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ジョン万次郎といえば、その名は誰もが知るところですが、「和ごころコラム」では、2回にわたり、彼の人生を改めて紐解き、現代を生きるためのヒントを導いていこうと思います。
土佐(高知県)の漁師の家に生まれた中濱(なかはま)万次郎は、14歳のとき仲間と漁に出て、遭難。漂流の末にたどりついたのは、伊豆諸島の八丈島からさらに300キロも南に位置する絶海の孤島、鳥島でした。それでも万次郎は希望を捨てず、仲間を励まし続けます。彼らは生き延びるために、アホウ鳥を捕まえ、卵や肉を食べたと伝えられています。
万次郎から学ぶべきもの、その第一は、逆境においても希望を捨てない、粘り強さと無類の明るさでしょう。太陽のように明るい万次郎の存在が、奇跡を引き寄せたのでしょうか。突如現れた米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に、彼らは救出されたのです。漂流からおよそ5ヶ月後のことでした。
船員たちに感謝し、嬉々として手伝いをする万次郎。そんな万次郎を、船員たちは捕鯨船の名前にちなんで「ジョン・マン」の愛称で呼び、かわいがりました。ここから「ジョン万次郎」という呼び名が生まれるのです。
特にホィットフィールド船長は、万次郎に深い愛情を注ぎました。他の仲間はハワイに残し、万次郎だけアメリカに連れ帰って教育を受けさせたのです。当時、初等教育は教会で受けることができましたが、船長の所属する教会は、白人ではないという理由で万次郎を拒否しました。すると船長はその教会と絶縁し、万次郎を受け入れてくれる教会に宗旨変えをしたのです。
私たち日本人にはあまりピンと来ないかもしれませんが、キリスト教など一神教を信じる者にとって、宗旨変えは、人生そのものを変えてしまうような、大変重大な決断でした。船長はなぜそこまでのことを、異国の少年のためにしたのでしょうか。おそらく次のようなメカニズムが働いたのではないかと思います。
万次郎の人間性に周りの人々が惹きつけられ、応援団になっていく。すると万次郎は人々の善意に感謝し、更にその期待に応えようと努力する。だからますます愛される――。よく人間関係は鏡に例えられますが、互いの善意が響きあい、素晴らしい人間関係が育まれていったのでしょう。ここからも、逆境を希望に変えるヒントが得られそうですね。
小学校を卒業した万次郎は、海洋専門学校で高等数学をはじめ航海術や造船、測量技術などを学び、捕鯨船の航海士や副船長として世界の海を駆け巡りました。しかし彼には、気がかりなことがありました。それは、しだいに年老いていくであろう、母親の存在です。
母が生きているうちに、どうしても会いたい――。漂流から約およそ10年、帰国を決意した万次郎は、ゴールドラッシュで沸く米国で金の採掘に携わり、ハワイの仲間と共に帰国すべく、資金を作りました。
(白駒妃登美)
みなさん、こんにちは♪ 白駒妃登美です。
いよいよ令和・新時代の幕開けですね♪ 「大化の改新」 で有名な 「大化」 という元号が使われるようになったのは西暦645年のこと。
ここから日本独自の元号が始まりましたが、以来、 「平成」 に至るまで、1300年以上の長きにわたり、出典はあくまで中国の古典でした。
「令和」 という元号が、万葉集を出典とすることは皆さん、ご存知の通りですが、国書を出典とするのは、歴史上、初めてのことなんです。
私は 「平成」 という元号も大好きですが、新しい御代は、なんと希望に溢れた元号なのでしょう。日本人らしく、誇りを持って、美しく生きていきなさいって、先人たちから背中を押されているような気がします。
ちなみに、 「令和」 の舞台となった 「梅花の宴」 が開かれたのは天平2年。 この年は、宴の主催者である大伴旅人にとって最晩年にあたります。 65歳の旅人が、このとき詠んだ歌がこちら。
「我が園に 梅の花散る 久かたの 天より雪の 流れ来るかも」
(私の庭に梅の花が散っている。あたかも天から雪が流れ来るかのようだなぁ)
実は梅の木は、もともと日本にはなく、唐から持ち込まれました。 今では 「花」 と言えば 「桜」 をイメージする人が多いと思いますが、奈良時代に人気があったのは、むしろ梅だったんですね。 およそ4500首を数える万葉集の歌の中で、桜が詠まれたものが約40首、梅は100首を超えています。
ハイカラな旅人は、自宅に招いた人々と梅の花を愛で、和歌を披露し合うという、新しい文化を生み出したのです。
江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉の言葉に、 「不易流行」 があります。
「流行」 とは時代の変化とともに変えるべきもの、 「不易」 は時代がいかに変わろうとも、決して変えてはいけないものを指します。
風雅とは、この不易と流行のバランスであると、芭蕉は表現したのです。素晴らしいですね!
旅人の考え出した新たなスタイルも、 「令和」 という元号の制定も、ともに古き伝統を受け継いだ上で画期的な変化をもたらしたと、私は受け止めています。
時代とともにカタチは変えつつ、心は継承していく――
ここに、変化の激しい現代を生き抜いていくための叡知が、詰まっているのではないでしょうか。
ところで、一年のうちで最も寒い時期に咲く梅を、春の季語にした日本人の感性って、素敵だと思いませんか? 夜明け前が一番暗いのと同じで、最も寒い時期に咲く梅の花を見ると、春の訪れがもう目の前に来ていることを感じる。
つまり幸せから一番遠いように見える所に、幸せの予感が宿っている。
そう感じとってきたのが日本人なんですね。
いま幸せでないと感じている方がもしいらしたら、私はこう言ってあげたい。
「幸せは、もう始まっていますよ」
令和の時代が、皆様にとって益々ステキな時代となりますように!!
(白駒妃登美)
2019年NHK大河ドラマ『いだてん』の主人公は、日本のマラソンの父と称えられる、金栗四三(かなくりしそう)です。おそらくドラマでは放送されないであろう、素敵な後日談をお伝えしますね。
金栗さんは、1912年のストックホルム大会から24年のパリ大会まで、オリンピックに3回出場し、生涯に世界記録を3度も更新しました。西洋人との体格差が歴然としていた明治・大正期に、陸上競技で金栗さんのような世界的なアスリートが存在したことは、驚きに値しますね。ただ金栗さんにとって不運だったのは、金メダル間違いなしと言われた1916年のベルリン大会が、第一次世界大戦で中止になってしまったことです。結局、金栗さんはオリンピックでメダルを獲得することはできませんでした。
けれども金栗さんは、メダルを超えた素晴らしい記録を持っていらっしゃるのです。それは最初に出場した、ストックホルム大会でのこと。開催地まで船とシベリア鉄道を経由しての過酷な長距離移動、さらに現地は「白夜」で夜中も日が沈まないため十分な睡眠がとれず、体調管理に苦労しました。その上、当日は最高気温40℃という酷暑で、参加者68名の約半数が途中棄権。その中には、レース中に倒れ、翌日死亡した選手もいたほどです。金栗さんも26~27キロ付近で意識不明となり、スウェーデンの新聞は「消えた日本人」と大騒ぎします。実は金栗さんは、近くの農家に保護されていました。翌日目覚めた金栗さんは、レースを諦めそのまま宿舎に戻り、帰国。
それから50年後、スウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」の謎を解明するため来日し、金栗さんを取材すると、それがスウェーデンの新聞やテレビで大きく報じられました。さらに5年経った昭和42年、75才の金栗さんのもとにスウェーデンオリンピック委員会から、「オリンピック55周年記念祝賀行事」への招待状が届きます。金栗さんはレースを放棄するという意思を伝えていなかったため、「競技中に失踪し行方不明」となっていたんですね。五輪記念陸上競技場を訪れた金栗さんは、大観衆の中で10メートルほど走り、用意されたゴールテープを笑顔で切りました。その瞬間、こんなアナウンスが流れました。
「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8ヵ月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」
これに対して金栗さんは、「長い道のりでした。この間に嫁をめとり、子ども6 人と孫が10 人できました」と答え、会場は大きな感動の拍手と歓声で包まれたそうです。
これは、オリンピック史上最も遅いマラソン記録とされています。でもその半世紀に及ぶ時間は、実に濃密ですよね。金栗さんが「自分を介抱してくれた地元の方々に感謝し、長年に渡って交流を続けてきた時間」であり、「途中リタイアというオリンピックでの悔しさをバネに、日本のマラソン界発展に尽くした時間」でもあるのですから。
今やお正月の風物詩となった箱根駅伝も、金栗さんの発案によるものであることを、付け加えておきますね。
(白駒妃登美)
よく「小京都」という言葉を耳にしますが、「小京都」と認定された町が全国にどれだけあるか、ご存知ですか? あっ、それよりも「小京都」って、認定制なのか…と、驚かれた方もいらっしゃるかもしれませんね。
昭和60年以降、「全国京都会議」が開かれるようになり、小京都として知られた町が、相互に連携を図るようになりましたが、実は全国京都会議に参加するには、いくつかの認定条件があります。
①京都に似た自然景観や町並み、たたずまいがあること
②京都と歴史的な繋がりあること
③伝統的な産業や芸能があること、
が挙げられます。昭和60年の全国京都会議発足時には26都市でしたが、その後、認定都市が増え、今では45都市を数えます。
きっとあなたが暮らす町の近くにも「小京都」が存在すると思うので、興味のある方は、ぜひ調べてみてください。このコラムでは、「小京都」にちなむ私の思い出をお伝えしたいのです。
それは、大学の一般教養の歴史の授業でした。その日のテーマは、「応仁の乱」。
応仁の乱といえば、室町幕府の実力者たちが二手に分かれて長年戦い、京の都が焼け野原になった、大変な戦乱です。その後およそ一世紀、戦国時代が続き、混乱を極めました。誰が見ても悲惨な歴史ですが、そのとき先生がこうおっしゃったんですね。
「歴史には、常に光と影がある。こんなに悲惨な歴史でも、悪いことだけじゃなかった」
えっ、応仁の乱が、何かいいことをもたらしたの? と、私は次の言葉を待ちました。
実は、京の都が焼き尽くされると、暮らしが成り立たなくなった公家たちが全国に散らばっていったんです。そして、その公家たちが、各地で都の文化を再現していきました。
その結果、応仁の乱以前は、京の都だけが文化水準が飛び抜けて高く、それ以外の地方との格差が大きかったのが、応仁の乱をきっかけに各地に小京都が生まれ、国全体の文化水準が高まったと、先生はそんなお話をしてくださいました。
この授業の衝撃を、私は30年以上経った今も、鮮明に覚えています。「小京都」の歴史的背景を理解した、なんていう生易しいものではありません。はっきり言って、人生観が大きく変わったのです。
マイナスにしか受け取れないような出来事が起きても、100%悪いというものはなく、何か良いことの種が必ずどこかに潜んでいるのだと、気づかされたのですから…。
歴史には光と影がある。私たちの人生も同じ。ならば、その両面を踏まえた上で、前を向いて歩いて行こう!
(白駒妃登美)
メジャーリーグ1年目で大活躍をした大谷翔平選手。 ホームランやヒットを打ってベンチに帰ってきたときに大谷選手が見せる「お辞儀」姿に世界が注目しました。
文化の違いによっては、お辞儀とは屈辱的な仕草とも取られる中で、大谷選手のお辞儀は「素晴らしい」「相手への敬意を感じる」など、好意的な印象をもって受け取られていました。
大谷選手のお辞儀は、なぜ多くの人の心を揺さぶったのでしょうか。
海外での武道の試合で、試合前の礼(お辞儀)をする時に、お互いの目線を外さずに礼をする姿を見たことがあるかもしれません。 また、最近では日本人同士の挨拶でも多くなっていると聞きます。
しかし、目線を外さないお辞儀に、何か違和感を感じる人も多いでしょう。いつ何時何があるか分からない戦国の世では、例え親しい者に対してとはいえ、目線を外すということは無条件に首を差し出すことと同じでした。普通ならそんなことは怖くて出来ません。
ですから、目線を外したお辞儀をすると言うことは、相手に対して敵意がないことや、服従を示す行為であるとされたのです。武道の試合前に目線を外さない礼をするということは、間違ってはいないのです。
ところが、戦いの最中にあっても正々堂々とした戦いに挑むべく、「私はあなたを信じ切る」という覚悟を持って、目線を外して礼をされたらどう感じるでしょうか。
全身全霊を賭けたその振る舞いに圧倒され、人間としての大きさを感じずにはいられないと思うのです。
「たとえ敵であったとしても、この人は信用できる」と感じるはずです。
お辞儀とは鏡のようなものです。 その振る舞いに私たちの心の中が素直に映し出されます。
自分を信じ切れるか。
相手を信じ切れるか。
お辞儀という些細な振る舞いの中に、その人の全てが顕れるのです。
( 富田欣和 )
「ゆるキャラ」が大人気の昨今ですが、実は、江戸時代にも、ゆるキャラのような可愛らしい絵を描いていた方がいらっしゃいました。
その人の名は、仙厓義梵(やまがいぎぼん)。
江戸時代中期に美濃の国(現在の岐阜県南部)に生まれ、11歳のとき臨済宗清泰寺(せいたいじ)(現美濃市)で得度、各地で修行を重ねた後、九州・博多にある聖福寺(しょうふくじ)に招かれ、40歳で第123世住職となりました。博多では親しみを込めて、「仙厓さん」という通称で呼ばれているので、ここからは仙厓さんと呼ばせていただきますね。
仙厓さんが住職を務めた聖福寺は、臨済宗(りんざいしゅう)の開祖・栄西(えいさい)によって創建された日本最古の禅寺で、お寺の山門には、後鳥羽上皇の宸筆(しんぴつ)であると伝わる「扶桑最初禅窟(ふそうさいしょぜんくつ)」の文字が刻まれています。
「扶桑」は、「日本」のことを意味するので、「日本で最初の禅寺ですよ」という意味です。
ちなみに仙涯さんは、禅僧として最高の位に与えられる紫衣(しえ:紫のころも)を受けるように3回勧められ、3回とも断っています。
そんな世俗の権威よりも、日本で初めてできた禅宗寺院の聖福寺の和尚であることに誇りを持っていたようで、仙厓さんの絵を見ると、「扶桑最初禅窟仙厓」とサインしたものが沢山あるのです。
これらは、仙涯さんの反骨精神を示すとともに、禅の高僧でありながら、民とともに生きることを選んだ仙涯さんの生きざまを象徴しているようで、とても興味深いですね。
仙厓さんは、聖福寺の住職を23年務めた後、同寺の中にある虚白院(きょはくいん)という終の棲家(ついのすみか)に移り、壮年期から描き始めたといわれる絵に傾注し、画僧としての活動を活発化させていったそうです。
60代を過ぎても自問自答を繰り返し、絵を通してどんどん悟りを深めていくんですね。
悟りを深めるための修行を、悟後(ごご)の修行といいますが、仙厓さんにとって、それがまさに書や絵画だったのだと思います。
仙厓さんの描く絵は、どれもユーモラスで愛らしいのですが、その自由で何ものにもとらわれない絵に言葉を添えて、実にシンプルに禅の教えの真髄を庶民にわかりやすく伝えてくれています。
深い学識や修行で体得した孤高の境地を、市井(しせい)の人々に分かりやすく伝えた、仙涯さんの人生は、ほぼ同じ時代を生きた良寛さんの姿と重なります。
どちらも自分の絵や書、歌で、また、それ以上に本人の生き方で周囲を教化した、愛の人でした。
最後に、仙涯さんが残した素敵な言葉をご紹介しますね。
60歳は人生の花。70歳で迎えがきたら留守だと言え。80歳で迎えがきたらまだ早すぎると言え。90歳で迎えがきたらそう急ぐなと言え。100歳で迎えがきたらぼつぼつ考えようと言え。
年齢を重ねることを恐れず、仙涯さんのように、のんびりと朗らかに楽しく毎日を過ごせたら素敵ですよね。
「禅の教え」と聞くと、少し難しい印象を持たれる方も多いかと思いますが、ゆるキャラの可愛らしい挿絵がついていれば、挑戦してみようかな・・・と思えてきますね♪
多くの人が持つ禅への苦手意識を少しでも和らげようとしてくださった仙涯さんの優しさがあふれる素敵な作品を、是非、皆さんも一度 ご覧になってみてくださいね♪
( 白駒妃登美 )
ワールドカップ2018ロシア大会。日本は、待望の決勝トーナメント進出を果たしました。いよいよベスト8をかけ、ベルギーと対戦。
今回の和ごころコラムは、大正から平成にかけて、両国の間で紡がれた絆の物語をご紹介します。実はこの話、先月発売された新刊『誰も知らない偉人伝』に詳しく綴らせていただきました。新刊もあわせてお読みいただけたら嬉しいです(*^^*)
1923(大正12)年 9月 1日 午前11時58分、関東大震災発生。日本の首都が壊滅したという報を受けた世界各国は、すぐに日本への支援に動き出し、日本政府に対する義援金や医療物資の提供の申し出が相次ぎました。そのような中、日本中を最も驚かせ、感激させたのは、ベルギーからの真心のこもった贈り物でした。
ベルギーは日本の 12分の1 ほどの面積しか持たず、しかも、直前の第一次世界大戦(1914~1918年)でドイツに占領され、ようやく独立を回復したばかり。決して国家財政に余裕があったわけではありません。
そんなヨーロッパの小国・ベルギーが、地震発生からわずか11日後に10万フラン(約1万3000円)の電報為替を送ってきてくれたのです。ベルギーからの送金は、以後も継続的に行われ、最終的に 264万フラン(約35万円)になりました。
これは、アメリカの2000万円、イギリスの400万円に次ぐ金額でした。
以下は、ベルギー国内での日本救済への流れです。
9月3日になって震災の報せを受けたべルギー本国では、5日には 『日本人罹災者救済べルギー国内委員会』 が結成され、活動を開始。各地でコンサート・講演会・バザーなどが催されるとともに、『日本の日』と名づけられたイベントが開催されました。
この時べルギー国内で配布された『元兵士へ』と題する日本への支援を訴えた文書は、多くのベルギー国民の胸をうち、彼らの心を動かしたのです。
9年前の第一次世界大戦――。ベルギーは、フランスを攻めるために領内に侵入してきたドイツ軍に、その国土を蹂躙(じゅうりん)されていました。永世中立を標榜するベルギーでしたが、国家存亡の危機に瀕し、君民一致して立ち上がり勇敢に戦いました。
けれども軍事力で圧倒的優位を誇るドイツ軍の前に、首都ブリュッセルは陥落。国王・アルベール 1世はフランスのル・アーブルに亡命し、多くのベルギー人が難民となりました。
その悲惨な状況が日本で報道されると、日本人はベルギー国民に深い同情を寄せ、彼らに対する支援活動を始めたのです。
1915年1月、朝日新聞社長・村山龍平は、亡命中のアルベール 1世に日本人の魂を届けようと、愛蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の同社特派員を通じて献上しました。これは、“備前長船(びぜんおさふね)”と呼ばれる名刀で、織田信長の所持品と伝えられています。
この後も、ベルギーには、日本から義援金や多くの救援物資が届き、兵士や一般市民の心と生活を潤(うるお)しました。
『元兵士へ』は、以下のように綴られていました。
「わが勇敢なる戦士たちは、日本人たちによって兵士に送られ、日本郵船会社によってル・アーブルまで無料で運ばれてきたタバコやお茶・鉛筆・薬品などへの感謝の思いを忘れていないはずだ。その贈り物には、心のこもった言葉が添えられていた……。“私たちは戦争が始まってからベルギー軍が示した3つの徳、すなわち忠誠・勇敢・名誉を示す『忠勇義烈(ちゅうゆうぎれつ)』という名のこの小さな鉛筆をお贈りすることを幸せに思います」
そして『元兵士へ』は、「この時の恩義を今こそ日本に返そうではないか」と締めくくられていました。その結果が、35万円の義援金だったのです。
1921(大正10)年3月、後に昭和天皇となる皇太子・裕仁(ひろひと)親王は、皇室史上初の皇太子洋行となるヨーロッパ歴訪の旅に出発しました。当初は、英仏2ヵ国の訪問が予定されていましたが、裕仁親王自らのご希望で、ベルギー・オランダ・イタリアの追加訪問が実現します。
ベルギーに到着した裕仁親王は、アルベール 1世・ブラバン皇太子とともに閲兵式に臨み、晩餐会・歓迎会・戦跡視察・博物館の見学など、公式行事をこなしていきました。
そしてフランスへの移動日――。裕仁親王が公務の合間を縫ってプライベートで訪れた場所は、ブリュッセル郊外のルーヴァン大学でした。ルーヴァン大学は、第一次大戦で被災して、建物の一部や蔵書のほとんどを失っていたのです。
日本の皇太子の訪問が、単なる見学ではなく、文明破壊に対する弔問の意味があると知った市民や学生らは、大いに感激し、熱烈な歓迎の意を示したそうです。
その昭和天皇が崩御され、大喪の礼が行われた際、欧州の王室でトップを切って出席を表明したのが、ベルギーのボードワン国王でした。1993(平成5)年、ボードワン国王が亡くなると、その葬儀に、今上陛下・美智子皇后が出席されています。皇室史上、天皇が外国王室の葬儀に出席したのは、これが初めてのことでした。
地理的には遠く離れたベルギーと日本。その両国の間には、それぞれの皇室と王室を通じての心温まる交流が、そして国民同士の深い理解と共感の歴史があったのですね。
日本vsベルギーの一戦を見守りながら、かつてお互いに交わした“真心のこもった贈り物”があったことに、ぜひ思いを馳せてみてください。勝敗を超えたもっと大切なものが、見つかるかもしれませんね。
( 白駒妃登美 )
サッカーワールドカップ2018! 決勝トーナメント進出をかけて、いよいよ日本は強豪ポーランドと対戦します。
実は、ポーランドは、ヨーロッパでも屈指の親日国。ワルシャワ大学には、世界でも珍しい「日本学科(日本語学科ではなく、日本学科です!)」が存在し、倍率はおよそ30倍という人気を博しています。
なぜポーランドは、これほどまでに親日なのでしょうか。
ポーランド国民の誇り・ショパンを、世界中のどの民族よりも愛した日本人に、ポーランドの人々は特別な親しみを抱いてくれています。日本製品に対する絶大な信頼が、日本人への敬意に繋がっています。第二次大戦下、多くのポーランド系ユダヤ人に命のビザを発給した杉原千畝(ちうね)さんへの感謝も、ポーランドと日本の絆を強めました。
でも、もっと大きな理由が存在します。その理由を知ってからワールドカップを観戦すれば、観戦が何倍も感動的なものになると思いますよ(*^^*)
【惻隠の情】
今からおよそ100年前の1918年、第一次世界大戦が終結し、ポーランドはロシアから念願の独立を果たしました。それまで、長年ロシアの支配を受けてきたポーランドでは、独立を求めてロシアに対して立ち上がった若者たちが、ロシア軍に鎮圧され、シベリアで強制労働に従事させられました。彼らを追って、恋人や家族もシベリアへ…。そのために、当時のシベリアには、十数万人ものポーランド人が生活していたと言われています。
しかし、シベリアは、極寒の地。冬場ともなれば、マイナス20度、30度は当たり前です。厳しい自然環境の中で、彼らは常に飢えと病気の脅威にさらされていました。大人でも生きていくのが大変なのに、中には、親を失って孤児となった子どもたちも数多くいました。その子たちは、この世の終わりとも思えるような、悲惨な状態に置かれていたのです。
「この子たちを、故国ポーランドに送り届けたい」
そう願う人々の手によって、1919年、ポーランド救済委員会が組織されました。子どもたちをシベリアからポーランドに送り届けるには、シベリア鉄道を使うのが近道です。
ところが、翌1919年、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まってしまいました。シベリア鉄道はロシアの所有ですから、そのロシアと戦争になってしまった以上、孤児たちがシベリア鉄道に乗ることはできません。シベリアから東へ、東へと向かい、地球をぐるっとめぐって、ポーランドを目指すしかないのです。
大国・ロシアと交戦中のポーランドには、余力はありません。そこで、救済委員会は、欧米諸国に孤児たちの救済を依頼しましたが、第一次世界大戦が終わったばかりで混乱と緊張が続くなか、各国の反応は実に冷たいものでした。そのような状況のもと、ポーランドの人々が最後の望みを託したのが、日本だったのです。
1904年から05年にかけて行われた日露戦争において、ロシアを破った日本。小さな島国が、10倍以上の国力を誇るロシアに勝利したのです。その日本の存在は、ロシアに苦しめられてきた人々にとって、大きな希望でした。この子たちは、ロシアによって長年苦しめられてきた。そのロシアを破った日本なら、この子たちに救いの手を差し伸べてくれるかもしれない……。
その祈りにも似た願いが、外務省を通して、日本赤十字社にもたらされると、日本赤十字社は、ポーランドの救済委員会に対して、即答しました。
「YES!」 日本赤十字社は、世界情勢よりも、人道的な支援を、つまり思いやりの心を、優先したのです。
1920年から22年にかけて、あわせて765人の子どもたちが、はるかシベリアから日本へやって来ました。シベリアから日本までは、長い船旅です。船の中の子どもたちは、まだ見ぬ日本に対して、期待よりも不安を抱いていたでしょう。言葉も文化も違う日本で、どんな生活が待っているのか、そして自分たちはどんな扱いを受けるのか…。
そんな彼らを待っていたのは……、日本人の溢れる善意でした。多くの人々から義援金が寄せられ、また、衣類やお菓子、おもちゃや人形も届けられました。歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たちや、歌や音楽で傷ついた子どもたちの心を慰めようとする人たちが、後を絶ちませんでした。
そして、大人に連れられ、お見舞いに訪れた日本人の子どもたち。その様子を、ポーランドの孤児の一人は、次のように語っています。
「日本の子どもたちは、私たちが寂しがらないよう、一緒に遊んでくれました。それがとても楽しくて、仲良く遊んでいる間は両親のことも思い出さないほどでした」
楽しい時間は、あっという間に過ぎていきます。別れに際し、日本の子どもたちは、自分が着ていたチョッキやお気に入りの髪飾りを、そして大好きなおもちゃや人形を、迷わずポーランドの子どもたちに手渡したといいます。
これは、大正時代のお話です。今のように物が豊かだった時代ではありません。それでも、日本人の心は、こんなにも豊かだったんですね。
日本人が、古くから大切にしてきたものの中に、「惻隠(そくいん)の情(じょう)」があります。
しばしば「思いやりの心」と訳されますが、惻隠の情と思いやりの心は、まったく同じというわけではありません。思いやりの心を持つことは、もちろん大事ですが、困っている人を見たら、放っておけない、つい手を差し伸べてしまった…。そんな、やむにやまれぬ思いが、「惻隠の情」なのです。
先人たちが大切には育んできた美徳を、当時は、幼い子どもたちまで共有していたのでしょうね。
看護師をしていた松澤フミさんという若い女性は、腸チフスにかかった子どものそばを、片時も離れませんでした。当時、腸チフスは、罹(かか)ったら最後、十中八九、死に至ると言われていました。
「この子は、もう助からない。それなら、せめて私の胸の中で死なせてあげたい」
と、フミさんは言っていたそうです。
彼女の献身的な看護を受け、その子は奇跡的に回復しました。でも…。松澤フミさんは、この時の看病がもとで、腸チフスに感染し、亡くなったのです。
また、こんなポーランドの女の子の回想もあります。
「ひどい皮膚病にかかっていた私は、全身に薬を塗られ、ミイラのように白い布に包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると、布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」
日本に到着した時、子どもたちは、みな青白く痩せこけていました。内臓の病気や皮膚病を患(わずら)っていたり、栄養失調になっていたり…。
そんな彼らが、ひと夏を日本で過ごし、人々の愛情に包まれ、まるで別人のように元気をみなぎらせていったのです。しかし、それは同時に、子どもたちが故国ポーランドに帰る日が近づいていることを意味していました。
「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に……」
子どもたちは、そんなふうに感じてくれていたそうです。
そして、お別れの日。送られるポーランドの子どもたちも、見送る日本人も、涙、涙、涙……。765名に及ぶポーランドの子どもたちは、故国ポーランドに向けて、順次旅立って行きました。
子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、ひとりひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫(な)で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。「もしお父さんが生きていれば、お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ」と、薄眼(うすめ)を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。
この子たちは、帰国後、孤児院に収容され、それぞれの人生をたくましく生き抜いていくことになります。たったひと夏の経験でしたが、日本人から受けた愛情が、彼らの生きる力になったことでしょう。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ」
こう述べたのは、大正10(1920)年から昭和2(1927)年まで駐日フランス大使を務め、詩人としても著名なポール・クローデルです。クローデルの言葉は、以下のように続きます。
「世界でただ一つ、どうしても生き残ってほしい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ」
そう、私たちのご先祖さまは、こんなにもかっこよかったのです。世界から賞賛された“美しい生き方”、そしてそのベースとなる心の豊かさこそが、私たちがご先祖さまから受け継いだ最大の財産なのかもしれませんね。
【真の優しさは強さの中に…】
1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことに始まった、第二次世界大戦。ポーランドの青年たちは、ナチス・ドイツに対して、立ち上がりました。
リーダーとなった青年の名は、イエジ・エトシャウコフスキー。彼を中心とした一団は、イエジの名をとって、「イエジキ部隊」(イエジの子どもたち)と呼ばれました。
イエジキ部隊は、もともと彼らが面倒をみてきた孤児たちや、新たにナチス・ドイツの侵攻で親を失った戦災孤児たちも続々と参加し、やがて1万名を数える大きな組織になりました。
これをナチス当局が放っておくはずがありません。ある日、イエジキ部隊が隠れ家として使っていた孤児院に、ドイツ兵が押し入り、強制捜査を始めたのです。
このとき、イエジ青年が助けを求めたのは、日本大使館でした。急報を受けて駆けつけた日本大使館の井上(いのうえ) 益太郎(ますたろう)書記官は、ドイツ兵に対してひるむことなく、きっぱりと言い放ちました。「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院です。同盟国ドイツ軍といえども、勝手な捜査は認められません。子どもたちに謝罪してください」
