和ごころコラム

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♠2017年

秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
 
これは、百人一首の一番歌。この歌を詠んだのは、大化の改新で知られる中大兄皇子、後の天智天皇です。

「かりほのいお」とは、農作業のための粗末な仮小屋のこと。「屋根を葺いた苫の目が粗くて隙間があるから、夜露が私の袖に落ちて、着物を濡らしているなぁ」という意味ですが、天智天皇が、そんな粗末な小屋で寝起きするわけはないので、「この夜露は農民たちを冷たく濡らしていることだろう…」と、民の暮らしを思う、優しい心を詠んだ歌と言われています。

ただ、これは私の想像ですが、もしかしたら、民に愛を注ぎながらも、天智天皇は深い悲しみの中にあり、涙で袖を濡らしていたのではないかなと思うんです。

今から1350年ほど前、天智天皇のお母様でいらっしゃる斉明天皇が皇位に就かれていましたが、その斉明天皇が、九州の朝倉(現在の福岡県朝倉市)で崩御なさいました。

なぜ飛鳥の都から遠く離れたこの地で斉明天皇が亡くなったのかというと、それは当時の朝鮮半島の事情が大きく影響しています。
朝鮮半島にあった百済(くだら)という国が、同じ朝鮮半島の新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に助けを求めてきました。日本は百済と深い友好関係を結んでいましたから、ときの斉明天皇は、百済の人々を気の毒に思われ、百済の復興を願い、朝鮮半島に出兵することを決意します。そのための前線基地が置かれたのが、朝倉だったのです。

68歳と、当時としては高齢だった上に、心労や長旅の疲れが重なったのでしょう、朝倉に着いてたった2ヶ月で、斉明天皇は亡くなりました。

中大兄皇子は深く嘆き悲しまれ、喪に服されますが、その場所が、御陵山(ごりょうさん)の木の丸(きのまるでん)だったと言われています。御陵山の中腹には、恵蘇八幡宮という神社があり、地元・朝倉の人々から大変大切にされてきましたが、恵蘇八幡宮には斉明天皇と天智天皇が祀られ、その敷地には木の丸殿跡が残っています。

実は、百人一首の一番歌は、ここ朝倉で詠まれたと言われています。もしそうだとしたら、天智天皇の袖をぬらした露とは、涙のことだったのかもしれませんね。

私はこの歌がもともと好きでしたが、昨年、母を亡くしてからはさらに好きという気持ちが募っていって、シャープでクールな印象の天智天皇が、急に友だちになってくれたような気がしています(笑)

天智天皇の深い悲しみと、母宮へのかぎりない愛情が詰まった朝倉の地。この地は、歴史上、幾度となく水害に見舞われています。山に囲まれ、水運に恵まれ、九州の各地に繋がる朝倉は、要害の地でありながら、万が一戦いに敗れたとしても、陣をはらって落ち延びるのが容易でしたから、斉明天皇が前線基地に選んだのでしょうが、その地形は、ひとたび大雨に襲われると、大洪水に繋がる危険性をはらんでいたのです。

朝倉は百人一首一番歌ゆかりの地として、毎年、百人一首の大会を開催してきましたが、今年は、7月に起こった水害の影響で、その大会も中止となりました。朝倉の復興を心から祈り、来年以降の大会の開催に期待したいと思います。

さて、斉明天皇による朝鮮半島への出兵。その結果がどうなったのか、そしてその戦いは日本人に何をもたらしたのか。次回の和ごころコラムでお伝えしたいと思います♪

( 白駒妃登美 )

幕末の志士、高杉晋作が長州藩の歩む道を「倒幕」へと決定づけた、功山寺の挙兵。このクーデターの成功が大きな原動力となり、日本の歴史は明治維新へと突き進んでいきます。

決起の直前、高杉晋作は幕府に恭順姿勢を見せる長州藩の上層部に命を狙われ、関門海峡を越えて、九州に亡命しました。福岡の有名な女流歌人・野村 望東尼(ぼうとうに/もとに)を慕って、彼女の住まいである平尾山荘を訪ねるのです。

平尾山荘は、現在の福岡市中央区平尾という高級住宅街にあり、現在もその面影を残し、一般に開放されています。山荘の隣には資料館もあり、望東尼の人生をたどることもできます。

望東尼と晋作は、この時が初対面だったと言われています。
彼女は、一時期、京の都で和歌を学んでいましたが、そこで我が身も省みずに、日本の将来を憂えて国事に奔走する若き志士たちの姿を見て、感動するんですよ。それ以降、九州にやって来る志士たちの世話をして、志士たちの間では、お母さんのように慕われていました。その噂を聞きつけた晋作が、いわばアポなしで平尾山荘を訪ねたんですね。

そんな晋作を、望東尼は、何も事情を聞かずに、だまって置いてあげたそうです。晋作は長州藩に追われていたので、「谷 梅之助」という偽名を使いましたが、望東尼は、「いくら梅の花が雪の中に埋もれていても、香りまでは隠すことができない」という意味の和歌を詠むんですね。何百人もの志士たちを見てきた望東尼は、一目で、晋作がただ者ではないと見抜いたんでしょうね。

そして彼女が見込んだ晋作は、その後、歴史を動かしていくのです。

しばらく、晋作は望東尼の山荘で過ごします。10日ほどたったある日、望東尼は自らが縫い上げた着物を晋作に着せ、「あなたはこんな所でボヤボヤしている男じゃないでしょ! さっさと持ち場に戻りなさい」って、晋作のお尻を叩いたんですね。そうやって望東尼に送り出された晋作は、長州に戻って兵を挙げ、クーデターに成功します。

それが、功山寺の挙兵です。

禁門の変で、長州藩士とともに京の都を追われた公卿が、長府の功山寺に滞在していたので、晋作は彼らの元へ赴き、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と宣言し、月光さえ渡る雪道を進軍したと伝えられています(個人的に、私はこのシーンを、日本史名場面のトップ5に入れています、笑)。

このクーデターの成功から幕末維新史が一気に動いて行くのです。そしてついにあの強大な徳川幕府が倒れるわけですが、歴史のターニングポイントとなった「功山寺の挙兵」が、平尾山荘から始まったということ、意外に福岡の皆さんもご存知ないんですね。
その経緯を知って、誇りに思っていただけたら嬉しいなぁ♪

晋作と望東尼の関係は、その後も続いていきます。

実は、功山寺の挙兵に際して、晋作はあることを心に誓うんです。それは、「金輪際(こんりんざい)、“困った”という言葉を吐かない」というものでした。その決意があったからこそ、クーデターが成功し、歴史が大きく動いたのだと思いますが、でも、厳密に言うと、晋作はそれ以後、1回だけ「困った」と言ってしまいます。

晋作には萩の城下でナンバー1の美人といわれた奥さんがいて、晋作が病に倒れたことを知った奥さんが、一人息子を連れて、下関の晋作のもとを尋ねるんですよ。ところが、晋作の枕元には、恋人のおうのさんが常にいて、看病を続けていたんですね。

奥さんと恋人が鉢合わせしてしまい、晋作は困ってしまいます。10万の幕府軍を相手に、勝利をおさめるほど強かった晋作が、二人の女性の間でおろおろするなんて、晋作もかわいいと思いませんか(笑)

この時、晋作のピンチを救ったのが、望東尼なんです。二人の女性の間に入り、懸命に説得して、晋作との仲を取り持ったそうです。さらに、晋作は27歳という若さで亡くなりますが、彼の最期を看取ったのも望東尼です。

晋作の有名な辞世の句。

「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲みなすものは 心なりけり」

この歌に関しては、さまざまな説がありますが、一般的には、上の句を晋作自身が、そして下の句を望東尼が詠んだと言われています。

晋作が27歳で亡くなった時、望東尼は60歳ですから、年齢的には、親子のような関係ですが、私はそれ以上に、国の行く末を憂える同志として、心の深い部分で繋がっていたのではないかと想像しています。

福岡から車で約1時間、功山寺には何度も訪れていますが、桜、新緑、紅葉…、どの季節も素晴らしいです。私は行ったことがありませんが、おそらく雪の季節も素敵なんでしょうね♪

そして、なんと功山寺を訪れると、晋作が「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と宣言したお部屋にも、入れていただくことができます。晋作の魂が自分に乗り移ったような、不思議で素敵な感覚が味わえますよ!

これから旅をしたり歴史を学ぶには最適なシーズンを迎えますね。レンタカーを借りて平尾山荘から功山寺へ~♪ 晋作の気持ちに思いを馳せながらのドライブ、おすすめです! また関門海峡にのぞむ赤間神宮は、晋作を支えた下関の豪商・白石正一郎が晩年に宮司を務めています。

ああ~、また皆様をご案内したくなってきました(笑)
今年は新緑の季節にみんなで功山寺を訪れましたが、来年もまたみんなで訪れることができるように、いろいろ企画してまいりますね。

みなさま、ごきげんよう~(*^^*)

( 白駒妃登美 )

福岡には「三社参り」といって、初詣のとき、三つの神社をはしごして参拝する風習があります。埼玉出身の私は、「神様がけんかしないのかしら」と不思議に思ったものですが、実は、関東にも、同じ「三社参り」の風習が存在していたんですね~。

「三社参り」の風習が残るのは、関東地方東部の利根川下流域で、香取神宮(千葉県‎香取市‎)、鹿島神宮(‎茨城県鹿嶋市)、息栖(いきす)神社(茨城県神栖(かみす)市)の三つの神社を総称して「東国三社」と呼びます。東国三社のご祭神は、ともに、「国譲り」神話に由来していますが、特に香取、鹿島については、創建時に「神宮」と呼ばれたのは、他には伊勢の神宮のみであり、格式の高い神社とされています。

息栖神社も含めた三社を参拝するのが「東国三社参り」、私も今年の7月にお参りしてきました♪ どの神社も、古い歴史と地元の方々の信仰に支えられ、訪れる者の心を何とも清新にしてくれるのですが、私が特に心に深く刻んだのは、鹿島神宮でした。

覚えていらっしゃいますか? あの東日本大震災のとき、鹿島神宮の鳥居が倒壊してしまったのを。 石でできた鳥居だったんですよ! それが粉々に…。

鹿島神宮は「日本国を守る武の神様」と言われていましたから、その鳥居が倒壊したということは、ついに日本国の二千年以上に及ぶ長い歴史がここで終わるのか、日本崩壊か…と、多くの人が嘆き、心を痛めました。

その鳥居が、およそ三年後に再建されたのです。石の鳥居も重厚なイメージで素晴らしかったのですが、再建された木の鳥居も、とても清々しくて素敵ですよ!

さて、問題はここからです。鳥居は、それはそれは立派な四本の大木からできています。動物占いがコアラですぐにコストパフォーマンスが気になる私は、「この木の鳥居、いったいいくらかかったんでしょうかね~」と、地元の方にきいてみました。

答えは……「通常は、一本につき数千万、本来なら全体の材料費だけで、億をくだらなかったでしょうね」

「それはそうでしょうね」とうなずいたものの、「うん? 本来ならって、どういうことですか?」

「実は、鹿島神宮は、日本で初めて植林されたという、記録を持つ場所なんですよ。古来、この地域は交通の便が悪かったので、もしものことが起こり、木材が必要になったときに、他の場所から運んでくるのは大変だからと、万が一の時に備えて、植林をしたというんです。今から千年以上前の話です。その木材を使ったので、材料費はゼロなんですよ。もちろん工場と神宮の間の輸送費や工場への支払いはかかりましたけどね」

私は魂が震えました! 未来に生きる私たちのことを思い、千年に一度起きるかどうかわからない災害のために、植林をしてくれていた先人たちがいた! さらに、彼らの思いが語り継がれていたことが素晴らしい、と。

もし、この伝承が途中で途切れてしまっていたら、ご神域の木を伐り倒して鳥居にすることを、私たちは躊躇し、きっとできなかったと思います。先人たちの思いが継承されてきたからこそ、この鳥居再建は果たされたのです。

きっとこの先も、日本国は武の神様によって守られていくでしょうね。もしかしたら、震災による鳥居の倒壊は、先人たちからのメッセージを私たちに思い起こさせ、さらなる未来に向けて確かなものにするためだったのかもしれません。

きっとこの伝承する力が、文化の本質なんですね。東国三社参りは、日本文化の素晴らしさを再確認する機会でもあります♪ しかも、香取神宮の近くには伊能忠敬記念館もあるので、一人でも多くの人に訪れていただけたら嬉しいです(*^^*)

( 白駒妃登美 )

日本は言霊幸う国といわれています。東日本大震災直後の2011年3月16日、あらためて言霊の力を感じさせる出来事がありました。

震災直後から、自衛隊は迅速な救援活動に入りました。国を守るために過酷な訓練を繰り返している自衛隊にとって、どんなに過酷な状況も想定内。なんと、防寒具から食料に至るまで活動維持ギリギリの分量を残して被災者に提供し、自分たちは寒さの残る野外で冷たい固形食を食べながら救援活動に当たっていたのです。しかし、現代のサムライとも言える自衛隊であっても、昼夜を問わない救援活動により、心身共に相当な困難に直面していました。特に、瓦礫の下や海岸線でご遺体の捜索を担当している隊員は想像を絶する凄惨な現場を目の当たりにし続けたといいます。

そんな最中に、天皇陛下がビデオメッセージを出されました。

「自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います」
陛下のこのメッセージを聞いたとき、たくさんの自衛隊員が涙を流したといいます。
そう、自衛隊の名が真っ先に語られたのです。これまで自衛隊はその役割の大きさとは裏腹に、感謝されることの無い存在として扱われていました。しかし戦後最大の国難といっても良いこの時に、命を賭けて国を守れる存在は誰なのかを陛下自らがお言葉で示されたのです。

多くの自衛隊員が語ってくれました。
「陛下のお言葉は魂が震えるくらい嬉しいものでした。それは『国民を守るため、私たちがやりきるのだ』という圧倒的な士気の高さとなったのです」と。陛下のお言葉はまさに言霊となって自衛隊員達の魂に届いたのです。

言霊幸う国、日本。
どんなに辛く厳しいときも、言葉は言霊となりいつも私たちに希望を与えてくれるのです。  (富田欣和)

「かたつむり ゆっくり登れ 富士の山」
これは、吃音を苦にしていたお弟子さんのラジオ出演が決まった時、境野先生がその方に贈られた句です。奥様も娘さんも「わざわざラジオに出て恥をさらすなんて、みっともない」と大反対。でも、その方は、たとえ吃音でも一生懸命しゃべることで誰かの希望になれるかもしれないと、ご自分の可能性を信じたのです。その結果、夫婦は離婚(実はその後再婚なさり、さらに吃音も出なくなり、今はとてもお幸せに暮らしていらっしゃるそうです)。そのどん底の彼に境野先生が贈られたのが、先ほどの句です。
なんと優しい句なのでしょうね。もちろんこの句のもとになったのは、小林一茶の「かたつむり そろそろ登れ 富士の山」です。大切な人が逆境にある時、温かい言葉をかけて励ましたい。もちろん自分の言葉で伝えるのも素敵なことですが、先人たちの言葉を借りたり、境野先生のように先人の句や歌の一部を引用すると、照れずに気持ちを伝えることができて、味わいが深まりますね。
私は今、高校生の時に、通学電車の中で古典を読みふけっていた時と同じ気持ちが、ふつふつとわき起こってきています。猛烈に学びたいんです!    こういう素敵な伝え方がサラリとできるだけの、教養を身につけるために~(*^^*) 心から尊敬できる師を持つと、こんなにも人生が豊かになるんですね。皆さま、ごきげんよう♪

紫陽花(あじさい)の美しい季節ですね。紫陽花の学術名は、「HYDRANGEA OTAKSA(ハイドランゲア・オタクサ)」。命名したのは、江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館に勤務した医師・シーボルトです。日本滞在の間に、彼は日本女性と恋に落ち、二人の間には愛らしい女の子も生まれました。女性の名は「タキ」、シーボルトは彼女を「お滝さん」と呼んでいました。そう、「おたきさん」が転じて「おたくさ」。
後に、国外への持ち出しを禁止されていた日本地図をヨーロッパに持ち帰ろうとしたことが発覚し、国外追放となったシーボルト。家族と離れ離れになった彼は、愛する女性の面影を、彼女が好んだと言われる紫陽花の花に見つけ出し、そう命名したのかもしれません。無残にも引き裂かれた家族は、生きて会うことはもうないだろうと思われました。
ところが、時代は大きく動き、日本は開国、なんとシーボルトの国外追放の罪が解かれ、彼は31年の時を経て再び来日したのです。シーボルト、タキ、そして娘のイネの3人は、思い出の詰まった長崎の地で、再会を果たします。シーボルトが日本を離れた時にはわずか2歳、よちよち歩きだったイネは美しく成長し、オランダ語が堪能(たんのう)になっていました。ハーフであるが故(ゆえ)に人々の偏見と差別に晒(さら)され、不遇な日々を送ったイネにとって、唯一の希望の光は、顔も覚えていない父への憧れでした。いつか再会した時に直接話ができるようにと、オランダ語を猛勉強し、美しい発音を身につけたのです。
父がどんな言葉を掛けてくれるのか、固唾(かたず)を飲んで見守るイネ。と、その時です。彼女は我が耳を疑いました。なぜならイネは、父が発する言葉を理解できなかったからです。実はシーボルトは、ドイツ人だったのです。医学者であり、博物学者でもあった彼は、東洋研究を志し、鎖国下(か)の日本に入るためオランダ人と偽(いつわ)っていたのです。父の訛(なま)ったオランダ語は、イネを失望させました。さらに父の隣には、見知らぬ少年が寄り添っています。イネの異母弟でした。三十年来の憧(あこが)れは、一瞬にして崩れ去ったことでしょう。
けれども、運命に翻弄(ほんろう)された父娘をつなぐ細い糸が、確かに存在しました。それは「医学」です。シーボルトから西洋医学を学んだ弟子たちが、師の忘れ形見であるイネに医術を教えたのです。彼らの期待に応え、懸命に学んだイネは、後に東京で開業。その技術が高く評価され、宮内(くない)省の御用(ごよう)掛(かかり)にもなりました。「楠本イネ」の名は、西洋医学を本格的に学んだ最初の日本女性として、そして日本初の女性産科医として、歴史に刻まれることとなるのです。
父に会いたい一心で孤高の人生に耐え続けた三十年という時間が、彼女を医学の道へといざなった──。それは、まさに「天命」と言えるのかもしれません。紫陽花の美しいこの季節、私はふと一人の女性の数奇な運命を思い、彼女への愛おしさと静かな感動で胸がいっぱいになるのです。

