたま大坂にいたので、なりゆき上、島津軍は西軍に加担することになりました。

けれども義弘は、意思統一がなされていない西軍の内情を知ると、早くも 『負け』 を感じ取ったのでしょう。

関ヶ原の開幕から終幕まで6時間の間、島津軍は一発も弾を撃つことはありませんでした。

 

戦いが終わって、島津軍は退却しなければなりません。

けれども、敵の中で孤立した島津軍には、退き口がありませんでした。

この時、名将・島津義弘は、家康に対して、壮絶な退却戦を挑んだのです。

 

西軍の将士たちが敵に背を向けて退却する中、なんと、島津軍は前に向かって退却を始めました。

この敵陣の中央を突破するという前代未聞の退却は、後世 『島津の退き口』として有名になりました。

 

もちろん、東軍も指をくわえて見ていたわけでなく、総がかりで島津軍に襲いかかります。

島津軍は、大将の義弘ただ一人を生きて薩摩に帰すべく、全員が決死の覚悟で戦いました。

そして、兵士たちが次々に討ち死にする中、ついに敵中突破が成功し、義弘が伊勢路の山中

を駆け抜けて大坂にたどり着いた時、1000名の兵士が、80人になっていたと言われています。

 

結果としては、西軍参加の主要な大名のうち、所領を守り切ったのは島津氏のみでした。

義弘は、本国に逃げ帰るや、国境の要所要所に防塞をきずき、農民まで動員して戦備に従事させ、国を挙げて決戦の態勢をとりました。

こうして天下を向こうにまわした戦の準備をしつつ、重臣を伏見に派遣し、家康との折衝に当たらせたのです。

 

もし島津氏が、毛利氏や長曽我部氏のように、関ヶ原でただひたすら潰走し、

戦後処置で謝罪を繰り返すだけだったら、家康は島津氏を取り潰したか、大幅に領地を削ったでしょう。

けれども、島津氏は、退却戦ながら関ヶ原の戦場を前へ縦断し、1000人が80人になるまで奮戦したのです。

もしこの交渉が決裂し、天下の大軍が薩摩に攻めてきた場合、関ヶ原で証明した薩摩隼人の勇気を、再び天下に示そうというのですから、さすがの家康も困惑しました。

 

そして二年半にわたる粘り強い交渉の末、ついに島津家の所領は安堵されたのです。

 

勝海舟と島津義弘…絶体絶命のピンチを救ったのは、彼らの “ 覚悟 ” でした。

 

問題が起きたとき、「どういう行動をとるか」 という選択も大事ですが、それ以上に、

“覚悟” が、人生を切り開くのだと思います!


オーラにノックアウトされました!

(2012年6月19日のブログ記事より)

 

台風の接近で不安な夜を過ごされている方も多いと思います。

どうか無事に台風が抜けていきますように…。

 

今日は、昨夜の衝撃的な出来事からご紹介しますね。

 

熊本の玉名温泉で、友人がホテルを経営しているのですが、なんとそこで美輪明宏さんのディナーショーが開催されました♪

 

美輪さんのオーラは、それはそれは素晴らしかったのですが、会場には、斉藤一人さんの一番弟子の柴村恵美子さんや山崎拓巳さん、北九州のゴッドマザー・八千代姐さんもいらしていて、なんと私は、この大御所たちと同じテーブルだったんですよ!!!

 

ステージもキラキラ、目の前もキラキラで、あまりのオーラにノックアウトされました(*^-^*)

 

美輪さんは77歳。

トークの時は、少し息があがっていましたが、歌が始まると、声量も音域も素晴らしくて、まるで別人のようでした。

 

しかも、表情や体全体で歌の世界を表現していて、歌を聞いているというよりも、まるで映画を見ているよう♡

 

「プロ意識」 と呼ぶのが安易に感じられ、はばかられるほど…。

 

美輪さんを見ていたら、大好きな戦国武将の島津義弘のことを思い出しちゃいました。

 

義弘は、戦国最強の武将で、九州だけでなく、朝鮮の陣や関ヶ原でも、猛将ぶりは語り草になっています。

 

 

その義弘が、晩年、体調を崩した上に痴呆が進み、食事もままならない状態だったのですが、家臣が戦の時のように法螺貝を吹くと、その時ばかりはシャキッとして、誰の助けも借りずに食事をモリモリ食べていたそうです。

 


美輪さんや義弘のように、「これがあればいつどんな時でもスイッチONいなる」 というものを持っていると、強いですね~(*^-^*)

 

さてさて、今年の7月は、私にとって記念すべき月になります!!!

心から信頼する友だちと、起業することになりました。

 

もちろん結婚コンサルタント マゼンダの方も、今までと同じように活動し、婚活を支援していきますが、今やっている歴史講座や執筆にももっと力を入れ、日本の歴史や文化、日本人の精神性を国内外に発信していきたいと思っています。

 

会社の名前は 「ことほぎ」 です。

「ことほぐ」 って、「寿ぐ」 と書きますが、「言葉で愛でる」 ことを 「ことほぐ」 と言うんですね。

私の大好きな言葉です。

 

土地や人をことほぐことで、愛に溢れていけばいいなぁ~♡

ことほぎ設立を、一人でも多くの方にお祝いしていただけたら嬉しいです♪♪


準備中です
暫くおまちください

ジョン万次郎(じょんまんじろう)

帰国後のジョン万次郎

(2009年9月2日のブログ記事より)

今日の ひすいこたろうサンの PC版メルマガ “ 名言セラピー ” は、

ジョン万次郎の漂流中の苦労話やアメリカ滞在中のエピソードが紹介されれいて、とっても感動しました ♪♪

一番心をうたれたのは、漂流中の万次郎を救助してくれたアメリカの捕鯨船の船長 ・ ウィリアム・H・ホィットフィールドと万次郎との絆です。

 

14歳の万次郎を本国に連れ帰ったホィットフィールド船長は、まるでわが子のように万次郎をかわいがり、教育を受けさせました。

 

ところが、ある日、自分の所属する教会に万次郎を連れて行くと、

その教会は 「白人ではない」 ことを理由に万次郎を受け入れてくれません。

すると船長は、その教会と絶縁し、日本人である万次郎を受け入れてくれる教会に宗旨変えをしたのです。

アメリカ人が、異国の少年のために宗旨変えをする…これがどれほど大きな意味のあることか、宗教観の違う私たちにはイメージできないと思います。

この一事をもってしても、この船長が万次郎に対して溢れんばかりの愛情を注いでいたことがわかります。

また万次郎も、それだけ愛されるに値する、才気煥発でかわいげのある少年だったのでしょう。

 

この万次郎が、漂流から11年10ヵ月の歳月を経て、日本に帰国します。

 

嘉永4(1851)年、25歳の時に薩摩藩領の琉球に上陸、番所で尋問を受けた後に、薩摩本土に送られました。

当時の日本はペリー来航の直前、まだ鎖国政策がとられていました。

ですから、海外から帰国した万次郎たちは、薩摩藩や江戸幕府の
長崎奉行所などで長期間にわたり尋問を受けましたが、その際に、薩摩藩主・島津斉彬が彼の英語・造船知識に注目したのです。

 

この縁で、万次郎はしばらく薩摩に身を寄せます。

斉彬は、優秀な家臣を選抜し、万次郎から彼の知るかぎりの航海術・船舶知識を吸収させるのですが、この経験が生かされ、数年後に薩摩藩は、日本初の国産蒸気船の製造に成功するのです。

 

万次郎が日本に上陸してから1年9ヵ月後、土佐の母親と感動の
再会を果たしました。

 

土佐では、絵師・河田小龍が万次郎と寝起きを共にして、万次郎から英語を教わりながら、少しずつ西洋事情を聞き書きしていきました。

 

そして、この話は小龍から龍馬に語り継がれました。

商人の血をひく龍馬は、合理的なアメリカの考え方に感動します。

龍馬は、勝海舟から異国のことを学んだと思われがちですが、 実は、土佐にいた頃から、小龍によって、多くの異国事情を知らされていたのです。

 

おそらく、アメリカの株式会社のことも聞いていたに違いありません。

この時の知識と感動が、亀山社中という日本初の総合商社を生み出したのだと思います。

また、“五ヵ条の御誓文” のもとになったと伝えられている龍馬の “船中八策”には、

「上・下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」 と書かれています。

日本から出たことがない竜馬が、このような自由で民主的な国家の青写真を持っていたというのは、奇跡と言うほかありませんが、これも、小龍を経由して、万次郎から竜馬に受け継がれた遺産と言えるかもしれません。

 

万延元(1860)年、万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとサンフランシスコに咸臨丸で渡り、再びアメリカの土を踏みます。

その時に、万次郎が咸臨丸一行に薦めた本が、ウェブスター辞典です。

これが、のちに 「学問のススメ」 の基礎になったと言われています。

…というわけで、万次郎がまいた種は、さまざまな人を介して、明治維新という大きな流れの中で花開いていきました。

 

薩摩の技術力、竜馬の日本人離れした柔軟で壮大な発想、福沢諭吉の大ベストセラー 『学問のススメ』 …そのすべてのきっかけをもたらしたのは万次郎です。

万次郎が歴史上に登場しなければ、日本史はまったく違うものになっていたかもしれません。

わたしたちは万次郎に深く感謝しないといけませんね。

最後に…万次郎にまつわるエピソードを3つご紹介します。

咸臨丸で第二の故郷・アメリカの土を再び踏んだ万次郎は、たった一泊でしたが、

恩人・ホィットフィールド船長のもとを訪ね、再会を果たしています。

この時、二人がどんな話をしたのか、想像するだけで胸が熱くなります。

 

明治維新後、万次郎は開成学校(東京大学の前身)の教授になりました。

貧しい家に生まれ、寺子屋にも通えずに文字の読み書きができなかった万次郎が、漂流の果てにアメリカの文化に触れ、才能を開花させ、日本史を大きく転換させる役割を担った上に、開成学校の教授にまで上りつめたというのは、人生の機微を感じずにはいられません。

万次郎は、神様によほど愛される何かを持っていたのでしょうか。

ジョン万次郎の功績は、日本以上にアメリカで高く評価されているようです。

アメリカの第30代大統領・クーリッジは、「万次郎の帰国はアメリカが最初に大使を日本に送ったに等しい」 と語り、アメリカ建国200年(1976年)の時には、ワシントンのスミソニアン研究所が催した 『海外からの米国訪問者展』 で、世界中からアメリカを
訪れた偉人として、わずか29人の中に、万次郎が選ばれました。

わたしが感じる明治維新の魅力…それは、人と人とのつながりですラブラブ

あれだけ志が高くあれだけ能力を備えた者たちが、縦糸・横糸が複雑に絡み合ってみんなつながっているんですニコニコ

携帯電話がなかったあの時代に、これだけユニークな人材が同時期に生き、しかもみんなつながっていた…というのが、奇跡にしか思えないんですねニコニコ

第二の明治維新と言われている今、きっと神様は、私たち一人一人の出番を歴史の中に用意してくれているはずです ♪


準備中です
暫くおまちください

白石 正一郎(しらいし しょういちろう)
歴史の表舞台♪

(2010年5月22日のブログ記事より)

近ごろ、カッコいい大人が増えたなぁ~と思いますニコニコ

 

ヤル気や才能のある若者に手を差し伸べ、

その若者から 「いつか必ず恩返ししますから。」 と言われても、

「恩返しはいいから、将来、君のような若者に出逢ったら、その若者を助けてあげなさい。」 と、

 

“恩返し” ならぬ

次代への “恩送り” を提案する…ニコニコ

 

そんなカッコいい大人の話を、たびたび耳にします。

日本も捨てたもんじゃないなぁ~と思うんですよね。

 

サラッとこともなげに助けてくれる大人、

そのことに心から感謝して、恩送りはもちろん、きちっと恩返しをする若者…

 

お互いの心が響き合って、なんて粋で素敵な関係なんでしょラブラブ

 

そんな大人と若者は、幕末や明治の頃にもたくさんいました。

 

明治維新は、下級武士が中心となって歴史を動かしたのですが、

理念や情熱だけでは、到底彼らの活動は続かないはずです。

 

すでに貨幣経済が浸透していたわけですから、志士たちの活動資金を支える存在が必要でした。

 

そんな粋な大人の代表は、下関の豪商 ・ 白石正一郎です。

 

高杉晋作や伊藤博文など、地元 ・ 長州の志士たちはもちろんのこと、西郷隆盛や坂本龍馬など、他藩の志士たちの面倒も何くれとなくみてやりました。

 

正一郎が援助した志士の数は、実に400人に及ぶと言われています。

 

中でも、彼と高杉晋作との縁はひときわ深く、晋作が騎兵隊を結成した時に本拠にしたのが白石邸なら、幕末 ・ 維新史を大きく回天させたと言われる功山寺挙兵 (わずか84人で挙兵し、晋作が藩内クーデターに成功、長州藩の藩論が一気に倒幕に統一されました) も、

彼の尽力があったればこそ…。

 

晋作の偉業の陰には、常に正二郎という最大の理解者の姿があったのです。

 

さらに晋作が結核を患い、数え年29歳の若さで亡くなった時に、葬儀委員長を務めたのも正一郎でした。

 

でも…考えてもみてください!!!

 

いくら豪商とはいえ、400人もの志士たちの面倒をみたんですよ!!!

 

そうなんです!!

明治維新を資金面から支えた白石家は、志士たちを援助しすぎて、破産してしまうんですよ( ;∀;)

 

それでも、彼は本望だったに違いありません。

 

白石正一郎は、明治13 (1880) 年、69歳で、波乱に富んだ人生の幕を静かに閉じましたが、明治政府の要人たちに対して、何一つ要求することはなかったのです。

 

けっして歴史の表舞台には出てきませんが、主役となる男たちの活躍も、

(“history” とは、“his story” のことですからね)

彼のように経済面で支える存在や、精神面を支える女性たちがいて、

初めて現実のものとなる…

歴史って、本当は、無名の脇役たちの手でつくられるものかもしれませんね。

 

次回は、わたしが最も感動した “感謝の恩送り” の話を書かせて

いただきますねニコニコ

 

大人も若者も輝いたその瞬間を、ぜひ皆さまとシェアしたいですラブラブ


準備中です
暫くおまちください

千利休(せんのりきゅう)

風雅を極めた千利休も、その昔は堺の商人だった♪

(2010年2月4日のブログ記事より)

 

アメブロから、素敵な賞をいただきましたニコニコ

このブログを読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!!!

 

 

一年前は、ブログを書くことがプレッシャーで、何かネタはないかと毎日探していて、いつも何かに追い立てられているような感じでした( ;∀;)

 

 

それが、今では、毎日書きたいことが溢れてきて…♡

 

 

どうしてこんな変化が起きたのかというと、きっかけが3つあります。

 

 

まず一つめのきっかけ。

 

それはちょうど一年前。

 

 

大分 ・ 中津で “陽なた家” というとっても素敵なたこ焼き屋さん(実はウェディングホールも兼ねている本当に素敵なお店です♡) を経営しているシゲちゃんが、神奈川在住の偉大な東洋思想家 ・境野 勝悟 (かつのり) 先生の寺子屋に参加しないかと、誘ってくれたんです。

 

 

境野先生は、神奈川の栄光学園という、毎年何十人も現役で東大に合格する超進学校の国語の先生を18年間務めた方で、栄光学園を辞められてからは、ご自宅で “道塾 (どうじゅく)” という学びの場を主宰なさっています。

 

 

境野先生の教え子は、そうそうたる顔触れで、私ごときが望んでも、先生の教えを直接受けることなんて、今世はもちろん来世でもあり得ない…というぐらい、雲の上のお方( *´艸`)

 

 

こんなチャンスをポンと気前よく分けてくれるシゲちゃん、凄すぎ!!!

 

 

でも、でも…

 

う~ん、平日に泊まりがけかぁ…(>し<)

 

子育て真っ最中の主婦にとっては、厳しすぎる…(>し<)

 

それでもなおあきらめきれない私は、シゲちゃんへの返事を保留にしてもらって、秘かに毎日、近所の神社に参拝しました。

 

「神さま、もしわたしが境野先生の寺子屋に行くことで、世の中の役に立つのだとしたら、どうか行かせてください。

もし自分一人の幸せにしかならないのなら、その時は、諦めますから、遠慮なさらずに無理だとおっしゃってください。」

 

 

そしてシゲちゃんへの返事のタイムリミットが迫ったある日…

 

奇跡が起こりました↑

 

保育園の保母さんをしていて、結婚しているけど子どもがいない

…という女性と、仲良くなったのですラブラブ

 

実は以前から彼女のことは知っていました。

でも、親しく話すのは、その時が初めてだったんです。

 

恐る恐るきいてみました。

 

「実はわたし、2~3ヵ月に一度、神奈川に行って勉強したいことがあるんだけど、わたしが留守の間、子どもたちの面倒をみてくれないかしら? もちろんバイト代はきちんとお支払いするから。」

 

彼女、根っから子どもが大好きで、拍子抜けするほどあっさりベビーシッターを引き受けてくれたんですニコニコ

 

神さまが、願いを聞き届けてくれたとしか思えませんでした。

 

いよいよシゲちゃんを塾長にして、 “無二青年塾” 開講!!!

 

第一回の無二青年塾のテーマは、千利休でした。

 

 

風雅を極め、侘び ・ 寂びの境地を見事に表現した千利休は、わたしの憧れの一人でした。

 

でも、わたしには、利休や日本人の心や感性を語る資格はないと思っていたのです。

 

なぜかというと、日本人の心の根幹には、“自然との共生” があると思うのですが、わたしは都会っ子の典型で、自然の中で生きることなんて絶対に無理、そんなわたしが、日本人の心や感性を語ったら、ウソっぽくなってしまうからです。

 

だから、古典や歴史がずっと好きで、日本人の心や感性に惹かれていても、それを誰かに語ることなどあり得なかったのです。

 

ところが、第一回無二青年塾で境野先生がおっしゃったことが、固い殻を破ってくれました。

 

先生は、こうおっしゃいました。

 

「シゲさんは飲食店を経営しているから、そのシゲさんに呼ばれた皆さんも、商売をしている人が多いのでしょう?

皆さん、大いに商売に励んで、ガンガンお金を稼いでくださいよ。

千利休もね、もとは堺の商人だったんですから。

あの人は、商売も上手だったんですよ。

都会に住んでいたって、利休のように、感性を磨き、大自然に寄り添い、自然と一体感を感じることはできる。

皆さんは商売にいそしみながら、日本の文化を、心を、伝えていってくださいよ。」

 

もう感動して、このひとことを聞けただけで、はるばる福岡から出てきた甲斐があったと思いましたニコニコ

 

この先生のひとことがなければ、わたしは自分の好きな話を今もできないまま、恐怖のブログの更新に、日々頭を抱えていたに違いありません。

 

というわけで、今では自分のことを棚に上げ、日本人の心と感性を、大好きな歴史や文学を通じてお伝えしていくことに、無上の喜びを感じていますニコニコ

 

このブログを読んでくださっている皆さま、これからも宜しくお願いいたしますラブラブ

 

第二 ・ 第三のきっかけは、また次の機会にお話ししますね♪


準備中です
暫くおまちください

高杉 晋作(たかすぎ しんさく)

奇兵隊内閣

(2010年6月9日のブログ記事より)

 

『龍馬伝』 は、土佐勤皇党が崩壊の危機ですね。

 

長州藩は、土佐藩と違って、終始倒幕路線 (倒幕派を “正義派” と呼びます)だったように思われていますが

実は、長州藩でも、一時期、幕府恭順派(“俗論派” と言われます) が藩政を握っていた時期があります。

 

 

長州藩は、はじめ、幕末の政局をリードしていましたが、薩摩藩と会津藩が主導した文久3 (1863) 年の八月十八日の政変で失脚し、次いで、池田屋事件、蛤御門 (はまぐりごもん) の変と続き、多くの志士を失った上に、“朝敵” とされてしまいます。

 

その後、四ヵ国連合艦隊に敗れ、幕府軍による第一次長州征伐を迎え撃つことに…。

長州藩、絶体絶命のピンチ((>し<))))

 

 

この時、高杉晋作は、ひとり主戦論を唱えましたが、政争に敗れ、九州へ亡命。

こうして、さすがの長州藩も、俗論派が藩政を握ったのです。

 

やがて俗論派による正義派の志士たちの弾圧が始まりました。

さらに俗論派は、長州に亡命していた五卿を太宰府に移送することを決定します。

 

 

その企てを知った晋作は、亡命先の九州から急ぎ下関に帰国し、自らが創設した奇兵隊に挙兵を促しました。

 

 

ところが、奇兵隊の実権を握っていた山縣狂介 (後の山縣有朋) には時期尚早と反対されます。

そこで晋作は、奇兵隊以外の諸隊にも呼びかけましたが、期待したような反応は返ってきませんでした。

 

俗論派を討つためとはいえ、藩主に弓を引くことは躊躇されることであり、また圧倒的兵力を有する長州藩正規軍と戦うことは、純粋に恐怖でもあったでしょう。

 

けっきょく晋作とともに立ち上がったのは、伊藤俊輔 (後の伊藤博文) が率いる力士隊ほか、たった80余名でした。

 

晋作は、長府の功山寺に潜居していた五卿に対し、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す!」 と一声叫ぶと、80余名の決起者とともに、月光冴え渡る雪道を進軍したと伝えられます。

 

これが世に言う “功山寺挙兵” です。

 

 

それにしても、考えてもみてください!

正規の長州藩士というのは、1万人いるんです。

それに対して、たった80余名の挙兵、しかもそのほとんどが力士というから、驚きです

 

ところが…

 

晋作率いる反乱軍は、まずは下関で長州藩の奉行所を襲撃、次いで、港のある三田尻で奇襲攻撃をしかけ、藩の軍艦3艇を強奪しました。

 

すると、一度は晋作の誘いを断った諸隊も、反乱軍の活躍を見て次々に同調し始め、兵力はどんどん増えていきました。

 

ついに2000人にも達する規模となり、大田絵堂の戦いを皮切りに、次々に正規軍と交戦し、勝利していったのです。

 

そして約2ヶ月間の戦いの末、クーデターは成功し、正義派が藩政を奪還します。

 

クーデターの立役者である晋作には重席が与えられましたが、「苦楽は共に出来るが、富貴は共に出来ぬ。」 と辞退。

 

後に維新政府の顕官となり、私腹を肥やした人たちとはひと味もふた味も違う、

晋作の志に感動せずにはいられません。

 

この後、坂本龍馬の斡旋で薩長同盟が結ばれ、薩摩 ・ 長州両藩の歴史にとって輝かしい明治維新を迎えることとなるのですが、高杉晋作の無謀とも言える功山寺挙兵がなければ、明治維新という革命が成立したかどうか…。

 

それほどあの挙兵が、歴史の流れを変えたのです!!!

 

ではなぜ、晋作が、あの絶体絶命のピンチで挙兵できたのか。

 

松陰門下の中で、抜群に頭のいい晋作ですから、奇兵隊や諸隊は日和見で、緒戦に自分たちが勝てば、流れが変わるという計算もあったでしょう。

 

けれども、彼の行動を決定づけたのは、師 ・ 吉田松陰の生前の言葉だったと思います。

 

「男子の死に場所はいつか」 と問うた晋作に対し、

 

松陰先生は、「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし。」 と答えたと言われています。

 

晋作は、絶体絶命のピンチだったこの時が、男子の死に場所と思い定めて、命を賭けて挙兵を決行したのでしょう。

 

挙兵決行日は実際には説得や準備に手間取り翌日にずれこんでしまいましたが、

当初は12月14日が挙兵時期に定められていました。

 

12月14日というのは、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日であり、松陰が東北遊学のために危険を冒して脱藩した日でもあります。

 

赤穂浪士や松陰の覚悟を、挙兵する自らの姿に重ね合わせていたのでしょう。

 

ときに、発足したばかりの菅内閣は、“奇兵隊内閣” と銘打っています。

 

菅総理が、山口県出身であるということ、「サラリーマンや自営業に携わっている普通の人たちが暮らしやすい社会を実現したい」 という想い、

 

また、内閣を担当する自分たちが、奇兵隊同様、庶民出身であること…それらのメッセージが込められ、命名されたのでしょう。

 

けれども、“奇兵隊” を名乗るなら、そんな表面的な意味でなく、ぜひ高杉晋作の志と覚悟を見習ってほしいと思います。

 

もちろん、総理だけでなく、私たち一人一人が、晋作の志と覚悟を胸に刻んで、よりよい社会、よりよい人生を築いていきたいですねニコニコ


“愛が生まれる福岡の歴史スポット”第2位!!

(2010年11月14日のブログ記事より)

 

私が第2位に選んだのは、平尾山荘です!!!

 

平尾山荘は、地元 ・ 福岡の人たちにもあまり知られていない歴史スポットなのですが、

実は、この平尾山荘から明治維新が始まった…と言っても

過言ではないのです!!!

 

 

幕末、この平尾山荘に住んでいたのは、女流歌人 ・ 野村望東尼 (「もとに」とも 「ぼうとうに」 とも読みます)。

 

 

彼女は、志士たちから母のように慕われていましたが、とりわけ縁が深かったのが、高杉晋作です。

 

1864年10月…

長州藩といえば、最初から最後まで “倒幕” で一貫していたように思われがちですが、

この時期の長州藩は、幕府の第一次長州征伐を控え、徳川幕府に

恭順しようとする 「俗論派」 が藩政を牛耳っていました。

 

倒幕派 (長州藩では 「正義派」 と言われます) の中心人物だった高杉晋作は、

身の危険を感じ、長州を離れ、関門海峡を渡って福岡にやって来ました。

 

そして、志士たちの母 ・ 野村 望東尼のもとに身を寄せます。

 

 

彼女は快く晋作をかくまいますが、すぐに、晋作が、他の志士たちとは一線を画した、日本を変える男だということに気がつくのです。

 

 

晋作をかくまって10日が経った時…

望東尼は、ついに晋作に 「喝」 を入れます!!!

 

「あなたはこんな所でくすぶっている男じゃないでしょ!!!」 というワケです。

 

目が覚めた晋作は、意を決して、長州に戻るのですが、その朝、望東尼は、

晋作のために自ら縫った着物をプレゼントし、送りだしたと言われていますニコニコ

 

さて、再び関門海峡を越え、下関に戻った晋作は、わずか数十人でクーデターを起こします。

 

世に言う 『功山寺の挙兵』 です。

 

 

わずかな手兵の半分は、「力士隊」。

そうです、軍事訓練を受けたサムライたちでなく、そのへんにいるボーッとした人々 (失礼(>し<)) を率いて、数千に及ぶ藩の正規軍を破ってクーデターを成功させてしまったのですから、

 

晋作恐るべし…です!!!

 

 

そして、この 『功山寺の挙兵』 がターニングポイントとなって、歴史は大きく回天し、明治維新への流れが加速化していったのです!!

 

『功山寺の挙兵』 への流れが、ここ平尾山荘からスタートしたことを考えると、

平尾山荘を 「明治維新発祥の地」 と呼びたくなってきますね♪

 

 

ところで、太宰治の残した名言をご存知でしょうか?

 

「人は、恋と革命のために生まれてきた」

 

 

たった29年の人生で、この生き方を丸ごと実践したのが、高杉晋作ですニコニコ

 

 

彼は、刀やピストルの代わりに三味線と愛人 ・ おうの を小脇に抱え、都々逸(どどいつ) を口ずさみながら、明治維新という革命を起こしたのです。

 

しかも、彼は、長州藩の中でもとても家柄のいい上士なんです。

彼を革命に駆り立てたのは、ハングリー精神でなく、真の愛国心だったのですねラブラブ

 

晋作と望東尼の縁は、1867年に晋作がその短い生涯を閉じるまで続いていきます。

 

病身の晋作を献身的に看護する おうの を精神的に支えたのが、望東尼でした。

 

そして、いよいよ晋作がこの世を去る日…

彼は、「おもしろきこともなき世をおもしろく」 という上の句をつくります。

 

これに対して、望東尼がつけた下の句が、

「棲みなすものは心なりけり」 でした。

 

 

一般に晋作の辞世の句として知られているこの句は、実は、晋作と望東尼の合作だったのですねニコニコ

 

平尾山荘で、恋と革命に生きた晋作に想いを馳せる…

「愛が生まれる福岡の歴史スポット」 として、これほどふさわしい場所はないかもしれませんねラブラブ

 

さてさて…今日は、福岡市長選挙の日。

晋作のようには生きられなくても、せめて選挙で一票を投じるのは、市民としての大切なつとめですね。

 

 

午前中に選挙に行って、夕方4時からは、前原 ・ 古材の森で 歴史講座を開催させていただきます。

 

80名もの方々が聞きに来てくださる予定です。

 

やるべきことや志の大きさは違いますが、今日という一日を大切に思う気持ちは、晋作が平尾山荘をあとにし、功山寺で挙兵した時の気持ちに決してひけをとらないと自負しています。

 

晋作と望東尼の出逢いの地 ・ 福岡での歴史講座…

どうかお集まりくださる皆さまとともに、素敵な時間を過ごせますようにラブラブ


“「高杉晋作、その知られざるエピソード」

(2017年9月21日のブログ記事より)

 

幕末の志士、高杉晋作が長州藩の歩む道を「倒幕」へと決定づけた、功山寺の挙兵。このクーデターの成功が大きな原動力となり、日本の歴史は明治維新へと突き進んでいきます。

 

決起の直前、高杉晋作は幕府に恭順姿勢を見せる長州藩の上層部に命を狙われ、関門海峡を越えて、九州に亡命しました。福岡の有名な女流歌人・野村 望東尼(ぼうとうに/もとに)を慕って、彼女の住まいである平尾山荘を訪ねるのです。

 

平尾山荘は、現在の福岡市中央区平尾という高級住宅街にあり、現在もその面影を残し、一般に開放されています。山荘の隣には資料館もあり、望東尼の人生をたどることもできます。

 

望東尼と晋作は、この時が初対面だったと言われています。

彼女は、一時期、京の都で和歌を学んでいましたが、そこで我が身も省みずに、日本の将来を憂えて国事に奔走する若き志士たちの姿を見て、感動するんですよ。それ以降、九州にやって来る志士たちの世話をして、志士たちの間では、お母さんのように慕われていました。その噂を聞きつけた晋作が、いわばアポなしで平尾山荘を訪ねたんですね。

 

そんな晋作を、望東尼は、何も事情を聞かずに、だまって置いてあげたそうです。晋作は長州藩に追われていたので、「谷 梅之助」という偽名を使いましたが、望東尼は、「いくら梅の花が雪の中に埋もれていても、香りまでは隠すことができない」という意味の和歌を詠むんですね。何百人もの志士たちを見てきた望東尼は、一目で、晋作がただ者ではないと見抜いたんでしょうね。

 

そして彼女が見込んだ晋作は、その後、歴史を動かしていくのです。

 

しばらく、晋作は望東尼の山荘で過ごします。10日ほどたったある日、望東尼は自らが縫い上げた着物を晋作に着せ、「あなたはこんな所でボヤボヤしている男じゃないでしょ! さっさと持ち場に戻りなさい」って、晋作のお尻を叩いたんですね。そうやって望東尼に送り出された晋作は、長州に戻って兵を挙げ、クーデターに成功します。

 

それが、功山寺の挙兵です。

 

禁門の変で、長州藩士とともに京の都を追われた公卿が、長府の功山寺に滞在していたので、晋作は彼らの元へ赴き、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と宣言し、月光さえ渡る雪道を進軍したと伝えられています(個人的に、私はこのシーンを、日本史名場面のトップ5に入れています、笑)。

 

このクーデターの成功から幕末維新史が一気に動いて行くのです。そしてついにあの強大な徳川幕府が倒れるわけですが、歴史のターニングポイントとなった「功山寺の挙兵」が、平尾山荘から始まったということ、意外に福岡の皆さんもご存知ないんですね。

その経緯を知って、誇りに思っていただけたら嬉しいなぁ♪

 

晋作と望東尼の関係は、その後も続いていきます。

 

実は、功山寺の挙兵に際して、晋作はあることを心に誓うんです。それは、「金輪際(こんりんざい)、“困った”という言葉を吐かない」というものでした。その決意があったからこそ、クーデターが成功し、歴史が大きく動いたのだと思いますが、でも、厳密に言うと、晋作はそれ以後、1回だけ「困った」と言ってしまいます。

 

晋作には萩の城下でナンバー1の美人といわれた奥さんがいて、晋作が病に倒れたことを知った奥さんが、一人息子を連れて、下関の晋作のもとを尋ねるんですよ。ところが、晋作の枕元には、恋人のおうのさんが常にいて、看病を続けていたんですね。

 

奥さんと恋人が鉢合わせしてしまい、晋作は困ってしまいます。10万の幕府軍を相手に、勝利をおさめるほど強かった晋作が、二人の女性の間でおろおろするなんて、晋作もかわいいと思いませんか(笑)

 

この時、晋作のピンチを救ったのが、望東尼なんです。二人の女性の間に入り、懸命に説得して、晋作との仲を取り持ったそうです。さらに、晋作は27歳という若さで亡くなりますが、彼の最期を看取ったのも望東尼です。

 

晋作の有名な辞世の句。

 

「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲みなすものは 心なりけり」

 

この歌に関しては、さまざまな説がありますが、一般的には、上の句を晋作自身が、そして下の句を望東尼が詠んだと言われています。

 

 

晋作が27歳で亡くなった時、望東尼は60歳ですから、年齢的には、親子のような関係ですが、私はそれ以上に、国の行く末を憂える同志として、心の深い部分で繋がっていたのではないかと想像しています。

 

 

福岡から車で約1時間、功山寺には何度も訪れていますが、桜、新緑、紅葉…、どの季節も素晴らしいです。私は行ったことがありませんが、おそらく雪の季節も素敵なんでしょうねラブラブ

 

そして、なんと功山寺を訪れると、晋作がが「これより聴取男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と宣言したお部屋にも、入れていただくことができます。晋作の魂が自分に乗り移ったような、不思議で素敵な感覚が味わえますよ!

 

これから旅をしたり歴史を学ぶには最適なシーズンを迎えますね。レンタカーを借りて平尾山荘から功山寺へ~♪ 晋作の気持ちに思いを馳せながらのドライブ、おすすめです! また関門海峡にのぞむ赤間神宮は、晋作を支えた下関の豪商・白石正一郎が晩年に宮司を務めています。

 

ああ~、また皆様をご案内したくなってきました(笑)

今年は新緑の季節にみんなで功山寺を訪れましたが、来年もまたみんなで訪れることができるように、いろいろ企画してまいりますね。

 

みなさま、ごきげんよう~ニコニコ


準備中です
暫くおまちください

武市 半平太(たけいち はんぺいた)
裏技の応用編☆彡

(2010年5月11日のブログ記事より)

 

前回公開した “人のいいところが見えるようになる裏ワザ” を

読んでくださった皆さま、素敵なコメントをたくさんくださって、ありがとうございますラブラブ

 

実はわたし、この裏ワザを、歴史上の人物に対しても実践して

いるんですよ~

 

 

例えば…

 

いま、視聴率も好調で、とかく話題にのぼる 『龍馬伝』。

 

 

福山雅治演じる龍馬は、かわいくて、爽やかで、切なくて、乙女姉さんでなくてもメロメロになりそうなんですが、

その龍馬の引き立て役になってしまっているのが、

土佐勤皇党の領袖 ・ 武市半平太です。

 

岡田以蔵をイケメンの佐藤健クンが演じているせいか、以蔵に人斬りを命じる半平太は、

わたしの知るかぎりでは、評判がすこぶる悪いです。

 

 

龍馬に比べ、「器が小さい」 「神経質」 「融通が利かない」 などとおっしゃる女性が多く、この方々の決めゼリフは 「以蔵がかわいそう」。

 

 

たしかに、身分が低く教養や節操のない以蔵に対する半平太の態度は、彼にますます劣等感を抱かせてしまい、

「リーダーとしてどうよ!?」 と言いたいところはあります。

 

 

以蔵と同じように無学で、人々から “人斬り” と呼ばれ怖れられた薩摩藩の桐野利秋 (当時は中村半次郎と名乗っていていました。後に西南戦争で戦死) が、劣等感を抱くことなく堂々と生き生きと自分の人生を生きたことを思うと、

西郷隆盛と武市半平太という二人の師の性格の違いかなぁ…と思うのですが、で

も、けっして 半平太の器が小さかったとは思えないんですね。

 

 

第一、器の小さな男が、土佐勤皇党を興して、200名近くの男たちを束ねることなんてできないですよね。

 

 

事実、半平太の人物評として、

「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」、「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」

といった言葉が残されていて、爽やかで高潔な人物であったことがわかります。

 

さらに、見た目は色白 ・ 美形 ・ 堂々たる体格(180cm前後)であったと伝えられ、かの有名な 『月形半平太』 のモデルにもなったほどです。

 

 

半平太は剣の腕も一流で、龍馬と同時期に、江戸で剣術修行をしています。

龍馬が修行したのは、千葉定吉道場ですが、

半平太が選んだのは、桃井春蔵道場。

 

師匠の春蔵は、半平太の腕と人物を見込んで、免許皆伝を授けた上、塾頭に指名しました。

 

 

桃井道場は、酒と女に溺れる塾生がいて、風紀が乱れていましたが、塾頭となった半平太が自ら模範を示し、至誠を持って説諭したので、弊風は改まり、塾生の技量も上達したそうです。

 

 

また、後年、半平太は、土佐藩の参政 ・ 吉田東洋暗殺の嫌疑を

かけられ、投獄されますが、罪人であるにもかかわらず、獄吏たちが半平太の人物に傾倒し、敬ったと言われています。

 

このあたりのいきさつは、吉田松陰の場合とよく似ていますねニコニコ

 

そして、「融通が利かない」 「神経質」 という半平太の短所は、

「愛した女性をけっして裏切らない」

という、男としての最大の魅力の一つにも繋がっていますニコニコ

 

武市夫妻には子どもがなく、「跡継ぎがいない」 というのは、当時にあっては、離婚の正当な理由にもなるぐらいの重大事。

 

土佐勤皇党の一人 ・ 吉村寅太郎は、一計を案じ、富子夫人に「子なきは去る」 という女の七去の話をして、一時実家へ帰ってもらい、若くて美しい女性に半平太の世話をさせました。

 

けれども、半平太はこの女性に指一本触れることはなかったそうです。

 

そこで、寅太郎は、別の女性を武市邸に派遣しましたが、これもまた成功しませんでした。

 

それどころか、寅太郎の計画に気づいた半平太は、彼を叱りつけ、すぐに妻を呼び戻したのです。

 

維新の志士たちの多くが、妻以外の女性たちにも支えられていたことを考えると、半平太のように、妻ひとりを心から愛した誠実な男性がいたというだけで、女としては嬉しいですよね♪

 

富子夫人の献身的な愛情もまた素晴らしいのです♡

 

半平太が投獄されてから切腹するまでの1年9ヶ月、彼女は、夫の苦痛を思い、「自分もその傷みを共有したい」 と、板の間に臥し、夏も蚊帳を吊らずに過ごしたといいます。

 

そして、毎日3食を欠かさず牢に差し入れたとも…。

 

 

この間、二人の間で交わされた書簡が残っていますが、そこに見られるお互いの愛情の細やかさには、誰もが心打たれるでしょう。

 

 

半平太は、満36歳の若さで亡くなりますが、切腹の際に身につけたのも、富子が縫いあげて届けた死装束でした。

 

“武士道 ” とは、男たちを支え、育てる女がいて、初めて熟成していくものなのかもしれませんね。

 

…長々と半平太について書いてきましたが、わたしは、武市半平太のことを知ってほしくて書いたわけではないのです。

 

 

どんな人物にも、短所はあるし、それと同じだけの長所がある…。

だったら、その人のいいところを見たいニコニコ

 

 

歴史の中で、その人が一番輝いた瞬間を伝えていきたいなぁ…と思います。

 

 

そろそろ、誰かと比べる人生観と訣別してもいいんじゃないかしら。

 

それは、自分に対しても、人に対しても同じだと思うんです。

 

わたしも以前は、歴史上の人物の中に、好きな人もいれば、嫌いな人もいました。

 

でも、今は、みんな愛おしいですラブラブ

 

愛おしく思えるようになったら、日本人であることの誇りがさらに大きくなりましたニコニコ

 

歴史を学ぶって、素敵なことですねラブラブ


準備中です
暫くおまちください

立花 宗茂(たちばな むねしげ)
戦国の華・立花宗茂

(2010年4月17日のブログ記事より)

戦国武将の中で、生涯不敗を誇った唯一の人、それが立花宗茂です。

 

関ヶ原の戦いのとき、宗茂は家康から法外な恩賞を持ちかけられますが、「秀吉公の恩義を忘れて東軍に付くのなら、命を絶った方が良い。勝敗には拘らず。」 と言い放ち、西軍に参加しました。

 

 

宗茂は、東軍に味方した大津城を攻め、陥落させるべく獅子奮迅の働きをしましたが、関ヶ原の本戦で、三成率いる西軍が敗れたという報を受け、大坂城に退きます。

 

 

大坂城の豊臣秀頼のもとには、西軍の総大将 ・ 毛利輝元がいました。

宗茂は徹底抗戦を主張しましたが、輝元は彼の意見を容れずに家康に恭順。

そのため、宗茂は、やむなく九州 ・ 柳川の居城に船で戻ることにしました。

 

その時…

 

関ヶ原の本戦では一発の弾も撃たずに、敗戦後、東軍の中央を突破するという壮絶な退却戦の末に薩摩帰還を目指した、島津 義弘の軍勢に出逢います。

 

 

宗茂の父は、島津氏との戦いで戦死していますから、 義弘は父の仇です!!