しかし、ドイツ兵も簡単には引き下がりません。「われわれは信頼に足る情報に基づいて捜査を行なっている。たとえ日本国大使館の申し出であっても、容認はできない。お引き取りください」
すると、井上書記官は、イエジたちに言いました。「君たち、このドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しとして、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
イエジたちが日本語で 「君が代」、そして「さくら」を大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気(あっけ)にとられ、渋々立ち去りました。ドイツ兵は、日本がこの孤児院を保護しているのは、どうやら本当のことだと感じ、同盟国である日本への配慮から、手を出さなかったのでしょう。
さて、ここで注目すべきは、なぜ、イエジたちは、「君が代」や「さくら」を歌えたのか、です。実はイエジたちは、日本赤十字社によってシベリアから救出され、つかのま日本で生活した、あの子どもたちだったのです。
それにしても、彼らがシベリアから救出されてから、20年近くが経っています。それでも、彼らがこの時に日本の歌を歌えたのは、およそ20年という長い間、彼らが日本の歌を歌い継いでくれていたからです。
きっと彼らは、日本の思い出を忘れたくなかったのでしょう。彼らの日本での思い出の象徴が、「君が代」であり、「さくら」だったのではないでしょうか。
優しいこころは、相手のこころの一番深いところに響くのです。それは、10年経っても、20年経っても、消えることはない、それどころか、時間が経てば経つほど、優しさは響きわたり、深みを増していくのだと思います。
ふとした時に示した優しさが、これほどまでに誰かの人生に影響を与えるんですね。私たちのなにげない言葉や振る舞いが、相手の心に深い傷を残すこともあれば、相手に勇気や希望を与えることもある。願わくば、それが相手の勇気や希望となりますように…、そんな思いで毎日を過ごしたいですね。
日本での思い出を大切にしてくれた、ポーランドの子どもたち。そんな彼らを信頼し、変わらぬ友情を持ち続けたポーランドの日本大使館の人々も、素敵だなぁと思います。
当時、日本はドイツと同盟を結んでいました。その同盟国であるドイツに遠慮することなく、毅然とした態度を貫き、イエジたちとの絆を優先したのです。
そこには、自分にとって大切な人たちを絶対に守るんだという強さと、国も民族も超えた、人としての優しさが溢れています。本当の優しさは、強さに支えられているんですね。優しさを貫くための強さを、私たちも自分の中に育てていきたいですね。
【日本人ブランド】
1995(平成7)年1月17日、午前5時46分、関西地方を大地震が襲いました。阪神淡路大震災です。あまりの被害の甚大さに、日本ばかりか世界中に衝撃が走りました。そうした中で、地震発生の翌日に、いち早く救済活動を始めてくれた国の一つが、ポーランドでした。ポーランドの人々は、日本のために祈りを捧げ、義援金を募るイベントも、各地で開催してくれたのです。
そして、この年の夏、震災で被災した日本人の子どもたち約30名が、ポーランドに招かれました。震災で傷ついた子どもたちの心を癒すために、ポーランド各地での交流やホームステイが行なわれ、また、寄付や協力の申し出も相次いだそうです。
ポーランドの人々は、日本の歌とともに、70年以上もの間、日本がポーランドの孤児たちを救済したという事実を、大きな感動と尊敬とともに、語り継いでくれていたのです。
ポーランドによる被災児の招待は、翌夏も行なわれました。この2度目の訪問も終わりに近づき、子どもたちが日本に帰国する日が迫った際に、お別れパーティーが催(もよお)されたのですが、そこに、歩行もままならないご高齢の方々4名が駆けつけ、子どもたちを感激させました。
75年前の自分たちと同じような立場に立たされた子どもたちに、「かつて自分たちがどのように助けられたか。日本の人々にどんなに親切にされたかを話して、子どもたちに生きる勇気を与えたい」そんな溢れる愛をもって、かつてのポーランド孤児たちが、高齢や病気をおして各地から集まってくれたのです。
それから6年の月日が流れた2002(平成14) 年、天皇・皇后両陛下が、ポーランド・チェコ・ハンガリー・オーストリアの中東欧4ヵ国を、初めて公式訪問されました。この両陛下のご訪問を、ポーランドのマスコミは連日取り上げました。マスコミも含めたポーランド国民の歓迎ぶりは、両陛下に随行した宮内庁の職員を驚かせるほどだったといいます。ポーランドの人々は、日本への感謝の思いを、ずっとずっと伝え続けてくれていたんですね。
このときの天皇・皇后両陛下のポーランドご訪問に際し、ある老婦人が、謁見(えっけん)を許されました。アントニーナ・リロさん、85歳。彼女は、1999(平成11)年にポーランドの舞踊合唱団が来日した際に、こんなメッセージを託したことでも知られています。
「20世紀の初め、私たちポーランド人孤児は日本のみなさんに救われました。シベリアの劣悪な環境から救い出し、日本を経て祖国に送り届けてくれました。私たちは親切にしていただいたことを決して忘れません。このたびの合唱団は、私たちの感謝に満ちた思いを、みなさんに届けてくれるでしょう。日本のみなさん、ありがとう」
アントニーナさんがシベリアから救出されたのは、わずか3歳のときでした。子どもたちのもとに慰問(いもん)に訪れた大正天皇のお后(きさき)である貞明(ていめい)皇后が、最年少だったリロさんをひざの上に抱いて、髪をなでながら優しく語りかけ、励ましてくれたのだそうです。
その遠い記憶が、彼女の親代わりになっていたのかもしれません。80余年の時を超えて、かすかに覚えている貞明皇后のぬくもりを確かめるかのように、彼女は、美智子皇后の手をずっと握りしめていたそうです。
アントニーナさんは、かつてポーランドに招かれた阪神淡路の震災孤児たちが10年後に再訪を果たした時にも、ポーランド大使館に足を運び、立派な青年となった彼らと再会して、思い出を語り合いました。
そして2006(平成18)年、彼女はポーランド孤児の最後のひとりとして、90歳の生涯を閉じたのです。そのアントニーナさんが、亡くなる前に遺した言葉が伝わっています。
「日本は天国のようなところだった」
私は、航空会社に勤務していた頃、仕事や旅行で海外のさまざまな町を訪れましたが、そのたびに、“日本人ブランド” を感じていました。「日本人だから」 という理由だけで、信用してもらえたり、とても親切にしてもらえたんです。
それは、先人たちの素晴らしい生き方に、世界中の人々が共感してくれていることからきていたと思います。敗戦後、日本がまたたく間に復興できたのも、日本人の努力や能力以上に、日本人ブランドが世界に愛されていたからではないでしょうか。
究極のブランドとは、何を身につけるかではなく、その人の生き方そのものなんですね。何を大切に思い、そのために、どう行動するのか? そこに共感が生まれるとき、あなたの生き方が、本物のブランドになるのです。
そして私は、「日本は天国のようなところだった」というアントニーナさんの言葉が、私たち日本人の果たすべき役割を象徴していると思います。
物が豊かでも、それを人々が奪い合って生きていけば、この世は地獄です。逆に、たとえ物は乏しくても、人々が与え合い、助け合い、支え合い、思いやりの心を持って生きていけば、天国のような世の中が実現するのです。
「ねっ、こうやって生きれば、この世が天国になるでしょ!?」
と、天国のモデルケースを示していくことが、私たち日本人の果たすべき役割なのではないでしょうか。
特別なことをする必要なんて、ないのです。先人たちがしてきたように、大切な人、大好きな人を笑顔にするために、一日一日を、心をこめて丁寧に生きる。勇気と誇りを持って、この世を天国に変える小さな一歩を、踏み出していきましょう。
( 白駒妃登美 )
(2012年5月30日のブログ記事より)
先日から、金沢&富山の旅について書かせていただいていますが、今日はその最終回。
富山市の郊外にある浮田家(うきたけ)住宅についてレポートさせていただきますね
浮田家というのは、古くからこの地に土着した豪農として知られていますが、「浮田」 という姓は、もともと富山にはなかったのだそうです。
江戸時代の初めに、ある男の子を前田家から預かることになり、その時に 「浮田」 姓を名乗るようになった…というのが、浮田家の家系伝説です。
その後、浮田家は、立山、黒部の藩境の警備 (この辺りには鉱山があり、鉱物資源を他藩に奪われないように警備していました) や山林の保護などを行う奥山廻役を歴任しました。
そして、農民でありながら500石の格式を許され、代官職を兼ねるようになると3000石の格式となりました。
その大邸宅が、重要文化財として保護されていて、お邸の内外を見学することができるのです
こちらが、浮田家住宅の外観です
この建物の外側には、3000石の格式にふさわしい、立派で重厚な門があります。
新緑と木造の大邸宅のコントラストが、美しかったなぁ
それにしても、いくら豪農とはいえ、これだけの格式の高さと大邸宅を与えられた浮田家って、いったい…?
ここから先は、史実かどうかはわかりませんが、浮田家に伝わる家系伝説をご紹介しますね
関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多 秀家公は、戦場を脱出し、伊吹山方面に逃れました。
戦いに勝利した家康は、西軍諸将の首を持ってきた者には、莫大な恩賞を与えると近郊の村々にお触れを出したので、腕に自信のある者たちが、伊吹山の山中にも多数入っていったのです。
その落ち武者狩りのリーダーの一人が、矢野 五郎右衛門でした。
関ヶ原の戦いから二日が経ちました。
五郎右衛門は、ついに、探し求めていた武将に出くわしました。
衣服は汚れてはいるものの、そのしつらえは見事
表情は疲れきっていましたが、その顔からは、えも言えぬ気品が感じられ、ひと目見ただけで、身分の高い武将であることがわかりました。
ところが、五郎右衛門に気づいた武将は、こともあろうか、「私は宇喜多秀家である。」 と名乗ったではありませんか…
宇喜多秀家といえば、西軍の大将も同然。
もし彼が本当に秀家で、その首を家康に差し出したなら、西軍の首謀者である石田三成と並んで、最も高価な恩賞を得られるでしょう。
その人が、自ら名乗り出るということがあるのだろうか…?
五郎右衛門は、目の前の現実が理解できず、しばし呆然としてしまいました。
秀家を名乗る若武者は、言葉を続けました。
「腹も減ったし、道に迷って困っていたところだ。湯漬けなどふるまってもらえないだろうか。その後は、徳川方へ引き渡してもらってもかまわない。決してそなたを恨みはしない。」
五郎右衛門は、秀家の潔さと気品に、雷にうたれたような衝撃を覚えたのでしょう。
そして、一瞬で決断するのです。
「すべては私にお任せください」
五郎右衛門は、莫大な恩賞を棒に振ってまで、秀家を守り抜く覚悟を決めたのでした
五郎右衛門は、40日間にもわたって、秀家を自宅裏の穴倉に匿い続け、ついに大阪・備前島にある宇喜多屋敷に送り届けました。
ここで、秀家と豪姫は、つかの間でしたが、一緒に過ごすことができました。
そしてこれが、二人の今生の別れとなったのです
その後、秀家は、島津家を頼って薩摩に落ち延びていきましたが、数年後、ついに家康の知れるところとなり、八丈島に島流しにされるのです。
さて、浮田家の家系伝説では…
備前島の宇喜多屋敷で、夫婦がつかの間の再会を果たした時に、豪姫が身ごもり、加賀に戻ってから男の子を産んだ、と。
前田家は、その子を領内の豪農に預け、浮田姓を名乗らせた、と。
この子が秀家公の息子とわかれば、当然この子も八丈島に島流しにされるので、「宇喜多」 姓ではなく、同じ音の 「浮田」 を名乗らせたというのです。
正直、この話が史実かどうかはわかりません。
でも、この話がもし史実だとしたら…
いや、史実であってほしい…
そんな気持ちになりました
もし史実なら、豪姫は、たまには息子に会えたかもしれません。
もしそうなら、彼女の悲しみが少しだけ癒えたのではないかしら
そして、前田家の想いを想像すると、胸がいっぱいになるんですね。
戦争犯罪人となって島流しにされた秀家公の子孫が、その後も大切に養育されるように環境をととのえ、前田家として出来うるかぎりの収入と格式を与えていったのです。
ここに、前田家の誇り高い生き方が表れているような気がします
かつて秀吉は、諸侯の中で前田家を最も大切に扱いました。
伝説となった醍醐の花見の時にも、前田家を別格の扱いにし、愛する息子の守り役にも、前田家を指名しました。
秀吉存命のうちは、前田家は、決して徳川の下風に立つことはなかったのです。
それが、関ヶ原の戦いで、天下は徳川家の手中に…。
前田家は、臣下の礼をとりましたが、反徳川の象徴とも言うべき宇喜多秀家の子孫に対して、徳川の目をくらませながら、ここまでのことをした…。
もちろん、これは前田家の優しさでもあるのですが、それだけではない、徳川に屈しない誇り高き生き方が、秘められていたのではないか…
そんな気がしました
前田家というのは、日本の歴史が生んだ傑作だと思いました
優しさ、強さ、おおらかさ、誇り…
日本人のベースにあるこれらの要素を、歴史の中で体現してくれた前田家
私も、前田家のいい意味での 「したたかさ」 を、見習っていこうと思いました
( 白駒妃登美 )
(2012年5月28日のブログ記事より)
前回のコラムで、お知らせさせて頂いていた、金沢紀行の続きをお伝えします。
これが、私がどうしてもお会いしたかった、肖像画の中の豪姫さん♡
400年前に描かれた本物の肖像画は宇喜多家のご子孫がお持ちで、こちらはその写しなのですが、400年という時間の流れを感じさせないぐらい、色鮮やかで…、それなのに、本当に、おでこのところだけ色がぬけているんです。
母と500キロも離れてしまった幼い息子ふたりが、「母上、母上…」 って、来る日も来る日も、肖像画のおでこのあたりを撫でていたから…。
もちろん、豪姫さんも、毎日毎日、家族の無事を願っていました。
豪姫さんが大切に拝んでいた仏像 (そんなに大きいものではないんですよ) が大蓮寺に安置されているのですが、扉を閉めると、鍵がかかるようになっているんですね。
その錠が、なんと船の形になているんです。 しかも、デッキのところに、「大悲船」 って…(;し;)
もうね、胸がはりさけそうになりました。
八丈島に250年以上にわたって送り続けられた援助物資には、どれだけの想いが込められていたんでしょうね。
そこには代々の藩主が、リレーし続けた、前田家の愛があったんですね♡
そこはかとなく優しい加賀前田家の歴史ですが、その裏には、優しさだけでなく、誇り高い生き方があった…ということを、またの機会にお伝えしますね(*^-^*)
( 白駒妃登美 )
寛永11(1634)年5月23日は、豪姫さんの命日です。私は豪姫さんが大好きで、今まで本にも書かせて頂きましたが、もうすぐ発売される『なでしこ歴史物語』でも、お母さんのおまつさんの項で豪姫さんに触れているので、皆さんにお読みいただけたら嬉しいです♪
さて、以下は2012年5月25日、豪姫さんの菩提寺である金沢の大蓮寺を訪れたときの、私のブログ記事の抜粋です。
これは、豪姫の菩提寺・大蓮寺にある宇喜多秀家と豪姫のお墓です。
本当は、八丈島と金沢、二人のお墓はおよそ500キロも離れていますが、離れ離れになってから会うことのできなかった二人のために、大蓮寺に新しくつくられたお墓だそうです♡
私が大蓮寺を訪ねた5月25日は、なんと豪姫さんの命日の2日後だったんです。 感慨深かったなぁ~♡
大蓮寺のご住職さまのお話では、秀家公は、加賀から送られてくるお米を独り占めせず、八丈島の島民たちに分け与えていたそうです。
そういう家系伝説を持つ方々が、時折八丈島から大蓮寺を訪れて、ご先祖様に代わって豪姫さんにお礼をおっしゃるんですって(*^-^*)
400年前に生きた人の溢れる愛が、今も人々の心を温かいものにしているんですね(*^-^*)
そして念願の、肖像画の中の豪姫さんに会ってきました♡
豪姫さん、いかにも百万石のお姫さまといった感じで、清楚で、たおやかで、とても美しいのですが、心の奥深くに大きな悲しみを湛えているのが伝わってきて、涙が止まりませんでした(;し;)
しかも、肖像画の中の豪姫さん、よそいきの豪華絢爛な着物ではなく、普段着をお召しになっているんですよ。
きっと、島でつつましやかな生活を送る家族に、心から愛する夫と息子たちに、ありのままの自分の姿を届けたかったんだろうなぁ♡
肖像画の写真は、大蓮寺で聞いたとっても素敵な話とともに、後日アップしますので、楽しみにしていてください♡
こちらは、大蓮寺の裏門にある、豪姫さんのレリーフです。
きっとこんなふうに、来る日も来る日も、家族の無事を祈り、「また会えますように…」 って、願っていたんでしょうね(;し;)
悲しいかな、豪姫さんの願いは届かず、家族は生きて再び会うことは出来ませんでした。
でもね・・・奇跡が起こるんです!
1997年、岡山城開城400年を迎えたこの年。岡山でそれを祝う盛大なイベントが開催されました。 岡山城を築城したのは宇喜多秀家公ですから、その秀家公が後半生を過ごした八丈島も、このイベントに参加するんです。
八丈島の人々は、生きて二度と会えなかったお二人を再び合わせてあげたい・・・と、八丈島の海岸にお二人の石像を建てたんですね。
石像は向かい合っているのではなく、並んでいます。並んだお二人の視線の先に岡山があるんですね。短くとも、幸せな結婚生活を送った岡山の地に、二人の魂は今も眠っているのかもしれません。
( 白駒妃登美 )
明治23年、西洋化にひた走った日本人が、心の根っこを見失いつつあることに、おそらく危惧を抱かれた明治天皇は「教育勅語」を発せられました。その教育勅語に込められた思いを子どもたちにわかりやすく伝えたいという主旨で「かみさまとのおやくそく」が綴られました。素晴らしい内容なので、皆様と分かち合いたいと思います。
以下より
゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
「かみさまとのおやくそく」
おおむかしに、わたしたちのそせんが、にっぽんというくにをつくったとき、こころのきれいなひとたちがすむ、りっぱなくににしようとおもいました。
そしてみんなが、そのきもちをたいせつにして、こころをひとつにしてがんばったから、いまのにほんがあるのです。
それはとてもほこらしいことです。
みなさんはおとうさん、おかあさんをたいせつにして、きょうだい、しまいはたすけあいましょう。おとうさん、おかあさんはなかよくしましょう。
ともだちはたいせつにして、いじわるをしたり、うそをいってはいけません。
いばったりじまんしたりせずに、こまっているひとがいたら、たすけてあげましょう。
べんきょうはなまけずに、いろいろなことをおぼえたり、かんがえたりして、かしこくなりましょう。
ひとのことをうらやかしがったり、ひがんだりせずに、すすんでみんなのためになることをしましょう。ずるをしたりせずに、きまりはきちんとまもりましょう。
もし、たいへんなことがおこったら、ゆうきをだしてみんなのためにがんばりましょう。
このおやくそくはむかしから、みんながだいじにしてきました。
みんながおおきくなっても、がいこくにいってもかわらないほんとうにだじなことですから、みなさんも、このおやくそくをまもって、りっぱなひとになってください。
゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
「立派な人」…。
考えさせられますね。
私は立派な大人だろうか。
そして、子どもたちにこの価値観を伝えられているだろうか…。
今からでも遅くはありませんね!
これを人生の指針にして、毎日を清々しい気持ちで生きていこう!!!
( 白駒妃登美 )
今年は、戊辰から150年という節目の年ですね。
今回は、『明治の会津人の気概』というテーマでお話しさせていただきますね。
徳川2代将軍・秀忠の息子として生まれ、会津松平家の祖となった保科正之(ほしなまさゆき)は、将軍家への忠誠心と朝廷に対する尊崇の念を、同時代の誰よりも深く抱いていました。
その思いを、江戸期を通じて会津の人々は継承し、幕末にあっても、彼らはどの藩よりも朝廷を敬っていましたが、時代のめぐりあわせの中で会津藩は朝敵となり、戊辰戦争では白虎隊の悲劇を生み、敗戦後は下北半島に移ることを余儀なくされ、窮乏の日々を送りました。
しかしこうした苦難の歴史を、会津人はただ嘆いたり恨んだりしたのではありません。
悲しみを背負った自分たちだからこそ出来ることを成し遂げ、明治日本を支えたのです。
会津藩の家老の家に生まれた山川健次郎は、東大、京大、九大の名総長として、その教育への情熱と高潔な人間性が今なお語り継がれていますが、彼の原点は郷土愛にありました。
明治の初めに米国に留学した健次郎は、朝敵の汚名を晴らし、故郷の恩に報いるために、寝る間も惜しんで勉学に励んだのです。
後に健次郎は、教育界における功績が認められ、昭和天皇の皇太子時代に教育係を務めます。
さらに会津松平家から秩父宮(ちちぶのみや)家への、勢津子(せつこ)姫のお輿入れにも尽力。
こうして健次郎は、名実ともに朝敵の汚名を晴らしていきました。
健次郎の妹・捨松(すてまつ)もまた米国留学を経験しています。
後に元帥(げんすい)陸軍大将となる大山巌(いわお)と結婚後、日本初のバザーを開き、看護学校の設立に貢献したり、ともに渡米した津田梅子を支え、女子教育の発展に尽くしました。
そして日露戦争が起こると、満州軍総司令官の夫を支え、国難を救うべく、捨松は得意の英語力を生かしていきます。
日本は自衛のためにやむなく立ち上がったこと、その苦しい状況を米国の新聞に投稿していったのです。
これが米国の世論を日本びいきに導き、多額の寄付も届きました。
戊辰戦争のとき、捨松は家族で会津若松城に立て籠もり、幼いながらも、傷病兵の世話や食事の支度、さらには“焼き玉押さえ”という不発弾の処理にあたりましたが、こういう経験が、国民の一人として、自分に与えられた場で最善を尽くすという彼女の生き方に繋がっていったのでしょう。
日露戦争の勝因の一つとして忘れてはならないのが、日英同盟の存在です。
同盟締結の立役者は、会津人・柴五郎。
幼少期に戊辰戦争を経験した彼は、「人材の宝庫だった会津がなぜ戊辰戦争に負けたのか」を分析、「情報戦に敗れた」という結論に至ります。
陸軍に進んだ五郎は同じ轍(てつ)を踏まないよう、主に諜報活動、つまり情報のプロとしての道を歩んでいくのです。
五郎が赴任した北京で、明治33(1900)年に義和団(ぎわだん)の乱が起こり、列強の進出に不満を募らす中国民衆約20万人が、北京の列国大公使館区域を包囲しました。
このとき正しい情報を入手し、落ち着いて各国の大公使や家族に的確な指示を出す五郎の姿に惚れ込んだのが、英国のマクドナルド公使でした。
彼の進言により英国は“栄誉ある孤立”を返上し、日英同盟を締結。日本は日露戦争を有利に戦うことができたのです。
最後は、松江豊寿(とよひさ)。
彼は明治の生まれですが、会津の武士道を叩き込まれて育ちました。
第一次大戦時にドイツ兵を収容した、板東俘虜収容所(ばんどうふりょ収容所)(徳島県鳴門市)の所長となった彼は、敗者であるドイツ兵の誇りを傷つけないように最大限の配慮をすべく、“武士の情け”を収容所運営の根幹に据えました。
彼の人間愛は日独両国で世紀を超えて語り継がれています。
過去と向き合い、その悲しみの歴史をも包み込み、悲哀を知るだけが持つ真の優しさと強さを発揮して命を輝かせた、明治の会津人。
歴史を忘れるのではなく、引きずるのでもなく、歴史を超えるという生き方を、私たちに示してくれています。
( 白駒妃登美 )
私は毎週『Mr.サンデー』という番組を毎週楽しみに見ています♪数年前に、その番組の感想をアップした自分のブログ記事を久しぶりに読んで、「うん!そうそう・・・」と、プチ感動したので(笑)、コラムで共有させて頂きますね。
番組によると…
京都のある大学生協が、森永の焼きプリンを20個発注するつもりが、なんと間違えて4000個も発注してしまったそうです。
生ものなので返品もできず、他大学の生協に助けを求めたところ、近隣の大学生協が引き受けてくれ、その結果、京都中の大学生協の商品棚に、プリンがズラリと並ぶことに…
発注ミスでシュンとなっている担当者を助けてあげたい…
という思いから、一人の学生さんががツイッターで情報を提供したところから、奇跡は起こりました。
プリンだらけの商品棚の写真とともに、「プリンを買ってあげて」という情報が拡散していき、なんと4000個の焼きプリンが、即日完売!!!!!!!
関西の学生さんたちなので、あまり深刻な内容でなく、笑いをとりながら情報が広がっていったところが、また素敵でした。
アナログ人間の私は、FBやブログでさえもかなりの苦手意識を持っているのですが、こんな風に善意の輪が広がっていくならネットの普及も悪くないなぁ~
誰かを傷つけることに使うのか、誰かを笑顔にしたくてネットを活用するのか…
ネットがいいとか、悪いという問題でなく、使う人の心が大事なんですね。
今どきの若者の優しさで、気持ちが温かくなった、幸せな日曜日の夜でした♪
( 白駒妃登美 )
台湾で尊敬される日本人の一人・後藤新平は、台湾総督府民政局長として各地の都市計画を担い、劣悪だった台湾の衛生環境を格段に改善しました。それからおよそ10年、関東大震災で東京は壊滅し、復興には長い歳月を要するだろうと思われました。ところが東京は瞬く間に復興を果たしました。当時、東京市長を務めていたのが後藤新平です。彼が台湾の人々を豊かにするために持てる技術のすべてを駆使してインフラを整備した経験が、関東大震災後の奇跡の復興に生かされたのです。まさに「情けは人の為ならず」ですね。
あまり知られていませんが、靖国神社や明治神宮の鳥居は、台湾の阿里山でとれた檜でできています。当時、急激な人口増加で木材が不足していた日本は、良質な木材を台湾に求めたのです。さらに大正時代には米騒動が起こるほど日本は食糧難にあえいでいましたが、台湾から蓬莱米が届くようになり、食糧難が解消されていくのです。つまり日本の台湾統治は、一方的に日本が台湾を近代化に導き、台湾はその果実を受け取ったのではなく、日台が手と手を携えてともに豊かになっていった、と言えるのではないでしょうか。
台湾の少数民族に生まれ、「キク」ちゃんという日本名を持つ女性は、日本統治時代を懐かしんでこんな話をしてくれました。ある日、小学校で日本人の男の子から「蕃人(ばんじん)」(台湾の原住民族を蔑む呼び名)とバカにされたキクちゃんは、その子と取っ組み合いの喧嘩になりました。止めに入った先生に「この子が私のことを蕃人と呼びました」と告げると、先生は男の子を懇々と諭したあと、「喧嘩両成敗だよ」と言って、キクちゃんの頭を軽くコツン、相手の男の子にはガツンとげんこつを見舞ったといいます。
日本の台湾統治は、現地の人々を奴隷のように扱った西洋の植民地支配とは一線を画すものであったということが、ここからも伺えます。ただ、全く差別がなかったわけではなく、現実には差別はあったけれども、差別の無い、崇高な社会を目指した日本人が確かに存在していたのです。過去を卑下することなく、美化や過大評価もせず、ニュートラルな歴史観を持つことで、真の誇りが芽生えてきますね。
ところで、台湾の人々の日本に対する深い思いに、多くの日本人が気づいたきっかけは、東日本大震災だったのではないでしょうか。日本赤十字社が把握しているだけで義援金は200億円を超え、支援物資は400トン以上。これは文句なく世界一の支援ですが、驚くのはまだ早く、実は、台湾から日本への支援は、日本赤十字社を通さないものがその何倍もあり、合計は天文学的数字にのぼり、計算できないとさえ言われています。台湾の近代化に功績のあった後藤新平や新渡戸稲造は、岩手県の出身ですから、「彼らの恩に報いたい」という思いも、当然そこには込められていたのでしょう。
さらに震災の起こった2011年の暮れに、台湾の新聞社がアンケートをとりました。「今年一年、あなたにとって、一番の幸せは何でしたか?」…このアンケートの1位に選ばれた答えは、「日本への義援金が世界一になったこと」。台湾の人々の深い思いには感謝しかありませんが、海を隔てた隣国同士が、これほどの絆で結ばれているのは、人類の未来に希望の光を灯すに違いありません。
最後に、私が3年前に台湾を訪れたときのエピソードをお伝えします。台湾の少数原住民族に生まれた19歳の男子大学生が、こんな話をしてくれました。
「東日本の震災は、本当に悲しい出来事でしたが、でも、悲しいことばかりではありませんでした。震災の前は、僕たち台湾人は、日本に片思いしていました。でも震災がきっかけとなり、日本人が僕たち台湾人の思いに気づいてくれて、両思いになったんです。だから、震災は、悲しいだけの出来事ではありません」
私は彼の言葉に、涙が止まりませんでした。その涙には、二つの思いが錯綜していました。一つは、感動。もう一つは、不甲斐なさ。
確かに彼の言うとおり、震災前に比べれば、震災後は、台湾の歴史や日台の絆を知る人は多くなりました。けれども、日本人全体からしてみたら、まだまだ一部の人に限られています。これでは、まだまだ「両思い」とは言えない、と。
もっと多くの日本人が歴史の真実を知り、「本当に両思いになったね」と言える未来を築いていきたいですね! 真実を知る人たちの責任と使命は大きいと思います。
ちなみに彼の民族は、日本の統治で初めて文字を持ったそうで、いまだに住所も名前も日本語のカタカナで表記しているんですって。インフラ整備と教育が、日本の台湾統治の象徴なのだと、改めて感じる出会いでした。
( 白駒妃登美 )
『 泰平の眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず 』
これは、歴史の教科書に必ず登場する狂歌です。
上喜撰 (じょうきせん) とは、当時の高級な宇治茶 (玉露) の商品名のことで、濃いお茶なので四杯も飲むと夜眠れなくなることと、ペリーが蒸気船である黒船他計4船で来航したことをきっかけに、世の中が大騒ぎなったことを掛けたのです。
ちなみに…
『 アメリカガのませにきたる上喜撰 たった四杯で夜も寝ラレズ 』
こちらは、萩市内の民家で発見された 『 燕都流言録 』 に載っている狂歌で、『 燕都流言録 』 は、吉田松陰の直筆と言われています。
いずれにしても…
1953年、ペリー来航 ★
この事件をきっかけに、在野の志士がむらがり立ち、「攘夷か開国か」「尊王か佐幕か」の議論が沸騰し、幕末の騒乱が始まるわけです。
実はこのペリー艦隊は、アメリカから太平洋を横断して日本に来たのではなく、アメリカ東海岸から大西洋を横断し、アフリカ南端を回って、はるばるやって来ました。
なぜなら、太平洋上には、石炭補給地がないので、蒸気船では太平洋横断ができなかったのです。
合衆国東海岸を出港したペリー艦隊が、大西洋のマディラ島、セントヘレナ島からアフリカ南端のケープタウンを回り、セイロン (現在のスリランカ) 、シンガポール、香港、上海、琉球 (現在の沖縄) 、小笠原諸島に寄港し、浦賀沖に碇泊したのは、
1853年7月8日のことでした。
黒船を初めて見た世界中の人々は、どの民族も腰を抜かすほど驚いたに違いありません。
けれども、日本人だけは違っていました。
確かに、日本人も腰を抜かすほど驚き、前出の狂歌のように、国を挙げて蜂の巣をつついたような大騒ぎになったことは事実です。
でも、日本人の中には、黒船を見て肝を潰しながら、潰しっぱなしでなく、
「 自分たちの手であれと同じものを造ってやろう 」
と思った人が、少なくとも3人はいたのです!!!!!