先日、鹿児島の維新ふるさと館で見た、ショートムービーに感動しました! タイトルは「薩摩ステューデント、西へ」♪
薩摩スチューデントとは、鎖国下の幕末に、薩摩藩がいち早く海外に目を向け、英国に派遣した19名の若者たちのことです。海外渡航が万が一幕府に知られれば“死罪”ろいうリスクを冒し、彼らは未来の日本のために命がけで旅立ったのです。でも、命がけだったのは、彼らだけではありません。彼らを派遣した島津家だって思いは一緒でした。なぜなら、彼らはまず長崎の英国商人グラバーが用意した蒸気船「オースタライエン号」で香港に渡り、そこでイギリスの大型蒸気客船「マドラス号」に乗り換えてロンドンへ向かったのですが、香港からイギリスまでの船賃が、現在のお金に換算するとなんと2700万円! ということは、イギリスでの滞在費と学費、帰りの船賃などを含めると、おそらく一人あたり1億円位のお金がかかったのではないかと思います。それが19人ですよ! 彼らを送り出した島津の殿様は、本当にすごいと思います。
この薩摩から英国への留学を発案したのは、あの五代友厚♪ 数年前、NHKの朝ドラで世の主婦を虜にした、五代さまです。そして19名の中で、最年少は、13歳の長沢 鼎(かなえ)。この少年の覚悟に、涙しました! 「これは戦じゃ。学問ちゅう矢をつがえ、薩摩魂ちゅう刀で闘ってくっとじゃ」 こういう先人たちの思いがあったからこそ、今の平和で豊かな暮らしがあることを、私たちは忘れてはいけないですね。ちなみに長沢 鼎は、帰国せずにイギリスからアメリカに渡り、カリフォルニアでワイン作りに成功し、“ぶどう王”と呼ばれたそうです。そうだ! 今夜はカリフォルニアワインを飲みながら、先人たちに思いを馳せよう~♪
長沢鼎が、その名を知られるようになったのは、日本の国会で行われた、ロナルド・レーガン米国大統領の演説がきっかけと言われています。最後に、その演説の内容を記載しておきますね♪
「1865年、長沢鼎という若い侍の留学生は、何が西洋を経済的に強め技術を進歩させたかを学ぶために、日本を発ちました。それから10年後、彼はカリフォルニア州サンタローザに、「ファウンテングローブ・ラウンド・バーン・アンド・ワイナリー」という小さなぶどう酒の工場を開き、やがてカリフォルニアのぶどう王として知られるようになりました。
長沢鼎は、学ぶためにカリフォルニアに来て、そこに住みつき、私たちの生活を豊かにしてくれました。侍から実業家になったこの日本人は、日米両国に多くのもたらせました。」(1983年11月11日)

鹿児島県鹿屋市にある、鹿屋航空基地資料館。

特攻機地としては、知覧が有名ですが、実は散華された特攻隊員の数は鹿屋の方が多く、小説『永遠のゼロ』の舞台にもなりました。

私は、昨年、鹿屋に講演でお招きいただいた際に、この鹿屋航空基地資料館を訪れました。

そこには、私がずっとずっと原文を読みたいと願っていた手紙が、展示されているのです。

手紙を読む前から、涙が溢れてきました。

硫黄島の守備隊に配属された市丸利之助少将が、死を目前にして手紙をしたためた相手は、なんと敵国・アメリカの大統領、ルーズベルトでした。

すべての日本人に鹿屋を訪れてほしい。

そして「ルーズベルトに与うる書」を読んでほしい。

学校の歴史の授業では教えてもらえない、ペリー来航から大東亜戦争に至るまでの歴史の真実が、この手紙でわかるのです。

市丸少将が命をかけてしたためたこの手紙は、アメリカの新聞にも掲載され、アメリカ国民の間に感動を巻き起こしました。

日本人が知らないなんて、悲しすぎる!

鹿屋に行く前に、手紙の内容を下記サイトで予習するといいかもしれませんよ(*^^*)

https://www.youtube.com/watch?v=kn7jx4qgsnQ

新緑の季節が、今年もやってきましたね♪ 約1年ぶりにコラムを更新します♪

これから、更新頻度をあげていきたいと思っていますので、ご覧いただけたら嬉しいです。

まずは最近、反響の大きかったフェイスブックの記事を転載しますね♪

・・・・・以下、転載・・・・・・・

森友学園の問題で、ずっと抱いていた違和感。その正体が、なんとなく自分でわかってきました。

私は塚本幼稚園を訪れたことはありませんが、関西の方々から、その教育の素晴らしさをずっと
聞かせていただいていました。 その噂を聞くかぎり、きっと塚本幼稚園では素晴らしい教育が
なされ、小学校の開校を待ち望む声も大きかったのでしょう。

ただ、今となっては、その愛国心はちょっと歪んでいたのかなと思わざるを得ません。わが子だけ
可愛いくて他の子はダメというのは、親として愛情が歪んでいますよね。でも対象が国になると、
私たちはその歪んだ愛情を注いでしまいがちなんですね。もっとお互いのよさを認め合える、
まっとうな愛国心を育んでいきたいものです。

そしてもう一点。テレビを見ていると、おそらく中身も知らずに教育勅語を批判している人が
多いんですね。澄んだ心で教育勅語を読めば、本当に素晴らしいものであると多くの方が感じると
思います。

ただ教育勅語は、その素晴らしさを伝えていくのが本質ではないと思います。大切なのは、実践
すること! 声高にその素晴らしさを発信するよりも、教育勅語に示された生き方を自分自身が
実践していくことが大切です。

私が森友問題で抱いてきた違和感の本質は、そこだったんです。

なぜあの学園は、教育勅語の素晴らしさを園児たちに伝えながら、提出先によって契約金額を
変えたのだろう? なぜ理事長の経歴が事実とは異なっているんだろう?

そういう嘘やごまかしのある生き方は、明治天皇が教育勅語で伝えた日本人の在り方や、歴史の
中で先人たちが示してきた日本人の生き方とは対照的です。

台湾のおじいちゃん、おばあちゃんは、勤勉で、誠実で、親切で、責任感があって、約束を必ず
守る人、自分の仕事に誇りを持ち、公の精神を持っている人(自分のことだけでなくみんなのことを、
今だけでなく次の世代のことも考えられる人)を「日本精神のある人」と呼びます。

明治天皇が台湾の民に注いだ愛情を、台湾に渡った多くの日本人が共有してきたんですよね。
こういう生き方を目指し、実践していくことこそが、ザ・日本人ではないかと思います。

まずは実践! 私も自分の肝に銘じてまいります。

♠2016年

“花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ”

大河ドラマ『真田丸』は、視聴率も評判もいいですね。このドラマのタイトルになっている「真田丸」は、真田幸村が大坂の陣で豊臣方につき、築城の天才、秀吉の難攻不落の大坂城に唯一の弱点を見つけ、その弱点を補うために築いた砦の名前です。

大 坂冬の陣では、その真田丸を拠点に、真田勢が大活躍を見せます。その後、夏の陣では大坂城の堀は埋められ、真田丸も取り壊され、大坂方は劣勢に立 たされます。それでも幸村は不屈の精神で家康の首を狙い、あわやというところまで追い詰めます。真田隊の猛攻を受け家康は2度自害しようとした、と言われ ています。その時の活躍は、「真田、日本一の兵」と、後世の語り草になりました。

幸村は、この夏の陣で一般的には討ち死にを遂げたと言われていますが、実は大坂の陣で死なずに、薩摩、つまり鹿児島に落ち延びたという伝説があります。しかも、その伝説によると、大坂城の落城寸前に、豊臣秀頼を救出したということになっています。

“花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ”

これは、当時の京の都や大坂で流行った歌で、子どもたちが盛んに歌っていたそうです。京や大阪には、豊臣家を慕う人々がたくさんいましたから、秀頼と幸村に生きていてほしいという願いを歌に込めたのかもしれませんね。

伝説とはいえ、なぜこのような歌が流行ったのか、そしてなぜ落ち延びた先が「鹿児島」だったのか、今回はこの歌の秘密に迫ってみたいと思います。

ま ず言えるのは、もし幸村や秀頼が生きていたとしたら、中央の権力から逃れるのですから、落ち延びる先は、日本の端の方じゃないとおかしい、という 考えが一つ。そしてもう一つは、薩摩藩は関が原の戦いのあと、西軍の主力で戦争犯罪人となった宇喜多秀家を2年以上も匿っていた、という事実があるので す。

関が原に出陣していた島津軍は壮絶な戦い方をします。西軍についた島津軍は、一発の弾も撃たないまま戦が終わってしまいます。そして西 軍が総崩れと なり、戦場に東軍しかいなくなった時、島津軍の大将・島津 義弘は、前代未聞の作戦を取ります。敵に背中を見せて逃げるのではなく、敵の中央を突破し戦場を離脱するという作戦です。

島津軍は、大将の義弘ただ一人を薩摩に帰すために、死に物狂いで戦います。そして1,000人の兵が80人になるまで戦い抜き、なんとか戦場を離脱することに成功します。

そ の島津軍の実力は、当時の日本人なら誰もが知っていました。さらに実際に宇喜多秀家という敗軍の将を2年以上も匿った、という実績もあります。こ れは鹿児島という土地が、そしてそこに生きる人々が、強さと情の厚さを併せ持っていることの証し。たからこそ、幸村と秀頼が鹿児島で生き続けた、という伝 説が生まれたのかもしれませんね。

さて、ここから先は、島津義弘の話になります。

鹿児島の人々は、今でも島津義弘を愛する 気持ちがとても強く、義弘は、幕末の名君・斉彬と並んで、鹿児島では絶大な人気を誇ります。江戸時代の士族 の子どもたちは、義弘の遺徳を偲び、さらに関が原の苦闘に思いを馳せるため、義弘の菩提寺である妙円寺に参拝するという風習を続けてきました。

妙 円寺が明治の廃仏毀釈で一時廃止された影響で、徳重神社に引き継がれましたが、この風習は今でも残っていて、地元の少年たちが、心と身体を鍛える ために自分たちの学校から日置市の徳重神社まで歩いたり、街のイベントとして、鹿児島市の照国神社(ご祭神は島津 斉彬)から徳重神社まで片道20キロを市民が歩いたりするそうです。

実は、義弘が400年以上も愛され続けているのには、わけがあります。次回のコラムでは、義弘のモテの法則に迫りたいと思います。ぜひ楽しみにしていてくださいね~♪

昔の講演の記録に久しぶりに触れる機会があり、その時話していた「ジョハリの窓」の話が、自分の可能性を広げるために大切な考え方だなぁと改めて感じたので、今回の“和ごころコラム”で触れてみたいと思います。

『自分も、他人も知らない、自分の可能性に光を当てる』には・・・。

大学卒業後、航空会社に入社して、新入社員研修で教わった心理学で有名な「ジョハリの窓」。それは「あなたは、この4つの窓から成り立っているんですよ」と自分を4つの部分に分けるものでした。

その4つとは、
1:『自分が知っていて、他人も知っている自分』
2:『自分は知っていて、他人は知らない自分』
3:『自分は知らないけど、他人は知っている自分』
4:『自分も他人も知らない自分』

例えば、私の場合、『自分が知っていて、他人も知っている』部分は、「おおらか」とか、「明るい」など。それは、私も自覚しているし、まわりの方も知っている自分なんですね。

そ れに対して『自分は知っているけど、他人は知らない』部分というのがあります。「こう見えて、私は結構小心者なんです」というのは、ほとんどの方 が知らない私だと思いますが、小さい頃からその自分とずっとつき合ってきているので、私はよくわかっています。さらに『自分は知らないけど、他人は知って いる』部分というのがあるんです。そして最後は『自分も他人も知らない』部分があります。

この4つの部分の中で「あなた可能性が最も眠っているのはどこですか?」と、新入社員研修で聞かれました。その答えは『他人も、自分さえも気づいていない』部分でした。

「自 分も他人も気づいていない部分に、一番可能性が眠っているので、その可能性をどんどん発揮していきましょうね」とその時に言われたんですが、そ の後ずっと謎だったのは、「他人も、自分さえわかっていない自分の可能性を、どうやって発揮していったらいいんだろう」ということでした。

そ の疑問の答えが、最初の本を出版する過程で実体験としてわかったんです。まず、私は歴史が大好きで、西郷隆盛を親友にしていたのですが、その事実 は自分は知っているけれども、他人は知らない部分でした。絶対へんな奴と思われ、友達が一人もいなくなると思ったので、誰にも言わずに来たんですね。で も、後に共著者となる、ひすいこたろうさんに、ぽろっと言ってしまったんです。だって、ひすいさんは、当時「明治維新のことを本にしたい」と言いつつ、 「吉田松陰と高杉晋作と坂本龍馬のことしか知らない」なんておっしゃるんです。

それなのに明治維新をテーマに本を書くってあまりにも無謀だ から、「私がもし、お役に立てることがあれば・・・」という思いで、歴史好きだというこ とを自己開示したわけですよね。そうすると、自分は知っていて、他人が知らなかったラインが動き、「私が歴史上の人物が大親友なんだ」ということが、他人 もわかってくるわけです。そうしたら、ひすいさんが「妃登美ちゃんの歴史の話を聞いたら、日本を好きになる人が増えるから、ブログで発信していったらいい よ」と言ってくださいました。

私は小さいころから、自分の肝に銘じてきた言葉があります。それは『素直さは最大の知性』です。自分の能力 や性格は、あまり信用できないのですが、 『素直であることだけは、誰にも負けないでいよう』といつも思ってきました。だから、ひすいさんから「妃登美ちゃんから歴史の話を聞いたら、日本を好きに なる人が絶対に増えるから、ブログで発信していったらいいよ!」と言われた時に、「はい!」と、素直に、その翌日くらいに、最初のブログ記事を書き始めま した。

ひすいさんに後からうかがった話ですが、私がこうやってみなさんの前で歴史の話をしている姿が、ひすいさんには見えていたそうで す。でも、私はそん なこと想像もしてなかったんですよ。ということは、歴史の講演をする私というのは、『自分は知らないけれど、ひすいさんという他人は知っている』部分だっ たんですね。

きっと同様のことが、皆さんの人生にもあるのではないでしょうか。皆さんのことを思ってくれている人が、「こうしてみたら」 とか、「ああしてみたら いいんじゃない」と、いろんなことを言ってくれると思うんですね。それに対して素直になると、「他人は知っているけど、自分が知らないラインがずれるんで すよね。

そうすると見てください、「真っ暗闇だった部分(自分も他人も知らなかった自分)」に、光が当たるわけです。私の場合は、それが「歴史の本を出したり、歴史の講座をさせていただくという部分」だったわけですね。

自分も、他人も知らない、自分の可能性を発揮する方法は、以下の2つを実践することだと、本作りの過程で気づきました。

大好きな人や大切な人を笑顔にするために、『自分は知っているけれど、他人は知らないっていう部分を自己開示していく』『自分のことを本当に思ってくれる人たちの言ってくれることに対して素直になる』

私 は「徹子の部屋」というテレビ番組が好きでよく見るんですけれど、「徹子の部屋」って、その世界の一流の人たちが出るじゃないですか。でもね、自 分で「これがやってみたい」と思ってその道に進んだ人は1割か2割だそうで、残りの8割から9割の人は、「自分では思ってもみなかったんですよ」という ケースが多いですね。でも、「あなたにはこれが向いているんじゃない?」と言われたことを、真に受けてやってみたり、「こういうオーディションがあるから 受けてみたら」って言われて受けてみたり、それが一流を極めるスタートだったんですね。

人の言うことを全部真に受けろとは言いません。でも、自分のことを本当に思ってくれる人の言うことには、耳を傾ける。そこから、自分の知らなかった可能性が光り始めるんじゃないかなと思います。

♠2015年

2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」。主人公はもちろん真田幸村です。

ドラマ の舞台となる長野県上田市で、先日、講演をさせていただきました。主催は、上田情報ビジネス専門学校(通称:ウエ ジョビ)さん、講演のタイトルは「ココロの授業~歴史編~」。この講演会に参加してくださった北島広三さんが、講演内容の一部をまとめて、 facebookに投稿してくださいました。それがあまりにもわかりやすかったので、北島さんの許可をいただき、和ごころコラムにも転載させていただきま す。

日本という国名は、「日の本の国」に由来します。「日の本の国」とは、「太陽が命の源である国」という意味で、古来、太陽と自然とご 先祖様の 三恩三恵を伝えてきたのが、私たち大和の民なのです。その大和の民の遺伝子のスイッチをONにする鍵はどこにあるのかを、講演でお話させていただきまし た。