 

しかも、義弘は、壮絶な退却戦で兵のほとんどを失っています。

 

 

宗茂の近習が耳打ちをしました。
「殿、今こそ父君の仇を討つ絶好の機会かと存じまする。」

 

 

……ところが、さすが、漢 (おとこ) ・ 宗茂ニコニコ

 

「馬鹿を申すな!敗軍を討つは武家の誉れにあらず。それに義弘殿は味方ではないか。」

 

そう言うと、むしろ手負いの島津軍の護衛を申し出たではありませんか宗茂も漢 (おとこ) なら、義弘も漢 (おとこ) です!!!

宗茂の厚意をありがたく受け、二人の勇将は友誼を結び、ともに九州まで帰国したのですニコニコ

 

 

さて、柳川に帰国後の宗茂は…

 

家康からの命令を受けた加藤清正、鍋島直茂、黒田如水ら九州に領地を持つ東軍諸将から攻められます。

 

一方、島津義弘は、国許の薩摩に帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために、兵1万を、柳川城への援軍として差し向けました。

 

けれども、島津の援軍が柳川城へ到着したのは、開城から3日が過ぎた後だったのです。

 

不敗を誇った立花宗茂も、圧倒的多数を誇る東軍の前についに屈し、降伏したのでした。

 

関ヶ原で西軍に味方した諸将のうち、島津義弘は領地を安堵され、立花宗茂は、一度は改易され浪人になるも、大坂の陣の後に旧領の柳川藩主に復帰しています。

 

親の仇にさえも愛を注いだ男と、その想いを意気に感じ、恩義に報いようとした男……天から愛される人間の条件を、垣間見たような気がします♪


天に愛される人間の条件

(2011年2月15日のブログ記事より)

 

今日は久しぶりのお天気ですが、冷え込みはまだまだ厳しいです。

暦の上では春を迎えましたが、本格的な春の到来はもう少し先に

なりそうですね。

 

以前、ちょうど今ごろの寒い時期に柳川に行ったことがあるのですが、

驚いたことに、名物の川下りの舟にコタツが用意され、温かい甘酒を飲みながら観光しましたニコニコ

 

今ごろから4月3日までは、“さげもん” と呼ばれる独特のおひなさまを楽しめますし、うなぎも美味しいし、柳川はオススメの観光スポットです↑

 

柳川といえば、詩人・北原白秋の生誕地として有名ですが、私の中では、やはり柳川=立花宗茂なんですねニコニコ

 

ゲームの影響か、宗茂は、今や真田幸村や石田三成と並ぶほどの

人気者だそうですが、柳川は10万石あまりの小藩ですし、一般的にはあまり知られていない武将なので、今回は、立花宗茂の話を書かせていただこうと思います。

 

 

立花宗茂というのは、奇跡の戦国武将なんです!!

常勝の織田軍団でも勝率7割ほどで、秀吉や家康だって負け戦は

あったのに、なんと宗茂はただ一人、無敗を誇ったんですよ!!!

 

 

しかも、少ない人数で、その何倍もの敵を倒してしまうので、

「立花家の3千の兵は他家の1万に匹敵する」 と言われていました。

 

 

さらに、彼は自分の領土欲を満たすために好んで戦をしかけたのではなく、自分の領地を守るためであったり、主家のためだったり窮地に陥った味方を救うためであったり…戦いぶりだけでなく戦う動機も素敵なんですラブラブ

 

 

秀吉の朝鮮出兵の時にも、同僚の加藤清正や小西行長らのピンチを救っているのですが、身の危険も顧みずに仲間を助けるという熱い心を持っていながら、「行長のためではなく、行長が捕虜になれば日本の恥になるから、助け出すのだ。」 なんて、サラッと言ってのけて、相手に恩義を着せたり恥をかかせたりしないところも、またカッコいいのですニコニコ

 

 

その宗茂が、関ヶ原の戦いの時、家康から法外な恩賞を持ちかけられます。

 

立花家の家臣も、東軍が勝つと見越して、主君の宗茂に家康につくことを勧めました。

 

 

けれども、さすが宗茂!!!

この期に及んでも、言動が爽やかなんですラブラブ

 

「秀吉公の恩義を忘れて東軍に付くのなら、命を絶った方が良い。勝敗にはこだわらず。」

と言い放ち、西軍に参加しました。

 

宗茂は、東軍に味方した大津城を攻め、陥落させるべく獅子奮迅の働きをしましたが、関ヶ原の本戦で、三成率いる西軍が敗れたという報を受け、大坂城に退きます。

 

大坂城の豊臣秀頼のもとには、西軍の総大将・ 毛利輝元がいました。

宗茂は徹底抗戦を主張しましたが、輝元は彼の意見を容れずに家康に恭順。

 

そのため、宗茂は、やむなく九州・ 柳川の居城に船で戻ることにしました。

 

 

その時…

 

関ヶ原の本戦では一発の弾も撃たずに、敗戦後、東軍の中央を突破するという壮絶な退却戦の末に薩摩帰還を目指した、島津義弘の軍勢に出逢います。

 

 

 

宗茂の実父は、島津氏との戦いで戦死していますから、義弘は父の仇です!!

しかも、義弘は、壮絶な退却戦で兵のほとんどを失っています。

宗茂の近習が耳打ちをしました。
「殿、今こそ父君の仇を討つ絶好の機会かと存じまする。」

 

 

…ところが、ここでも宗茂は、並の男ではありませんでしたラブラブ

 

「馬鹿を申すな。敗軍を討つは武家の誉れにあらず。それに義弘殿は味方ではないか。」

そう言うと、むしろ手負いの島津軍の護衛を申し出たではありませんか!!!

 

 

宗茂も漢(おとこ) なら、義弘も漢 (おとこ) です。

宗茂の厚意をありがたく受け、二人の勇将は友誼を結び、ともに九州まで帰国したのです。

 

 

さて、柳川に帰国後の宗茂は…

家康からの命令を受けた加藤清正、鍋島直茂、黒田如水ら九州に領地を持つ東軍諸将から攻められます。

 

一方、島津義弘は、国許の薩摩に帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために、兵1万を、柳川城への援軍として差し向けました。

 

けれども、島津の援軍が柳川城へ到着したのは、開城から3日が過ぎた後だったのです。

不敗を誇った立花宗茂も、圧倒的多数を誇る東軍の前についに屈し、降伏したのでした。

 

 

家康の戦後処理は厳しく、関ヶ原で一発の弾も撃たなかった長宗我部家は取り潰され、毛利家も領地を3分の1に減らされました。

 

西軍に味方した諸将のうち、島津義弘のみは領地を安堵され、立花宗茂は、一度は改易され牢人になるも、大坂の陣の後に旧領の柳川藩主に復帰しています。

 

過去にこだわらず、親の仇にさえも愛を注いだ男と、その想いを意気に感じ、恩義に報いようとした男…

天に愛される人間の条件を、垣間見たような気がします♪

 

 

過去の怨みは水に流し、受けた恩は石に刻む…

これこそが “粋” というものでしょう!!!

 

人間の欲望が渦巻く戦国時代に、宗茂のような爽やかな武将がいたというだけで、なんだか誇らしく幸せな気持ちになってきますニコニコ

 

 

宗茂の優れた才能は真似できませんが、この爽やかな言動に感動して、

うちの息子にも、こんなふうに育ってほしいなぁ~って思っていましたが、

最近、宗茂の生い立ちを調べて、“サムライの育て方” がちょっとだけわかってきました。

 

次回は、宗茂を育てた二人の父 (宗茂は立花家の養子なので、実父と養父がいます) の話を書かせていただきますね。


サムライの育て方

(2011年2月16日のブログ記事より)

前回の予告通り、今日は、日本史上一、二を争ういい男・立花宗茂の生い立ちをお話ししたいと思います♪

 

宗茂の実父の名は、高橋紹運(じょううん)といいます。

 

紹運がまだ若かりし頃、豊後の大友家の重臣だった紹運の父は、同じ大友家に仕える侍大将の妹を、息子の嫁にもらう約束をしました。

紹運も彼女の穏和な性格に惹かれましたが、大友氏と毛利氏の間に戦いが起こったため、二人の婚儀は延び延びになっていました。

 

その後、戦乱がひと段落したので、紹運は彼女の実家に正式に結婚を申し込んだのですが…なんと、彼女の実家は縁談を断ってきたのです(>し<)

 

実は、紹運の出陣中に、彼女が天然痘に罹り、容貌が見苦しくなったというのです(>し<)

 

 

ほぼ同じ時代に、戦国武将・伊達政宗は、幼いころ天然痘に罹って右目を失い、その容貌の醜さから性格が暗くなったというエピソードが残っているぐらいですから、彼女の女心を想像すると、気の毒で…(;し;)

 

ところが、これを聞いた紹運、男らしくてとても素敵なのですニコニコ

 

「私が妹御を妻にと所望したのは、彼女の優しさであって、決して容色ではありません。いま不幸にして彼女の顔が変わってしまったとしても、その資性は少しも変わっていないと信じています。」

 

「資性に惚れた」 って、男としてなんて素敵なんでしょう!!!

 

 

こうして結ばれた二人の間に、翌年、男の子が生まれました。

この子が、後の立花宗茂ですラブラブ

 

紹運は22歳の時、主命を受けて太宰府の宝満城に着任しました。

若き城主・紹運は、支城の岩屋城をはじめ領内の城砦を整備し、筑前の守りを固めるとともに、民政にも力を入れました。

 

大友氏は、龍造寺・島津とともに九州を三分するほど隆盛を誇りましたが、1578年、島津氏との戦いに敗れると、衰退の一途をたどり、配下の将士の離反に悩まされました。

 

筑前でも、大友から龍造寺に寝返る将が相次ぐ中、宗茂の父・紹運は、立花城主・立花道雪とともに、斜陽の主家を支え続たのです。

立花家と高橋家の間には、深い心の結びつきがありました♡

1981年、14歳になった宗茂が、立花道雪の一人娘・誾千代(ぎんちよ)の婿として、立花家に養子に入ったからです。

 

 

宗茂は、高橋家にとっても跡継ぎであり、しかも幼少期から優れた資質を持っていたので、紹運は、道雪からの養子の申し出を何度も断りましたが、

紹運よりも36歳も年長で、日ごろから師と仰いで敬慕する道雪のたっての望みに抗しきれなくなり、ついに養子に出すことを承諾したのです。

 

宗茂の出立に際して、紹運は最愛の息子に尋ねました。

 

「立花と高橋の間に戦が起こった場合は、なんとする?」

 

「高橋に味方する。」 と答えた宗茂に、紹運はこう諭しました。

 

「今日よりは道雪どのがお前の父である。この争乱の世に、いつ道雪どのと敵味方になって戦うことになるやもしれぬ。その時は、おまえは立花家の先陣に立って、このわしを討ちとれ。道雪どのは卑怯未練なことが大嫌いなお人である。不覚にもおまえが道雪どのから離別された時は、二度とこの城に帰ってきてはならない。その時は、この剣で潔く自害せよ。」

 

 

幸い、立花と高橋が敵味方に分かれることはありませんでしたが、この時与えられた剣を、実父の形見として、宗茂は、生涯手放さなかったそうです(;し;)

 

 

宗茂が養子に入って4年後に、養父・道雪は亡くなり、両家にとって主家である大友家は、各地で苦戦を強いられていました。

 

 

一時はさながら 『三国志』 のように、九州は大友・龍造寺・島津によって三分されましたが、覇権争いは、どうやら島津の一人勝ちの様相を呈してきたのです。

 

 

大友宗麟は、中央で天下統一を進める関白・秀吉に救援を求めましたが、島津は関白軍の来攻前に、九州制覇の実現を目指して軍を北上させ、紹運の籠もる岩屋城に迫りました。

 

 

島津軍5万の大軍を相手に、岩屋城に籠もるのは、たった7百余名。

 

けれども、勇将・紹運に率いられた高橋家の将士の心は一つ、全員が紹運とともに、この城を墓にして戦い抜く覚悟でした。

 

 

戦国最強と謳われた島津軍。

その総攻撃を二昼夜にわたって受け続けても、小さな岩屋の城はびくともしません。

 

 

戦いはついに10日を超えましたが、紹運の卓抜した指揮のもと、城兵は疲労をものともせず、驚くべき精神力で戦い続けます。

 

 

数の上で圧倒的有利に立つ島津軍でしたが、死者が3千人を超えた時、紹運のもとに軍使を派遣しました。

 

互いにこれ以上の殺傷を避けるため、城方に有利な終戦条件を提示し、和睦するように勧めたのです。

 

 

このまま戦いを続けても、城方に勝機はありません。

絶望的な戦いの中で、紹運のような勇将をみすみす死なせるのは

しのびない…

そんな気持ちも島津軍にはあったでしょう。

 

 

ところが、紹運は、この申し出をキッパリ拒否します!!

 

「主家が隆盛している時は忠勤に励み、功名を競う者は多いが、主家が衰えた時にこそ、一命を掛けて忠節を尽くすのが真の武士である。貴殿たちも島津家存亡の時になって、主家を捨てて命を惜しむのか。士たる者、節義を守らぬは、禽獣と何ら変わることなし。」

 

 

武士の本質を明示して一歩も退かぬ紹運の態度に、敵方からも、感嘆の声が挙がったそうですニコニコ

 

 

翌朝、寄せ手の猛攻が始まりました。

 

紹運は本丸で指揮をとりながら、数珠を片手にお経を唱えて死者を弔い、手負いの者には薬を与えて励ましていましたが、本丸に敵が迫ってきたので、自ら旗本を率いて突撃しました。

 

 

城兵たちの激しい抵抗に遭い、寄せ手はひるんで後退しましたが、本丸の残兵が50余人になった時、紹運は、残った兵たちに、これまでの奮闘に篤く礼を述べて別れを告げ、潔く自害して果てました。

 

主将の最期を見届けた50余人の勇士たちは、いっせいに念仏を唱えながら腹を突き、あるいは刺し違えて全員自決を遂げたということです。

 

 

岩屋城は、紹運以下700余名の全員玉砕により落城しましたが、島津軍の死者は4千名を超えていました。

 

さらに秀吉軍接近の報を受け、島津軍は立花城の攻撃を放棄せざるを得なくなり、撤退していきました。

 

 

紹運が文字通り命がけで岩屋城を死守したことが、手塩にかけて育てた息子・宗茂の命を救ったのですラブラブ

 

 

岩屋城落城後、首実験を行った攻め手の総大将・島津忠長は、

「類い稀なる名将を死なせてしまった。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。」

と涙し、援軍に駆けつけた秀吉は、

「この乱れた下剋上の乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華である。」

と賞賛しました。

 

その後、宗茂も、二人の父に勝るとも劣らない美しい生き方を貫きますニコニコ

 

昔の人は、美しい生き方を貫くために、命まで賭けたんですね。

 

現代に生きる私たちは、命が取られることなんてまずないのに、何を悩んだり迷ったりしているんだろう…?

 

 

私は、思うのです。

 

「優しい子に育ってほしい。」

「この子には、志を持ってほしい。」

 

親は、子どもにいろいろな期待をかけますよね。

期待をかけるって、悪いことではないと思うんです。

 

 

でも、「私にはできなかったけど、この子には…」

っていう期待のかけ方は、まずいなぁと思います。

 

 

子どもは、親の言った通りにはしないけど、親がした通りにはするんじゃ

ないかなぁ。

 

 

だから、子どもに望むような生き方を、まずは親である自分がやってみたらいいと思う。

 

たとえ才能は遺伝されなくても、生き方は継承されていくから…ニコニコ

 

紹運・宗茂の父子が身をもってそう教えてくれたような気がするのです。


熱中スタジアム再放送☆彡

(2011年9月24日のブログ記事より)

『熱中スタジアム』 をご覧くださった皆さま、深夜にもかかわらず、本当にありがとうございますラブラブ

 

普通、専門家や研究者は、立場上、中立を保つものですが、ゲストの笠谷先生は、「戦国唯一の不敗神話を持つ立花宗茂が大好き」 という私の言葉に、ノリノリで答えてくださって、本当に素敵でしたねニコニコ

 

 

実は、収録の合間に、笠谷先生と直接お話をさせていただいたのですが、「戦国武将が、同じ数の兵士を従えて同じ条件で戦ったら、いったい誰が一番強かったんでしょうね?」 という話題になったんです。

 

私は、島津義弘か立花宗茂のどちらかじゃないかなぁ~と申し上げたのですが、笠谷先生は、少しの迷いも無く、「それは立花宗茂でしょう」 とおっしゃったんですよ。

 

 

なんといっても、朝鮮の役で、明軍30万が来襲するという噂を聞いても少しもたじろがず、実質は5万の明軍を3千の兵で破ってしまった、それほど精強な立花軍だから、関ヶ原の本戦に宗茂が間に合っていたら、勝敗はどうなっていたかわからない…。

 

しかも、宗茂の好敵手・島津義弘が、宗茂の活躍を目の当たりにすれば黙っていなかったのではないか…。

関ヶ原に参戦した島津軍は、わずか1千。 一発の弾も撃たずに終戦を迎え、東軍だけとなった戦場の中央を突破するという壮絶な退却戦を見れば、立花軍3千と島津軍1千が関ヶ原で縦横無尽に働けば、西軍の勝利は夢でなかった…というのが、笠谷先生のご意見なんです。

 

私も、まったく同感です。

 

でも、歴史の皮肉…(>し<)

 

 

関ヶ原の本戦が行われたその日に、立花軍は東軍の大津城を攻略し、宗茂は城の明け渡しに立ち合うことに…。

せめてあと一日早く大津城が陥落していれば、宗茂は関ヶ原に間に合ったのです。

 

でも、きっとこれこそが、天の意思だったのでしょうね。

あの時の日本には、平和が、長期安定政権が必要だったのでしょう。

 

 

250年以上も平和が続いてくれたおかげで、人々の感性が磨かれ、素晴らしい文化が花開き、それが今に生きる私たちのDNAの根っこの部分になっているのですから…。

 

 

いずれにしても、歴史に “if” はありませんが、でも、「もし戦国武将が一堂に会してリーグ戦を行ったら、誰が一番強いんだろう?」 なんていう妄想は、楽しいですねラブラブ

 

 

噂の立花宗茂は、太宰府郊外の岩屋城で生まれています。


立花軍の強さのヒミツ

(2013年11月30日のブログ記事より)

28日深夜の“バーバップ! ハイヒール”、多くの方にご覧いただき、メッセージもたくさん届きました。

 

「おもてなし」をテーマに、とても素敵なエピソードをご紹介できたので、それを皆さんと分かち合うことができて嬉しいですニコニコ

 

 

さて、今日は、私が大感動した産経新聞の記事をご紹介します。

 

『感動する! 日本史』(中経出版)に書かせていただいた、立花宗茂。

私の大好きな戦国武将で、無敗を誇った奇跡の人です。

 

宗茂の実父・高橋紹運も、「この父にしてこの息子あり」と唸りたくなるぐらい素晴らしい武将でしたが、宗茂が婿養子に入った先の舅・立花道雪も、戦国史に残る名将でした。

 

「士に弱き者は無きものなり。もし弱き者あれば、それはその人が悪いのではなく、育てることができなかった大将のほうに罪がある。わが家来、またその従者たちを見よ。功名を度重ねない者はいない。他家にて“弱い”とそしられた士があれば、わが家に来て仕えよ。第一級の士に育てあげて見せよう」

 

道雪は幼いころ、雷に打たれたことがきっかけで歩行困難となりました。

 

このため、戦場ではつねに輿に乗っていましたが、

「この輿を敵の真ん中にかき入れよ」

と棒で拍子をとりながら大音声で音頭をとる道雪を中心にした数百の一団は、乱戦にあっても常に無人の境を行くような武者ぶりだったと言います。

 

 

もちろん道雪は単に勇猛なだけではありませんでした。

 

「人の上位に立ち、人望を得る者は、些細なことで厳罰を下したりはせぬ。人が背くもとだ」

と他を諭す一方、たまたま武功がなかった家臣に対し、酒を酌み交わしながら、こう言葉を掛けました。

 

 

「運不運は戦場の常じゃ。汝が剛の者であることは、我が一番よく知っている。明日の戦では“汚名返上”とばかりに抜け駆けし、討ち死にしてはならぬ。それは不忠じゃ。命を長らえ、この道雪を守り続けよ」

 

 

 

人間の可能性を信じ、これだけの愛情を注げる道雪という男、素敵すぎますニコニコ

 

 

道雪が心から信頼した宗茂だったから、家臣は道雪亡き後も、立花のために尽くしたんですね。

立花家のすごいところは、道雪以来300年、お家騒動が一度もなかったことです。

 

 

組織が滅ぶときは、すべて内部崩壊が原因と言いますから、これはすごいことですね。

 

 

子どもや人材を育てる立場の人は、いいえ、大人はみんなこの道雪の考えを肝に銘じないといけないですね!


準備中です
暫くおまちください

伊達 政宗(だて まさむね)

「独眼竜」政宗のちょっぴり切ない話☆

(2011年1月29日のブログ記事より)

信長による天下統一が着々と進められていた時、奥羽はまだ群雄割拠の様相を呈していました。

 

米沢の領主・伊達家の家督を17歳で継いだ政宗は、相馬・畠山・芦名・佐竹といった有力勢力を次々と打ち破り、弱冠23歳で奥羽をほぼ平定しました。

 

武力の面からみれば、政宗は、戦国随一の英傑といっても過言ではないでしょう!!!

 

 

ただ、わずか6年で奥羽を掌握したということは、武力もさることながら、謀略にも長けていたはずで、“ヤリ手だが腹黒い”というイメージが政宗にはあるようです。

 

 

この、ちょっとダーティーなイメージは、幼少期に天然痘を患い、

右目を失ったことと無関係ではないでしょう。

 

 

右目を失い、容貌が醜くなってことで、卑屈になり、根暗な性格になっていったと想像できます。

 

 

さらに、幼い政宗にとって、失った右目以上にショックだったのは、実の母親から疎んじられたことでした(;し;)

 

 

当時、武家の跡継ぎには帝王学を授けるために養育係がつけられることが一般的で、自分の手で育てられない長男よりも、自らの手元で育った次男・三男をかわいがる母親は多かったのですが、政宗の母・義姫は彼を毒殺しようとするなど、常軌を逸しています(;し;)

 

 

異性の親との関係が、恋愛観や結婚観に大きな影響を及ぼすと言われますが、政宗が多くの側室や愛妾を持ったのは、母性愛の欠乏感を埋めるためだったのかもしれません(;し;)

 

 

彼は終生劣等感を抱いていたと言われますが、本人も周りの人々も、

“隻眼の行者・満海上人”の生まれ変わりであると信じ、それが自己暗示となって、能力を開花させていきました。

 

 

劣等感と自信と…

 

矛盾する感情を胸に抱えながら、成長した政宗の趣味は、なんと意外にも料理でした!!!!

 

もともとは兵糧を開発するために行っていたのですが、乱世が終わり太平の世が訪れると、美食を究めるために料理をしました。

 

料理研究家としての政宗は、超一流で、下記の名言を残しています。

 

「馳走とは、旬の品をさりげなく出し、主人自らが料理をしてもてなすことである。」

 

この言葉は、服部栄養専門学校や宮城調理製菓専門学校など、幾多の料理学校の校訓にもなっているそうです。

 

彼は晩年、情熱と才能を領国の開発に注ぎ、仙台を日本有数の穀倉地帯にすることに成功しました。

 

それでも、天下への野望を消し去ることはできず、そのやるせない想いを、美食を究めることで癒したのかもしれませんねニコニコ

 

その天下への野望=執着を手放した時、徳川幕府は3代将軍・家光の治世になっていました。

 

家光は、2代将軍・秀忠と大河ドラマの主人公・お江の夫婦の長男として生まれましたが、伊達家と同じで、母のお江は、家光よりも自分の手元にいる弟をかわいがったのです。

 

その家光は、政宗に対し、尊敬と親しみをこめて『伊達の親父殿』と呼びました。

 

政宗が病床についた際には、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には将軍自らが見舞った上に、ついに政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き悲しみ、江戸で7日、京都で3日の間、殺生や遊興が禁止されたそうです。

 

この、外様大名への遇し方をはるかに超えた家光の態度には、もしかしたら、深い悲しみを共有した“同志”という側面があったのかもしれません。

 

さて、政宗と母親の義姫との関係は、その後どうなったのか…?

 

政宗は、一部の家臣たちに担がれて謀反を企てた弟を斬殺し、自分を毒殺しようとした母・義姫を実家である最上家に帰します。

 

その後は二人の和解を示す手紙が残っていますが、山形と仙台に離れ離れとなった二人が、実際に再会を果たしたのは、28年後のことでした。

 

最上氏の改易にともない、義姫は政宗のもとに身を寄せたのです。

 

その10ヵ月後、義姫は亡くなりました。

 

親子がともに過ごした10ヵ月間が、お互いにとって幸せな時間であったことを、心から願って…ラブラブ


好きな人と嫌いな人☆
(2011年2月3日のブログ記事より)

 

今日は、節分…♪

 

同時に、旧暦の元日でもありますニコニコ

 

 

気学では、「節分から気の流れがガラッと変わる」 って言いますから、

もし2011年のスタートがイマイチだった方がいらっしゃいましたら、きっと今日からはツキまくりですよラブラブ

 

ところで、近ごろ、ちょっとワケがあって、戦国武将のさまざまなエピソードを調べています。

 

 

先日のブログに書いた、「伊達政宗が料理好きだった」 という話も、あらためて調べてわかったことなのです。

 

 

私は、今まで伊達政宗にはあまりいい印象を持っていなかったのですが、「料理好きで美食だった」 と知ってから、なんだか親近感がわいてきて、「かわいい~ラブラブ」 と思えるようになりました。

 

 

これから、もっともっといろいろな人を調べていったら、その人たちを

「かわいい~♡」 と思えたり、好きになったりするんでしょうねニコニコ

 

 

そう考えると、人にいい印象を持っていないのは、単にその人のことをよく知らないだけなのかな…と思います。

 

 

人にはそれぞれ魅力があります。

その人のことを知って、その魅力に気がつけば、本当は自分が素敵な人たちに囲まれていたんだ~っていうことがわかりますね!!!!

 

 

周りの人を受け入れられないのは、自分の器が小さいからだと思っていましたが、その前に、もっと周りの人たちのことを知る努力をしていきたいな…と、あらためて思いました。

 

 

さぁ、今から家康のことを調べてみます。

今までちょっと苦手なタイプだった家康ちゃんに、私は恋することができるでしょうか…??

 

なんだかワクワクしてきましたラブラブ


準備中です
暫くおまちください

提灯づくりの名人嘉蔵(ちょうちんづくりのめいじんかぞう)
黒船を造った男たちの物語

(2010年9月15日のブログ記事より)

 

前回は、「黒船を造った西洋文明を見てみたい」 と考え、ペリーに直談判した

吉田松陰のエピソードを書かせていただきました。

 

 

そして今回は…

黒船を見て肝を潰しながら、潰しっぱなしでなく、

「自分たちの手であれと同じものを造ってやろう」 と思い、それを実行した男たちの物語をご紹介しますニコニコ

 

 

「自分たちの手で黒船を造ろう」

そんな途方もない夢を描いた日本人が、なんと、少なくとも3人はいたのですから、驚きですよね↑

 

 

一人は、薩摩藩主 ・ 島津 斉彬(しまづ なりあきら)、もう一人は肥前佐賀藩主 ・鍋島 閑叟(なべしま かんそう)、そして最後の一人は、伊予宇和島藩主 ・ 伊達宗城(だて むねなり)です。

 

 

薩摩も佐賀も、洋学がさかんで、殖産興業が進んでいたので、蒸気船を造るのに、

ほんのわずかながら下地がありました。

 

でも、宇和島は10万石の小藩、予算もなければ、洋学の施設や造船の設備など、何もありません。

 

 

 

それでも、何が何でも、黒船を造りたい…

そして、四国の片隅にある宇和島藩を、西洋文明で大改造したい…

 

ペリー来航から8ヵ月…酔狂な殿様の描いた夢から、宇和島藩の黒船プロジェクトが始動しました。

 

このプロジェクトの主役に抜擢されたのは、なんと、提灯張りの職人 ・ 嘉蔵(かぞう)という若者でした。

 

 

それにしても、なぜ、黒船を造るのに、船大工でなく、提灯張りの嘉蔵が抜擢されたのでしょう?

 

 

当時の下級武士たちの多くは、傘張りの内職をしていました。

ピンとした竹の骨に紙を張るだけでも難しいのに、グニャグニャした提灯に器用に紙を張っていく嘉蔵の技術は、下級武士たちにとって、まるで魔法のように思えたのかもしれませんね。

 

 

まず初めに嘉蔵に課されたのは、オランダ人技師の描いた図面を見て、タービンの模型をつくること。

 

 

嘉蔵は、地引網を引くときに使う轆轤(ロクロ)を見てヒントを得ると、竹ひごと木材と紙を使って、不思議な箱をつくってきました。

箱には車が4個ついており、心棒をつまんで回すと走り出す仕掛けになっています。

 

家臣から藩主 ・ 宗城に献上されると、宗城は大いに喜び、「これで自走船をつくれ」という命が下されたのです。

 

 

「自走船をつくれ」 …って、言うのは簡単ですが、造る方は、たまったものじゃありませんよね(>し<)

 

 

でも、最下級の町人で、名字も無いこの嘉蔵が、血のにじむような努力を重ねるんです。

日本人って、本当にけなげだぁ…と思いますニコニコ

 

嘉蔵は、黒船を見ないことには話が始まらないと、長崎に修行の旅に出ます。

 

 

宇和島藩では、彼を士分に取り立ててくれましたが、寺子屋で簡単な読み書きを身につけただけの彼は、武士なら誰でも書ける候文も書けなかったでしょうし、

何と言っても この旅に同行した下級武士たちが、嘉蔵を町人扱いするものですから、長崎滞在は、嘉蔵にとって、相当つらく屈辱的なものであったに違いありません。

 

 

彼は、お目付け役の藩士の荷物持ちにされ、長崎の宿泊所でも犬猫同様に扱われ、下女と同列で食事させられ、時間に遅れると食事を与えられないなど、不遇に甘んじたそうです。

 

 

それでも、嘉蔵は、悔しさや情けなさ以上に、知識欲を満たすことの喜びを感じていたのでしょう。

あるいは、酔狂な殿様の西洋文明への憧れから始まったプロジェクトが、彼自身の夢に発展していったのかもしれませんし、生まれてからこのかた身分の低さと貧しさゆえに馬鹿にされ続けてきた男の、意地だったのかもしれません。

 

嘉蔵は、めげないんですね。

 

修行をやり遂げるんです。

 

 

そして、神さまって、やっぱりいるんですねラブラブ

 

 

 

長崎奉行所の役人に山本物次郎という人がいて、この人物だけは嘉蔵の才能を認めてくれ、何くれとなくバックアップしてくれました。

さらに、オランダ政府が日本との友好関係を深めるために、蒸気船を見学させてくれるなど、幸運にも恵まれたのです。

 

 

長崎から帰国した嘉蔵を迎え、宇和島藩が、蒸気船建造に本格的に着手したのは、

1855 (安政2) 年正月のことでした。

 

 

 

黒船のエンジンとも言うべき蒸気機関を嘉蔵が担当し、船体は村田蔵六 (のちの大村益次郎…“明治陸軍の祖” と呼ばれる人物で、もともとは長州藩出身の医師でした。かつて緒方洪庵の適塾で塾頭を務め、この時宇和島藩に仕官していた彼は、オランダ語が堪能であることから抜擢されたのでしょう。) が受け持ちました。

 

身分が低い嘉蔵は、素人である藩士たちから横槍を入れられ、失敗を繰り返しながらも、1858 (安政5) 年秋に、蒸気機関を完成させました。

 

 

そして、いよいよ…!!

 

 

 

翌1859 (安政6) 年正月27日、蒸気船が完成し、海上運転が行われたのです。

 

 

嘉蔵は狭い機関室に入ったまま、釜焚きから操作までを一人でこなしました。

小さな船窓から天守閣が静かに後ろに下がっていくのを見て、「動いた」 という実感を得た時、嘉蔵は何を思ったのでしょうか。

 

 

残念ながら、宇和島藩の蒸気船は、動き始めは船足が速くても、次第に蒸気の量が少なくなり、目に見えて遅くなったそうです。

嘉蔵には 「船体に比べて汽罐 (かま) が小さすぎるのだ」 とわかっていましたが、

仕様は藩が決めたのですから、致し方ありません。

 

そんなことよりも、無名の一青年が、独学で、新技術を完成させたということが、誇らしいですねニコニコ

 

この誇りは、藩主である伊達 宗城も共有したでしょう。

蒸気船が宇和島湾に浮かんだ時、宗城は無邪気に喜びを表して、

「 これで参勤交代するんだ 」

と言ったそうですニコニコ

「自分たちの手で黒船を造ろう」

3藩の藩主たちが描いた夢。

 

蒸気船が完成した順番は、一番が薩摩、二番が佐賀、宇和島藩は三番目でしたが、驚嘆すべきことに、ペリー艦隊の来航からわずか6年後に、相前後して3藩とも国産の蒸気船を完成させたのです。

 

 

 

言っておきますが、江戸時代の日本は、200年以上も鎖国が続いていて、

大型船を建造することすら禁止されていたんです。

 

 

それが、黒船を見て肝を潰し、でも潰しただけでなく、自分たちの手で同じものを

造ろうとした…!!!

そして見事に、6年後には真似して国産で造り上げた…!!

 

 

こんな民族、世界中探しても、日本人のほかにいないんじゃないでしょうか。

 

この溢れるバイタリティーと、途方もない夢を実現してしまう技術力!!

 

私は、この物語は、嘉蔵の物語ではなく、日本人の物語だと思うんです。

嘉蔵のような若者を輩出する土壌が、日本にはあるということです。

 

かつて種子島に火縄銃が伝わった時、2挺買い取っただけで、それと同じものをすぐに自らの手で作り上げ、10年後には、日本中に普及させてしまった

日本人…このDNAが、私たちには受け継がれているんですね~ラブラブ

 

 

日本人が事なかれ主義に陥ったのなんて、つい最近のこと。

日本史を、日本文化を知ると、そこにはエネルギッシュな日本人たちが躍動していますニコニコ


準備中です
暫くおまちください

徳川 家茂(とくがわ いえもち)
トップの条件☆

(2011年6月5日のブログ記事より)

落語の立川談志さんを見ていると、私は勝海舟のことを
思い出します。

幕臣・勝海舟は、徳川幕府の幕引きという役割を見事に
演じきり、幕臣という立場を超えて、新しい時代を切り開こう
とした、稀有な存在です。

龍馬の師匠としても有名ですよね。

この海舟、頭が切れる分、他人に対する評価が厳しく、
その論調は、とてもシニカル。

なんだか立川談志さんとダブッてくるんですよねニコニコ
おそらく下町のべらんめぇ調なところも、よく似ていたのでは
ないかと…

その海舟が、生涯一度も悪口を言わなかった人が
いるのです。

しかも、その人は、勝海舟よりも20歳以上も年下。
20歳以上も年下の青年を、海舟は敬愛してやまなかった。

では、その青年に、海舟を敬服させるだけの特別な
才能や力量があったかというと、そうではありません。

彼が備えていたのは、無上の優しさと、純粋で清らかな
心でしたニコニコ

海舟が敬愛してやまなかったのは、江戸幕府第14代
将軍・徳川家茂(いえもち)です。

13歳で将軍の座に就いた家茂でしたが、彼が将軍と
決まるまでの間、江戸城内では将軍継嗣問題が
勃発し、後に第15代将軍となる一ツ橋慶喜を支持する
者たちと、家茂を支持する者たちの間で、派閥抗争が
繰り広げられました。

年齢、実績、頭脳明晰さでは、慶喜に分がありましたが、
家茂は、人としての魅力に溢れ、周囲の人々の心を開く
“徳” が備わっていました。

後に、家茂のもとに、皇女和宮が降嫁(こうか)します。
究極の政略結婚でしたが、家茂の優しさに触れた和宮は、
しだいに心を開いていったのです。

家茂が20歳で病没したこともあり、二人は、子どもには
恵まれませんでしたが、夫婦の仲は睦まじかったようです。

さて、この家茂にまつわる素敵なエピソードがあります。

書の名人である幕臣・戸川播磨守安清が、家茂に書道を
教えていた時のこと。

家茂の生家・紀州徳川家は、将軍に跡継ぎができなかった
場合、将軍を輩出する可能性があるので、家茂は、幼い頃
から帝王学を授けられていました。

挙措動作が爽やかで、いつも心は穏やか。
家臣たちの前で声を荒げたこともありません。
まさに “公” に生きた人だったのです。

その家茂が、なんとしたことか、この時、安清の白髪頭に
硯の水をかけると、手を叩いて笑い始めたのです!!!