一人は、薩摩藩主 ・ 島津 斉彬、もう一人は肥前佐賀藩の鍋島 閑叟、そして最後の一人は、伊予宇和島藩の伊達 宗城です。
薩摩も佐賀も、洋学がさかんで、殖産興業が進んでいたので、蒸気船を造るのに、ほんのわずかながら下地がありました。
でも、宇和島は10万石の小藩、予算もなければ、洋学の施設や造船の設備など、何もありません。
それでも、驚嘆すべきことに、ペリー艦隊の来航からたった3年で、相前後して3藩とも国産の蒸気船を完成させました。
一番が薩摩、二番が佐賀、宇和島藩は三番目でしたが、宇和島湾に蒸気船が浮かんだ時、藩主の伊達 宗城が無邪気に喜びを表して、
「 これで参勤交代するんだ 」
と言ったとか♪
言っておきますが、江戸時代の日本は、200年以上も鎖国が続いていて、大型船を建造することすら禁止されていたんです。
それが、黒船を見て肝を潰し、でも潰しただけでなく、自分たちの手で同じものを造ろうとした…!!!
そして見事に、3年後には真似して国産で造り上げた…!!!!
こんな民族、世界中探しても、日本人のほかにいないんじゃないでしょうか。
この溢れるバイタリティーと、途方もない夢を実現してしまう技術力!!!!
このDNAが、私たちには受け継がれているんですね~♡♡
日本人が事なかれ主義に陥ったのなんて、つい最近のこと。
日本史を、日本文化を知ると、そこにはエネルギッシュな日本人たちが躍動しています♪♪♪
( 白駒妃登美 )
私は度々、講演の中で、日本人の道徳観の素晴らしさと日本社会の治安の良さをお伝えしているのですが、今回は、なぜ江戸時代の日本は治安がよかったのか…という理由に、私なりに迫ってみますね。
おそらくロンドンは、世界で一番防犯カメラの台数が多い街だと思いますが、防犯カメラというのは、つけてからしばらくの間は犯罪に対して抑止力が働くらしいのですが、その抑止力は持続せず、しばらくするとまた以前の通りに犯罪が起きるそうですね。
それに対して、お金もかけずに、地域社会から半永久的に犯罪を減らす
素晴らしい方法があるんです!!!!
それは何だと思いますか?
↓
↓
↓
え~っ、こんなこと!?
って思われる方が多いと思いますが、なんと、それは…
“挨拶” なんです!!
人口当たりの犯罪が少ない街というのは、多い街に比べて、住民同士、あるいは見知らぬ人々に対しても、挨拶が明るく爽やかに交わされているんですよ(・し<)/
仮にこの街に、よそ者が入ってきて、盗みを企てたとします。
でも、すれ違う人、すれ違う人に 「こんにちは」 って挨拶されたら、人は、本能的に 「顔を覚えられた(>し<)」 と感じてしまい、盗めなくなってしまうんですって。
この話を聞いた時、江戸が人口50万人を超える当時世界一の大都市でありながら、犯罪がきわめて少なかった…という理由が、わかった気がしたのです。
江戸っ子にとって、最も大事な価値観は “粋” !!!!
反対に “野暮” と言われたら、人間失格という烙印を押されたに等しいんです。
でね、江戸時代の庶民は、徒歩で移動するのが当たり前で、今のように電車やバスはありませんでしたが、公共の交通機関として、寄り合い舟はありました。
その寄り合い舟で、縁あって隣りに座った人に、何も話しかけないのは野暮なんですね。
でも、「お名前は? お仕事は?」 と根掘り葉掘り聞き出すこともやっぱり野暮なんです。
粋な江戸っ子なら、まずは挨拶をして、季節やお天気などのなにげない話題でひとしきり盛り上がって…そして相手の個人情報に関わるような深い会話は控えたまま、隣同士になったというご縁に感謝し、共有する時間を楽しみ、粋に別れていくんですね。
これは、道ですれ違う時も同じで、
「こんにちは。いいお天気ですね。」
という感じで、「挨拶 + 何かひとことの会話」 を交わすわけです。
挨拶もしない…というのは論外ですが、挨拶だけでも、あるいは、「どちらにお出かけ?」 なんてきくのも野暮なんですよね。
要するに、江戸っ子たちは、人との関わりを大事にしつつ、お互いのプライバシーには踏み込まないように配慮していた…
つまり、人間関係の距離感が絶妙なんです♪♪
犯罪って、関わりを持たない社会に多いですけど、逆にプライバシーに踏み込みすぎても起きてしまうと思うのです。
“粋” って、楽しむ能力 + 絶妙な距離感 から生まれるハーモニーなのかもしれませんね♪♪
江戸っ子たちが目指した “粋” という価値観は、江戸しぐさに凝縮されているので、興味のある方は、ぜひ江戸しぐさに関する本を探して読んでみてください!
わたしは祖母が明治生まれで、江戸っ子だったので、祖母から“粋” という空気感をいつも感じて育ちました。
正しいか間違ってるか、楽しいか楽しくないか…
人生にはいろいろな選択のしかたがありますが、どんな道を選んでも
楽しむのが “粋”
“粋” という江戸期の日本人が大事にしていた
価値観は、もしかしたら史上最強かもしれませんよ(・し<)/
( 白駒妃登美 )
私は昭和39年の東京オリンピックの年に生まれたせいか、オリンピックと聞くだけで、血が騒ぎます(笑)
私の一番古いオリンピックの記憶は、1972年の札幌オリンピック。
笠谷・今野・青地の3選手が、スキージャンプ70m級で表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」の活躍に日本中が沸きかえっていたのを覚えています。
札幌五輪のテーマ曲『虹と雪のバラード』も名曲だったなぁ♪♪
でも、もし、札幌五輪の象徴を誰か一人だけ選べって言われたら、誰がなんと言おうと、私は、女子フィギュアで銅メダルに輝いた、銀盤の妖精 ジャネット・リンを挙げたいです。
尻もちついた時の笑顔があまりにも愛らしくて、日本中の人の心が一瞬にして奪われ、「札幌の恋人」って言われてたっけ ♪
不思議なことに、私は、札幌五輪の女子フィギュアの金メダリストも銀メダリストも、思い出せないんです。
ジャネット・リンのことも、銅メダリストとして記憶しているのではなく、覚えているのは、彼女の透明感のある演技と笑顔だけなんですよね。
あの尻もちがあったからこそ、彼女は伝説になったのかも…。
そんなことを考えるにつけ、ソチ五輪の象徴は、私にとって、やっぱり真央ちゃんなんだなぁ。
羽生クンや葛西選手にも本当に感動したけれど、真央ちゃんのフリーの演技は、採点なんか何の意味もないと思うぐらい感動しました。
前日のショートがボロボロだったのに、一日であんなに素晴しい魂のこもった演技ができるなんて、ショートとフリーをともにノーミスで演じきることよりも、すごいことなんじゃないかと思います。
あのフリーが終わった瞬間、冬季五輪の名場面として、日本人の心に刻まれ、真央ちゃんは、メダルをとれなかったことで、逆に伝説になったんだと…。
ショートの時に見せた心の弱さと、フリーで実証してくれた心の強さ。
その両面があるから人間。
そんな人間らしさを持った真央ちゃんが、私たちは大好きなんですよね ♪
真央ちゃんを愛し、心から応援する日本人の感性が、私は大好きです ♪
ショートが終わった時、感動的なツイッターを発信してくれた世界中のスケーターや、フリーが始まる時に大きな声で声援を送っていた日本の男子フィギュア陣にも、温かい感動をいただきました。
スポーツって、本当にいいなぁって、改めて感じさせてくれたソチ五輪。
五輪の閉幕は残念ですが、やっと寝不足を解消できそうです(笑)
( 白駒妃登美 )
2月11日は、建国記念の日。
その由来をご存知ですか?
2678年前の旧暦1月1日に、初代神武天皇が即位なさった、その日をもって「日本建国」とされています。
この日は、今の暦では2月11日ですから、私たちは毎年2月11日がめぐってくると、建国記念の日としてお祝いしているのですね。
この神武天皇は、「歴史上、実在したであろうと言われている最古の天皇」なんです。
つまり、「実在していた」と断言できるわけではないんですよね。
その実在したであろう最古の天皇が即位なさった日をもって、国の成り立ちとし、
それ以来、初代神武天皇から第125代今上天皇に至るまで、2600年以上にわたる
歴史を積み重ねてきたのが、私たちの国・日本です。
つまり、日本人は2600年以上、あいまいを貫き通してきた民族なんですね ♪
ただあいまいなのでなく、あいまいを貫く……なんて潔いんでしょ!!!!
あいまいを貫くって、それだけ受け入れる力が大きいということにも繋がるんですね。
日本人は本来、すべてを受け入れる大らかさ、強さ、優しさ、そして潔さを持った民族と言えるのではないでしょうか。
もし外国人から「日本人はあいまいだから…」とイヤな顔をされたら、
「それが何か… 日本人は2600年以上あいまいを貫いてきたんだから、筋が通ってるんです」と答えましょう(笑)
外国人は筋が通っていないのが嫌いなだけなので、
「筋の通ったあいまいさ」と、他の民族にはない悠久の歴史(なんたって、日本は世界最古の歴史を持つ国なんですから)を知れば、きっと尊敬してくれるはずだし、日本人を理解してもらうための一歩になるかもしれません♪♪
( 白駒妃登美 )
講演で戦国の華・立花宗茂ゆかりの地、福岡県の 『みやま市』を訪れた時のお話です。
講演が終わったあと、企画をしてくださった職員の方と一緒に、清水寺へ…。
そこで伺った話に、私は胸を打たれました。
みやまには、平家の落人伝説がありますが、それが史実であることを裏付けるかのように、「平さん」 というお名前の家が多いのだそうです。
でも、その 「平」 姓と同じぐらい多いのが、「坂梨(さかなし)」 姓なんですって。
さかなし…?
「坂が無い=平ら」 を意味しているんですね。
きっと、「平」 姓を名乗ったら、生きにくい世の中だったんでしょうね(;し;)
なんだか切ないなぁ。
それから、みやまには 「加藤」 さんも多いそうですよ。
「加藤」 というのは、「次こそ勝とう!」 という意味。
彼らは、平家の末裔というプライドを保ちながら、うつりゆく時代の流れの中で、 「生きる」 ことを決意したのでしょうね。
歴史は、けっして過去のものではないんですね。
いまも生き続ける歴史の重みというものを感じた午後でした。
2005年1月、当時総理を務めていた小泉純一郎氏は、インドネシア・スマトラ島沖地震の被災国支援緊急首脳会議の際、シンガポールのリー・シェンロン首相から、こんな問いかけを受けた事を披露しました。「日本では小学校の教科書の中の『稲むらの火』というお話を通して、子供の時から津波対策を教えていると聞いたのですが、本当ですか?」と。
実は、『稲むらの火』が教科書に掲載されていたのは、戦前から、終戦直後にかけての話。
戦後世代の小泉氏は、当然この話を知りませんでした。東京の文部科学省に尋ねてみましたが、誰も知らなかったそうです。
皆さんは「稲むらの火」をご存知ですか?
私は、お恥ずかしながら2018年の今まで、全く知らずにおりました・・・。
「稲むらの火」とは、こんなお話です。
紀州の広村(現在の和歌山県広川町)で庄屋を務める浜口儀兵衛は、大地震のあと、波が沖に引く津波の前兆に気づきました。
しかし村人たちは津波の気配にいっこうに気づきません。そこで儀兵衛は少し高台にある、自分の田んぼの稲束に次から次へと火をつけて走りました。
その火を見て村人たちは、これは火事になると思い、続々と高台に上ってゆきます。そして村人たち全員が高台に上り終えた頃に、津波がどっと押し寄せ、村は壊滅状態になりました。
収穫したばかりの稲を燃やすという、儀兵衛の機転と犠牲的精神によって、約400名の村人の命を救うことが出来たのです。
この物語は、1854年(江戸時代末期)に和歌山沖で南海地震が起き、津波が紀伊半島を襲ったときの史実がもとになっています。
この史実に心を震わせた明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、儀兵衛の中に神(God)を見出し、『生き神様(A Living God)』というタイトルで短編小説を書きました。この八雲の短編小説を子どもたちに伝えようと、小学校教師であった中井常蔵氏が物語「稲むらの火」を著したのです。
この物語は大変評判となり、昭和12年から昭和22年まで国定の小学国語読本に採用されました。
現在は海外でも、『A Living God』や「The Burning of the Rice Fields(稲むらの火)」というタイトルで、数カ国の教科書に採用されているそうです。
その後、1983年に和歌山の男性はこんな言葉を残しています。「私も1946年に大地震を経験しました。その時、私はまず津波を予想して山へ逃げました。小学5年生の時、学校の教科書で『稲むらの火』の話を学んでいたからです。」
他にも2004年にスマトラ島沖地震が起きたときのこと。10歳のイギリス人少女が、津波被害のあったタイのビーチホテルに旅行で家族と滞在していました。彼女はその2週間前に、学校の地理の授業で習った「津波の前兆である、潮が海岸線から引いていき、白い泡が立つ現象」を覚えており、その知識を両親に訴えると、両親は周りの人々やホテルのスタッフに伝え、それによって彼女を含めた数百人が、津波が来る前に避難することができたそうです。
【生きた学習】とは、こういう事なのだな・・・と実感しました。
『稲むらの火』という一つの物語やイギリスの少女が受けたような学校の授業によって、私達の知らない所で、今までにも助かってきた命があったのかもしれません。そして、こういった事を伝承し続けることによって、助けられる、これから先の未来の命が沢山あるのかもしれません。
「浜口儀兵衛」という素晴らしい先達を持つ日本人だからこそ、そして、東日本大地震の津波により経験した大きな悲しみの辛さを知っている日本人だからこそ、私たちは 「稲村の火」の物語を後世まで、そして 世界中に伝え残したい! そのことによって、一人でも多くの未来の命を津波から守ることが出来たら嬉しいですね。
ちなみに、浜口儀兵衛は再び同様の災害が起こることを想定し、防潮堤造りに取り組みました。これは、未来への備えでもあり、同時に、津波により家や仕事を失った人々の生活を支えるためでもあったのです。彼は、私財から給与を工面し、工事に携わる村人たちに支払いました。
それにより、大災害の後も、広村の人口はほとんど減らず、復興が急ピッチで進みました。そして、この時に建設された防潮提により、その後1944年の東南海地震、1946年の南海地震による津波から、沢山の村人たちの命が救われたのです。
(原 千恵)
『2018年1月8日 成人式を迎えた皆様 立派な大人の仲間入りですね!! おめでとうございす!! 』
成人式と言えば、着物や祝い酒、懐かしい友人との再会、「おめでとう」のお祝いの言葉、どれもこれも 華やかで、嬉しい、楽しいイメージが頭に浮かびます♪
日本における今日の形態の成人式は、戦後間もない昭和21年11月22日、埼玉県蕨町(現在の蕨市)で実施された「成年祭」がルーツだそうです。昭和20年5月に米軍の空襲を受け、大きな被害が出た蕨の町は、そういう中で、次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ますため、当時の蕨町青年団長、「高橋庄次郎」が主唱者となり「青年祭」を企画した。蕨第一国民学校(現在の蕨北小学校)を会場として、校庭にテントを張り、3日間にわたって実施し、最初に開かれたのが「成年式」であった。戦地から戻った青年たちは国民服で、女性はもんぺ姿で参加し、大いに励まされたという。この「成年式」が全国に広まり現在の成人式となった。蕨市では現在も「成年式」の名称で式典を行っている。
蕨市の「青年祭」に影響を受けた国は、昭和23年に制定された祝日法により、「おとなになったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝いはげます」の趣旨のもと、昭和24年1月15日を「成人の日」として制定した。その後、平成10年の祝日法改正(ハッピーマンデー法)に伴って平成12年より成人の日は1月第2月曜日になった。
しかし、そもそも 日本にはなぜ「成人式」という文化があるのでしょうか・・・?
昔の成人式はどういうものかというと、いわゆる元服式にあたります。
立派な大人になったという事は、侍の子であれば、戦が始まれば戦に行かないとけない、という事になります。
そこで、親はどういう事を教えるのかというと・・・
【切腹 つまり 腹切り】の作法を教え、責任の取り方を躾けるのだそうです。
現代の華やかな成人式とは、全くイメージが違いますね。
現代では何か大きな失敗をしても「腹を切って責任を取る」という風潮はありませんが、
人生に一度の成人式の時ぐらい、初心に立ち返り、本来の成人式である元服の文化を思い出し、
「そんな時代もあったという事」のお話を通して、
「昔の日本人の責任感の強さ」「大人としての責任感を持つことの大切さ」を伝えてあげることも、
新成人を迎え入れてあげる側の、先輩の大人の役目かもしれませんね。
(原 千恵)
あけましておめでとうございます!
明治維新から150年という節目の年を迎えました。多くの先人たちが崇高な志を持ち、それを実現するだけの技術力を養うことで、国難とも呼ぶべき時代を乗り切ったことに、あらためて感謝したいと思います。
私は、今年も真心をこめて目の前のやるべきことに当たらせていただこうと思っていますが、先ほど、ふと、ブログに日本の歴史や文化の素晴らしさを発信し始めたときのことを思い出しました。
あの頃、私は、自分の書いた記事がいずれ本になるなんて想像もしていなくて、誰に遠慮することなく、自由にブログ記事を書き綴っていました。そんな気持ちにしてくれた恩人が、今は亡き日本一の個人投資家・竹田和平さんです。
和平さんは歴史が大好きで、『百尊の教え』というご著書の中で、特に思い入れのある歴史上の人物について、それぞれの人生で一番輝いていた場面を愛情たっぷりの目線で書き綴っていらっしゃいます。そして彼らの思いと行動の結晶が今の日本をつくりあげたことに、心からの感謝を捧げていらっしゃるのです。
例えば、源頼朝と北条政子には「質実剛健、雄渾無双の武士政治の礎を築かれたことに」、織田信長には「民衆のため平和と自由市場を拓いてくださいましたことに」深く感謝する、…というぐあいに。
歴史上の人物の思いや功績の本質をつかみ、その素晴らしさを、たったひとことに凝縮できる表現力は、和平さんならでは! 私はこの本のとりこになって、あっという間に読了しました。
当初、和平さんは尊敬する人物を百人取り上げるつもりでいらしたそうで、続編を出版したいとおっしゃっていたのですが、およそ半数に当たる56人を取り上げ、一冊の本を出版したまま人生の幕を閉じられたのですね。
私はまだお元気だった和平さんに直接お会いし、かねてからお聞きしたかった2つの質問をぶつけました。
まず1点目、「和平さんは多くの先人たちに感謝を捧げていらっしゃいますが、もしその中でランキングをつけるとすれば、和平さんご自身が一番好きなのはどなたですか?」
和平さんの答えは、「豊臣秀吉」、これは、なんとなく想像できた答えでした。だって和平さんも秀吉も黄金が大好き! それにご著書の中で、秀吉を綴った文章は、ほかの誰よりも愛が溢れていたからです。
私が伺いたかった、2点目の疑問。
「人間には誰しもさまざまな面がありますから、歴史上の人物も、見方を変えたら、まったく違う評価になりますよね。和平さんが、それぞれの人物の思いや行いをとても肯定的にとらえ、感謝していらっしゃることに、私は心からの感動を覚えますが、違う意見の人もいらっしゃると思うのです。そういう人たちからの批判というのは、気にならないのですか?」
和平さんは、即答してくださいました。
「これは、私の本です。それぞれの登場人物が、私の中で輝きを放っていて、私はその姿を書いたのです。それを批判する権利は、誰にもないと思います。違う意見を持つ人は、私に文句を言わずに、自分が本を出せばいいのです。私はそういう人にこう伝えます。“あなたは、あなたの本の中で、自分の考えを述べればいい。私は自分の本の中で、私はこう思うということを書いたのだから、あなたから文句を言われる筋合いはない”と」
なんて潔(いさぎよ)いのでしょう!
この言葉に背中を押してもらい、私はブログ記事を書き始めたのです。「私はこう思う」ということを書いて、何が悪いのだ、と。私も自分の好きな人物について、思いのまま書き綴ろう、と。
あれから、まもなく9年。
近頃の私は、ちょっとびくびくしていたな、と思います。
こんなこと言ったら、子孫の方に申しわけないとか、その地方の方が不愉快に感じるのではないか、とか…。
よーし、初心に立ち返ろう。
私たちは、もっと自由でいいはず。人間なんだから、好き嫌いがあって当たり前。八方美人は、もうや~めた!
「真心をこめて」というのは、昨年と変らない。今年はそれに「自分の心に素直になって」を付け加えてみようかな。
素(す)に敵(かな)わないから、「素敵」! 2018年が、皆さまにとっても素敵な一年になりますように~♪
(白駒妃登美)
「日本人は謙虚な国民性」という言葉を、今までに何度も耳にしてきました。私は どちらかというと、その理由は外国の方に比べ、体格が小さかったり、敗戦国という自虐史観からくる自信のなさの表れかと思っていました。
ところが、以前「言霊(ことだま)幸(さきわ)う国」といテーマで和ごころコラムを書いてくださった 富田 欣和(よしかず)先生の古事記講座を学んで、その理由が腑に落ちました。
皆さんは『言霊』という言葉をご存知ですか?
この言葉はおそらく、現代でも沢山の方が耳にしたことがあると思いますが、【言葉には力がある】ということを意味します。
では『言挙(ことあ)げ』という言葉は知っていますか?