以下、転載。

〜〜〜〜〜〜〜

【「自信がないからできない」は自己中心的人間!!「恩を感じるスイッチ・オン!」】

私は歴史の話をするのに自信がありません。それは歴史の研究を専門にしたことがないからです。でも、自信がないのになぜできているのか。それは有難いと思える人がたくさんいるからです。

今 まで私は自分の力で生きていると思っていました。でも大病を患って、生かされていることに気付きました。多くの方の善意や好意の上に生かさ れているんだと気づいたんです。多くの方が私のこの活動を支えてくれています。その方々に恩返しがしたい。という思いがあるから続けていけるんです。

厳 しいことを言うかもしれませんが、「自信がないからできません」という人はたぶん、「自分のことしか考えていない人」だと思います。「自分 だけで生きていると思っている人」だと思います。自分は多くの人の応援や支えがあって生かされているんだと気づいたら、「自信がある、ない」なんてことは ものすごくちっぽけなことなんだとわかるんですよね。

皆さんには自信をつけることに頑張るより「恩を感じるセンサー」を磨いてほしい。い ろんな人たちが皆さんに善意や好意の雨を降らせてくれてい る。その人たちのおかげで今日という日を送れている。私は日本人の遺伝子のスイッチをオンにするのは「恩を感じるスイッチ」を育むことだと思ってます。

(北島広三さんのfacebookより)

司馬遼太郎氏の長編小説に、『峠』という作品があります。これは幕末に越後長岡藩の家老を務め、武士道の美しさを体現した河井 継之助の生涯を描いたものです。継之助は、西洋諸国が次々とアジア・アフリカの国々を植民地にしたり、実質的な支配を進める状況を憂え、日本の独立を守る ために、愚かな内戦は避けるべきだと考えていました。ですから、幕府にも薩長にもつかないことを決め、中立を守るために、長岡藩の軍事力を強化していった のです。

もしこの継之助のもとに、西郷隆盛がやって来たなら、もしかしたら西郷は継之助の考えを理解し、二人は意気投合して、明治という 新しい時代を担う盟 友になれたかもしれません。そうすれば、幕末維新史は大きく変わっていたでしょうね。けれども不幸なことに、北越に派遣されたのは、「敵か味方か」という 分け方しか出来ない人間たちでした。

継之助は中立の立場を貫くこと、さらに内戦などしている場合でないということを、官軍となった新政府 軍に必死に伝えますが、「兵を出せ」「軍資金を 出せ」という新政府の要求を受け入れない長岡藩を、新政府軍は“敵”と見なし、長岡に攻め込んできました。そこで、継之助はやむなく戦闘指揮をとることと なります。

人生とは、皮肉なものです。誰よりも戦争の愚かさを知り、戦うことに消極的だった継之助が、実は軍事の天才だったのですから…。天才に率いられた長岡藩は、兵力は寡少でありながら、北越が戊辰戦争の中で一番の激戦地だったと言われるほど、新政府軍を悩ませるのです。

こ の皮肉なめぐり合わせは、継之助の時代からおよそ70年後、大東亜戦争において、誰よりも開戦に反対していながら、自らが真珠湾攻撃を仕掛け開戦 の火蓋を切らなければいけなくなった山本五十六に重ね合わすことができます。しかも、継之助と五十六、二人とも長岡出身ということまで一致しています。そ して二人とも、自分の思いとは違う方向に歴史が進んでしまうのですが、それでも腐らずに、その運命を受け入れ、自分の持ち場で精一杯のことを行ったので す。

長岡藩は、官軍との間で激しい戦闘を展開するも、ついに戦いに敗れました。継之助は、新政府軍と戦闘を続ける会津藩に合流しようと、 会津に向かいま すが、その途中で、戦闘中に負った傷が悪化し、命を落としました。亡くなる直前、従者に自分を火葬する火を焚かせ、それをじっと見つめていたそうです。

そんな男の美学を貫いた継之助には、多くのファンがいます。そのほとんどは、もちろん『峠』の読者です。けれども、司馬作品の中に、河井 継之助を描いた、もう一つの短編小説『鬼謀の人』があることは、あまり知られていません。

『鬼 謀の人』によると、長岡にある継之助のお墓は、いくら建て替えても、常に誰かの手によって墓石が傷つけられるのだそうです。「継之助さえいなけ れば、長岡藩が新政府軍を敵に回し戦争することはなかった。継之助のせいで、長岡の多くの若者が戦死したのだ」という思いが、地元には根強く残っているか らです。そしてその地元の人々を慮り、河井家のご子孫は、明治以降、長岡を離れたまま、先祖伝来の地に戻れずにいるのだそうです。

『鬼謀の人』の主旨はこうです。

「も し長岡がもっと力のある大きな藩だったら、官軍もその意向を無視することは出来なかっただろう。そうなれば、継之助率いる長岡藩がキャスティン グボードを握り、歴史は変わっていたかもしれない。しかし、実際には、長岡は10万石に満たない小藩だった。だから歴史の波に飲み込まれてしまった。継之 助の死とともに長岡の抵抗があっけなく終わっていることを考えると、“継之助がいたから多くの若者が死ななければいけなくなった”という地元の人々の思い も、うなずける。確かに、河井継之助は天才だった。しかし天が天才の置き所を間違えると、天才の存在は天災になってしまう」

『峠』と『鬼謀の人』。そこには、美しい生きざまと、それを貫くために多くの命を犠牲にしてしまった、という二面性が描かれているのです。

私は、これと同じことが、大東亜戦争にも言えるのではないかと思っています。

白 色人種による世界制覇を水際で防いだとされる、日露戦争。極東の小さな島国である日本が、10数倍の国力を誇る白色人種の国家・ロシアを破ったの です。この事実に、白色人種の国家から搾取されていた人々は、勇気と希望を取り戻しました。さらに大東亜戦争の初期、日本軍が破竹の勢いで連戦連勝し、白 色人種を駆逐していく様子を見て、長年、被支配者としての立場に甘んじ、奴隷のような暮らしを強いられていた彼らが、立ち上がるきっかけをつかんだので す。

世界史という視点で見た時に、この二つの戦争は、私たち日本人が認識している以上に、大きな意味を持つのではないでしょうか。しかし 同時に、その意 味のある戦いを遂行するために、200万を超える若い命が戦火に散り、そればかりか全国各地で非戦闘員の命も奪われ、戦場となった他国も含め、その犠牲は あまりにも大きかったと言わざるを得ません。その事実から目を背け、先人たちの国を思う心を美化するだけでは、真の誇りは生まれないと思うのです。

い ま世の中にはびこっているのは、「戦前の日本のすべてが悪かった」という歴史観か、逆に「日本のしたことは、すべてが正しい」という、どちらも非 常に偏った歴史観です。でも、歴史というのは、それほど単純なものではないはずです。人間には、多面性があります。菩薩のように相手を慈しむ時もあれば、 同じ人間が、別の場面では、冷酷になったり、意地悪になったりすることもある…。美しい菩薩の心と、醜い獣のような心、その狭間で揺れ動くのが人間です。 そういう人間が集まって国ができ、一国の歴史が紡がれていくのですから、そこには光と影が存在するのが、当たり前なのではないでしょうか。

「正 しい、間違っている」という二元論ではなく、こういう見方もできる、でも逆から見れば、こんな事実が浮び上がってくる…。私は、その多様性を学 ぶ場が、歴史だと思うのです。生きる力は、視野の広さに比例しますよね。歴史を通してさまざまな見方、捉え方を学び、視野を広げることが、生きる力を養う のです。

イギリスの歴史学者アーノルド・トィンビーは、世界史の中で滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけ、次のように警鐘を鳴らしています。

1:理想を失った民族は滅びる。
2:すべての価値を物やお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる。
3:自国の歴史を忘れた民族は滅びる。

トィ ンビーによれば、この三つのうちどれか一つでも当てはまれば、その民族は滅亡するというのに、戦後の日本は、すべてが当てはまる三重苦の状態で した。誰もが経済的な繁栄にばかり目を奪われ、人として良く生きようという理想、目に見えない心の価値や絆、そして民族の誇りを育む歴史観、それらすべて を置き去りにしてきたのですから…。

中でも、“民族の誇りを育む歴史観”の欠如は深刻です。我が国の学校教育では、神話や偉人伝に触れられることなく、歴史は年号と出来事を暗記するだけの授業に成り果てています。でも、本来、考古学は歴史の補助学にすぎず、歴史(ヒストリー)の本質は、「物語」なのです。

先 人たちが紡いできた物語を学ぶことで、先人たちが何を恐れ、何を大切にし、どんな思いで生きてきたのかを知り、その命のバトンを受け取ること。そ れこそが、歴史教育の真髄であり、そこから溢れ出る思いは、他国を非難し、他国を蔑むことで高揚するような、薄っぺらな愛国心とは違い、真の誇りを育てて くれることでしょう。

第一次世界大戦が終結した、1918年。その年の11月、ヨーロッパの小国が、ロシアから念願の独立を果たしました。それが、ポーランドです。

ロ シアの圧政下に置かれた50年以上の間、志ある者たちは何度も立ち上がり、武装蜂起しましたが、そのたびに強大なロシア軍に抑えられ、彼らは囚わ れの身となって、シベリアで強制労働をさせられていました。彼らを追って恋人や家族もシベリアへ…。1918年の時点で、シベリアで生活するポーランド人 は、10数万人にのぼったと言われています。

極寒の地・シベリアで、飢えと疫病の脅威にさらされた生活は、大人にとっても苛酷でしたが、親を失って孤児となった子どもたちは、この世の終わりとも思えるような悲惨な状態に置かれていました。

「この子たちを故国に送り届けたい」と願う人々によって『ポーランド救済委員会』が組織されたのは、1919年9月のこと。

と ころが翌年、ポーランドとロシアの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことができなくなったのです。そこで救済委員会は欧米諸国 に協力を求めましたが、第一次大戦直後の混乱と緊張が続く中、各国の反応は冷淡なものでした。窮地に立たされた救済委員会が最後の望みを託した相手、それ が日本政府だったのです。

「日露戦争でロシアを破った日本なら、子供たちの苦境を救ってくれるかもしれない」

その祈りにも 似た懇願が、外務省を通して日本赤十字社にもたらされました。当時、ポーランドと日本の間に国交はなかったので、外務省が動くわけにい かなかったからです。日赤は、たとえ国交がなくとも、人道的見地に基づいて、孤児を救済することを即決。シベリアに出兵していた帝国陸軍の協力を得て、 1920年から22年にかけて、765名もの孤児を救い出したのです。

日本人が、古くから大切にしてきたものの中に、「惻隠の情」がありま す。しばしば「思いやりの心」と訳されますが、惻隠の情と思いやりの心はイコー ルではありません。思いやりの心を持つことはもちろん大事ですが、困っている人を見たら、放っておけない、つい手を差し伸べてしまった…。そんな、やむに やまれぬ思いが、「惻隠の情」なのです。つまり、惻隠の情とは、限りない優しさと、確固たる強さに裏打ちされているのですね。

このエピソードは、拙著『人生に悩んだら日本史に聞こう』(祥伝社)に詳しく書かせていただきましたが、先日、ある若いポーランド人女性とお会いした時、彼女がこの話を熱く語ってくれたのには、心からの感動を覚えました。

ポーランドには親日家が多く、阪神大震災や東日本大震災が起こった時も、直後から支援活動を開始し、震災で親を失った子供たちをポーランドに招いて、傷ついた彼らの心を慰めてくれたといいます。連鎖するのは、悲しみや憎しみだけではいんですね。

彼女は、孤児救済以外にも、ポーランドが親日国である理由がいくつかあるとして、次のような理由を挙げてくれました。

まずは、日本製品に対する信頼性。日本の技術力は、ポーランドの人々に大きな信頼を与えているといいます。

そ れから、日本人ほどショパンを愛している民族はいない、ということ。ショパンはポーランドの出身ですが、祖国の独立を見ることはありませんでし た。祖国を失った同胞を、常に音楽で鼓舞し続けたのがショパンであり、その音楽は彼らの誇りなのですが、日本人は、そんなポーランドの人々に負けず劣ら ず、ショパンを愛していると、彼女は言うのです。

そして、第二次世界大戦下のナチス・ドイツのユダヤ人迫害に際して、当時リトアニアに赴任 していた外交官・杉原 千畝さんがユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたこと。杉原さんが助けたユダヤ人の命は6000人以上に上ると言われます(ビザは1家族につき 1枚なので、正確な人数はわかりませんが、杉原さんがユダヤ人に発給したビザの数が約1500枚だったため、それによって6000人以上が救われただろう と推定されます)が、その多くが、ポーランド系のユダヤ人だったそうです。

彼女は、シベリアの孤児救済、そして第二次大戦下のポーランド 系ユダヤ人の命のビザと、ポーランドは2度も日本に助けてもらったと、深く感謝してく れました。その女性は、日本人と結婚し、福岡に住んでいるぐらいですから、日本が大好きで、親日国といわれるポーランドの中でも、日本LOVEな気持ちは 人一倍強いと思いますが、それにしても、現代に生きる20代の女性が、このように歴史を確実に受け継いでくれていることに、私は深い感銘を受けます。

ひるがえって、日本の若者はどうでしょう?

国 際人になることは、真の日本人になること。このことを、いったいどれだけの若者が理解しているのでしょうか?自国の歴史や文化を理解しない国際人 なんて、存在しません。自国の歴史や文化と他国のそれを比較するから、異文化への理解が深まるのです。そして自国の歴史や文化に対する誇りを持つから、他 国の人々も、同じように自分の国に誇りを持っていることが想像でき、他者の立場や誇りを尊重できるようになるのです。

今年で戦後70年。真の国際人になるべく、脱皮する時を迎えているような気がします。

「苦しくなったら、私の背中を見て」

これは、4年前のワールドカップで、澤選手が後輩たちに伝えた言葉だそうです。どうりで、なでしこたちは、苦しくても下を向かず、苦しい時こそ顔を上げていたわけですね。

アメリカとの死闘を、PK戦の末に制し、世界一に輝いてから4年…。決勝戦は、4年前と同じ顔合わせ。今回はアメリカに軍配が上がりました。試合開始からたった16分で、アメリカに4点を奪われ、悪夢のような展開。

「そんなバカな…」
「夢なら覚めてほしい」
きっと日本中が悲鳴を上げたでしょう。私も、ついに画面を見られなくなり、思わず目をそらしてしまいました。

けれども、次の瞬間、画面に映し出されたのは、誰も下を向かず、顔を上げるなでしこたちの姿。その姿は、試合時間が残り短くなっても、決して変わることはありませんでした。

スコアは5対2.サッカーで3点差は、「大差」と言うのかもしれません。でも、なでしこたちは、試合終了の瞬間まで、誰ひとり諦めていませんでした。そして、最後まで顔を上げて、誇りを保ち続けていました。

負けた試合で、これほど感動を呼び、これほど人々に勇気を与えるなんて、なでしこたちの底力は、本当にすごいと思います。そして、私は、彼女たちの姿を見て、『日本人はとても素敵だった』(桜の花出版)の著者・楊 素秋さんの言葉を思い出しました。

戦争に負けて、財産も没収されて、日本人はみんな肩を落として台湾から引き揚げて行った。でもね、そんな状況でも、日本人は誰ひとりとして、愚痴も泣き言も不平不満も、文句ひとつ言わなかったよ。

肩は落としていたけれど、日本人の背中は、毅然として、堂々としていた。私はあの時の日本人の背中を忘れたことはない。

と ころが、戦後、テレビに映る日本人は、まるで別の民族のように見えた。実際に仕事で日本を訪れても、どこにもあの時の 日本人はいなかった。あの時、まだ子どもだった私に背中で示してくれた日本人の誇りは、どこに行ってしまったんだろう。日本人は、日本精神をなくしてし まったんだ。

私はずっとそう思っていた。

でも、阪神淡路の震災、そして東日本の震災…。日本に危機が訪れるたびに、画面に映し出される日本人の背中は、あの時のままだった。日本人は、日本精神をなくしてしまったのではない。日本精神に、雲がかかっているだけなのだ。

私は、日本人に伝えたい。その雲をはらって、と。何かが起こった時だけでなく、日常生活の中で、日本精神を発揮してほしい、と。

そのために私に出来ることがあれば、何でもします。私にとっての2つの祖国・台湾と日本を結ぶ懸け橋の、釘一本になると決めたのだから…。

小 柄で、品があって、それでいて凛としていて…。昨秋、素秋さんに初めて会った時、私は雷に打たれたような衝撃を覚えま した。そして、私も微力ながら、素秋さんの背中を追いかけ、台湾と日本を結ぶ懸け橋の釘一本になって、日本人が日本精神を取り戻すための一助となりたい、 そう心に誓ったのです。

でも、実際にはどうすればいいんだろう? 講演で日本精神を伝える以外に、日常生活の中で私は何をしたらいいんだ ろう? 「自分さえよければ」「今さえよければ」そんな気持ちを手放し、みんなのことを考え、次の世代のことを考える…。これが、本来の日本人の生き方。でも、何 かが足りない。

そんなふうに感じていた時に、あのなでしこの姿を見たのです。

何が起こっても、下を向かず、凛として、前を 見る。何が起こっても、諦めもせず、ヒステリックにもならずに、今できる精 一杯のことをする。日常生活の過ごし方の大きなヒントをくれたなでしこたちに、心からの拍手を送ります。そして機会があれば、なでしこリーグをぜひ見に行 きたいです。