将軍と言えども、まだ10代の少年ですから、たまには
いたずらでもしたくなったのか。

それにしても、将軍の身でありながら、こんないたずらを
するなんて、情けない…
と、家臣たちは嘆きました。

いたずらをされた安清はどうしたか。

辱めを受けたことが悔しいのか、家茂の行動に情けなさ
を感じたのか、安清は涙を流していました。

ところが…!!!

安清の涙の意味は真逆でした。
それは、喜びの涙であり、感動の涙だったのですラブラブ

なんと、老齢の安清は、ふとしたはずみで失禁していたのです。
将軍の前で失禁となると、安清には、厳罰が下されます。

“恥” よりも死を選ぶ時代、もしかしたら、安清は、厳罰が
下される前に、自分への不甲斐なさから、自ら命を絶って
しまうかもしれません。

そんな安清をかばって、家茂はとっさに、いたずらをしたと
装ったのです。

そんな優しさと英明さを持った家茂が、幕臣たちの信望を
集めたのは当然でしょう。

あの、人を小バカにしたようなところのある(そこが彼の魅力
でもあるのですが…)勝海舟が、「この人のために」 と思えた
唯一の人が、家茂だったのではないかと思います。

海舟は、家茂が亡くなった時、「家茂さまの御薨去をもって
徳川幕府は滅んだ」 と嘆息したと伝えられています。

幕末、家茂が存在しなければ、徳川幕府の終焉というのは、
もっと無残なものになっていたかもしれません。

上に立つ人は、才能なんてなくていい。
才能ある人から慕われる人間力と、その人の才能を信じて
活躍の場を与えることのできる度量の広さがあれば…。

徳川家茂。

歴史にその名が燦然と刻まれるような功績はありませんが、
私の大好きな歴史上の人物の一人ですニコニコ


準備中です
暫くおまちください

徳川 家康(とくがわ いえやす)

目指すは、無敵の人生(2)♪

 

(2009年11月19日のブログ記事より)

 

前回の続きで、徳川幕府の対薩摩戦略について。

 

肥後熊本藩の細川家が54万石、筑後久留米藩の有馬家が21万石、

筑前福岡藩の黒田家が52万石…。

 

このように、九州には大藩が多いのですが、これらの藩は、いずれも薩摩から

江戸に向かう時の通り道です。

 

さらに豊前小倉15万石の城主は、譜代の小笠原家。

 

おそらく家康の存命中から、徳川幕府は薩摩藩を潜在敵国と見ていたのでしょう。

 

薩摩が九州を席捲した場合に備えて、山陽道にも、大きな城塞が連なります。

広島城、岡山城、姫路城…。

 

姫路は、わずか十余万石。

にもかかわらず、姫路城主 (譜代の酒井家) にあの大城郭を持たせたのは、薩摩の進撃を、ここで食い止めようとしたのでしょう。

 

姫路城が破られれば大坂城 (大坂城は将軍直轄) で、大坂城が落ちれば、さらに名古屋城 (名古屋城は尾張徳川家) で防ごう、名古屋城まで落ちれば、あとは箱根の嶮 (けん) に拠って関東を守ろう…

というのが、徳川幕府の戦略です。

 

薩摩は、関ヶ原の戦後処理で無傷だった上に、徳川幕府は島津家の国替えもできなかったので、周到な大名配置で抑えようとしたのでしょう。

 

さすがの家康も、二百数十年後に造船技術が発達して、薩摩から蒸気船に乗って一気に大坂、江戸に兵力を輸送できるなんて、想像できなかったに違いありません。

 

家康の巧妙な大名配置は、薩摩島津家が陸路で江戸に向かう場合にこそ、その効力を発揮するものだったのです。

 

 

この家康の憂いと周到な戦略を考えると、「歴史って、壮大なドラマだなぁ~」と思います。

 

およそ250年のときを経て、薩摩は、徳川にとってのもう一つの潜在敵国・長州と手を結び、徳川の天下を覆し、明治維新という革命を起こしたのですから…。

 

近ごろ、“ 引き寄せの法則 ” が知られるようになりましたが、まさに家康が憂えた通りになったわけです。

 

もし、家康が、「薩摩が徳川幕府を倒す」 という怖れを抱かずに、薩摩島津家に対して愛を持ってのぞんだとしたら…歴史は違ったものになっていたかもしれませんね。

 

家康ほどの天才でも、敵に対して完璧な戦略をとることはできませんでした。

 

だとしたら、現代に生きるわたしたちは、敵を防ぐ方法を必死に考えるのではなく、

敵をつくらない “ 無敵の人生 ” を目指すのが、一番素敵な生き方になるのではないでしょうか。


笑顔のチカラ☆彡

(2011年8月2日のブログ記事より)

出版記念講縁会が終わって、本当にたくさんの方々から嬉しいメッセージが届きましたラブラブ

講縁会にお越しいただいただけで嬉しくて感激なのに、その上、真心のこもったメッセージやプレゼントの数々…ニコニコ

宇宙一の幸せ者だなぁ~ラブラブと、つくづく感じます。

本当にありがとうございます!!!

 

一年前に、一度は死を覚悟した私が、いま、こうして生かされているだけでも奇跡なのに、大好きな歴史上の人物たちのことを本にできて、その上それを読んでくださった方々が感動したり、笑顔になってくださっている…。

 

もういつ死んでもいいぐらいシアワセ~ラブラブ

 

そう思っていたら、ますます素敵なご縁に恵まれて、いい意味でこの先の人生が読めなくなっていますニコニコ

 

素敵なご縁というのは、誰と出会うかはもちろんのこと、そのタイミングも絶妙なんですよね!!

 

実は昨夜、福岡の番組で抜群の人気を誇る、あるタレントさんと初めてお会いしました。

 

彼に、20代の女の子がこんな質問をしたんです。

「どうしたら成功できますか?」

 

彼の答えは…

「人によって、何を “成功” と呼ぶかは違うけれど、自分が仕事に恵まれているのは、素晴らしいご縁をいただけているから。」

 

そして、家康の例を引いて、こう説明してくださいました。

 

 

信長存命の頃、戦国武将が集まって、それぞれの夢を語り合っていた。

「天下を統一したい」 という者もいれば、誰もが憧れる土地を治めたいと言う者がいる中で、家康は、「いま自分が持っている領地に隣接する土地を治めたい」 と言った。

 

信長はじめ諸将は、「徳川殿の夢はなんと小さいことか」 と見下したように笑った。

 

その時、家康が言ったひとこと…

「私は遠い夢を追うよりも、今できることを一つ一つやっていきたい。」

 

信長、秀吉…

天下人と言われたこの二人は、一代で政権が滅んでしまったけれど、徳川家は250年以上続いた。

 

「歴史が証明しているよね。」 と、若い女の子に優しく語りかけた時、彼が売れっ子なのは、ただ運がよかったりご縁に恵まれているからだけではないことを確信しましたラブラブ

 

 

プロとしての素晴らしい技術を持っていて、考え方も素敵…♪

 

 

こんな彼を、天は放っておくわけがありませんね。

 

 

そして、天に愛され続ける人の共通点…

それは、いつも誰かを応援して、自分が応援する人たちのチャンスの神さまになろうとするところ。

 

 

チャンスは、求めている人のところにやって来るわけでなく、チャンスを与え続けている人のもとにやって来るんですね!!!

 

 

でも…誰かのチャンスの神様になるなんて、そんな実力、私にはないわぁ~(>し<)

という方に、オススメしたいことがあります。

 

 

それは、どんな時も自分自身が笑顔でいること、そして、いつも目の前の人に笑顔でいてもらえるように、自分にできることをやり続けること。

 

 

私は、幼い頃、チャキチャキの江戸っ子だった祖母から、いつも 「笑うか帰るかしなさい!!」 と言われていました。

つまり、「不機嫌なまま人前に出るな」 というのが、祖母の教えだったんです。

 

 

たぶん、いま、私がこんなに素敵な方々に囲まれ、幸せでいられるのは、笑顔のチカラじゃないかと思います。

 

 

自分が笑顔でいること、そして目の前の人に笑顔になってもらえるように、自分にできることをやり続けること…。

 

笑顔にした人の数だけ、あなたの人生が輝きだしますよニコニコ


憧れの美崎栄一郎さんとのコラボセミナー

(2011年10月14日のブログ記事より)

新しいポップも評判がよくて、嬉しいですニコニコ

 

さてさて、今日は、素敵なセミナーのご案内です!!

10月16日(日)午前10時から13時、福岡市早良区にある西南コミュニティーセンターで、ビジネス書の第一人者・美崎 栄一郎さんと私の、コラボセミナーが開催されます☆彡

 

題して 「難しくない 楽しい歴史のお話」

 

今までにないぐらいの、とっても素敵なセミナーになる予感…、いえいえ確信があるんですラブラブ

私の予感ははずれたことがないので、ぜひ聞きにいらしてくださいねニコニコ

 

それにしても、体操ニッポン、惜しかったですね~(;し;)

でもね、この悔しい銀メダルは、きっとロンドン五輪で金をとるために必要な試練なんです!!

 

その昔、徳川家康は、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に惨敗し、討ち死に寸前まで追い詰められ、命からがら居城の浜松城に逃げ帰りました。

 

その途中、あまりの恐怖で脱糞 (おもらしのことです。しかも小さい方でなく、大きい方…(>し<)) したと伝えられていますが、家康のすごいところは、この時の苦渋に満ちた情けない表情の肖像画を絵師に描かせ、後の自分の戒めとしたところです。

 

これが、通称 「顰像(しかみぞう)」 として有名な、家康若かりし日の痛恨の肖像画です。

ふつう肖像画って、勇ましくてかっこいい姿を描かせるはずなのに、家康が、よりによってこの情けない姿を残そうとしたのは、なぜでしょうか?

 

家康は、三方ヶ原の戦いで、血気にはやって武田軍の誘いに乗り、多くの将兵を失いました。

この絵を常にそばにおいて見ることで、熱くなった自分を抑えて自重していた…というエピソードが残っています。

 

体操ニッポンの面々も、失敗した映像を何度も見て、それをバネにして、明日からの個人戦でがんばってほしい、そして来年のロンドンで、家康のように天下をとってほしい…

そう願わずにはいられません。

 

がんばれ、ニッポン!!!


準備中です
暫くおまちください

徳川 喜慶(とくがわ よしのぶ)

最後の将軍・徳川慶喜

(2009年9月13日のブログ記事より)

 

ひすいさんの誕生日本がラストスパートに入ったようで、先日のメルマガに、エピソード募集のお知らせが出ていましたねラブラブ

 

 

大好きなひすいさんのためなら、え~んやこりゃ…というわけで、歴女を自認するわたくしめも、多少の力になれないかと考え、知られざる徳川慶喜のエピソードをまとめてみました。

 

 

一ツ橋慶喜と名乗っていた頃から、英邁の誉れ高く、弱体化していく徳川幕府の切り札として期待されていた慶喜ですが、大政奉還により将軍職を自らが退いたのは30歳のとき。

 

その後77歳で亡くなるまで、歴史の表舞台に登場することを避け、静岡で隠棲しました。

静岡での慶喜は、徳川宗家から定期的に送られてくる『御定金』で悠々自適に暮らし、趣味に没頭したようです。

 

慶喜の趣味としては写真撮影が有名(『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき 「最後の将軍」 の横顔 』 という本を執筆されたひ孫の徳川慶朝さんがカメラマンをしているのも血筋でしょうか) ですが、

その他にも、

油絵、狩猟、サイクリング、打毬 (うちまり)、碁、将棋、刺繍、お菓子作り、能楽

などなど、趣味は多彩で、しかもどれもプロ顔負けの腕前だったというから驚きです!!!

 

 

当時、自転車は高級品で、庶民にはとても手が出ませんでしたが、慶喜はかなり早い時期に自転車を手に入れ、静岡で乗り回していたようです。

 

自転車を乗り回す慶喜を、従者が走って追いかける…慶喜が、毎日のようにお供をした従者に靴代として3円ずつ与えたことが、従者の日記に書かれています。

従者の靴が痛むほど自転車を乗り回していたなんて、なんだかかわいいですよね♪♪

 

 

「かわいい」といえば…サイクリングの途中、美女に見とれて、看板にぶつかったこともあったそうですラブラブ

慶喜の父親の徳川斉昭は艶福家として知られ、側室の数も多く、生涯に37人もの子どもをもうけたと言われているので、その血筋が慶喜にも受け継がれたのかもしれません。

 

 

後世のわたしたちから見れば、自転車を無邪気に乗り回し、美女に見とれて軽く事故ってしまう慶喜は「かわいい」のですが、生活に困窮する旧幕臣たちからは、かなり憎まれたようです。

 

殿様育ちの慶喜には、庶民の苦しみはピンとこなかったのでしょう。

老中として慶喜に仕えた板倉勝静も、後に「慶喜と行動を共にしたことを後悔している」と述べています。

 

 

慶喜は、皆さんご存知の通り、江戸幕府最後の将軍であり、大政奉還により700年近く続いた武家政治は終焉を迎えますが、慶喜は、実は、日本の近代化にも間接的に大きく寄与しているんです。

 

 

慶喜がまだ一ツ橋家にいた頃、家臣の推挙で渋沢栄一を召抱えます。

渋沢は、主君の慶喜が将軍になると、自動的に幕臣となります。そして1867年、パリ万博に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として、フランスを訪れ、パリ万博を視察後、昭武に随行し、ヨーロッパ各国を訪れました。

 

 

渋沢は、帰国後、大蔵省に在籍しますが、退官後は、第一国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任し、以後、実業界に身をおきました。

東京ガス・東京海上・王子製紙・帝国ホテル・秩父鉄道・東京証券取引所・キリンビールなど、多種多様の企業の設立にかかわり、

なんとその数は500を越えます。

 

渋沢は“日本資本主義の父”と呼ばれ、日本の近代化を象徴する人物となりました。

もし歴史上に渋沢が登場しなければ、明治以後の日本の歴史は、まるで違ったものになったでしょう。

 

渋沢の実業界での活躍は、彼の才能と努力、そして慶喜の登用があったればこそ……将軍在位わずか1年の慶喜の歴史の中で果たした役割と数奇な運命を想う時、歴史のおもしろさを再認識するのです。


準備中です
暫くおまちください

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)
夏の花火☆彡

(2011年8月13日のブログ記事より)

 

火薬を発破に用い、自然を征服しようとしたヨーロッパの人々。

 

同じ頃、日本人は火薬の使い方を知っていたのに、その技術力を、決して自然を破壊することには使おうとしませんでした。

 

 

日本人は、火薬を何に用いたか…

 

 

シューーーーッ、ド~ン!!!

 

日本人は、夜空に咲く花火に、その技術力を用い、みんなで楽しみましたニコニコ

 

けれども、歴史を紐解くと、花火には、もう一つ、別の意味があったのです。

 

 

 

ときは享保18(1733)年、“あばれん坊将軍” として有名な徳川幕府8代将軍・吉宗の時代。

 

前年には、江戸四大飢饉の一つに挙げられる享保の大飢饉があり、その上、コレラの大流行で、多くの命が失われました(;し;)

 

 

そのことに心を痛めた吉宗は、慰霊と鎮魂、そして悪疫退散への祈りを込めて、隅田川で水神祭を開きました。

 

その際、両国橋周辺の茶屋や料亭が協力して花火を打ち上げたのが、隅田川の花火の起源であり、これが同時に花火大会の事始めとされています。

 

花火を見ていると、お祭りのようなにぎやかな気持ちというよりも、ちょっぴりはかなくて、切ない気持ちになるのは、先人たちの想いが私たちのDNAに微かに宿っているからなのかもしれませんね。

 

 

「花火=はかなさ」 という日本人独特の感覚は、線香花火に象徴されているような気がします。

 

線香花火の燃え始めは 「牡丹」 と呼ばれ、しだいに激しく火花を発してくると、「松葉」。

そしてあっという間に火花の激しさはなくなり、「柳」。

最後、消える直前のチリチリした感じが 「散り菊」。

 

これは、春夏秋冬という季節の移り変わりを表しているように思えますが、むしろ季節というよりは、人生を象徴しているのでしょうね。

日本人の無常観って、深いなぁ!!!


準備中です
暫くおまちください

富岡 幸助(とみおか こうすけ)
家庭が下宿屋に・・・!?

(2014年2月9日のブログ記事より)

 

昨日は雪が心配でしたが、うまく雪をすりぬけるように、福岡⇒大阪⇒札幌と、日本列島縦断の旅を楽しみました♪

 

大阪でのせんちゃんと谷口先生とのコラボ講演では、お足元の悪い中、多くの方がお越しくださり、素敵なご縁をいただいたこと、心から感謝しますニコニコ

 

けさは千歳から女満別に飛んで、遠軽(えんがる)という町にやって来ました。

 

大正初期に留岡幸助が日本初の少年のための更生施設をつくったのが、遠軽です。

留岡幸助のことを調べてて、ドキッとする言葉に出会いました。

 

「学校に行ったからといって英雄豪傑ができるわけではありません。君子になるか盗賊になるかは、家庭の空気の陶冶(とうや)によるものです。それなのに今の家庭は下宿屋に過ぎません」

今の家庭は下宿屋…!!!

大正時代にそんなことを発信していた方がいらしたんですね。

驚きです。

現代は下宿屋化がもっともっと進んでしまっていますね。

本物の家庭を取り戻すことは、主婦であり、母である私たちの責任だなぁと、背筋が伸びる思いです。


準備中です
暫くおまちください

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし)
人蕩しの天才・豊臣秀吉☆彡

(2010年2月21日のブログ記事より)

秀吉の特徴をひとことで表すと…

 

おそらく “人たらし” になるのではないかしら?

 

 

“人たらし” とは、“人蕩し” と書きます。

 

『蕩す』 って、言葉巧みにだましたり、なだめすかしたり…

あまりいい意味には使われませんが、

 

“人蕩し” と表現する場合、本来の 『とろかす』 という意味に近いのではないかと思いますニコニコ

 

つまり、秀吉の優しさ ・ 心遣い ・ 人間力は、「人の心をとろかす」のですラブラブ

 

 

そしてこの秀吉の魅力であり最大の長所は、自分が負かした相手にこそ注がれている気がします。

 

 

秀吉の天下統一の過程で、最も不利益を被ったのは、四国を制覇した長曽我部氏と、九州全土をほぼ統一しかけていた島津氏ではないでしょうか。

 

彼らは、秀吉に邪魔をされなければ、それぞれが 四国 ・ 九州に覇を唱え、大領土を所有できたはずなのです。

 

でも、実際には、その最終段階で、秀吉に敗れ、元の領土に戻されます。

 

ところが、領土が大きくなる過程で家臣の数は増え続け、財政もふくらみ続けているのですから、それらをすべて元に戻すなんて不可能なんです(>し<)

 

長曽我部氏も、島津氏も、一度雇った家臣を簡単に解雇するわけにもいかず、困り果ててしまいました。

 

そんな彼らのもとに、戦後処理官として秀吉から派遣されたのが、石田三成です。

 

石田三成は、近江の出身ですから、彼のDNAには、近江商人の血が流れているんですね!!!

 

つまり、経済のしくみが、頭でも、肌でもわかっているんですニコニコ

 

それ以前は、一国一国の自給自足経済でしたが、秀吉の天下統一は、政治だけでなく、経済を一変させました。

 

三成は言います。

 

「大坂に日本中の物資が集められ、市が立ち、値が決まり、再び

物資は地方に運ばれていきます。

そのしくみを利用して、国許でとれたお米を国内需要を除いてすべて大坂に出し、現銀 (当時の日本は金ではなく銀本位制でした) に換え、その現銀で必要な物資を大阪で安く買うのです。

そのためには、帳簿の技術が必要です、帳簿のつけ方はこうです

…。」

 

三成は、島津家の財政を救うために、経済のしくみが変わったことを説き、経理技術も教えました。

このとき彼が島津家に伝授した帳簿のつけ方は、近代的な簿記のようなものを用いていたと言われていますから、本当に驚きです!!!

 

 

三成は、戦国武将と言うよりも、超優秀な財政コンサルタントだったのかもしれませんね!!!

 

 

武将にとって、領土が減らされるということは、名誉がどうの…という以上に、現実問題、経済的に困ることだったんですよね。

 

そしてこの経済的困窮が、怨みになっていくんです。

 

 

その証拠に、戊辰戦争の時に、徳川幕府を裏切って新政府軍についた藩というのは、関ヶ原の時に減封されている藩です。

 

徳川家というのは、元来が農本主義で、商売や経済にうとかったので、大名の石高を減らしたら減らしっぱなし、フォローがないんですよ((+_+))

 

 

だから250年後、その怨みが起爆剤となって、明治維新が起こるんですね。

 

 

でも、秀吉は、三成を遣わして、敗者たちの経済を成り立たせてあげたんです。

 

普通なら、秀吉に敗れた毛利 ・ 長宗我部 ・ 島津氏などは、豊臣家を憎んで、関ヶ原で東軍についてもいいはずなのに、彼らは、なりゆき上そうなったという要素が強いにしろ、とりもなおさず西軍につくんですよ!!!

 

 

そこに、秀吉の “人蕩し” の真髄が隠されている気がしますニコニコ

 

 

秀吉の “人蕩し” の真髄は、敵をつくらないことにあるのではないか…

と思います。

 

 

潜在敵国である薩摩藩や長州藩を徹底的にマークし、いじめぬいた家康との違いが、そんなところに表れていると思います。

 

“弱者に対するいたわり” も、わたしが後世に伝えたいと思う、日本文化の一側面ですラブラブ


無敵の人生☆

(2011年2月23日のブログ記事より)

 

師走のある日、秀吉は新年を迎える為に庭の松の木を切っている

幼い顔立ちの庭師を見ていました。

少しして、若い庭師の手が不自然に震えていることに気づきます。
震えがあまりに続くので気になり、秀吉が庭師に近づいていくと、

彼は、手に持っていたハサミを落としてしまいました。

それを見た秀吉は、

「仕事中の所に急に近づいて申し訳ない。さあ、お仕事を続けなされ。」

と、地面に落ちたハサミを拾って、庭師に手渡しました。

 

その瞬間、庭師は 「父の敵!!!」 と叫んで、ハサミの刃を秀吉に向けて、

刺そうとしました。

 

とっさのことで、誰も反応できません(>し<)

 

太閤・秀吉、庭師に暗殺される…!!!

 

その瞬間、秀吉は素早い身のこなしで刃を避け、手刀でハサミを落とし、

警護の侍に庭師の身柄を確保させました。

捕縛された庭師は、
「秀吉公の庭の手入れをする職人となったのは、かつて戦で自分の父を

殺した秀吉公へ仇討ちするつもりだった。」
と、秀吉の命を狙った理由をひとしきり話した後、大いに泣きました。

それを聞いた秀吉は、

「そなたは親思いじゃのう…」

と一言漏らし、庭師を放免しました。

 

その翌年のこと。

 

同じ庭師が植え込みの中に隠れているのが発見されましたが、秀吉は、

「そなたに斬られてやりたいが、そうもいかぬでな。」

と言い、その男に酒と金を与え、

「父を思うその気持ちは、一生持ち続けてくれ」

と再び放免しました。

 

やがて庭師は、豊臣家の安泰を願う一人となったといいます。

 

昨日、“平成の松下村塾” と言われる群馬のいとう眼科さんに呼んでいただき、 “みんなのカフェ” で 『日本人の心』 をテーマに講演させていただきましたニコニコ

 

関東各地からだけでなく、名古屋・大阪・福岡…

全国からファミリーの皆さまが駆けつけてくださいましたラブラブ

 

愛がいっぱいの最高に素敵な “場” で、心から尊敬し、信頼できる方々とご縁を結ぶことができ、「いつ死んでもいい~ニコニコ」 って思えるぐらい幸せが溢れてきました。

 

詳しくは、また後日あらためて記事にしたいと思っていますが、幸せな

今の気持ちを歴史エピソードに表すとしたら…ってイメージしたら、なぜかこの秀吉の話が浮かんできました。

 

人が生きていれば、悪意はなくても、誰かを傷つけることがあると思います。

 

自分に対して敵意を抱く相手にも愛を注ぐことができたら、まさしくそれは

敵をつくらない、“無敵の人生” になります。

 

私は若い頃、とても負けず嫌いで、相手が誰であっても、常に勝ち続けようとしていました。

 

その生き方を手放し、敵をつくらない “無敵の人生” を歩き始めた時、

心がいつも晴れるようになりましたニコニコ

 

“無敵の人生” の秘訣は、感謝すること、大好きになること♡

 

相手に対しても、自分に対しても…

 

それだけで、心が満たされていきます。

 

季節は、春ですね~ラブラブ

 

春の訪れとともに、皆さまの心が愛と感謝でいっぱいに満たされますようにニコニコ


準備中です

暫くおまちください


永井 隆(ながい たかし)
長崎の鐘♪

(2010年8月10日のブログ記事より)

瑞々しくおいしそうな夏野菜が並んだ八百屋さん。

いつものように夕食の材料を買って、帰宅し、新聞紙にくるまっていた野菜を取り出しました。

 

ふとその新聞記事に目が止まりました。

8月4日の読売新聞長崎版。

 

『長崎原爆で被爆しながらも被災者の治療に尽力した永井隆博士の業績をたたえる「韓国如己の会」(韓国・大邱(テグ)市)が初めて、博士関連の本を対象にした読書感想文のコンクールを開いた。

最優秀賞などに選ばれた韓国人中高生10人が8~11日、本県を訪れ、長崎原爆資料館の見学や地元の生徒との交流を行う。』

 

実は、数日前、物理学者でありながら、セラピストやヒーラーもなさっている 『ライフスタイルカウンシル』 主宰の匠さんから、

「原爆が投下された広島・長崎で、素晴らしい活動をした医師がいるのです。一人は日本人で、もう一人はスイス人。名前もわからなくて恐縮ですが、ひとみさん、ぜひ二人の医師のことを調べて、ブログに載せてください。」 と言われたばかり。

 

もしかして、日本人医師というのは、この永井さんのことではないかと思い、調べてみました。

 

彼の生涯を知って、「人間というのは、かくも高貴な生き方ができるのか」と感動で胸がいっぱいになりました。

 

今回は、この感動を皆さまとシェアしたいと思います。

 

永井隆さんは、1908(明治41)年生まれ。

長崎医科大学を卒業すると、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組みました。

 

ところが、その後、日本は、満州事変から日華事変、そして太平洋戦争へと、泥沼に突入していきます。

 

永井さんは、満州事変・日華事変を通じて、70回を越える戦闘を経験し、

そのうち20回は生死の危機に瀕したそうです。

そんな状況でも、彼は誇り高き医師として、敵・味方関係なく献身的に傷病者の救護にあたり、多くの中国難民の生命をも救いました。

さらに、子どもたちには、日本語の童話を語り、絵本や古着、貴重な塩や食料品まで贈りました。

 

戦禍に痛めつけられた難民の心に、彼の優しさがしみわたり、生きる勇気を与えたことでしょう。

 

 

1940(昭和15)年には、母校・長崎医科大学の助教授として、物理的療法科部長に就任、学生・看護婦・放射線技師の教育はもちろん、大学病院での診察・研究・医学会活動・市民の救護訓練と多忙を極めました。

 

 

そんな彼を悲劇がおそいます。

1945(昭和20)年6月、永井さんは、長年の放射線研究による被曝で、白血病と診断され、余命3年を宣告されたのです。

 

 

さらに追いうちをかけるように、2ヵ月後の8月9日…

運命の日を迎えます。

 

 

広島に続いて、長崎に原子爆弾が投下されました。

 

永井さんは、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室で被爆。

右側頭動脈切断という重傷を負いながらも、布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力しました。

 

 

翌10日になって帰宅した永井さんは、台所跡から、骨片だけの状態となった妻 ・ 緑さんの遺骸を発見。

最愛の妻の骨片を拾い埋葬すると、救護班を組織し、再び被爆者の救護に当たったのです。

彼自身、再出血により二度も意識不明に陥りながら…。

 

 

彼の行動力は、人間愛とか、医師としての責任感とか、すべてのものを超越しているような気がします。

人間はここまで気高く生きられるのか…と、感動せずにはいられません。

 

彼が、心から愛した浦上の地。

 

1948(昭和23)年、永井さんは、荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、

桜の苗木1000本を、浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈しました。

 

これらの桜は 『永井千本桜』 と呼ばれ、毎年美しい花を咲かせています。

 

 

同じ年の春3月、その浦上の地に、畳二畳の 『如己堂 (にょこどう)』 が完成しました。

「己の如く人を愛せよ」 の言葉から名づけられたこの庵は、彼が療養するために建てられましたが、実際には、重病の身を横たえながら、浦上の人々を慰め、訪れる人に励ましと生きる勇気を与えたのです。

 

 

この如己堂で、永井さんは、昼間は多くの人たちと会い、夜は熱と痛みに耐えながら、1951(昭和26)年に命が尽きるまで、『長崎の鐘』 をはじめ多くの著書を書き続けるとともに、

原爆の悲惨さから立ち上がる浦上での生活記録や自らの生活信条 (如己愛人) を基調とした体験記録を綴りました。

 

また、心優しい永井さんは、子ども図書館 (うちらの本箱) を建て、子どもたちに明るい平和な未来を託しました。

 

その子どもたちも、もう、老齢と言っていい年代を迎えています。

今度は、その子どもたちを親 ・ 祖父母に持つ私たちが、平和への祈りを継承していかなければなりません。

 

 

戦争は、起こるものでなく、人間が起こすもの。

 

未来は、いまを生きる私たちにかかっています。

 

平和への切なる願いを、世界中に発信していきましょう !!


8月を迎えて・・・

(2011年8月7日のブログ記事より)

 

今年もまた8月がめぐってきました。

 

いつもは、目の前のことで精一杯だけど、一年のうち8月ぐらいは、戦争や平和のこと、原爆のこと…考えていきたいって思います。

 

日本人が日本人であるために…。

 

 

今回は、そのヒントの一つにしていただきたくて、長崎の永井博士のことを書きたいと思います。

 

永井隆さんは、1908(明治41)年生まれ。

長崎医科大学を卒業すると、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組みました。

 

ところが、その後、日本は、満州事変から日華事変、そして太平洋戦争へと、泥沼に突入していきます。

 

永井さんは、満州事変・日華事変を通じて、70回を越える戦闘を経験し、そのうち20回は生死の危機に瀕したそうです。

 

そんな状況でも、彼は誇り高き医師として、敵・味方関係なく献身的に傷病者の救護にあたり、多くの中国難民の生命をも救いました。

さらに、子どもたちには、日本語の童話を語り、絵本や古着、貴重な塩や食料品まで贈りました。

 

 

戦禍に痛めつけられた難民の心に、彼の優しさがしみわたり、生きる勇気を与えたことでしょう。

 

1940(昭和15)年には、母校・長崎医科大学の助教授として、物理的療法科部長に就任、学生・看護婦・放射線技師の教育はもちろん、大学病院での診察・研究・医学会活動・市民の救護訓練と多忙を極めました。

 

 

そんな彼に悲劇がおそいます。

1945(昭和20)年6月、永井さんは、長年の放射線研究による被曝で、白血病と診断され、余命3年を宣告されたのです。

 

 

さらに追いうちをかけるように、2ヵ月後の8月9日…

運命の日を迎えます。

 

 

広島に続いて、長崎に原子爆弾が投下されました。

 

永井さんは、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室で被爆。

右側頭動脈切断という重傷を負いながらも、布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力しました。

 

 

翌10日になって帰宅した永井さんは、台所跡から、骨片だけの状態となった妻 ・ 緑さんの遺骸を発見。

最愛の妻の骨片を拾い埋葬すると、救護班を組織し、再び被爆者の救護に当たったのです。

彼自身、再出血により二度も意識不明に陥りながら…。

 

 

彼の行動力は、人間愛とか、医師としての責任感とか、すべてのものを超越しているような気がします。

人間はここまで気高く生きられるのか…と、感動せずにはいられません。

 

 

彼が、心から愛した浦上の地。

 

1948(昭和23)年、永井さんは、荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を、浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈しました。

 

これらの桜は 『永井千本桜』 と呼ばれ、毎年美しい花を咲かせています。

 

 

同じ年の春3月、その浦上の地に、畳二畳の 『如己堂 (にょこどう)』 が完成しました。

「己の如く人を愛せよ」 の言葉から名づけられたこの庵は、彼が療養するために建てられましたが、実際には、重病の身を横たえながら、浦上の人々を慰め、訪れる人に励ましと生きる勇気を与えたのです。

 

 

この如己堂で、永井さんは、昼間は多くの人たちと会い、夜は熱と痛みに耐えながら、1951(昭和26)年に命が尽きるまで、『長崎の鐘』 をはじめ多くの著書を書き続けるとともに、原爆の悲惨さから立ち上がる浦上での生活記録や自らの生活信条 (如己愛人) を基調とした体験記録を綴りました。

 

また、心優しい永井さんは、子ども図書館 (うちらの本箱) を建て、子どもたちに明るい平和な未来を託しました。

その子どもたちも、もう、老齢と言っていい年代を迎えています。

今度は、その子どもたちを親 ・ 祖父母に持つ私たちが、平和への祈りを継承していかなければなりません。

 

 

戦争は、起こるものでなく、人間が起こすもの。

 

未来は、いまを生きる私たちにかかっています。

 

平和への切なる願いを、世界中に発信していきましょう !!


永井博士のこと①

(2013年10月13日のブログ記事より)

 

今日は大阪日帰り。

上宮太子高校の同窓会で、講演させていただきました。

 

車が学校の敷地に入っていくと、練習中の野球部員の皆さんが、みんな帽子をぬいで「こんにちは」と挨拶してくれて、とても気持ちがよかった…♡

 

 

よく「最近の若いもんは…」という言葉を耳にしますが、実際、最近の若者は、素敵な人が多いですよねニコニコ

 

 

同窓生ではない一般の方々も講演を聞きに来てくださり、本当に有り難うございましたビックリマーク

 

 

話はガラッと変わりますが、先日、福岡・平尾で産婦人科の医院を開業していらっしゃる久保田先生から、素敵なお話を伺いました。

 

久保田先生は、終戦の年にお生まれになったのですが、5歳のころに、お父さまに連れられて長崎を訪れた日のことを、今でも鮮やかに覚えていらっしゃるそうです。

 

 

お医者さまだった久保田先生のお父さまが、如己堂(にょこどう)に長崎医大の同窓・永井隆博士を見舞われた時に、5歳の久保田先生の手を引いてご一緒にいらしたのだそうです。

 

 

永井隆博士は、放射線科の医師でしたが、長年、放射線治療の最前線で仕事に励んだ結果、白血病にかかり、余命宣告を受けてしまいます。

 

さらに追い打ちをかけるように、1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、永井博士は被ばく、幼い子どもたちを遺して、奥さまの緑さんが亡くなるのです。

 

 

そんな想像を絶する苦境の中で、永井さんが見出したのは希望でした。

 

原爆症という、未だかつて見たことも聞いたこともない新たな症状に立ち向かい、苦しむ人たちを助けたい…という希望がわき起こってきたというのです。

 

 

それから6年、永井さんは医師として、人として命ある限り、できうることのすべてをやり尽くして、この世を去るのですが、その永井さんが亡くなる前に、二人の子どもとともに一緒に暮らしていた如己堂を、まさか知り合いの久保田先生が訪れ、永井さんに会っていたなんて…ビックリマーク

 

 

ご縁というのは、本当に不思議なものですね。

 

5歳の久保田先生が永井さんに会ったのは、亡くなる前年でしたから、腹水がたまって、すごく辛そうなお顔をなさっていたそうです。

 

 

そして、娘の茅乃(かやの)ちゃんに、本当は着物を作ってやりたいけれど、とてもそんなお金はないので、茅乃ちゃんが浴衣を着ているところを想像して、絵を描いた…

というお話をお聞きになったそうです。

 

 

後に、その絵が西日本新聞に掲載されたのを久保田先生はたまたまご覧になり、とても感動なさったというお話でした。

 

 

私は、その話があまりに切なくて、娘に対する父親の想いに感動して、食事中にもかかわらず涙が止まりませんでした(;し;)

 

 

久保田先生は、「あなたを泣かせて悪かったね」と優しくおっしゃいながら、

「あなたが『感動する! 日本史』に書いた永井先生の項ね、実際に会った僕が言うんだから確かだよ。永井さんは、あなたが描いた通りの人だった。あれを読んだだけで、あなたがどれだけ一生懸命調べて、どれだけ誠実に書いているのかがわかったよ」

と言ってくださいました。

 

 

まさかそんな言葉をいただけるなんて想像もしていなかったから、本当に嬉しかったですニコニコ

 

 

そして、永井博士にまつわる素敵な流れが、さらに…ビックリマーク

 

8月に出雲で講演させていただいた時、松江で生まれ三刀屋(現在の雲南市)で少年時代を過ごした永井さんのお話をさせていただいたのですが、その時の講演録を、主催の日野さおりちゃんが小冊子にしてくださいました。

 

 

ご希望の方には販売もしてくださいますので、下記サイトをご覧いただけたら嬉しいです♪♪

 

 

「歴史和ごころ塾in出雲」の講演内容を収録した小冊子

大好きな親友3人(伊能忠敬、永井隆、八田與一)をご紹介しています(笑)

私がお話ししたものをそのまま活字にしたので、少しわかりにくいところがあるかもしれませんが、出雲の神さまと出雲の地を愛する方々の温かさに包まれ、自分の意志を離れ何かにしゃべらされているような、不思議な感覚でお話しさせていただいたので、書籍とは違う味わいを楽しんでいただけたら嬉しいですニコニコ

▽ご注文用紙のダウンロードはこちらから
小冊子ご注文用紙 (PDF)

 

宜しくお願いいたします!!!


永井博士のこと②

(2014年4月21日のブログ記事より)

 

島根から帰ってきました~♪

 

有り難いことに、今回もまた多くの方々の善意に支えていただき、心に残るひとときを過ごすことができました。

 

ご縁をいただいた皆さまに、あらためて感謝します♡

 

講演会場のある雲南市の川沿いは、いま、御衣黄(ぎょいこう)という黄緑色の桜が満開です。

 


花も美しいですが、ネーミングも典雅で、素敵ですよね~♪

 

講演翌日は、『感動する! 日本史』に書かせていただいた永井 隆博士が幼い頃を過ごした「生い立ちの家」、そして博士の記念館を訪れました。

 

放射線科の医師を長年務めた永井博士は白血病にかかり、さらに1945r年8月9日、爆心地からわずか700メートルの長崎医科大学で被爆。

 

自身、大けがを負い、原爆症にさいなまれながら、医師として救護活動を続け、浦上の人々を励ますために文筆家として多くの作品を残し、さらにやがて孤児となる幼子に、父親として愛を注いだのです。

 

まさに、その姿は「生き神様」のよう。

 

その博士を見舞う人が全国から訪れ(あのヘレン=ケラーも博士を見舞っています)、励ましの手紙も多数届けられました。

 

今回、博士がそれらのお手紙に一通一通お返事をしたためていたことを知り、涙が止まりませんでした(;し;)

 

特に子どもたちに対しては、博士は手の込んだ絵手紙を送っていらしたんですね。

博士のそこはかとない優しさに触れ、言葉にならず、もう泣くしかありませんでした(;し;)

 

そうこうしているうちに、読書のすすめの清水店長からお電話が…!!!

