先人たちの知られざるエピソード

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6月のお花と言えば 雨上がりに映える紫陽花の花が思いつきますね。

紫陽花は、ヨーロッパでは 『おたくさ』 と呼ばれているそうです。

なぜ 『おたくさ』 なのか…?

幕末に来日し、長崎で日本人に西洋医学を教えながら医師として活躍したシーボルトは、植物学を研究する博物学者でもありました。

それで、ヨーロッパに戻る時に、紫陽花の新種を持ち帰り、『おたくさ』と命名し、紹介したのです。

シーボルトは異国の地で恋に落ち、その女性と出島で夫婦生活を送り、かわいい女の子も生まれました。

シーボルトの恋人の名は 『タキ』、シーボルトは彼女を 『お滝さん』と呼んでいました。

紫陽花は、お滝さんが好きな花だったとも言われていますし、シーボルトが彼女の面影を紫陽花の花に見つけ出したのかもしれません。

いずれにしても、『おたきさん』 が転じて 『おたくさ』 になったことは間違いないようです。

現代は、インターネットの普及で地球上の距離感がすごく狭まったように感じますが、百数十年前に、ヨーロッパと日本に引き裂かれた二人は、会うこともできず、連絡もとれず、どんな気持ちで過ごしたのかなぁ…と思うと、とっても切ない気持ちになります。

ちなみにシーボルトは、ヨーロッパに帰国する時に、日本地図を持ち帰ろうとして、当時、鎖国政策をとっていた徳川幕府から追放されてしまう (1928年のことでした) のですから、この世ではもう二度と会えないと覚悟を決めていたのでしょうね

ところが、時代は大きく動き、日本は開国し、明治新政府が樹立します。

なんとシーボルトの国外追放の罪が解かれ、31年ぶりに、三人は、再会の日を迎えます。

そう、シーボルトが日本を離れる時によちよち歩きだった娘のイネは、美しく成長し、日本初の女医となって、父と会うという夢が叶ったのです。

シーボルトの娘・イネはシーボルトの忘れ形見として、シーボルトの弟子たちから大切にされ、医学を学びました。

おそらく彼女は、弟子たちから父の偉大さを子守唄がわりに聞かされ、覚えていない父親に憧れを抱いたのではないでしょうか。

自分が医師になれば、いつかは父親に会えるのではないかと考えたに違いありません。

彼女は、いつか会えるかもしれないその時のために、必死でオランダ語を勉強し、美しい発音を身につけます。

ところが、シーボルトは、実はオランダ人ではなく、ドイツ人でした。彼のオランダ語の発音は汚くて、イネを戸惑わせます。そして、父親が腹違いの弟を連れていたことにも、多少の幻滅を感じたかもしれません。

わたしは、この再会がイネにとって幸せなことだったのか、自分の中でも答えが出ませんが、もしイネがこの再会にがっかりしたとしたら、よけいに “天命” を感じてしまうんですね。

彼女が天に導かれて日本初の女医になった…ということです。

すべての人の人生は、天からのプレゼント。

紫陽花の美しいこの季節、わたしは、百数十年前の切ない恋と一人の女性の天命を思い起こさずにはいられません。

私の好きな歴史上の人物 TOP3 は、島津 斉彬、福沢 諭吉、そして空海です!!

皆さんは、なぜ“空海”という名前なのか、ご存知ですか?
空海って、同時代の最澄とよく比較されますよね。

わたし、自ら「最も澄む」と名乗る人なんて、信用できないなぁ、
それに比べて、「空と海」という名前をつけるなんて、空海って素敵。

なーんて思っていたのですが、実は空海の名前の由来は、そんな単純なものではなかったんです。

空(そら)って、本当は実在しないものですよね?
でも、海を見ると、実在しないはずの空が、まぎれもなくそこに映っています。
空を映し出す海のように、
「自分をからっぽの器にして、すべてのものをそこに映し出し、包み込む」
というのが、空海の名前の由来だそうです。

ひすいさんのメルマガを読んで、空海が1200年のときを超えてよみがえったように感じて、胸がいっぱいになっちゃいました♪

竜馬は、薩摩藩邸に初めて西郷さんを訪ねた時の感想として、
次のように勝海舟に告げています。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。
釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、
大きく叩けば、大きく響く。
もし、バカなら大きなバカで、
利口なら大きな利口だろうと思います。

ただ、その鐘をつく撞木 (しゅもく) が小さかったのが残念でした。」

竜馬は、西郷さんを 「 釣り鐘 」 に、自分自身を 「 撞木 」 に例えたのです。

この竜馬の西郷評って、自分という粘土で器をつくり、自分以外のすべてを空にしていた、西郷さんの生き方が表れているような気がします。

西郷さんの素晴らしさは、“ 空 ” をつくり、人を受け入れ、愛し、輝かせたところにあるのではないでしょうか。
私たち日本人が、西洋には存在しえない、東洋的なリーダー像を持てたのは、西郷さんのおかげだと思います。

「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」

これは、熊本民謡『田原坂』の一節です。

西南戦争における天王山ともいえる、田原坂の攻防戦。
それがどれほど激しいものであったか、この一節からも
伝わってきます。

17日間に及ぶ田原坂の攻防戦に敗れた薩軍は、南九州を転戦し、負け続け、しだいに追い詰められていきます。
そして、延岡から故郷である鹿児島を目指すのですが、政府軍の包囲を突破しようとして、“可愛岳(えのたけ)”の山越えを強行します。

可愛岳は、九州百名山にも数えられる美しい山ですが、標高727メートルの天嶮で、断崖絶壁、しかも
政府軍の不意をつくため闇夜の行軍…

足腰の強い剽悍な薩摩人も震え上がり、行軍は困難を極めたそうです。
特に西郷さんはあの巨体ですから、駕籠から降りて急斜面をよじ登るのは至難の業です。

誰の目にも敗戦は明らかで、ただ死に場所を得るための
絶望的な逃避行…

こんな状況下で、なんと西郷さんは、ものすごく色っぽい
素敵なジョークを飛ばすんです。

急斜面をよじ登りながら、
「よべ(夜這い)のようだ」
と言って周りを笑わせたそうです。

幕末維新史に燦然とその名を残す西郷さんには、
神様がクスッと微笑みたくなるような、なんともいえない
かわいげがあったんだと思います。

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