「ブームから文化へ」という宮間キャプテンの思いに、少しでも応えたいから…。

4年前の6月に『人生に悩んだら日本史に聞こう ~幸せの種は歴史の中にある』を出版させていただいてから、全国各地に講演に呼んでいただくようになり、私の人生は劇的に変わりました。もともと歴史を専 門的に学んだことのない私が、このような流れに導かれるなんて、人生って、不思議で、味があって、本当に面白いですね。

素人の私が出版で きたのは、ブログ記事を編集者さんが読んでくださったからなのですが、私にブログを書くように勧めてくださったのは、天才コピーラ イターにしてベストセラー作家のひすい こたろうさんです。でも実は、勧めていただいたことは、とても光栄で有り難かったのですが、当初、私には自信がなかったんです。だって、日本文化の本質 は、ある意味、自然との共生の歴史だと思うのですが、私は東京のベッドタウンで育って、小さい頃から自然と対極の環境で生きてきたんですから、「こんな私 に日本の文化や歴史を語る資格はない」と思ったんですね。

そんな私の人生の扉を開いてくださったのは、私のバイブルである『日本のこころの教育』(致知出版社)の著者・境野 勝悟(かつのり)先生でした。境野先生は、千利休のことをお話しくださり、最後にこうおっしゃったんです。

「利 休はね、もともと堺の商人で、お金儲けがうまかったんですよ。日ごろ商売にいそしみ、お金にまみれていたからこそ、誰よりも自然の美しさは尊い と思ったんでしょうね。自然の中で生きている人が、自然の素晴らしさを一番知っているとは限らない。利休のように、目一杯お金儲けしていいんですよ。そし て自然とかけ離れた生活をしているからこそ気づく自然の素晴らしさを、日本の文化の奥深さを、どんどん発信していってください」

これは、少人数の勉強会で先生がおっしゃった言葉であり、私が何を考えていたかなんて、先生は知る由もないのですが、この先生の言葉に励まされ、私はブログに日本の歴史や文化の素晴らしさを綴っていく勇気を持てました。

ひすいさんと出会い、境野先生に背中を押していただいて、今の私があるのですが、実は、最近、私が人知れず悩んでいたことがあります。

『人生に悩んだら日本史に聞こう』

『感動する! 日本史』

『こころに残る現代史』

『愛されたい! なら日本史に聞こう』

こ れが今まで出版させていただいた本のタイトルですが、すべて「歴史」がキーワード。そこが私の悩みの種なんです。私は歴史を専門的に学んだわけで なく、幼い頃に読んでいた伝記や歴史の読み物の記憶をたどり、そこに全国各地の資料館や歴史館を訪ねて知ったことや現地で感じたことを交えて、原稿を書い ていきます。これを「歴史」って呼んでいいのかなぁ~って、自分のやっていることに自信を持てなくなっていたんですね。

歴史とは、古文書を紐解いたり、文献を分析したりして、研究を積み重ねたものを言うんじゃないかって。

そんなタイミングで、また素晴らしい出会いをいただいたんです。伊勢修養団の寺岡 賢先生です。あの中山 靖雄先生の愛弟子でいらっしゃいます。寺岡先生は、こんなふうに言ってくださいました。

「歴史は、英語で“ヒストリー=his story”ですよ。物語じゃなきゃいけないんです。考古学は大切ですが、それはあくまで歴史の補助学ですよね」

わぁ、 そうなんだ…!! 日本史は、“日本人の物語”なんだ! 日本人の物語を、もっともっと自信を持って、心をこめて発信していこうって、私の心 にかかっていた霧が晴れ、あとからあとからエネルギーが溢れ出てきたのです。まさに千載一遇と言ってもいい、寺岡先生との出会いでした。

それにしても、これ以上ない、絶妙なタイミングで、いつも素敵なご縁をいただけること、本当に有り難いです。

「人間は一生のうち会うべき人には必ず会える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」……

これは、名著『修身教授録』の著者であり、偉大な国民教育者・森 信三先生の名言ですが、私は今、この言葉の有り難さを実感しています。

そして森 信三先生のこの名言には、こんな続きがあるんです。

「しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず」

深 いですね~。「求める心」…それは我欲でなく、自分の使命を全うするために求める、根源的な心の発動を言うんじゃないかと思うんですよね。人を相 手にせず、天を相手に生きた時、求める心に呼応するように、必然で必要なご縁が、ベストなタイミングで運ばれてくるのではないでしょうか。

私は以前、「プレーヤーであり続けろ!」というコラムを書かせていただきました。

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評論家はもちろん、ファンになってもいけない。自分がプレーヤーとしてあり続け、ある種、相手と対等な関係にあるからこそ、真の学びがあり、それこそが相手への本当の“リスペクト”なのだ、という思いを綴らせていただきました。

で も、正直に言うと、私だって、崇め奉りたくなる人物がいるんです。空海、島津斉彬、福澤諭吉が、その筆頭です。中でも、島津斉彬に関しては、私は ずっと“雲の上の人”と思ってきました。「自分と同じ人間だ」なんて、全く思えず、ただただ憧れ、尊敬していました。その斉彬と、私がどのように友だちに なっていったのかを、今回はお話ししたいと思います。ただその前に、私がなぜそこまで斉彬が好きなのかをお伝えしないといけませんね。

私は、幼い頃から、西郷隆盛が大好きでした。自分の気持ちをうまく伝えられず、親や友だちとぶつかってしまった時、私はいつも「大丈夫! 西郷さんならきっと私の気持ちをわかってくれるから」と、自分を慰めていました。

高 校生ぐらいになると、歴史を動かしているのは、実は政治よりも経済なのではないかと気づいたのですが、“経済”という視点から西郷さんを見た時 に、「もしかしたら、西郷さんに一つだけ欠けていたのは、経済に対する理解かもしれない」と考えるようになりました。西郷さんは、もともと薩摩藩の中で農 政を担当していたので、どうしたって考え方が農本主義になるんですよね。西郷さんが明治以降発展していく資本主義についてどこまで理解していたのかは、今 となっては謎です。

「西郷さんの人間力に、経済に対する理解が加われば、もうその人は完璧! まぁそんな人、いるわけないけど…」私はそ んなふうに思っていたのです が、それから程なくして、見つけてしまったんですよ、その完璧な、憧れの人を…!! 当時、『島津斉彬のすべて』という本を読んで、私は全身に電流が走る ほど衝撃を受けました。そして友だちのように思える歴史上の人物はたくさんいるけれど、尊敬できる人物は、この人をおいて他にいない、と確信したのです。

斉彬の業績は、そりゃあもう、素晴らしいの一言に尽きます。

土 佐藩の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、彼の語学力と造船技術を生かし、西洋式帆船を造り、さらに日本初の国産蒸気船を完成さ せたのは斉彬!産業を興し、富国強兵に努め、反射炉・ガラス・ガス灯の製造などの事業をいち早く興したのも斉彬!幕末に国際法のからみで、船にナショナル フラッグをつける必要が生じた時に、日の丸を掲げることを提案したのも斉彬!そして下級藩士の中から西郷隆盛を見いだし、育てあげたのも斉彬!!

そんな日本史の生んだ天才・斉彬の日本に対する思いの結晶が、間もなく世界遺産に登録されようとしています。

藩 主の座に就いたのは、嘉永4(1851)年、ペリー来航の2年前のこと。植民地政策をとる西欧列強が、強大な軍事力を背景にして、アフリカ・アジ ア諸国を次々に植民地にしている……これらの情報を的確に分析した斉彬は、理化学に基づいた工業力こそが西欧列強の力の根源であることを見破りました。そ して、日本の独立を守るためには、西欧諸国の技術を導入して軍事力を身につけることが必要であると確信し、近代的な大規模洋式工場群の建設に着手したので す。

それは「集成館事業」と呼ばれ、幕末から明治にかけての産業革命遺産群の中核的な存在を成しています。

この集成館事 業、同じ時期に推し進められた幕府や他藩の産業革命とは、ひと味もふた味も違っています。幕府や他藩の洋式工場が、製鉄、造砲、造船な ど軍事的色彩の強い分野に限られているのに対して、薩摩藩が手掛けた事業は、これらに加え、薩摩切子と呼ばれる美しいガラス製品や薩摩焼に代表される陶 器、紡績、製薬、印刷、出版、電信、写真、食品、それにガス灯の実験など、多岐にわたっていて、庶民の生活に密着したものが実に多いのです。

なぜ、斉彬は、このように幅広い分野での研究開発に力を注いだのでしょうか。斉彬は考えました。

「独 立を守るためには、軍艦や大砲が必要不可欠である。しかし、軍艦と大砲だけでは国を守れない。軍艦や大砲よりも大切なのは、国民みんなが力を合 わせ、気持ちを一つにすることだ。そのためには、人々の生活が豊かでなければならない。国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の 和はどんな城郭よりも勝る」

人々が、その日の食べものにさえ事欠くような貧しい暮らしをしているのであれば、国民が心を一つにして外国に 対抗するなんて、できるわけがありませ ん。産業の育成や社会基盤の整備を行えば、人々は安心して暮らせるようになり、同時に、西欧諸国とも対等な関係を築くことができるでしょう。そしてそれこ そが日本の独立を守る道なのだと、斉彬は考えたのです。

薩摩を、そして日本を豊かにしようと考えた斉彬は、苦労に苦労を重ねてつくった集 成館に、諸藩の人々を招き、薩摩藩の技術を公開し、それぞれの藩に 帰って同様の洋式工場をつくるように提案しています。未来の日本のためには、日本の隅々にいたるまで、すべての地域が情報や技術を共有し、近代化すること が望ましいと考えたからです。

幕末と言えば、まだまだ「日本国」という意識が薄く、藩が一つの国のように考えられ、それぞれが自分の藩の 利益を主張し、いがみ合っていた時代で す。そのような時代に生きながら、斉彬の考えや行動は、すべて「未来の日本のため」「人々の幸せのため」という思いが起点になっているのです。

斉彬は、これだけのことを、薩摩藩主を務めていたわずか7年余りの間で成し遂げています。しかも、いとも簡単に、やすやすと…!と、私はずっと思ってきました。だから斉彬を尊敬し、崇めていたのです。「私とは次元が違う。こういう人を天才と呼ぶんだ」と…。

ところが、数年前に、今は資料館となっている集成館の跡地を訪れた時、そこを管理する島津家のご子孫の方から、意外な事実を伺いました。

斉 彬が磯の地を訪れるたび、足繁く通っていた場所があるというのです。集成館に残る資料によると、斉彬は、ひとり海辺で魚釣りに興じていました。朝 から晩まで、一日中、釣り糸を垂れる日も珍しくなかったといいます。ところが、斉彬が魚を持ち帰ってきた形跡はありません。実は、この釣り糸には、針がつ いていなかったのです。斉彬は、なぜ魚を釣るわけでもないのに、一日中釣り糸を垂らしていたのでしょうか。

集成館があったのは、島津家の 別邸のある磯地区。錦江湾(きんこうわん)の向こうに、雄大な桜島がそびえ立ち、刻々と変わりゆく空と海の色、そこに 映える桜島を一日見ていても飽きない、鹿児島随一と言っていいほど、風光明媚なスポットです。そこで大自然に抱かれながら、ただひたすら釣り糸を垂れてい た斉彬。私はこの事実を知った時、「斉彬も人間だったんだなぁ」と、妙な感動をおぼえました。そしてとても僭越ですが、「なんてかわいいんだろう!」と、 斉彬に対する慈しみの思いが溢れてきたのです。

きっと斉彬の胸中には、日本の将来を(希望も危機感も、すべてを)一人で背負って立ってい るような孤独感、重圧、そして日本の将来を思うがゆえの焦 燥感など、複雑な思いがあったのではないでしょうか。針のない釣り糸を垂らしながら、斉彬は、その孤独感と向き合い、見事に打ち勝ったのです。

斉彬ほどの天才も、楽々と偉業を成し遂げたのではなかった。時には何も考えずボーっとする時間を持ったり、趣味に没頭してリフレッシュしながら、焦ったり、もがいたりする自分自身を受け入れ、いま自分にできることに集中して、一つ一つやり遂げていったのだと思います。

そ のことに気づいた時、雲の上にいた斉彬が、急に自分の前に姿を現してくれたような気がしました。歴史上の出来事を見ると、何とも無味乾燥なものに 感じられますが、人物にスポットを当て、その人がどんな思いで、その時代にそこに生きていたのかに思いを馳せ、自らの姿を重ねた時に、憧れの人と親友にな れる…。

私はこれからもこの手法で、親友をどんどん増やしていきたいと思っています。

慶長19(1614)年、大坂冬の陣。

豊臣方の武将・木村重成の部隊は、東部方面戦線の遊撃隊として配置されました。遊撃隊というのは、戦いの形勢を見て、不利な状況に陥った味方を救う べく、出撃する部隊のことです。11月26日の早暁、大坂城の東北に位置する今福の堤に、徳川軍が攻め寄せて来ました。豊臣軍の守備隊は、防衛のための柵 を四重に設置していましたが、三段目まで破られ、壊滅的な打撃を受けようとしていました。

大坂城内でその様子をうかがっていた重成は、自らの部隊を率いて出陣。戦上手として名高い後藤又兵衛(またべえ)も、すぐさま自身の部隊を率いて駆 け付け、重成隊に合流しました。重成&又兵衛の連合軍は、今福で徳川方の佐竹隊を撃破。窮地に陥った味方を救いました。同時にこれは、重成が見事に初陣を 飾った瞬間でもありました。

ところが、大坂城に引き上げた重成は、家来の大井何右衛門(かえもん)の姿が見当たらない事に気づきます。大井は、多くの大名から仕官の声がかかった武勇の士で、この日も、重成の武者奉行として、初陣の主人を支えて奮闘していました。

重成は、「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士に下知ができるだろうか。なんとしても探してこよう。」 と、ただ一人、戦場にとって返し、死体が散乱する中、大井の姿を探し求めたのです。

どれほど戦場を駆け続けたでしょうか、ついに重成は、怪我をして動けなくなっている大井を発見しました。ところが、彼を抱きかかえ、城に戻ろうとしたところで、重成は敵に囲まれてしまいます。

「私のことは棄てておいて、早くお戻りください。」と訴える大井に対して、「ここに来て見捨てるぐらいなら、初めから助けになど来ないだろう。」重成はそう告げると、槍を取って取り囲む敵に突っ込んでいきました。

重成は、自分が盾となり時間を稼ぐことで、怪我をした大井を逃がしてやるつもりだったのでしょう。重成には、胆力と優しさという、男にとって最も大 切なものが備わっていたのです。その後、味方の30余騎が駆けつけたことで、重成主従は無事に城へと退却できたのですが、この時も、重成は、部下を思いや り、自身が殿軍(しんがり)を務めたということです。

この今福・鴫野方面での戦いが、大坂冬の陣における最大の野戦となりました。この戦いにおける重成の奮闘に対して、豊臣方の総大将である豊臣秀頼は、「日本無双の勇士」と称賛の言葉を口にするとともに、感状と脇差しを下賜しました。

けれども重成は、せっかく秀頼から下賜された感状(戦功を称える賞状)と脇差しを、その場で返上してしまいます。武士として、これほどの栄誉はない はずなのに、なぜ重成はこれらを返上したのでしょうか? このたびの戦の武功は、自分一人の働きではなく、みなの力によるものである、と。さらに、感状は、他家へ奉公する時に経歴の飾りとはなるが、自分は二君に 仕える気はないから、無用である、というのが、その理由です。この言葉を聞いた部下も、主人である秀頼も、感無量だったでしょうね。私は、重成の for you スピリットが大好きなのです。

木村重成は、真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永らと並ぶ大坂城七(なな)将星(しょうせい)の一人です。重成の母親が豊臣秀頼の乳母 (めのと)だったので、重成と秀頼は兄弟のようにして育ち、重成は幼少の頃から秀頼の小姓を務めました。二人は年齢も同年代で、秀頼にとってほとんど唯一 の幼馴染と呼べる存在が、重成でした。

秀頼の小姓から、やがて豊臣家の重臣となった彼を、ともに大坂の陣で戦った毛利安左衛門という者は、のちにこのように述懐しています。
「丈高く、色あくまで白く、眉黒々と際だち、細い眼の眦(まなじり)が凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた。」

重成は、美しい外見と優しい洗練された物腰で、大坂城の女官たちの人気を一身に集めました。彼の姿を見かけただけで、女官たちが騒いだと言われています。また、真偽のほどは定かではありませんが、彼の美しさを伝える、おもしろいエピソードが残されています。

大坂の陣の引き金となった方広寺の鐘銘をめぐり、豊臣方の使者として女官たちが駿府の徳川家康のもとへ向かいました。おそらく徳川家の警戒心を解く ために、男性ではなく女官を選んだのだと思いますが、同時に、それでは心もとないと感じたのでしょう。なんと重成に女装をさせ、この使節団の中にまぎれこ ませたのです。

ところが、なんとしたことか、徳川の武将たちは、重成のあまりの美しさにポーッと見とれ、誰一人として、その美女が男であることを見破れなかった… というのです。重成という人は、いかつい体格ではなく、むしろ線は細めで、現代の男性アイドルのような美しさを持っていたのではないでしょうか。もし戦国 武将でジャニーズを結成するとしたら、彼は間違いなく、トップアイドルになっていたでしょうね。

これは、まだ大坂の陣が起こる前のこと。

主君・秀頼の信頼が群を抜いて厚く、女性にもモテモテ…そんな重成をやっかむ者が現れても、不思議ではありません。どれだけ主君の信頼が厚くても、 また女性に大人気でも、それは実績に裏打ちされてのものではないのです。なんといっても、重成は、大阪冬の陣で初陣を飾ったわけですから、まだこの時点で は実践経験ゼロ、武将としての才能も未知数でした。