 

 

青森の八戸からでした。

なんと店長、八戸のTSUTAYAさんのオープンの応援にいらしてたんです。

 

 

TSUTAYAさんに「読すめコーナー」というのができていて、店長オススメの本がズラッと並んでいるのだそうです。

 

しかも、八戸でこの企画が成功すれば、全国のTSUTAYAさんと読書のすすめのコラボが実現するとのこと。

 

 

これぞ江戸商人の現代版!!!

 

 

同業者がライバルとしてお客を奪い合うのでなく、仲間として、出版業界や書店のあり方に風穴を通す…。

 

 

いやぁ、ステキですね~ラブラブ

 

 

店長のお話では、「白駒さんの本も50冊ぐらいあったよ~」とのこと。

嬉しいですね~ニコニコ

 

青森にお知り合いのいらっしゃる方、ぜひTSUTAYA八戸店をオススメしてくださいね!!

 

 

清水店長のブログに詳細が出ていますので、併せてお読みいただければ嬉しいです♪

http://ameblo.jp/dokusume/entry-11827954102.html


人生が苦しい理由

(2014年4月22日のブログ記事より)

昨日の記事の続きになりますが、雲南の永井隆記念館を訪れた際、博士の本質を突いた言葉に出会いました。

 

「この世は苦しいように皆が申しますけれども、真実はそうではありません。怠けてうまい物を食う気持ちを持っているから、苦しいのです」

 

ホント、その通りですね~。

 

怠けてうまい物を食う気持ちを捨てて、地に足つけて毎日を丁寧に生きていこうビックリマーク
きっと人生に春風が吹き始めますねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

長沢 鼎(ながさわ かなえ)
13歳の志 葡萄王 長沢鼎

先日、鹿児島の維新ふるさと館で見た、ショートムービーに感動しました! タイトルは「薩摩ステューデント、西へ」♪

 

薩摩スチューデントとは、鎖国下の幕末に、薩摩藩がいち早く海外に目を向け、英国に派遣した19名の若者たちのことです。

 

海外渡航が万が一幕府に知られれば“死罪”ろいうリスクを冒し、彼らは未来の日本のために命がけで旅立ったのです。

でも、命がけだったのは、彼らだけではありません。

 

彼らを派遣した島津家だって思いは一緒でした。

 

なぜなら、彼らはまず長崎の英国商人グラバーが用意した蒸気船「オースタライエン号」で香港に渡り、そこでイギリスの大型蒸気客船「マドラス号」に乗り換えてロンドンへ向かったのですが、香港からイギリスまでの船賃が、現在のお金に換算するとなんと2700万円!

 

ということは、イギリスでの滞在費と学費、帰りの船賃などを含めると、おそらく一人あたり1億円位のお金がかかったのではないかと思います。

 

それが19人ですよ!

 

彼らを送り出した島津の殿様は、本当にすごいと思います。

 

この薩摩から英国への留学を発案したのは、あの五代友厚♪

 

数年前、NHKの朝ドラで世の主婦を虜にした、五代さまです。

 

そして19名の中で、最年少は、13歳の長沢 鼎(かなえ)。

 

この少年の覚悟に、涙しましたビックリマーク

 

「これは戦じゃ。学問ちゅう矢をつがえ、薩摩魂ちゅう刀で闘ってくっとじゃ」

 

こういう先人たちの思いがあったからこそ、今の平和で豊かな暮らしがあることを、私たちは忘れてはいけないですね。

 

ちなみに長沢 鼎は、帰国せずにイギリスからアメリカに渡り、カリフォルニアでワイン作りに成功し、“ぶどう王”と呼ばれたそうです。

 

そうだビックリマーク 今夜はカリフォルニアワインを飲みながら、先人たちに思いを馳せよう~♪

 

長沢鼎が、その名を知られるようになったのは、日本の国会で行われた、ロナルド・レーガン米国大統領の演説がきっかけと言われています。

 

最後に、その演説の内容を記載しておきますね♪

 

「1865年、長沢鼎という若い侍の留学生は、何が西洋を経済的に強め技術を進歩させたかを学ぶために、日本を発ちました。それから10年後、彼はカリフォルニア州サンタローザに、「ファウンテングローブ・ラウンド・バーン・アンド・ワイナリー」という小さなぶどう酒の工場を開き、やがてカリフォルニアのぶどう王として知られるようになりました。

長沢鼎は、学ぶためにカリフォルニアに来て、そこに住みつき、私たちの生活を豊かにしてくれました。侍から実業家になったこの日本人は、日米両国に多くのもたらせました。」(1983年11月11日)


準備中です
暫くおまちください

夏目 漱石(なつめ そうせき)

星に願いを・・・☆彡

(2009年8月19日のブログ記事より)

先日、ひすいこたろうさんのメルマガに、

夏目漱石の素敵なエピソードが出ていました。

 

漱石が学校で教員をしていた頃、英語の授業中に、
“ I love you. ” を 「 我、汝を愛する 」 と訳した学生に対して、

次のようにアドバイスしたそうです。

「日本人ならそうは言わない。
奥ゆかしさが大事である。
女性に声をかけるとしたらこうだ。
『(あなたと一緒にいると) 今夜も月がきれいですね 』
これからはこのように訳すように。」

さすが漱石先生の感性は素晴らしいですねラブラブ

 

…と同時に、日本語の味わい深さを感じます。

 

ただ、実際に明治時代には、この漱石のエピソードよりも、

二葉亭四迷の和訳の方が有名で、大絶賛されたそうです。

 

二葉亭四迷は、ツルゲーネフの 『片恋』 に出てくる

“ I love you. ” に当たるロシア語を

「 わたし、死んでもいい 」

と訳したのです。

 

粋で繊細な漱石先生に比べて、二葉亭四迷は、なんと情熱的でしょう!

 

ちなみに 『 二葉亭四迷 』 というのはもちろんペンネームですが、

そのネーミングの由来もユニークです。

 

明治時代、文学を志すというのは、やくざな道のように思われていて、

反対する親がほとんどでしたが、二葉亭四迷の父親も、文学にまったく理解を示さなかったそうです。

 

そして、文学をあきらめない息子に対して、

くたばってしめ(ま)え

のキツ~イひとこと…これがネーミングの由来と言われています。

 

愛を伝える時、あなたならどんな表現を選びますか?

 

明日はしし座の新月…20日の19時から48時間は、しし座の新月の

パワーが、あなたらしく人生を輝かせるお手伝いをしてくれるそうです。

 

しし座の新月のパワーを借りて、素敵な恋愛を成就させてくださいねラブラブ

 

…というワケで、たまには結婚コンサルタントらしいテーマで

書いてみましたニコニコ

 


日本文化の奥ゆかしさ~断り方の美学♪

(2010年3月27日のブログ記事より)

 

“頼まれごとは試されごと”……この言葉、今や一般的になって、

市民権を得た感じですが、そうなるずっと前から、わたしの人生は

まさに “頼まれごとは試されごと” を地でいっていました。

 

そして、来る者拒まず去る者追わず……の言葉通り、向こうから

来るものは片っぱしから受け入れていたのです。

 

でも、2年前にガンになって、手術を受けて放射線治療をして…

2ヵ月以上入院したら、体力がかなり落ちてしまったので、入院前と同じようにはいかなくなりました。

 

いま、わたしが自分に言い聞かせているのは…

「人に優しく、自分にはもっと優しくラブラブ

 

 

だから、嬉しいお誘いも、自分の体調や子どもたちのことを考えて、

残念ながらお断りすることも多くなりました↓↓↓

(皆さま、ごめんなさい(;し;))

 

 

ただ、そうなると、断り方って、その人の品性というか、人間性が出ると思うんですよね。

 

 

誘っていただいたことに感謝しつつ、相手の方のご厚意を包み込むようなお断りのしかたはないものかと…。

 

 

そんなことを考えていたら、偶然、友人のニュースレターで、

とっても素敵なお断りの事例を見かけたので、ご紹介させていただきますねニコニコ

 

 

ときは明治時代。

 

文豪 ・ 夏目漱石が執筆に追われている最中に、次々と新しい執筆の依頼者が自宅へ訪ねて来ていた時のことです。

 

漱石の奥さんが、玄関口で

「主人は今の執筆が忙しいので、お受けできないと思います。」

と応対していました。

 

編集者たちは、ガックリ肩を落とし、帰っていきます。

 

 

その様子を見ていた漱石は、

妻に、「その言い方だと角が立つ。」

と言いました。

 

 

そして、このように断りなさい…と、断り方をアドバイスしたのですが、さて、

明治の文豪 ・ 夏目漱石は、どんな断り方がベストだと言ったのでしょう?

 

ハイ、正解はこちらですビックリマーク

 

 

「少し先のことになりますが、それまで待っていただけませんか。

それからですとお受けできると思います。」

 

う~ん、さすが漱石ニコニコ

 

忙しいとき (だいたい “忙しい” って、“心を亡くす” って書きますからね( ;∀;))

人はえてして自分の感情のまま、そっけない返答をしてしまいますが、

そんな時ほど言葉を選ぶ必要がありますよね☆

 

だって漱石のような断り方ができれば、相手には期待を与え、自分自身には好機が届く可能性を残せますもんね♪

 

漱石のエピソードを知って、もう一つ、断り方に美学を感じる別の事例を思いだしましたビックリマーク


準備中です
暫くおまちください

鍋島 直茂(なべしま なおしげ)
『葉隠』の伝統☆彡

(2011年10月23日のブログ記事より)

「武士道と言ふは、死ぬことと見付けたり。」 という出だしの一節が、あまりにも有名な 『葉隠』。

 

『葉隠』 は、肥前佐賀藩の藩祖・鍋島直茂を武士の理想像として描いていると言われています。

初めてこの一節に触れた時、主君が家臣に死の覚悟を迫る恐ろしい内容なのかと思いましたが、『葉隠』 の原型とも言うべき 『直茂公御壁書』(直茂の遺訓集) には、下級武士や農民に対する溢れんばかりの愛情が表れています。

 

今日は、佐賀に息づく 『葉隠』 の伝統について、感じるままに書かせていただこうと思います。

 

信長が天下統一に向かって邁進していた頃、九州は、大友・龍造寺・島津によって三分され、さながら 『三国志』 の様相を呈していました。

 

龍造寺の重臣から肥前佐賀藩の藩祖となった直茂は、ともすれば下剋上の象徴的な存在と思われがちですが、彼は主家を裏切ったわけではなく、主家を救おうと奔走するうち、その実力が内外から認められて、いわゆる “禅譲” により主家に代わって佐賀を治めることになったのです。

 

秀吉の命を受け、朝鮮に出兵した直茂は、異国の地で辛苦を味わいながらも、数々の戦功を挙げました。

この時の直茂について、加藤清正は、「自分の生涯においてこれほどやりやすい戦はなかった。すべて直茂のおかげで、武功に逸って先陣を争うこともなく、軍律を固く守って協力してくれた。」 と絶賛しています。

 

はるか270年後の明治維新…佐賀藩出身者は、実務処理能力に長け、官僚としてひじょうに優秀な上、他藩出身者に比べ汚職が極端に少ないと評判になりましたが、その遵法精神と、他人のために尽くす “for you” スピリットは、直茂の最大の遺産と言えるでしょうニコニコ

 

 

この 『葉隠』 の伝統を、今も佐賀の人たちは大事にしているんだなぁ~と、つくづく感じた出来事があります。

 

昨日、大好きな山口ご夫妻が主催するセミナーに参加したのですが、講師である佐賀・嬉し乃ずしの女将・加藤 久美子さんが、この 『葉隠』 の話をなさったんですね。

司会者は、『葉隠』 をご存知なかったみたいで、「『葉隠』 って、何ですか?」

 

この質問を受けた女将は、「この会場に歴女が来ているんですよ。 あ、いた、いたビックリマーク ひとみちゃん、『葉隠』 について説明してビックリマーク」 って言って、私をステージに呼んでくれたんです。

 

 

もちろん女将は、『葉隠』 を自ら説明できたと思うんです。

でも、私の本を紹介する場面をつくってくれたんですよねニコニコ

 

 

ああ、女将の存在こそが、『葉隠』そのものだなぁ~って、400年の時を超えて、『葉隠』 の伝統はちゃんと受け継がれているんだなぁ~って、涙が出るほど感動してしまいました♡

 

歴史は、今と関係ない過去の出来事ではなく、今に繋がる私たちの財産なんですよねラブラブ

女将、昨日は本当にありがとうございましたニコニコ


『葉隠』秘話

(2011年10月24日のブログ記事より)

 

前回取り上げさせていただいた鍋島 直茂に、とても素敵なエピソードがあります。

 

龍造寺に代わって佐賀を治めることなった直茂は、旧主に配慮し、息子の勝茂を国主として、自分は後見役に徹しました。

 

戦乱の世が治まると、どこの藩でも、行政能力のある家臣が引き立てられ、一命を賭して槍働きをした者はしだいに干され、ついには職を失っていきます(>し<)

 

そんな時、佐賀藩では、一人の家臣が生活苦に陥り、藩に納めるはずだった米を農民から奪うという事件が起こりました。

 

本来なら、これは死罪です。

殿様の勝茂は、「死罪もやむなし」 という苦渋の決断を下そうとしていました。

 

その時、直茂のひとことが、息子の勝茂の耳に入りました。

「我らが “殿” と呼ばれ、安穏に暮らせるのは、彼のような家臣の働きがあったればこそ。その彼に、炊く米も無いような生活をさせてしまった自分は、大罪人である。彼を殺して、我が何として生きていられよう。」

 

この父の嘆きを聞き、勝茂は家臣を許したそうですニコニコ

 

 

直茂は、規律や軍律を守るだけの人間ではなく、愛情と人間味に溢れる、とても魅力的な武将だったのですねニコニコ

 

 

それに加えて、九州の戦乱から秀吉の朝鮮出兵、そして関ヶ原と、幾度も危機を乗り越えた主従は、固い絆で結ばれていたんですね~♪

 

 

槍働きで主家の命運を切り拓いてきた武断派と、治世において能力を発揮する文治派…

現代社会に当てはめるなら、“現場の鬼” のようなベテラン社員と、華麗な経歴を持つ本社勤務の若手社員といったところでしょうか。

両者の争いは、組織が発展する上で、必ず通らなければならない道のように思えます。

 

 

この時、どちらの能力も最大限に生かす道を用意してやるのが、優れた経営者なんじゃないかなぁ。

 

鍋島 直茂…

さすが 『葉隠』 で、理想の武士として描かれた武将だけのことはありますねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

二宮 尊徳(にのみや そんとく)

エジソンを唸らせた男のもう一つのエピソード

(2010年10月4日のブログ記事より)

前回の記事を読んでくださった方々から、心のこもったメールやメッセージ、コメントをたくさんいただきましたラブラブ

 

皆さまの真心に触れ、感激していますニコニコ

 

本当にありがとうございますビックリマーク

 

 

その中で、歴史に対する造詣が深く、素晴らしい記事を書いていらっしゃる早川浩士さんが、素敵なエピソードを教えてくださいましたので、ご紹介させていただきますねラブラブ

 

御木本幸吉氏は、若い頃、名古屋 ・ 横浜 ・ 東京 ・日光 ・ 今市 (栃木県) をめぐる長い旅に出ました。

 

今市は、二宮尊徳ゆかりの地。

 

ここで、今さらですが、二宮尊徳の生涯を簡単にご紹介すると…

 

小田原の裕福な農民の子として生まれましたが、幼少時に生家は没落、

両親とも死別して、つらい日々を過ごさなければなりませんでした。

薪を背負い、本を手にした少年金次郎のイメージは、その頃のものです。

 

ひたすら勤勉と倹約に努め、20歳代で生家を再興。

小田原藩の家老 ・ 服部家の財政建て直しに成功し、次いで藩主 ・ 大久保忠真(ただざね)の命により、桜町領 (栃木県二宮町) を10年がかりで復興させました。

「二宮町」 という地名は、二宮尊徳の名にちなんでつけられたのです。

 

晩年は、今市に移り住み、荒れ地の復興に尽力。

二宮堀 ・ 二宮林をはじめ、多くの事業を展開しました。

村づくり、人づくりに力を注ぎ、その成果は、今市の地に、今でも脈々と生き続けています。

 

…というわけで、この旅の途中、幸吉は、二宮尊徳の存在を知って大きな感銘を受け、「私は志摩の尊徳になりたい」 と常々口にするようになりました。

その後、幸吉は、フィラデルフィアの万国博覧会に養殖した真珠を出品して、

『世界の真珠王』 と呼ばれるまでになりましたが、事業の成功を地元の地域活動に活かすため、道路や橋の改修工事などに資金供与しながら、自ら労力奉仕も買って出たそうです。

 

そして、自らを奮い立たせてくれた二宮尊徳の生誕地である神奈川県小田原市栢山 (かやま) を訪れたとき、生家の跡地が荒れ果てているのを嘆き、その一帯の土地を買収して中央報徳会に寄贈。

 

現在、その一帯には、尊徳翁生家が保存再建され、小田原市が所管する尊徳記念館が建てられています。

 

以上が、早川さんからの情報ですニコニコ

早川さん、素敵なエピソードを教えてくださって、ありがとうございますラブラブ

 

以前、何かの本で読んだのですが、「人材を育てるためにまず初めにやるべきことはなんですか?」 という質問に対して、経営の神さま ・ 松下幸之助さんは、

「伝記を読ませること」 と答えていらっしゃいました。

 

学力以上に徳育を重視していた戦前の日本には、単なる事業の一成功者にとどまらず、人としての美しいあり方を示してくれる “生き方の達人” たちが数多くいらっしゃいますが、

 

御木本幸吉氏も、その一人ですねラブラブ

 

戦争で焼け野原となり、すべての自信を失った日本人は、それまで自分たちが宝物のように大事にしてきた “徳” をかなぐり捨て、

“得” という価値観に飛びついてしまいましたが、戦後65年、そろそろ日本人らしさ (日本人の価値観、日本人の誇り) を取り戻したいですねビックリマーク

 

江戸時代末期から明治 ・ 大正時代にかけて日本を訪れた外国人たちは、

貧しくとも美しい生き方を貫く人々を見て、みなカルチャーショックを受けています。

 

幸せは、経済的な豊かさではなく、心の豊かさで決まることを、私たちのひいおじいちゃんやひいおばあちゃんが、証明してくれているのです。

 

美しい生き方、真のプライドを持てる生き方を歴史から学んで、大和心のタスキを次代にリレーしていきましょう♪


二宮尊徳が泣いている・・・!

(2012年2月13日のブログ記事より)

富田さんの口から驚くべき教育現場の実態を知らされ、唖然としました((+_+))

 

 

私の小さい頃は、全国の小学校に二宮金次郎の石像が置かれていて、勤勉で働き者で、疲弊した農村を立て直し、地域社会の発展のために尽くしたその人生は、すべての日本人にとってお手本でした。

 

ところが、老朽化した石像を公費で修復するのは難しいと、相次いで撤去されているというのです(>し<)

 

 

「そういえば、最近、二宮金次郎像を見る機会が減ってきたなぁ」 とは思っていたのですが、問題は、なぜ修復に公費を使えないのか、その理由ですビックリマーク

 

 

「子どもを働かせるなんて、とんでもない。」

「本を読みながら歩くなんて、危険。」

 

そんな声が父兄から上がっているので、その声を無視するわけにいかない、というのが理由なのだとか…。

 

 

さらに、この父兄の声に対して、金次郎像修復を説得しようとした教育委員会側の言い分が、また笑止千万なのですビックリマーク

 

 

「現代は歩きながらスマホを操作する時代ですから、本を読むのと変わりませんよ。」

これで説得しているつもりなんでしょうか…(>し<)

 

 

以前、「うちは給食費をちゃんと払っているんですから、給食の時間に “いただきます” と言わせないでください。」 と先生に言った保護者がいると聞いて、驚き呆れたことがありましたが、この金次郎像にまつわる話も、本当にひどい…(>し<)

 

これじゃあ、二宮尊徳さんが泣いていますね。

 

これらは、単に 「知ってる、知らない」 の問題でなく、感性ですよね。

 

江戸しぐさ語り部の会の越川 禮子先生は、「知性はその人の一部だけど、感性は全体。そして、感性は循環する。議論が合わないのはいくらでもすり合わせることができるけれど、感性が合わないのはダメね。」 とおっしゃっていましたが、う~ん、なんで日本人の感性は、こんなふうになっちゃったんでしょう(>し<)

 

戦前の日本人は、小学校で 「修身」 を学びました。

そして授業で使われる教科書には、偉人伝が載っていました。

 

これらは、日本人の感性を育んでくれたのでしょうね。

 

 

日本人の感性を取り戻して、二宮金次郎像の話も、「いただきます」 の話も、笑い話にできる世の中をつくっていかないといけませんね(*^-^*)


準備中です
暫くおまちください

浜口 五平衛(はまぐち ごへい)
稲むらの火

(2011年1月22日のブログ記事より)

 

「これはただ事ではない」

とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。

今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。

しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りは、

老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。

五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。

村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられて

しまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。

 

「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。

 

「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。

そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。

 

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、

いきなりその稲むらのひとつに火を移した。

風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。

 

こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。

まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。

 

稲むらの火は天をこがした。

山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。

「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。

続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。
高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。

やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。

彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。

 

集まってきた人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。

 

その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。

遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。

 

「津波だ」と、誰かが叫んだ。

海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。

人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。

 

雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。

人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。

二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。

一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。

 

稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。

はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、

無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。

 

以上の話は、『稲むらの火』 というタイトルで、昭和12年から22年まで、

小学校高学年の国語の教科書に掲載されました。

 

私は、以前、この物語を読み、「現代の教科書にも復活したらいいのになぁ」と思っていたのですが、

平成23年の新学期より、光村図書出版の小学校

五年生国語教科書に掲載されることが決まったと聞き、とても嬉しく思い、

『稲むらの火』 の全文をご紹介させていただきました。

 

『稲むらの火』 は、英語で書かれたある作品を、中井常蔵が、児童向けに翻訳・再構成したものです。

 

原作のタイトルは 『A Living God』。

作者は小泉八雲 (ラフカディオ=ハーン) です。

 

ハーンは、西洋と日本との「神」の考え方の違いを説明するために、

人並はずれた偉業を行ったことによって 「生き神様」 として慕われた、

紀州有田の農村の長 「浜口五兵衛」 の物語を紹介したのです。

 

「浜口五兵衛」 のモデルは実在します。

 

1820年に紀伊国広村に生まれ、醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家

(現・ヤマサ醤油)の当主となった浜口梧陵です。

 

彼は、1854年、安政南海大地震の津波が紀伊国広村を襲った際、大量の藁の山に火をつけて安全な高台への避難路を示し、村人を救いました。

 

ハーンが 『A Living God』 を著したのは、2万2千人の犠牲者を出した1896年の三陸大津波の直後でした。

 

この時、すでに梧陵は亡くなっていましたが、梧陵の逸話を知ったハーンは、

「もし梧陵のような人がこの場に居合わせたなら、こんなに多くの人が命を落とさなくてすんだのに…」 と、犠牲者の冥福を祈りながら、

この感動的な物語を書き上げたのでしょう。

 

『稲むらの火』 は、具体的な年代や場所などの記述が省かれ、普遍的な物語として構成されていますが、浜口梧陵が紡いだ史実は、さらに感動的ですニコニコ

 

安政南海大地震の後、梧陵は、破損した橋を修理するなど復旧につとめ、

当時としては最大級の堤防である広村堤防を約4年かけて修造しました。

この大土木工事は、被災した人々を雇用することで、彼らに生きるための糧を与え、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐためであり、同時に、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業でもありました。

 

特筆すべきは、広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は、すべて梧陵が私財を投じたものであるという点です。

 

私財を投げ打っても守りたかった、故郷の人々の命…。

梧陵の想いは、およそ80年の時を超えて、現実のものとなりました。

 

1944年、46年と、紀伊半島は立て続けに地震(昭和の東南海地震・南海地震)に襲われますが、広川町(旧広村)の中心部は、広村堤防のおかげで、津波の被害を免れたのです。


準備中です
暫くおまちください

ヒロシマの恩人 マルセルジューノ博士
ヒロシマの恩人☆

(2010年8月12日のブログ記事より)

 

前回のブログで、自らも被爆しながら、長崎の被爆者たちに献身的な救護活動を行った永井博士のエピソードをご紹介しましたが、今回は、

『ヒロシマの恩人』 ジュノー博士をご紹介します。

 

赤十字国際委員会の主席代表として、連合軍捕虜の調査と救済の

ために来日したスイス人 ・ ジュノー博士。

彼は、日本に向かう途上、人類初の原子爆弾が、広島に投下されたことを知ります。

 

博士は、長崎に2発目の原爆が投下された8月9日に日本に到着。

 

この時、GHQは広島の惨状を極秘にしていましたが、博士は、外務省から見せられた写真と、自らが派遣した赤十字国際委員会の職員の報告により、その惨状を知ることとなります。

 

あまりの惨状にショックを受けた博士は、本来の任務である連合軍の捕虜調査を一時休止し、ただちに連合国軍総司令部 ( GHQ ) に被爆者救援を強く主張、医薬品の提供を要請するとともに、自らも被害者の救護にあたりたいと申し出ました。

 

けれども、原爆投下後の惨状とその規模を絶対秘密にしておきたかったアメリカは、外国人医師が広島に入ることは外部への情報漏れを促すと、博士の申し出を拒否したのです。

 

博士は、それでもあきらめません。

 

一度決めたら、相手がノーと言っても、オーケーを出すまで執拗に主張し続ける強い性格に加え、博士は抜群の交渉能力を持っていました。

博士の見事な交渉術を披露しましょう。

 

 

博士は、満州を経由して日本にやって来ましたが、満州で捕虜として拘束されていた英雄 ・ ウェンライト中将の生存を確認し、それを日本到着後ただちにマッカーサー総司令官に報告していました。

 

捕虜待遇などを記したジュネーブ条約を批准していなかった日本軍は、当時簡単に捕虜に会わせることはなかったのですが、にもかかわらず、それをやってのけた博士に、マッカーサー総司令官は一目置いていました。

また、情報提供に対して感謝していました。

 

 

日本と同じくジュネーブ条約を批准していなかったアメリカには、敵国に医薬品を送る義務はありませんでしたが、博士は、アメリカ人捕虜の情報と保護を切り札にして粘り強い交渉を続けたのです。

 

その結果、ようやく博士の申し出が認められ、GHQから15トンの医薬品や医療材料の提供を受けたジュノー博士は、9月8日、自ら被爆市民の治療にあたるため、広島入りしました。

 

博士が携えた医薬品や医療材料は、市内の各救護所へ配布され、大きな治療効果を発揮しました。

 

特に 「ペニシリン」 や 「乾燥血漿」 は初めて日本にもたらされたものであり、広島の医師たちは、その効果に驚嘆したそうです。

 

これら15トンの医薬品と医療材料は、1万人の被災者を1ヵ月治療できる量であったとされ、博士の尽力によって救われた命は、数知れません。

 

広島に到着した博士は、心身ともに傷ついた被災者たちを前にすると、自然に膝をつき、治療を始めました。

 

市内視察の際にも、「瓦礫の中に残っていた白い骨を手に取り、まるで弔うように優しくなでた」 という記録が、赤十字国際委員会に残されています。

 

物心両面にわたる博士の真心が、絶望の淵にあった人々を、強く勇気づけたことでしょう。

 

一方、博士は、医師として、この新しい爆弾の医学的な被害状況に興味を持ち、爆弾の引き起こす高熱や爆風、特に放射能について現地の医師たちと話し合いました。

 

そして、翌1946年に日本を離れてからは、生涯を通じて、毒ガスや核兵器の非人道性を世界にアピールし、核兵器廃絶を訴え続けたということです。

 

 

1979年9月8日、博士の人道行為と国際赤十字のヒューマニズムを讃え、広島の平和記念公園の一角に、“マルセル ・ ジュノー記念碑” が建てられました。

 

9月8日…それは、粘り強い交渉を経て、15トンの医薬品と医療材料を携え、博士が廃墟と化した広島の街を訪れた日。

 

原爆投下後に医療活動を行った “最初でただ1人の外国人医師” を、私たちは、ヒロシマの恩人として、いつまでも忘れずにいたいものです。

 

ジュノー博士が亡くなったのは、1961年6月16日。

 

命日の前後の日曜日に、広島県医師会は、毎年博士の記念祭を行っているそうです。

 

博士のもたらした15トンの医薬品の大切さと現地での治療行為を、医療に携わる者たちの模範として、広島の医師たちの間で語り継ぐために…。


福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち)

福沢諭吉の天命①

(2008年10月16日のブログ記事より)

 

これは、諭吉さんが12歳のときのエピソードです。

 

諭吉さんには、三之助という、8歳年上のお兄さんがいました。

ある日、お兄さんが畳の上に紙切れをいっぱい広げて、整理していました。

 

諭吉さんが兄の横を通り過ぎようとすると…

「おい、ちょっと待てビックリマーク

と、兄が大きな声で叱りつけました。

「お前は今、この紙を踏んだな。この紙には殿さまの名前が書いてあるんだぞ。」

 

「わたしは、殿さまを足で踏んだわけではありません。たまたまわたしが踏んだ紙に、殿さまの名前が書いてあっただけです。」

 

「だまれ!殿さまの名前が書いてある紙を足で踏みつけたということは、殿さまを踏みつけたのと同じことだ。さぁ、あやまれ。」

 

諭吉さんは渋々 「すみませんでした」 とあやまりましたが、さらにお兄さんは、

「わしにあやまっても仕方がない。殿さまにあやまれ。」

と言って、紙切れを指さしました。

 

諭吉さんは紙きれの方に向き直ると、「どうぞお許しください。」 と頭を下げました。

部屋に戻った諭吉さんは、納得がいかず、おもしろくありません。

 

「殿さまだって、同じ人間だ。名前が書いてある紙を踏んだからって、バチなんてあたるわけがない。」

諭吉さんは不満たらたら、紙の上の文字を大切にし、ありがたがるということに、疑問がわいてきました。

 

お兄さんが言うように、殿さまの名前が書いてある紙きれを踏みつけて悪いのなら、

神様の名前が書いてあるおふだを踏んだらどうなるのだろうか。

…こう考えた諭吉さんは、さっそく、神棚からおふだをとって、こっそり足で踏んでみました。

 

ところが、別にかわったことは起こりません。

 

「これはおもしろい。よし、今度は便所でためしてみよう。」

 

思い切っておふだを便所の中へ落としてみました。

何事かが起こったら、すぐに飛び出せるように準備した上で、手足が震えるのをこらえて、じっと様子をみていました。

 

……やはり、何事も起こりません。

 

諭吉さんはホッとすると同時に、バチなんてけっして当たらないのだという確信を持ちました。

 

こうなると、もっともっといろいろためしてみたくなりました。

さて、次に諭吉さんは、どんな実験をしたのでしょう…?

 

続きは明日…ニコニコ


やっぱり 福沢諭吉は尊敬に値する人です♪

(2009年5月20日のブログ記事より)

福岡の街の中心に位置する大濠公園。

 

都会の真ん中にあり、水と豊かな緑に囲まれていて、文字通りオアシスのよう。わたしのお気に入りの場所でもあります。

 

その大濠公園の中に、福岡市美術館があり、現在 “福沢諭吉展” が開催されています。

 

実は、日本史オタクのわたしが、歴史上で最も尊敬する人物が二人いて、

そのうちの一人が福沢 諭吉なのです。

(もう一人は幕末の薩摩藩主 ・ 島津 斉彬。)

 

なぜ福沢 諭吉を尊敬してやまないのかというと…。

 

二百数十年の鎖国を経て、幕末から明治にかけて、欧米の技術や文化、社会制度などが一気に日本に入ってきました。

 

この時代、多くの優秀な日本人が海外に出ていって、ある者は鉄道の敷設を、ある者は蒸気機関のしくみを、ある者は裁判制度を、またある者は語学や教育制度を学びました。

 

この時代、何を学んでも、それぞれの分野でパイオニアになれたわけですが、

福沢 諭吉だけは目のつけどころが違っていました。

 

彼は、技術や文化や社会制度そのものに興味を持ったのではなく、それらを成り立たせている欧米の原理(=本質、あるいは理念)とは何なのかを、つかもうと思ったのです。

 

わたしは、本質をつかむ人が好きなんですよね♪

 

数度の欧米視察を経験した彼は、高度な文明が欧米で発達した背景に “自由”と “平等” という考え方があることを知りました (おそらく直感でわかったのでしょう 彼の直感力の素晴らしさは、古今東西の自伝文学の最高傑作『福翁自伝』 を読めばわかります)。

 

その自由と平等を可能にするのが、 “独立自尊” ですニコニコ

 

諭吉は、“独立自尊” を実践にうつすために慶應義塾を開いたのですが、

今回、福沢 諭吉展に行ってびっくりしたのは、彼が結婚や家庭に対しても“独立自尊” を理想としていたことがわかったからなんです。

 

男尊女卑の風潮が強かったあの時代に、「結婚生活のベースには、お互いの自立が必要である」 という意味のことをおっしゃり、実践し、子供たちに対してもそのように教育していたんですビックリマーク

 

わたしは、夫婦が仲がいいのは当たり前、でも、それが依存であったり束縛であったり…というのは絶対にイヤなんです。

 

夫婦である前に、一人の男と女、そして一人の人間同士…自立した人間同士が仲睦まじく一緒に暮らすから、素敵な家庭ができるのだと思います。

 

福沢 諭吉の結婚観に大いにうなずき、共感したわたしですが、今から100年以上前に、そうした結婚観を持てたって、奇跡だと思うんですよね。

 

惚れ直しましたよ、諭吉さんニコニコ


福沢諭吉の魅力 その②

(2009年5月22日のブログ記事より)

私はかねてから、理想の教育者は吉田松陰と緒方洪庵だと

思っているのですが、洪庵があまたの弟子(適塾の塾生)の

中から、最もその才能を認め、最も愛したのが、福沢諭吉と

大村益次郎です。

 

(参考までに…大村益次郎は長州藩の出身で医師でしたが、

木戸孝允に 軍事の才能を見出され、新政府軍の倒幕司令官

となりました。)

 

緒方洪庵の適塾というのは、鎖国下の日本で最高水準の蘭学

の教育が施されていて、そこで塾頭をつとめた諭吉さんは、

オランダ語の知識では日本有数だったはずです。

 

その諭吉さんが、大阪の適塾を去って、江戸に出てきた時の話です。

ある日、開港した横浜に行ってみると、オランダ語の秀才が、

街ゆく外国人たちの話をまったく理解できず、そればかりか、看板の文字すら読めません。

 

そうです、外国人が話していた言葉も、看板の文字も、オランダ語ではなく、英語だったのです。

 

ちなみに…話は逸れますが、鎖国下の日本が、長崎の出島を

通して外交通商を行っていたのはオランダと中国の二カ国のみ

であり、出島にはオランダの国旗がはためいていました。

でも、たしか1800年代に、オランダはフランスに併合されて

しまい、独立国ではなくなっていた時代があったんです。

なのに、徳川幕府は、というか日本人は、その事実を知らず、

地球上で唯一、出島に独立国としてのオランダ国旗がはためいていた…

というのは、なかなか面白いと思います。

話を諭吉さんに戻しましょうニコニコ

 

英語がまったく理解できずに大きなショックを受けた諭吉さん、

江戸の自宅に帰ってから、世界情勢をもう一度確認してみました。

すると、世界をリードしているのはイギリスやアメリカであり、英語を理解することが世界を知ることにつながるとわかったのです。

 

ここでくどいですが、もう一度言います。

 

蘭学に関しては日本で最高水準の適塾、その適塾の中でトップだった諭吉さん…極端な言い方をすれば、オランダ語日本一だったと思うんです。

 

なのに、諭吉さんは、その過去をいとも簡単に捨てて、未来のために英語の猛勉強を始めます。

 

この潔さ=執着のなさが、諭吉さんの魅力の一つであり、それは、

本物のプライドがあるからこそ、サラリとやってのけたのだと思いますニコニコ

 

そして、本物のプライドがあるからこそ、男尊女卑の時代にありながら、「男女は平等であり、個人の自立が新しい家庭を形成し、自立した一家が集まって国を成す」と考えられたのでしょう。

 

自立した男女の恋愛と結婚に、Hitomi-MaZenda は心からエールを送りたいと思いますニコニコ


命の大切さ

(2009年6月24日のブログ記事より)

 

わたしの人生観の一つ、それは

「必要なことはすべて与えられる」

ということ。

 

このことに気づいてから、むやみに人の人生を羨ましがったり、

自分の境遇を卑下したり、焦ったりすることがなくなり、あらゆることに感謝できるようになりました。

 

わたしにそのことを気づかせてくれたのは、

福沢 諭吉さんです。

 

諭吉さんは、豊前中津藩の下級武士の次男として生まれました。

 

中津藩というのは、10万石の小藩で、あの激動の幕末期にも

さしてパッとした働きをするわけでもなく、どちらかといえば存在感は薄かったと言わざるを得ません。

 

それに対して、薩摩・長州・会津などは、好き嫌いは別にして、幕末期に鮮やかな存在感を残しています。

 

もし諭吉さんがこれらの藩のどこかに生まれていたら…

 

あれだけの優秀な人材ですから、きっと政治の道に引っ張られていたと思うんですね。

 

ところが、彼が生まれたのは中津藩だったビックリマーク

だから終生、民間の立場で、教育と啓蒙活動に集中できたわけです。

(諭吉さんは慶応義塾の創始者として有名ですが、日本初の新聞を発行したり、日本で初めて授業料を制度化したり、英語の “ Love ”を “愛” と訳したり…新時代の日本を象徴する一人だったと思います。)

 

歴史を変えるのは、政治以上に教育かもしれない…

と考えると、彼が中津藩の下級武士の子として生まれたことは、神様の粋なはからいだな~って、思いますニコニコ

 

中津藩は、政治的にはあまりパッとしませんでしたが、中津藩には、

元来、学問を重視する気風がありました。

 

中津藩の第八代藩主は、奥平 昌高。

 

この人は、薩摩藩の島津 重豪(しげひで)の次男で、後継ぎのいなかった奥平家に養子に入ったのです。

 

島津 重豪は、篤姫の養父である島津 斉彬(なりあきら)の曽祖父、

つまりひいおじいちゃんです。

 

この爺ちゃん、歴史マニアのわたしにとって、かなりの大ヒットなんですニコニコ

 

だいたいあの時代に89歳まで生きたことも驚きだし、側室が10人以上いて、子どもが(わかっているだけでも)26人!