私は、言霊は知っていましたが『言挙げ』は初めて耳にしました。
『言挙げ』とは、言葉にして発することを意味しますが、日本語の一音・一音には物凄い力が宿っており、日本人は言葉を発することの重大さを古代から知っていたので、【言葉を発すると、それがいいことであっても悪いことであっても、実現してしまう】から、むやみに言挙げはしないように、慎み、自らを戒めてきた民族でもあるのです。
つまり、日本語は「よく切れる刃物」と同じ。
切れ味の鋭い刃物は、良いことに使えばおいしい料理が作れ、悪いことに使えば人の命までをも奪ってしまう。
日本語のパワーは半端ないので、いい言葉を発すればいいことが起こるけれど、人をののしったり怨んだりすれば、それさえも叶ってしまう。
だからこそ 思い付きでポンポンと簡単に言葉を発してはいけない。言葉を発する時は相手の気持ちやすべての事に心を巡らして、慎重に言葉を選んだ後でないと言葉を発してはいけない、と日本人は古代からずっと心がけてきたのです。
そうやって 大切に選んだ一言 一言だからこそ、言葉には魂が宿り「言霊」と言われるようになったのでしょう。
言霊が幸う国・日本。それはまた同時に、「言挙げせず」の国でもあったのです。
そんな日本人の心がけは、色々な場面で伺い知る事が出来ます。
例えば、現代でも神社などで耳にする事の出来る、祝詞の冒頭部分に「掛け巻くも かしこみ かしこみ もうまもす・・・・」という言葉があります。
これは神さまに「言葉に出していうには、大変に恐れ多いことですが・・・」とお詫びの言葉を何度も何度も重ねて、へりくだった表現になります。
また他にも、万葉集の歌の中からも伺う事が出来ます。
「千万(ちよろず)の 軍(いくさ)なりとも 言挙げせず 取りて来(き)ぬべき 男(をのこ)とぞ思ふ」
=(歌の解釈)千万の敵だとしても言挙げをせずに退治するのが男だと思う。
不言実行を美徳とする日本人の原点が、千三百年以上前に編纂された万葉集の中に垣間見られて、興味深いですね。
日本語に込められた力の偉大さを知っているからこそ、日本人は嫌な事を言われようと 、何をされようと、ぐっと耐え忍び、頭の中で言葉を慎重に選ぶうよう心がけてきた。その心がけが先祖代々、脈々と受け継がれ、現代を生きる私たちも、外国の方々から「日本人は謙虚だね」と言っていただけるのでしょう。
私は古事記を学び、「日本人の筋金入りの謙虚さ」をちょっぴりカッコよく、誇らしく思えました。
(原千恵)
日本三景といえば、松島、天橋立、そして安芸の宮島。この「日本三景」に倣(なら)って、大正5年に「実業之日本社」が「日本新三景」を読者投票によって選んでいます。このとき北海道の大沼、静岡の三保の松原とともに「日本新三景」に選定されたのが、大分の耶馬溪(やばけい)です。
山国川流域の美しい渓谷で有名な耶馬溪ですが、景観が素晴らしいだけでなく、そこには日本最古の有料道路があったということも知られています。「青の洞門」と呼ばれる、雄大な渓谷のなかに掘られたトンネルは、現在は無料で通行できますが、かつては有料道路でした。今回は、その日本初の有料道路にまつわる物語をご紹介します。
ときは、江戸時代中期。越後高田藩士の息子として生まれた一人の青年が、ある日、両親を亡くしたことから世の無常を感じ、諸国巡礼の旅に出ました。やがて彼は曹洞宗の禅僧となり「禅海(ぜんかい)」と名乗るようになりますが、その禅海和尚が、耶馬溪にある羅漢寺(らかんじ)を参拝した時、渓谷沿いの断崖絶壁を行き交う人馬が難所で命を落とすのを目撃しました。
心を痛めた禅海和尚は、ここにトンネルを掘って、安心して通れる道を造ろうと、托鉢で資金を集め始めたというのです。
禅海は、集まった資金で石工を雇い、彼らとともに、ノミと槌だけの手作業でトンネルを掘り始めました。この気の遠くなるような作業を、彼らはなんと30年も続け、トンネルはやっとのことで開通します。
途中、第1期の工事が終了したとき、工事落成記念の大供養が行われました。
このとき、人は4文、牛は8文の通行料を徴収し、工事費用にあてるようになり、完成までこぎつけたと言われています。これが、日本初の有料道路だったのです。
4文は、今の貨幣価値に換算すれば、だいたい100円ぐらい。牛の通行料が人間の2倍というのは、なかなか興味深い話ですが、慈悲の心が生んだトンネルが日本最古の有料道路であるいうのは、誇らしい気持ちにもなりますね。
禅海らが手作業で掘り進んだのは、全長342m、そのうちトンネルの部分は144m。
実は、青の洞門は、明治に入り陸軍の輸送路整備のために大改修が行われ、車両が通過できるよう拡幅されたので、完成当初の原型はかなり失われました。ただし明かり採り窓など、一部に手掘りのノミの跡が残っていて、見る者の胸を打ちます。
そして耶馬渓の美しい景観を語る上で、忘れてはならない人物がいます。
それは、福沢諭吉です。中津藩士の息子として生まれた諭吉が、久しぶりに帰郷した折に、旧中津藩主・奥平家の別荘を建てたいと耶馬溪を散策しました。このとき、耶馬溪の中でも屈指の美しさを誇り、耶馬溪第一の名勝として知られる競秀峰(きょうしゅうほう)の山々が売却されることを耳にして、「万一、心ない人に渡り天下の絶景が損なわれては取り返しがつかない」と、一帯の土地を購入する決心をしたのです。そして、自分の名を表に出さず、複数の土地所有者から一帯の土地約1.3ヘクタールを、少しずつ目立たないように3年がかりで購入していきました。
耶馬溪の景観は、福沢諭吉の郷土愛があったからこそ守られたと言っても、過言ではありません。禅海の名とともに、耶馬溪の恩人として、記憶にとどめていただけたら嬉しいです♪
(白駒妃登美)
今年も福岡帝国陸軍の慰霊祭に出席することが叶いました。 初めてこの慰霊祭に参加した時、見事に晴れ渡った紺碧の空の下、ついに日本に帰れずに亡くなった英霊達の叫びが、風に乗って確かに聞こえてきたのです。
それを再び聞くために、ここにこうして参加させていただくのだ……私はそんな思いをかみしめながら、慰霊祭に向かいました。
慰霊祭では、歴史ナビゲーター井上政典氏の脚本編集による「大東亜戦争を懐(おも)う」の朗読劇が披露されました。
—幾多の民族忽(たちま)ち独立、能(よ)く搾取を免れて安栄を得たり、真にこれ八紘一宇(はっこういちう)の業(わざ)、世界の平和是(これ)よりならん、殉国(じゅんこく)の英霊乞う意を安んぜよ、諸君の碧血(へきけつ=忠誠心のこと)萬世(ばんせい=限りなく続く世)を救う—–
岩崎朋子さんによる朗読が、雨の中、切々と流れてくるのを聞きながら、私はインドネシアの独立秘話を思い出していました。
戦時中、インドネシアを統治していた日本軍。その中には、戦後もそのままインドネシアに残り、オランダからの独立に貢献した日本兵が多数いたのですが、そのことを今の日本で知っている方は、そう多くはないでしょう。
私は、今年6月に白駒妃登美先生主催の「志」和ごころ塾バリ合宿に参加し、バリ島で日本人の生き方を貫き、沢山のバリの人々に愛されている“バリの兄貴”に、初めて会いました。兄貴は今や大富豪として、あるいは大実業家として知られていますが、実は人知れずバリで亡くなられた日本兵のための慰霊を続けてこられました。
そのことを知った白駒妃登美先生が、兄貴から日本人の生き方を学び、インドネシアの独立に命を捧げた日本の先人たちの慰霊を行うために、バリ合宿を企画されたのです。
―1945年(昭和20年)、日本は敗戦を認めました。同年から4年半もの長い歳月をかけて、オランダに対して独立戦争を挑んだ、インドネシア。 そのインドネシアのために、インドネシア人と共に戦い、オランダからの独立に貢献した日本兵は数知れません。バリ島で亡くなった日本兵は、分かる範囲でも12名います。その12柱の日本の英霊が眠るのが、マルガラナ英雄墓地です(二人で一つのお墓に埋葬されている
ケースもあり、明確に日本兵のお墓とわかるのは11、英霊の数は12柱です)。インドネシアと日本の親日関係を果たした歴史はもっと多くの人に知っていただきたい。― この一文は、バリ合宿でご一緒した仲間からお借りし、補足したものです。
白駒妃登美先生からお聞きしましたが、インドネシア独立戦争の時、日本兵がいる部隊には、オランダ軍の中でも強力な部隊を差し向けてられてしまうから、日本兵はインドネシアの人々をかばい、日本人だとわからないようにインドネシア名を使うようにしたらしく、だからこそ亡くなられたあとの遺骨収集やお墓探しは苦労されたというのです。
バリの兄貴は彼らのお墓を探しだし、後から慰霊にきてくださる方々がわかるようにと日本兵のお墓に印をつけてくださっていました。その中には、九州出身の若い兵隊さんたちのお墓もありました。あのバリ島の旅が、この福岡の慰霊祭につながっていたのでしょうか。
あの日、日本から仲間が準備してきてくれた日の丸のハチマキを彼らのお墓に巻き、日本酒と羊羮を供え皆で君が代を歌いました。慰霊祭でも皆で君が代を歌いましたが、鮮やかにあのバリの肌を焼く太陽の光と青い空が蘇り、私は涙をこらえきれませんでした。
雨の慰霊祭……。確かに声が聞こえました。帰りたかったのだと、私たちのことを忘れないでほしいと。
兵隊さんたちが最後に見た風景は、どんなものだったのでしょう。 亡くなられた兵隊さんの多くは、職業軍人ではありません。赤紙をもらい強制され現地に行かざるを得なかった方々がほとんどです。
小さな島で弾薬も食料も尽き、兵隊さんたちは海の向こうに繋がる祖国を思ったことでしょう。愛しい家族を思ったでしょう。そして亡くなっていったのです。現地に立つと、それをわが身で感じます。大東亜戦争では、大正生まれの男性の4人に1人が戦死しています。こんな時代は他にないでしょう。
そして、なぜ慰霊の旅なのか、ようやくわかったような気がしました。
まずはその土地を踏むことが大事なのです。その人たちが亡くなった土地に行って祈りを捧げようという気持ちが、何よりの供養なのです。
平成27年4月に天皇皇后両陛下はパラオ諸島に慰霊のために行幸啓されました。
皇后陛下は、皇居から白い菊の花を持参されていました。海を隔てたアンガウル島に向かって拝礼されたお二人の姿が、テレビや新聞で何度も流れましたが、両陛下の後ろ姿は、戦争を忘れかけている私たちに、かつてそこで何があったかを思い起こさせてくださいました。
慰霊祭主催の郷友連盟の吉田邦雄会長は、「日本の繁栄は英霊の尊い犠牲の上に成り立っている、これからも英霊を顕彰し、誇りある日本の再生の支柱となるように努めたい」と話されました。 どうして忘れられようか。 私達のこの平和は、先人達が築いてくださったのです。
語り継いでこう。 かつてこの国に、戦争があったことを……。
(西山登喜子)
前回のコラムでは、百人一首の一番歌の裏側にある、歴史秘話をお伝えしました。
一番歌を詠まれた天智天皇のお母様・斉明天皇は、新羅によって滅ぼされた百済の人々を大変気の毒に思われ、やむにやまれぬ思いから、朝鮮半島に出兵します。そのために前線基地が設けられた九州の朝倉(現在の福岡県朝倉市)で斉明天皇は崩御されるのですが、海を渡った日本軍も、不運に見舞われます。日本・百済連合軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗を喫したのです。天智2(西暦663)年のことでした。
この戦いを『白村江(「はくすきのえ」、または「はくそんこう」)の戦い』といいます。斉明天皇は崩御され、戦いにも敗れた日本は、大ピンチ!
唐の日本侵攻に備え、九州北部に大野城(おおのじょう)というお城が築かれ、水城(みずき)と呼ばれる堤防が造られました。現在も福岡県内には、大野城や水城という地名が残っています。さらに国境を守る兵士たちが、東国から九州に続々と送られてきました。彼らを「防人(さきもり)」と呼びます。
防人の詠んだ歌が、日本最古の和歌集『万葉集』に数多く収録されていますが、この時期に古事記や日本書紀という歴史書や、万葉集という和歌集が編纂されたのは、ピンチに立たされた日本人が、これまでの国の歴史をまとめあげ、和歌に込められた日本の心を後世に伝えることで、自分たちの国を守ろうとしたのでしょう。
『万葉集』を編纂したのは、武門の誉れ・大伴家を率いる大伴家持でした。彼自身が、大君を守るという強い信念と、大伴家が没落していく中で襲われた孤独感や憂い、そして大切な人々への溢れる思いなど、歌人として我が心を切々と詠みあげましたが、防人たちも、心は一緒でした。
家族と別れるつらさ、ふるさとに残してくる子への尽きぬ愛情、そして国を守るという気概。これらは表裏一体をなし、国難に立ち向かう男たちを支えていたのです。
武門の誉れ・大伴家の総帥だからこそ、家持は彼らの思いが痛いほど理解できた。だから防人という名も無き民に対し、作者の名前をその作品とともに一人残らず万葉集に記すことで、彼らへの敬意を表したのでしょう。
国難を救った先人たちの中に、大伴部(おおともべの) 博(はか)麻(ま)がいました。白村江の戦いで捕虜(ほりょ)となった博麻は、唐に送られ、驚くべき噂を耳にします。唐が日本に攻め入る準備をしている、と。このことを何としても本国に伝えなければいけないと思った彼は、自分の身を奴隷として売り、そのお金でほかの日本人を帰国させるのです。
幸い、唐は日本を攻めずに、国家存亡の危機は回避され、彼は約30年後に帰国を果たしました。彼の苦労を思うと涙が止まりませんが、こういう先人たちの祖国を思う心があったからこそ、今、私たちはこんなにも豊かな暮らしをしていられる。そのことを胸に刻み、次の世代に継承していきたいですね。
( 白駒妃登美 )
秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
これは、百人一首の一番歌。この歌を詠んだのは、大化の改新で知られる中大兄皇子、後の天智天皇です。
「かりほのいお」とは、農作業のための粗末な仮小屋のこと。「屋根を葺いた苫の目が粗くて隙間があるから、夜露が私の袖に落ちて、着物を濡らしているなぁ」という意味ですが、天智天皇が、そんな粗末な小屋で寝起きするわけはないので、「この夜露は農民たちを冷たく濡らしていることだろう…」と、民の暮らしを思う、優しい心を詠んだ歌と言われています。
ただ、これは私の想像ですが、もしかしたら、民に愛を注ぎながらも、天智天皇は深い悲しみの中にあり、涙で袖を濡らしていたのではないかなと思うんです。
今から1350年ほど前、天智天皇のお母様でいらっしゃる斉明天皇が皇位に就かれていましたが、その斉明天皇が、九州の朝倉(現在の福岡県朝倉市)で崩御なさいました。
なぜ飛鳥の都から遠く離れたこの地で斉明天皇が亡くなったのかというと、それは当時の朝鮮半島の事情が大きく影響しています。
朝鮮半島にあった百済(くだら)という国が、同じ朝鮮半島の新羅(しらぎ)に滅ぼされ、日本に助けを求めてきました。日本は百済と深い友好関係を結んでいましたから、ときの斉明天皇は、百済の人々を気の毒に思われ、百済の復興を願い、朝鮮半島に出兵することを決意します。そのための前線基地が置かれたのが、朝倉だったのです。
68歳と、当時としては高齢だった上に、心労や長旅の疲れが重なったのでしょう、朝倉に着いてたった2ヶ月で、斉明天皇は亡くなりました。
中大兄皇子は深く嘆き悲しまれ、喪に服されますが、その場所が、御陵山(ごりょうさん)の木の丸(きのまるでん)だったと言われています。御陵山の中腹には、恵蘇八幡宮という神社があり、地元・朝倉の人々から大変大切にされてきましたが、恵蘇八幡宮には斉明天皇と天智天皇が祀られ、その敷地には木の丸殿跡が残っています。
実は、百人一首の一番歌は、ここ朝倉で詠まれたと言われています。もしそうだとしたら、天智天皇の袖をぬらした露とは、涙のことだったのかもしれませんね。
私はこの歌がもともと好きでしたが、昨年、母を亡くしてからはさらに好きという気持ちが募っていって、シャープでクールな印象の天智天皇が、急に友だちになってくれたような気がしています(笑)
天智天皇の深い悲しみと、母宮へのかぎりない愛情が詰まった朝倉の地。この地は、歴史上、幾度となく水害に見舞われています。山に囲まれ、水運に恵まれ、九州の各地に繋がる朝倉は、要害の地でありながら、万が一戦いに敗れたとしても、陣をはらって落ち延びるのが容易でしたから、斉明天皇が前線基地に選んだのでしょうが、その地形は、ひとたび大雨に襲われると、大洪水に繋がる危険性をはらんでいたのです。
朝倉は百人一首一番歌ゆかりの地として、毎年、百人一首の大会を開催してきましたが、今年は、7月に起こった水害の影響で、その大会も中止となりました。朝倉の復興を心から祈り、来年以降の大会の開催に期待したいと思います。
さて、斉明天皇による朝鮮半島への出兵。その結果がどうなったのか、そしてその戦いは日本人に何をもたらしたのか。次回の和ごころコラムでお伝えしたいと思います♪
( 白駒妃登美 )
幕末の志士、高杉晋作が長州藩の歩む道を「倒幕」へと決定づけた、功山寺の挙兵。このクーデターの成功が大きな原動力となり、日本の歴史は明治維新へと突き進んでいきます。
決起の直前、高杉晋作は幕府に恭順姿勢を見せる長州藩の上層部に命を狙われ、関門海峡を越えて、九州に亡命しました。福岡の有名な女流歌人・野村 望東尼(ぼうとうに/もとに)を慕って、彼女の住まいである平尾山荘を訪ねるのです。
平尾山荘は、現在の福岡市中央区平尾という高級住宅街にあり、現在もその面影を残し、一般に開放されています。山荘の隣には資料館もあり、望東尼の人生をたどることもできます。
望東尼と晋作は、この時が初対面だったと言われています。
彼女は、一時期、京の都で和歌を学んでいましたが、そこで我が身も省みずに、日本の将来を憂えて国事に奔走する若き志士たちの姿を見て、感動するんですよ。それ以降、九州にやって来る志士たちの世話をして、志士たちの間では、お母さんのように慕われていました。その噂を聞きつけた晋作が、いわばアポなしで平尾山荘を訪ねたんですね。
そんな晋作を、望東尼は、何も事情を聞かずに、だまって置いてあげたそうです。晋作は長州藩に追われていたので、「谷 梅之助」という偽名を使いましたが、望東尼は、「いくら梅の花が雪の中に埋もれていても、香りまでは隠すことができない」という意味の和歌を詠むんですね。何百人もの志士たちを見てきた望東尼は、一目で、晋作がただ者ではないと見抜いたんでしょうね。
そして彼女が見込んだ晋作は、その後、歴史を動かしていくのです。
しばらく、晋作は望東尼の山荘で過ごします。10日ほどたったある日、望東尼は自らが縫い上げた着物を晋作に着せ、「あなたはこんな所でボヤボヤしている男じゃないでしょ! さっさと持ち場に戻りなさい」って、晋作のお尻を叩いたんですね。そうやって望東尼に送り出された晋作は、長州に戻って兵を挙げ、クーデターに成功します。
それが、功山寺の挙兵です。
禁門の変で、長州藩士とともに京の都を追われた公卿が、長府の功山寺に滞在していたので、晋作は彼らの元へ赴き、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と宣言し、月光さえ渡る雪道を進軍したと伝えられています(個人的に、私はこのシーンを、日本史名場面のトップ5に入れています、笑)。
このクーデターの成功から幕末維新史が一気に動いて行くのです。そしてついにあの強大な徳川幕府が倒れるわけですが、歴史のターニングポイントとなった「功山寺の挙兵」が、平尾山荘から始まったということ、意外に福岡の皆さんもご存知ないんですね。
その経緯を知って、誇りに思っていただけたら嬉しいなぁ♪
晋作と望東尼の関係は、その後も続いていきます。
実は、功山寺の挙兵に際して、晋作はあることを心に誓うんです。それは、「金輪際(こんりんざい)、“困った”という言葉を吐かない」というものでした。その決意があったからこそ、クーデターが成功し、歴史が大きく動いたのだと思いますが、でも、厳密に言うと、晋作はそれ以後、1回だけ「困った」と言ってしまいます。
晋作には萩の城下でナンバー1の美人といわれた奥さんがいて、晋作が病に倒れたことを知った奥さんが、一人息子を連れて、下関の晋作のもとを尋ねるんですよ。ところが、晋作の枕元には、恋人のおうのさんが常にいて、看病を続けていたんですね。
奥さんと恋人が鉢合わせしてしまい、晋作は困ってしまいます。10万の幕府軍を相手に、勝利をおさめるほど強かった晋作が、二人の女性の間でおろおろするなんて、晋作もかわいいと思いませんか(笑)
この時、晋作のピンチを救ったのが、望東尼なんです。二人の女性の間に入り、懸命に説得して、晋作との仲を取り持ったそうです。さらに、晋作は27歳という若さで亡くなりますが、彼の最期を看取ったのも望東尼です。
晋作の有名な辞世の句。
「おもしろき こともなき世を おもしろく 棲みなすものは 心なりけり」
この歌に関しては、さまざまな説がありますが、一般的には、上の句を晋作自身が、そして下の句を望東尼が詠んだと言われています。
晋作が27歳で亡くなった時、望東尼は60歳ですから、年齢的には、親子のような関係ですが、私はそれ以上に、国の行く末を憂える同志として、心の深い部分で繋がっていたのではないかと想像しています。
福岡から車で約1時間、功山寺には何度も訪れていますが、桜、新緑、紅葉…、どの季節も素晴らしいです。私は行ったことがありませんが、おそらく雪の季節も素敵なんでしょうね♪
そして、なんと功山寺を訪れると、晋作が「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と宣言したお部屋にも、入れていただくことができます。晋作の魂が自分に乗り移ったような、不思議で素敵な感覚が味わえますよ!
これから旅をしたり歴史を学ぶには最適なシーズンを迎えますね。レンタカーを借りて平尾山荘から功山寺へ~♪ 晋作の気持ちに思いを馳せながらのドライブ、おすすめです! また関門海峡にのぞむ赤間神宮は、晋作を支えた下関の豪商・白石正一郎が晩年に宮司を務めています。
ああ~、また皆様をご案内したくなってきました(笑)
今年は新緑の季節にみんなで功山寺を訪れましたが、来年もまたみんなで訪れることができるように、いろいろ企画してまいりますね。
みなさま、ごきげんよう~(*^^*)
( 白駒妃登美 )
昔の講演の記録に久しぶりに触れる機会があり、その時話していた「ジョハリの窓」の話が、自分の可能性を広げるために大切な考え方だなぁと改めて感じたので、今回の“和ごころコラム”で触れてみたいと思います。
『自分も、他人も知らない、自分の可能性に光を当てる』には・・・。
大学卒業後、航空会社に入社して、新入社員研修で教わった心理学で有名な「ジョハリの窓」。
それは「あなたは、この4つの窓から成り立っているんですよ」と自分を4つの部分に分けるものでした。
その4つとは、
1:『自分が知っていて、他人も知っている自分』
2:『自分は知っていて、他人は知らない自分』
3:『自分は知らないけど、他人は知っている自分』
4:『自分も他人も知らない自分』
例えば、私の場合、『自分が知っていて、他人も知っている』部分は、「おおらか」とか、「明るい」など。
それは、私も自覚しているし、まわりの方も知っている自分なんですね。
そ れに対して『自分は知っているけど、他人は知らない』部分というのがあります。
「こう見えて、私は結構小心者なんです」というのは、ほとんどの方 が知らない私だと思いますが、小さい頃からその自分とずっとつき合ってきているので、私はよくわかっています。
さらに『自分は知らないけど、他人は知って いる』部分というのがあるんです。
そして最後は『自分も他人も知らない』部分があります。
この4つの部分の中で「あなた可能性が最も眠っているのはどこですか?」と、新入社員研修で聞かれました。
その答えは『他人も、自分さえも気づいていない』部分でした。
「自 分も他人も気づいていない部分に、一番可能性が眠っているので、その可能性をどんどん発揮していきましょうね」とその時に言われたんですが、
そ の後ずっと謎だったのは、「他人も、自分さえわかっていない自分の可能性を、どうやって発揮していったらいいんだろう」ということでした。
そ の疑問の答えが、最初の本を出版する過程で実体験としてわかったんです。
まず、私は歴史が大好きで、西郷隆盛を親友にしていたのですが、その事実 は自分は知っているけれども、他人は知らない部分でした。
絶対へんな奴と思われ、友達が一人もいなくなると思ったので、誰にも言わずに来たんですね。
で も、後に共著者となる、ひすいこたろうさんに、ぽろっと言ってしまったんです。
だって、ひすいさんは、当時「明治維新のことを本にしたい」と言いつつ、 「吉田松陰と高杉晋作と坂本龍馬のことしか知らない」なんておっしゃるんです。
それなのに明治維新をテーマに本を書くってあまりにも無謀だ から、「私がもし、お役に立てることがあれば・・・」という思いで、歴史好きだというこ とを自己開示したわけですよね。
そうすると、自分は知っていて、他人が知らなかったラインが動き、「私が歴史上の人物が大親友なんだ」ということが、他人 もわかってくるわけです。
そうしたら、ひすいさんが「妃登美ちゃんの歴史の話を聞いたら、日本を好きになる人が増えるから、ブログで発信していったらいい よ」と言ってくださいました。
私は小さいころから、自分の肝に銘じてきた言葉があります。
それは『素直さは最大の知性』です。
自分の能力 や性格は、あまり信用できないのですが、 『素直であることだけは、誰にも負けないでいよう』といつも思ってきました。
だから、ひすいさんから「妃登美ちゃんから歴史の話を聞いたら、日本を好きに なる人が絶対に増えるから、ブログで発信していったらいいよ!」と言われた時に、「はい!」と、素直に、その翌日くらいに、最初のブログ記事を書き始めま した。
ひすいさんに後からうかがった話ですが、私がこうやってみなさんの前で歴史の話をしている姿が、ひすいさんには見えていたそうで す。
でも、私はそん なこと想像もしてなかったんですよ。
ということは、歴史の講演をする私というのは、『自分は知らないけれど、ひすいさんという他人は知っている』部分だっ たんですね。
きっと同様のことが、皆さんの人生にもあるのではないでしょうか。
皆さんのことを思ってくれている人が、「こうしてみたら」 とか、「ああしてみたら いいんじゃない」と、いろんなことを言ってくれると思うんですね。
それに対して素直になると、「他人は知っているけど、自分が知らないラインがずれるんで すよね。
そうすると見てください、「真っ暗闇だった部分(自分も他人も知らなかった自分)」に、光が当たるわけです。
私の場合は、それが「歴史の本を出したり、歴史の講座をさせていただくという部分」だったわけですね。
自分も、他人も知らない、自分の可能性を発揮する方法は、以下の2つを実践することだと、本作りの過程で気づきました。
大好きな人や大切な人を笑顔にするために、『自分は知っているけれど、他人は知らないっていう部分を自己開示していく』『自分のことを本当に思ってくれる人たちの言ってくれることに対して素直になる』 私 は「徹子の部屋」というテレビ番組が好きでよく見るんですけれど、「徹子の部屋」って、その世界の一流の人たちが出るじゃないですか。
でもね、自 分で「これがやってみたい」と思ってその道に進んだ人は1割か2割だそうで、残りの8割から9割の人は、「自分では思ってもみなかったんですよ」という ケースが多いですね。
でも、「あなたにはこれが向いているんじゃない?」と言われたことを、真に受けてやってみたり、「こういうオーディションがあるから 受けてみたら」って言われて受けてみたり、それが一流を極めるスタートだったんですね。
人の言うことを全部真に受けろとは言いません。
でも、自分のことを本当に思ってくれる人の言うことには、耳を傾ける。
そこから、自分の知らなかった可能性が光り始めるんじゃないかなと思います。
司馬遼太郎氏の長編小説に、『峠』という作品があります。
これは幕末に越後長岡藩の家老を務め、武士道の美しさを体現した河井 継之助の生涯を描いたものです。
継之助は、西洋諸国が次々とアジア・アフリカの国々を植民地にしたり、実質的な支配を進める状況を憂え、日本の独立を守る ために、愚かな内戦は避けるべきだと考えていました。
ですから、幕府にも薩長にもつかないことを決め、中立を守るために、長岡藩の軍事力を強化していった のです。
もしこの継之助のもとに、西郷隆盛がやって来たなら、もしかしたら西郷は継之助の考えを理解し、二人は意気投合して、明治という 新しい時代を担う盟 友になれたかもしれません。
そうすれば、幕末維新史は大きく変わっていたでしょうね。
けれども不幸なことに、北越に派遣されたのは、「敵か味方か」という 分け方しか出来ない人間たちでした。
継之助は中立の立場を貫くこと、さらに内戦などしている場合でないということを、官軍となった新政府 軍に必死に伝えますが、「兵を出せ」「軍資金を 出せ」という新政府の要求を受け入れない長岡藩を、新政府軍は“敵”と見なし、長岡に攻め込んできました。
そこで、継之助はやむなく戦闘指揮をとることと なります。
人生とは、皮肉なものです。誰よりも戦争の愚かさを知り、戦うことに消極的だった継之助が、実は軍事の天才だったのですから…。
天才に率いられた長岡藩は、兵力は寡少でありながら、北越が戊辰戦争の中で一番の激戦地だったと言われるほど、新政府軍を悩ませるのです。
こ の皮肉なめぐり合わせは、継之助の時代からおよそ70年後、大東亜戦争において、誰よりも開戦に反対していながら、自らが真珠湾攻撃を仕掛け開戦 の火蓋を切らなければいけなくなった山本五十六に重ね合わすことができます。
しかも、継之助と五十六、二人とも長岡出身ということまで一致しています。そ して二人とも、自分の思いとは違う方向に歴史が進んでしまうのですが、それでも腐らずに、その運命を受け入れ、自分の持ち場で精一杯のことを行ったので す。
長岡藩は、官軍との間で激しい戦闘を展開するも、ついに戦いに敗れました。継之助は、新政府軍と戦闘を続ける会津藩に合流しようと、 会津に向かいま すが、その途中で、戦闘中に負った傷が悪化し、命を落としました。
亡くなる直前、従者に自分を火葬する火を焚かせ、それをじっと見つめていたそうです。
そんな男の美学を貫いた継之助には、多くのファンがいます。そのほとんどは、もちろん『峠』の読者です。
けれども、司馬作品の中に、河井 継之助を描いた、もう一つの短編小説『鬼謀の人』があることは、あまり知られていません。
『鬼 謀の人』によると、長岡にある継之助のお墓は、いくら建て替えても、常に誰かの手によって墓石が傷つけられるのだそうです。
「継之助さえいなけ れば、長岡藩が新政府軍を敵に回し戦争することはなかった。継之助のせいで、長岡の多くの若者が戦死したのだ」という思いが、地元には根強く残っているか らです。
そしてその地元の人々を慮り、河井家のご子孫は、明治以降、長岡を離れたまま、先祖伝来の地に戻れずにいるのだそうです。
『鬼謀の人』の主旨はこうです。
「も し長岡がもっと力のある大きな藩だったら、官軍もその意向を無視することは出来なかっただろう。
そうなれば、継之助率いる長岡藩がキャスティン グボードを握り、歴史は変わっていたかもしれない。
しかし、実際には、長岡は10万石に満たない小藩だった。
だから歴史の波に飲み込まれてしまった。
継之 助の死とともに長岡の抵抗があっけなく終わっていることを考えると、“継之助がいたから多くの若者が死ななければいけなくなった”という地元の人々の思い も、うなずける。
確かに、河井継之助は天才だった。
しかし天が天才の置き所を間違えると、天才の存在は天災になってしまう」 『峠』と『鬼謀の人』。
そこには、美しい生きざまと、それを貫くために多くの命を犠牲にしてしまった、という二面性が描かれているのです。
私は、これと同じことが、大東亜戦争にも言えるのではないかと思っています。
白 色人種による世界制覇を水際で防いだとされる、日露戦争。極東の小さな島国である日本が、10数倍の国力を誇る白色人種の国家・ロシアを破ったの です。
この事実に、白色人種の国家から搾取されていた人々は、勇気と希望を取り戻しました。
さらに大東亜戦争の初期、日本軍が破竹の勢いで連戦連勝し、白 色人種を駆逐していく様子を見て、長年、被支配者としての立場に甘んじ、奴隷のような暮らしを強いられていた彼らが、立ち上がるきっかけをつかんだので す。
世界史という視点で見た時に、この二つの戦争は、私たち日本人が認識している以上に、大きな意味を持つのではないでしょうか。
しかし 同時に、その意 味のある戦いを遂行するために、200万を超える若い命が戦火に散り、そればかりか全国各地で非戦闘員の命も奪われ、戦場となった他国も含め、その犠牲は あまりにも大きかったと言わざるを得ません。
その事実から目を背け、先人たちの国を思う心を美化するだけでは、真の誇りは生まれないと思うのです。
い ま世の中にはびこっているのは、「戦前の日本のすべてが悪かった」という歴史観か、逆に「日本のしたことは、すべてが正しい」という、どちらも非 常に偏った歴史観です。
でも、歴史というのは、それほど単純なものではないはずです。
人間には、多面性があります。菩薩のように相手を慈しむ時もあれば、 同じ人間が、別の場面では、冷酷になったり、意地悪になったりすることもある…。美しい菩薩の心と、醜い獣のような心、その狭間で揺れ動くのが人間です。
そういう人間が集まって国ができ、一国の歴史が紡がれていくのですから、そこには光と影が存在するのが、当たり前なのではないでしょうか。
「正 しい、間違っている」という二元論ではなく、こういう見方もできる、でも逆から見れば、こんな事実が浮び上がってくる…。
私は、その多様性を学 ぶ場が、歴史だと思うのです。
生きる力は、視野の広さに比例しますよね。
歴史を通してさまざまな見方、捉え方を学び、視野を広げることが、生きる力を養う のです。
イギリスの歴史学者アーノルド・トィンビーは、世界史の中で滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけ、次のように警鐘を鳴らしています。
1:理想を失った民族は滅びる。
2:すべての価値を物やお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる。
3:自国の歴史を忘れた民族は滅びる。
トィ ンビーによれば、この三つのうちどれか一つでも当てはまれば、その民族は滅亡するというのに、戦後の日本は、すべてが当てはまる三重苦の状態で した。
誰もが経済的な繁栄にばかり目を奪われ、人として良く生きようという理想、目に見えない心の価値や絆、そして民族の誇りを育む歴史観、それらすべて を置き去りにしてきたのですから…。
中でも、“民族の誇りを育む歴史観”の欠如は深刻です。我が国の学校教育では、神話や偉人伝に触れられることなく、歴史は年号と出来事を暗記するだけの授業に成り果てています。
でも、本来、考古学は歴史の補助学にすぎず、歴史(ヒストリー)の本質は、「物語」なのです。
先 人たちが紡いできた物語を学ぶことで、先人たちが何を恐れ、何を大切にし、どんな思いで生きてきたのかを知り、その命のバトンを受け取ること。
そ れこそが、歴史教育の真髄であり、そこから溢れ出る思いは、他国を非難し、他国を蔑むことで高揚するような、薄っぺらな愛国心とは違い、真の誇りを育てて くれることでしょう。
第一次世界大戦が終結した、1918年。
その年の11月、ヨーロッパの小国が、ロシアから念願の独立を果たしました。それが、ポーランドです。
ロ シアの圧政下に置かれた50年以上の間、志ある者たちは何度も立ち上がり、武装蜂起しましたが、そのたびに強大なロシア軍に抑えられ、彼らは囚わ れの身となって、シベリアで強制労働をさせられていました。
彼らを追って恋人や家族もシベリアへ…。
1918年の時点で、シベリアで生活するポーランド人 は、10数万人にのぼったと言われています。
極寒の地・シベリアで、飢えと疫病の脅威にさらされた生活は、大人にとっても苛酷でしたが、親を失って孤児となった子どもたちは、この世の終わりとも思えるような悲惨な状態に置かれていました。
「この子たちを故国に送り届けたい」と願う人々によって『ポーランド救済委員会』が組織されたのは、1919年9月のこと。
と ころが翌年、ポーランドとロシアの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことができなくなったのです。
そこで救済委員会は欧米諸国 に協力を求めましたが、第一次大戦直後の混乱と緊張が続く中、各国の反応は冷淡なものでした。
窮地に立たされた救済委員会が最後の望みを託した相手、それ が日本政府だったのです。
「日露戦争でロシアを破った日本なら、子供たちの苦境を救ってくれるかもしれない」 その祈りにも 似た懇願が、外務省を通して日本赤十字社にもたらされました。
当時、ポーランドと日本の間に国交はなかったので、外務省が動くわけにい かなかったからです。
日赤は、たとえ国交がなくとも、人道的見地に基づいて、孤児を救済することを即決。
シベリアに出兵していた帝国陸軍の協力を得て、 1920年から22年にかけて、765名もの孤児を救い出したのです。
日本人が、古くから大切にしてきたものの中に、「惻隠の情」がありま す。
しばしば「思いやりの心」と訳されますが、惻隠の情と思いやりの心はイコー ルではありません。思いやりの心を持つことはもちろん大事ですが、困っている人を見たら、放っておけない、つい手を差し伸べてしまった…。
そんな、やむに やまれぬ思いが、「惻隠の情」なのです。
つまり、惻隠の情とは、限りない優しさと、確固たる強さに裏打ちされているのですね。
このエピソードは、拙著『人生に悩んだら日本史に聞こう』(祥伝社)に詳しく書かせていただきましたが、先日、ある若いポーランド人女性とお会いした時、彼女がこの話を熱く語ってくれたのには、心からの感動を覚えました。
ポーランドには親日家が多く、阪神大震災や東日本大震災が起こった時も、直後から支援活動を開始し、震災で親を失った子供たちをポーランドに招いて、傷ついた彼らの心を慰めてくれたといいます。
連鎖するのは、悲しみや憎しみだけではいんですね。
彼女は、孤児救済以外にも、ポーランドが親日国である理由がいくつかあるとして、次のような理由を挙げてくれました。
まずは、日本製品に対する信頼性。
日本の技術力は、ポーランドの人々に大きな信頼を与えているといいます。
そ れから、日本人ほどショパンを愛している民族はいない、ということ。ショパンはポーランドの出身ですが、祖国の独立を見ることはありませんでし た。
祖国を失った同胞を、常に音楽で鼓舞し続けたのがショパンであり、その音楽は彼らの誇りなのですが、日本人は、そんなポーランドの人々に負けず劣ら ず、ショパンを愛していると、彼女は言うのです。
そして、第二次世界大戦下のナチス・ドイツのユダヤ人迫害に際して、当時リトアニアに赴任 していた外交官・杉原 千畝さんがユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたこと。
杉原さんが助けたユダヤ人の命は6000人以上に上ると言われます(ビザは1家族につき 1枚なので、正確な人数はわかりませんが、杉原さんがユダヤ人に発給したビザの数が約1500枚だったため、それによって6000人以上が救われただろう と推定されます)が、その多くが、ポーランド系のユダヤ人だったそうです。
彼女は、シベリアの孤児救済、そして第二次大戦下のポーランド 系ユダヤ人の命のビザと、ポーランドは2度も日本に助けてもらったと、深く感謝してく れました。
その女性は、日本人と結婚し、福岡に住んでいるぐらいですから、日本が大好きで、親日国といわれるポーランドの中でも、日本LOVEな気持ちは 人一倍強いと思いますが、それにしても、現代に生きる20代の女性が、このように歴史を確実に受け継いでくれていることに、私は深い感銘を受けます。
ひるがえって、日本の若者はどうでしょう?