豊臣家臣団の中には、女装してもばれないほどの彼の美しさと、さらには実戦経験の無さを揶揄する人が、少なくなかったといいます。けれども、どれほどの侮蔑を受けても、重成は平然と受け流すばかり。その態度は、まるで春風が吹くように爽やかだったといいます。

ところが、重成が反論しないのをいいことに、しだいに秀頼の近従や茶坊主まで、彼を侮るようになってしまいました。そんなある日、調子に乗った茶坊 主が、痛烈に重成を辱めたのです。武士にとって、馬鹿にされ辱めを受けるということは、死ぬことよりもつらいものです。普通なら、自分を馬鹿にした相手を 殺し、その責任を取って、自分も死を選ぶでしょう。

その場にいた者たちは、「これほどの辱めを受ければ、いくら重成でも黙ってはいられないだろう。」と、凍りつきました。

ところが、この時の重成の言動は、すべての者の予測を超え、あまりに見事だったのです。みなが息を呑みながら見守る中、重成は、静かに茶坊主の方に 向き直ると、「本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろうが、そうすると私も死ななくてはならない。しかし、お前ごときのために、いま私が死ぬわけに はいかない。私の命は、秀頼様のためにこそ死ぬためにあるのだ。」そう言って、笑顔さえ見せたそうです。

この一件で、重成の覚悟を知った城内の者は、誰一人として重成を軽視しなくなりました。

こうして、名実ともに豊臣方の柱石の一人となった重成は、大坂冬の陣で、武将として大器の片鱗を見せるも、夏の陣では、その言葉通り、壮絶な討死を遂げたのです。大坂城が落城し、秀頼が自刃したのは、その翌日のことでした。

「私の命は、秀頼様のためにこそ死ぬためにある」

そう思い定め、見事に本懐を遂げた重成。
人の一生は、そんなに長くはない。だとしたら、かけがえのない命を、誰のために、何のためにつかうのか? どうでもいいことは、いちいち気にせず、スルーすることも大切だよ…私は、重成がそう語りかけてくれているような気がします。

人と比べて、劣等感を持ったり、自分の境遇を嘆いたり、人からどう思われているかを気にしたり…本来はどうでもいいことに振り回され、一喜一憂して いる私たちは、重成に顔向けできませんね。自分は、何のために生まれてきたのか、誰の笑顔が見たいのか…素直に自分と向き合えば、本当に大切な人、大切な ものが見えてきます。本当に大切な存在を大切にするために、どうでもいいことはスルーするというのも、大事なエッセンスなのかもしれません。

私が歴史講座をやらせていただくようになったのは、2010年夏のこと。

歴史は、「年配の男性が好むもの」というイメージが強かったし、「こんなマニアックな話、誰も喜ばない」と思っていたので、それまでの私は、誰かに歴史の話を好んですることはありませんでした。

それが、ひすいこたろうさんと出会って、「妃登美ちゃんの歴史の話を聞いたら、日本を好きになる人が増えるから、ブログで歴史のエピソードを発信し ていったらいいよ」 と言われ、「そんなこと、起こるわけないじゃない。」と思いながらも、「素直さは最大の知性」 と肝に銘じ、ブログを始めました。

そうしたら、ブログを読んでくださった方々から、講演や出版のお話をいただき、あれよあれよという間に、自分では思いもよらなかった人生の流れになって…。それがただ嬉しくて、有り難くて、あまり深く考えないままに講演や執筆を続けてきました。

ところが、イエローハットの創業者・鍵山 秀三郎先生に出会ったことで、私の心の中が大きく変化したのです。やっていることは同じでも、思いが変わり、責任や重みも感じるようになりました。少し大 げさですが、日本人に生まれたことに誇りを持てるような歴史のエピソードを伝えることが、私の使命なんだと気づかせていただいたのです。

英国の歴史学者・アーノルド=トィンビーは、世界史の中で滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけ、次のように警鐘を鳴らしています。
①理想を失った民族は滅びる。
②すべての価値を物やお金に置き換えて、心の価値を見失った民族は滅びる。
③自国の歴史を忘れた民族は滅びる。

トィンビーによれば、この三項目のどれか一つでも当てはまれば、その民族は滅亡するというのに、戦後の日本は、誰もが経済的な繁栄にばかり目を奪わ れ、人としていかに生きるべきかという理想、目には見えない心の価値や絆、そして民族としての誇りを育む歴史認識、それらすべてを置き去りにしてきまし た。

歴史上の出来事に、100%プラスの出来事もなければ、100%マイナスの出来事もなく、すべての出来事は、功罪相半ばしています。でも、近代史に関しては、ことさら「罪」の部分ばかり強調されて教えられてきたのではないでしょうか。

そして、3つのうちのどれか一つでも当てはまれば、その民族は滅ぶと言われているのに、 戦後の日本は、3つの条件がすべて当てはまる「三重苦」だったような気がします。

鍵山先生に初めてお会いした時、図々しくも自分の著書をお渡ししました。すると、鍵山先生は、その後の講演会で、「歴史教育のことを考えると、この 国の将来が心配で、死んでも死にきれません。でも、今日、こうしてお若い方がご自分で書いた歴史の本を持ってきてくださって、少し安心しました。」と、私 の著書を紹介してくださったのです。

さらに、数日後、鍵山先生からお手紙が届きました。その手紙の中で、鍵山先生は、私の本を何十冊も注文してくださった上に、「蒲生氏郷の話を、現代のリーダー全員に読んでほしい」とおっしゃったのです。 このお手紙を受け取ってからです、私の中に使命感が生まれたのは…。

私は、小さい頃から、「私は何のために生まれてきたんだろう?」といつも考えていました。でも、考えても、考えても、その答えは見つかりませんでし た。それが、人生の流れを天に委ねて、与えられた環境やご縁を受け入れ、それに感謝し、いま目の前のことを、心を込めてやり続けていたら、鍵山先生と出会 えました。そして、今やっていることが、私の使命なんだと気づかせていただきました。

一時は「この状態で助かった人を見たことがない。」と医師に言われるほど病気が進んだ私が、今もこうして生かされているのは、きっとこの使命を全う するためなのだと思います。使命というのは、考えた末にわきあがってくるものではなく、探し求めて出会えるものでもなく、自分に与えられた目の前のものに 対して心を尽くしていくうちに、それが使命だと気づくものなのでしょう。つまり、自分の成長とともに、使命感も育まれていくのではないでしょうか。

私は、きっと重成も同じだったと思うんです。

彼が豊臣の家臣の家に生まれた時、すでに豊臣家は、歴史の中で、その役割を終えていました。やがて秀吉が亡くなると、豊臣家は凋落の一途をたどりま す。そんな境遇に自分が生まれたという事実を、彼は受け入れ、そこで出来る精一杯のことを、心を込めて行いました。必ずや徳川が豊臣を滅ぼしにかかると確 信した重成は、古今東西の戦について研究し、将としての心構えや戦い方を学んでいったのです。

おそらく彼は、どんなにあがいても歴史の流れを変えられないということは、わかっていたでしょう。それでも、最後の瞬間まで主君・秀頼のために命を 懸けて戦い、武で天下統一を果たした豊臣家の最期に相応しい戦いを歴史に刻むことが、自分の使命であると思い定めたのではないでしょうか。

重成の最期…それは、あまりに悲しく、あまりに美しいものでした。

大坂夏の陣が始まり、決戦の日が近いことを悟った重成は、極端に食が細くなりました。4ヵ月前に結婚したばかりの新妻の青柳が心配して、その理由を 問うと、「敵に討ち取られた場合に、裂かれた腹から食べたものが出ると見苦しいためである。」と、重成は澄んだ瞳で答えました。

重成の覚悟を知った青柳は、夫の髪を入念に洗い、兜には香を焚き込めました。そんな妻に対して、重成は、謡(うたい)を歌って別れの盃を交わすと、戦場へと旅立っていったのです。重成22歳、青柳19歳の時だったと言われています。

元和元(1615)年5月6日、重成軍は、八尾・若江方面に出陣し、藤堂高虎の軍勢を撃破しますが、彼はこの勝利で満足せず、「まだ家康、秀忠の首 を取ってはおらぬ。これしきの勝利は、ものの数ではない。」と、突撃を敢行。伊井直孝の軍勢を迎え撃ち、激戦の末、ついに壮絶な討死を遂げました。

重成戦死の翌日、大御所・家康の前で、大坂方の諸将の首実検が行われました。すると、重成の頭髪から、えもいわれぬ芳しい香りが…。家康はじめ徳川方の諸将は、この若武者の悲愴な覚悟を知り、涙を流さぬ者はいなかったと言われています。

「死」は、すべての人に平等に訪れます。ただ、その死を意識して生きている人と、意識せずに、明日も明後日も生きることが当たり前と思っている人の 間には、一日一日の過ごし方に大きな開きがあると思います。どういう死に方をしたいかを考えることは、同時に、どう生きるかを考えることでもあるのです。

自分の使命を思い定め、その死を美しく演出した重成。彼は、常に自分自身の生と死の意味と向き合っていたから、優先順位が明確で、どうでもいいこと はスルーし、自分にとって本当に大切な存在のために命をつかうことができたのだと思います。重成の人生は、時間的には短くても、ぎゅっと凝縮された中身の 濃い一生だったと言えるのではないでしょうか。

私たちが学校で習う歴史は、「室町時代」「安土桃山時代」「江戸時代」というふうに、後世に生きる者たちが勝手に分けた時代区分に沿って、授業が進 んでいきます。でも、当然ながら、江戸幕府が成立したからって、急に世の中が変わることはありません。時間はずっと途切れることなく、流れているんですよ ね。 分けるところが違えば、見えるものが違ってくる…。

アジアアフリカ会議(AA会議)がインドネシアのバンドンで初めて開催されたのは、今から60年前、1955年のことでした。第二次世界大戦後に 次々に独立を果たしたアジア23ヵ国、アフリカ6ヵ国の代表者が集った、この会議において、議長を務めたインドネシアのスカルノ大統領(デヴィ夫人のご主 人ですね!)は、「世界人口の約半数の13億(当時)を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と、高らかにその意義を宣言しました。

この時、日本はオブザーバーとして参加を果たしていますが、当初、日本代表は、AA会議への出席に際し、積極的ではなかったと言われています。戦争 が終わって、わずか10年。会議の席上で、戦時中の日本の行為が、参加国の代表者たちから非難されるに違いない、と思っていたからです。現地に着いても、 足が重かったのでしょう。日本代表は、ギリギリまで会場に入ろうとしなかったそうです。会議のスタート時刻が刻々と迫り、タイムリミットを迎えようとした 時、ようやく日本代表が扉を開け、会場に入りました。

その時…

信じられない光景が、目に飛び込んできました。会場にいた多くの人々が、なんとスタンディングオベーションで日本代表を迎えたのです。その拍手の大きさに、日本の代表者は驚き、言葉を失ったそうです。 日本の代表者を驚かせたスタンディングオベーションは、なぜ起こったのか。そこには、「日本のおかげで独立を果たせた」という感謝と尊敬の思いが込められていたのです。

日本軍の行為に傷つき、苦しめられた人々がいたこと、それは動かせない事実でしょう。でも、日本が対米、対英戦争に踏み切ったことが、アジアやアフリカの国々の独立に繋がったことも、また事実なのです。 日露戦争において、日本軍は、国力が10倍以上もあるロシア軍を破り、さらに大東亜戦争の初期段階において、日本軍はアジア各地を支配する勢力を、瞬く間に駆逐しました。 この事実が世界史に与えた影響は計り知れません。その姿を目の当たりにして、あるいはその報に接し、アジアの民は、有色人種である自らの誇りを取り戻し、独立を目指したのです。

1955年のAA会議にも参加した、タイのククリット元首相は、若いころ新聞記者をしていた時に、このような記事を書かれたそうです。

「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南 アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為であ る。12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床 に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない」

日本が大東亜戦争に突き進まざるを得なかった最大の理由は、連合国側の経済封鎖だったと思います。あの時代、石油が手に入らなくなってしまったら、日本という国は、立ち枯れていくしかなかったのですから、座して死を待つより、乾坤一擲、勝負を挑もうとしたのでしょう。 けれども、私たちのご先祖様が戦いを挑んだ理由は、それがすべてではなかった…。そこには、世界史への挑戦があったと思うんです。

日露戦争の勝利で、白人による世界制覇をその水際で防いだ日本は、その後、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、人種差別の撤 廃を明記するべきだと主張しました。これは、国際連盟に加盟する多くの国(もちろん白人国家です)の反対にあい、否決されてしまいましたが、国際会議にお いて人種差別撤廃法案を世界で初めて正式に提案した国が日本であるということは、私たちの誇りとすべきでしょう。

そしてこの精神は、大東亜戦争の時にも生きていたのです。

オランダ軍を破ってインドネシアを支配するようになった日本軍のリーダーたちは、オランダの植民地として、350年という長きにわたって奴隷のよう に搾取されてきたインドネシアの人々に、「我々日本軍は、インドネシアを独立させるためにやって来た」と宣言した、という話を、私は以前、インドネシアの 方から直接伺いました。

インドネシア統治に関わった日本兵の中には、日本の敗戦後もインドネシアに残り、インドネシアとオランダの間で起こった戦争において、インドネシア 兵の先頭に立って戦い、インドネシアの独立のために命を捧げた者も多かったといいます。そしてそのインドネシアの方は、「戦時中の日本の統治がなければ、 インドネシアの独立は数十年遅れていただろう。私たちインドネシア人は、日本人を尊敬し、日本人に感謝している」ともおっしゃいました。

このように、日本の歴史が、アジア・アフリカ諸国の独立運動に、直接的、あるいは間接的に大きく関わっていったのです。

私たちが学んだ歴史の授業では、「1945年8月15日」で昭和史は一旦幕を閉じます。そしてその直後から、「戦後」というまったく新しい歴史が幕を開ける…。 でも、この「日本は、多大な犠牲をはらった挙句、敗戦に終わりました」という歴史観が、すべてなんだろうか。

もし1955年のAA会議までを一連の流れとして捉えれば、「日本は戦争に負けたが、その結果、欧米はその植民地の多くを失い、アジアやアフリカの国々が独立を果たしました」となる。 つまり区分を変えただけで、今まで見えてなかったものが見えてくるのです。

私は、歴史を学ぶことが、生きる力になると信じています。それは、先人たちの生き方や考え方の中に、私たちが現代社会を生き抜く上でのヒントが隠さ れているし、歴史を通してさまざまな見方、捉え方を学び、視野を広げることが、生きる力を養うことに繋がると思っているからです。

歴史の見方に、「正しい、間違っている」という二元論は存在しない。こういう見方もできる、でも逆から見れば、こんな事実が浮び上がってくる…。こんな面もある、あんな面もある、その多様性を学ぶ場が、歴史だと思うのです。

右でも左でもない、自由で柔軟な視点を身につけること、それが本当の戦後レジームからの脱却なのではないでしょうか。そして私たちは、これらの歴史を踏まえ、「これらの歴史があったからこそ」と言えるような未来を築いていくこと、これが一番大切なのではないかと思います。

以前、航空会社に就職したい学生たちに、面接対策や筆記対策の授業をさせていただいたのですが、その時、私は彼女たちの考え方がまったく理解できず、お手上げでした。

「面接を受ける前に、まずこれだけのことを明確にしておきましょう。筆記に関しては、航空会社の入社試験にはこういう問題がよく出るので、類似の問題を何回もやって、完璧にしておいてくださいね」

もちろん私の伝えたことを全部完璧にこなしても、試験に受かるとはかぎりません。合格するかどうかって、恋愛や結婚に似ていて、ご縁だと思うんで す。でも、やらなければ、合格する可能性はゼロです。講師なんて、所詮スタートラインに立つために必要なことを示すことしかできないんですよね。

ところが、彼女たちは、私が示した必要最低限のことに対して、なんだか中途半端。「本気でチャレンジできないなら、もう夢はあきらめた方がいいよ」と言うと、彼女たちは「絶対にあきらめたくない」と答える。でも努力はしない…。

日ごろからコツコツと努力するわけでなく、手っ取り早い方法を求める……。ノウハウ本が本屋さんに溢れている光景を見るにつけ、これは若者ばかりの問題ではなく、日本全体の問題だなぁと感じます。

こういう人たちが憧れる歴史上の人物って、決まって、坂本龍馬や真田幸村なんですよね。幼い頃の龍馬は、弱虫で寝小便タレ、勉強も運動も出来が悪 く、劣等生だったと言われていますが、その龍馬が、後に薩長同盟を成立させ、歴史を動かしていく…。龍馬ファンの多くは、「自分もいつか…」と、龍馬に自 分を重ね合わせているのでしょう。

でもね、皆さん! 人生というのは、冴えない昨日から、パッと輝く明日がやってくるわけではないのです。今日、どれだけ未来のための種まきができて いるかが大事。つまり、今日がんばれない人には、未来永劫、そんな明日はやってこないことを、肝に銘ずるべきでしょう。第一、こういう歴史観は、龍馬や幸 村に失礼ですよね(笑)

脱藩浪士である龍馬は、土佐藩の公式な記録に残されていないため、謎に包まれた部分もありますが、砲術や操船技術に長けていたところを見ると、おそ らく優秀な理系の頭脳を持っていたんだと思います。さらに北辰一刀流の免許皆伝ですから、冴えなかった少年が、魔法にかかったかのように突然変身したわけ でなく、本人は相当に努力したはずなんですね。その日常のあり方に着目せずに、派手な活躍ばかりにスポットを当てても、あまり意味がないような気がしま す。

幸村の場合は、その傾向が一層顕著に表れています。大坂の陣で豊臣家に忠誠を捧げたところ、そして類まれな軍師としての才能で、徳川家康を「あわや」ということころまで追い詰めたところに、幸村ファンの多くはシビれています。

でも、私は思うんです。大坂の陣での活躍は、幸村の人生にとって、おまけのようなもので、彼の人生のクライマクスは、その前にあったのではないかと…。

慶長5(1600)年、関が原の戦い。真田昌幸&幸村父子は、上田城に立てこもったわずかな兵を巧みに指揮し、後に二代将軍となる徳川秀忠率いる徳 川家の本隊を散々に打ち破り、足止めさせました。その結果、秀忠はじめ徳川本隊は関が原の本戦に間に合わず、家康から叱責されます。もし関が原で西軍が勝 利していれば、第一の功労者は真田親子であったでしょう。

ところが、関が原では、西軍に裏切りが続出し、家康率いる東軍が勝利しました。戦後処理で、昌幸&幸村は、紀州・九度山(くどやま)に配流の身となり、幽閉生活を余儀なくされます。

それから十数年、徳川と豊臣の間に不穏な空気が流れ始めると、紀州を治めている浅野家は、幸村に対する警戒を強め、近隣住民に監視を強化させます。 父親の昌幸は病で亡くなっていましたが、息子の幸村は健在で、もし徳川と豊臣の間で戦が起これば、幸村が大坂城に入城するであろうことが予想されたからで す。

そのような中、幸村はなぜ九度山を脱出し、大坂城に入城できたのでしょうか?