 

さらに家臣と中国語で会話していたと伝えられ、オランダ語の読み書きもできたというから、かなりマニアックでハイカラなインテリですよね。

 

(わたしは以前、何かの本で、重豪がローマ字で書いたと伝えられる『君が代』 の歌詞を見たことがあります。)

 

この重豪じいちゃん、曾孫である斉彬の才能を誰よりも早く見いだし、斉彬の教育に没頭するんです。

斉彬があれだけの教養を身につけ、当代きっての名君になったのは、

本人の素質と努力もさることながら、重豪じいちゃんの影響も大きかったはずです。

 

この後の薩摩藩の活躍と明治維新を考える時、重豪じいちゃんの果たした役割ってスゴイと思うのですが、すべてのものに光と影があるように、重豪じいちゃんのせいで、

 

薩摩藩は、天文学的数字の借金を抱えることになります((+_+)) (おっと、これは余談でしたニコニコ

 

重豪じいちゃんは元々、新し物好きでゴージャスだったから、バンバンお金を使いまくっていたところへ、

 

さらに子どもたちの多くが他藩に養子に入ったり娘が将軍家に嫁いだことで、親戚づきあいに多額の出費がかさむようになったんですね。

 

この重豪じいちゃんの旺盛な好奇心とチャレンジ精神を物語るエピソードがあります。

 

シーボルトが江戸を訪れた時に、目の中に入れても痛くないくらいかわいがっていた斉彬を連れて会いに行くんですが、

その時に、中津藩奥平家に養子に入って家督を継いでいた次男の奥平 昌高にも声をかけます。

 

「一緒にシーボルトに会いに行って、西洋の話を聞こう」

 

というわけです。

 

重豪じいちゃんは、すでに隠居の身なので、いいんです。

問題は、奥平 昌高です。

彼は、中津藩主=現役の殿様です。

 

一介の医師にすぎないシーボルトとは、身分が違いすぎて、本来なら会うことができないんです。(正確には、無位無官のシーボルトが昌高に拝謁することが許されないのです。)

 

その時、昌高はどうしたか。

 

なんと家督を息子に譲り、自分も隠居の身になって、シーボルトに会うのですから、なんとも酔狂な親子ですよねビックリマーク

 

もともと学問重視の気風があった中津藩に、このような藩主が出現したのですから、さらにその傾向は強まります。

 

そのような藩に福沢 諭吉が生まれた…

神様の粋なはからいと言うしかないでしょう。

 

諭吉さんが緒方 洪庵の適塾に入るために大阪に向かう時、藩に出した

届け出は、「砲術修業」 ですよ。

医師であり、蘭学者としての名声も高かった洪庵が、砲術を教えるわけがないことは、藩の重鎮たちもわかっているのですが、

 

学問好きで、さらに酔狂な殿様をも受け入れる中津藩ですから、諭吉の大阪行きは、簡単に許可されるんですね。

 

適塾でメキメキと頭角を現し、ついに塾頭になり、江戸に出てオランダ語から英語にあっさりと転向し、

 

咸臨丸にまんまと乗り込み、西洋文明の本質をつかむに至った諭吉の生涯を思う時、

ベストの環境が中津藩だったのではないかと思います。

 

一見すると、あの時代、薩長出身者だけが恵まれていたように思えますが、

神様は、その人の人生に必要なものをすべて与えてくれて、最高の舞台を用意してくれているのだと思います♪♪


お久しぶりの諭吉さん♪

(2009年9月10日のブログ記事より)

高校生の頃、埼玉の自宅から東京・三田まで通学していましたが、当時、JR山手線の田町駅の壁に、とても印象深い巨大な絵が掛けられていました。

西郷隆盛と勝海舟の会談シーンを描いた絵です。

1868年3月13日、新政府軍代表・西郷隆盛と、旧幕府の全権を委任された勝海舟は、高輪の薩摩藩邸で会い、2日間にわたって会談を行います。

 

そして、“ 江戸城の無血開城 ”という、世界史の中でも類を見ないほどの格調の高いドラマが演じられたのです。

 

二人の会談は二日間にわたって行われ、会談が終了したのは、新政府軍が予定していた江戸城総攻撃の前日、タイムリミットぎりぎりの感動的なドラマでした。

これにより、江戸は戦火から免れたように思われました。

けれども、徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺には、旧幕府徹底抗戦派の彰義隊約4000人が集結して、反政府軍の拠点となっており、しばしば新政府軍の兵士と衝突していました。

 

そしてついに5月15日、彰義隊と新政府軍が、上野で砲火を交えます。

これがいわゆる “ 上野戦争 ” です。

新政府軍は、わずか1日で彰義隊を撃破しましたが、時間は短くても、戦闘の激しさは想像を絶するものでした。

砲火は江戸の天地を揺るがし、市民の総ては生きた心地がしなかったでしょう。

江戸の町民たちは、我先にと家財道具を背負って、安全な町外れに避難するというありさまでした。

 

 

ちょうどその頃、芝の慶応義塾では、福沢諭吉がウェーランド著 『経済書』の講義をしている真っ最中でした。

 

外ではしきりに 「ドカン、ドカーン」 と、物凄い大砲の音が轟き渡っています。

最新鋭の佐賀藩のアームストロング砲が、彰義隊を殲滅させるべく、炸裂しています。

 

とても落ち着いて講義に耳を傾ける者などありません。

若い塾生たちは、心配のあまり、梯子をかけて屋根に上り、

「うっかりするとここまで弾丸が飛んで来るぞ」

と、大混乱。

この日は、雨で視界が悪かったため、学生たちはよけいに不安になり、轟音に怯えていたのかもしれません。

 

諭吉さんは、笑いながら、騒ぐ塾生たちを励まします。

「おいみんな席へ戻れ。何をワイワイ騒いでいるのだ。心配せんでいいよ。

戦争は上野だ。ここからざっと二里(約8キロ)も離れているんだから、弾丸が飛んでくる気遣いは無いのだ。」

 

慌てふためく塾生たちとは対照的に、諭吉さんだけはいつもと少しも変わりなく、

予定の日課が終わるまで講義を続けたといいます。

 

このごろ思うんです。

何かが起きたとき、いざという時にこそ、その人の人間性が出るなぁ…って。

 

人間には、越えられない壁は来ないし、「世界は、いつだって最高の未来が待っている」 と信じていたら、

 

きっとどんなことが起こっても、自分らしく対処できるようになるんだろうなぁニコニコ


命の大切さ

(2009年9月24日のブログ記事より)

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 

これは、有名な福沢諭吉の 『学問のすすめ』 の冒頭の一節です。

 

身分制度がなくなって百数十年、現代に生きるわたしたちにとっては当たり前と思えることですが、これを実践するとなると、意外に難しいのではないでしょうか。

例えば、お金や地位で人を差別することはなくても、犯罪者やその家族に関わりたくない…という気持ちは、多くの人の中にあると思うのです。

 

明治初年、箱館(函館)の五稜郭に立てこもって最後まで維新政府に抵抗した旧幕府の高官 ・ 榎本武揚は、箱館戦争終結後、東京に送られ、牢屋に入れられました。

 

ところが、静岡の榎本の実家には何の連絡もなかったので、家族、特に年老いた母親は、大変心配したそうです。

 

武揚は殺されたのではないか…?

 

もしまだ生きているとしたら、どこでどのように過ごしているのだろう?

 

家族は、東京の親類・縁者に手紙を出して、榎本の消息を問い合わせましたが、

箱函館戦争の首謀者である榎本の家族と連絡を取り合うことで維新政府に睨まれるのはかなわないと、

誰ひとりとして返事をよこす者はありませんでした。

 

そこで、榎本の家族が、最後に一縷の望みをかけて手紙を送ったのが、福沢諭吉その人でした。

 

榎本の義弟は、旧幕府の外国奉行をしていたので、旧幕臣の諭吉さんとは旧知の間柄だったのです。

 

諭吉さんは、榎本本人とは深いつきあいはなく、彼の消息を気に留めたことはありませんでしたが、持ち前の正義感と優しさから、親類・縁者に憤りを感じ、自分ひとりで引き受けることを心に決めました。

 

諭吉さんがあちこちに手をまわして調べると、武揚は、幸いまだ生きていて、牢屋に囚われの身となっていることがわかりました。

さっそく榎本の家族にその旨を知らせると、母と姉が諭吉さんを頼って東京へ出てきました。そして、母親が、「ひと目でいいから息子に会いたい」 と言います。

 

諭吉さんはなんとかして榎本親子を対面させてやりたいと願い、方策を考えた末、

『哀願書』 を提出することを思いつきました。

 

諭吉さんが下書きをし、お姉さんが清書した哀願書を、年老いた母親が役所まで歩いていって差し出すと、役人も心を動かされて、すぐに面会が許されました。

 

さぁ、そうなると、なんとかして榎本の命を救ってやりたいと願うのが、人情というものでしょう。

 

すると、とても好都合なことが起こりました。

 

ある日、政府の役人が、オランダ語で書かれたノートを持って諭吉さんのもとにやって来て、日本語に翻訳してほしいと頼んだのです。

諭吉さんは、それをめくって読んでいくうちに、このノートは、榎本がオランダに留学中に航海術の講義を受けて書き写したものだとわかりました。

 

ただしそんなことはおくびにも出さずに、初めの数ページだけを翻訳し、

「これは、航海になくてはならぬものですが、残念ながら、講義を直接聞いた本人でないと、わからないところがあります。これが全部翻訳できたら、我が国にとって大変役立つのですが…」

と、しらばっくれて、ノートを返しました。

 

この言葉が政府の高官に伝われば、榎本の助命につながるかもしれないと期待したのです。

 

諭吉さんが期待した通り、榎本の命は助かり、その後、榎本は、新政府の高官としてその才を遺憾なく発揮します。

もちろん、榎本の命が助かったのは、諭吉さんの力だけではありません。

新政府軍の参謀である黒田清隆は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、榎本の助命に奔走しました。

 

わたしがお伝えしたいのは、「榎本の命が助かった」 という事実よりも、諭吉さんが、どのような立場の人に対しても等しく優しく、すべての人の命を大切にしていたということです。

 

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 

この言葉を頭で理解したり、口に出すのは簡単ですが、実践し続けた諭吉さんの生き方は、本当にかっこいいと思います。

 

言ってることとやってることが一致しているというのは、人の上に立つ者にとっては

絶対に欠かせない要素であり、もしかしたら子育てにおいても、最も大事なことの一つかもしれませんねニコニコ


福沢諭吉の天命②

(2009年10月17日のブログ記事より)

さて、おふだをトイレに落とす…という大胆な実験をして、バチが当たらないことを

確かめた諭吉さん、さらに実験 (いたずら?) がエスカレートしていきます。

 

みんなが神妙な顔つきで拝んでいるお稲荷さんの正体を知りたくなったのです。

 

大人たちにお稲荷さんの正体が何なのかをきいてみましたが、

「神様の正体をみるなどということは、大それたことで、バチが当たって目がつぶれたり、手足が曲がってしまうぞ。」 と脅すばかり。

誰も納得のいく説明をしてくれません。

 

こうなると、さらに知りたくなるのが諭吉魂です。

 

ある日、諭吉さんはあたりにひとけが無いことを確認すると、稲荷神社のほこらの扉をそっと開いてみました。

 

……ビックリマーク

 

ほこらの中には、なんの変哲もない石ころが一つあるだけではありませんかビックリマーク

 

見たところ、道ばたにころがっている石ころと、ちっとも変わったところはありません。

この石ころに、何か特別神様の力が宿っているのでしょうか。

 

それを確かめたくて、諭吉さんは、ほこらの中の石を、拾ってきた石と取り換えてしまいました。

 

翌朝、再びお稲荷さんを訪れてみると、みんないつものように拝んでいて、何も

変わったことは起こりませんでした。

それどころか、近所のおばあさんは、何も知らずにお神酒と油揚げを供えています。

 

諭吉さんは、おかしくておかしくて、笑いをこらえるのに必死でした。

「なぁんだ、やっぱりバチなんて当たらないじゃないか。」

 

諭吉さんは、神様をないがしろにしたわけではなく、迷信などにとらわれず、何事も自分の目で確かめて、正しいことを見極めようとしたのではないでしょうか。

ちょっといたずらが過ぎますが、この旺盛な好奇心こそ、諭吉魂なのですビックリマーク

 

黒船が来航したとき、日本中の人々が西欧文明に驚きました。

そして、西欧文明を必死の思いで吸収しました。

 

その中で、諭吉さんだけが、「西欧文明を成立させている根本の原理は何なのか」という点に着目し、本質をとらえようとしたのです。

 

その原理とは、ひとことで言えば “自由と平等” でした。

けれども、当時の日本には、“自由” という概念も、“平等” という概念も存在しません。

そこで、諭吉さんは、“自由” と “平等” の大前提となる “独立自尊” を日本人に説いたのです。

 

わずか12歳のときに、諭吉さんは、たまたま殿さまの名前が書かれた紙きれを足で踏んでしまい、お兄さんから叱られます。

そのとき、諭吉さんは、表面上はあやまりながら、

「殿さまだって、同じ人間じゃないか。」

と心の中で叫んだのです。

 

その諭吉さんが、のちに、

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

という歴史的なフレーズで 『学問のノススメ』 を書き出した…というのは、

天命を感じずにはいられません。

 

このところ、わたしのまわりでは、自分探しをしている人たちが多いのですが、

自分が幼少期に何に興味があったのかを思い出してみると、自分の本質がつかめるのかもしれませんね。


ミスター一万円札・福沢諭吉の魅力☆彡

(2011年4月14日のブログ記事より)

1900(万延元)年12月31日深夜、日本初の不思議なイベントが行われました。

そのイベントとは、“世紀送迎会”。

去りゆく19世紀に別れを告げ、20世紀の到来をお祝いするイベントです。

 

まだ一般には西暦が使われていないこの時代に、こんなユニークなイベントを企画したのは、ミスター一万円札、我らが福沢諭吉ですニコニコ

 

このイベントからおよそひと月…1900年2月3日、諭吉は亡くなりました。

 

葬儀には、一万人を越える人々が駆けつけましたが、驚きだったのは、列席者の多くが女性だったこと。

「欧米の植民地化を防ぎ、日本が独立を保つためには、国民一人一人の自立が必要だ。

自立した男女が夫婦になるから、自立した家庭ができる。

その家庭の集合体が国家である」

という諭吉の考えに共感した女性たちが、大挙して押しかけたのです。

 

 

でも、女性って、直感が鋭いから、いいことを言うだけの男に、これだけ人気が集中するわけがありません。

 

諭吉の魅力を、当時の女性たちは、見抜いていたのではないでしょうか。

 

ミスター諭吉の魅力、その1…

 

諭吉が頭角を現したのは、当代一の名医・緒方洪庵の開いた適塾に入門してから。

当時としては最高水準の蘭学の教育が施されていた大阪の適塾。

そこで塾頭をつとめたのが諭吉です。

 

そのミスター諭吉が、蘭学遊行を終え、大阪から江戸に出てきた時のこと。

ある日、開港した横浜に行ってみると、諭吉は街ゆく外国人たちの会話をまったく理解できません。

 

おかしい…((+_+))

 

当時の日本では、世界を知る上で、オランダこそ最も大切と思われていました。

諭吉は、そのオランダ語のスペシャリスト。

それなのに、会話はおろか、看板の文字すら読めません(>し<)

 

それもそのはず、外国人が話していた言葉も、看板の文字も、オランダ語では

なく、英語だったのですビックリマーク

 

英語がまったく理解できずに大きなショックを受けた諭吉は、現在の世界情勢を調べてみました。

 

すると、当時、世界をリードしていたのはオランダではなかった…。

 

世界をリードするのはイギリスやアメリカであり、英語を理解し、身につけることが世界を知ることになるということが、わかったのです。

 

蘭学に関しては日本で最高水準の適塾、そこでトップだった諭吉は、言い方を変えれば、オランダ語日本一だったわけです。

しかし、諭吉は、オランダ語日本一の座を、いとも簡単にあっさりと捨て去り、見事なまでに捨て去り、

日本の未来のために、今度は英語の猛勉強を始めました。

 

どんなにがんばってきた過去でも、そこに一切執着しない。

だって過去は過ぎ去ったのだから。

いつだって、未来を決めるのは “いま”…♪

 

この潔さが、ミスター諭吉の魅力の一つですニコニコ

 

実はこのエピソードは 『福翁自伝』 という回顧録に出てくるのですが、この

『福翁自伝』 が傑作なんですビックリマーク

 

中身は…

なんと自慢話と笑い話のオンパレード(笑)

 

 

1860(万延元)年、咸臨丸に乗ってアメリカから帰国した諭吉は、

 

日本への上陸第一歩の海辺で、出迎えに来た木村摂津守(きむらせっつのかみ)の家来から、「留守中に大変なことがあった」と聞き、

「水戸の浪人が掃部守(かもんのかみ)様(大老・井伊直弼のこと)の邸に暴れこんだというようなことではないか」と、

 

桜田門外の変をほぼ正確に言い当て、周囲を驚かせた

……などなど、自分の聡明さを暗にほのめかすエピソードがズラリビックリマーク

 

 

私が最もウケたのは、

「小さい頃からお酒が大好き。

でもある日、酒の飲みすぎは身体に悪いと、禁酒を決意。

お酒を断つ代わりに煙草を始めたら、

けっきょく禁酒も駄目になって、酒と煙草の両刀使いになった。」

というくだり。

 

これが日本最高の教育者と思うと、さらに笑いがこみ上げてきますニコニコ

 

でも、これだけ言いたい放題の 『福翁自伝』 に、咸臨丸次代にお世話になった木村摂津守に維新後送金し続けた話は、出てこないのです。

(「私は徳川に仕えた身ですから…」と、維新政府からの出仕の誘いを断り続けた木村摂津守。

若き日の自分を、私的な従者に採用してくれて、

咸臨丸で渡米させてくれた木村摂津守の恩を、諭吉は終生忘れずにいました。)

 

人助けの話をしなかったのは、助けられた人たちに恥をかかせないためであり、彼自身の性格も照れ屋だったのでしょう。

 

いつも威勢がよくて、ちゃっかりしているのに、人の見ていないところでは、

情に篤くて優しくて…ラブラブ

 

少年のように無邪気な心を持ちながら、大人の心遣いができる、そのギャップが、ミスター諭吉の愛される理由ですねニコニコ


あまりに好きすぎるのも・・・!

(2014年7月4日のブログ記事より)

世界四聖人の一人に数えられる孔子。

 

ある時、孔子の弟子が、友人からこんなふうに訊かれました。

 

「君の師匠って、ひとことで言うとどんな人?」

 

弟子は、孔子を尊敬するあまり、師の素晴らしさをひとことでは表現できなくて、すごすごと帰ってきてしまったそうです。

 

それを後から聞き知った孔子は、その弟子に怒りをぶつけました。

 

「なぜ君は、私のことをひとことで“憤”の人と言えなかったのだ…」

 

弟子に理解してもらえない悲しさ。

孔子のやるせなさが伝わってくるエピソードです。

 

それにしても、“憤”の人って、いかにも孔子らしいですね。

 

“憤”は、訓読みでは「いきどおる」ですが、要は、エネルギーが豊かであることを表しているのでしょう。

 

ところで、1年以上前から、『人生に悩んだら日本史に聞こう』の第2弾のお話をいただいていて、順調に書き綴ってきたのですが、編集者さんから「白駒さんが一番好きな福澤諭吉のエピソードを加えてください」とご提案をいただいてから、ぷっつりと筆が止まってしまいました。

 

今の私、孔子の弟子と同じ心境なんです。

 

あまりに尊敬し、好きすぎると、わけがわからなくなって、書けなくなるんです(>し<)

 

それが、今朝、突如として書けるような気がしてきました。

 

この気持ちのままに、これから一気に書き上げていきたいと思います。

 

『人生に悩んだら日本史に聞こう』第2弾、書店さんに並ぶ日も、そう遠くはないと思います。

 

楽しみにお待ちくださいねラブラブ


準備中です
暫くおまちください

二葉 亭四迷(ふたば ていしめい)

星に願いを・・・☆

(2009年8月19日のブログ記事より)

 

先日、ひすいこたろうさんのメルマガに、

夏目漱石の素敵なエピソードが出ていました。

 

漱石が学校で教員をしていた頃、英語の授業中に、
“ I love you. ” を 「 我、汝を愛する 」 と訳した学生に対して、

次のようにアドバイスしたそうです。

「日本人ならそうは言わない。
奥ゆかしさが大事である。
女性に声をかけるとしたらこうだ。
『(あなたと一緒にいると) 今夜も月がきれいですね 』
これからはこのように訳すように。」

さすが漱石先生の感性は素晴らしいですねニコニコ

 

…と同時に、日本語の味わい深さを感じます。

 

ただ、実際に明治時代には、この漱石のエピソードよりも、

二葉亭四迷の和訳の方が有名で、大絶賛されたそうです。

 

二葉亭四迷は、ツルゲーネフの 『片恋』 に出てくる

“ I love you. ” に当たるロシア語を

「 わたし、死んでもいい 」

と訳したのです。

 

粋で繊細な漱石先生に比べて、二葉亭四迷は、なんと情熱的でしょう!

 

ちなみに 『 二葉亭四迷 』 というのはもちろんペンネームですが、

そのネーミングの由来もユニークです。

 

明治時代、文学を志すというのは、やくざな道のように思われていて、

反対する親がほとんどでしたが、二葉亭四迷の父親も、文学にまったく理解を示さなかったそうです。

 

そして、文学をあきらめない息子に対して、

くたばってしめ(ま)え

のキツ~イひとこと…これがネーミングの由来と言われています。

 

愛を伝える時、あなたならどんな表現を選びますか?

 

明日はしし座の新月…20日の19時から48時間は、しし座の新月の

パワーが、あなたらしく人生を輝かせるお手伝いをしてくれるそうです。

 

しし座の新月のパワーを借りて、素敵な恋愛を成就させてくださいね♪

 

…というワケで、たまには結婚コンサルタントらしいテーマで

書いてみましたニコニコ


準備中です
暫くおまちください

ブルーノタウト
泣きたくなるほど美しい♪

(2010年12月2日のブログ記事より)

ここ1~2週間、さまざまなテレビ番組で、京都の紅葉の美しさが取り上げられています。

 

 

昨日も、ある番組で、紅葉の名所として、大覚寺が紹介されました。

大覚寺の東側には、周囲1キロほどの大沢池が広がっていますが、湖面に映える紅葉の、それはそれは美しいこと…ラブラブ

 

この大沢池は、日本最古の人工湖と言われていて、1000年の昔、平安貴族たちが舟遊びをしたそうです。

 

中でも、9世紀初め、嵯峨天皇が舟を浮かべて観月会を催したというエピソードは、有名です。

 

舟を浮かべてのお月見、紅葉狩り…なんて優雅な王朝文化♪日本人の美的センスって、本当に素晴らしいですねニコニコ

 

歴史的な建造物の多い京都の中で、私が特別な思い入れを感じるのは、桂離宮です。

 

 

 

以前、「天皇が助けたかった才能」 というテーマで、細川幽斎の話を書かせていただきました。

http://ameblo.jp/hitomi-mazenda/entry-10674591937.html

 

関ヶ原の戦いの時、東軍の家康に味方した細川幽斎は、田辺城に籠り、西軍の大軍に囲まれます。

 

この時、『古今和歌集』 の解釈を中心に和歌の極意を師から弟子に口伝する 『古今伝授』 の唯一の継承者であった幽斎の命を救うべく、後陽成天皇が勅使を派遣しました。

 

田辺城を囲む西軍の軍勢に、停戦を命じたのです。

 

命を助けられた幽斎は、自身の愛弟子であり、後陽成天皇の弟宮であられる八条宮智仁親王 (はちじょうのみや としひとしんのう) に、その秘伝を授けました。

 

その後、後陽成天皇は、弟宮の八条宮宮智仁親王に皇位を譲ろうとしましたが、幼少時に豊臣家の猶子 (ゆうし) だった智仁親王への皇位継承は、家康の強い反対で実現しませんでした。

 

「ならば、王朝文化の再興をめざそう」

と、智仁親王は、桂離宮の普請に後半生を捧げたのです。

 

当代一の和歌の名手 ・ 幽斎の愛弟子だった智仁親王は、その生涯に数々の美しい和歌を遺されましたが、宮さまの才能が和歌以上に輝いたのが、建築の分野でした。

 

素材を選び抜き、それぞれの持ち味を最高に生かした建築。技巧の限りを尽くしながら、さりげない表情をみせる庭園。

 

そして、この建物と庭園がまた絶妙に調和しているのです。

 

この桂離宮、「月を愛でる」 ために造られたと言われていますから、驚きですよねビックリマーク

 

なんと風雅な…ラブラブ

 

桂離宮を訪れる人々は、誰もが、誇らしげな美よりも慎ましやかなものに価値を置く、その 「日本美の極致」 に、感嘆の声をあげましたが、桂離宮の魅力に、日本人以上に首ったけになった人がいます。

 

ドイツの大建築家 ・ ブルーノ=タウトです。

 

ヒトラーの台頭に危機感を感じたタウトは、亡命し、1933年に来日。

 

桂離宮を訪れたタウトが、思わず口にしたのが、今回の記事のタイトルです!!!

 

「泣きたくなるほど美しい…」

 

桂離宮の美しさをこんな素晴らしいひとことで表してくれたタウトに、感動ですニコニコ

 

ヨーロッパの宮殿は、庶民階級に対して、階級差を明示するという意図があり、権力や財力をひけらかし、金ぴかに飾り立てています。

 

それに対して、桂離宮の持つ芸術性は、あくまで上品で優美でありながら、庶民との距離を創り出すものでなく、むしろ質素です。

 

そして、機能的です。

 

その機能性を伴った芸術性こそが、タウトをとりこにしたのでしょうラブラブ

 

さらに、日本は、他国と違い、日本固有の独自な文化を、外部の妨害を受けることなく連綿と進展させてきました。

 

太古の建築物は世界中に存在しますが、それは、遺跡=廃墟として存在するだけ。

 

私は、航空会社に勤務していた頃、ありがたいことに世界数十カ国を訪れる機会に恵まれましたが、どの国の文化も、過去と現在の間に、時間的な溝が存在するのを感じました。

 

でも、日本の太古の建築物は、今なお稼動しています。

 

2000年前にできた伊勢神宮…私たちは遺跡として伊勢神宮を訪れるのではなく、日の本の国の繁栄を喜ぶために、参拝するのです。

 

この一事をもってしても、日本の歴史が、文化が、連綿と続いていることが実感できるでしょう。

 

連綿と続く、世界の至宝…それが、日本文化ですビックリマーク

 

自然を愛で、自然と共生してきた、その中身も素晴らしいし、その連続性が、さらなる価値を生んでいるのです。

 

紅葉の美しいこの季節、文化の継承者としての自覚を深めていきたいですねニコニコ


古橋廣之進(ふるはし ひろのしん)
愛、感動、そして奇跡は連鎖する!

(2010年9月8日のブログ記事より)

1948(昭和23)年、第二次世界大戦で途切れていたオリンピックの歴史が再開し、夏季五輪が12年ぶりにロンドンで開催されました。

 

ところが、このロンドン五輪、敗戦国である日本は参加を拒否されます。

 

 

実はこの時、オリンピックに出場していれば、おそらく金メダルを獲得したであろう世界的スイマーが日本にいました。

 

その人の名は、古橋 廣之進さん。

 

 

この年、ロンドン五輪の日程にぶつける形で開催された全日本選手権に出場した古橋さんは、海の向こうのオリンピックを尻目に、連日、神宮プールで世界記録を上回るタイムを叩き出し、日本中を歓喜させました。

 

なにせ、この時の日本選手権のレベルの高さは半端じゃないんです!!!

1500メートル自由形決勝では、1位の古橋選手と2位の橋爪選手が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速かったのですから!!

 

 

ところが、悔しいことに、日本が国際水泳連盟から除名されていたために

これらの記録は公認されず、幻の世界記録に…(;し;)

 

しかも、海外のメディアの中には、

 

「日本のプールは短いに違いない」とか

 

「日本のストップウォッチは壊れている」

 

なんて、失礼極まりない記事を書き立てる新聞もあったのです。

 

この報道を、選手たちと同じくらい悔しい想いで見つめている一人の日系人がいました。

 

フレッド和田勇。

 

1907年、ワシントン州べリングハム生まれ。

 

貧しい少年時代を送り、日系移民として太平洋戦争を経験、幾多の困難を乗り越えた彼は、戦後、ロサンゼルスに移って青果店を開き、持ち前の才覚と働きぶりで、店を17店舗に増やし、事業を成功させました。

 

1949年(ロンドン五輪の翌年)、日本の国際水泳連盟への復帰が認められ、

彼の住むロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に、日本選手が出場。

 

終戦後、日本人が今日食べるものにも困っていた時代に、フレッド和田は、自宅に選手一行を泊め、練習の送迎も買って出るなど、親身になって世話をしました。

広いベッドルーム、フレッド和田の妻・正子さんが作る栄養満点の日本食に、選手たちは大感激ビックリマーク

 

この遠征自体が、日本水連幹部や在米日系人の寄付によって実現したことを知っている選手たちは、和田夫妻の祖国に対する熱い想いに、期するものがあったでしょう。

 

大会初日、1500メートル自由形の予選A組。

まず、橋爪選手が、2位以下を150メートル以上も引き離してゴールイン。

それまでの記録を一気に20秒以上も短縮し、世界記録を樹立しました。

 

そのどよめきが収まらないうちにスタートした予選B組。

今度は、古橋選手が、橋爪選手が出したばかりの世界記録を、さらに16秒も縮める大記録を打ち立てました。

 

 

翌日の決勝は、古橋・橋爪両選手がデッドヒートを演じます。

結果は、1位古橋選手・2位橋爪選手・3位田中選手と、日本勢がメダルを独占!!!

アメリカの選手たちはなすすべもなく、観衆は、総立ちで日本選手たちを讃えました。

 

日本チームは、大会3日間を終え、自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界記録を樹立しました。

中でも古橋選手は、4種目で世界新記録を連発。

その時ついたあだ名が、かの有名な「フジヤマのフライングフィッシュ(トビウオ)」だったのです。

 

全米水泳選手権の祝賀パーティーで、フレッド和田は次のように挨拶しました。

 

「先ほど監督さんが、新聞社との電話で、在留邦人が理解してくれたおかげだと

言うてくださいました。しかし本当にお礼を申し上げなければならないのは、

私たち日系人なんです。古橋さんたちの活躍によって、ジャップと呼ばれて肩身

の狭い思いをしておったのが、一夜にしてジャパニーズと呼ばれるようになり、みんな胸を張って街を歩けるようになりました。本当にありがとうございました。」

 

やがて、敗戦のショックから立ち直り、復興著しい日本は、東京でのオリンピック

を計画します。 その招致運動の一翼を担ったのが、フレッド和田でした。

 

「僕は東京でオリンピックが開けるなら、店のことなんて、どうでもええ思うとる。

東京でオリンピック開けば日本は大きくジャンプできるのや。

日本人に勇気と自信を持たせることが出来るやろう。」

 

敗戦から、わずか10数年。
当時の日本政府は外貨が不足していたので、フレッド和田に渡せる費用はなく、

私費で活動してもらうしかありませんでした。

 

東京オリンピックの実現は、中南米諸国の票がカギを握っていました。

1959(昭和34)年3月、和田夫妻はプロペラ機に乗って、10ヵ国を巡る旅に出ました。

中南米の IOC委員を説得して東京開催に賛成してもらうために、旅費も自費なら、手土産まで自らが用意して、きわめて治安が悪い地域を40日間もかけて回り、説得し続けたのです。
夫妻が最初に訪れたのは、メキシコ。

フレッド和田の経営する店はメキシコから野菜を輸入していたという縁もあり、

メキシコは最初に東京支持を表明してくれました。

 

二人が次に赴いたのは、革命直後のキューバ。

戒厳令下にあり、空港のいたる所で兵士たちが銃を構えています。

キューバのIOC委員は、危険を顧みず革命直後のキューバを訪れた夫妻の祖国に対する深く熱い想いに感動し、東京への投票を確約してくれました。

 

ところが、ブラジルでは、

「東京開催を支持するが、投票が行われるミュンヘンの IOC総会に出席する

には、飛行機代など莫大な費用がかかるので、援助がないと出席は厳しい。」

と言われてしまいます。

 

それを聞いたフレッド和田は…

「僕が出します!」

 

その言葉が日系ブラジル人の心を揺さぶります。
「和田さんに出してもらうのは、われわれ日系ブラジル人の恥。
ブラジルのIOC委員の旅費はわれわれが何とかします。」

祖国日本を想う日系人は、ブラジルにもたくさんいたのです。

 

 

こうして、自費で各国を回り続ける和田夫妻の姿は、各国に感動の渦を巻き起こしていきました。

そして、中南米のIOC委員は、続々と東京に投票することを約束してくれたのです。

 

そして迎えた1959年5月、ミュンヘンで IOC総会が開かれました。

 

 

オリンピック開催都市の投票結果は…

ブリュッセル  5票

ウィーン      9票

デトロイト    10票

東京       34票

 

2位以下を大きく引き離して、東京の圧勝でした。

 

東京オリンピックの開催決定から実施までの7年間、日本の年経済成長率は10%にも達し、経済大国の仲間入りを果たしますが、

 

それ以上に、敗戦ですべてを失った日本人が、自信・誇り・希望・勇気を取り戻したことが、東京オリンピックの一番の意義だったのではないでしょうか。

 

 

わたしがフレッド和田勇を尊敬してやまないのは、東京オリンピック後にとった彼の行動ゆえです。

 

東京オリンピックが開催されたのは1964(昭和39)年。

4年後の次のオリンピック開催地は…

そう、メキシコです。

 

「東京を最初に支持してくれた、メキシコへの恩返し」

と、フレッド和田は、2ヵ月近くもメキシコに滞在し、誘致活動から開催までのあらゆるノウハウを伝授しました。

 

彼の献身的な協力に感動したロペス大統領は、メキシコ招致の礼状と記念品を贈呈。

 

フレッド和田は、その後、ロサンゼルス五輪の誘致・開催にも協力、日系人の自分を受け入れてくれたアメリカ社会にも恩返しをします。

 

日系二世の彼が、最後に果たした恩返し…

それは、年老いた日系一世たちのために、ホームを建設することでした。

 

 

日系一世たちが、日本語で日本人の医師と看護師に診てもらえるように。

日本食をとり、日本語で仲間と語り合えるように。

 

そして、三世・四世の若者たちが、後顧の憂いなくアメリカ社会で思いきり仕事ができるように。

 

1989年、彼の夢だった日系引退者ホーム新館が完成しました。

 

この時、日本で集まった寄付金は、なんと4億3600万円。

 

和田夫妻にお世話になった、スポーツ界や政財界の人々が、その恩に報いたのです。

 

争いや虐待など、昨今の悲しいニュースに触れるたび、

「憎しみや怖れはどこまで連鎖するのか…」

と切ない気持ちになりますが、フレッド和田の生涯は、

連鎖するのは憎しみや怖れだけではないことを教えてくれますね(*^▽^*)

愛、感動、そして奇跡の連鎖を巻き起こしていきましょうビックリマーク


ロンドン五輪に寄せて

(2012年7月23日のブログ記事より)

 

ついに九州も梅雨明けです~♪

今年の梅雨は、雨量が多くて、各地で甚大な被害が出ました。

被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。

 

 

今日、出演させていただいた 『今日感テレビ』 も、先週まで被災地からの中継が多く、スタッフの皆さまも沈痛な表情でしたが、今日はまたいつものスタジオに戻って、とてもいい雰囲気で番組が進行していきましたニコニコ

 

いつも旬な情報を提供してくださるスタッフ、出演者の皆さまに、心から感謝ですラブラブ

そしてこんなに素敵な番組の仲間に加えていただいて、最高に幸せです☆彡

それにしても、もうすぐロンドン五輪ビックリマーク

楽しみですね~ラブラブ

 

実は、ロンドンで五輪が開催されるのは、今回が3回目。

1回目は1908年。日本チームは、この次の大会から五輪に参加したので、第1回のロンドン五輪には出場していません。

 

2回目は1948年。戦時中に中断されていた五輪がこの年に復活したのですが、敗戦国である日本は招待されませんでした。

 

でも、もしこの時日本チームが出場できていれば、絶対に金メダルを取れた選手がいます。古橋広之進さんです。

 

古橋さんは、日本水連が五輪の日程にぶつける形で開催した全日本選手権に出場。

 

連日、神宮プールで世界記録を上回るタイムを叩き出し(古橋選手が1500メートル自由形で出した記録は、なんとロンドン五輪の金メダリストのタイムよりも、約40秒も早かったのです!)、日本中を歓喜させましたニコニコ

 

 

ところが、この時、日本は国際水連から除名処分を受けていたので、古橋選手の記録は公認されず、幻の世界記録となってしまいます。

 

その上、海外メディアの中には、古橋選手があまりにも速すぎるので、「日本のプールは短いに違いない」「日本のストップウォッチは壊れている」などと書き立てる新聞もありました。

 

 

悔しい思いの古橋選手に、翌年、チャンスが訪れます。

 

日本の国際水連への復帰が認められ、全米選手権に日本選手団が招待されたのです。

 

米国在住の日系人たちの協力を得て、日本選手団は、万全な体制で大会を迎えました。

 

 

初日の1500メートル自由形の予選A組。

橋爪四郎選手が、2位以下を150メートル以上も引き離してゴールイン、世界記録を樹立しました。

 

そのどよめきが収まらないうちにスタートした予選B組。

今度は古橋選手が、橋爪選手が出したばかりの世界記録を、さらに16秒も縮める大記録を打ち立てたのです。

 

そして翌日の決勝。

古橋、橋爪両日本人選手がデッドヒートを演じます。

 

結果は、1位古橋廣之進選手、2位橋爪四郎選手、3位田中純夫選手。

日本勢がメダルを独占、観衆は総立ちで日本選手たちを讃えました。

 

 

この大会で、日本チームは、自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界記録を樹立。中でも古橋選手は、4種目で世界新記録を連発。

その時ついたあだ名が、かの有名な「フジヤマのフライングフィッシュ(トビウオ)」です。

 

その後、古橋選手は、遠征先の南米で赤痢に罹患し、五輪では無冠に終わりましたが、彼の活躍があったればこそ、敗戦ですべてを失った日本人が勇気と希望を取り戻し、さらにアメリカ社会で「ジャップ」と蔑まされていた日系人が、一夜にして「ジャパニーズ」と呼ばれるようになったのです!!