国 際人になることは、真の日本人になること。
このことを、いったいどれだけの若者が理解しているのでしょうか?自国の歴史や文化を理解しない国際人 なんて、存在しません。自国の歴史や文化と他国のそれを比較するから、異文化への理解が深まるのです。
そして自国の歴史や文化に対する誇りを持つから、他 国の人々も、同じように自分の国に誇りを持っていることが想像でき、他者の立場や誇りを尊重できるようになるのです。
今年で戦後70年。
真の国際人になるべく、脱皮する時を迎えているような気がします。
「苦しくなったら、私の背中を見て」
これは、4年前のワールドカップで、澤選手が後輩たちに伝えた言葉だそうです。
どうりで、なでしこたちは、苦しくても下を向かず、苦しい時こそ顔を上げていたわけですね。
アメリカとの死闘を、PK戦の末に制し、世界一に輝いてから4年…。
決勝戦は、4年前と同じ顔合わせ。
今回はアメリカに軍配が上がりました。
試合開始からたった16分で、アメリカに4点を奪われ、悪夢のような展開。
「そんなバカな…」 「夢なら覚めてほしい」 きっと日本中が悲鳴を上げたでしょう。
私も、ついに画面を見られなくなり、思わず目をそらしてしまいました。
けれども、次の瞬間、画面に映し出されたのは、誰も下を向かず、顔を上げるなでしこたちの姿。
その姿は、試合時間が残り短くなっても、決して変わることはありませんでした。
スコアは5対2.サッカーで3点差は、「大差」と言うのかもしれません。
でも、なでしこたちは、試合終了の瞬間まで、誰ひとり諦めていませんでした。
そして、最後まで顔を上げて、誇りを保ち続けていました。
負けた試合で、これほど感動を呼び、これほど人々に勇気を与えるなんて、なでしこたちの底力は、本当にすごいと思います。
そして、私は、彼女たちの姿を見て、『日本人はとても素敵だった』(桜の花出版)の著者・楊 素秋さんの言葉を思い出しました。
戦争に負けて、財産も没収されて、日本人はみんな肩を落として台湾から引き揚げて行った。
でもね、そんな状況でも、日本人は誰ひとりとして、愚痴も泣き言も不平不満も、文句ひとつ言わなかったよ。
肩は落としていたけれど、日本人の背中は、毅然として、堂々としていた。
私はあの時の日本人の背中を忘れたことはない。
と ころが、戦後、テレビに映る日本人は、まるで別の民族のように見えた。
実際に仕事で日本を訪れても、どこにもあの時の 日本人はいなかった。
あの時、まだ子どもだった私に背中で示してくれた日本人の誇りは、どこに行ってしまったんだろう。
日本人は、日本精神をなくしてし まったんだ。
私はずっとそう思っていた。
でも、阪神淡路の震災、そして東日本の震災…。
日本に危機が訪れるたびに、画面に映し出される日本人の背中は、あの時のままだった。
日本人は、日本精神をなくしてしまったのではない。
日本精神に、雲がかかっているだけなのだ。
私は、日本人に伝えたい。
その雲をはらって、と。何かが起こった時だけでなく、日常生活の中で、日本精神を発揮してほしい、と。
そのために私に出来ることがあれば、何でもします。
私にとっての2つの祖国・台湾と日本を結ぶ懸け橋の、釘一本になると決めたのだから…。
小 柄で、品があって、それでいて凛としていて…。
昨秋、素秋さんに初めて会った時、私は雷に打たれたような衝撃を覚えま した。
そして、私も微力ながら、素秋さんの背中を追いかけ、台湾と日本を結ぶ懸け橋の釘一本になって、日本人が日本精神を取り戻すための一助となりたい、 そう心に誓ったのです。
でも、実際にはどうすればいいんだろう? 講演で日本精神を伝える以外に、日常生活の中で私は何をしたらいいんだ ろう? 「自分さえよければ」「今さえよければ」そんな気持ちを手放し、みんなのことを考え、次の世代のことを考える…。
これが、本来の日本人の生き方。
でも、何 かが足りない。 そんなふうに感じていた時に、あのなでしこの姿を見たのです。
何が起こっても、下を向かず、凛として、前を 見る。
何が起こっても、諦めもせず、ヒステリックにもならずに、今できる精 一杯のことをする。
日常生活の過ごし方の大きなヒントをくれたなでしこたちに、心からの拍手を送ります。
そして機会があれば、なでしこリーグをぜひ見に行 きたいです。
「ブームから文化へ」という宮間キャプテンの思いに、少しでも応えたいから…。
4年前の6月に『人生に悩んだら日本史に聞こう ~幸せの種は歴史の中にある』を出版させていただいてから、全国各地に講演に呼んでいただくようになり、私の人生は劇的に変わりました。もともと歴史を専 門的に学んだことのない私が、このような流れに導かれるなんて、人生って、不思議で、味があって、本当に面白いですね。
素人の私が出版で きたのは、ブログ記事を編集者さんが読んでくださったからなのですが、私にブログを書くように勧めてくださったのは、天才コピーラ イターにしてベストセラー作家のひすい こたろうさんです。
でも実は、勧めていただいたことは、とても光栄で有り難かったのですが、当初、私には自信がなかったんです。
だって、日本文化の本質 は、ある意味、自然との共生の歴史だと思うのですが、私は東京のベッドタウンで育って、小さい頃から自然と対極の環境で生きてきたんですから、「こんな私 に日本の文化や歴史を語る資格はない」と思ったんですね。
そんな私の人生の扉を開いてくださったのは、私のバイブルである『日本のこころの教育』(致知出版社)の著者・境野 勝悟(かつのり)先生でした。
境野先生は、千利休のことをお話しくださり、最後にこうおっしゃったんです。
「利 休はね、もともと堺の商人で、お金儲けがうまかったんですよ。日ごろ商売にいそしみ、お金にまみれていたからこそ、誰よりも自然の美しさは尊い と思ったんでしょうね。自然の中で生きている人が、自然の素晴らしさを一番知っているとは限らない。利休のように、目一杯お金儲けしていいんですよ。そし て自然とかけ離れた生活をしているからこそ気づく自然の素晴らしさを、日本の文化の奥深さを、どんどん発信していってください」
これは、少人数の勉強会で先生がおっしゃった言葉であり、私が何を考えていたかなんて、先生は知る由もないのですが、この先生の言葉に励まされ、私はブログに日本の歴史や文化の素晴らしさを綴っていく勇気を持てました。
ひすいさんと出会い、境野先生に背中を押していただいて、今の私があるのですが、実は、最近、私が人知れず悩んでいたことがあります。
『人生に悩んだら日本史に聞こう』 『感動する! 日本史』 『こころに残る現代史』 『愛されたい! なら日本史に聞こう』 こ れが今まで出版させていただいた本のタイトルですが、すべて「歴史」がキーワード。
そこが私の悩みの種なんです。
私は歴史を専門的に学んだわけで なく、幼い頃に読んでいた伝記や歴史の読み物の記憶をたどり、そこに全国各地の資料館や歴史館を訪ねて知ったことや現地で感じたことを交えて、原稿を書い ていきます。
これを「歴史」って呼んでいいのかなぁ~って、自分のやっていることに自信を持てなくなっていたんですね。
歴史とは、古文書を紐解いたり、文献を分析したりして、研究を積み重ねたものを言うんじゃないかって。
そんなタイミングで、また素晴らしい出会いをいただいたんです。
伊勢修養団の寺岡 賢先生です。あの中山 靖雄先生の愛弟子でいらっしゃいます。
寺岡先生は、こんなふうに言ってくださいました。
「歴史は、英語で“ヒストリー=his story”ですよ。物語じゃなきゃいけないんです。考古学は大切ですが、それはあくまで歴史の補助学ですよね」
わぁ、 そうなんだ…!!
日本史は、“日本人の物語”なんだ!
日本人の物語を、もっともっと自信を持って、心をこめて発信していこうって、私の心 にかかっていた霧が晴れ、あとからあとからエネルギーが溢れ出てきたのです。
まさに千載一遇と言ってもいい、寺岡先生との出会いでした。
それにしても、これ以上ない、絶妙なタイミングで、いつも素敵なご縁をいただけること、本当に有り難いです。
「人間は一生のうち会うべき人には必ず会える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」……
これは、名著『修身教授録』の著者であり、偉大な国民教育者・森 信三先生の名言ですが、私は今、この言葉の有り難さを実感しています。
そして森 信三先生のこの名言には、こんな続きがあるんです。
「しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず」
深 いですね~。
「求める心」…それは我欲でなく、自分の使命を全うするために求める、根源的な心の発動を言うんじゃないかと思うんですよね。
人を相 手にせず、天を相手に生きた時、求める心に呼応するように、必然で必要なご縁が、ベストなタイミングで運ばれてくるのではないでしょうか。
私は以前、「プレーヤーであり続けろ!」というコラムを書かせていただきました。
記事はこちら 評論家はもちろん、ファンになってもいけない。
自分がプレーヤーとしてあり続け、ある種、相手と対等な関係にあるからこそ、真の学びがあり、それこそが相手への本当の“リスペクト”なのだ、という思いを綴らせていただきました。
で も、正直に言うと、私だって、崇め奉りたくなる人物がいるんです。
空海、島津斉彬、福澤諭吉が、その筆頭です。
中でも、島津斉彬に関しては、私は ずっと“雲の上の人”と思ってきました。「自分と同じ人間だ」なんて、全く思えず、ただただ憧れ、尊敬していました。
その斉彬と、私がどのように友だちに なっていったのかを、今回はお話ししたいと思います。
ただその前に、私がなぜそこまで斉彬が好きなのかをお伝えしないといけませんね。
私は、幼い頃から、西郷隆盛が大好きでした。
自分の気持ちをうまく伝えられず、親や友だちとぶつかってしまった時、私はいつも「大丈夫! 西郷さんならきっと私の気持ちをわかってくれるから」と、自分を慰めていました。
高 校生ぐらいになると、歴史を動かしているのは、実は政治よりも経済なのではないかと気づいたのですが、“経済”という視点から西郷さんを見た時 に、「もしかしたら、西郷さんに一つだけ欠けていたのは、経済に対する理解かもしれない」と考えるようになりました。
西郷さんは、もともと薩摩藩の中で農 政を担当していたので、どうしたって考え方が農本主義になるんですよね。
西郷さんが明治以降発展していく資本主義についてどこまで理解していたのかは、今 となっては謎です。
「西郷さんの人間力に、経済に対する理解が加われば、もうその人は完璧! まぁそんな人、いるわけないけど…」私はそ んなふうに思っていたのです が、それから程なくして、見つけてしまったんですよ、その完璧な、憧れの人を…!!
当時、『島津斉彬のすべて』という本を読んで、私は全身に電流が走る ほど衝撃を受けました。
そして友だちのように思える歴史上の人物はたくさんいるけれど、尊敬できる人物は、この人をおいて他にいない、と確信したのです。
斉彬の業績は、そりゃあもう、素晴らしいの一言に尽きます。
土 佐藩の漂流民でアメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、彼の語学力と造船技術を生かし、西洋式帆船を造り、さらに日本初の国産蒸気船を完成さ せたのは斉彬!
産業を興し、富国強兵に努め、反射炉・ガラス・ガス灯の製造などの事業をいち早く興したのも斉彬!
幕末に国際法のからみで、船にナショナル フラッグをつける必要が生じた時に、日の丸を掲げることを提案したのも斉彬!
そして下級藩士の中から西郷隆盛を見いだし、育てあげたのも斉彬!!
そんな日本史の生んだ天才・斉彬の日本に対する思いの結晶が、間もなく世界遺産に登録されようとしています。
藩 主の座に就いたのは、嘉永4(1851)年、ペリー来航の2年前のこと。
植民地政策をとる西欧列強が、強大な軍事力を背景にして、アフリカ・アジ ア諸国を次々に植民地にしている……これらの情報を的確に分析した斉彬は、理化学に基づいた工業力こそが西欧列強の力の根源であることを見破りました。
そ して、日本の独立を守るためには、西欧諸国の技術を導入して軍事力を身につけることが必要であると確信し、近代的な大規模洋式工場群の建設に着手したので す。
それは「集成館事業」と呼ばれ、幕末から明治にかけての産業革命遺産群の中核的な存在を成しています。
この集成館事 業、同じ時期に推し進められた幕府や他藩の産業革命とは、ひと味もふた味も違っています。
幕府や他藩の洋式工場が、製鉄、造砲、造船な ど軍事的色彩の強い分野に限られているのに対して、薩摩藩が手掛けた事業は、これらに加え、薩摩切子と呼ばれる美しいガラス製品や薩摩焼に代表される陶 器、紡績、製薬、印刷、出版、電信、写真、食品、それにガス灯の実験など、多岐にわたっていて、庶民の生活に密着したものが実に多いのです。
なぜ、斉彬は、このように幅広い分野での研究開発に力を注いだのでしょうか。
斉彬は考えました。
「独 立を守るためには、軍艦や大砲が必要不可欠である。しかし、軍艦と大砲だけでは国を守れない。軍艦や大砲よりも大切なのは、国民みんなが力を合 わせ、気持ちを一つにすることだ。そのためには、人々の生活が豊かでなければならない。国中の者が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の 和はどんな城郭よりも勝る」
人々が、その日の食べものにさえ事欠くような貧しい暮らしをしているのであれば、国民が心を一つにして外国に 対抗するなんて、できるわけがありませ ん。
産業の育成や社会基盤の整備を行えば、人々は安心して暮らせるようになり、同時に、西欧諸国とも対等な関係を築くことができるでしょう。
そしてそれこ そが日本の独立を守る道なのだと、斉彬は考えたのです。
薩摩を、そして日本を豊かにしようと考えた斉彬は、苦労に苦労を重ねてつくった集 成館に、諸藩の人々を招き、薩摩藩の技術を公開し、それぞれの藩に 帰って同様の洋式工場をつくるように提案しています。未来の日本のためには、日本の隅々にいたるまで、すべての地域が情報や技術を共有し、近代化すること が望ましいと考えたからです。
幕末と言えば、まだまだ「日本国」という意識が薄く、藩が一つの国のように考えられ、それぞれが自分の藩の 利益を主張し、いがみ合っていた時代で す。
そのような時代に生きながら、斉彬の考えや行動は、すべて「未来の日本のため」「人々の幸せのため」という思いが起点になっているのです。
斉彬は、これだけのことを、薩摩藩主を務めていたわずか7年余りの間で成し遂げています。
しかも、いとも簡単に、やすやすと…!と、私はずっと思ってきました。
だから斉彬を尊敬し、崇めていたのです。「私とは次元が違う。こういう人を天才と呼ぶんだ」と…。
ところが、数年前に、今は資料館となっている集成館の跡地を訪れた時、そこを管理する島津家のご子孫の方から、意外な事実を伺いました。
斉 彬が磯の地を訪れるたび、足繁く通っていた場所があるというのです。
集成館に残る資料によると、斉彬は、ひとり海辺で魚釣りに興じていました。
朝 から晩まで、一日中、釣り糸を垂れる日も珍しくなかったといいます。ところが、斉彬が魚を持ち帰ってきた形跡はありません。
実は、この釣り糸には、針がつ いていなかったのです。斉彬は、なぜ魚を釣るわけでもないのに、一日中釣り糸を垂らしていたのでしょうか。
集成館があったのは、島津家の 別邸のある磯地区。
錦江湾(きんこうわん)の向こうに、雄大な桜島がそびえ立ち、刻々と変わりゆく空と海の色、そこに 映える桜島を一日見ていても飽きない、鹿児島随一と言っていいほど、風光明媚なスポットです。
そこで大自然に抱かれながら、ただひたすら釣り糸を垂れてい た斉彬。私はこの事実を知った時、「斉彬も人間だったんだなぁ」と、妙な感動をおぼえました。
そしてとても僭越ですが、「なんてかわいいんだろう!」と、 斉彬に対する慈しみの思いが溢れてきたのです。
きっと斉彬の胸中には、日本の将来を(希望も危機感も、すべてを)一人で背負って立ってい るような孤独感、重圧、そして日本の将来を思うがゆえの焦 燥感など、複雑な思いがあったのではないでしょうか。
針のない釣り糸を垂らしながら、斉彬は、その孤独感と向き合い、見事に打ち勝ったのです。
斉彬ほどの天才も、楽々と偉業を成し遂げたのではなかった。
時には何も考えずボーっとする時間を持ったり、趣味に没頭してリフレッシュしながら、焦ったり、もがいたりする自分自身を受け入れ、いま自分にできることに集中して、一つ一つやり遂げていったのだと思います。
そ のことに気づいた時、雲の上にいた斉彬が、急に自分の前に姿を現してくれたような気がしました。
歴史上の出来事を見ると、何とも無味乾燥なものに 感じられますが、人物にスポットを当て、その人がどんな思いで、その時代にそこに生きていたのかに思いを馳せ、自らの姿を重ねた時に、憧れの人と親友にな れる…。
私はこれからもこの手法で、親友をどんどん増やしていきたいと思っています。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣。 豊臣方の武将・木村重成の部隊は、東部方面戦線の遊撃隊として配置されました。
遊撃隊というのは、戦いの形勢を見て、不利な状況に陥った味方を救う べく、出撃する部隊のことです。
11月26日の早暁、大坂城の東北に位置する今福の堤に、徳川軍が攻め寄せて来ました。
豊臣軍の守備隊は、防衛のための柵 を四重に設置していましたが、三段目まで破られ、壊滅的な打撃を受けようとしていました。
大坂城内でその様子をうかがっていた重成は、自らの部隊を率いて出陣。
戦上手として名高い後藤又兵衛(またべえ)も、すぐさま自身の部隊を率いて駆 け付け、重成隊に合流しました。
重成&又兵衛の連合軍は、今福で徳川方の佐竹隊を撃破。窮地に陥った味方を救いました。
同時にこれは、重成が見事に初陣を 飾った瞬間でもありました。
ところが、大坂城に引き上げた重成は、家来の大井何右衛門(かえもん)の姿が見当たらない事に気づきます。
大井は、多くの大名から仕官の声がかかった武勇の士で、この日も、重成の武者奉行として、初陣の主人を支えて奮闘していました。
重成は、「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士に下知ができるだろうか。なんとしても探してこよう。」 と、ただ一人、戦場にとって返し、死体が散乱する中、大井の姿を探し求めたのです。
どれほど戦場を駆け続けたでしょうか、ついに重成は、怪我をして動けなくなっている大井を発見しました。
ところが、彼を抱きかかえ、城に戻ろうとしたところで、重成は敵に囲まれてしまいます。
「私のことは棄てておいて、早くお戻りください。」と訴える大井に対して、「ここに来て見捨てるぐらいなら、初めから助けになど来ないだろう。」重成はそう告げると、槍を取って取り囲む敵に突っ込んでいきました。
重成は、自分が盾となり時間を稼ぐことで、怪我をした大井を逃がしてやるつもりだったのでしょう。
重成には、胆力と優しさという、男にとって最も大 切なものが備わっていたのです。
その後、味方の30余騎が駆けつけたことで、重成主従は無事に城へと退却できたのですが、この時も、重成は、部下を思いや り、自身が殿軍(しんがり)を務めたということです。
この今福・鴫野方面での戦いが、大坂冬の陣における最大の野戦となりました。
この戦いにおける重成の奮闘に対して、豊臣方の総大将である豊臣秀頼は、「日本無双の勇士」と称賛の言葉を口にするとともに、感状と脇差しを下賜しました。
けれども重成は、せっかく秀頼から下賜された感状(戦功を称える賞状)と脇差しを、その場で返上してしまいます。
武士として、これほどの栄誉はない はずなのに、なぜ重成はこれらを返上したのでしょうか? このたびの戦の武功は、自分一人の働きではなく、みなの力によるものである、と。
さらに、感状は、他家へ奉公する時に経歴の飾りとはなるが、自分は二君に 仕える気はないから、無用である、というのが、その理由です。
この言葉を聞いた部下も、主人である秀頼も、感無量だったでしょうね。
私は、重成の for you スピリットが大好きなのです。
木村重成は、真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永らと並ぶ大坂城七(なな)将星(しょうせい)の一人です。
重成の母親が豊臣秀頼の乳母 (めのと)だったので、重成と秀頼は兄弟のようにして育ち、重成は幼少の頃から秀頼の小姓を務めました。
二人は年齢も同年代で、秀頼にとってほとんど唯一 の幼馴染と呼べる存在が、重成でした。
秀頼の小姓から、やがて豊臣家の重臣となった彼を、ともに大坂の陣で戦った毛利安左衛門という者は、のちにこのように述懐しています。
「丈高く、色あくまで白く、眉黒々と際だち、細い眼の眦(まなじり)が凛と上がった美丈夫で、たぐい稀なる気品を備えていた。」
重成は、美しい外見と優しい洗練された物腰で、大坂城の女官たちの人気を一身に集めました。
彼の姿を見かけただけで、女官たちが騒いだと言われています。
また、真偽のほどは定かではありませんが、彼の美しさを伝える、おもしろいエピソードが残されています。
大坂の陣の引き金となった方広寺の鐘銘をめぐり、豊臣方の使者として女官たちが駿府の徳川家康のもとへ向かいました。
おそらく徳川家の警戒心を解く ために、男性ではなく女官を選んだのだと思いますが、同時に、それでは心もとないと感じたのでしょう。
なんと重成に女装をさせ、この使節団の中にまぎれこ ませたのです。
ところが、なんとしたことか、徳川の武将たちは、重成のあまりの美しさにポーッと見とれ、誰一人として、その美女が男であることを見破れなかった… というのです。
重成という人は、いかつい体格ではなく、むしろ線は細めで、現代の男性アイドルのような美しさを持っていたのではないでしょうか。
もし戦国 武将でジャニーズを結成するとしたら、彼は間違いなく、トップアイドルになっていたでしょうね。
これは、まだ大坂の陣が起こる前のこと。
主君・秀頼の信頼が群を抜いて厚く、女性にもモテモテ…そんな重成をやっかむ者が現れても、不思議ではありません。
どれだけ主君の信頼が厚くても、 また女性に大人気でも、それは実績に裏打ちされてのものではないのです。
なんといっても、重成は、大阪冬の陣で初陣を飾ったわけですから、まだこの時点で は実践経験ゼロ、武将としての才能も未知数でした。
豊臣家臣団の中には、女装してもばれないほどの彼の美しさと、さらには実戦経験の無さを揶揄する人が、少なくなかったといいます。
けれども、どれほどの侮蔑を受けても、重成は平然と受け流すばかり。
その態度は、まるで春風が吹くように爽やかだったといいます。 ところが、重成が反論しないのをいいことに、しだいに秀頼の近従や茶坊主まで、彼を侮るようになってしまいました。
そんなある日、調子に乗った茶坊 主が、痛烈に重成を辱めたのです。
武士にとって、馬鹿にされ辱めを受けるということは、死ぬことよりもつらいものです。
普通なら、自分を馬鹿にした相手を 殺し、その責任を取って、自分も死を選ぶでしょう。
その場にいた者たちは、「これほどの辱めを受ければ、いくら重成でも黙ってはいられないだろう。」と、凍りつきました。
ところが、この時の重成の言動は、すべての者の予測を超え、あまりに見事だったのです。
みなが息を呑みながら見守る中、重成は、静かに茶坊主の方に 向き直ると、「本来ならばお前を打ち捨てにするべきなのだろうが、そうすると私も死ななくてはならない。しかし、お前ごときのために、いま私が死ぬわけに はいかない。私の命は、秀頼様のためにこそ死ぬためにあるのだ。」
そう言って、笑顔さえ見せたそうです。
この一件で、重成の覚悟を知った城内の者は、誰一人として重成を軽視しなくなりました。
こうして、名実ともに豊臣方の柱石の一人となった重成は、大坂冬の陣で、武将として大器の片鱗を見せるも、夏の陣では、その言葉通り、壮絶な討死を遂げたのです。
大坂城が落城し、秀頼が自刃したのは、その翌日のことでした。 「私の命は、秀頼様のためにこそ死ぬためにある」 そう思い定め、見事に本懐を遂げた重成。
人の一生は、そんなに長くはない。
だとしたら、かけがえのない命を、誰のために、何のためにつかうのか?