文献によると、幸村は、付近に住む農民たちを招待し、日ごろの感謝を伝え、ささやかな食事とお酒を用意し、もてなしたとなっています。そして農民た ちが気分よく飲み続け、ベロンベロンに酔っ払って、全員眠りこけ正体不明になったというのです。その隙に幸村が九度山を脱出、大坂に馳せ参じた…。

幸村の大坂入城に際しては、どの文献でもそのように描かれています。

でも、これって、ちょっとおかしくありませんか?

農民が一人残らず、ベロンベロンに酔っ払って、眠りこけ、わけがわからなくなる…そんなことがあり得るのでしょうか? そんな人もいたかもしれませんが、常識で考えた時、「一人残らず全員が」というのは、いかにも嘘くさいのです。

おそらく農民の中には、気が確かな人もいたと思うんです。きっと彼らは、見て見ぬふりをしたのではないでしょうか。幸村に男になってほしくて、寝たふりをして、薄目を開けて幸村の雄姿を心に刻み、祈るような思いで送り出した人たちがいたのではないでしょうか。

なぜそんなことをしたのか? きっと、彼らは幸村のことが大好きだったんですよ。もしかしたら、招待された時点で、幸村の意図を汲み取っていたのかもしれませんね。

幸村からしてみれば、九度山に幽閉されて14年。自分が生きているうちに徳川と豊臣の間で戦が起こるかどうかなんて、わからない。でも、そのわずか な可能性に賭けたんです。そして、その日が来た時に、農民たちが見て見ぬふりをせずにいられないぐらい、日ごろから農民たちに心を配り、本当によくしてあ げていたんだと思います。

私たちが幸村から学ぶべきは、大坂の陣での活躍よりも、ここだと思うんですね。幸村の人生というのは、九度山を脱出した時点で、勝負あったんです よ。あとは、戦に勝とうが負けようが、その活躍はおまけですよね。何かを成し遂げた人から、私たちはやり方を学ぼうとしますが、人の人生を決定づけるの は、やり方でなく、日常のあり方だと思います。

よく「頼まれごとは試されごと」と言われますが、私は最近気づいたことがあります。頼まれごとを引き受けるか、断るか考える前に、人が何かを頼みた くなる自分でいることが、大事なんじゃないかって。「あの人に頼んだら、いやな顔されそう」とか、「あの人にだけは頼みたくない」そんなふうにもし周りの 人に思わせてしまっていたら、その人の人生は、開けていくわけがありませんから…(*^^*)

私は講演で、よく台湾の話をさせていただいていますが、有り難いことに、台湾のほかにも、親日国は世界にまだまだたくさんあります。その一つが、トルコ。トルコと日本の友好の歴史は、1890年にさかのぼります。

この年、日本を訪れたトルコの軍艦・エルトゥールル号が、紀伊半島沖で台風に遭い、転覆。犠牲者は500名以上に上り、助かったのはたった69名という、大惨事が起こったのです。 串本の東に浮かぶ、紀伊大島。男たちは、漆黒の海に飛び込み、自分より一回りも二回りも大きな男たちを背負って、数十メートルの断崖をよじ登り、待ち受けていた女性たちが彼らを温め、必死で介抱し、69名はなんとか一命をとりとめました。

大島村は、半農半漁の貧しい村で、しかもこの年は台風の当たり年と言われ、漁に出られない日が続いたため、村人たちは自分たちが食べる物にさえ事欠 く有様でした。それなのに、村人たちは、貴重な米を炊きだし、ありったけの食べ物を、異国の気の毒な人々のために提供したのです。中には、お正月用にとっ ておいたさつまいもやニワトリをわけあたえる者もいたそうです。

こうした村人たちの善意のおかげで、69名の生存者は体力を回復し、日本の軍艦によってトルコに送り届けられました。この事実を、トルコの人々は教科書に掲載し、日本への感謝を語り継いでくれたのです。

時は流れ、1985年…。イラン・イラク戦争が勃発。
イランの首都・テヘランでは、イラクによる空爆が激しさを増す中、当時イラク大統領だったサダム=フセインの恐ろしい宣言で、日本人は窮地に立たされます。
「イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす!」
軍用機だけでなく、民間機も無差別に撃ち落とす、というのです。しかもサダム=フセインが猶予として与えた時間は、たったの48時間でした。

当時の日本には、自衛隊を海外で活動させるといった法律がありませんでした。そこで、日本政府は他国に応援を打診したものの、各国自国民の救出に手いっぱいで断られてしまいます。そのため、在イラン日本人200名以上は脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕していました。
もはやタイムリミットです!
万策尽きたイランの日本大使館でしたが、野村大使はそれでも「ネバーギブアップ」。トルコ大使館のビルレル大使に助けを求めました。彼らは同時期にイランに赴任しており、家族ぐるみのつきあいがあったのです。

でも、逆に言えば、その大使同士の個人的なつきあいに頼らなければならないほど、日本は切羽詰った状況だった、と言えるでしょう。ビルレル大使か ら、オザレ首相へ、日本の窮状が伝えられます。オザレ首相から日本人救出を要請されたトルコ航空では、即座に、この危険なフライトをしてくれるパイロット を募りました。すると、なんとその場にいたパイロット全員が志願したというのです。

2機のトルコ航空機が、夕闇迫るテヘランのメヘラーバード国際空港に降り立ちました。215名の在留邦人を乗せ、イラン国境を越えてトルコ領空に入ったのは、タイムリミットのわずか1時間15分前のことでした。

トルコの領空に入った瞬間、
「Welcome to Turkey, ladies and gentlemen」
というアナウンスが機内に響き渡りました。タイムリミットにはギリギリ間に合ったものの、フセイン大統領が自分の宣言を守る確証はありませんから、イランの上空を飛んでいる限り、乗員も乗客も、心が休まることはなかったでしょう。

「Welcome to Turkey.」というアナウンス、これはすなわち「助かった」ということを意味するのです。このアナウンスが聞こえた瞬間、乗員と乗客は、手と手を握り合い、お互い涙したそうです。

安堵の涙を流した乗客たちは、やがて我に返ります。それにしても、なぜトルコ航空が私たちを助けに来てくれたのだろう?その疑問をぶつけると、乗員は微笑みながらこう答えたそうです。

「エルトゥールル号の恩返しです」

その後、1999年にトルコで地震が起こると、混乱のテヘランから救出された人々が政府に働きかけ、日本はトルコの復興支援に尽力しました。また、 2020年のオリンピック開催都市が東京に決まると、安部総理のもとに駆けつけ、真っ先に祝福してくれたのは、決戦投票で東京に敗れた、トルコのエルドア ン首相でした。

エルトゥールル号の遭難という悲劇が始まりでしたが、トルコと日本は、報恩感謝の歴史を、かけがえのない友情を、1世紀以上にわたって育んできたのです。感謝の歴史は、誰にも書きかえることはできませんからね。本当に有り難いです。

さて、昨年は、安部総理がトルコを訪問しました。その際に、エルトゥールル号のご遺族の子孫に会い、彼らの前で、日本・トルコ合作の映画を製作することを宣言しました。その映画が、2015年の暮れの封切りを目指し、撮影は順調に進んでいるそうです。

実は、以前、和歌山で私の講演を主催してくださった方が、エキストラでこの映画に出演されています。紀伊大島の農民の役ですって。その方が、映画の中に出てくる素敵なセリフをご紹介くださいました。

あの時、生き残ったトルコ人に、ありったけの食糧を差し出した村人たち。そのかたわらで、「それまであげちゃうの? そしたら、僕たちの食べる物がなくなっちゃうよ」と不安げに親の顔を見上げる子どもがいたそうです。その子に対して、親はなんという言葉を掛けたでしょう?

「なぁに、お天道様が、なんとかしてくれらぁ!」

大正末期から昭和初期にかけて駐日大使を務めたフランスの詩人・ポール=クローデルは、このような言葉を残しています。

「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界にただ一つ生き残って欲しい民族を挙げるとすれば、それは日本人だ」

貧しくても美しい日本人が、ここにいた…! 名も無き人々の心の美しさ、豊かさこそが、日本の宝なんですよね。西洋人にとって、成功はお金や富を得ることかもしれませんが、私たち日本人にとって大切なのは、この心の美しさと豊かさを伝えていくことではないでしょうか。

20億を超える年俸を蹴って、ファンや球団へ恩返しすることを選んだ広島東洋カープの黒田投手。そしてその黒田投手を心から愛し、応援する人々。私たち日本人の生きる道は、理屈じゃないんですよね。美しい感性こそが、日本人の真髄だと思います。

そしてこの映画の中のセリフを教えていただいて、私は一つ決意したことがあります。
「お天道様がなんとかしてくれる」と言ったって、実際にお天道様が手を差し伸べてくれるわけではありません。「お天道様が何とかしてくれる」ということは、世間が放っておかない、ということでしょう。

善意の人々を放っておかない。これって、とても大切なことですよね。「正直者は馬鹿をみる」とか、「恩をあだで返す」なんてことがあってはならな い、善意の人々が報われる世の中にしなくては…!! 未来の子どもたちのために、そんな世の中が再び訪れることを願って、感謝を心に刻み、恩を送っていけ る人になろうと思います。

昨春、台湾映画界のあらゆる記録を塗り替えた、『KANO ~1931 海の向こうの甲子園』。
政治的事情を反映してか、日本ではメディアでPRされることはほとんどありませんでしたが、映画を観た人たちの感動がじわじわと口コミで広がり、ロングランを記録する映画館も出てきたようですね。

『KANO』は、多少の脚色が加えられているものの、史実がベースとなっています。台湾と日本が、遥かなものを求めてともに歩んだ歴史があった、と いうこと。『KANO』の感動的なストーリーとともに、そんな歴史の一ページが皆さんの記憶にとどまればいいなぁと思っています。

昨年4月に初めて台湾を訪れ、日本語を学んでいる大学3年の男の子とお話しさせていただいたんです。彼は、こんなことを私に伝えてくれました。
「東日本大震災は、とても痛ましい出来事だったけれど、でも悪いことばかりではなかった。なぜなら、戦後ずっと自分たち台湾人は日本に片思いをしていた。その僕たちの思いが、震災をきっかけに日本人に伝わるようになった。今は両思いになれて、本当に嬉しい」

昨年はのべ280万人を超える観光客が、台湾から日本を訪れました。もちろん、この数は世界一。第2位は中国ですが、人口が10億人を超える中国 と、およそ2300万人の台湾では、分母が桁違いですから、この台湾からの観光客数は、驚異的な数字だと思います。単純に計算すると、なんと台湾人の約8 人に1人が日本を訪れたことになります。

震災からもうすぐ4年。
震災直後は、日本赤十字が把握しているだけでも200億円以上の義援金と400トンを超える支援物資を送ってくれた(実は日本赤十字を通さずにその何倍も の支援が届けられていますから、台湾から日本への支援の合計は、天文学的数字にのぼり、計算できないと言われています)台湾の人たち。彼らの中には、「震 災から3年、4年と経てば、お金や物を送るという援助よりも、日本を旅行し、日本でお金を使うことが、何よりの復興支援になるんじゃないか」と考え、旅行 先を日本に選ぶ人が多いといいます。台湾の人々の真心は、本当に有り難いですね。

さて、映画のストーリーそのものには関係ないのですが、今回は、歴史の一ページとして皆さまに「高砂義勇隊」をご紹介しようと思います。

1895年から1945年、日本が統治していたこのおよそ50年の間に、台湾の農業生産性は飛躍的に向上し、台湾は著しい経済発展を遂げます。農業 の発展に最も大きく貢献したのは、八田與一(よいち)さんが設計、監督した水利事業(ダムと水路を合わせて「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼ばれま す)ですが、ダムや水路といったハード面が整うだけでは不十分で、それに見合うソフト面での進歩が必要ですよね。

その農業技術の発展に大きく関わっているのが、嘉義農林学校、通称「嘉農=KANO」です。映画のタイトルにもなった嘉義農林学校には、近代的な農 業技術を学ぶために、台湾全島からさまざまな人たちが入学してきました。台湾の原住民族、大陸から渡ってきた漢民族、そして統治する側にいた日本人。映画 で描かれた嘉義農林野球部が、3つの民族の混成チームだったのには、そんな背景があるのです。

嘉農野球部の大活躍から10数年…。
大日本帝国は、ついに米英との開戦を決意、大東亜戦争に突入します。およそ半年間は日本軍が勝ち続け、アジア諸国を欧米の植民地支配から解放していきますが、国力の差は埋め難く、しだいに戦況は悪化していきます。

そんな中、大日本帝国は、台湾でも志願兵を募ります。この時、17歳から25歳の台湾の男子は、そのほとんどが志願したと言われています。

実は私が昨年台湾の90歳のおばあちゃんとお話しした時、「台湾にとって日本はどんな存在ですか? 日本のせいで大変なつらい目に遭ったと思ってい らっしゃいますか?」と尋ねたら、おばあちゃんは、「日本はともに戦い、ともに涙した存在。私たちは70年前まで日本国民だったんだから、自分の国のため に戦うのは当たり前だよ」とおっしゃったんです。

そしておばあちゃんは、こんなふうに言葉を続けてくれました。
「もし日本に対して恨みがあるとすれば、それは台湾を統治し、戦争に巻き込んだことでなく、敗戦で台湾の統治権を放棄したこと。戦争が終わって、日本人がみんな日本に引き上げた時、私たちは親に捨てられた子どもみたいに、ただただ悲しくて、切なかった」

当時の台湾の人々の心情を考えると、そしてこのおばあちゃんの言葉を思い出すと、私は今でも涙がこぼれます。

さて、戦争中の話に戻しますね。
台湾からの志願兵の中には、「高砂族」と呼ばれる原住民族も多くいました(原住民族は、さまざまな部族に分かれていますが、総称して「高砂族」と呼ばれていました)。彼らは「高砂義勇隊」として、南方に配属されました。

現地の人々に教育の機会を与え、治安や衛生環境を整えていき、近代化をもたらした日本の台湾統治は、欧米の搾取型の植民地経営に比べ、当時としては 理想に近いものだったと評価される一方で、現代に生きる私たちから見ると、やはりそこには、その時代ならではの限界が存在しました。つまり日本は、欧米の ように「宗主国」対「植民地」という構図は描かず、台湾を日本の一部として統治したわけですが、そこには厳然とした「差別」もあったのです。

琉球や朝鮮、そして台湾の人々を「二等国民」とし、「一等国民」の内地人とは差をつけました。高砂族の場合、その中でさらに一段低く見られる傾向が ありました。だから彼らは志願しても兵隊にはなれず、「軍夫(ぐんぷ)」として、現地で武器や食糧を運搬するという役割を担ったのです。

しかし、この時、戦場に赴いた高砂義勇隊の人々は、生まれながらにして日本人として教育されています。ある意味、日本人以上に日本的であり、彼らは、骨の髄まで武士でした。

高砂族の中には、先祖伝来の刀を持つ部族もいて、彼らは、寝る時にも大事な刀を肌身離さず抱きしめていました。その姿を見た、ある日本兵が、「刀を 女だと思っているんじゃないか」と茶化したそうです。すると高砂族のその男性はムクッと起き上がり、「武士の魂を女に例えるとは、なにごとか」と、キッと 睨んだのだとか…。

このように、武士道を共有する彼らは、自分の任務を全うしました。しかし、戦況はますます悪化し、戦地では食べ物にも事欠くありさま…。
そんな時、ある高砂族の軍夫が、食糧の運搬を命じられます。この人は、おそらく何日も食べていなかったのでしょう。運搬の途中で、なんと餓死してしまいました。ところが、彼が背負っていた荷物の中の食糧は、全くの手つかずの状態だったそうです。

私は武士道の根幹は「公に生きる」ことだと思っていますが、彼らこそ武士道の体現者だと言えるでしょうね。自分の背負った食糧は、あくまで公のもの であり、自分のものではない。命が途絶えるその瞬間においても、日本人としての誇りを持ち続け、公に生きた、名も無き高砂族の男性のことを、私は忘れたく ありません。