 

出場したくても出場できなかった過去の選手たち。彼らの分まで、ロンドン五輪に出場する選手たちにはがんばってほしいですねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

フレッド・勇・和田(ふれっど・いさむ・わだ)
愛、感動、そして奇跡は連鎖する!
(2010年9月8日のブログ記事より)

1948(昭和23)年、第二次世界大戦で途切れていたオリンピックの歴史が再開し、夏季五輪が12年ぶりにロンドンで開催されました。

 

ところが、このロンドン五輪、敗戦国である日本は参加を拒否されます。

 

実はこの時、オリンピックに出場していれば、おそらく金メダルを獲得したであろう世界的スイマーが日本にいました。

 

その人の名は、古橋 廣之進さん。

 

 

この年、ロンドン五輪の日程にぶつける形で開催された全日本選手権に出場した古橋さんは、海の向こうのオリンピックを尻目に、連日、神宮プールで世界記録を上回るタイムを叩き出し、日本中を歓喜させました。

 

 

なにせ、この時の日本選手権のレベルの高さは半端じゃないんですビックリマーク

1500メートル自由形決勝では、1位の古橋選手と2位の橋爪選手が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速かったのですからビックリマーク

 

ところが、悔しいことに、日本が国際水泳連盟から除名されていたためにこれらの記録は公認されず、幻の世界記録に…(;し;)

 

 

しかも、海外のメディアの中には、

 

「日本のプールは短いに違いない」とか

 

「日本のストップウォッチは壊れている」

 

なんて、失礼極まりない記事を書き立てる新聞もあったのです。

 

 

この報道を、選手たちと同じくらい悔しい想いで見つめている一人の日系人がいました。

 

フレッド和田勇。

 

1907年、ワシントン州べリングハム生まれ。

貧しい少年時代を送り、日系移民として太平洋戦争を経験、幾多の困難を乗り越えた彼は、戦後、ロサンゼルスに移って青果店を開き、持ち前の才覚と働きぶりで、店を17店舗に増やし、事業を成功させました。

 

1949年(ロンドン五輪の翌年)、日本の国際水泳連盟への復帰が認められ、彼の住むロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に、日本選手が出場。

 

 

終戦後、日本人が今日食べるものにも困っていた時代に、フレッド和田は、自宅に選手一行を泊め、練習の送迎も買って出るなど、親身になって世話をしました。

 

広いベッドルーム、フレッド和田の妻・正子さんが作る栄養満点の日本食に、選手たちは大感激ニコニコ

 

この遠征自体が、日本水連幹部や在米日系人の寄付によって実現したことを知っている選手たちは、和田夫妻の祖国に対する熱い想いに、期するものがあったでしょう。

 

 

大会初日、1500メートル自由形の予選A組。

まず、橋爪選手が、2位以下を150メートル以上も引き離してゴールイン。

それまでの記録を一気に20秒以上も短縮し、世界記録を樹立しました。

 

そのどよめきが収まらないうちにスタートした予選B組。

今度は、古橋選手が、橋爪選手が出したばかりの世界記録を、さらに16秒も縮める大記録を打ち立てました。

 

 

翌日の決勝は、古橋・橋爪両選手がデッドヒートを演じます。

結果は、1位古橋選手・2位橋爪選手・3位田中選手と、日本勢がメダルを独占ビックリマーク

アメリカの選手たちはなすすべもなく、観衆は、総立ちで日本選手たちを讃えました。

 

 

日本チームは、大会3日間を終え、自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界記録を樹立しました。

中でも古橋選手は、4種目で世界新記録を連発。

その時ついたあだ名が、かの有名な「フジヤマのフライングフィッシュ(トビウオ)」だったのです。

 

全米水泳選手権の祝賀パーティーで、フレッド和田は次のように挨拶しました。

 

「先ほど監督さんが、新聞社との電話で、在留邦人が理解してくれたおかげだと言うてくださいました。しかし本当にお礼を申し上げなければならないのは、私たち日系人なんです。古橋さんたちの活躍によって、ジャップと呼ばれて肩身の狭い思いをしておったのが、一夜にしてジャパニーズと呼ばれるようになり、みんな胸を張って街を歩けるようになりました。本当にありがとうございました。」

 

やがて、敗戦のショックから立ち直り、復興著しい日本は、東京でのオリンピックを計画します。

 

その招致運動の一翼を担ったのが、フレッド和田でした。

 

「僕は東京でオリンピックが開けるなら、店のことなんて、どうでもええ思うとる。東京でオリンピック開けば日本は大きくジャンプできるのや。日本人に勇気と自信を持たせることが出来るやろう。」

 

敗戦から、わずか10数年。

当時の日本政府は外貨が不足していたので、フレッド和田に渡せる費用はなく、私費で活動してもらうしかありませんでした。

 

東京オリンピックの実現は、中南米諸国の票がカギを握っていました。

1959(昭和34)年3月、和田夫妻はプロペラ機に乗って、10ヵ国を巡る旅に出ました。

中南米の IOC委員を説得して東京開催に賛成してもらうために、旅費も自費

なら、手土産まで自らが用意して、きわめて治安が悪い地域を40日間もかけて回り、説得し続けたのです。
夫妻が最初に訪れたのは、メキシコ。

フレッド和田の経営する店はメキシコから野菜を輸入していたという縁もあり、メキシコは最初に東京支持を表明してくれました。

 

二人が次に赴いたのは、革命直後のキューバ。

戒厳令下にあり、空港のいたる所で兵士たちが銃を構えています。

キューバのIOC委員は、危険を顧みず革命直後のキューバを訪れた夫妻の祖国に対する深く熱い想いに感動し、東京への投票を確約してくれました。

 

 

ところが、ブラジルでは、

「東京開催を支持するが、投票が行われるミュンヘンの IOC総会に出席するには、飛行機代など莫大な費用がかかるので、援助がないと出席は厳しい。」

と言われてしまいます。

 

それを聞いたフレッド和田は…

「僕が出します!」

 

その言葉が日系ブラジル人の心を揺さぶります。

「和田さんに出してもらうのは、われわれ日系ブラジル人の恥。
ブラジルのIOC委員の旅費はわれわれが何とかします。」

祖国日本を想う日系人は、ブラジルにもたくさんいたのです。

 

こうして、自費で各国を回り続ける和田夫妻の姿は、各国に感動の渦を巻き起こしていきました。

そして、中南米のIOC委員は、続々と東京に投票することを約束してくれたのです。

そして迎えた1959年5月、ミュンヘンで IOC総会が開かれました。

 

 

オリンピック開催都市の投票結果は…

ブリュッセル  5票

ウィーン      9票

デトロイト    10票

東京       34票

 

 

2位以下を大きく引き離して、東京の圧勝でした。

 

 

東京オリンピックの開催決定から実施までの7年間、日本の年経済成長率は10%

にも達し、経済大国の仲間入りを果たしますが、それ以上に、敗戦ですべてを失った日本人が、自信・誇り・希望・勇気を取り戻したことが、東京オリンピックの一番の意義だったのではないでしょうか。

 

わたしがフレッド和田勇を尊敬してやまないのは、東京オリンピック後にとった彼の行動ゆえです。

 

 

東京オリンピックが開催されたのは1964(昭和39)年。4年後の次のオリンピック開催地は…

そう、メキシコです。

 

 

「東京を最初に支持してくれた、メキシコへの恩返し」

と、フレッド和田は、2ヵ月近くもメキシコに滞在し、誘致活動から開催までのあらゆるノウハウを伝授しました。

 

彼の献身的な協力に感動したロペス大統領は、メキシコ招致の礼状と記念品を贈呈。

 

 

フレッド和田は、その後、ロサンゼルス五輪の誘致・開催にも協力、日系人の自分を受け入れてくれたアメリカ社会にも恩返しをします。

 

日系二世の彼が、最後に果たした恩返し…

それは、年老いた日系一世たちのために、ホームを建設することでした。

 

日系一世たちが、日本語で日本人の医師と看護師に診てもらえるように。

日本食をとり、日本語で仲間と語り合えるように。

 

 

そして、三世・四世の若者たちが、後顧の憂いなくアメリカ社会で思いきり仕事ができるように。

 

 

1989年、彼の夢だった日系引退者ホーム新館が完成しました。

 

 

この時、日本で集まった寄付金は、なんと4億3600万円。

 

和田夫妻にお世話になった、スポーツ界や政財界の人々が、その恩に報いたのです。

 

 

争いや虐待など、昨今の悲しいニュースに触れるたび、

「憎しみや怖れはどこまで連鎖するのか…」

と切ない気持ちになりますが、フレッド和田の生涯は、連鎖するのは憎しみや怖れだけではないことを教えてくれますねニコニコ

 

愛、感動、そして奇跡の連鎖を巻き起こしていきましょうラブラブ


準備中です
暫くおまちください

北条 早雲(ほうじょう そううん)
56歳つながりで思い出しました!

(2009年8月31日のブログ記事より)

 

伊能忠敬の “ 56歳からのチャレンジ ” に、たくさんコメントを

いただきまして、ありがとうございます♪

 

わたし、人にはそれぞれ “ 伸びしろ ” があると思うのですが、

それがどの時期に花開くか…って、人によって違いますよね。

 

たぶんその人にとってベストな時期に伸びしろが用意されていると思うのですが、伊能忠敬のように、50歳を過ぎて花開く人生って素敵だし、人生捨てたもんじゃないなぁと思うし、わたしの人生もまだまだこれからだぁ…ってニコニコ

 

いつも、昨日よりもっと素敵な今日を迎えられていることに、心から感謝ですラブラブ

 

そうそう、56歳から人生が花開いた歴史上の人物、もう一人知ってますビックリマーク

 

…北条早雲ですビックリマーク

 

早雲は、一介の素浪人から戦国大名にまで上りつめたと言われ、

小田原城の北条5代の礎を築きましたが、その早雲が駿河に下向し、興国寺城主となったのが56歳のときと伝わっています。

 

あの有名な伊豆討ち入りは62歳のとき、最晩年の80歳を過ぎても

自ら兵を率いて戦ったと言われていますから、早雲は大器晩成の典型と言えるかもしれません。

 

しかも、アンチエイジングが進んでいる現代の56歳と、当時の56歳では、実年齢は同じでも、年齢の尺度というか、感じ方が、明らかに違います。

現代の年齢を7掛けにしたものが、当時の年齢のイメージに近いということなので、逆に、忠敬や早雲の56歳というのは、現代における80歳に相当するわけです。

 

そう考えると、ますます二人の偉業が際立ちますよね↑

 

歴史を知れば、「もう年だから…」 という言葉が、世の中から消えてなくなりそうですねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

ポールクローデル
福岡・東京・大阪で、歴史講座を開催します♪

(2011年2月8日のブログ記事より)

 

講演で私がお伝えしたいことは、一貫しています。

 

「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界にただ一つ残って


ほしい民族があるとすれば、それは日本人だ。」

 

 

 

これは、明治末期から大正にかけて駐日フランス大使を務めた、

詩人・クローデルの言葉です。

 

彼は、第2次世界大戦の真っただ中の1943年、パリで行われた

自身の講演会でこのように述べたのです。

 

敵国であるフランス人から、ここまで称賛された日本人の気高く

美しい生き方。

 

ところが、いつの頃からか、私たちは、その“徳”を求める

生き方を捨て、“得”を追い求めるようになってしまいました。

 

 

日本に生まれ育った私が、母となり、次代を担う子どもたちに

何を伝えたいか…。

近ごろよくそんなことを考えます。

 

 

私が伝えたいこと、それは、私たちが忘れかけている先人たち

の美しい生き方です。

 

 

その本来の日本人の生き方を取り戻した時、私の身に奇跡が

起こりました。

 

 

「この状態で助かった人は、見たことがありません。」と主治医

から言われて1ヶ月半…癌細胞が跡形もなく消えたのです。

 

 

もしかしたら、この日本人らしい生き方が、私たちのDNAONしてくれるのかもしれません。

 

 

『歴史から紐解く 21世紀の子育て』

 

『歴史から紐解く 日本人の夢の叶え方』

 

『歴史から紐解く 男と女の魅力学』

 

『歴史から紐解く 日本人の労働観』

 

 

などばど、ご参加くださる方々に応じてテーマは変わりますが、

具体的な歴史エピソードをご紹介しながら、日本人の素敵な生き方を伝えていきたい…という想いはいつも同じですニコニコ


準備中です
暫くおまちください

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)
天皇が助けたかった才能☆彡

(2010年10月12日のブログ記事より)

 

天下分け目の関ヶ原の戦い。

 

後に肥後熊本 ・ 細川家の初代となる細川幽斎は、東軍の徳川家康に味方し、500に満たない手勢で丹後田辺城に籠りました。

この時、幽斎、67歳。

 

 

田辺城は、西軍 1万5千の大軍に包囲されます。

数の上では圧倒的な劣勢にもかかわらず、百戦錬磨の幽斎が指揮をとる城方の抵抗は激しく、、逆に、攻囲軍の中には、幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となりました。

 

細川幽斎……彼は、戦乱の世を生き抜き、信長 ・ 秀吉 ・ 家康の3代に仕え重用された戦国武将の一人であり、

 

同時に、和歌 ・ 連歌 ・ 茶道 ・蹴鞠 (けまり) などの文芸を修め、さらには囲碁 ・ 料理 ・ 能 ・ 猿楽などの造詣にも深く、当代随一の文化人、教養人でもあったのですニコニコ

 

 

この幽斎の教養を、国の至宝と思われたのは、ほかでもない、時の帝 ・後陽成 (ごようぜい) 天皇でした。

 

 

『古今和歌集』 の解釈を中心に、和歌の極意を師から弟子に口伝する『古今伝授』。

その唯一の継承者であった幽斎は、愛弟子 ・ 八条宮智仁親王

(はちじょうのみや としひとしんのう) に、その秘伝を授けてきました。

 

そして、師である幽斎から弟子 ・ 智仁親王へ古今伝授が受け継がれるのを目前にして、関ヶ原の戦いが起きたのです。

 

幽斎は、田辺城の籠城戦で武人としての最期を飾る覚悟を決めますが、

自分が死ぬことによって古今伝授が途絶えてしまうことを心配し、智仁親王へ、古今伝授の資料を献上したいという旨を伝えます。

 

それをお聞きになった智仁親王は、幽斎の身を案じ、田辺城に使者を派遣して開城を勧めますが、幽斎は親王のお心に感謝しながらも、

「武人として本意ではない」 と拒否し、籠城を続けます。

 

そして、使者を通じて古今伝授の資料を収めた箱と、『古今伝授証明状』を贈ることで、親王に対する古今伝授を完了させたのです。

 

これらに添えられた短冊に、幽斎は見事な歌を詠み、この時の心情を表しました。

♪ 古へ(いにしえ)も 今もかはらぬ世の中に 

            心のたねを のこす言の葉 

 

 

 

幽斎の決死の覚悟は、智仁親王の兄である後陽成天皇の耳にも

入りました。

後陽成天皇は、幽斎の身を案じ、田辺に向けて勅使を派遣。

 

 

幽斎が説得に応じないことを予想された天皇は、田辺城を包囲する西軍に対して、

 

「幽斎は文武の達人にて、殊に古今伝授を伝えた帝王の御師範である。いま幽斎が命を落とさば、世にこれを伝うる者なし。速やかに囲いを解くべし。」

と、停戦を命じたのです。

 

勅使は、西軍に囲みを解かせたあと、城内に入り幽斎を説得。

ついに幽斎は城を明け渡すことを決意、こうして、50日以上の長期間にわたる籠城戦は幕を下ろしました。

 

 

勅命による講和…。

天皇が助けたかった才能とは、たぐいまれな幽斎の教養であり、千年の昔から連綿と和歌に込められてきた、日本人の心だったのでしょうラブラブ

 

武人としての誉れよりも、大和心を継承することを選んだ幽斎。

そして、交戦中の西軍の諸将にも、その大和心は受け継がれていた……

だからこそ、田辺城の攻防戦は、天皇の思し召し一つで終結したのでしょう。

 

 

美濃 ・ 関ヶ原で西軍が大敗を喫したのは、田辺城の両軍の間で講和が結ばれて2日後のことでした。

 

息子 ・ 細川忠興の関ヶ原での奮戦に加え、父 ・ 幽斎が50日にもわたって西軍の大軍を田辺城に釘付けにしたことが勝利に貢献したとして、細川家に、家康から恩賞の打診がありました。

 

 

この時、幽斎は、籠城中に自分たちと志を同じくし、停戦に応じた敵に対し、情けをかけていただきたいと進言したそうです。

 

政治が文化に介入する国がある一方で、文化を護るために、自らの利を捨て去ることのできる民族……

 

それが、私たち日本人ですニコニコ

 

素敵な歴史を積み上げてくださった先人たちに心から感謝し、

私たちも過去の歴史に倣って、目先の利益にとらわれずに本当に大切なものを護っていきたいですね☆彡


準備中です
暫くおまちください

前田 利家(まえだ としいえ)

がんばろう、西日本!

(2011年4月10日のブログ記事より)

義妹の結婚式に参列するため、横浜に行っていました(*^▽^*)

 

一年のうちで最も美しいこの季節、満開の桜のもとでの結婚式…本当に心に残る一日でしたラブラブ

 

 

庭園の桜を眺めながら催されたささやかな披露宴では、生花をはじめとした華美な飾りは一切ありませんでした。

 

新郎&新婦の意向で、その分を、震災の義援金として寄付するそうです。

 

 

震災以来、各地でお花見やイベントの自粛が目立っていますが、私は、はしゃぎすぎるのがよくないだけで、被災地にいらっしゃる方々に想いを馳せながら、

生かされている命に感謝してささやかなお祝いをすることは、決して悪いことではないと思います。

 

新郎&新婦の二人も、いろいろ悩んだ末の挙式&披露宴でしたが、とてもいい一日でしたし、親族として参列できて、本当に嬉しかったですラブラブ

 

ところで、私が一番驚いたのは、東京や横浜が暗かったことです。

 

どの会社もお店も、節電に協力しているので、街全体がとっても暗いのです。

 

もちろん節電のことは聞いていましたが、ファミリーレストランやコンビニも、営業中なのか閉店したのか判断がつかないほどで、その暗さたるや、想像を超えています。

 

節電はいいことですし、私自身も、これからもずっと取り組んでいこうと思っていますが、暗い街を歩きながら、

「やっぱり私たち西日本組ががんばって、日本経済を活性化させていかなきゃぁビックリマーク」 と決意を新たにしました。

 

私は、復興支援の一環として、『歴史から紐解く 日本人の愛の絆』 というテーマで、大好きな歴史エピソードを集め、30分ほどの音声データをつくったのですが、

 

その中で最も反響が大きいのが、戦国大名の宇喜多秀家とその妻 ・ 豪姫、そして彼女の実家である加賀前田家の愛の物語です。

 

関ヶ原で西軍の主力として戦った秀家は、戦後処理で、領地を没収された上に、息子とともに八丈島に流されました。

 

生まれながらの貴族であり、秀吉の寵愛を受けて成長した秀家が、八丈島で生き延びていくには、どれほどの苦労があったことか…。

 

その秀家を、妻の豪姫は一生慕い続け、徳川幕府の許しを得て、米や衣類、薬、日用品などを、二年に一度、船で八丈島に送り続けました。

 

 

ある時、豪姫が、絵師に描かせた自分の肖像画を八丈島に送りました。

 

その肖像画が、以前、テレビ番組で紹介されたのですが、ほかの部分は色もきれいなのに、額のあたりだけ擦れて色がなくなってしまっていました。

 

 

秀家とともに島流しにされた息子たちが、「母上、母上…」 と涙を流しながら、

来る日も来る日も額のあたりを撫でていたから、薄くなったのだそうです。

 

 

歴史の渦に巻き込まれ、引き裂かれた家族の絆を思うと、本当に切ない気持ちになります(;し;)

 

この、前田家から宇喜多家への物資援助は、豪姫が生きている間はもちろんのこと、彼女の死後も、ずっと続けられ、明治に入って、戦争犯罪人としての宇喜多家の罪が解かれるまで、250年も続いたのです。

 

 

その昔、一族の中に、豪姫という可憐なお姫さまがいた、

その姫は、遠い八丈島にいる家族のことを思い続けて亡くなっていった、彼女の想いを、この先もずっとずっと大切にしよう…

 

そんな加賀前田家を、歴史に持つことのできた私たちは、本当に幸せですラブラブ

 

でもこの話、前田家の人々の心だけが素晴らしいわけではないんです。

 

江戸時代中期から後期にかけて、各藩の財政が破たんしていく中、前田家の財政は幕末まで健全であり続け、宇喜多家を支援するだけの財力を保ち続けていたのです!!

 

加賀前田百万石の藩祖 ・ 前田利家は、“槍の又左(またざ)” という愛称で呼ばれ、その名の通り、武勇に優れていました。

 

 

ところが、利家が武術以上に得意だったのは、なんと意外なことに、当時の日本に伝わったばかりのそろばんでした。

 

利家は、若い頃、主君 ・ 信長の側近を斬った罪で織田家から追放され、

約2年間の失業を経験しました。

 

その間、親しかった人もほとんど寄りつかなくなり、世間の冷たさとお金の大切さを痛感したのでしょう。

 

その後は自らがそろばんを用い、前田家の所領がどれだけ増えても、お金の使い道を人任せにせず、利家自身が前田家のすべての決済を行いました。

 

その利家の几帳面さを、前田家は代々受け継いでいったのでしょうね。

 

 

それにしても、戦国武将として名高い利家が、背中を丸めてそろばんの玉を弾く姿を思い浮かべると、何とも言えず微笑ましい気持ちになりますねニコニコ

 

 

私たちが、被災地の方々の想いに寄り添い、行動にうつすには、前田家のように、想いを持ち続け、財力を保ち続けることが、ともに重要な気がします。

 

 

西日本の皆さん、心を一つにしてがんばりましょうねビックリマーク


準備中です
暫くおまちください

正岡 子規(まさおか しき)
遺伝子に感謝☆彡

(2014年3月6日のブログ記事より)

 

昨年3月に出版させていただいた『感動する! 日本史』。

 

出版社さんからご提案いただいたサブタイトルは、「日本人は逆境をいかに生きたか」でした。

 

このサブタイトルを伺った時、私は自分の人生と照らし合わせ、どうしても書きたいエピソードが浮かんだんですね。

 

それは、私が大病を患い、死を覚悟した時に、私に生きる力を与えてくれた、明治の俳人・正岡子規のことでした。

 

 

でも、思い入れが強ければ強いほど、原稿って書きにくいんです。

何度も読み返し、書き直して、あの原稿が出来上がりました。

 

それから約一年…。

思いがけない方から、思いがけないメールをいただきました。

 

 

その方は、たまたま本屋さんで『感動する! 日本史』を手に取ってくださったそうですが、メールの主は、なんと正岡子規のお孫さんビックリマーク

 

といっても、子規は独身で亡くなっていて、妹の律さんにも子どもはいませんでした。

子規のいとこにあたる方が養子に入って正岡家を継いでいて、その方の息子さんからご連絡をいただいたのです。

 

関西在住の方で、今月末に大阪で講演する時にお会いできることになったのですが、私はその方の職業を伺った時、胸がいっぱいになって言葉も出ませんでした。

 

その方のご職業は、樹木医だそうです。

 

「花は我が世界にして草花は我が命なり」

これは、子規の言葉です。

 

子規は幼い頃から自然が大好きでしたが、脊椎カリエスという難病を患い、病床に伏すようになってから、自宅の庭の小さな自然に慰められ、自分の命を草花に投影し、限りない優しさを詩歌で表現しました。

 

子規のお孫さんは、短歌や俳句の世界で直接的に子規の跡を継いだわけではありませんが、自然を愛する心が、正岡家の遺伝子になって、このお孫さんに受け継がれたんだなぁと思ったら、何とも言いようのない感動が胸に広がりましたニコニコ

 

遺伝子って、自分では何一つつくれませんからね。

すべて、両親やご先祖様や先人たちから受け継いだもの。

それこそが宝物なんじゃないかと思います。

私たちの遺伝子にも、宝物が必ず組み込まれているんですよニコニコ

 

『古事記』に描かれた天孫降臨によれば、アマテラスさんは孫のニニギノミコトに、三種の神器と稲穂を持たせました。

 

「たったこれだけ…?」と不安がるニニギノミコトに、アマテラスさんはこうおっしゃったそうです。

 

「必要なものはすべて持たせてあるよ」って。

 

言い換えれば、これは「持ってるもので勝負しなさい」ということですよね☆彡

 

稲穂とは、日本人にとってのソウルフード。

稲穂は、私たちが持って生まれた何かの才能、つまりご先祖さまからの贈り物を意味しているのではないでしょうか。

 

「もっと、もっと…」

と、外にあるものを必死で求めるのではなく、すでにあるものに感謝し、生まれながらにして備わっているもので勝負する。

 

それこそが日本人の生き方なのかもしれませんね。


10月は関西月間です!?

(2014年9月18日のブログ記事より一部抜粋)

 

10月最後の週は、関西にお邪魔します。

25日(土)午後6時半から京都で新刊の出版記念講演会ビックリマーク
…と言いつつ、実は新刊にあまり関係ない西郷さんのエピソードが中心です(笑)

http://kokucheese.com/event/index/201741/

翌26日(日)午前11時からは、奈良で正岡子規のお話をさせていただきます。

子規が元気なころに最後に旅したのが奈良で、そのときに詠んだ名歌が「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」です。

子規が愛でた旅館のお庭を、なんと子規のお孫さんが再現。
その景色を味わいながら、講演と食事を堪能していただくという、子規友の会のイベントです。

子規をはじめ明治の文豪や名だたる人々が泊まった旅館は、「天平倶楽部」という素敵な和食屋さんとして生まれ変わっているのです。

京都と奈良という歴史の重みを感じられる古都で連日講演させていただけること、とても幸せですニコニコ

関西地方にお住まいの皆さま、どちらか一日でもお目にかかれたら嬉しいですラブラブ

もし2日続けてお越しいただける方がいらっしゃいましたら、ぜひ事前にメッセージをください。
何かプレゼントをご用意しますね。


準備中です
暫くおまちください

松江 豊寿(まつえ とよひさ)
第九に秘められた日本人の想い☆

 

(2010年11月24日のブログ記事より)

 

第九のメロディーが聞こえてくると、いよいよ年末が近づいてきたなぁ…って実感しますねニコニコ

 

今や日本人が愛してやまない “第九” ですが、この曲が日本で初めて奏でられたのは、1918年6月1日、ウィーンでのベートーベンの初演から94年後のことでした。

場所は、徳島県鳴門市大麻町板東。

 

日本初演が東京の音楽ホールでなく、四国 ・ 徳島であったことに驚く方も多いと思いますが、それ以上の驚きは、演奏者がドイツ人捕虜であったという事実です。

 

今日は、徳島の地で、世界史上類例をみない、俘虜たちによる文化が花開き、第九の日本初演という音楽史の1ページを飾るにいたったストーリーをご紹介しますね♪♪

(ちなみに、当時の捕虜は、収容されると 「俘虜」 と呼ばれました。)

 

1914年、第一次世界大戦が勃発すると…

日本は同盟国イギリスの要請で、ドイツに対して宣戦布告。

 

中国におけるドイツの拠点 ・ 青島が日本軍の攻撃で陥落すると、4700名ものドイツ人が捕虜となり、日本各地の収容所に送られました。

 

ところが、当時の日本では国際条約に基づいた外国人捕虜の収監施設がなかったため、1917年4月、徳島県鳴門市に板東俘虜収容所を新設、1000人のドイツ人捕虜を移したのです。

 

のどかな農村地帯に突如として現れた新しい施設と、1000人ものドイツ人俘虜に戸惑いを隠せなかった地元の人々も、程なくその環境に慣れ、俘虜たちを受け入れ、積極的な交流を始めました。

 

 

板東は、四国のお遍路さんを受け入れる一番札所の地。

人々は、各地からやってくる旅人を泊めもてなすことを 「お接待」 と呼び、これを誇りとして生きてきたので、異国の元将兵がやって来ても、抵抗感は少なかったのでしょう。

 

板東の人々は、親しみをこめて俘虜たちを 「ドイツさん」 と呼びました(*^-^*)

 

「ドイツさん」 たちは、町の人々に、酪農のやり方やパンの焼き方、ビールや楽器の作り方など、先進国 ・ ドイツの技術や文化を伝えました。

 

元ドイツ兵たちが住民の便宜のために造った石橋は、90年以上経った今も、ゆるぎない姿を留め、文字通り、日独の架け橋となっています。

 

収容所内では、演奏会や演劇公演などが盛んに行われ、楽器や楽譜の製作 ・ 調達に苦労しながらも、なんと五つのオーケストラと二つの合唱団が結成されたと言われています。

 

そんな音楽好きな 「ドイツさん」 たちが、演奏会を積み重ね、技量を向上させながら取り組んだ最大のイベントが、1918年6月1日の第九の演奏だったのです。

 

第九となればソリストと合唱団に女声が必要となりますが、困ったことに、俘虜は男ばかりなので、やむを得ず、楽譜の該当部分を男声用に書き換えるなど、幾多の苦労を重ねながら練習したということです。

 

また、「ドイツさん」 たちは、時には、収容所の外でスポーツに興じることもあり、そんな時は、多くの地元っ子たちが温かい声援を送りました。

 

戦勝国民と俘虜という枠を超えた交流が、故郷を遠く離れ、大きな不安を抱えて過ごすドイツ人俘虜たちの心を、どれほど慰めたことでしょう♪♪

 

「おごる勝者とみじめな敗者」 という図式は、ここ板東俘虜収容所には、そのカケラも見られませんでした。

 

なぜなら、板東俘虜収容所は、松江豊寿所長の深い人間愛で支えられていたからです。

 

松江所長の口癖は、「ドイツの兵隊さんたちも捕虜とはなったものの、お国のために戦ったのだ、囚人ではない」。

 

戊辰戦争で “朝敵” の汚名を着せられ、敗者の悲哀を味わった会津…

そこで生まれ育った松江所長だからこそ、ドイツ人たちの気持ちを誰よりも理解し、思いやることができたのでしょう。

 

1918年11月に休戦条約が締結されると、ドイツ人たちは順次帰国し、1920年2月、板東俘虜収容所は、2年8ヵ月に及んだ役割を終えました。

 

戦う時は潔く戦い、ひとたび戦いが終わったなら、お互いの勇気を讃え合い、捕虜に辱めを与えない…それが、武士道。

 

武士道に触れ、プライドを保ち続けることができたドイツ人たちは、口々に松江所長に感謝の言葉を述べて、帰国の途についていきました。

「あなたが示された寛容と博愛と仁慈の精神を、私たちは決して忘れません。

そしてもし私たちよりさらに不幸な人々に会えば、あなたに示された精神で臨むことでしょう。『四海みな兄弟なり』 という言葉を、私たちはあなたとともに思い出すでしょう。」

 

第九の日本初演には、「四海みな兄弟なり」 という日本人の崇高な想いが秘められていたのですねニコニコ

人は、誰かの優しさに触れるから、悲しみを乗り越えることができます。

松江所長の優しさに触れ、敗者の悲哀を乗り越えた多くのドイツ人たちが、その後の人生で、傷ついた誰かに出会ったとき、今度は彼らがその人を優しく包んであげたことでしょうラブラブ

 

第九を聞くたびに、人々の悲しみが癒されて、優しさがリレーされていく…

このエピソードを知ると、そんな魔法にかかってみたくなりますねニコニコ


準備中です
暫くおまちください

御木本 幸吉(みきもと こうきち)
エジソンを唸らせた男☆

(2010年10月4日のブログ記事より)

 

かの有名な発明王 ・ エジソンは、

「自分に作れなかったのはダイヤモンドと真珠だ」

という言葉を残しています。

 

 

これは、ある日本人の功績に対して向けられた、賞賛の言葉でした↑

 

 

その日本人の名は…御木本 (みきもと) 幸吉。

 

彼は、世界の真珠をリードするミキモトの創業者であると同時に、

偉大な発明家でもあったのです。

 

 

そもそも真珠は、貝類が体内に取り込んだ異物をカルシウムなどで包みこむことで生み出される宝石で、人工的に真珠を貝に作らせる技術は不可能だろうと考えられてきました。

 

 

その常識を覆したのが、御木本幸吉です。

 

 

三重県鳥羽のうどん屋の長男として生まれた幸吉は、海産物取引に転進を図り、地元の産業振興に尽力しましたが、やがて、天然真珠の魅力にとりつかれます。

 

 

「この美しい真珠を、なんとか人間の力で作り出すことができないだろうか。」

という想いが、幸吉の脳裏から離れません。

 

 

そんな中、幸吉は、真珠を生み出すアコヤ貝が、真珠確保のために乱獲され絶滅の危機に瀕していることを知ります。

 

真珠は、実際に貝を開けてみるまで形成されているかどうかを知ることはできない上に、真珠を見つけるために貝柱を切られて口を開けられた貝は、息絶えてしまうのです(>し<)

 

 

この事態を憂慮した幸吉は、1888年にアコヤ貝の養殖に乗り出しますが、

真珠を生まない限り商品としての価値が低く、経費倒れに終わりました。

 

 

このため、発想を転換し、『真珠の養殖』 を最終目的に据え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をするという、採算のとれる計画に変更しました。

 

海産物の商売で蓄えた私財を投じて、アコヤ貝の生態調査と真珠養殖のための研究を開始、幸吉の第二の人生が始まったのです。

 

それは、1890年、幸吉32歳、妻のうめが26歳の時のことでした。

 

 

アコヤ貝に適した生息環境とは…?

アコヤ貝はどんな餌を食べるのか?

真珠の核に適した物質は何か?

