推薦本:『天平の甍』(新潮文庫)

私は古都・奈良が大好きですが、その中でも一番のお気に入りは唐招提寺(とうしょうだいじ)です。空の青と木々の緑、それに真っ白な玉砂利。境内はコントラストが美しいだけでなく、清浄な空気に包まれていて、まさに“聖域”といったイメージで、開祖・鑑真和上(がんじんわじょう)の気高い精神が今でもそこに生き続けているような感じがします。

「若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく) ぬぐはばや」

これは、俳聖・松尾芭蕉が、青葉あふれる初夏に唐招提寺を訪れ、鑑真和上の座像を拝した時に詠んだ句です。

ときは、奈良時代。唐の高僧・鑑真は、幾度もの難破の末、12年もの歳月をかけ、その途中で失明しながらも、ついに日本渡航を成功させ、志を成就させます。
その鑑真和上の座像は、当然ながら目を閉じています。その閉じた目には、悲しみの雫が宿っている。その雫を、境内に照り映える若葉を用いて、拭ってさしあげたい……そんな句です。

芭蕉は、鑑真の成し遂げた偉大な業績に思いを馳せ、同時に鑑真の悲しみや労苦に対し、深い思いやりといたわりの眼差しを向けたのでしょう。そして、この若葉あふれる美しい奈良の自然を、鑑真和上にひと目、見せてさしあげたかった……そんな思いも込めたのかもしれません。

初夏の唐招提寺は最高です。境内の景色も素晴らしいですが、何と言っても、鑑真和上の慈悲の心、そして芭蕉の優しさに触れられるのが、この季節なのです。

鑑真和上の来朝というのは、日本古代史上、最も大きな意味のある出来事の一つだったと言えるでしょう。井上靖氏は、この事実をもとに、鑑真来朝に人生を賭け、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運命を、見事に描ききりました。

私がこの本を初めて読んだのは、中学2年生のとき。情熱の塊で、不屈の精神を持った栄叡(ようえい)と、彼の情熱に引きずられるようにして、歴史の渦に身を投じていく普照(ふしょう)。在唐二十年、放浪の果てに、鑒真を伴って普照ただひとりが故国の土を踏んだと知ったとき、私は言いようのない感動に包まれました。人には、天から授かった役割があるのだということを実感し、心が震えたのです。

私は著書や講演で“天命追求型の生き方”というものを提唱していますが、私にはじめて“天命”を意識させてくれたのが、この本です。そういう意味で、この本は、私の人生になくてはならない一冊です。

作品のクライマックス(あくまで私の基準です)は、日本上陸を目前に控えた船内。普照が目覚めると、「照、照」と優しく彼の名を呼ぶ声が聞こえます。声の主は、師である盲目の鑑真でした。あまりにタイミングがいいので、「なぜ自分が目覚めたことがわかったんだろう? もしや和上は見えているのではないか?」と、驚きを隠せない普照に、鑑真が種明かしをするのです。「先ほどから何回も呼んでいたのだよ」と…。

私はこの場面を読んだとき、まるで自分が普照になったような錯覚を起こし、鑑真和上の優しさに胸がいっぱいになったことを覚えています。

今は日中関係がギクシャクしていますが、鑑真和上のような日中の架け橋になった人物がいたということに、私たちは感謝の気持ちを持ち続けたいですね。感謝の歴史だけは、誰にも書き換えることはできないのですから…。

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