高砂族は、山奥で暮らしている者が多かったので、厳しい自然環境の中で培われた特殊な能力を持っていて、その類いまれな能力を、南方のジャングルで 遺憾なく発揮しました。彼らは、何百メートルも離れた所から、敵の来襲に気づいたり、雨のにおいを嗅ぎ分けたりできたそうです。高砂族のおかげで、ジャン グルの中で一命を取りとめ、なんとか生き永らえた日本人も多かったといいます。

戦争末期になると、戦況はさらに悪化し、怪我で動けなくなる日本兵が増えてきました。すると高砂族が、「兵隊さん、銃をお借りします」と言って、突撃していったそうです。

彼らの中には、南方戦線で命を落とした人も多いですし、腕や足を失い、その後の生活が非常に困難になった人もいました。さらには、戦後、大陸を追わ れた国民党が、日本に変わって台湾を支配するようになると、国民党の敵国であった日本を支援した、ということで、彼らは糾弾され、いたたまれないような人 生を歩むこととなったのです。

そんな目に遭っていながら、高砂義勇隊の人々は、誰一人として日本政府に賠償金を要求していません。彼らは「私たちは日本国民だったのだから、国を守るのは当たり前だった」とおっしゃるのです。

この方々が、戦後70年を、どんな思いで過ごしていらしたのか…。私たち日本人は、彼らに「守るに値する国だった」と思ってもらえるような、尊い美しい国を築いていかなければ…。

そんなことを強く思います。
KANOの感動ストーリーの影に、このような人々がいたということも、皆さまに覚えておいていただけたら有り難いです。

台北郊外の芝山巌(しざんがん)にある“六士(ろくし)先生のお墓”は、台湾の教育の聖地として、ボランティアの人々による清掃や献花が絶えることがありません。今回の和ごころコラムは、この六士先生について書かせていただこうと思います。

1895年5月に下関条約が発効され、日清戦争に勝利した日本に台湾が割譲されると、その翌月には芝山巌学堂が建てられ、日本から7人の先生が派遣されました。これが台湾の公教育の発祥と言われています。

植民地の人々から教育の機会を奪い、彼らを安い賃金で奴隷のようにこき使い、植民地を搾取することで本国が栄える……そんな図式を描く西洋諸国の植 民地政策と、日本の台湾統治は、そのスタートの段階から大きな違いがあったわけです。つまり日本人は、台湾の民に教育を施し、インフラを整備し、農業生産 性を飛躍的に上げることで、台湾と日本がともに豊かになる道を選んだのです。

ところが、今でこそ世界一の親日国と言われる台湾ですが、異民族から支配されることに、初めから諸手を挙げて賛成する人なんているはずがありません。 日本の統治が始まって初期の頃は、抗日運動に身を投じる人々も多かったのです。

そんな状況の中、7人の先生たちは、教育者としての誇りを持って、台湾の民に教育を施していきました。 そんな先生たちを慕う人々も、しだいに増えていきました。

彼らは、抗日ゲリラの動きを探って、先生たちに伝えます。
「危ないから避難した方がいい」
これに対し、7人の先生は決して首を縦には振りませんでした。「軍人さんが命を賭けて国を守るのと同じように、自分たちも命を賭けて教壇に立つ」彼らは、そう覚悟していたのです。

そして1896年元日…。

公務で日本に帰国した一人の先生を除いて、6人の先生たちが新年の祝賀のために山を降り、台湾総督府に向かいました。そして祝賀が終わり、先生たち が芝山巌に戻ろうとすると、台湾総督府の人々は先生たちを引き止めました。実はこの日、「抗日ゲリラたちが日本人を襲う」という噂があったのです。

けれども、彼らはそれを知っても、自分の持ち場である学校へ帰ることを選びました。そして次のように述べたと言われています。

「自分たちの命がたとえ今日果てようとも、日本人が台湾の教育にこれだけの情熱を傾けていたという、その思いを遺すことはできるだろう。だとすれば、実に死に甲斐がある」

結局、この6人の先生たちは、抗日ゲリラに襲われ、命を落とします。台湾の人々は、台湾の教育にこれほどの情熱を傾けた6人の先生に感謝し、彼らの御霊を神社に祀りましたが、戦後、国民党政権によって、この神社は壊されました。

ところが、六士先生(「六人の先生」という意味であり、「士」には尊敬の意が含まれます)を慕う地元の人が、無名の小さなお墓をつくり、秘かに守ってくれていたのです。そして戦後40年以上経って、現在の墓碑が建てられました。

ただし、台湾の教育に殉じた6人の先生への感謝だけで、ここが「教育の聖地」となったわけではありません。

当時、「6人の教育者が抗日ゲリラに襲われて命を落とした」という衝撃的なニュースが日本にもたらされた時、多くの日本人は、台湾を野蛮な土地だと 蔑み、怖れました。ところが日本国内の教育者たちは、このニュースを知ってもなお、というよりも知ったからこそ、「台湾には教育が必要」と、優秀な先生た ちが次から次へと台湾への赴任を希望したのです。

この日本の教育者たちの“志のリレー”に対して、台湾の人々は最大の敬意を払ってくれているのです。

6人の先生たちの中には、吉田松陰の甥がいました。松陰は、生前、愛弟子の高杉晋作から質問を投げかけられました。

「松陰先生、男子の死に場所とはいつのことですか」

この重い質問に対し、松陰はすぐには答えることはできませんでしたが、安政の大獄で逮捕され、刑場の露と消える、その直前に、この問いに対する答えが見つかり、獄中から晋作に手紙を出しています。

以下は私の解釈ですが、松陰は次のように晋作に伝えました。

「いま生きていても、魂が死んでるような人っているよね? その逆に、今すでに死んでいて肉体はこの世にないのに、魂が生き続けている人もいるよね? だとしたら、死は、好むべきものでもないけれど、憎むべきものでもないんじゃないかな。もし君が生きて世の中のお役に立てると思うなら、いつまででも生き続けなさい。

逆に、もし“今ここ”が命を賭けるほど大事な場面だと思ったら、その時は潔く命を差し出しなさい。 生きるとか死ぬ、あるいはいつ死ぬなんていうことが大切なんじゃない。本当に大切なのは、生死を超えて志を持つことだ」

西洋の権力者の中には、不老不死の薬を求めた人が数多くいます。それに対し、不老不死の薬を求めた日本人というのは、私は知らないんです。人間であれば、誰もが「永遠」に憧れるものだと思いますが、その「永遠」の概念が西洋と日本では違うのです。

「自分の命よ、永からん」と願うのが、西洋人。

それに対し、日本人は、「命には限りがある。でも、自分の思いを受け継いでくれる人がいれば、自分の命は永遠である」と考えたのではないでしょうか。 だから、死を怖れるよりも、「周りの人に受け継いでもらえるような生き方をしよう」、ここに全力投球してきたのが、日本人だったのではないか、そんな気がするのです。

私は、周りの人に受け継いでもらえるような生き方をしているかな。六士先生のような崇高な生き方はできなくても、こう常に自分に問いかけることで、先人たちの美意識を継承することはできると思います。

そして私は、六士先生の思いを想像するたび、あることを考えます。六士先生は、教育のために命を捧げた。じゃあ、私が命に代えてでも守りたいものは、何だろう? って。

人の命というのは、かけがえのない、大切なものです。でも、戦後は「命が一番大事」と家でも学校でも教えてきた結果、命はなんと軽くなってしまったのでしょう。自ら命を絶ったり、あまりにも簡単に他人の命を奪う人が、なぜこんなにも増えてしまったんだろう。

命に代えてでも守りたいものがあるから、人は命を大切にできるのだと思います。だって、その大切なもののために命をつかうのだから、どうでもいいことのために命をつかうなんて、できなくなるのです。

そして、命に代えてでも守りたい大切な存在が見つかった時、人は、自分の周りの人にも大切な存在があることに気づく。だから自分の命を大切にするのと同じように、人の命も大切にできるのです。

命を本当に大切にするためには、命のつかい道を考えること。言葉だけの“大切さ”じゃなく、本当の“命の重み”を、子どもたちに伝えていかなくては…。責任ある大人として、やるべきことは山積みですね。

この5年間、私の頭の中は嵐でいっぱいでしたが、その嵐の存在がかすむぐらい、私は台湾映画『KANO~ カノ ~1931海の向こうの甲子園』に夢中になっています。

皆さんはWBC日台戦の感動を覚えていらっしゃいますか?
そしてあの原点が84年前にあったことをご存知ですか?
WBC日台戦を見た台湾のおじいちゃん、おばあちゃんは、みな「嘉農の再来だ」と涙したそうです。

すべての日本人に知ってほしい。
かつて日本と台湾が手を携え、遥かなるものを求めて、ともに歩んだ歴史があった、ということを…。

1931年、日本統治下の台湾。
それまで1勝もしたことがないKANOこと嘉義農林学校が、日本人監督に率いられ、夢の甲子園に向かって行く!

足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チーム「KANO」が、甲子園に大旋風を巻き起こした実話をもとに、この映画は制作され、台湾映画史上、空前の大ヒットとなりました。

仲間を信じることの大切さと美しさ、目の前の課題にひたむきに向き合うこと、さらに最後まで絶対にあきらめない気持ち。 人生で大切なことが、すべてこの映画には詰まっています。

野球のシーンも素晴らしいですが、当時東洋一の規模を誇った烏山頭(うさんとう)ダムの完成という歴史的事実を絡め、日本統治時代の台湾の一側面を見事に描ききった原作者の手法に、脱帽しました!

ところで、『KANO』は台湾で社会現象を起こすぐらいの人気映画となりましたが、その半面、日本に対してあまりいい感情を抱いていない人たちからは、「日本統治時代を美化している」との批判も出ているようです。

私はそういう批判を聞くと、とても悲しくなるんですね。 なぜみんな「反日」「親日」「右」「左」と二分化しようとするのでしょう?

製作総指揮をとったウェイ・ダーション氏は、『海角(かいかく)七号 ~君思う、国境の南』という映画で監督デビューしています。 この映画は、敗戦で母国に引き上げなければならなかった日本人男性が、離れ離れになってしまった台湾の女性を思って綴った7通のラブレターがモチーフになっていて、とても美しく切ないラブストーリー。

実際に、こうして歴史に翻弄されるカップルがいたんだろうなぁ。
この映画も、日本時代への郷愁を誘う映画で、台湾で大ヒットしました(実は『KANO』が記録を塗り替えるまでは、この映画が台湾映画史上1位だったそう で、「海角七号見た?」という会話が、映画が公開された2008年当時、台湾の人たちの間で挨拶代わりに交わされていたとか…。)

さて、そんなヒットメーカーのウェイ・ダーション氏が2作目として世に送り出したのが、『セデック・バレ』。 こちらは、台湾原住民(セデック族)による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件「霧社(むしゃ)事件」が題材になっています。 日本人巡査がセデック族の若者を殴打したことを引き金に、セデック族の人々が民族の誇りを守るために立ち上がり、日本人を惨殺していくのです。

この事件が起こったのは1930年ですから、嘉義農林の甲子園準優勝の前年に起こった、ということになります。 このあまりにも衝撃的な事実を、私たちはきちんと認識しなければいけないと思います。 日本の台湾統治は、あの時代としては、まれに見る成功事例であり、理想的な統治だったという評価がある一方で、このように凄惨な事件が起きていることもまた事実なのです。

つまり歴史上の出来事は、「いいこと」「悪いこと」、「プラス」「マイナス」に分けられるほど単純ではないと思うんです。 民族の違いを乗り越えて素晴らしい組織を作った嘉義農林の近藤監督のような人もいれば、相手の誇りを傷つけることで、お互いが多くの犠牲を強いられることだってある。

ある時は菩薩のように慈悲深かった人間が、別の相手には嫉妬したり、恨んだり、蔑んだりする。 その間を行ったり来たりするから人間なんだと思います。

そんな人間が集まって一つの国ができ、歴史が紡がれていくのです。 すべての歴史上の出来事には、光と影があり、功罪相半ばする……というのが、本質なのではないでしょうか。 それを無理やりどちらかの論理に当てはめて解釈し、「プラス」あるいは「マイナス」と結論づけようとするから、おかしくなるのです。

大切なのは、事実を知ろうという姿勢です。
そしてその事実をどう判断し、どのような歴史観を持つのか、歴史は私たちに問いかけているのだと思います。 ウェイ・ダーション氏の作品を拝見し、そんな思いを強くしました。

そして個人の生き方としては、獣のように醜い自分とも付き合いつつ、どうすれば菩薩に近い自分でいられるのか。 そのお手本を歴史の中から探していくのが楽しみです。

江戸川を越えたら、そこはもう千葉! しかも最寄駅から歩いて10分。 そんな東京で最も辺鄙な所に、“読書のすすめ”という、変わった屋号の本屋さんがあります。

『もしドラ』が欲しいの? そういう売れ筋の本は、駅前の本屋さんで買ってね。 うちはベストセラーは置かないんだ。  だって、ベストセラーってね、今の時代のこの国に必要な情報にすぎないんだよ。 うちは、50年先、100年先の日本人に読んでもらいたい、ロングセラーの本だけを扱うことにしているんだ。

これは、数年前に、私が実際耳にした、お客様と清水店長の会話なんですが、痛快ですよね~。  そんな清水店長がセレクトした本に触れるため、そして江戸っ子の店長のスパイスの効いた話を聞くために、全国からお客様が殺到しています。  結局あれから、駅前の本屋さんはつぶれ、読書のすすめはますます繁盛しています(笑)

私はまだ本を出版する前から、たびたび“読書のすすめ”を訪れ、本を買いまくっていましたが、当時、清水店長に言われたことで、私の座右の銘になった言葉があります。

それは、「一生、プレーヤーであり続けるんだよ」という言葉。

おそらく店長は、「評論家にはなるな! ファンにもなるな!」と伝えたかったんじゃないかな。

さまざまな分野で評論家はいるけれど、評論家って、なんともかっこ悪いですよね。 「じゃあ、あなたがやってみなよ!」と言いたくなります。 たとえ小さな日常の場であったとしても、現場で汗を流している人はかっこいい。

じゃあ、ファンになったらなぜいけないの?

錦織 圭クンが、尊敬する選手と対戦が決まり、「憧れの選手と同じコートに立てるなんて…」と喜んだ時、マイケル・チャン コーチから一喝されたそうですね。 対戦相手を崇めてどうする、ということだったのでしょう。

清水店長はね、「歴史上の人物の中から、お手本となるような、尊敬できる人物を見つけなさい」とおっしゃいます。 でも、ファンになったらいけない。

私もそこはかなり意識しています。ファンになって崇め奉った瞬間に、学べなくなるんですよね。

相手も人間、自分も人間です。 その相手を崇め奉るというのは、「棲む世界が違う」とか、「持って生まれたものが違う」というあきらめが、根底にあるのではないかと思います。 その思いを持ち続ける限り、その人物からの真の学びはないんじゃないかな。

私は、素敵な生き方を歴史の中で示してくれた先人たちが大好きです。 でも、彼らのファンになることは、意識して避けています。 そこにあるのは、あくまで「友達」「親友」という感覚です。

空海さん、すごい! とても足元に及ばない…。 と思っても、意識的に「空海さんもやるなぁ」と言葉にしてみる。

すると、彼らがとても身近な存在に思え、「あの時、あの人はこうしたんだから、私は今、自分の置かれた場でこうしよう」というエネルギーがわいてくるんですね。 歴史から学ぶって、そういうことなんだと私は思っています。

さて、マイケル・チャン コーチに大目玉を食らった圭クンが、記者会見で言ってのけた言葉、シビれましたね~♪

「自分にはもう勝てない相手はいないと思う」

もちろん、当然そう言いきれるだけの練習もしたんでしょう。 でも、それ以上に大きかったのは、自分が憧れ続けたプレーヤーも、雲の上の人じゃなく、自分と同じ生身の人間であり、彼らを倒すことが、実は彼らへの本当の“リスペクト”であると気づいたことなんじゃないかな。

評論家でもなく、ファンでもなく、プレーヤーとしてあり続ける。 こうすることで、相手とはじめてちゃんと向き合えるんだと思います。 そしてちゃんと向き合うからこそ、真の学びがある…。

歴史上の人物と勝負するわけじゃないですけどね、彼らに応援されるような生き方をすることを心がけ、日常生活を丁寧に生きていこうと思います\(^^)/

いやぁ、人間の能力というのはスゴイ!
皆さんは箱根駅伝をご覧になりましたか?

私は自分が生きている間、“山の神”と呼ばれた東洋大・柏原選手の記録が破られることはないと思っていました。 それが、柏原選手の卒業からたった3年で、青学大の神野選手が新たな記録をうちたてました。 5区のコースが変更されたので、単純に比較することはできないのかもしれませんが、それにしても驚きです。

過去の偉大な記録が、「あたりまえ」の基準値になるんだということを、まざまざと見せつけられたような気がして、新年早々ワクワクしました♪

ちょっと不謹慎な話ですが、第二次世界大戦の終結からわずか4年でソ連が原爆の開発に成功した時、アメリカは、ソ連のスパイが国内にいて、情報が筒 抜けになったと思ったそうです。自分たちが莫大な時間と経費をかけて開発したものが、そう簡単に易々とつくられることはないと思っていたのでしょう。

ところが、どれだけ綿密に調査しても、スパイ行為を実証するものは何も出てこなかった、つまりスパイ行為はなかった、という結論が出ました。 じゃぁ、アメリカ人よりロシア人が優れていたのか、というと、そういうことではないんですね。

アメリカが開発のための実験をしていた頃、科学者たちは半信半疑だった。確かに理論上はつくれるけれど、果たして実際に出来るのだろうか、と。

それに対し、ソ連では、すでにアメリカが原爆をつくったのだから、「自分たちにも必ず出来る」という確信のもとに、実験が進められた。それが、開発にかかる時間を縮めたと言われています。

この例え話の是非はともかくとして、そのぐらい、人の思いが目の前に現れる現実に影響を与えるということだと思います。 私たちの遺伝子には、人類の歴史の記憶のすべてが組み込まれているそうです。

だから若者の皆さん、あなたたちには素晴らしい可能性が宿っているんですよ! 簡単に「無理~」なんて言わない方がいいですよ(笑)

江戸時代、人間が空を飛べるようになるなんて、誰も思っていなかった。 でも今は、空を飛ぶことなんて軽い軽い、人類は月にまで行ってしまったのですから…。 「不可能」って、本当はこの世に存在しないんじゃないかと思います。 遠い将来に出来るようになること、それが「不可能」の本当の意味なのかもしれません。

今年は、過去に「不可能」だったことが、いくつ出来るようになるでしょう?  楽しみですね!