 

 

調べることは山ほどあります。

また、海面及び水面下を利用するために、地元漁業者や漁業組合との交渉、役所との折衝など、技術以外の面でも大変な苦労があったでしょう。

 

 

それでも、幸吉は、一つ一つ問題をクリアしながら、根気よく協力者と共に研究を続けていきました。

 

 

ところが、1892年11月、幸吉の養殖場に赤潮が押し寄せてきて、養殖中のアコヤ貝がすべて死んでしまいました。

足掛け4年にわたってお金と労力をつぎこんできたのに、そのすべてが、一日で水泡に帰してしまったのです。

 

心ない人々の 「真珠狂い」 という陰口と嘲笑に負けずに、幸吉は再出発の資金をつくるために、再び海産物の取引に励みながら、さらに研究を続けていきました。

 

 

そしてついに1893年7月、真珠形成実験を行っていたアコヤ貝の中に、

半円真珠が出来ているのを発見しますビックリマーク

 

 

半円ながらも養殖真珠ができたことに自信を得た幸吉は、さらに研究を重ね、

1896年に真珠養殖法の特許を取得しました。

 

 

こうして、すべてがうまくいきかけたかに見えた時…

幸吉の良き理解者であり、最愛の妻であるうめが、32歳の若さで病死してしまいます。

 

それからというもの、妻の位牌をなでては感謝の報告をするのが、幸吉の日常の習慣となったのです。

 

 

その後も、幸吉は、研究に研究を重ね、何度も実験を繰り返しました。

 

 

そして妻の死から10年後…

1905年、幸吉はとうとう完全な真円真珠の養殖法を確立しますニコニコ

 

幸吉がアコヤ貝の養殖にとりかかってから、18年の年月が経っていました。

その後、アコヤ貝の養殖のための技術も確立し、名実ともに真珠に関する発明の全てを独力で成功させた幸吉は、1927年に渡米し、エジソンとの会見を果たします♪

 

 

その席上で、エジソンが幸吉の果たした功績を讃えたのが、冒頭の言葉だったのです。

 

 

「自分の研究所でできなかったものが二つある。

一つはダイヤモンドで、いま一つは真珠である。

あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成させたことは、世界の驚異だ。」

 

 

この世界の発明王の賞賛の言葉に対し、幸吉はあくまで謙虚に、次のように答えたと伝えられています。

 

「あなたが発明家の月なら、私は数多い星の一つにすぎません。」

 

 

幸吉には、もう一つ、有名なエピソードがあります。

 

 

1905 (明治38) 年、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、

明治天皇に拝謁する栄誉を与えられました。

 

この時、真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階でしたが、

幸吉は、天皇に対し 「世界中の女性の首を真珠で飾ってご覧に入れます」と大見得を切ったのですビックリマーク

 

 

この言葉を聞いて、周囲の人間は大いに慌てましたが、幸吉はその後、

真珠の養殖技術を完成させ、さらに真珠を宝石市場の中心に位置させるためのあらゆる努力を惜しみませんでした。

 

そして、見事に、自身の言葉を実現させたのですニコニコ

 

 

世界中の誰もがなしえなかった真珠の養殖に、日本人が成功したこと、

そして、その快挙が 「世界中の女性を真珠で飾りたい」 という一人の男の無邪気な想いから出発したことを思う時、

 

人生って、本当に素敵だなぁ…

 

と、しみじみと感じますニコニコ

 

 

幸吉にとって、真珠で飾りたかった女性は、母親と妻だったのではないかと思うのです。

 

 

パナソニックの創業者である松下幸之助さんが、「大好きなお母さんにラクをさせたい」 という想いから電化製品を発案していったように、ミキモトの真珠も、大切な女性たちへの愛が支えたのではないでしょうか。

 

伊勢の内宮と外宮を結ぶ “御木本道路” は、幸吉の発案と寄付によるものだそうです。

 

私たちが、気軽にパワースポットめぐりができるのも、幸吉のおかげですね☆彡


エジソンを唸らせた男のもう一つのエピソード

(2010年10月4日のブログ記事より)

 

前回の記事を読んでくださった方々から、心のこもったメールやメッセージ、コメントをたくさんいただきましたラブラブ

 

皆さまの真心に触れ、感激していますニコニコ

 

本当にありがとうございますビックリマーク

 

その中で、歴史に対する造詣が深く、素晴らしい記事を書いていらっしゃる早川浩士さんが、素敵なエピソードを教えてくださいましたので、ご紹介させていただきますね。

 

 

御木本幸吉氏は、若い頃、名古屋 ・ 横浜 ・ 東京 ・日光 ・ 今市 (栃木県) をめぐる長い旅に出ました。

 

今市は、二宮尊徳ゆかりの地。

 

ここで、今さらですが、二宮尊徳の生涯を簡単にご紹介すると…

 

小田原の裕福な農民の子として生まれましたが、幼少時に生家は没落、

両親とも死別して、つらい日々を過ごさなければなりませんでした。

薪を背負い、本を手にした少年金次郎のイメージは、その頃のものです。

 

ひたすら勤勉と倹約に努め、20歳代で生家を再興。

小田原藩の家老 ・ 服部家の財政建て直しに成功し、次いで藩主 ・ 大久保忠真(ただざね)の命により、桜町領 (栃木県二宮町) を10年がかりで復興させました。

「二宮町」 という地名は、二宮尊徳の名にちなんでつけられたのです。

 

晩年は、今市に移り住み、荒れ地の復興に尽力。

二宮堀 ・ 二宮林をはじめ、多くの事業を展開しました。

村づくり、人づくりに力を注ぎ、その成果は、今市の地に、今でも脈々と生き続けています。

 

…というわけで、この旅の途中、幸吉は、二宮尊徳の存在を知って大きな感銘を受け、「私は志摩の尊徳になりたい」 と常々口にするようになりました。

その後、幸吉は、フィラデルフィアの万国博覧会に養殖した真珠を出品して、『世界の真珠王』 と呼ばれるまでになりましたが、

事業の成功を地元の地域活動に活かすため、道路や橋の改修工事などに資金供与しながら、自ら労力奉仕も買って出たそうです。

 

そして、自らを奮い立たせてくれた二宮尊徳の生誕地である神奈川県小田原市栢山 (かやま) を訪れたとき、生家の跡地が荒れ果てているのを嘆き、その一帯の土地を買収して中央報徳会に寄贈。

 

現在、その一帯には、尊徳翁生家が保存再建され、小田原市が所管する尊徳記念館が建てられています。

 

以上が、早川さんからの情報ですニコニコ

早川さん、素敵なエピソードを教えてくださって、ありがとうございますラブラブ

 

以前、何かの本で読んだのですが、「人材を育てるためにまず初めにやるべきことはなんですか?」 という質問に対して、経営の神さま ・ 松下幸之助さんは、

「伝記を読ませること」 と答えていらっしゃいました。

 

学力以上に徳育を重視していた戦前の日本には、単なる事業の一成功者にとどまらず、人としての美しいあり方を示してくれる “生き方の達人” たちが数多くいらっしゃいますが、御木本幸吉氏も、その一人ですねラブラブ

 

戦争で焼け野原となり、すべての自信を失った日本人は、それまで自分たちが

宝物のように大事にしてきた “徳” をかなぐり捨て、“得” という価値観に飛びついてしまいましたが、

戦後65年、そろそろ日本人らしさ (日本人の価値観、日本人の誇り) を取り戻したいですねビックリマーク

 

江戸時代末期から明治 ・ 大正時代にかけて日本を訪れた外国人たちは、

貧しくとも美しい生き方を貫く人々を見て、みなカルチャーショックを受けています。

 

幸せは、経済的な豊かさではなく、心の豊かさで決まることを、私たちのひいおじいちゃんやひいおばあちゃんが、証明してくれているのです。

 

美しい生き方、真のプライドを持てる生き方を歴史から学んで、大和心のタスキを次代にリレーしていきましょう♪


準備中です
暫くおまちください

本居 宣長(もとおり のりなが)
松坂の一夜☆

(2013年10月6日のブログ記事より)

外宮さんの遷御の儀が行われた日に、伊勢で講演させていただいた幸せをかみしめながら、福岡に帰ってきましたニコニコ

 

松坂から船に乗り、伊勢湾を航行してセントレアへ…♪

 

今まで何度も伊勢を訪れ、セントレアも何度も利用していますが、船でセントレアに向かったのは初めてで、秋晴れのクルージングは最高でしたラブラブ

今、もっともっと歴史を知りたい、日本の文化を味わいたいという思いにかられていて、松阪にある本居宣長記念館に寄ってきました。

“松阪の一夜(ひとよ)”。

伊勢神宮に参詣した賀茂真淵(かものまぶち)に宣長が会いに行ったのが251年前。

どこの馬の骨ともわからない宣長に、真淵は思いを託します。

「万葉集の研究を踏まえて古事記を読み解くのが自分の夢だった。万葉集の研究は進んだが、自分に残された時間は少ない。ついに古事記まで行きつけなかった。でも、若いあなたならたっぷり時間がある。ぜひ万葉集から古事記に、研究を深めっていってほしい。」

きっと真淵はこんな思いだったんじゃないかな。

 

それはまさに、空海に出会った恵果阿闍梨が、ひと目で自分の後継者だと見抜いた瞬間のような、短時間ではあっても濃密なひとときだったのでしょう。

 

二人が直接会ったのは、後にも先にもこの一度きり。

 

真淵は、亡くなるまでの6年間、時に怒り、時に励ましながら、手紙で自分の研究成果のすべてを宣長に伝えていったのです。

 

そこには、「師である自分を超えていけ」という真淵の思いが溢れていて、その思いこそが、未来に対する確かな希望になっていたんだと、気づかされました。

 

こんなに感動したのは、20年前に松山の正岡子規記念館を訪れて以来。

日本には、愛に溢れた素敵な土地がたくさんありますねラブラブ

 

本居宣長記念館の吉田館長から伺った素敵なお話もたくさんあるのですが、それは、これから執筆する本に書かせていただきますので、お楽しみに…ラブラブ


パールネットワーク♪

(2013年10月16日のブログ記事より)

 

昨日、『アンパンマン』の生みの親・やなせたかしさんが亡くなったという知らせを聞き、小学校時代、悲しいことやつらいことがあると、よくお風呂の中でひとり、『手のひらを太陽に』を口ずさんだことを思い出しました。

 

ふだんは、目の前のことに集中しているので、あまり過去を思い出すことはないのですが、なんだか懐かしくて温かい気持ちになりましたラブラブ

 

 

すると、今までのことが次々と思い出され、私の身に起こったすべての出来事、私と出会ってくださったすべての方々のおかげで、今の私があるんだなぁ~と、あらためて気づかされました。

 

その中のどれ一つが、誰ひとりが欠けても今の私は存在しないと思うのですが、私が特別な思いを持っているのは高校時代です。

 

私の通っていた高校は、そのまま大学に全員が進学できたので、受験勉強とは無縁の3年間を過ごしました。

 

本当に学ぶことの楽しさを教えてもらったこの3年間を、私は本当に愛おしく思っています。

 

特に、古文の担当だった保坂先生には、感謝の気持ちでいっぱいですラブラブ

保坂先生のおかげで、私は万葉集が大好きになりました。

 

普通なら、文法と解釈だけで授業が進んでいくんだと思いますが、保坂先生は、一つ一つの歌が誕生した歴史的背景を、丁寧に説明してくださいました。

 

一首の説明だけで、授業が1時間終ってしまったこともあるぐらいですニコニコ

 

優れた歌は、もちろんその歌のみを味わっても素晴らしいのですが、背景にある歴史を知れば、その作者の喜びや悲しみがダイレクトに伝わってきて、もっと深く味わえるんだということに気づかせていただきました。

 

私が歴史を知りたいと思ったきっかけは、古文の授業だったんです。

 

万葉集、特に大伴家持が大好きになって、その後『あさきゆめみし』という漫画に夢中になり、源氏物語の魅力にとりつかれました(笑)

 

そして今は、『古事記』がマイブームです。

 

万葉集、源氏物語、古事記…

日本が世界に誇るべき素晴らしい文化。

 

それらを紐解いていくと、必ず同じ人に行き当たります。

 

本居宣長です。

 

私たちが日本文化をこのように深く味わうことができるのは、本居宣長のおかげなんです。

本居宣長は、江戸時代の大国文学者・賀茂真淵(かものまぶち)に師事しますが、真淵と違って、宣長は学者を生業としたわけではありませんでした。

 

宣長は、昼は町医者として患者さんのために一生懸命働き(当時は往診が中心だったので、患者さんの家から次の患者さんの家へ、宣長は一日最高70キロも歩いたことがあるそうです!)、『古事記伝』をはじめとするさまざまな著作は、仕事が終わってから、夜遅くまで書き続けたのだそうです。

 

何が宣長をこれほどまでに突き動かしていたんでしょうね。

 

それは宣長にしかわからないことなのかもしれないし、もしかしたら、宣長にもわからなかったかもしれない。

 

ただ言えることは、それまであまり評価が高いとは言えなかった万葉集や古事記や源氏物語の素晴らしさを見い出し、その価値を蘇らせたのが宣長だったのです。

 

宣長がいてくれたからこそ、家持や憶良や紫式部や、日本の神々が輝きを取り戻したんじゃないか、そんな思いを持って、先日、松阪の本居宣長記念館を訪れたところ…

記念館の館長さんが、「万葉の歌人や紫式部の存在が、宣長を輝かせた」っておっしゃったんですね。

 

そっかぁ~、そうだったんだビックリマーク

 

人はみんな、周りの人々のおかげで輝かせてもらっている、

と同時に、その人の存在が周りの人を輝かせている。

 

人はみなお互い輝きあい、輝かせ合って生きているんだ!!!

 

私の感動が最高潮に達した時、館長さんがこんな言葉をプレゼントしてくださいました。

 

「パールネットワーク」

 

真珠は、一粒でも美しいけれど、真珠が輪になった時、互いに輝かせ合い、その美しさは何倍にもなる。

それは人も同じですね、…と。

 

しかも、このパールネットワークの素晴らしさは、時空を超えることです。

 

いま繋がっている人たちを横糸とすれば、先人たちや未来の人たちとも縦糸で繋がっている。

布の大きさなんて関係ない、横糸、縦糸をどれだけ美しく紡いでいくかなんですねニコニコ

 

パールネットワークを意識すると、世界中で起こっている出来事が自分に関係ないなんて、嘘だって直感でわかるようになる。

 

その広い視野を持ちながら、目の前のことに全力投球すること。

それが、私たち日本人の生きる道なんじゃないかな。

 

本居宣長、賀茂真淵…

江戸時代を代表する国文学者から気づかせていただいたこと。

いつか本に書かせていただきますね~ラブラブ


準備中です
暫くおまちください

山内 一豊(やまうち かずとよ)

(2009年9月16日のブログ記事よ一部抜粋)

 

天下に名高い賢妻といえば、まっ先に思い浮かぶのが、山内一豊の妻 ・ 千代。

 

千代の名前が、“ 千代紙 ” の由来とも言われています。

 

千代の内助の功として、次のエピソードが有名ですよねラブラブ

 

一豊は、関ヶ原の合戦の功で、土佐20万石の城主となりますが、これは、一豊がまだ織田家の一家臣だった頃のお話です。

 

「ああ、残念だなぁ。」

帰宅した一豊は、大きなため息をつきました。

 

馬揃え(戦の前に、馬を一堂に集めてその検分をするもの)を間近に控えたある日、馬売りが連れてきた駿馬を見て、

一豊は喉から手が出るほど欲しくなったのですが、その駿馬の値段は10両…一豊にとっては大金です。

 

支払う当てがないので、あきらめるほかないのですが、それでも一豊はあきらめきれずに、大きなため息をついたのです。

 

夫の様子を見かねた妻・千代は、鏡台の引き出しからそっと包みを出してきて、一豊に渡しました。

 

その包みの中には、なんと10両が入っているではありませんかビックリマーク

 

それは、「夫に何かあったら…」 と、おじさんから嫁入りの時に渡された10両だったのです。

 

大喜びの一豊は、千代から渡された包みを握りしめ、馬売りのもとを再び訪れると、あの恋い焦がれた駿馬を買いました。

 

そしていよいよ馬揃えの日…

 

織田家中から集められた名馬の中でも、一豊の乗る栗毛の馬は、ひときわ目立ちました。

 

馬好きの信長が、気づかないはずがありません。

「名馬じゃ! 馬上の姿、手綱さばきも見事! 乗っている男をここへ。」

一豊をそばへ呼ぶと、この見事な馬をいくらで買ったのか尋ねました。

 

「なるほど、10両か…。高すぎるといって、誰も買わなければ、織田家

の者どもは見る目がない、けちだという噂が全国に広まったところじゃ。

そのほう、よく買ってくれた。ほうびに、200両をとらそう。」

 

千代が、清水の舞台から飛び降りたつもりで差し出した10両が、なんと

20倍に…ニコニコ

 

って、それが問題じゃないですよね。

 

この馬揃えで男をあげた一豊が、このあと出世街道を驀進するんです♪

 

このエピソードを聞いて、

「わたしだって、これがきっかけで夫が出世するとわかっていたら、

どんなことをしても10両工面するわ」

と思っている方がいらっしゃるんじゃないでしょうか…?

 

千代は、そこまで計算していたのかな?

 

それとも、すべてはたまたまの巡り合わせで、運がよかっただけ…?

 

わたしは、どちらも “ NO ” だと思うんです。

 

人生って、人間の計算を超えてるからおもしろいわけだし、千代は確かに賢いけど、神様じゃないんだから、駿馬を買ったら20倍のお金が返ってくるとか、夫が信長の目にとまって出世するとか、予想できたわけではないと思います。

 

じゃあ、千代はなんで10両という大金を惜しげもなく夫に渡せたのでしょうか…?

 

運のいい人の共通点の一つに、

「未来に対していつも積極的」

ということが挙げられると思うんですね。

 

おそらく千代は、この馬揃えのときだけじゃなく、いついかなる時も、夫のために自分ができる精いっぱいのことをしてあげたんじゃないかなぁニコニコ

 

わたしたちは、歴史上有名なこのエピソードだけを取り上げて、

「千代は賢い」 とか

「山内夫妻は運がいい」 などと

言いますが、表に表れないところで、千代はいつも積極性と優しさと一豊への愛情に満ちていたのではないでしょうか。

 

未来は誰にもわからない…

 

その不確かな未来に対して、どこまで信頼して積極的になれるか…

そこが強運を呼び込む秘訣のような気がします♪


ふところダイビング♪

(2010年3月23日のブログ記事より一部抜粋)

ふところダイビングとは・・・・損得計算を捨て、怖れや依存心を手放して、相手のふところに飛び込んで、本音で語り合うこと ⦅造語⦆

 

土佐藩の初代藩主は、山内一豊です。

 

山内一豊は、関ヶ原の戦いの功により、掛川7万石から、一躍高知20万石を拝します。

 

領地が3倍にふくらんだのですから、さぞや華々しい戦功を挙げたと思われるでしょう?

 

でも実は、山内家は関ヶ原の戦いの最中、結局は一発も撃たずに終わった毛利家に対する備えを務めたので、本来は、注目するような戦功なんてないんです。

 

じゃあ、なぜ…?

 

“内助の功” で有名な一豊の妻が何かしたんでしょうか?

 

いえいえ、実は、関ヶ原の本戦が始まる前に、すでに一豊は東軍の大将である家康のふところに飛び込んでいたのですビックリマーク

 

昨年の大河ドラマ “天地人” をご覧になった方はおわかりと思いますが、

関ヶ原の戦いというのは、家康が上杉討伐のために諸将を率いて会津へ向かう間に、石田三成が挙兵したことが発端です。

 

この時、家康には豊臣恩顧の諸将たちが多数従っていて、さらに彼らの妻子が大坂で西軍の人質となったため、家康は、彼らの意向を確かめ、徳川への忠誠を誓わせるために、下野の国 ・ 小山で軍議を開きました。

 

これがいわゆる 「小山評定」 です。

 

この小山評定では、諸将がこのまま東軍に残るべきか、西軍へ就くべきか去就に迷う中、一豊は、東軍に残ることを表明したばかりか、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に無償で提供する旨を申し出たのですビックリマーク

 

当時の戦というのは、直接の家臣であれば、主人のために必死で

戦いますが、家康に味方する諸将の気持ちというのは、複雑だったと思います。

 

家康は諸将の “盟主” であって、主人ではないのですから…。

 

一豊のように、小さいながらも一国一城の主ともなれば、“家” の

存続が大事で、東軍 ・ 西軍どちらかに味方しつつも、戦況がどちらに転んでも家が存続するように手を打つのが普通ですし、

第一、あくまで「味方する」 というレベルであって、恩もない家康と心中するような選択はしないはずです。

 

でも、この時、一豊は、自分の居城と領地を家康に提供する…

という常識ではあり得ない行動に出たのです。

 

 

この一豊の家康への信頼、恐るべし、そして見事なまでの潔さです☆彡

 

 

この一豊の申し出の影響で、家康が西に引き返して三成と戦うための通り道となる東海道筋の城主たちは、ことごとく城を差し出しました。

 

これによって、家康は、「諸将の誰かが裏切るのではないか」 という疑念を抱く必要もなく、何の憂いもなく関ヶ原へと向かうことができたのです。

 

実はこの段階で、関ヶ原の勝負はすでについていたのですビックリマーク

 

 

その勝利の立役者が山内一豊であることを、大将の家康だけはわかっていた、そして心から感謝したのです。

 

その感謝の証しが、土佐20万石なんですビックリマーク

 

すべてを捨てて相手のふところに飛び込むと、相手もそれに応えますから、がっぷり四つに組めるんです。

 

飛び込まなかったら、いつまで経っても四つには組めませんね。

 

 

もし拒絶されたら、その人とはご縁がなかったというだけなので、諦めるか、タイミングをずらせばいいだけの話です。

 

 

ここで、「相手が飛び込んできたらわたしも…」 という様子見の考えは、

かっこ悪いのでやめましょう。

 

 

関ヶ原の戦いでも、様子見に徹したり西軍を裏切った諸将は、その多くが取り潰されています。

 

男も、女も、“潔さ” が大事ビックリマーク

 

いつでも潔く相手のふところに飛び込む覚悟で人と出逢うこと…

これだけで、想像を超えた素敵な人生になっていきますよニコニコ


掛川の思い出♪

(2012年12月13日のブログ記事より)

 

先週末は、静岡県袋井市の倫理法人会に呼んでいただき、掛川駅から程近い美感ホールで講演させていただきました。

 

講演は午後からだったので、午前中、掛川城の天守閣に登らせていただき、しばし歴史の世界にひたることができ、何とも言えない幸福な時間を過ごしました♪

 

 

掛川城は、山内一豊&千代ゆかりのお城です。

 

 

豊臣恩顧の大名たちを率いて、会津の上杉討伐に出た家康は、自分の留守中に上方で石田三成が挙兵したことを知ります。

 

彼は、急ぎ上方にとって返し、三成率いる西軍と戦うことを決断しますが、彼が率いている兵たちは、彼の家臣ではありません。

豊臣恩顧の大名たちで、豊臣政権下においては、いわば彼の同僚だった者たちなのです。

 

家康は、下野(現在の栃木県)の小山で軍議を開き、大名たちの意志を確認しようとします。

 

大坂で妻を人質にとられた者も多く、正直、彼らの心はこの時点で揺れていたと思うのです。

関ヶ原の戦いでは、西軍に裏切りが続出しますが、実は、東軍にだってその可能性はあったのです。

 

東軍は、なぜそんな状況で一糸乱れぬ戦いができたのか…。

その最大の功労者が、山内一豊でした。

 

秀吉が最もかわいがっていた武将の一人・福島正則が、家康に味方することを誓うと、一豊は、ただ味方するだけでなく、自分の城である掛川城を家康に差し出すと宣言したのですビックリマーク

 

すべてを家康に委ねる覚悟を見せた一豊。

これから家康軍が進軍する東海道筋に城を持つ武将たちは、一豊に倣い、みな一斉に自分の城を家康に差し出しました。

 

かつて信長が朝倉を攻めた時、背後から浅井が攻めてくることを、浅井家に嫁いだ妹・お市の方の機転で知り、一目散に逃げ帰って窮地を脱することができました。

戦いの時に最も怖いのは、背後から攻められることなのです。

 

ところが、関が原に向かう家康は、諸将が自らの城を差し出したことで、何の憂いもなく、三成との決戦に集中できたのです。

 

山内軍は、関が原では、毛利の抑えとして配置されましたが、毛利軍は戦いが終わるまで一発の弾も撃たなかったので、一豊には目立つような戦功はありません。

それが、戦後、掛川6万石の小大名から、一躍土佐一国を領し、20万石の大大名になりました。

 

名将・家康は、戦いに勝ち、天下を手中に収めることができたのは、一豊のおかげであることを、知っていたんですね。

その感謝のしるしが、土佐一国だったのです。

 

武将にとって、命とも言える城を差し出したことで、運が開けた一豊。

やっぱり、自分にとって一番大切なものを与えると、その見返りは大きいんですねニコニコ

 

ところで、一豊は、土佐入国に際し、20万石に見合った家臣団を編成しなければなりません。

領地が増えるということは、それだけ家臣の数も増やさなければならないのですが、一豊は、家臣の新規募集を、新領地の土佐で行わずに、掛川で行っています。

 

土佐には、お家取り潰しになった長宗我部の旧臣がたくさんいます。

いわば、彼らは、会社が潰れて失業した人たちなのです。

一豊は、その者たちを再雇用することはありませんでした。

 

長宗我部の旧臣たちは、農業に従事したり商売を始めたりして生活の糧を得ましたが、自分たちが侍であるという誇りを失わず、「郷士」と呼ばれました。

 

それに対して、土佐の領主である山内家に仕える侍は、「上士」と呼ばれます。

 

大河ドラマ『龍馬伝』にも描かれていましたが、土佐藩は、この上士と郷士の対立が激しく、凄惨な歴史が繰り返されます。

そして幕末、藩としては徳川幕府を支える側にまわりながら、郷士の中から多くの勤王の志士を輩出していったのです。

 

私は、今まで、一豊と千代の夫婦は好きでしたが、経営者としての一豊には、魅力を感じませんでした。

 

土佐で家臣を募集することが失業対策になるのに、それを怠った…

と、思っていたからです。

 

でも、今回、たった一日でしたが、掛川の人と風土に触れて、一豊夫妻の気持ちがわかったような気がしたんですね。

 

きっと、一豊と千代は、掛川が大好きだったんですよビックリマーク

 

領国は変わっても、この人たちとともに生きたい…

って思った、だから掛川で家臣を募集してみんなで土佐に入国したんですよ。

 

私が出会った掛川の人たちは、本当に温かくて、さりげない優しさを持っていて、「自分が、自分が」という人がいらっしゃらないので、掛川に滞在している間、ずっと穏やかな気持ちでいられました。

 

そして、初めてお会いする方が多いのに、なんだかとても懐かしい気もちになったんです。

 

きっと、一豊と千代も、私とおんなじ気持ちだったんじゃないかな。

 

人間は、理屈で生きているわけではないんですもの。

そう思ったら、血の通った人間として、一豊と千代が目の前に現れた気がして、二人が大好きになりましたニコニコ

 

掛川城は、日本一の出世城。

そして掛川は、おしどり夫婦の一豊&千代が、愛を育んだ地。

 

出世したい人、愛情運を上げたい人は、ぜひ掛川を訪れてみてくださいねラブラブ


準備中です
暫くおまちください

山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう)
激動の時代に咲いた友情の花♪

(2010年4月22日のブログ記事より)

 

このところ、歴史に残る男同士の友情を描いてきましたが、今回は、意外な取り合わせです。

 

♪ 清水みなとの名物は お茶の香りと男伊達~ ♪

 

 

とくれば、ご存知 ・ 清水次郎長ビックリマーク

 

 

次郎長は、幕末から明治にかけて博徒として全国に名を馳せましたが、

前半生と後半生で、印象はガラリと変わります。

 

そのターニングポイントで、何があったのか…?

 

彼の後半生を変えたのは、幕臣 ・ 山岡鉄舟 (てっしゅう) との出逢いでした。

 

慶応4 (1868) 年3月、鉄舟は、新政府軍の江戸城総攻撃を食い止めるために、

勝海舟の使者として、西郷隆盛と会談すべく、駿府 (静岡) に向かいました。

 

その時、鉄舟の道案内を次郎長が買ってでたのが、二人の出逢いであると言われています。

 

次郎長は、16歳も年下の鉄舟に心服し、改心しました。

 

その数ヵ月後、次郎長の牛耳る清水の街に、一つの騒動が起こりました。

 

万延元 (1860) 年に勝海舟や福沢諭吉を乗せて太平洋を横断した咸臨丸は、旧幕軍の榎本武揚艦隊に加わり、品川沖から箱館 (函館)を目指して出帆しました。

 

ところが、出帆後ほどなく暴風に遇ってしまいます。

そして、咸臨丸だけが故障し、清水港に避難したのです。

 

その頃、新政府軍は、会津若松城を包囲攻撃中でした。

新政府にとって、咸臨丸に乗り組んでいる旧幕臣たちは、反乱軍です。

その咸臨丸が身を寄せる駿府藩は、徳川最後の将軍となった慶喜の意向で、新政府に対して恭順の姿勢をとっているのです。

 

駿府藩からしてみると、清水港に停泊する咸臨丸の存在は、自らの懐に爆弾を抱え込んでいるようなものです。

当然、彼らを説得し、箱館行きを中止、降伏させねばなりません。

 

 

この説得に手間取っている間に、新政府の軍艦が清水港に攻め入り、咸臨丸を砲撃(>し<)

港内に乗組員の死体が浮かびました。

 

 

彼らの死体は海中に遺棄されたまま、誰も手をつける者はいません。

「賊軍に加担する者は断罪に処す」 という新政府の厳重な布告が出ていたからです。

 

この時です!!!

 

「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか。」

 

 

この有名なセリフを吐いて、次郎長は子分とともに、咸臨丸の乗組員たちの死体を収容して、手厚く葬ったのです。

 

この時、駿府藩の幹事役という役職に就いていた山岡鉄舟は、次郎長の言動に深く感動し、次郎長が埋葬した咸臨丸の乗組員たちの墓に、

「壮士墓」という墓碑銘を揮毫 (きごう) しました。

 

こうしてお互いを尊敬し、信頼し合った二人は、鉄舟が亡くなる明治21(1888) 年まで途切れることなく交流を続けました。

 

 

鉄舟の亡くなる2年前には、次郎長が清水に船宿を開業しましたが、

その時も鉄舟は、引き出物として扇子千八本に揮毫しています。

 

「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか。」

 

この次郎長の言葉には、薩長とか徳川、あるいは征服者とか被征服者といった考えはありません。

彼は、ただシンプルに、人間の本質を見て、人としてあるべき生き方を問うています。

 

そしてこの生き方は、山岡鉄舟の生きざまそのものでした。

だからこそ、生い立ちも立場も違う二人の間に、これほどの友情の花が開いたのでしょう。

 

次郎長から100余年…

 

サッカー ・ 清水エスパルスは、J リーグ発足当時、母体となるチームを持たず、資本金の約1割は市民の持ち株でスタートしました。

 

その後、エスパルスの運営は変遷しましたが、さすが次郎長を育み、次郎長を愛した清水の街……

 

次郎長が後半生で見せた、人情もろくて義理堅い美しい心は、いまも清水という土地に脈々と生き続けていると思いますニコニコ


清水次郎長のリーダー論♪

(2010年4月23日のブログ記事より)

前回のブログで、幕臣 ・ 山岡鉄舟と天下の大親分 ・ 清水次郎長の友情について書かせていただきましたが、今回は、二人が出逢った時に交わされた、粋な会話をご披露します♪

 

天下の大親分 ・ 次郎長に対して、鉄舟が尋ねました。

「おまえの子分で、おまえのために、命を捨てる人は何人いるかい?」

 

実際には、次郎長に惚れ込み、次郎長のために命もいらないと考えていた子分は多かったでしょう。

ところが、次郎長の答えは意外でした。

 

 

 

「イヤー、あっしのために命を捨てるような子分は一人もおりません。」

 

? ? ?

 

 

ところが、そのあとの次郎長の言葉が粋なんです。

 

「あっしのために命を捨てるものは一人もおりませんが、あっしは、

子分のためにいつでも命を捨てる覚悟をしております。」

 

 

う~ん、これぞ究極のリーダーかもしれませんねニコニコ

 

 

親が子に注ぐような愛情を、多くの人に注げる人こそが、リーダーと言えるのかもしれませんビックリマーク

さて、この次郎長が、鉄舟と出逢ったことで、まるで別人のような後半生を歩んだことは前回お伝えしましたが、明治維新以降、次郎長はなんと侠客を廃業し、地域の発展に情熱を注いだのです。

 

主な事績を挙げると…

三保の新田開発、巴川の架橋、相良町の油田開発、英語学校の設立、蒸気船による海運会社の設立など。

 

勝海舟は、明治維新で失業した旧幕臣たちのために、お茶の栽培を奨励し、その困窮した生活を助けましたが、旧幕臣たちが栽培した静岡茶は、次郎長の設立した海運会社の船で東京に出荷されました。

 

また、富士の裾野の開墾事業も有名です。

あの次郎長が、自ら鍬をふるって原野を農地に変えたなんて、信じられますか?

 

人生というのは、誰と出逢うかによって決まるものなのかもしれませんね。

 

開墾事業には、かつての子分たちも親分を慕って集まり、みなで協力しあったそうです。

さぞやチームワークもバッチリだったことでしょう☆彡

 

そして次郎長一家が10年の歳月をかけて開墾した場所は、立派な茶畑となって、そこで採れたお茶は現在も全国に届けられているのです。

 

次回は、次郎長の人生をここまで変えた山岡鉄舟の生きざまにフォーカスしますねニコニコ


武士道を貫いた山岡鉄舟の生き方

(2010年4月24日のブログ記事より)

剣 ・ 禅 ・ 書の達人として知られる山岡鉄舟が、歴史に初めて登場するのは、戊辰戦争の真っただ中、新政府軍 (官軍) の江戸城総攻撃が目前に迫った1868年3月のことです。

 

江戸の町を戦禍から救うために、なんとしても勝海舟と西郷隆盛の会談を実現しなければならない…

 

鉄舟は、勝海舟から預かった手紙を握りしめ、官軍でごった返す

東海道を、西へ進みました。

西郷隆盛が駿府 (静岡) に滞在していたからです。

 

官軍が厳しく警備する中を、鉄舟は

「朝敵 ・ 徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る。」

と、大音声で堂々と歩行していったというエピソードが残されています。

 

あまりに鉄舟が堂々としているので、官軍も虚をつかれたのでしょう。

さらに、駿府の領内に入ってからは、清水次郎長という頼もしい存在の

道案内もあり、鉄舟は無事に西郷さんのもとまでたどり着きました。

 

この時、西郷さんが降伏条件として示したのは、
一 「江戸城を明け渡すこと」

二 「城中の人数を向島に移すこと」

三 「軍艦を渡すこと」

四 「兵器を渡すこと」

五 「徳川慶喜を備前藩へあずけること」

の五ヶ条でした。

鉄舟は、西郷さんが示した条件をもっともだと思いましたが、最後の

「慶喜を備前藩へあずける」 の一条だけは、承服しませんでした。

「立場が違って、もし西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか」

と言って、西郷さんの顔を睨んで、目を逸さなかったそうです。

 

鉄舟の写真を見たことがありますが、すごい目力なんですよ!!!

もちろん西郷さんも目の印象が強烈ですから、この時の二人の睨み合いは、すごい迫力だったでしょうね(>し<)))))

 

とうとう西郷さんの方が折れて、この一条を変えることを承知しました。

 

この初対面の印象が、西郷さんの心によほど鮮やかに残ったのでしょう。

後に、西郷さんは、「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ、天下の偉業は成し遂げられない。」と、

鉄舟を大絶賛しています。

 

鉄舟の命がけの行動から数日ののち、江戸で西郷さんと海舟との

会見が実現し、江戸城無血開城という、日本史上最も高貴で最も美しいメロディーが奏でられました。

 

歴史の表舞台に残る名前は西郷隆盛と勝海舟ですが、江戸城無血開城は、山岡鉄舟の勇気と行動力があったからこそ実現したのです。

 

そして、この件で西郷さんは鉄舟に全幅の信頼を置くようになり、彼に明治天皇の教育を一任します。

 

旧幕臣である鉄舟の宮内省入りを非難する声は多かったようですが、

彼は、「朝廷への忠の中に徳川への忠があるのだ」 という明快な論理で非難の声を一蹴し、笑って歌をつくりました。

 

♪♪ 晴れてよし 曇りてもよし富士の山 もとの姿は 変わらざりけり ♪♪

 

鉄舟の平常心のレベルの高さが感じられる歌だと思います。

 

さて、10年間にわたって明治天皇に忠誠を尽くし、明治天皇からも深く信頼された鉄舟は、明治21 (1888) 年7月19日の朝、

「腹痛や 苦しき中に 明け烏(からす)」

と歌いながら朝湯につかり、上がると白装束に着替え、左手に数珠、右手に団扇 (うちわ) を持って、ドッカと座りました。

 

やがて、見舞いに来た勝海舟としばらく世間話をしていましたが、

鉄舟は、おもむろに 「只今、涅槃 (ねはん) に入る」 と告げました。

 

それを聞いた海舟が、「左様か、ではお心安く御成仏を」 と言って辞去すると、鉄舟は、そのままいつの間にか息を引き取っていたということです。

 

座は崩れず、形は正しく、結跏趺坐したまま、皇居を向いて絶命しました。

 

死に際にその人の生き方が凝縮されるとすれば、まさしく山岡鉄舟

こそ “ラスト サムライ” と言えるのではないでしょうか。

(“ラスト” には、“最後の” という意味もありますが、“永遠に続く”

という意味もあります。)

 

官軍に殺された咸臨丸の乗組員に対して、

「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか。」

…このように考えた人は、当時、次郎長のほかにもたくさんいたと思います。

 

けれども、それを実行に移したのは、次郎長だけでした。

 

鉄舟が次郎長に感動したのは、そこに “知行合一” を見たからでしょう。

 

山岡鉄舟は次郎長を愛し、次郎長は鉄舟との出逢いによって人生を変えました。

 

それは、二人の武士道が響き合った結果ではないかと思うのです。


おはようございます☆彡

(2013年1月19日のブログ記事より)

けさの東京は、真っ青な空。

少し寒さもゆるんで、素敵な一日になりそうな予感♪

 

ただ今、新幹線で名古屋に移動中。

車窓から見える富士の山の、美しいことビックリマーク

 

 

“晴れてよし 曇りてもよし 富士の山
もとの姿は 変わらざりけり”

 

 

これは、幕臣・山岡 鉄舟の歌。

江戸城無血開城の立役者です。

 

西郷さんに見込まれた鉄舟は、明治天皇の教育係に就任するのですが、職を失った幕臣たちのやっかみにあい、裏切者呼ばわりされた時に詠んだのがこの歌です。

 

私は、人から非難されたり中傷されたりすると、この鉄舟の歌をいつも思い出すんです。

 

何があっても、富士山のように、堂々とした姿で、超然としていればいい…

 

鉄舟から、こんなふうに語りかけてもらっている気がしますニコニコ


生かされているということ

(2013年3月10日のブログ記事より)

この数日間、ちょっと凹んでいました。

 

こんな時、歴史上の人物たちはどうしていたのかな…?

 

そんなことを考えていたら、ふいに山岡鉄舟のことが思い出されました。

 

鉄舟は、徳川家の家臣でありながら、西郷隆盛に見込まれて、明治天皇の教育係になりました。

 

 

「なぜ、徳川家の家臣が…ビックリマーク

と、薩長の者たちから白い目で見られる鉄舟。

 

でも、鉄舟がつらかったのは、かつての仲間である旧幕臣たちから後ろ指を指され、裏切者呼ばわりされたことだと思うんです。

 

 

旧幕臣たちは、徳川に忠誠を誓ったはずの鉄舟が、その忠誠を簡単に捨てたと思ったのでしょうね。

 

鉄舟は、こういう批判に対して、何一つ反論することはありませんでした。

 

 

そのかわり、歌を詠んだんです。

 

 

♪晴れてよし 曇りてもよし 富士の山

もとの姿は 変わらざりけり♪

 

 

私たちは、晴れていれば、富士山を絶賛し、曇りや雨の日、霧がかかった日には、富士の姿がイマイチだと文句を言いますよね。

 

 

でも、実際は、富士山はいつだって、気高く悠然と存在している。

本当は、どんな時でも富士は美しいんですよね。

 

 

きっと、鉄舟は、目の前のことに一喜一憂せず、富士山のように超然としていよう…

って、心に誓ってこの歌を詠んだのではないかと思うんです。

 

 

私も、大好きな鉄舟にあやかって、超然としていよう…

そう思ったら、なんだか感謝の気持ちがわき上がってきましたニコニコ

 

 

だって、私は、3年前には、主治医からもう助からないって言われたんですよ。

 

それが、奇跡が起こって、今もこうして生かされている…。

 

 

生きているからこそ、凹んだり、悲しい思いや悔しい思いをする。

死んじゃったら、そんな経験もできないんですから。

 

 

そう考えたら、嬉しいことや楽しいことばかりでなく、どんなことも味わい深く、感謝できることなんだなぁ~って、思えました。

 

 

でもね、それは「死ぬのがコワイ、死ぬのが嫌だ」という話ではないんですよね。

 

 

私は、なぜ3年前に死ななかったのか…。

 

きっと、やるべきことがあったからだと思うんです。

あなたにはまだやらなくちゃいけないことがあるよ、その役割を全うしなさいよって、天が力をくれたんだと思うんですよね。

 

 

だから、逆に、死を迎えるということは、

「今までよく頑張ったね。もう十分だよ。」

って、天が言ってくれているんじゃないかって、そんな気がするんですね。

 

 

生かされていることも素敵だけど、死ぬことも素敵なことなんじゃないかって、そんなふうに思うようになったんです。

 

 

まぁ、本当に死が目の前にやってきて、こんなふうに思えるかはわからないですけど…。

 

 

いずれにしても、一度死を覚悟した人間は強いですから、きっと私は大丈夫です。

(……と、自分自身を鼓舞していますニコニコ

 

 

死ぬこと以外はカスリ傷ビックリマーク

 

そんな言葉がふいに天から降ってきたような気がしましたニコニコ


仙厓義梵(やまがいぎぼん)
博多の仙厓さん♪

「ゆるキャラ」が大人気の昨今ですが、実は、江戸時代にも、ゆるキャラのような可愛らしい絵を描いていた方がいらっしゃいました。

 

その人の名は、仙厓義梵(やまがいぎぼん)。

 

江戸時代中期に美濃の国(現在の岐阜県南部)に生まれ、11歳のとき臨済宗清(せい)泰寺(たいじ)(現美濃市)で得度、各地で修行を重ねた後、九州・博多にある聖(しょう)福寺(ふくじ)に招かれ、40歳で第123世住職となりました。博多では親しみを込めて、「仙厓さん」という通称で呼ばれているので、ここからは仙厓さんと呼ばせていただきますね。

 

仙厓さんが住職を務めた聖福寺は、臨済宗(りんざいしゅう)の開祖・栄西(ようさい)によって創建された日本最古の禅寺で、お寺の山門には、後鳥羽上皇の宸(しん)筆(ぴつ)であると伝わる「扶桑(ふそう)最初(さいしょ)禅窟(ぜんくつ)」の文字が刻まれています。

 

「扶桑」は、「日本」のことを意味するので、「日本で最初の禅寺ですよ」という意味です。

 

ちなみに仙涯さんは、禅僧として最高の位に与えられる紫(し)衣(え)(紫のころも)を受けるように3回勧められ、3回とも断っています。

 

そんな世俗の権威よりも、日本で初めてできた禅宗寺院の聖福寺の和尚であることに誇りを持っていたようで、仙厓さんの絵を見ると、「扶桑最初禅窟仙厓」とサインしたものが沢山あるのです。

 

これらは、仙涯さんの反骨精神を示すとともに、禅の高僧でありながら、民とともに生きることを選んだ仙涯さんの生きざまを象徴しているようで、とても興味深いですね。

 

仙厓さんは、聖福寺の住職を23年務めた後、同寺の中にある虚(きょ)白院(はくいん)という終(つい)の棲家(すみか)に移り、壮年期から描き始めたといわれる絵に傾注し、画僧としての活動を活発化させていったそうです。

 

60代を過ぎても自問自答を繰り返し、絵を通してどんどん悟りを深めていくんですね。

 

悟りを深めるための修行を、悟後(ごご)の修行といいますが、仙厓さんにとって、それがまさに書や絵画だったのだと思います。

 

仙厓さんの描く絵は、どれもユーモラスで愛らしいのですが、その自由で何ものにもとらわれない絵に言葉を添えて、実にシンプルに禅の教えの真髄を庶民にわかりやすく伝えてくれています。

 

深い学識や修行で体得した孤高の境地を、市井(しせい)の人々に分かりやすく伝えた、仙涯さんの人生は、ほぼ同じ時代を生きた良寛さんの姿と重なります。

 

どちらも自分の絵や書、歌で、また、それ以上に本人の生き方で周囲を教化した、愛の人でした。

 

最後に、仙涯さんが残した素敵な言葉をご紹介しますね。

 

60歳は人生の花。70歳で迎えがきたら留守だと言え。80歳で迎えがきたらまだ早すぎると言え。90歳で迎えがきたらそう急ぐなと言え。100歳で迎えがきたらぼつぼつ考えようと言え。

 

年齢を重ねることを恐れず、仙涯さんのように、のんびりと朗らかに楽しく毎日を過ごせたら素敵ですよね。

 

「禅の教え」と聞くと、少し難しい印象を持たれる方も多いかと思いますが、ゆるキャラの可愛らしい挿絵がついていれば、挑戦してみようかな・・・と思えてきますね♪

 

多くの人が持つ禅への苦手意識を少しでも和らげようとしてくださった仙涯さんの優しさがあふれる素敵な作品を、是非、皆さんも一度 ご覧になってみてくださいね♪


準備中です

暫くおまちください


吉田 松陰(よしだ しょういん)

理想の師弟関係♪

(2009年7月23日のブログ記事より)

 

長州藩の兵学師範の家を継いだ吉田松陰は、嘉永3年(1850年)、

山鹿流軍学を学ぶために、肥前平戸藩を訪れます。

 

約2ヵ月の平戸滞在の間に、松陰は、儒学者で平戸藩家老でもあった

葉山佐内に惹かれ、紙屋という旅館に宿泊しながら、足繁く葉山家に

通い、数多くの書物を書き写したそうです。

 

佐内の手元には、江戸へ出府の際に入手したり、平戸という地の利で

得られた新知識の書物が数多く所蔵されていて、松陰が借りた本は
80冊にのぼると言われています。

 

 

私は、松陰と緒方洪庵が日本史の中で最高の教育者だと思っていますが、

その理由は、師を超えるような素晴らしい弟子たちを数多く輩出しているからです。

 

 

なぜ松陰や洪庵の塾では、そのように素晴らしい弟子たちが育つのでしょうか。

 

 

それは、おそらく、この二人が、弟子たちを尊敬していたからだと思います。

確かに二人は、教育者として、弟子たちに多くのことを教え、与えてきました。

 

 

でも、二人に共通するのは、けっして『弟子』を“上から目線”では見ておらず、弟子たちの優れたところ(才能だけでなく人柄も含めて)を尊敬している点にあると思います。

 

 

洪庵も、松陰も、生まれ持っての優しさがあるので、自然にそのような態度で弟子に接していたのだと思いますが、松陰の場合は、彼自身の性格に加え、この平戸で出逢った葉山佐内の影響も大きいと考えられます。

 

 

松陰が葉山邸に来て、佐内に教えを受けたり、書物を借りて旅館に帰っていく…

佐内という人は、毎回松陰を玄関先まで出て見送るのですが、他藩から来たこの若者の後ろ姿が完全に見えなくなるまで、その見送りは続けられたそうです。

 

この時、松陰が受けた感動が、後に彼が弟子たちに接する時のベースになったのではないかと思います。

 

 

素晴らしい師につくということは、単に技術を学ぶことだけにとどまらず、

人格を含めて、その人が人生の中で培ってきたことのすべてに触れるということなのではないでしょうか。

 

 

松陰が佐内と交流を持ったのはたった五十余日、松陰が萩の松下村塾で弟子たちに講義したのも、わずか2年あまり。

たとえわずかな時間であったとしても、師の全人格・全人生に触れたから、弟子は成長し続けたのでしょう。

 

師は弟子たちに何を与え、弟子は師から何を学ぼうとするのか、時間の長さよりも密度が、教育の成果を分けるのではないかと思いますニコニコ


女心をくすぐる吉田松陰の魅力☆彡

(2009年8月27日のブログ記事より)

あの吉田松陰が脱藩したことがあるって、ご存知でしたか?