どうでもいいことは、いちいち気にせず、スルーすることも大切だよ…
私は、重成がそう語りかけてくれているような気がします。
人と比べて、劣等感を持ったり、自分の境遇を嘆いたり、人からどう思われているかを気にしたり…本来はどうでもいいことに振り回され、一喜一憂して いる私たちは、重成に顔向けできませんね。
自分は、何のために生まれてきたのか、誰の笑顔が見たいのか…素直に自分と向き合えば、本当に大切な人、大切な ものが見えてきます。
本当に大切な存在を大切にするために、どうでもいいことはスルーするというのも、大事なエッセンスなのかもしれません。
私が歴史講座をやらせていただくようになったのは、2010年夏のこと。
歴史は、「年配の男性が好むもの」というイメージが強かったし、「こんなマニアックな話、誰も喜ばない」と思っていたので、それまでの私は、誰かに歴史の話を好んですることはありませんでした。
それが、ひすいこたろうさんと出会って、「妃登美ちゃんの歴史の話を聞いたら、日本を好きになる人が増えるから、ブログで歴史のエピソードを発信し ていったらいいよ」 と言われ、「そんなこと、起こるわけないじゃない。」と思いながらも、「素直さは最大の知性」 と肝に銘じ、ブログを始めました。
そうしたら、ブログを読んでくださった方々から、講演や出版のお話をいただき、あれよあれよという間に、自分では思いもよらなかった人生の流れになって…。
それがただ嬉しくて、有り難くて、あまり深く考えないままに講演や執筆を続けてきました。
ところが、イエローハットの創業者・鍵山 秀三郎先生に出会ったことで、私の心の中が大きく変化したのです。
やっていることは同じでも、思いが変わり、責任や重みも感じるようになりました。少し大 げさですが、日本人に生まれたことに誇りを持てるような歴史のエピソードを伝えることが、私の使命なんだと気づかせていただいたのです。
英国の歴史学者・アーノルド=トィンビーは、世界史の中で滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけ、次のように警鐘を鳴らしています。
①理想を失った民族は滅びる。
②すべての価値を物やお金に置き換えて、心の価値を見失った民族は滅びる。
③自国の歴史を忘れた民族は滅びる。
トィンビーによれば、この三項目のどれか一つでも当てはまれば、その民族は滅亡するというのに、戦後の日本は、誰もが経済的な繁栄にばかり目を奪わ れ、人としていかに生きるべきかという理想、目には見えない心の価値や絆、そして民族としての誇りを育む歴史認識、それらすべてを置き去りにしてきまし た。
歴史上の出来事に、100%プラスの出来事もなければ、100%マイナスの出来事もなく、すべての出来事は、功罪相半ばしています。でも、近代史に関しては、ことさら「罪」の部分ばかり強調されて教えられてきたのではないでしょうか。
そして、3つのうちのどれか一つでも当てはまれば、その民族は滅ぶと言われているのに、 戦後の日本は、3つの条件がすべて当てはまる「三重苦」だったような気がします。
鍵山先生に初めてお会いした時、図々しくも自分の著書をお渡ししました。
すると、鍵山先生は、その後の講演会で、「歴史教育のことを考えると、この 国の将来が心配で、死んでも死にきれません。でも、今日、こうしてお若い方がご自分で書いた歴史の本を持ってきてくださって、少し安心しました。」と、私 の著書を紹介してくださったのです。
さらに、数日後、鍵山先生からお手紙が届きました。その手紙の中で、鍵山先生は、私の本を何十冊も注文してくださった上に、「蒲生氏郷の話を、現代のリーダー全員に読んでほしい」とおっしゃったのです。 このお手紙を受け取ってからです、私の中に使命感が生まれたのは…。
私は、小さい頃から、「私は何のために生まれてきたんだろう?」といつも考えていました。
でも、考えても、考えても、その答えは見つかりませんでし た。
それが、人生の流れを天に委ねて、与えられた環境やご縁を受け入れ、それに感謝し、いま目の前のことを、心を込めてやり続けていたら、鍵山先生と出会 えました。
そして、今やっていることが、私の使命なんだと気づかせていただきました。
一時は「この状態で助かった人を見たことがない。」と医師に言われるほど病気が進んだ私が、今もこうして生かされているのは、きっとこの使命を全う するためなのだと思います。
使命というのは、考えた末にわきあがってくるものではなく、探し求めて出会えるものでもなく、自分に与えられた目の前のものに 対して心を尽くしていくうちに、それが使命だと気づくものなのでしょう。
つまり、自分の成長とともに、使命感も育まれていくのではないでしょうか。
私は、きっと重成も同じだったと思うんです。
彼が豊臣の家臣の家に生まれた時、すでに豊臣家は、歴史の中で、その役割を終えていました。
やがて秀吉が亡くなると、豊臣家は凋落の一途をたどりま す。そんな境遇に自分が生まれたという事実を、彼は受け入れ、そこで出来る精一杯のことを、心を込めて行いました。
必ずや徳川が豊臣を滅ぼしにかかると確 信した重成は、古今東西の戦について研究し、将としての心構えや戦い方を学んでいったのです。
おそらく彼は、どんなにあがいても歴史の流れを変えられないということは、わかっていたでしょう。
それでも、最後の瞬間まで主君・秀頼のために命を 懸けて戦い、武で天下統一を果たした豊臣家の最期に相応しい戦いを歴史に刻むことが、自分の使命であると思い定めたのではないでしょうか。
重成の最期…それは、あまりに悲しく、あまりに美しいものでした。 大坂夏の陣が始まり、決戦の日が近いことを悟った重成は、極端に食が細くなりました。
4ヵ月前に結婚したばかりの新妻の青柳が心配して、その理由を 問うと、「敵に討ち取られた場合に、裂かれた腹から食べたものが出ると見苦しいためである。」と、重成は澄んだ瞳で答えました。
重成の覚悟を知った青柳は、夫の髪を入念に洗い、兜には香を焚き込めました。
そんな妻に対して、重成は、謡(うたい)を歌って別れの盃を交わすと、戦場へと旅立っていったのです。
重成22歳、青柳19歳の時だったと言われています。
元和元(1615)年5月6日、重成軍は、八尾・若江方面に出陣し、藤堂高虎の軍勢を撃破しますが、彼はこの勝利で満足せず、「まだ家康、秀忠の首 を取ってはおらぬ。これしきの勝利は、ものの数ではない。」と、突撃を敢行。
伊井直孝の軍勢を迎え撃ち、激戦の末、ついに壮絶な討死を遂げました。
重成戦死の翌日、大御所・家康の前で、大坂方の諸将の首実検が行われました。
すると、重成の頭髪から、えもいわれぬ芳しい香りが…。家康はじめ徳川方の諸将は、この若武者の悲愴な覚悟を知り、涙を流さぬ者はいなかったと言われています。
「死」は、すべての人に平等に訪れます。
ただ、その死を意識して生きている人と、意識せずに、明日も明後日も生きることが当たり前と思っている人の 間には、一日一日の過ごし方に大きな開きがあると思います。
どういう死に方をしたいかを考えることは、同時に、どう生きるかを考えることでもあるのです。
自分の使命を思い定め、その死を美しく演出した重成。
彼は、常に自分自身の生と死の意味と向き合っていたから、優先順位が明確で、どうでもいいこと はスルーし、自分にとって本当に大切な存在のために命をつかうことができたのだと思います。
重成の人生は、時間的には短くても、ぎゅっと凝縮された中身の 濃い一生だったと言えるのではないでしょうか。
私たちが学校で習う歴史は、「室町時代」「安土桃山時代」「江戸時代」というふうに、後世に生きる者たちが勝手に分けた時代区分に沿って、授業が進 んでいきます。
でも、当然ながら、江戸幕府が成立したからって、急に世の中が変わることはありません。時間はずっと途切れることなく、流れているんですよ ね。
分けるところが違えば、見えるものが違ってくる…。
アジアアフリカ会議(AA会議)がインドネシアのバンドンで初めて開催されたのは、今から60年前、1955年のことでした。
第二次世界大戦後に 次々に独立を果たしたアジア23ヵ国、アフリカ6ヵ国の代表者が集った、この会議において、議長を務めたインドネシアのスカルノ大統領(デヴィ夫人のご主 人ですね!)は、「世界人口の約半数の13億(当時)を占める有色人種の代表による、世界最初の国際会議」と、高らかにその意義を宣言しました。
この時、日本はオブザーバーとして参加を果たしていますが、当初、日本代表は、AA会議への出席に際し、積極的ではなかったと言われています。
戦争 が終わって、わずか10年。
会議の席上で、戦時中の日本の行為が、参加国の代表者たちから非難されるに違いない、と思っていたからです。
現地に着いても、 足が重かったのでしょう。
日本代表は、ギリギリまで会場に入ろうとしなかったそうです。
会議のスタート時刻が刻々と迫り、タイムリミットを迎えようとした 時、ようやく日本代表が扉を開け、会場に入りました。
その時… 信じられない光景が、目に飛び込んできました。会場にいた多くの人々が、なんとスタンディングオベーションで日本代表を迎えたのです。
その拍手の大きさに、日本の代表者は驚き、言葉を失ったそうです。 日本の代表者を驚かせたスタンディングオベーションは、なぜ起こったのか。
そこには、「日本のおかげで独立を果たせた」という感謝と尊敬の思いが込められていたのです。
日本軍の行為に傷つき、苦しめられた人々がいたこと、それは動かせない事実でしょう。
でも、日本が対米、対英戦争に踏み切ったことが、アジアやアフリカの国々の独立に繋がったことも、また事実なのです。
日露戦争において、日本軍は、国力が10倍以上もあるロシア軍を破り、さらに大東亜戦争の初期段階において、日本軍はアジア各地を支配する勢力を、瞬く間に駆逐しました。
この事実が世界史に与えた影響は計り知れません。
その姿を目の当たりにして、あるいはその報に接し、アジアの民は、有色人種である自らの誇りを取り戻し、独立を目指したのです。
1955年のAA会議にも参加した、タイのククリット元首相は、若いころ新聞記者をしていた時に、このような記事を書かれたそうです。
「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南 アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為であ る。12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが病の床 に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない」
日本が大東亜戦争に突き進まざるを得なかった最大の理由は、連合国側の経済封鎖だったと思います。
あの時代、石油が手に入らなくなってしまったら、日本という国は、立ち枯れていくしかなかったのですから、座して死を待つより、乾坤一擲、勝負を挑もうとしたのでしょう。
けれども、私たちのご先祖様が戦いを挑んだ理由は、それがすべてではなかった…。
そこには、世界史への挑戦があったと思うんです。
日露戦争の勝利で、白人による世界制覇をその水際で防いだ日本は、その後、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、人種差別の撤 廃を明記するべきだと主張しました。
これは、国際連盟に加盟する多くの国(もちろん白人国家です)の反対にあい、否決されてしまいましたが、国際会議にお いて人種差別撤廃法案を世界で初めて正式に提案した国が日本であるということは、私たちの誇りとすべきでしょう。
そしてこの精神は、大東亜戦争の時にも生きていたのです。
オランダ軍を破ってインドネシアを支配するようになった日本軍のリーダーたちは、オランダの植民地として、350年という長きにわたって奴隷のよう に搾取されてきたインドネシアの人々に、「我々日本軍は、インドネシアを独立させるためにやって来た」と宣言した、という話を、私は以前、インドネシアの 方から直接伺いました。
インドネシア統治に関わった日本兵の中には、日本の敗戦後もインドネシアに残り、インドネシアとオランダの間で起こった戦争において、インドネシア 兵の先頭に立って戦い、インドネシアの独立のために命を捧げた者も多かったといいます。
そしてそのインドネシアの方は、「戦時中の日本の統治がなければ、 インドネシアの独立は数十年遅れていただろう。私たちインドネシア人は、日本人を尊敬し、日本人に感謝している」ともおっしゃいました。
このように、日本の歴史が、アジア・アフリカ諸国の独立運動に、直接的、あるいは間接的に大きく関わっていったのです。
私たちが学んだ歴史の授業では、「1945年8月15日」で昭和史は一旦幕を閉じます。
そしてその直後から、「戦後」というまったく新しい歴史が幕を開ける…。
でも、この「日本は、多大な犠牲をはらった挙句、敗戦に終わりました」という歴史観が、すべてなんだろうか。
もし1955年のAA会議までを一連の流れとして捉えれば、「日本は戦争に負けたが、その結果、欧米はその植民地の多くを失い、アジアやアフリカの国々が独立を果たしました」となる。
つまり区分を変えただけで、今まで見えてなかったものが見えてくるのです。
私は、歴史を学ぶことが、生きる力になると信じています。
それは、先人たちの生き方や考え方の中に、私たちが現代社会を生き抜く上でのヒントが隠さ れているし、歴史を通してさまざまな見方、捉え方を学び、視野を広げることが、生きる力を養うことに繋がると思っているからです。
歴史の見方に、「正しい、間違っている」という二元論は存在しない。こういう見方もできる、でも逆から見れば、こんな事実が浮び上がってくる…。
こんな面もある、あんな面もある、その多様性を学ぶ場が、歴史だと思うのです。
右でも左でもない、自由で柔軟な視点を身につけること、それが本当の戦後レジームからの脱却なのではないでしょうか。
そして私たちは、これらの歴史を踏まえ、「これらの歴史があったからこそ」と言えるような未来を築いていくこと、これが一番大切なのではないかと思います。
以前、航空会社に就職したい学生たちに、面接対策や筆記対策の授業をさせていただいたのですが、その時、私は彼女たちの考え方がまったく理解できず、お手上げでした。
「面接を受ける前に、まずこれだけのことを明確にしておきましょう。筆記に関しては、航空会社の入社試験にはこういう問題がよく出るので、類似の問題を何回もやって、完璧にしておいてくださいね」
もちろん私の伝えたことを全部完璧にこなしても、試験に受かるとはかぎりません。
合格するかどうかって、恋愛や結婚に似ていて、ご縁だと思うんで す。
でも、やらなければ、合格する可能性はゼロです。
講師なんて、所詮スタートラインに立つために必要なことを示すことしかできないんですよね。
ところが、彼女たちは、私が示した必要最低限のことに対して、なんだか中途半端。
「本気でチャレンジできないなら、もう夢はあきらめた方がいいよ」と言うと、彼女たちは「絶対にあきらめたくない」と答える。
でも努力はしない…。
日ごろからコツコツと努力するわけでなく、手っ取り早い方法を求める……。
ノウハウ本が本屋さんに溢れている光景を見るにつけ、これは若者ばかりの問題ではなく、日本全体の問題だなぁと感じます。
こういう人たちが憧れる歴史上の人物って、決まって、坂本龍馬や真田幸村なんですよね。
幼い頃の龍馬は、弱虫で寝小便タレ、勉強も運動も出来が悪 く、劣等生だったと言われていますが、その龍馬が、後に薩長同盟を成立させ、歴史を動かしていく…。龍馬ファンの多くは、「自分もいつか…」と、龍馬に自 分を重ね合わせているのでしょう。
でもね、皆さん! 人生というのは、冴えない昨日から、パッと輝く明日がやってくるわけではないのです。
今日、どれだけ未来のための種まきができて いるかが大事。
つまり、今日がんばれない人には、未来永劫、そんな明日はやってこないことを、肝に銘ずるべきでしょう。
第一、こういう歴史観は、龍馬や幸 村に失礼ですよね(笑)
脱藩浪士である龍馬は、土佐藩の公式な記録に残されていないため、謎に包まれた部分もありますが、砲術や操船技術に長けていたところを見ると、おそ らく優秀な理系の頭脳を持っていたんだと思います。
さらに北辰一刀流の免許皆伝ですから、冴えなかった少年が、魔法にかかったかのように突然変身したわけ でなく、本人は相当に努力したはずなんですね。
その日常のあり方に着目せずに、派手な活躍ばかりにスポットを当てても、あまり意味がないような気がしま す。
幸村の場合は、その傾向が一層顕著に表れています。
大坂の陣で豊臣家に忠誠を捧げたところ、そして類まれな軍師としての才能で、徳川家康を「あわや」ということころまで追い詰めたところに、幸村ファンの多くはシビれています。
でも、私は思うんです。
大坂の陣での活躍は、幸村の人生にとって、おまけのようなもので、彼の人生のクライマクスは、その前にあったのではないかと…。
慶長5(1600)年、関が原の戦い。真田昌幸&幸村父子は、上田城に立てこもったわずかな兵を巧みに指揮し、後に二代将軍となる徳川秀忠率いる徳 川家の本隊を散々に打ち破り、足止めさせました。
その結果、秀忠はじめ徳川本隊は関が原の本戦に間に合わず、家康から叱責されます。
もし関が原で西軍が勝 利していれば、第一の功労者は真田親子であったでしょう。
ところが、関が原では、西軍に裏切りが続出し、家康率いる東軍が勝利しました。
戦後処理で、昌幸&幸村は、紀州・九度山(くどやま)に配流の身となり、幽閉生活を余儀なくされます。
それから十数年、徳川と豊臣の間に不穏な空気が流れ始めると、紀州を治めている浅野家は、幸村に対する警戒を強め、近隣住民に監視を強化させます。
父親の昌幸は病で亡くなっていましたが、息子の幸村は健在で、もし徳川と豊臣の間で戦が起これば、幸村が大坂城に入城するであろうことが予想されたからで す。
そのような中、幸村はなぜ九度山を脱出し、大坂城に入城できたのでしょうか? 文献によると、幸村は、付近に住む農民たちを招待し、日ごろの感謝を伝え、ささやかな食事とお酒を用意し、もてなしたとなっています。
そして農民た ちが気分よく飲み続け、ベロンベロンに酔っ払って、全員眠りこけ正体不明になったというのです。
その隙に幸村が九度山を脱出、大坂に馳せ参じた…。
幸村の大坂入城に際しては、どの文献でもそのように描かれています。
でも、これって、ちょっとおかしくありませんか?
農民が一人残らず、ベロンベロンに酔っ払って、眠りこけ、わけがわからなくなる…そんなことがあり得るのでしょうか? そんな人もいたかもしれませんが、常識で考えた時、「一人残らず全員が」というのは、いかにも嘘くさいのです。
おそらく農民の中には、気が確かな人もいたと思うんです。きっと彼らは、見て見ぬふりをしたのではないでしょうか。
幸村に男になってほしくて、寝たふりをして、薄目を開けて幸村の雄姿を心に刻み、祈るような思いで送り出した人たちがいたのではないでしょうか。
なぜそんなことをしたのか?
きっと、彼らは幸村のことが大好きだったんですよ。
もしかしたら、招待された時点で、幸村の意図を汲み取っていたのかもしれませんね。
幸村からしてみれば、九度山に幽閉されて14年。自分が生きているうちに徳川と豊臣の間で戦が起こるかどうかなんて、わからない。
でも、そのわずか な可能性に賭けたんです。
そして、その日が来た時に、農民たちが見て見ぬふりをせずにいられないぐらい、日ごろから農民たちに心を配り、本当によくしてあ げていたんだと思います。
私たちが幸村から学ぶべきは、大坂の陣での活躍よりも、ここだと思うんですね。幸村の人生というのは、九度山を脱出した時点で、勝負あったんです よ。
あとは、戦に勝とうが負けようが、その活躍はおまけですよね。
何かを成し遂げた人から、私たちはやり方を学ぼうとしますが、人の人生を決定づけるの は、やり方でなく、日常のあり方だと思います。
よく「頼まれごとは試されごと」と言われますが、私は最近気づいたことがあります。
頼まれごとを引き受けるか、断るか考える前に、人が何かを頼みた くなる自分でいることが、大事なんじゃないかって。
「あの人に頼んだら、いやな顔されそう」とか、「あの人にだけは頼みたくない」そんなふうにもし周りの 人に思わせてしまっていたら、その人の人生は、開けていくわけがありませんから…(*^^*)
私は講演で、よく台湾の話をさせていただいていますが、有り難いことに、台湾のほかにも、親日国は世界にまだまだたくさんあります。
その一つが、トルコ。
トルコと日本の友好の歴史は、1890年にさかのぼります。
この年、日本を訪れたトルコの軍艦・エルトゥールル号が、紀伊半島沖で台風に遭い、転覆。犠牲者は500名以上に上り、助かったのはたった69名という、大惨事が起こったのです。
串本の東に浮かぶ、紀伊大島。
男たちは、漆黒の海に飛び込み、自分より一回りも二回りも大きな男たちを背負って、数十メートルの断崖をよじ登り、待ち受けていた女性たちが彼らを温め、必死で介抱し、69名はなんとか一命をとりとめました。
大島村は、半農半漁の貧しい村で、しかもこの年は台風の当たり年と言われ、漁に出られない日が続いたため、村人たちは自分たちが食べる物にさえ事欠 く有様でした。
それなのに、村人たちは、貴重な米を炊きだし、ありったけの食べ物を、異国の気の毒な人々のために提供したのです。
中には、お正月用にとっ ておいたさつまいもやニワトリをわけあたえる者もいたそうです。
こうした村人たちの善意のおかげで、69名の生存者は体力を回復し、日本の軍艦によってトルコに送り届けられました。
この事実を、トルコの人々は教科書に掲載し、日本への感謝を語り継いでくれたのです。
時は流れ、1985年…。イラン・イラク戦争が勃発。
イランの首都・テヘランでは、イラクによる空爆が激しさを増す中、当時イラク大統領だったサダム=フセインの恐ろしい宣言で、日本人は窮地に立たされます。
「イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす!」 軍用機だけでなく、民間機も無差別に撃ち落とす、というのです。
しかもサダム=フセインが猶予として与えた時間は、たったの48時間でした。
当時の日本には、自衛隊を海外で活動させるといった法律がありませんでした。
そこで、日本政府は他国に応援を打診したものの、各国自国民の救出に手いっぱいで断られてしまいます。
そのため、在イラン日本人200名以上は脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕していました。
もはやタイムリミットです!
万策尽きたイランの日本大使館でしたが、野村大使はそれでも「ネバーギブアップ」。
トルコ大使館のビルレル大使に助けを求めました。
彼らは同時期にイランに赴任しており、家族ぐるみのつきあいがあったのです。
でも、逆に言えば、その大使同士の個人的なつきあいに頼らなければならないほど、日本は切羽詰った状況だった、と言えるでしょう。
ビルレル大使か ら、オザレ首相へ、日本の窮状が伝えられます。
オザレ首相から日本人救出を要請されたトルコ航空では、即座に、この危険なフライトをしてくれるパイロット を募りました。
すると、なんとその場にいたパイロット全員が志願したというのです。
2機のトルコ航空機が、夕闇迫るテヘランのメヘラーバード国際空港に降り立ちました。
215名の在留邦人を乗せ、イラン国境を越えてトルコ領空に入ったのは、タイムリミットのわずか1時間15分前のことでした。
トルコの領空に入った瞬間、 「Welcome to Turkey, ladies and gentlemen」 というアナウンスが機内に響き渡りました。
タイムリミットにはギリギリ間に合ったものの、フセイン大統領が自分の宣言を守る確証はありませんから、イランの上空を飛んでいる限り、乗員も乗客も、心が休まることはなかったでしょう。
「Welcome to Turkey.」というアナウンス、これはすなわち「助かった」ということを意味するのです。
このアナウンスが聞こえた瞬間、乗員と乗客は、手と手を握り合い、お互い涙したそうです。
安堵の涙を流した乗客たちは、やがて我に返ります。
それにしても、なぜトルコ航空が私たちを助けに来てくれたのだろう?その疑問をぶつけると、乗員は微笑みながらこう答えたそうです。
「エルトゥールル号の恩返しです」 その後、1999年にトルコで地震が起こると、混乱のテヘランから救出された人々が政府に働きかけ、日本はトルコの復興支援に尽力しました。
また、 2020年のオリンピック開催都市が東京に決まると、安部総理のもとに駆けつけ、真っ先に祝福してくれたのは、決戦投票で東京に敗れた、トルコのエルドア ン首相でした。
エルトゥールル号の遭難という悲劇が始まりでしたが、トルコと日本は、報恩感謝の歴史を、かけがえのない友情を、1世紀以上にわたって育んできたのです。
感謝の歴史は、誰にも書きかえることはできませんからね。
本当に有り難いです。
さて、昨年は、安部総理がトルコを訪問しました。その際に、エルトゥールル号のご遺族の子孫に会い、彼らの前で、日本・トルコ合作の映画を製作することを宣言しました。
その映画が、2015年の暮れの封切りを目指し、撮影は順調に進んでいるそうです。 実は、以前、和歌山で私の講演を主催してくださった方が、エキストラでこの映画に出演されています。
紀伊大島の農民の役ですって。
その方が、映画の中に出てくる素敵なセリフをご紹介くださいました。 あの時、生き残ったトルコ人に、ありったけの食糧を差し出した村人たち。
そのかたわらで、「それまであげちゃうの? そしたら、僕たちの食べる物がなくなっちゃうよ」と不安げに親の顔を見上げる子どもがいたそうです。
その子に対して、親はなんという言葉を掛けたでしょう?
「なぁに、お天道様が、なんとかしてくれらぁ!」
大正末期から昭和初期にかけて駐日大使を務めたフランスの詩人・ポール=クローデルは、このような言葉を残しています。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界にただ一つ生き残って欲しい民族を挙げるとすれば、それは日本人だ」 貧しくても美しい日本人が、ここにいた…!
名も無き人々の心の美しさ、豊かさこそが、日本の宝なんですよね。
西洋人にとって、成功はお金や富を得ることかもしれませんが、私たち日本人にとって大切なのは、この心の美しさと豊かさを伝えていくことではないでしょうか。
20億を超える年俸を蹴って、ファンや球団へ恩返しすることを選んだ広島東洋カープの黒田投手。
そしてその黒田投手を心から愛し、応援する人々。
私たち日本人の生きる道は、理屈じゃないんですよね。
美しい感性こそが、日本人の真髄だと思います。
そしてこの映画の中のセリフを教えていただいて、私は一つ決意したことがあります。
「お天道様がなんとかしてくれる」と言ったって、実際にお天道様が手を差し伸べてくれるわけではありません。
「お天道様が何とかしてくれる」ということは、世間が放っておかない、ということでしょう。
善意の人々を放っておかない。
これって、とても大切なことですよね。
「正直者は馬鹿をみる」とか、「恩をあだで返す」なんてことがあってはならな い、善意の人々が報われる世の中にしなくては…!!