「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人のとふまで」

誰にも知られないように隠してきたのに、わたしの恋心は、とうとう顔色に出るまでになってしまった。「恋に悩んでいるの?」とまわりの人に聞かれてしまうくらい。

これは、天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)の結びとして詠まれたものです。
淡い恋心を歌ったこの和歌を、密かに口ずさんでいた名君がいます。

多くの日本独自の文化が育ってきた平安時代。
大陸の文化を理解するのに一生懸命だった時代から、それを豊かに発展させ、自分たちにふさわしいカタチに醸成させていく。そのための礎を築いた名君。 その方の治世は「天暦の治(てんりゃくのち)」と呼ばれ、理想的な統治を行ったと言われています。

その名君が、前述の淡い恋心の歌を口ずさんでいたというのが、何とも微笑ましく、風情が感じられますよね。
名君とは、第62代・村上天皇のことです。

その村上天皇のお人柄の素晴らしさは、平安時代後期に成立したと言われる歴史物語『大鏡』からも伺えます。
それは、「鶯宿梅(あうしゅくばい)の物語」と呼ばれています。

村上天皇が治めていた時代のある時、美しい花を咲かせていた清涼殿の梅の木が枯れてしまいました。
この枯れた梅の木をご覧になり、ひじょうに残念に思われた村上天皇は、代わりの梅の木を見つけるよう、家臣たちにお命じになりました。

家臣たちは京の都じゅうを訪ね歩いて探しまわりましたが、なかなか代わりになるような梅の木を見つけることは出来ません。 しかし苦労の甲斐あって、家臣の一人が京の西にある家で、ようやく色濃く姿形の立派な梅の木を見つけることができました。

ほっとした家臣は、さっそく掘り出して神殿に持ち帰ろうとしました。
すると、その家の主人が召使を通じて「梅の木にこの歌を結びつけてお持ちください」と伝えてきたのです。

やがて清涼殿に移植された梅の木は、見事な花を咲かせ、京都御所は再び芳(かぐわ)しい香りに包まれました。 大満足の村上天皇。しかし、ふと梅の木に視線を移すと、一本の枝に文が結びつけられています。 家臣に命じてその文を持ってこさせると、そこには女性の筆跡で一首の歌がしたためられていました。

「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ」

帝(みかど)のご命令ですから、誠に畏れ多いことでありますので、梅の木は謹(つつし)んで差し上げます。 でも、この木を止まり木にしている鶯(うぐいす)が、「私の宿はどこに行ってしまったの?」 と尋ねてきたら、どのように答えたらいいのでしょうか。

この歌を目にされた村上天皇は反省し、その梅の木を元の持ち主の家に戻したといいます。 実はこの和歌をしたためたのは、『土佐日記』の著者であり古今和歌集の撰者である紀貫之(きのつらゆき)の娘でした。 この梅の木は、もしかしたら父の貫之が愛していた木だったのかもしれませんね。

天皇に対して「大事な梅の木を差し上げるわけにはまいりません」とストレートに断れば角が立ちます。 だから、彼女は鶯に自分の思いを託したのです。 なんという奥ゆかしさでしょうか。

そして彼女の気持ちを汲くみ取り、遺憾なことをしてしまったと、梅の木を取り上げた行為を恥じ、彼女のもとに返した村上天皇も、豊かなで素晴らしい感性の持ち主でいらっしゃいますよね。

伝え方も素敵。 そしてそれを受けとめる側の感性も素晴らしい。
これが粋な心配りであり、粋な心は、相手の粋をも引き出すんですね。

さて、村上天皇の御世(みよ)から千年以上が経過した、昭和59年。場所は、福岡。
道路の拡幅工事により、道路わきの桜が伐採されることになりました。 3月中旬、樹齢50年のソメイヨシノ8本の中の1本が伐り倒されましたが。この桜のつぼみはすでにふくらみ、開花も間近だったそうです。 これから残りの桜の木も次々に伐られるのでしょう。 それを痛々しく思った住民が、残った桜の枝に短冊を吊るしました。

花守り(はなもり) 進藤市長殿
“花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花を ゆるし給え”

誰もが道路拡幅の必要性を知るだけに、工事の反対運動も、差し止めを求める抗議もなされていません。 ただ、せめてあとニ旬の二十日間ほど待って、最期の開花ぐらいは見せてほしいという、謙虚な思いの陳上だったのです。

この詠み人知らずの歌は新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。 「花守り」と名指しされた当時の福岡市長の進藤一馬氏も、この記事を読んだのでしょう。 返歌をしたためた短冊を、同じ枝に下げたのです。

“花おしむ 大和心はうるわしや とわに匂わん 花のこころは”

すでに実施されている公共事業を、市長の一存で中止にするわけにはいきません。 しかし、それでもなお花を愛する大和心は麗しく、あなたのその心はしっかりと受け止めましたよ…。
市長は、そんなメッセージをこの返歌に託したのです。

市長は工事担当者に「桜の散り終わるまで何とか待てないものか」と要請をしたといいます。 年度末の事業ですから、工期の遅延は許されないし、役人としての資質が問われることであり、担当者は頭を抱えてしまいました。

しかし、この役人もまた、大和心を継承する一人の日本人です。 彼は、花が散るまで待ってほしいという、謙虚な歌の向こうにある、住民の本当の願いを察し、それを受け入れる決意を固めました。 予算の大幅な超過を覚悟の上で、計画を変更し、道路脇の池を拡幅分だけ埋め立てて工事を進め、さらに歩道と小さな公園まで作り、桜は活かすことにしたのです。

一人の詠み人知らずの歌から始まり、その同じ思いを抱く面識のない人たちの大和ごころのリレー。 同時にそれは、携わった人たちだけの力ではなく、花を愛し大和ごころを持つ社会が生みだした物語なのです。

梅と桜。花の種類こそ違いますが、村上天皇の最大の功績は、大和ごころを後世に伝えたことでしょう。 時代を超えて私たち日本人が継承してきたものを、これからも大切に守り続け、大和ごころのバトンを繋いでいきたいものですね。

♠2014年

2014年のカウントダウンが始まりましたね。

選挙で1週間放送がずれ込みましたが、ついに先日、大河ドラマ『軍師 官兵衛』も終了しました。
今年1月から毎月1回、NHKラジオ(九州・沖縄限定)の中で『軍師 官兵衛』というコーナーを担当させていただいたので、私はこの一年、本当に真剣に大河ドラマを見てきました。

27日の朝、その『月刊 官兵衛』も最終回を迎えたのですが、リスナーの方から「他の地方の方々にも聞いてもらえたらよかったのに…」と言っていただいたので、ラジオでお話しした最終回の内容を、この和ごころコラムで発信させていただこうと思います。
私の声を想像しながらお読みいただけたら嬉しいです♪

最終回の冒頭、官兵衛役の岡田準一さんが少年のように瞳をキラキラさせて、九州の野を駆け上がっていく様子、あれは反則ですね。あのシーンに胸がときめかない女性はいないと思いますよ(笑)

黒田軍の主力が長政に従って関が原に出陣したところに、大友軍が攻めてくる。官兵衛は、長年蓄えた金銀を領民に与え、速成軍をつくります。言ってみれば、彼らは戦いの素人であり、雑草集団です。
でも、そんな彼らを束ねるのは、人心を掌握することに長け、しかも戦では負けた記憶のない官兵衛です。彼らは、如水マジックにかかり、サラブレッドの大友軍に勝利すると、そのまま九州内の西軍諸将の城を次々に落としていき、瞬く間に北部九州を制圧しました。

冒頭の岡田準一さんの演技は、このシーンのことですが、その表情はまるでガキ大将みたいでした。そのガキ大将に、立ち直れないほどの一撃を加えたのが、息子の長政です。

長政の父親譲りの政治力がものをいって、関が原の戦いがたった一日で決着がついてしまった、つまり官兵衛の壮大な戦略が崩れ去り、天下獲りの野望がついえたわけですが、その事実を突きつけられた時の岡田準一さんが、また何とも言えない表情で…。
「事実は小説より奇なり」と言いますが、武将としての器や才能でははるかに勝る父親の夢を、その父親にあこがれ続けた息子が打ち砕いたわけですから、歴史というのは壮大なドラマですよね。

最終回で印象深かったシーンは、まだまだあります。
最終回のラストシーンが大坂の陣で、後藤又兵衛にスポットが当てられていましたが、私はドラマの制作者にファインプレー賞を差し上げたい気分です。

又兵衛は、長政の家臣でありながら、年齢は8歳上で、父親を早くに亡くした又兵衛は官兵衛に引き取られ、長政と兄弟のようにして育てられたので、二人の関係は、微妙だったんでしょうね。官兵衛の死後、二人の亀裂は決定的になり、又兵衛が黒田家を去ります。
勇猛な武将として又兵衛の名は全国に知られていましたから、複数の大名家から仕官の話を持ちかけられるのですが、長政は又兵衛の他家への仕官を許さなかったので、相当貧窮していたようですね。
実はこの時の長政、あまりにもしつこいんですよ。自分のもとを去った家臣におよそ10年もいやがらせを続けるって、どういう心境なんでしょうか?

その又兵衛が、死に場所を求めて大坂城に入城します。
大坂方の軍師としては、今では真田幸村が有名ですが、実は又兵衛は、幸村と同様か、あるいはそれ以上に大坂方の将士から絶大な信頼を得るんですね。 ある意味、官兵衛の血を引いた長政以上に、軍師・官兵衛の後継者は又兵衛と言えるのではないかと思っていたので、その又兵衛がドラマのラストを飾ったというのは、私としてはとても感慨深かったです。

最後に、ドラマでは描かれなかった官兵衛晩年の素敵なエピソードをご紹介します。

常に他人に対して寛容だった官兵衛が、急に愚痴っぽくなり、人が変わったように短気になって、周りの者に対して怒りちらすようになったというのです。 困った家臣が、それとなく長政の耳に入れました。父の変貌ぶりを聞いた長政の胸中は、どんなだったでしょうね。 家臣をあまり困らせないように、父をたしなめるために長政は会いに行くのですが、官兵衛はそんな長政を一喝します。
「お前のためにやっているということが、なぜわからぬ!?」

官兵衛が家臣になぜつらく当たっていたのかというと、実は、それはすべて長政のためだったんです。
黒田の家臣団というのは、歴戦の勇士たちばかりで、その多くは長政より年上で、経験も豊かなんですよ。そんな彼らが本当に慕っているのは、殿様の長政でなく、大殿の自分であることを、官兵衛は知っていたんですね。
自分が嫌われれば、相対的に長政に対する評価が上がるので、自分の死後も家臣たちは長政を心から慕い、支えるようになるだろう、そう考えたんですね。

この時の官兵衛の決断は、秀吉に授けたどの策よりも、また関ヶ原の戦いの折に天下を狙って立てた不敵な戦略よりも、官兵衛らしく輝いているように、私には思えます。
息子を思う父親の深い愛情、そして黒田家の安泰を願う当主としての責任感の中に、軍師としての才能がきらりと光っているところが、いかにも官兵衛らしいのです。

それにしても、九州は、土地のエネルギーが高いのか、官兵衛のほかにも個性的な武将が多いですね。
熊本では、領国経営に心血を注いだ加藤清正が400年経った今でも大人気ですし、関が原の退却戦で名を馳せた鹿児島の島津義弘は、戦国きっての猛将と言わ れています。柳川には、関が原で西軍に加担し、一度はお家取り潰しになるも、見事大名に復帰した立花宗茂がいます。それから『葉隠れ』で有名な佐賀の鍋島 もいます。

『軍師 官兵衛』は終わりましたが、これからも九州の歴史の素晴らしさを味わっていきたいですね。

前回の和ごころコラムは、西郷さんの島流しのエピソードを綴らせていただきました。 西郷さんは皆さんがご存知の通り、“維新の元勲”の筆頭に挙げられますが、明治維新というのは、革命ではありません。

それまで虐げられていた人たちが世の中をひっくり返すのが、革命。 だから革命が起こると、前時代の権力者たちは殺されたり、国外に追放されたり、あるいは特権や財産を剥奪され、ひじょうにみじめな暮らしを余儀なくされます。

でも、明治維新は違いますよね。 特権階級である武士が、日本の未来を憂えて、自己犠牲を伴う大きな変革を成し遂げたのですから…。

そしてあれだけの変革が起こったわりには、混乱は最小限で済みました。 なぜ混乱が最小限で済んだのかといえば、理由はいろいろあるでしょうが、最大の理由を挙げるとすれば、それはひとえに「西郷隆盛の人間力」にあったのではないかと思います。

その西郷さんを、心から信頼し、愛した人がいます。 明治天皇です。

天皇は、政治的な発言を慎み、私的な感情は表にお出しになりません。 それが日本流の帝王学なのです。 でも、その慎みの中に、チラッチラッと陛下のお心が偲ばれる場面があります。

明治10年、西南戦争で西郷隆盛は亡くなりますが、それを報告した政府首脳に対し、天皇は「西郷を殺せとは言わなかった」と、たった一言漏らされたと言われています。

さらに西南戦争の翌年、皇居が火事になった際、夜中に避難された明治天皇が、宮内省の倉庫からどうしても持ち出したい物があるとおっしゃったそうです。 すでに火の手がまわっていたため、侍従は躊躇していましたが、天皇が自ら火の中に飛び込んで行きそうなご様子を見て、びっくりした侍従が火焔を冒してなんとか天皇のご所望の品を持って出てきました。

こんな危険を冒してまで天皇が手にしたかった物ですから、どんなにか貴重で大切な品であろうと思いきや、天皇が命に代えても守り抜こうとなさった物とは、何の変哲もない小さなタンスでした。

侍従は不思議に思い、そのタンスの由来を尋ねました。すると天皇はたったひとこと、 「これは西郷が献上したものだ」。

いかに天皇が西郷を愛してやまなかったか、そしてその死をどれほど悼んでいらしたかが感じられるエピソードです。

私はこのエピソードを知った時、明治天皇のお気持ちを想像し、涙が止まりませんでした。 あれほど愛してやまなかった西郷さんを、逆賊として天皇の軍隊の手で死に追いやってしまったという、歴史の切なさに、胸が締めつけられたのです。

ところが、先日、岐阜の岩村を訪れた時、素敵な後日談を教えていただきました。

時が経ち、明治17~18年ごろ、日向の旧高鍋藩主・秋月種樹(たねたつ)(秋月家は上杉鷹山の実家でもあります)が鹿児島を旅した際に、西郷さんの縁者のお宅で意外なものを発見します。 西郷さんの筆による『言志四録』の抄本でした。

あの沖永良部島に流され、壁もなく吹きさらしで、雨も容赦なく吹き込むような粗末な萱葺きの獄舎での生活を余儀なくさせられた時、西郷さんの心の支えとなったが、佐藤一斎の著した幕末の大ベストセラー『言志四録』だったのです。 そして西郷さんはただ読み耽るだけでは飽き足らず、『言志四録』の中でも特に心に刻みたい項目を自ら写し、抄録を作成しました。

明治6年の政変で下野した西郷さんは、故郷・鹿児島に帰り、翌年、私学校を設立しましたが、このとき西郷さんは『言志四録』から101ヵ条を選び、講義したと言われています。 おそらく沖永良部島の獄舎で筆写した抄録が使われたのでしょう。

しかし、この『手抄言志録』はその後、世に出ることなく、西郷さんの遺品の中に埋もれていました。 それがおよそ10年の歳月を経て見つかったのですから、しかも英雄・西郷隆盛の直筆ですから、世紀の大発見と言っても過言ではないでしょう!

明治21年、秋月種樹は『南洲(なんしゅう)手抄言志録』と題し、出版しました。 そしてその一篇を、明治天皇に献上したのです。

この書を繰り返しお読みになった陛下のご尊顔に、みるみる喜びの色が浮かびます。 そして、こう叫ばれたといいます。

「朕は再び西郷を得たぞ!」

最も信頼していた臣下を失って以来、天皇のお気持ちが晴れやかになる日はなかったのではないでしょうか。 ところが、西郷さんは『南洲手抄言志録』の中に、生き続けていたのです。

その西郷さんの志が、そのまま明治天皇のお心に注がれ、陛下の血となり、肉となった…。 そして佐藤一斎から西郷さんへ、さらに明治天皇へと受け継がれたバトンが、明治23年に発表された『教育勅語』として結実したのではないか…。 私はそんなふうに想像しています。

「朕は再び西郷を得たぞ!」

この時の天皇のお心は、いかばかりだったでしょう。 そしてこの感激を、天皇は終生お忘れになることはなかったのだと思います。 その後、『教育勅語』の通りの生きざまを国民の範として示してくださった明治天皇を、私は尊敬してやみません。

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