 

嘉永3年(1850年)のことです。

 

この時、松陰は、友人である肥後・熊本藩の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)と、東北で落ち合う約束をしていたのですが…

 

長州藩が関所手形の発行に手間取ってしまったんです。

 

このままだと、親友との約束を破ることになってしまう…ビックリマーク

 

この時、松陰が選んだ道が、“脱藩” でした。

 

友だちとの約束を守るために、脱藩という大罪を犯し、長州藩発行の関所手形を持たないまま江戸を発った松陰は、東北遊歴の旅に出ます。

 

脱藩は大罪なのに、暗さが微塵もなく、あくまで無邪気に…♪♪

 

初めて見る東北の雄大な自然は、松陰に大きな感動と影響を与えましたが、

帰国した松陰は、脱藩の罪で、士籍を削られ世禄を奪われました。

 

それでもまったく後悔しないのが、松陰の素敵なところ♪♪

たとえ罪を犯したとしても、友だちとの約束を守る方が、自分に正直であり、涼やかな心映えでいられたのでしょうね。

 

その後、松陰は、海外事情を学ぶため、鎖国の禁を犯し密航することを決意します。

嘉永6年(1853年)、長崎に来航したロシア船に乗り込もうと長崎に急行しましたが、間に合わず、翌年3月に再航したペリー艦隊の後を追って、弟子の金子重輔と下田へ向かいました。

 

二人は、夜中に小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請しましたが、ペリーに拒絶され、密航はあえなく失敗。

 

壮図空しく破れた松陰は、いさぎよく自首して、囚われの身となります。

そして皆さんご存知のとおり、“安政の大獄” で処刑されるのです。

 

『 かくすれば  かくなるものと知りながら  やむにやまれぬ  大和魂 』

 

この歌は、下田で捕えられた松陰が、江戸へ護送される途中の高輪・泉岳寺で、

赤穂浪士の故事に託して詠んだ歌と言われています。

 

「同じ国禁を犯した赤穂義士は本懐を遂げ、我は失敗した。

しかし、志に差があるものか・・・」

という松陰の心境が表れているのではないでしょうか。

 

前回の高校野球論とつながりますが、勝敗を超えたところに価値を見いだせるのが、日本人の素晴らしさだと思います。

 

そんな日本人にとって、松陰は永遠のスターですニコニコ

 

松陰の行動の起点は、いつも透明で純粋です。

そして、悲劇的な人生とは裏腹に、松陰の心はいつも明るく無邪気です。

 

純粋さと無邪気さと…男性が松陰に惹かれる理由はまた別のところにあると思いますが、松陰ファンの女性は、間違いなくここに魅せられていると思いますラブラブ


吉田松陰の謎が解けました!

(2009年11月12日のブログ記事より)

 

吉田松陰が24歳の時、黒船が来航し、幕末の騒乱の歴史が幕を開けました。

その翌年(松陰25歳)、ペリーは日米和親条約締結のために下田に再航。

かねてから海外留学を希望していた松陰は、この時、こともあろうか、黒船に乗って渡米することを思い立ちます。

 

この時、松陰が詠んだ有名な歌が

“ かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂 ”

です。

 

松陰は、密航を企て、ボートで黒船に近づいたのですが、それは幕府の知れるところとなりました。

鎖国政策をとっていたこの時代において、松陰は国禁を犯したことになります。

 

罪人となった松陰は、故郷の長州に移送され、野山獄という牢に入れられました。

 

この野山獄で、松陰は1年2ヵ月を過ごしました。

その間に、他の囚人たちも、そして獄の責任者や牢の番人たちも、松陰のもとで勉学に励むようになり、ついにはに弟子入りを志願するようになります。

 

囚人の多くは、ただ死を待つのみの、けっして生きて牢から出ることのない無期刑を受けていました。

そんな彼らに、勉強することの楽しみを伝えることができた松陰は、生れながらの教育者と言えるかもしれません。

 

野山獄での松陰は、自分自身も読書に没頭します。

 

野山獄に入れられたのは1854年10月24日。

この年、わずか2ヵ月あまりでなんと106冊の本を読んでいます。

 

翌年は、1月に36冊、2月に44冊、3月に48冊、4月に49冊、5月に55冊…

と、松陰の読書量は右肩上がり、1年間で493冊もの本を読んだというから、驚きです。

 

松陰をここまで駆りたてた想いは、何だったのでしょう?

 

それは、おそらく、『 言志四録 』 の影響が大きかったのではないでしょうか。

『 言志四録 』 は、佐藤 一斎が著した、いわば “ 指導者のためのバイブル ”です。

 

そこに、このような一節があります。

 

「少にして学べば、則ち (すなわち) 壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

 

「死の瞬間まで成長し続けたい」 という想いが、松陰をここまで駆りたてたのだと思います。

 

そしてこの松陰の想いは、この世に生を享けた人間が心の片隅に持ち続ける永遠の願いなのかもしれませんニコニコ


日本誌の奇跡♪

(2009年11月29日のブログ記事より)

 

幕末、吉田松陰の門下生の中から、日本の歴史を変えていくようなスターたちが、続々と誕生しましたニコニコ

 

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、品川弥二郎など。

松陰は、松下村塾を主宰する前に、藩校・明倫館の塾頭を務めましたが、その時の教え子には、後に木戸孝允と呼ばれ、明治の元勲の一人となる桂小五郎も含まれます。

 

たった一つの私塾から、これだけ多くの人材を輩出できたのは、まさに奇跡ですが、実は、同じ時期の薩摩にも、奇跡が起こっていました

 

 

薩摩の英雄と言えば、西郷隆盛ですが、西郷さんは鹿児島城下の下加治屋町で生まれ育ちました。

 

 

この下加治屋町には、下級武士の家が70戸ほどあったそうですが、なんと、

この下加治屋町という、たかだか200m四方の今でいう町内会のような狭い地域から、

 

西郷さんはじめ、大久保利通 ・ 村田新八 ・ 篠原国幹 (くにもと) ・大山巌 ・ 西郷従道 (つぐみち) ・ 山本権兵衛 ・ 東郷平八郎など、歴史に名を刻む人々が多数輩出されているのです!!

 

 

ちなみに、大山巌は、西郷隆盛 ・ 従道兄弟のいとこであり、陸軍の創成期から日露戦争まで陸軍軍人として活躍し、日露戦争の時には、陸軍元帥として満州軍総司令官を務めました。

 

同時期の海軍に目を向けると、海軍大臣を務めた西郷従道が、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせ、日本海軍を日清日露の戦勝に導いたのですが、

 

日露開戦を前にして、連合艦隊司令長官として東郷平八郎を起用することを決めたのが、山本権兵衛でした。

 

つまり、もし、この下加治屋町生まれの青年たちがいなかったら、明治維新は違った形になり、明治以降の歴史も大きく変わっていたかもしれません。

 

 

松下村塾には、吉田松陰という高い志を持った師がいました。

 

では、下加治屋町の奇跡は、なぜ起こったのでしょう…?

 

 

おそらくその秘密は、400年以上の歴史を持つと言われる薩摩藩独特の青少年教育である “郷中(ごじゅう)教育” にあるのではないでしょうか。

 

 

この郷中教育について、次回、その内容とおもしろいエピソードをご紹介しますねラブラブ


親思う心にまさる親心・・・

(2010年6月13日のブログ記事より)

♪ 親思う心にまさる親心  今日のおとずれ何ときくらん♪

 

 

これは、吉田松陰が家族に宛てた辞世の句です。

 

 

ペリーが来航した時、「西洋文明を実際に自分の目で見てみたい」 とアメリカへの密航を企てた松陰は、そのことが幕府に露見し、萩の野山獄に送られます。

 

そこで松陰は、囚人たちから慕われ、囚人たちの人格が変わるほどに感化するのですが、この時、獄中の松陰に書物や身の回りの物を届けたり、

頻繁に洗濯に訪れるなど、松陰の心身の健康を支えたのが、母の瀧でした。

 

 

その後、松陰は、野山獄を出て、実家の杉家に謹慎の身となり、叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぐことになります。

 

 

安政の大獄で江戸に送られ、斬首されるまで、松陰が松下村塾で子弟の教育に当たったのは、わずか2年足らず。

 

 

そのわずな時間に、松陰は、多くの弟子たちの心に灯をともし、一人一人の志と才能を引き出します。

 

 

やがて彼らが幕末から明治にかけて、歴史の表舞台で大活躍するのですが、

この松下村塾時代の松陰を支えたのも、母の存在でした。

 

 

松陰の松下村塾は、一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、登山や水泳なども行う 「生きた学問」 だったと言われています。

 

時勢を論じれば議論が噴出し、深夜に及ぶこともたびたびありました。

 

そんな時、母の瀧は、常に終わるまで隣室に控え、食べ物やお茶を差し入れて

皆の疲れをいたわったり、洗濯や掃除、お風呂の準備にいたるまで、何くれとなく、松陰や門下生の世話を焼いたそうです。

 

 

もし、吉田松陰という人が存在しなければ、私たちの歴史は違ったものになっていたでしょうが、松陰が29歳という短い生涯の中で天命を果たすことができたのは、母の瀧のおかげと言っても、過言ではないでしょう。

 

 

命を生み育み、歴史を陰で支える女性の存在に、心打たれます。

 

 

そんな母の愛を、誰よりも強く自覚していたのが、松陰その人でした。

 

♪親思う心にまさる親心  今日のおとずれ何ときくらん♪

 

 

自分がいくら母のことを想っても、それは子を想う親心には遠く及ばない。

わたしの死を聞いたら、母はどう思うだろうか。

 

松陰は、自分の生涯に悔いはなかったはずです。

それでも、死を前にして、自分に愛情を注いで育ててくれた両親のことを想うと、

込み上げてくるものがあったのでしょう。

 

 

子を想う親心、そして親を想う子の心…。

 

 

わたしも今まで、松陰と同じように、子を想う親心に深く感謝してきました。

 

 

でも、子どもを授かり、子育てをする中で、子どもが親を想う気持ちの深さ、親を無条件で100%受け入れてくれることのありがたさを、身を持って感じています。

 

そのことにあらためて気づかせてくれたエピソードを、次回ご紹介させていただきますねニコニコ


吉田松陰とペリー

(2010年9月14日のブログ記事より)

『 泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず 』

 

これは、歴史の教科書に必ず登場する狂歌です。

 

上喜撰 (じょうきせん) とは、当時の高級な宇治茶 (玉露) の商品名のことで、

濃いお茶なので四杯も飲むと夜眠れなくなることと、ペリーが蒸気船である黒船他計4船で来航したことをきっかけに、世の中が大騒ぎなったことを掛けたのです。

 

ちなみに…

『 アメリカガのませにきたる上喜撰 たった四杯で夜も寝ラレズ 』

 

こちらは、萩市内の民家で発見された 『 燕都流言録 』 に載っている狂歌で、

『 燕都流言録 』 は、吉田松陰の直筆と言われています。

 

いずれにしても…

1953年、ペリー来航。

 

この事件をきっかけに、在野の志士がむらがり立ち、「攘夷か開国か」 「尊王か佐幕か」 の議論が沸騰し、幕末の騒乱が始まるわけです。

 

 

実はこのペリー艦隊は、アメリカから太平洋を横断して日本に来たのではなく、

アメリカ東海岸から大西洋を横断し、アフリカ南端を回って、はるばるやって来ました。

なぜなら、太平洋上には、石炭補給地がないので、蒸気船では太平洋横断ができなかったのです。

 

合衆国東海岸を出港したペリー艦隊が、大西洋のマディラ島、セントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを回り、セイロン (現在のスリランカ) 、シンガポール、香港、上海、琉球 (現在の沖縄) 、小笠原諸島に寄港し、浦賀沖に碇泊したのは、

1853年7月8日のことでした。

 

黒船を初めて見た世界中の人々は、どの民族も腰を抜かすほど驚いたに違いありません。

 

けれども、日本人だけは違っていました。

 

確かに、日本人も腰を抜かすほど驚き、前出の狂歌のように、国を挙げて蜂の巣をつついたような大騒ぎになったことは事実です。

 

 

でも、日本人の中には、黒船を見て肝を潰しながら、潰しっぱなしでなく、

「黒船を造った西洋文明を見てみたい」

「あの黒船に乗って商売をしてみたい」

さらに…

「 自分たちの手であれと同じものを造ってやろう 」

と思った人たちがいたのです↑↑↑

 

この先人たちの好奇心とバイタリティーがあったから、日本は植民地にならずに、

独立を維持できたのですねニコニコ

 

「あの黒船に乗って商売をしてみたい」

と考えた日本人の代表は、坂本龍馬や岩崎弥太郎ですね。

 

では、「黒船を造った西洋文明を見てみたい」 と思った日本人の代表は誰でしょう?

 

…それは、吉田松陰ですビックリマーク

 

 

吉田松陰は、ペリーが2度目に来航した時、弟子の金子重輔とともに小舟で米艦に

近づき、自分たちをアメリカに連れて行ってくれと懇願します。

 

この時、ペリーは、条約締結の支障になることを怖れ、松陰の懇願を拒絶しつつも、

松陰の気概に、そしてこういう青年を輩出した日本社会に、驚嘆するのです。

 

この時のペリーの心情は、日本遠征の報告書である 『ペリー提督日本遠征記』

(F.L ホークス編集) に書かれています。

 

「この事件は、同国の厳重な法律を破らんとし、また知識欲を増すために生命さえ賭けようとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すもので、興味深いことであった。

日本人は疑いもなく研究好きの人民で、彼らの道徳的ならびに

知識的能力を増大する機会を喜んで迎えるのが常である。この不幸な二人の行動は、同国人の特質より出たものであったと信ずるし、

また人民の抱いている激しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。」

 

そして、このように付け加えられていますニコニコ

 

「日本人の志向がかくの如くであるとすれば、この興味ある国の前途は、なんと味のあるものであることか、また付言すれば、その前途はなんと有望であることか。」

 

この時、吉田松陰24歳。

松下村塾を開く3年前のことでした。

 

地位も名声も何もない、歴史の中に埋もれたただの一青年が、ペリーにこれだけの感銘を与えたのです。

 

そして、この感銘が、欧米各国に広がっていき、各国の日本に対する扱い方に変化を起こさせたのかもしれませんね。

 

当時は、欧米列強による植民地政策が真っ盛り、アジア諸国は次々に植民地となっていきましたが、タイと日本だけは、植民地になることを免れたのですから…。

 

松陰の計画は失敗に終わりましたが、彼の気概は、結果的に、日本を守ったのです。

 

そして、この密航事件は、松陰が英雄であることを物語ると同時に、こういう若者を生んだ素晴らしい土壌が日本にあることを、象徴していると思います。

 

その DNA を受け継ぐ私たちは、きっとこの混迷の時代を打破して、新しい時代を切り開いていけるはず…ニコニコ


東行庵、そして功山寺へ・・・☆

(2011年5月4日のブログ記事より)

 

連休明けがいよいよ原稿の最終の締め切りなので、「そろそろあとがきを書かなければ…」 と思い、今日は家族で関門海峡を渡り、下関に行ってきました。

 

あとがきと下関…?

 

いったいどういうつながりがあるのかというと…

本の予告になりますが、ちょっとだけバラしちゃいますね( *´艸`)

 

 

今回、出版させていただく本は、 『名言セラピー』 で有名なひすいこたろうサンとの共著で、ひすいさんが前書きを、私があとがきを書くことになっているんです。

 

 

そして、ひすいさんは、前書きで吉田松陰のエピソードを書いてくださったので、

「あとがきは、前書きに呼応するカタチで書き進めたいな」 と思い、松陰の志を継いだ高杉晋作のことを書こうと思いました。

 

 

晋作が生まれ育った萩は、福岡からはちょっと遠くて、体力的に自信がなかったものですから、今回は、下関を選びました。

 

下関には、晋作のお墓もあるし、維新史を大きく回天させた “功山寺の挙兵”の舞台となった、曹洞宗功山寺があるからです。

 

晋作ゆかりの地を訪れ、いろんな思いがわき上がってきたので、明日にでも、あとがきを書き綴ってみようと思います。

 

 

ところで、晋作のお墓は、東行庵 (とうぎょうあん) にありますが、東行というのは、江戸時代の歌人 ・ 西行に対抗して (?) 晋作が自ら名乗っていた名前です。

 

 

実は晋作は、片手に三味線を持ち、もう一方の腕に愛人 ・ おうのを抱いて、革命を起こしたのです。

 

都々逸 (どどいつ) が得意で、生涯に何百という歌を残しているのですが、歌人として名をかたる時にいつも使っていたのが “東行” でした。

 

きっと、妻子を捨て、風流の世界に生きた西行に対して、茶化す気持ちが半分、憧れが半分だったのでしょうニコニコ

 

 

もし晋作が平穏な時代に生を享けたら、きっと芸術家になっていたんじゃないかなぁ。

 

 

今日は絶好のドライブ日和で、本当に気持ちのいい一日でしたが、明日はこもって原稿を仕上げようと思います。

 

 

皆さまも、それぞれに素敵な連休をお過ごしくださいねラブラブ


松陰が手に負えなかった生徒

(2012年9月15日のブログ記事より)

 

入学試験ナシ、授業料無料、決してエリートではない、雑草集団の松下村塾から、

 

内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創立者2名…と、明治日本の屋台骨を背負って立つ人材がこれほど育つなんて、

 

いったい誰が想像できたでしょうビックリマーク

 

松陰先生の熱い志に触れて、少年たちは人生を変えていったんですね~♪

 

ところが…ビックリマーク

松下村塾の中で、3名だけ、その後の行方がわからなくなってしまった塾生がいたのだそうです。

 

松陰先生の手にかかったら、どんな少年もスイッチONになって、何事かを成し遂げるんだと思っていたので、この事実は意外でした( ( ゚Д゚)

 

松陰先生の情熱が伝わらなかったなんて、いったいどんな少年たちなんでしょう?

 

実はこの話、致知出版の藤尾社長から伺ったのですが、藤尾社長曰く、

「この3人の少年たちには共通点があった。

それは…

……

……

“感激する” という資質がなかったことである。」

 

う~ん、受け取る側に感性が備わっていなければ、たとえ松陰先生のような最高の教育者でも、その子のスイッチをONにすることはできないんですね。

 

ちなみに、孔子の弟子が、ある人から 「あなたの師匠はどんな人ですか? ひとことで言い表してください。」 と言われた時、その弟子は孔子を尊敬するあまり、ひとことで表すことができなくて、何も言えずに帰ってきたのだそうです。

 

孔子のもとに帰った弟子が、「ひとことで何と言えばよかったのでしょうか?」 と孔子にお伺いを立てたら、孔子は、その弟子に多少イラつきながら、「私は “憤の人” である。」 と即座に断言したそうです。

 

「憤」 という字は、「憤り(いきどおり)」 とも読むので、怒ったり感情が爆発したりすることと思いがちですが、実は、「感情が大きく動く=感激する」 という意味もあるんですって。

 

孔子は、人間にとって、最も大事な資質が、「感激する」 ことにあると思っていたんですねニコニコ

 

人は、感激するから、「自分もこうありたい」 と、理想を描くことができる…

人が人として生きる上で、「感激する」 資質を育むって、こんなにも大切なことだったんですねビックリマーク

 

なんだか私、日ごろの子育てを反省してしまいました。

子どもたちの感性を育むことよりも、知識や技術を習得させることに意識がいってたなぁ( ;∀;)

 

でも、気づいた時がベストな時…ラブラブ

これから、子どもたちと一緒に素敵な体験を共有して、お互いの感性を磨きあっていきたいと思いまーすニコニコ


あの人が道徳の教科書の題材に・・・!

(2014年4月24日のブログ記事より)

 

『こころに残る現代史』の中で、読み返すたびに私が必ず涙する場面があるんです。
(手前味噌でごめんなさい( *´艸`))

 

自衛隊のイラク支援の時に、番匠さんがイラクの人々に語った言葉、村人たちの防疫に努め、命を落とした増田巡査、戦後シベリアに抑留され、ウズベキスタンのインフラ整備に従事した日本人たちの労働観、台湾との絆、そして…。

 

地球の裏側、ペルーのバレーボール界の発展に尽くし、ペルーで亡くなったアキラ・カトウ。

 

彼の生きざまは、獄中の松陰から晋作に送られた手紙を彷彿とさせます。

 

「高杉晋作君。

君は質問した。男子の死ぬべき所はどこかと。

私も昨年の冬、投獄されて以来、考え続けてきた。

死は好むべきものではないが、また憎むべきものでもない。

世の中には、身は生きていても、心は死んだのと同じという人がいる。

反対に、身はほろびても、魂は生き続けている人もいる。

死んで、不朽のことが残せる見込みがあれば、いつ死んでもよい。

また、生きて大業を成し遂げる見込みがあれば、どこまでも生き

る努力を続けなくてはいけない。

人間というものは、生死のことなど度外視して、いま自分がやる

べきことをやるという心がまえが大切なのだ。」

 

 

 

身は滅んでも、その魂がペルーに生き続けたアキラ=カトウ。

 

その彼が、小学5、6年生の道徳の教科書に登場しているという素敵な情報を、友人の川島ゆかさんが教えてくれましたニコニコ


準備中です
暫くおまちください

吉田 稔麿(よしだ としまろ)

母の愛♪

(2010年1月11日のブログ記事より)

歴史上の人物で誰が一番好きかというと…

 

どうしても一人にしぼれなくて、いつも3人の名前を挙げています。

 

 

島津斉彬、福沢諭吉、 空海。

 

 

この3人は、ズバッと本質をつかんで、思いきって行動するところが大好きですラブラブ

 

 

では、好きな歴史上の人物 Best 5 を挙げれば…

 

この3人に、

 

吉田稔磨 (としまろ)

木村重成

 

が加わります。

 

木村重成は、真田幸村らとともに大坂の陣のときに活躍した

豊臣方の武将ですが、大坂城1万人の女官たちが全員、

重成に恋い焦がれていたという、おそらく日本史上、最高の

イケメンですニコニコ

 

わたしはマイナーな重成にいつかメジャーになってほしいと

思っているので、彼のことは後日ゆっくり紹介するとして…

 

今日は、吉田稔磨のことを書かせてください。

 

稔磨は、長州藩の足軽の子。

足軽だから、本来、名字はありません。

 

16歳の時に吉田松陰が主宰する松下村塾に入門した彼は、

その志の高さと優秀さを松陰に愛され、松陰の姓である “吉田”

を名乗ることを許されたのです。

 

 

松陰という素晴らしい師に出逢い、稔磨の素質は花開いていきます。

 

 

稔磨の人柄と素質がいかに素晴らしかったかを物語るエピソードがあります。

 

明治の世になって、ある人が、松下村塾出身の品川弥次郎に、

「松陰門下で誰が一番優れていたか?」

という質問を投げかけました。

 

すると、品川翁は、一瞬のためらいもなく、

「それは吉田稔磨だ」

と答えたそうです。

 

 

さて、話を戻しましょう。

 

 

松下村塾で勉学に勤しみ、高い志を持つにいたった稔磨でしたが、

前述した通り、彼の家は、足軽という侍以下の身分で、とても

貧しかったのです。

 

稔磨17歳のとき、家の借金を返済するために、江戸に出て働く

ことになりました。

 

 

江戸に出た稔磨は、やがて、師である松陰とも、また松下村塾で

ともに学んだ仲間たちとも、距離をおくようになりました。

 

 

理由は…

「母に心配をかけたくない。」

 

 

そうです、後世の私たちは、幕末 ・ 維新の志士たちのことを、

「カッコいい~ラブラブ

と思いますが、当時は、彼らの命がけの行動は各藩において

処罰の対象となり、その影響は、実家の親兄弟はもちろん、

親類にまで及んだと言われています。

 

 

稔磨の母を想う気持ちは、誰にも非難できないと思うんです。

 

 

その後、松陰は、安政の大獄で刑死しますが、その知らせを

聞いても、稔磨は動きません。

 

 

松陰の死から2年後…

 

ついに稔磨は、松陰の遺志を継ぐ覚悟を決めます。

 

そして、全国の志士たちの中でも、中心的な役割を担って

いくことになるのです。

 

 

そんな稔磨が、なぜ歴史の中に埋もれているのか…?

 

それは、彼の死があまりにも早すぎたからです。

 

 

稔磨24歳のとき、死は、突然やってきました。

 

 

1864年7月8日、池田屋事件。

 

京都の旅館・池田屋に、志士20数名が集結し、会合を

開いていました。

 

そこへ新撰組が踏み込んでいき、幕府方の兵3000名が

池田屋の周りを包囲したのです。

 

 

20数名の志士たちが次々に殺されていく中、たった一人、

奇跡的に包囲網をくぐり抜け、長州藩邸に駆け込んだ若者が

いました。

 

 

彼は、藩邸に援軍を頼みましたが、幕府と対立したくない

長州藩は、「彼らの私闘である」として、ついに門を

閉ざしたままでした。

 

 

援軍を求めた若者はどうしたか…

 

命がけで幕府方の包囲を突破したのに、またその包囲を

くぐり抜け、池田屋に戻ったのです。

 

 

この時、藩邸に留まっていれば、初代総理大臣は、

伊藤博文でなく吉田稔磨になっていたかもしれないのに…(;し;)

 

 

吉田稔磨…松陰に最も愛された男。

 

 

その最期は、あまりにも切なすぎます。

 

 

稔麿は、まさか池田屋での会合が、こんな結果に終わるとは思っ

ていなかったでしょう。

 

長州藩邸から池田屋の会合に向かう途中、

「むすびても又むすびても黒髪のみだれそめにし世をいかにせむ」

という句を詠みましたが、これが辞世の句となりました(;し;)

 

 

一度は母への愛のために革命の道をあきらめた稔磨が、なぜ再び

命がけで革命を成し遂げようと思ったのでしょうか?

 

 

わたしは、松陰の死は、きっかけに過ぎなかったのではないかと

思うんです。

 

 

稔磨に命がけで行動する勇気を与えたのは、その原動力になったのは…

 

“母の愛” だったと思いますラブラブ

 

 

 

第二次世界大戦のとき、慶応大学の塾長を務めていた小泉信三さんは、

海軍主計大尉として出征する息子の信吉さんに、次のような手紙を送りました。

 

「君の出征に臨んで言って置く。
吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子と

することを何よりの誇りとしている。僕はもし

生まれかわって妻をえらべといわれたら、幾度でも

君のお母様をえらぶ。同様に、もしもわが子をえらぶ

ということが出来るものなら、吾々二人は必ず君を

えらぶ。人の子として両親にこう言わせるより以上の

孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたいと

思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日まで

二十四年の間に、およそ人の親として享け得る限りの

幸福は既に享けた。親に対し、妹に対し、なお仕残した

ことがあると思ってはならぬ。今日特にこのことを君に

言って置く。今、国の存亡を賭して戦う日は来た。

君が子供の時からあこがれた帝国海軍の軍人として

この戦争に参加するのは満足であろう。二十四年という

年月は長くはないが、君の今日までの生活は、如何なる

人にも恥ずかしくない、悔ゆるところなき立派な生活で

ある。お母様のこと、加代、妙のことは必ず僕が引き

受けた。お祖父様の孫らしく、又吾々夫婦の息子らしく、

戦うことを期待する。信吉君、父より」

 

 

この手紙を目にしたとき、「さすが小泉塾長は素晴らしい」と感じましたが、自分が親になってみて、それはすべての親の心の叫びなのだと思いました。

 

もちろん、子どもの戦死を望む親なんていないけれど、

子どもへの愛が深ければ深いほど、「自分自身の道を生きてほしい」と願うのではないでしょうか。

 

おそらく、稔磨にとって、革命に生きることをためらわせた“母の愛”が、同時に、その後、革命に生きる原動力になったのではないかと思います。

 

 

いまの時代、命がけでやることなんて少ないけれど、簡単なことでさえ、

 

「子どもがいるから…」

「家族がいるから…」

 

という理由で尻込みをしてしまう人も多いと思います。

 

 

でも、もしかしたら、そのできない理由が、視点を変えれば、最大のできる理由、最大のやりたい理由、最大のがんばれる理由になるのかもしれませんねニコニコ

 

<参考文献>

ひすいこたろうさんのメルマガ『名言セラピー』

小泉信三 著『海軍主計大尉 小泉信吉』


人間関係は自分の鏡☆彡

(2010年1月12日のブログ記事より)

吉田稔磨のことを想うたびに、胸がキューンとなって、

泣いてしまいます(;し;)

 

幕末にこのような若者が存在したことを、一人でも多くの人に

知ってほしい…そんな想いが溢れるままに、昨日のブログを

書かせていただきました。

 

 

稔磨の純粋さ ・ 一途さに惚れ込んでいますが、もし、わたしが

稔磨の立場に立たされたとしたら…

 

きっと正反対の行動をとっていただろうと思います。

 

 

池田屋から脱出し、長州藩邸にたどり着いた時…

 

もしわたしなら、藩邸から一歩も出なかったと思います。

 

 

仲間への後ろめたさを感じながらも、生きながらえたと思うし、

それ以前に、わたしだったら、きっと志士としての活動なんて

しなかったと思うんです。

 

 

交通機関もなく、携帯電話もなかった当時、日本を変えた彼らは、

本当にすごいと思いますニコニコ

 

 

実は、昨日のブログを読んだ知人から、

 

「稔磨って、ひとみちゃんにそっくりね」

 

って言われたんですビックリマーク

 

 

好きな人に似てるって言われて、とっても嬉しかったのですが、

それは買いかぶりです(*´ω`*)

 

わたしには、稔磨のように革命に生きる勇気も、血の海となった

池田屋に戻る勇気もありません↓↓

 

 

じゃあ、どこが似ているの??

 

 

……彼女曰く、“純粋なところ” がそっくりなんだそうです。

 

 

でも、わたしは稔磨の純粋さが大好きで、憧れているんですビックリマーク

 

 

憧れるということは…

 

わたしに純粋さがないから、憧れるのだと思っていましたが…。

 

 

彼女が言うには、人は、自分にないものには気がつかない

のだそうです。

 

この人のこういうところが好き、

あの人のこんなところが許せない…

 

 

その人のいいところに気づいたり、逆に悪いところが気になって

しかたがないのは、自分がそういう面を持っているからなんですってビックリマーク

 

 

 

ということは、いま、自分自身を取り巻く人間関係の中に、自分の

気になる人の気になる部分に、本当の自分の姿が現れているって

いうことですよねビックリマーク

 

 

人間関係って、鏡なんだなぁ~ニコニコ

 

 

日々の出来事や人間関係の中で感じることは、自分自身の心の

コンディションを映し出しているのかも。

 

 

だとしたら、日々の日常生活の中にこそ、成長のヒントがあるのかもしれないですねニコニコ

 

 

でも、この鏡、ちょっぴり歪んで見えるようです。

 

 

自分の長所は1/2に、短所は2倍に見えるみたい( ;∀;)

 

 

 

この歪みに気づけば、慌てずに落ち着いて、自分の感情とつきあっていけますね音譜


For

(2010年1月13日のブログ記事より)

 

けさの福岡は、数年ぶりに雪が積もりました。

 

雪の日は、いつも素敵な出逢いがあるんですニコニコ

 

 

もちろん今日も素敵な出逢いがありましたよ~音譜

 

 

今日出逢った素敵な方たちを、いずれブログでご紹介させていただきますねニコニコ

 

 

さて、先日のブログでご紹介した吉田松陰の愛弟子 ・ 稔磨(としまろ)。

 

「こんな人がいたなんて、知らなかった。」

「素敵な話を教えてくれてありがとう。」

そんな声をたくさんいただきましたラブラブ

 

 

その中で、

「稔磨って、けっきょく最後に池田屋に戻っただけなんですか?

ほかに彼のやったことや優秀さを示すエピソードはないんですか?」

という質問がありました。

 

 

……ないんですビックリマーク

 

 

稔磨があまりにも若くして亡くなったこと、さらに身分が低かっ

たことも影響していると思います。

 

 

わたしが知るかぎりでは、稔磨が歴史に登場するのは松下村塾に

入門した時ですが、その時のエピソードと、先日お伝えした最期

の瞬間が伝えられているだけで、あとは師である松陰と交わした

手紙が残っているだけです。

 

 

でも、幕末史にほんの一瞬チラッと登場するこの魅力的な若者と、

時空を超えて対話をすることがわたしの密やかな楽しみなんですよ( *´艸`)

 

松陰と稔磨の出逢いは、稔磨16歳のとき。

彼が初めて松下村塾をたずねた時、

松陰は、稔磨に、中国の唐の時代の文学者であり思想家・韓 退之(かん たいし)が著した立身出世のための書を読ませたそうです。

 

 

この時、稔麿はこう松陰に返したといいます。

 

 

「僕はこんなことを学びに来たのではありません。」

 

……!?

 

 

「出世なんかどうでもいい。僕はもっと本質を学びたい。」

 

 

松陰は、この瞬間、稔麿に惚れ込んだようです。

「稔麿はわが良薬なり」と絶賛し、

弟子である稔磨を心から尊敬したのです。

 

そしてその稔磨への想いは、松陰が死ぬ瞬間まで変わることはありませんでした。

(たとえ稔磨が母のために革命をあきらめようとも、松陰の稔磨に対する期待と愛情は、変わることがなかったのです。)

 

あれだけたくさんの弟子の中で、なぜ松陰はこんなにも稔磨を愛したのでしょうか?

 

 

松陰は、その晩年(といっても20代後半ですが)、まるで生き急ぐかのように、過激な言動をとるようになります。

 

そして、松陰の過激な言動に戸惑う弟子たちに、このように述べました。

 

 

「僕は忠義をなすつもり。諸君は功業をなすつもり。」

 

 

『功業をなす』とは、てがらを立てて立身出世を望むことです。

それに対して、松陰の言う『忠義をなす』とは、自分を捨てて「未来の日本のため」に生きること。

 

 

人間の生きざまは、最期の瞬間にこそ凝縮されると思いますが、まさに稔磨の生きざまは、『功業の士』ではなく、『忠義の士』だったと言えます。

 

 

松陰と稔磨 … おそらく出逢いの瞬間から、お互いの“忠義の心”が響きあい、師弟の固い絆を育んでいったのではないでしょうか。

 

 

わたしは、“功業をなす”ということを否定するつもりはありません。

 

どんな動機であろうと、行動することは素晴らしいことです。

 

 

でも、行動が同じでも、動機の次元が違えば、結果や影響は、何乗も違ってきます。

 

 

言ってみれば、“功業”は“For me”、松陰の言う“忠義”は“For you”です。

 

「何のために」も大事だけれど、「誰のために」はもっと大事音譜

 

“For you”の生き方が、天命につながる唯一の道のような気がします。

☆参考文献 ひすいこたろうさんのメルマガ『名言セラピー』


準備中です
暫くおまちください

その他
準備中です
暫くおまちください

 



PAGE TOP