未来の子どもたちのために、そんな世の中が再び訪れることを願って、感謝を心に刻み、恩を送っていけ る人になろうと思います。
昨春、台湾映画界のあらゆる記録を塗り替えた、『KANO ~1931 海の向こうの甲子園』。
政治的事情を反映してか、日本ではメディアでPRされることはほとんどありませんでしたが、映画を観た人たちの感動がじわじわと口コミで広がり、ロングランを記録する映画館も出てきたようですね。
『KANO』は、多少の脚色が加えられているものの、史実がベースとなっています。
台湾と日本が、遥かなものを求めてともに歩んだ歴史があった、と いうこと。
『KANO』の感動的なストーリーとともに、そんな歴史の一ページが皆さんの記憶にとどまればいいなぁと思っています。
昨年4月に初めて台湾を訪れ、日本語を学んでいる大学3年の男の子とお話しさせていただいたんです。
彼は、こんなことを私に伝えてくれました。 「東日本大震災は、とても痛ましい出来事だったけれど、でも悪いことばかりではなかった。なぜなら、戦後ずっと自分たち台湾人は日本に片思いをしていた。その僕たちの思いが、震災をきっかけに日本人に伝わるようになった。今は両思いになれて、本当に嬉しい」
昨年はのべ280万人を超える観光客が、台湾から日本を訪れました。
もちろん、この数は世界一。
第2位は中国ですが、人口が10億人を超える中国 と、およそ2300万人の台湾では、分母が桁違いですから、この台湾からの観光客数は、驚異的な数字だと思います。
単純に計算すると、なんと台湾人の約8 人に1人が日本を訪れたことになります。
震災からもうすぐ4年。
震災直後は、日本赤十字が把握しているだけでも200億円以上の義援金と400トンを超える支援物資を送ってくれた(実は日本赤十字を通さずにその何倍も の支援が届けられていますから、台湾から日本への支援の合計は、天文学的数字にのぼり、計算できないと言われています)台湾の人たち。
彼らの中には、「震 災から3年、4年と経てば、お金や物を送るという援助よりも、日本を旅行し、日本でお金を使うことが、何よりの復興支援になるんじゃないか」と考え、旅行 先を日本に選ぶ人が多いといいます。台湾の人々の真心は、本当に有り難いですね。
さて、映画のストーリーそのものには関係ないのですが、今回は、歴史の一ページとして皆さまに「高砂義勇隊」をご紹介しようと思います。
1895年から1945年、日本が統治していたこのおよそ50年の間に、台湾の農業生産性は飛躍的に向上し、台湾は著しい経済発展を遂げます。
農業 の発展に最も大きく貢献したのは、八田與一(よいち)さんが設計、監督した水利事業(ダムと水路を合わせて「嘉南大?(かなんたいしゅう)」と呼ばれま す)ですが、ダムや水路といったハード面が整うだけでは不十分で、それに見合うソフト面での進歩が必要ですよね。
その農業技術の発展に大きく関わっているのが、嘉義農林学校、通称「嘉農=KANO」です。
映画のタイトルにもなった嘉義農林学校には、近代的な農 業技術を学ぶために、台湾全島からさまざまな人たちが入学してきました。
台湾の原住民族、大陸から渡ってきた漢民族、そして統治する側にいた日本人。
映画 で描かれた嘉義農林野球部が、3つの民族の混成チームだったのには、そんな背景があるのです。
嘉農野球部の大活躍から10数年…。
大日本帝国は、ついに米英との開戦を決意、大東亜戦争に突入します。
およそ半年間は日本軍が勝ち続け、アジア諸国を欧米の植民地支配から解放していきますが、国力の差は埋め難く、しだいに戦況は悪化していきます。
そんな中、大日本帝国は、台湾でも志願兵を募ります。
この時、17歳から25歳の台湾の男子は、そのほとんどが志願したと言われています。
実は私が昨年台湾の90歳のおばあちゃんとお話しした時、「台湾にとって日本はどんな存在ですか? 日本のせいで大変なつらい目に遭ったと思ってい らっしゃいますか?」と尋ねたら、おばあちゃんは、「日本はともに戦い、ともに涙した存在。私たちは70年前まで日本国民だったんだから、自分の国のため に戦うのは当たり前だよ」とおっしゃったんです。
そしておばあちゃんは、こんなふうに言葉を続けてくれました。
「もし日本に対して恨みがあるとすれば、それは台湾を統治し、戦争に巻き込んだことでなく、敗戦で台湾の統治権を放棄したこと。戦争が終わって、日本人がみんな日本に引き上げた時、私たちは親に捨てられた子どもみたいに、ただただ悲しくて、切なかった」 当時の台湾の人々の心情を考えると、そしてこのおばあちゃんの言葉を思い出すと、私は今でも涙がこぼれます。
さて、戦争中の話に戻しますね。
台湾からの志願兵の中には、「高砂族」と呼ばれる原住民族も多くいました(原住民族は、さまざまな部族に分かれていますが、総称して「高砂族」と呼ばれていました)。
彼らは「高砂義勇隊」として、南方に配属されました。 現地の人々に教育の機会を与え、治安や衛生環境を整えていき、近代化をもたらした日本の台湾統治は、欧米の搾取型の植民地経営に比べ、当時としては 理想に近いものだったと評価される一方で、現代に生きる私たちから見ると、やはりそこには、その時代ならではの限界が存在しました。
つまり日本は、欧米の ように「宗主国」対「植民地」という構図は描かず、台湾を日本の一部として統治したわけですが、そこには厳然とした「差別」もあったのです。
琉球や朝鮮、そして台湾の人々を「二等国民」とし、「一等国民」の内地人とは差をつけました。
高砂族の場合、その中でさらに一段低く見られる傾向が ありました。
だから彼らは志願しても兵隊にはなれず、「軍夫(ぐんぷ)」として、現地で武器や食糧を運搬するという役割を担ったのです。
しかし、この時、戦場に赴いた高砂義勇隊の人々は、生まれながらにして日本人として教育されています。
ある意味、日本人以上に日本的であり、彼らは、骨の髄まで武士でした。
高砂族の中には、先祖伝来の刀を持つ部族もいて、彼らは、寝る時にも大事な刀を肌身離さず抱きしめていました。
その姿を見た、ある日本兵が、「刀を 女だと思っているんじゃないか」と茶化したそうです。
すると高砂族のその男性はムクッと起き上がり、「武士の魂を女に例えるとは、なにごとか」と、キッと 睨んだのだとか…。
このように、武士道を共有する彼らは、自分の任務を全うしました。
しかし、戦況はますます悪化し、戦地では食べ物にも事欠くありさま…。
そんな時、ある高砂族の軍夫が、食糧の運搬を命じられます。この人は、おそらく何日も食べていなかったのでしょう。
運搬の途中で、なんと餓死してしまいました。
ところが、彼が背負っていた荷物の中の食糧は、全くの手つかずの状態だったそうです。
私は武士道の根幹は「公に生きる」ことだと思っていますが、彼らこそ武士道の体現者だと言えるでしょうね。
自分の背負った食糧は、あくまで公のもの であり、自分のものではない。
命が途絶えるその瞬間においても、日本人としての誇りを持ち続け、公に生きた、名も無き高砂族の男性のことを、私は忘れたく ありません。
高砂族は、山奥で暮らしている者が多かったので、厳しい自然環境の中で培われた特殊な能力を持っていて、その類いまれな能力を、南方のジャングルで 遺憾なく発揮しました。
彼らは、何百メートルも離れた所から、敵の来襲に気づいたり、雨のにおいを嗅ぎ分けたりできたそうです。
高砂族のおかげで、ジャン グルの中で一命を取りとめ、なんとか生き永らえた日本人も多かったといいます。
戦争末期になると、戦況はさらに悪化し、怪我で動けなくなる日本兵が増えてきました。
すると高砂族が、「兵隊さん、銃をお借りします」と言って、突撃していったそうです。 彼らの中には、南方戦線で命を落とした人も多いですし、腕や足を失い、その後の生活が非常に困難になった人もいました。
さらには、戦後、大陸を追わ れた国民党が、日本に変わって台湾を支配するようになると、国民党の敵国であった日本を支援した、ということで、彼らは糾弾され、いたたまれないような人 生を歩むこととなったのです。
そんな目に遭っていながら、高砂義勇隊の人々は、誰一人として日本政府に賠償金を要求していません。
彼らは「私たちは日本国民だったのだから、国を守るのは当たり前だった」とおっしゃるのです。
この方々が、戦後70年を、どんな思いで過ごしていらしたのか…。
私たち日本人は、彼らに「守るに値する国だった」と思ってもらえるような、尊い美しい国を築いていかなければ…。 そんなことを強く思います。
KANOの感動ストーリーの影に、このような人々がいたということも、皆さまに覚えておいていただけたら有り難いです。
台北郊外の芝山巌(しざんがん)にある“六士(ろくし)先生のお墓”は、台湾の教育の聖地として、ボランティアの人々による清掃や献花が絶えることがありません。
今回の和ごころコラムは、この六士先生について書かせていただこうと思います。
1895年5月に下関条約が発効され、日清戦争に勝利した日本に台湾が割譲されると、その翌月には芝山巌学堂が建てられ、日本から7人の先生が派遣されました。
これが台湾の公教育の発祥と言われています。 植民地の人々から教育の機会を奪い、彼らを安い賃金で奴隷のようにこき使い、植民地を搾取することで本国が栄える……そんな図式を描く西洋諸国の植 民地政策と、日本の台湾統治は、そのスタートの段階から大きな違いがあったわけです。
つまり日本人は、台湾の民に教育を施し、インフラを整備し、農業生産 性を飛躍的に上げることで、台湾と日本がともに豊かになる道を選んだのです。
ところが、今でこそ世界一の親日国と言われる台湾ですが、異民族から支配されることに、初めから諸手を挙げて賛成する人なんているはずがありません。
日本の統治が始まって初期の頃は、抗日運動に身を投じる人々も多かったのです。
そんな状況の中、7人の先生たちは、教育者としての誇りを持って、台湾の民に教育を施していきました。
そんな先生たちを慕う人々も、しだいに増えていきました。 彼らは、抗日ゲリラの動きを探って、先生たちに伝えます。
「危ないから避難した方がいい」 これに対し、7人の先生は決して首を縦には振りませんでした。「軍人さんが命を賭けて国を守るのと同じように、自分たちも命を賭けて教壇に立つ」彼らは、そう覚悟していたのです。
そして1896年元日…。 公務で日本に帰国した一人の先生を除いて、6人の先生たちが新年の祝賀のために山を降り、台湾総督府に向かいました。そして祝賀が終わり、先生たち が芝山巌に戻ろうとすると、台湾総督府の人々は先生たちを引き止めました。
実はこの日、「抗日ゲリラたちが日本人を襲う」という噂があったのです。 けれども、彼らはそれを知っても、自分の持ち場である学校へ帰ることを選びました。
そして次のように述べたと言われています。 「自分たちの命がたとえ今日果てようとも、日本人が台湾の教育にこれだけの情熱を傾けていたという、その思いを遺すことはできるだろう。だとすれば、実に死に甲斐がある」 結局、この6人の先生たちは、抗日ゲリラに襲われ、命を落とします。
台湾の人々は、台湾の教育にこれほどの情熱を傾けた6人の先生に感謝し、彼らの御霊を神社に祀りましたが、戦後、国民党政権によって、この神社は壊されました。
ところが、六士先生(「六人の先生」という意味であり、「士」には尊敬の意が含まれます)を慕う地元の人が、無名の小さなお墓をつくり、秘かに守ってくれていたのです。
そして戦後40年以上経って、現在の墓碑が建てられました。 ただし、台湾の教育に殉じた6人の先生への感謝だけで、ここが「教育の聖地」となったわけではありません。
当時、「6人の教育者が抗日ゲリラに襲われて命を落とした」という衝撃的なニュースが日本にもたらされた時、多くの日本人は、台湾を野蛮な土地だと 蔑み、怖れました。
ところが日本国内の教育者たちは、このニュースを知ってもなお、というよりも知ったからこそ、「台湾には教育が必要」と、優秀な先生た ちが次から次へと台湾への赴任を希望したのです。
この日本の教育者たちの“志のリレー”に対して、台湾の人々は最大の敬意を払ってくれているのです。
6人の先生たちの中には、吉田松陰の甥がいました。松陰は、生前、愛弟子の高杉晋作から質問を投げかけられました。
「松陰先生、男子の死に場所とはいつのことですか」
この重い質問に対し、松陰はすぐには答えることはできませんでしたが、安政の大獄で逮捕され、刑場の露と消える、その直前に、この問いに対する答えが見つかり、獄中から晋作に手紙を出しています。
以下は私の解釈ですが、松陰は次のように晋作に伝えました。
「いま生きていても、魂が死んでるような人っているよね? その逆に、今すでに死んでいて肉体はこの世にないのに、魂が生き続けている人もいるよね? だとしたら、死は、好むべきものでもないけれど、憎むべきものでもないんじゃないかな。もし君が生きて世の中のお役に立てると思うなら、いつまででも生き続けなさい。 逆に、もし“今ここ”が命を賭けるほど大事な場面だと思ったら、その時は潔く命を差し出しなさい。 生きるとか死ぬ、あるいはいつ死ぬなんていうことが大切なんじゃない。本当に大切なのは、生死を超えて志を持つことだ」
西洋の権力者の中には、不老不死の薬を求めた人が数多くいます。
それに対し、不老不死の薬を求めた日本人というのは、私は知らないんです。
人間であれば、誰もが「永遠」に憧れるものだと思いますが、その「永遠」の概念が西洋と日本では違うのです。 「自分の命よ、永からん」と願うのが、西洋人。
それに対し、日本人は、「命には限りがある。でも、自分の思いを受け継いでくれる人がいれば、自分の命は永遠である」と考えたのではないでしょうか。
だから、死を怖れるよりも、「周りの人に受け継いでもらえるような生き方をしよう」、ここに全力投球してきたのが、日本人だったのではないか、そんな気がするのです。
私は、周りの人に受け継いでもらえるような生き方をしているかな。六士先生のような崇高な生き方はできなくても、こう常に自分に問いかけることで、先人たちの美意識を継承することはできると思います。
そして私は、六士先生の思いを想像するたび、あることを考えます。六士先生は、教育のために命を捧げた。じゃあ、私が命に代えてでも守りたいものは、何だろう? って。
人の命というのは、かけがえのない、大切なものです。でも、戦後は「命が一番大事」と家でも学校でも教えてきた結果、命はなんと軽くなってしまったのでしょう。
自ら命を絶ったり、あまりにも簡単に他人の命を奪う人が、なぜこんなにも増えてしまったんだろう。
命に代えてでも守りたいものがあるから、人は命を大切にできるのだと思います。だって、その大切なもののために命をつかうのだから、どうでもいいことのために命をつかうなんて、できなくなるのです。
そして、命に代えてでも守りたい大切な存在が見つかった時、人は、自分の周りの人にも大切な存在があることに気づく。だから自分の命を大切にするのと同じように、人の命も大切にできるのです。
命を本当に大切にするためには、命のつかい道を考えること。
言葉だけの“大切さ”じゃなく、本当の“命の重み”を、子どもたちに伝えていかなくては…。
責任ある大人として、やるべきことは山積みですね。
この5年間、私の頭の中は嵐でいっぱいでしたが、その嵐の存在がかすむぐらい、私は台湾映画『KANO~ カノ ~1931海の向こうの甲子園』に夢中になっています。
皆さんはWBC日台戦の感動を覚えていらっしゃいますか?
そしてあの原点が84年前にあったことをご存知ですか?
WBC日台戦を見た台湾のおじいちゃん、おばあちゃんは、みな「嘉農の再来だ」と涙したそうです。
すべての日本人に知ってほしい。 かつて日本と台湾が手を携え、遥かなるものを求めて、ともに歩んだ歴史があった、ということを…。
1931年、日本統治下の台湾。
それまで1勝もしたことがないKANOこと嘉義農林学校が、日本人監督に率いられ、夢の甲子園に向かって行く!
足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チーム「KANO」が、甲子園に大旋風を巻き起こした実話をもとに、この映画は制作され、台湾映画史上、空前の大ヒットとなりました。
仲間を信じることの大切さと美しさ、目の前の課題にひたむきに向き合うこと、さらに最後まで絶対にあきらめない気持ち。
人生で大切なことが、すべてこの映画には詰まっています。 野球のシーンも素晴らしいですが、当時東洋一の規模を誇った烏山頭(うさんとう)ダムの完成という歴史的事実を絡め、日本統治時代の台湾の一側面を見事に描ききった原作者の手法に、脱帽しました!
ところで、『KANO』は台湾で社会現象を起こすぐらいの人気映画となりましたが、その半面、日本に対してあまりいい感情を抱いていない人たちからは、「日本統治時代を美化している」との批判も出ているようです。
私はそういう批判を聞くと、とても悲しくなるんですね。
なぜみんな「反日」「親日」「右」「左」と二分化しようとするのでしょう?
製作総指揮をとったウェイ・ダーション氏は、『海角(かいかく)七号 ~君思う、国境の南』という映画で監督デビューしています。
この映画は、敗戦で母国に引き上げなければならなかった日本人男性が、離れ離れになってしまった台湾の女性を思って綴った7通のラブレターがモチーフになっていて、とても美しく切ないラブストーリー。
実際に、こうして歴史に翻弄されるカップルがいたんだろうなぁ。
この映画も、日本時代への郷愁を誘う映画で、台湾で大ヒットしました(実は『KANO』が記録を塗り替えるまでは、この映画が台湾映画史上1位だったそう で、「海角七号見た?」という会話が、映画が公開された2008年当時、台湾の人たちの間で挨拶代わりに交わされていたとか…。)
さて、そんなヒットメーカーのウェイ・ダーション氏が2作目として世に送り出したのが、『セデック・バレ』。
こちらは、台湾原住民(セデック族)による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件「霧社(むしゃ)事件」が題材になっています。
日本人巡査がセデック族の若者を殴打したことを引き金に、セデック族の人々が民族の誇りを守るために立ち上がり、日本人を惨殺していくのです。
この事件が起こったのは1930年ですから、嘉義農林の甲子園準優勝の前年に起こった、ということになります。
このあまりにも衝撃的な事実を、私たちはきちんと認識しなければいけないと思います。
日本の台湾統治は、あの時代としては、まれに見る成功事例であり、理想的な統治だったという評価がある一方で、このように凄惨な事件が起きていることもまた事実なのです。
つまり歴史上の出来事は、「いいこと」「悪いこと」、「プラス」「マイナス」に分けられるほど単純ではないと思うんです。
民族の違いを乗り越えて素晴らしい組織を作った嘉義農林の近藤監督のような人もいれば、相手の誇りを傷つけることで、お互いが多くの犠牲を強いられることだってある。
ある時は菩薩のように慈悲深かった人間が、別の相手には嫉妬したり、恨んだり、蔑んだりする。
その間を行ったり来たりするから人間なんだと思います。
そんな人間が集まって一つの国ができ、歴史が紡がれていくのです。
すべての歴史上の出来事には、光と影があり、功罪相半ばする……というのが、本質なのではないでしょうか。
それを無理やりどちらかの論理に当てはめて解釈し、「プラス」あるいは「マイナス」と結論づけようとするから、おかしくなるのです。
大切なのは、事実を知ろうという姿勢です。
そしてその事実をどう判断し、どのような歴史観を持つのか、歴史は私たちに問いかけているのだと思います。
ウェイ・ダーション氏の作品を拝見し、そんな思いを強くしました。 そして個人の生き方としては、獣のように醜い自分とも付き合いつつ、どうすれば菩薩に近い自分でいられるのか。
そのお手本を歴史の中から探していくのが楽しみです。
江戸川を越えたら、そこはもう千葉!
しかも最寄駅から歩いて10分。
そんな東京で最も辺鄙な所に、“読書のすすめ”という、変わった屋号の本屋さんがあります。
『もしドラ』が欲しいの?
そういう売れ筋の本は、駅前の本屋さんで買ってね。 うちはベストセラーは置かないんだ。
だって、ベストセラーってね、今の時代のこの国に必要な情報にすぎないんだよ。
うちは、50年先、100年先の日本人に読んでもらいたい、ロングセラーの本だけを扱うことにしているんだ。
これは、数年前に、私が実際耳にした、お客様と清水店長の会話なんですが、痛快ですよね~。
そんな清水店長がセレクトした本に触れるため、そして江戸っ子の店長のスパイスの効いた話を聞くために、全国からお客様が殺到しています。
結局あれから、駅前の本屋さんはつぶれ、読書のすすめはますます繁盛しています(笑)
私はまだ本を出版する前から、たびたび“読書のすすめ”を訪れ、本を買いまくっていましたが、当時、清水店長に言われたことで、私の座右の銘になった言葉があります。
それは、「一生、プレーヤーであり続けるんだよ」という言葉。
おそらく店長は、「評論家にはなるな! ファンにもなるな!」と伝えたかったんじゃないかな。
さまざまな分野で評論家はいるけれど、評論家って、なんともかっこ悪いですよね。
「じゃあ、あなたがやってみなよ!」と言いたくなります。
たとえ小さな日常の場であったとしても、現場で汗を流している人はかっこいい。
じゃあ、ファンになったらなぜいけないの?
錦織 圭クンが、尊敬する選手と対戦が決まり、「憧れの選手と同じコートに立てるなんて…」と喜んだ時、マイケル・チャン コーチから一喝されたそうですね。
対戦相手を崇めてどうする、ということだったのでしょう。
清水店長はね、「歴史上の人物の中から、お手本となるような、尊敬できる人物を見つけなさい」とおっしゃいます。
でも、ファンになったらいけない。 私もそこはかなり意識しています。
ファンになって崇め奉った瞬間に、学べなくなるんですよね。
相手も人間、自分も人間です。
その相手を崇め奉るというのは、「棲む世界が違う」とか、「持って生まれたものが違う」というあきらめが、根底にあるのではないかと思います。
その思いを持ち続ける限り、その人物からの真の学びはないんじゃないかな。 私は、素敵な生き方を歴史の中で示してくれた先人たちが大好きです。
でも、彼らのファンになることは、意識して避けています。
そこにあるのは、あくまで「友達」「親友」という感覚です。
空海さん、すごい! とても足元に及ばない…。 と思っても、意識的に「空海さんもやるなぁ」と言葉にしてみる。
すると、彼らがとても身近な存在に思え、「あの時、あの人はこうしたんだから、私は今、自分の置かれた場でこうしよう」というエネルギーがわいてくるんですね。
歴史から学ぶって、そういうことなんだと私は思っています。
さて、マイケル・チャン コーチに大目玉を食らった圭クンが、記者会見で言ってのけた言葉、シビれましたね~♪
「自分にはもう勝てない相手はいないと思う」 もちろん、当然そう言いきれるだけの練習もしたんでしょう。
でも、それ以上に大きかったのは、自分が憧れ続けたプレーヤーも、雲の上の人じゃなく、自分と同じ生身の人間であり、彼らを倒すことが、実は彼らへの本当の“リスペクト”であると気づいたことなんじゃないかな。
評論家でもなく、ファンでもなく、プレーヤーとしてあり続ける。 こうすることで、相手とはじめてちゃんと向き合えるんだと思います。
そしてちゃんと向き合うからこそ、真の学びがある…。
歴史上の人物と勝負するわけじゃないですけどね、彼らに応援されるような生き方をすることを心がけ、日常生活を丁寧に生きていこうと思います\(^^)/
いやぁ、人間の能力というのはスゴイ!
皆さんは箱根駅伝をご覧になりましたか?
私は自分が生きている間、“山の神”と呼ばれた東洋大・柏原選手の記録が破られることはないと思っていました。
それが、柏原選手の卒業からたった3年で、青学大の神野選手が新たな記録をうちたてました。
5区のコースが変更されたので、単純に比較することはできないのかもしれませんが、それにしても驚きです。
過去の偉大な記録が、「あたりまえ」の基準値になるんだということを、まざまざと見せつけられたような気がして、新年早々ワクワクしました♪
ちょっと不謹慎な話ですが、第二次世界大戦の終結からわずか4年でソ連が原爆の開発に成功した時、アメリカは、ソ連のスパイが国内にいて、情報が筒 抜けになったと思ったそうです。
自分たちが莫大な時間と経費をかけて開発したものが、そう簡単に易々とつくられることはないと思っていたのでしょう。
ところが、どれだけ綿密に調査しても、スパイ行為を実証するものは何も出てこなかった、つまりスパイ行為はなかった、という結論が出ました。
じゃぁ、アメリカ人よりロシア人が優れていたのか、というと、そういうことではないんですね。
アメリカが開発のための実験をしていた頃、科学者たちは半信半疑だった。
確かに理論上はつくれるけれど、果たして実際に出来るのだろうか、と。 それに対し、ソ連では、すでにアメリカが原爆をつくったのだから、「自分たちにも必ず出来る」という確信のもとに、実験が進められた。
それが、開発にかかる時間を縮めたと言われています。
この例え話の是非はともかくとして、そのぐらい、人の思いが目の前に現れる現実に影響を与えるということだと思います。
私たちの遺伝子には、人類の歴史の記憶のすべてが組み込まれているそうです。
だから若者の皆さん、あなたたちには素晴らしい可能性が宿っているんですよ!
簡単に「無理~」なんて言わない方がいいですよ(笑)
江戸時代、人間が空を飛べるようになるなんて、誰も思っていなかった。
でも今は、空を飛ぶことなんて軽い軽い、人類は月にまで行ってしまったのですから…。
「不可能」って、本当はこの世に存在しないんじゃないかと思います。 遠い将来に出来るようになること、それが「不可能」の本当の意味なのかもしれません。
今年は、過去に「不可能」だったことが、いくつ出来るようになるでしょう? 楽しみですね!
「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は ものや思ふと 人のとふまで」
誰にも知られないように隠してきたのに、わたしの恋心は、とうとう顔色に出るまでになってしまった。
「恋に悩んでいるの?」とまわりの人に聞かれてしまうくらい。
これは、天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)の結びとして詠まれたものです。
淡い恋心を歌ったこの和歌を、密かに口ずさんでいた名君がいます。
多くの日本独自の文化が育ってきた平安時代。
大陸の文化を理解するのに一生懸命だった時代から、それを豊かに発展させ、自分たちにふさわしいカタチに醸成させていく。
そのための礎を築いた名君。
その方の治世は「天暦の治(てんりゃくのち)」と呼ばれ、理想的な統治を行ったと言われています。
その名君が、前述の淡い恋心の歌を口ずさんでいたというのが、何とも微笑ましく、風情が感じられますよね。
名君とは、第62代・村上天皇のことです。 その村上天皇のお人柄の素晴らしさは、平安時代後期に成立したと言われる歴史物語『大鏡』からも伺えます。
それは、「鶯宿梅(あうしゅくばい)の物語」と呼ばれています。
村上天皇が治めていた時代のある時、美しい花を咲かせていた清涼殿の梅の木が枯れてしまいました。
この枯れた梅の木をご覧になり、ひじょうに残念に思われた村上天皇は、代わりの梅の木を見つけるよう、家臣たちにお命じになりました。
家臣たちは京の都じゅうを訪ね歩いて探しまわりましたが、なかなか代わりになるような梅の木を見つけることは出来ません。
しかし苦労の甲斐あって、家臣の一人が京の西にある家で、ようやく色濃く姿形の立派な梅の木を見つけることができました。
ほっとした家臣は、さっそく掘り出して神殿に持ち帰ろうとしました。
すると、その家の主人が召使を通じて「梅の木にこの歌を結びつけてお持ちください」と伝えてきたのです。
やがて清涼殿に移植された梅の木は、見事な花を咲かせ、京都御所は再び芳(かぐわ)しい香りに包まれました。
大満足の村上天皇。
しかし、ふと梅の木に視線を移すと、一本の枝に文が結びつけられています。 家臣に命じてその文を持ってこさせると、そこには女性の筆跡で一首の歌がしたためられていました。
「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答へむ」
帝(みかど)のご命令ですから、誠に畏れ多いことでありますので、梅の木は謹(つつし)んで差し上げます。
でも、この木を止まり木にしている鶯(うぐいす)が、「私の宿はどこに行ってしまったの?」 と尋ねてきたら、どのように答えたらいいのでしょうか。
この歌を目にされた村上天皇は反省し、その梅の木を元の持ち主の家に戻したといいます。
実はこの和歌をしたためたのは、『土佐日記』の著者であり古今和歌集の撰者である紀貫之(きのつらゆき)の娘でした。
この梅の木は、もしかしたら父の貫之が愛していた木だったのかもしれませんね。
天皇に対して「大事な梅の木を差し上げるわけにはまいりません」とストレートに断れば角が立ちます。
だから、彼女は鶯に自分の思いを託したのです。 なんという奥ゆかしさでしょうか。
そして彼女の気持ちを汲くみ取り、遺憾なことをしてしまったと、梅の木を取り上げた行為を恥じ、彼女のもとに返した村上天皇も、豊かなで素晴らしい感性の持ち主でいらっしゃいますよね。
伝え方も素敵。
そしてそれを受けとめる側の感性も素晴らしい。
これが粋な心配りであり、粋な心は、相手の粋をも引き出すんですね。
さて、村上天皇の御世(みよ)から千年以上が経過した、昭和59年。場所は、福岡。 道路の拡幅工事により、道路わきの桜が伐採されることになりました。
3月中旬、樹齢50年のソメイヨシノ8本の中の1本が伐り倒されましたが。この桜のつぼみはすでにふくらみ、開花も間近だったそうです。
これから残りの桜の木も次々に伐られるのでしょう。
それを痛々しく思った住民が、残った桜の枝に短冊を吊るしました。
“花守り(はなもり) 進藤市長殿 “花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花を ゆるし給え”
誰もが道路拡幅の必要性を知るだけに、工事の反対運動も、差し止めを求める抗議もなされていません。
ただ、せめてあとニ旬の二十日間ほど待って、最期の開花ぐらいは見せてほしいという、謙虚な思いの陳上だったのです。
この詠み人知らずの歌は新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。
「花守り」と名指しされた当時の福岡市長の進藤一馬氏も、この記事を読んだのでしょう。
返歌をしたためた短冊を、同じ枝に下げたのです。
“花おしむ 大和心はうるわしや とわに匂わん 花のこころは”
すでに実施されている公共事業を、市長の一存で中止にするわけにはいきません。
しかし、それでもなお花を愛する大和心は麗しく、あなたのその心はしっかりと受け止めましたよ…。
市長は、そんなメッセージをこの返歌に託したのです。
市長は工事担当者に「桜の散り終わるまで何とか待てないものか」と要請をしたといいます。
年度末の事業ですから、工期の遅延は許されないし、役人としての資質が問われることであり、担当者は頭を抱えてしまいました。
しかし、この役人もまた、大和心を継承する一人の日本人です。 彼は、花が散るまで待ってほしいという、謙虚な歌の向こうにある、住民の本当の願いを察し、それを受け入れる決意を固めました。 予算の大幅な超過を覚悟の上で、計画を変更し、道路脇の池を拡幅分だけ埋め立てて工事を進め、さらに歩道と小さな公園まで作り、桜は活かすことにしたのです。
一人の詠み人知らずの歌から始まり、その同じ思いを抱く面識のない人たちの大和ごころのリレー。
同時にそれは、携わった人たちだけの力ではなく、花を愛し大和ごころを持つ社会が生みだした物語なのです。
梅と桜。花の種類こそ違いますが、村上天皇の最大の功績は、大和ごころを後世に伝えたことでしょう。
時代を超えて私たち日本人が継承してきたものを、これからも大切に守り続け、大和ごころのバトンを繋いでいきたいものですね。
2014年のカウントダウンが始まりましたね。
選挙で1週間放送がずれ込みましたが、ついに先日、大河ドラマ『軍師 官兵衛』も終了しました。
今年1月から毎月1回、NHKラジオ(九州・沖縄限定)の中で『軍師 官兵衛』というコーナーを担当させていただいたので、私はこの一年、本当に真剣に大河ドラマを見てきました。
27日の朝、その『月刊 官兵衛』も最終回を迎えたのですが、リスナーの方から「他の地方の方々にも聞いてもらえたらよかったのに…」と言っていただいたので、ラジオでお話しした最終回の内容を、この和ごころコラムで発信させていただこうと思います。
私の声を想像しながらお読みいただけたら嬉しいです♪
最終回の冒頭、官兵衛役の岡田準一さんが少年のように瞳をキラキラさせて、九州の野を駆け上がっていく様子、あれは反則ですね。あのシーンに胸がときめかない女性はいないと思いますよ(笑)
黒田軍の主力が長政に従って関が原に出陣したところに、大友軍が攻めてくる。
官兵衛は、長年蓄えた金銀を領民に与え、速成軍をつくります。
言ってみれば、彼らは戦いの素人であり、雑草集団です。
でも、そんな彼らを束ねるのは、人心を掌握することに長け、しかも戦では負けた記憶のない官兵衛です。
彼らは、如水マジックにかかり、サラブレッドの大友軍に勝利すると、そのまま九州内の西軍諸将の城を次々に落としていき、瞬く間に北部九州を制圧しました。
冒頭の岡田準一さんの演技は、このシーンのことですが、その表情はまるでガキ大将みたいでした。
そのガキ大将に、立ち直れないほどの一撃を加えたのが、息子の長政です。
長政の父親譲りの政治力がものをいって、関が原の戦いがたった一日で決着がついてしまった、つまり官兵衛の壮大な戦略が崩れ去り、天下獲りの野望がついえたわけですが、その事実を突きつけられた時の岡田準一さんが、また何とも言えない表情で…。
「事実は小説より奇なり」と言いますが、武将としての器や才能でははるかに勝る父親の夢を、その父親にあこがれ続けた息子が打ち砕いたわけですから、歴史というのは壮大なドラマですよね。
最終回で印象深かったシーンは、まだまだあります。
最終回のラストシーンが大坂の陣で、後藤又兵衛にスポットが当てられていましたが、私はドラマの制作者にファインプレー賞を差し上げたい気分です。
又兵衛は、長政の家臣でありながら、年齢は8歳上で、父親を早くに亡くした又兵衛は官兵衛に引き取られ、長政と兄弟のようにして育てられたので、二人の関係は、微妙だったんでしょうね。
官兵衛の死後、二人の亀裂は決定的になり、又兵衛が黒田家を去ります。
勇猛な武将として又兵衛の名は全国に知られていましたから、複数の大名家から仕官の話を持ちかけられるのですが、長政は又兵衛の他家への仕官を許さなかったので、相当貧窮していたようですね。
実はこの時の長政、あまりにもしつこいんですよ。自分のもとを去った家臣におよそ10年もいやがらせを続けるって、どういう心境なんでしょうか? その又兵衛が、死に場所を求めて大坂城に入城します。
大坂方の軍師としては、今では真田幸村が有名ですが、実は又兵衛は、幸村と同様か、あるいはそれ以上に大坂方の将士から絶大な信頼を得るんですね。
ある意味、官兵衛の血を引いた長政以上に、軍師・官兵衛の後継者は又兵衛と言えるのではないかと思っていたので、その又兵衛がドラマのラストを飾ったというのは、私としてはとても感慨深かったです。
最後に、ドラマでは描かれなかった官兵衛晩年の素敵なエピソードをご紹介します。
常に他人に対して寛容だった官兵衛が、急に愚痴っぽくなり、人が変わったように短気になって、周りの者に対して怒りちらすようになったというのです。
困った家臣が、それとなく長政の耳に入れました。父の変貌ぶりを聞いた長政の胸中は、どんなだったでしょうね。 家臣をあまり困らせないように、父をたしなめるために長政は会いに行くのですが、官兵衛はそんな長政を一喝します。
「お前のためにやっているということが、なぜわからぬ!?」
官兵衛が家臣になぜつらく当たっていたのかというと、実は、それはすべて長政のためだったんです。
黒田の家臣団というのは、歴戦の勇士たちばかりで、その多くは長政より年上で、経験も豊かなんですよ。
そんな彼らが本当に慕っているのは、殿様の長政でなく、大殿の自分であることを、官兵衛は知っていたんですね。
自分が嫌われれば、相対的に長政に対する評価が上がるので、自分の死後も家臣たちは長政を心から慕い、支えるようになるだろう、そう考えたんですね。
この時の官兵衛の決断は、秀吉に授けたどの策よりも、また関ヶ原の戦いの折に天下を狙って立てた不敵な戦略よりも、官兵衛らしく輝いているように、私には思えます。
息子を思う父親の深い愛情、そして黒田家の安泰を願う当主としての責任感の中に、軍師としての才能がきらりと光っているところが、いかにも官兵衛らしいのです。
それにしても、九州は、土地のエネルギーが高いのか、官兵衛のほかにも個性的な武将が多いですね。
熊本では、領国経営に心血を注いだ加藤清正が400年経った今でも大人気ですし、関が原の退却戦で名を馳せた鹿児島の島津義弘は、戦国きっての猛将と言わ れています。
柳川には、関が原で西軍に加担し、一度はお家取り潰しになるも、見事大名に復帰した立花宗茂がいます。
それから『葉隠れ』で有名な佐賀の鍋島 もいます。
『軍師 官兵衛』は終わりましたが、これからも九州の歴史の素晴らしさを味わっていきたいですね。
前回の和ごころコラムは、西郷さんの島流しのエピソードを綴らせていただきました。
西郷さんは皆さんがご存知の通り、“維新の元勲”の筆頭に挙げられますが、明治維新というのは、革命ではありません。
それまで虐げられていた人たちが世の中をひっくり返すのが、革命。 だから革命が起こると、前時代の権力者たちは殺されたり、国外に追放されたり、あるいは特権や財産を剥奪され、ひじょうにみじめな暮らしを余儀なくされます。
でも、明治維新は違いますよね。 特権階級である武士が、日本の未来を憂えて、自己犠牲を伴う大きな変革を成し遂げたのですから…。 そしてあれだけの変革が起こったわりには、混乱は最小限で済みました。 なぜ混乱が最小限で済んだのかといえば、理由はいろいろあるでしょうが、最大の理由を挙げるとすれば、それはひとえに「西郷隆盛の人間力」にあったのではないかと思います。
その西郷さんを、心から信頼し、愛した人がいます。 明治天皇です。
天皇は、政治的な発言を慎み、私的な感情は表にお出しになりません。 それが日本流の帝王学なのです。
でも、その慎みの中に、チラッチラッと陛下のお心が偲ばれる場面があります。
明治10年、西南戦争で西郷隆盛は亡くなりますが、それを報告した政府首脳に対し、天皇は「西郷を殺せとは言わなかった」と、たった一言漏らされたと言われています。
さらに西南戦争の翌年、皇居が火事になった際、夜中に避難された明治天皇が、宮内省の倉庫からどうしても持ち出したい物があるとおっしゃったそうです。
すでに火の手がまわっていたため、侍従は躊躇していましたが、天皇が自ら火の中に飛び込んで行きそうなご様子を見て、びっくりした侍従が火焔を冒してなんとか天皇のご所望の品を持って出てきました。
こんな危険を冒してまで天皇が手にしたかった物ですから、どんなにか貴重で大切な品であろうと思いきや、天皇が命に代えても守り抜こうとなさった物とは、何の変哲もない小さなタンスでした。
侍従は不思議に思い、そのタンスの由来を尋ねました。すると天皇はたったひとこと、 「これは西郷が献上したものだ」。
いかに天皇が西郷を愛してやまなかったか、そしてその死をどれほど悼んでいらしたかが感じられるエピソードです。
私はこのエピソードを知った時、明治天皇のお気持ちを想像し、涙が止まりませんでした。
あれほど愛してやまなかった西郷さんを、逆賊として天皇の軍隊の手で死に追いやってしまったという、歴史の切なさに、胸が締めつけられたのです。
ところが、先日、岐阜の岩村を訪れた時、素敵な後日談を教えていただきました。
時が経ち、明治17~18年ごろ、日向の旧高鍋藩主・秋月種樹(たねたつ)(秋月家は上杉鷹山の実家でもあります)が鹿児島を旅した際に、西郷さんの縁者のお宅で意外なものを発見します。
西郷さんの筆による『言志四録』の抄本でした。
あの沖永良部島に流され、壁もなく吹きさらしで、雨も容赦なく吹き込むような粗末な萱葺きの獄舎での生活を余儀なくさせられた時、西郷さんの心の支えとなったが、佐藤一斎の著した幕末の大ベストセラー『言志四録』だったのです。
そして西郷さんはただ読み耽るだけでは飽き足らず、『言志四録』の中でも特に心に刻みたい項目を自ら写し、抄録を作成しました。
明治6年の政変で下野した西郷さんは、故郷・鹿児島に帰り、翌年、私学校を設立しましたが、このとき西郷さんは『言志四録』から101ヵ条を選び、講義したと言われています。
おそらく沖永良部島の獄舎で筆写した抄録が使われたのでしょう。 しかし、この『手抄言志録』はその後、世に出ることなく、西郷さんの遺品の中に埋もれていました。
それがおよそ10年の歳月を経て見つかったのですから、しかも英雄・西郷隆盛の直筆ですから、世紀の大発見と言っても過言ではないでしょう!
明治21年、秋月種樹は『南洲(なんしゅう)手抄言志録』と題し、出版しました。 そしてその一篇を、明治天皇に献上したのです。
この書を繰り返しお読みになった陛下のご尊顔に、みるみる喜びの色が浮かびます。 そして、こう叫ばれたといいます。 「朕は再び西郷を得たぞ!」 最も信頼していた臣下を失って以来、天皇のお気持ちが晴れやかになる日はなかったのではないでしょうか。
ところが、西郷さんは『南洲手抄言志録』の中に、生き続けていたのです。
その西郷さんの志が、そのまま明治天皇のお心に注がれ、陛下の血となり、肉となった…。
そして佐藤一斎から西郷さんへ、さらに明治天皇へと受け継がれたバトンが、明治23年に発表された『教育勅語』として結実したのではないか…。
私はそんなふうに想像しています。 「朕は再び西郷を得たぞ!」
この時の天皇のお心は、いかばかりだったでしょう。
そしてこの感激を、天皇は終生お忘れになることはなかったのだと思います。
その後、『教育勅語』の通りの生きざまを国民の範として示してくださった明治天皇を、私は尊敬してやみません。
今から4年前、2010年の夏のことです。
子宮頸がんの治療から2年経ったある日、完治したと思っていた子宮頸がんが、肺に転移したことがわかりました。
初めは肺に一つだけがん細胞ができたのですが、いま思うと、「がんに打ち勝ってみせる!」とがんに対して戦闘モードでいたことがよくなかったのかもしれませんね、やがてがん細胞がまた一つ、また一つと増えていきました。
がん細胞が一つだけの時には、治療方法はいろいろありますが、複数できてしまうと、抗がん剤治療しかありません。
私は、抗がん剤治療にはものすごく抵抗を感じました。だって、点滴によって薬が全身にまわれば、健康な細胞までやられてしまうかもしれないし、体力を消耗して、子どもと向き合えなくなることが怖かったのです。
そこで主治医の先生に勇気を出してきいてみました。
「私は抗がん剤治療で治る見込みがありますか?もし治るなら、私はどんなにつらい治療でも耐えてみせます。でも、治らないなら、ただ余命が延びるだけなら、私は治療を受けたくありません」
先生はとても誠実な方で、私の目をまっすぐに見て、
「正直に申し上げますね。このような状況になって、私は助かった人を見たことがありません」と、おっしゃいました。
私は先生の誠実さに心から感謝しつつも、平常心でいられない自分を感じました。それで、まっすぐ家には帰らずに、雷山観音と呼ばれる、糸島の千如寺を訪れたのです。その日は、たまたま年に一度の護摩炊きにあたり、ご住職さまの唱えるお経と独特の香りに包まれて、少しずつ平静さを取り戻していくのを感じました。
それから数日後のことです。
祥伝社さんから出版の具体的なご依頼をいただき、いろいろ悩んだ末に(このへんのいきさつは、『感動する! 日本史』の正岡子規の項に書かせていただきました)、そのご依頼をお受けすることにしました。
一度、ブログ記事として発信したものがほとんどでしたが、史実と照らし合わせて編集していかなければなりません。その編集作業の過程で、私は、あることに気づいたのです。
私は、ずっとずっとアメリカ型の成功哲学を学び、実践してきたので、常に今は過去の結果だと思っていました。 だから、病気になって以来、私は病気になるような生き方を過去にしてきたんだ…って、自分をすごく責めていたのです。
でも、いま起こることは、過去の結果だけではない…!
雷に打たれたような衝撃を覚えました。
例えば、西郷隆盛。
彼は、2度、島流しに遭っています。
正確に言うと、一度目は勤皇僧・月照とともに入水自殺を図り、一人だけ生き残った西郷さんを、薩摩藩は幕府の手から守るために島流しにしたので、これは罪を得てのものではありません。本当の意味での島流しは一度きりです。でも、その二度目の島流しだって、そんな目に遭って当然と言えるような悪いことを西郷さんがしたのかというと、そうではありません。
西郷さんは、自分を下級藩士の中から見い出し、自分を育ててくれた幕末の名君・島津斉彬公を心から尊敬していました。
「お天道様のような人だった」
西郷さんが斉彬公を偲んで言ったといわれるこの言葉からも、西郷さんが斉彬公をどれほど尊敬していたかが想像できます。
その斉彬公亡き後、養子の忠義公が島津家を継ぎますが、まだ幼かったために、忠義公の実父(斉彬の異母弟)が薩摩藩の実権を握ります。 ところが、西郷さんは斉彬公を尊敬する気持ちが強すぎて、異母弟の久光公を軽んじる傾向がありました。
こういう西郷さんの態度は、久光公からしてみたら、何ともかわいげがなく、許せるものではありません。 ついに西郷さんのちょっとした失敗を重く捉えた久光公は、西郷さんを島流しの憂き目に遭わせてしまうのです。
西郷さんも、久光公も、どちらが悪い、というわけではない、つまり西郷さんの過去に原因があったわけではないのです。 強いて理由を挙げるとすれば、二人の不幸な関係性ということになるでしょうか。
ところが、それから150年以上経って、現代に生きる私たちから見ると、あの島流しは、その後の西郷さんの人生、そしてその後の日本の歴史を考えた時に、絶対に必要なものだったことに気づきます。
なぜなら、来る日も来る日も西郷さんは島で四書五経や言志四録、伝習録などを読み耽りました。そして古典を通して自分の心を推し量り、古典の中に展開する人々の「ものの見方」「ものに対する考え方」を自分の中に活かして、それを自分の言葉として表現するに至ったのです。
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し」
これは『南洲翁遺訓』の中で私が最も好きな一節ですが、ついに西郷さんがこのような境地に至ったのは、島流しという逆境にあり、古典を究めたからでしょう。そしてこのような西郷さんだったからこそ、人々はこぞって西郷さんを愛し、信頼したのです。
明治4年、明治政府は廃藩置県を断行しました。前時代の支配者である武士が、自ら特権を捨て、大変な自己犠牲を払って大きな変革を行ったのです。
普通なら内乱が何十年と続いてもおかしくなかったでしょう。それがあのように最小限の犠牲で済んだのは、ひとえに西郷さんの人望の故だったのではないかと思います。
つまり、西郷さんの島流しという状況は、過去の結果として起こったのではなく、未来に必要だから起こった…。だとしたら、きっと私の病気もそうなんだ!
2年後か3年後か、はたまた10年後か20年後かはわからないけれど、きっと未来の私にとってこの病気が必要なんだ!!
「未来の私に必要なことが今起こっている」
その確信を持った時、私は、希望がわき起こってくるのを止められませんでした。主治医から「助からない」と言われているにもかかわらず、私は希望を抑えきれなくなったんですね。
冷静に考えると、希望の「希」には、「まれ」という意味がありますよね。もしかしたら、本当の希望というのは、絶望の淵でかすかな光を見つけることなのかもしれません。
あれから4年、いま私がこうして元気に生かされているのは、千如寺ゆかりの空海さん、心の友だった正岡子規や西郷さんのおかげかもしれません。
歴史は、私たちに生きる力を与えてくれますよ(^^)/
師走になりました。
グランプリファイナル、そして全日本選手権と、フィギュアスケートが大好きな私にとっては、たまらない季節です。
昨年のグランプリファイナルは、羽生クンと真央ちゃんのアベック優勝、感動しました! 地元・福岡の開催だったので、何としても見に行きたくて、チケット予約の電話を400回以上もかけ続けたのに、とうとう繋がらなかったんですよ。
それで裏から手を回した(笑)のですが、その甲斐あって、おかげさまで優勝した二人の演技を間近で見たばかりか、あの熱~い松岡修三さんまで至近距離で見ることができ、幸せいっぱいの年の瀬を過ごせました。
あれから一年かぁ~、光陰矢のごとし…ですね。葛西選手も最年長優勝の記録を塗り替えたことですし、40代、50代の我々も、負けていられませんね!
さて、グランプリファイナルに続いてソチ五輪で金メダルをとった羽生クンはもちろん素晴らしいのですが、あの真央ちゃんのフリープログラム、私は今でも感動の余韻にひたっているんです。
団体戦でも個人のショートプログラムでも失敗したトリプルアクセルに三たび挑み、見事に成功したことに加え、帰国後のインタビューで「トリプルアクセルを飛ばないという選択肢は私にはありませんでした」と、迷いがなかったことを明言した真央ちゃんに、私はハートを鷲づかみにされたんですね。
五輪史上、女子で初めてトリプルアクセルに成功したのは、アルベールビル五輪に出場した、伊藤みどりさん。 演技の冒頭、トリプルアクセルに挑み、尻もちをついた彼女は、残り時間が50秒となった時、プログラムにはなかったのに、再び挑んで、そして見事に成功させたのです。その伊藤みどりさんに憧れてスケートを始めた真央ちゃんだったから、きっと絶体絶命のピンチに際しても、迷いがなかったんですね!
若者たちは、よく「自分さがし」と称して、旅に出たり、転職を繰り返したりしていますよね。でも、若者たちに必要なのは、自分さがしよりも「お手本さがし」なんじゃないかと思います。「こういう生き方がしたい」と思えるお手本を持てば、人生の岐路において導いてもらえます。
「こんな時、あの人ならどうするだろう?」
「あの人だったら、どう受け止めるんだろう?」
と考えること、そして
「あの人は私のことを“よくがんばったね”と褒めてくれるかな」
そう自分自身を振り返ることが、人生の道しるべになるんだと思います。
そういう意味で、歴史上の人物の中に親友やお手本を見つけるって、本当に素晴らしいことで、私たちに生きる力を与えてくれるんですよね。
そして私たち大人は、若者たちのお手本になるような生き方をしなきゃ! それを人生の指針にしたいですね
金沢漆器(しっき)、九谷焼(くたにやき)、加賀友禅、金沢仏壇、金沢箔(はく)(金沢は金箔の産地でもあります)…。「金沢」と聞いて、美しい伝統工芸品を思い浮かべる人も多いでしょう。
これらは、江戸時代初期に金沢の産業として定着したものが多いのですが、自然発生的に偶然同じ時期に金沢に生まれたのではありません。
秀吉の後を追うようにして、豊臣政権の柱石だった前田利家がこの世を去ると、信長・秀吉のもとで忍耐に忍耐を重ね、虎視眈々(こしたんたん)と天下を狙ってきた家康は、このチャンスを見逃すはずもなく、前田家に対して謀反の疑いをかけ、戦に持ち込もうとしました。
前田家の実力と名声、さらに豊臣家と格別に親しかったという事実から、家康の天下獲りの前に立ちはだかるのは、前田家であろうと思われたからです。
なんとしても戦を避けたかった前田家は、国家老を家康の元に派遣し、徳川に刃向かう計画は一切無いことを説明、その証しとして、やむなく、藩祖・利家の糟糠(そうこう)の妻であり、二代藩主・利長の生母であるお松の方を、人質として江戸に送りました。
さらに前田家は、徳川幕府の警戒を逸らすために、軍備よりも殖産に力を注ぎ、伝統工芸を次々に興していきました。 優雅な金沢の名産品には、権力にただ屈するのでなく、「誇りを持って生きぬく」という、前田家の静かでありながらとても強い意志が、吹きかけられているのです。
その後、前田家は、徳川二代将軍・秀忠の次女・珠(たま)姫(ひめ)を、利長の後継者で後に加賀藩三代藩主となる利常(利家の四男)の正室に迎えました。
この縁組によって徳川と前田は縁戚関係となり、加賀百万石は盤石になりました。
珠姫が江戸から金沢に輿入れしたのは、わずか3歳の時。あまりに幼く愛らしい姫君を、5歳年上の夫・利常は、心から慈しみました。
二人は政略結婚でしたが、非常に仲の良い夫婦であったと伝えられ、珠姫14歳で長女・亀(かめ)鶴(つる)姫(ひめ)を出産すると、その後10年の間に三男五女に恵まれ、幸せな結婚生活を送りました。
ところが、珠姫は、五女・夏を出産した4ヵ月後に、24才の若さで亡くなります。
実は、外(と)様(ざま)筆頭の前田氏に幕府の情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母が、産後の肥立(ひだ)ちが悪いと理由をつけ、夫婦を引き離したのです。事情を知らない珠姫は、利常の寵愛が薄れたと誤解し、衰弱していきました。
臨終の床に強引に駆けつける利常。珠姫にとって、心から愛し愛された夫の腕の中で最期を迎えられたことが、せめてもの救いでした。
珠姫が、その短かった生涯のほとんどを過ごした金沢の地。彼女はこの地を深く愛し、前田・徳川両家の融和のために心を尽くしました。
「大切な人たちを守り抜く」という、優しさと強さに満ちた、誇り高い生き方は、お松の方から珠姫へ、そして代々の前田家の女性たちに、見事にリレーされていったのです。
皆さま、ごきげんよう~♪
和ごころコラム3回目にして、歴女誕生秘話をお話ししたいと思います。
「芝居小屋に出入りするな」
「着物は絹じゃなく綿か麻を着なさい」
「白米を食べるなんて贅沢」etc.…。
江戸時代には、こんな倹約令が庶民に対して度重なって出されていました。
鎖国、身分制度、そしてこの倹約令…「江戸時代って、暗くてイヤ~」と、 私はずっとアンチ江戸時代、アンチ徳川幕府派でした。
それに時代劇を見ていると、「斬り捨て御免」と、何の罪もない町人が武士に 殺されたり、代官と悪徳商人が結託して正直者のお百姓さんを虐げている…。 そんなイメージを、私は江戸時代に対して持っていました。
ところが、高校時代だったかな、歴史の授業で先生はこうおっしゃったんです。
「子どもが早寝してたら、親は“早く寝なさい”なんて言わないよね? 遅くまで起きてるから注意するんだよね? だったらこの倹約令も同じなんじゃないかな。」
この言葉を聞いて、私の中で化学反応が起きたんですよ。
「そっかぁ~。きっと庶民はたまにはお芝居を見に行ってたんだ。 着物だって、表地は綿でも、裏地に絹を使っていたのかも。 もしそうなら、これが本当の“裏をかく”だよね。」
そんなふうに考えたら、江戸時代の印象がガラッと変わり、庶民が日常生活を 生き生きと楽しむ姿が浮かんできました。
それ以来、私には一つのクセがつきました。事実を鵜呑みにするのでなく、 事実に対して、「それって、どういうことなんだろう?」と考えるようになったのです。 こうやって考えることで、物事の本質に少し近づけるような気がしました。
さらに、もともと想像(妄想?)力が豊かなため、時空を超えて、歴史上の人物たちと 対話するのが趣味になっていったのです。
講演や書籍は、私にとって、そんな大切な友だちを自慢する場なんですね。
皆さん、いつも私の友だち自慢につきあってくださって、本当に有り難うございます!!
大河ドラマ『軍師 官兵衛』、皆さんはご覧になっていますか? 私は九州地方だけの放送ですが、毎月最終土曜日の朝、NHKラジオで“月刊 官兵衛”というコーナーを担当させていただいているので、大河を見ることが、仕事の一部というか、生活の一部になっています。
戦国武将で一番人気があるのは、おそらく信長でしょうね。 私は信長って、歴史の中でも数少ない本当の天才だと思っています。 天才って、おそらく先を行きすぎていて、同じ時代に生きている人たちからしてみたら、まるで魔法を使っているとしか思えない、そんな人物を言うんじゃないかなぁ。 だから天才ほど、死後に評価が高くなるんですね。
その点、官兵衛って信長のような派手さはないのですが、逆に一般人の私たちが参考にすべき点は、溢れているんですよね。 そういう意味で、私は今年の大河を本当に楽しく見ています。
ただ、NHKに文句を言いたいことが一つだけあります! それは、官兵衛をあまりにいい人に描きすぎていて、そのしわ寄せがすべて三成に来ているということです!! ドラマをご覧の皆様…あれは官兵衛の視点から描かれた三成像であり、あれをそのまま史実と解釈するとあまりに極端になってしまうので、あくまでドラマとしてお楽しみくださいね。
私は、全国で講演させていただいていますが、三成が領地を持っていた近江(今の滋賀県)に行けば、三成の人気は絶大です。 三成は経済のセンスが抜群で、だからこそ天下統一後の秀吉にとって最も大切な家臣だったわけで、経済という視点から三成を見ると、また違った評価ができると思うんです。
彼は不作の年には年貢を減らすなど、ひじょうに領民思いな面があるんですね。 よく下の者にはいばって、上の者にはペコペコする人がいますが、三成の場合、その逆で、下の者には思いやりの気持ちを向け、同僚に対してはかわいげない態度をとるんですよね。 だからあそこまで大名たちに嫌われ、憎まれるわけですが、私は、個人的には経済通の三成は好きですね。
三成がどれほど経済感覚に優れていたかというと、彼は現代にも十分通用するような、複式簿記までできたと言われています。 秀吉の天下統一で最も不利益を被ったのは、四国の長宗我部氏と九州の島津氏です。 この両家は、ともに四国制覇、九州制覇をほぼ果たしていながら、関白・秀吉が率いる天下の軍に降り、長宗我部氏は土佐一国、島津氏は薩摩・大隅2カ国に押し込められます。 でも、一度ふくらんだ財政は、簡単には戻せません。勝ち進む過程で増え続けた家臣団をクビにするわけにもいきませんからね。
そこで、秀吉の秘密兵器・三成の登場です。 秀吉から戦後処理を任された三成は、得意の経済センスを発揮して、敗者となった戦国武将たちに経済の仕組みを教えていくんです。 秀吉の天下統一は、経済にも大きな変化をもたらしました。大坂に日本中の物資が集められ、市が立つようになったのです。 領内でとれたお米は、領内で消費する分を除いて、大坂に持っていって銀にかえる。その銀で別の物資を買えば、経済がまわる。 集めた年貢をただ消費するだけだった武将たちに、三成は経済のしくみを教え、経済活動に必要な帳簿の付け方を教えていくんですね。
敗者の側がちゃんと食べていけるようにしたって、これはすごいことだと思うんですね。 秀吉はあれだけ大きな変化を社会にもたらしたにもかかわらず、そのわりには恨まれていない、それどころか、最も秀吉を恨んでいいはずの毛利や長宗我部、島津が、積極的ではないにしろ関が原では西軍についた…これは三成の功績だと思います。
ここで私が皆さんにお伝えしたいのは、どんな評価もその人の一面しか見ていないということ。 それは嘘ではないかもしれないけれど、その人のすべてではない。 私は多面的に相手を見る優しさを持っていたいなぁ~って思います。
話を三成に戻しますが、彼にもっとかわいげがあれば、きっと日本の歴史は変わっていたでしょうね。 私が以前読んだ新聞のコラムの中に、「人間の持つ美徳の中で、最も大切なのはかわいげ」と書いてあってちょっとびっくりしたんですが、その後、三成のことを思い出し「なるほど~」と唸ったんですよね。 そして三成を軸にして「かわいげ」について考えたことを、『人生に悩んだら日本史に聞こう』に書かせていただいたので、お読みいただけたら嬉しいです♪
ちなみに、上記のコラムによれば、かわいげに自信がない人が次に身につけるべき美徳は「律儀さ」らしいですよ。 かわいげと律儀さ…確かにこの両方を持っていたら、史上最強の愛されキャラになりそうですね。
ハッピーマンデーが施行される前は、体育の日は、10月10日と決まっていました。ちょうど半世紀前の10月10日に、東京五輪の開会式があったからです。
敗戦後わずか19年で奇跡の復興を果たし、五輪を成功させた日本。その陰には、一人の日系2世の活躍がありました。ロサンゼルスで青果店を営むフレッド和田。彼は、外貨が乏しく海外遠征が困難な日本選手たちを、物心両面で支援していたのです。
東京五輪を実現するためには、票の鍵を握る中南米諸国に働きかけ、東京支持をとりつけなければなりませんでした。祖国のために大役を引き受けたフレッド和田が、正子夫人を伴って中南米諸国歴訪の旅に出たのは、ミュンヘンでのIOC総会を2ヵ月後に控えた、1959(昭和34)年3月のこと。旅費も自費なら、手土産まで自らが用意して、治安の悪い地域を40日間もかけて回り、各国のIOC委員を説得し続けたのです。
最初の訪問地は、メキシコ。フレッド和田の店がメキシコからくだものや野菜を輸入していたという縁もあり、メキシコは最初に東京支持を表明してくれました。キューバのIOC委員は、革命直後のキューバに危険を顧みず訪れた夫妻の祖国愛に感動し、東京への投票を確約してくれました。
ところがブラジルでは、「東京を支持するが、旅費が莫大で、IOC総会に出席するのは厳しい」と言われてしまいます。それを聞いたフレッド和田は「僕が出します!」その言葉が日系ブラジル人の心を揺さぶりました。「ブラジル委員の旅費は、我々が何とかします」。祖国日本を思う日系人は、ブラジルにもたくさんいたのです。
こうして迎えたミュンヘンでの IOC総会。デトロイト、ウィーン、ブリュッセルを抑え、東京の圧勝でした。1964(昭和39)年10月10日、和田夫妻は、ロイヤルボックスの前方シートに座って開会式を見届けたそうです。
それから4年、東京の次の五輪開催地は…そう、メキシコシティーです。「東京を最初に支持してくれた、メキシコへの恩返し」と、フレッド和田は、メキシコ五輪実現のためにも尽力しました。毎年体育の日には、私はこの話を思い出し、心が温かくなります。
時は流れ、2013(平成25)年9月8日、2020年の五輪開催地が東京に決定しました。正子夫人は、それを見届けると、愛する夫の元へと旅立ちました。和田さんは平成13年に93歳で、奥様の正子さんは平成25年10月に100歳で亡くなりました。ご夫妻のご冥福と2020年の東京五輪の成功を心よりお祈りしたいと思います。
★フレッド和田氏については、『人生に悩んだら日本史に聞こう』『こころに残る現代史』に書かせていただいています。こちらも併せてお読みいただけると嬉しいです♪